「おお、君が今回の探偵かね! 待ちくたびれたよ! どのぐらい待ったかって、本当に待ちすぎて溶けてしまうかと思ったほどだよ!」 奇妙な形のゴーグルをつけた男はそう言って口早に言葉を次げる。「ん? 違うのか? 君が探偵なんじゃないのか? まあいい、どっちだって一向にかまわないんだ。そうだとも、私にはなんの問題もないことだ」 胸から腹にかけて大きな太極図の描かれた袍を身につけたその男は、手にしていた鍵をひとつ、顔の前に持ち上げた。「この鍵は鍵屋が特別に作ってくれたものなんだよ。ああそうだ、この先にある鍵屋のあの年寄りさ。何しろ普段はこうして鍵をかけておかないと、どんなことがあるかわからないからね」 言いながら鍵穴に鍵をさし込む。無機質な音をたてて、鍵穴は難なく開錠された。「そうとも。君はこれからこの奥にある部屋に行って、音函のふたを閉じてくるんだ。わかるかい? 音函だよ。ゼンマイで音が鳴るやつ、君も知っているだろう。ああそうだ、あの函のことだとも」 酒食、という文字がかすれて残る看板から、その場所はいわゆる居酒屋や食堂のようなものだったのだろうと察することができる。しかし、店の営業自体はもうやっていないのだろう。インヤンガイの、こういった店にありがちなきらびやかな電飾がまったく点けられていない。 男がまくしたてるように告げる言葉から理解するに、この店――とはいえ、数坪しかないような小さな店だ。その店内のカウンター裏にある小さな倉庫に、変飛がいるのだという。 変飛がいるということは、つまり、その倉庫は暗房と化しているということになる。 けれどその変飛はめったなことでは姿を見せない。そのかわりに暗房に踏み入った者を迎えるのは数多の音函――つまりオルゴールなのだという。 明かりのない空間の中、オルゴールは数知れず存在しているようなのだが、なぜか目にすることができるのはひとつだけ。音は様々、そこかしこから聴こえてくるというのに。 「この店の主人は音函好きだったのさ。わかるだろう? いろんな音に癒されていたんだ。そのうちに店主は変飛になってしまった。ああそうだ、音函になってしまったんだ」 音函をひとつひとつ閉じていけば、いずれ変飛と化した主人に行き当たる。それを律することで、少なくともこの店にできた暗房は消えるのでは、と、男は言った。「音函を見つけた者はなぜか口々に言うんだ。”己が犯してきた罪をつきつけられた”。そう言って、中にはそのまま精神を病んでしまう者もいるんだ」 己の中の暗い願望、無かったことにしたい過去の記憶、封印したい記憶。そういったものの断片を、オルゴールは唄うのだという。「よし、それじゃあ頼んだぞ、探偵!」 そう言うと、男はドアを勢いよく引き開けた。 その奥に、闇がぽっかりと広がっている。
ガスランタンの火がガラスの中で踊る。アステが今いるのは室内であって、照らし出し検めた限り、室内には風を通すような窓もなさげだ。 風など通るはずもない。なのになぜガラスの中、青く小さな炎はゆらゆらと不安気味に揺らいでいるのだろう。 ランタンを顔の前まで持ち上げて、アステはひとときしげしげと炎を検めた。その双眸が帯びている青が、炎の色を映し一層青味を強くする。 細い首をわずかにかしげる仕草は、彼が常々気にしている童顔をより強調するものにもなってしまうのだが、今、この場にはアステの他には誰もいない。ただまとわりつくような深い闇があるだけなのだ。 ドアの外にいる男は、アステのことを探偵と呼んだ。むろん、インヤンガイという街において、数も知れぬ多くの者が探偵を自称他称していることも承知だ。それでも、誰かに探偵と称してもらえるのはとても気分がいい。 鼻歌さえ交えながらアステはランタンを提げ持ち、古びたテーブルや椅子、空の酒瓶の転がる室内をゆっくりと歩きまわってみる。試しに転がっていた瓶のひとつを軽く蹴飛ばしてみた。やはり中は空だ。瓶はカタカタと床を滑りながらテーブルの脚にぶつかり、止まった。 もう一度ランタンを持ちあげ、ぐるりと室内を見渡してみた。探偵たるもの、細かな点まで余さず検分するのは基礎中の基礎だ。あるいはどこかに何か目ぼしいもの――たとえば資料となるようなものがないかどうかを探る。けれど、そこには書棚や壁掛けの額などはおろか、貼り紙さえも残されていない。肩でため息を落としてから、目ぼしいものは持ち去られるとかしたのだろうと思いついた。 ――あの男も、これではさすがにため息のひとつも落とすだろうか。なんの手がかりもなさそうだと、眉をしかめるぐらいのことはするかもしれない。 脳裏をよぎるのはひとりの男の顔だった。アステのことなどまるで気に留めるでもなく、それでいて探偵を目指すアステを嘲うかのようにアステの先々を行く男。思い浮かべるだけで、余裕じみたあの薄い笑みが鼻につく。 無意識に歯噛みをする。ランタンのガラスの中、青く揺れる火が刹那暗色に染まった。 カウンターも一通り検分してみた後、アステは狭い階段に足をかけた。コンクリートを打っただけの、飾り気のまるでない、触れれば指先にひやりとした感触の伝わる壁に囲まれている。ひとりが往行する目的だけならば充分な幅を持った、勾配のきつい階段だ。 足もとをランタンで照らしながらひとつひとつ慎重に下りていく。アステが踏む床が鳴らす音がトントンと小さな音をたてた。その音を耳先に感じ取りながら、そういえば、と、あの奇妙ないでたちの男の言葉を思い出す。 ――そういえば、この下にいるのはオルゴール男なのだという。 オルゴール男は蒐集していたオルゴールの中に身を潜めているようだ。それらが暗闇の中、まとまりなく音を響かせている様相を想像する。 トントンと小さな音が響く。なぜかやたらと耳に触れる音だ。アステは少しだけ立ち止まり、一度、強く階段を踏み鳴らしてみた。 どんな音が鳴るのだろうとも考えたし、覚醒前に住んでいた屋敷では耳障りの良い音ばかりを聴いていた。そのあらゆる音を思い浮かべながら、漠然と、オルゴールとはああいう耳障りの良い音を響かせるものだとしか考えなかった自分がなぜか腹立たしかった。 ――違う、そうじゃない。 踏みとどまった場所から動くことなく、アステはランタンで階下を無理矢理に照らし出すようにしてランタンを下げてみる。 階段をひとつ下るごとに、なぜか心の隅に不安がにじむのだ。――まるでランタンの中で不安定に揺らぐ小さな炎のように。 トントン、トントン音が鳴る。アステはわずかに眉をしかめた。 ――あの男なら、こんなふうに小さな音に足を竦めたりしないだろう。迷いなく階段を下りて、今ごろもうオルゴール男との対峙を果たしているかもしれない。 そうだ、あの男はいつだってアステより先を進んでいる。アステがこなそうとしている案件を、あの男はことごとく解決しているのだ。 ふと、耳元にあの男の声が触れたような気がした。振り向くが、もちろんそこには誰の姿もない。アステは再び苛立たしげに足もとを踏み鳴らした。 そうして下り立ったのは木箱が並んでいるだけの手狭な場所だった。木箱には恐らく食糧や酒などがおさめられていたのだろう。とりあえず間近にあった木箱をひとつ検分してみたが、どうも中は空っぽのようだ。試しに軽く叩いてみる。トントン、トントン。濁った音がした。 それからランタンを提げ木箱を端から検分するために室内を移動した。オルゴール男の姿はおろか、数多くあるはずのオルゴールでさえも見つからない。ランタンの青い火が揺れる。その火影に映った小さな影を視界の端に捉えたような気がして、アステは少し首をかしげた。 初めに調べた木箱の上、円い小さな箱がある。照らしてみればそれが銀か何か、そんな素材で作られたものであるらしいことが知れた。 けれど、そこは一度調べた場所のはず。訝しく思い眉をしかめながら慎重に歩き進めた。 調べた木箱のはず? そうだったかな。調べたのはこの木箱だったっけか? なにしろ、同じような木箱がいくつか雑然と並んでいるのだ。初めに調べたのがどの木箱だったかなんて、そんなのいちいち覚えてはいない。 ――それにしても、なぜか気持ちを惹く箱だ。これが音函と呼ばれるものなのだろうか。 吸い寄せられるように近付いて、滑らかなその表面に指を触れた。函のふたは閉じられている。――ふたはもう閉まってるじゃないか。 指先でその表面を軽く小突き、それから確かめるようにして函のふたに指をかけた。 トン、トン、トン 何かを打つような音がする。 え? 違うよ、これはぼくのせいじゃあない。知ってるよね? けっこう前から街を騒がせてる、――そうそう、その殺人事件! その犯人がまた殺したんだよ。手口が違う? あの事件の犯人はもっとスマートな死体を作る、だって? だってしょうがないじゃないか。ぼくはあの事件の犯人なんかじゃないんだから、道具になりそうなものを持ち歩いてるはずもないんだから。 あったのはレンガだった。レンガで打ち据えていく人の頭は思ったよりもかたく、手ごたえがあった。けれど二回、三回と振り下ろしていくうちに、そのかたさは少しずつやわらかなものへと変容ていた。 トン、トン、トン、音がする。耳に馴染む音だ。ああ、そうか、これは人の頭を叩き割る音だったんだ。 違うんだよ。悪いのはぼくじゃない。ねえ、分かるだろう? ――そう! 悪いのはいつだってぼくの前に立つあの男なんだよ。ぼくはただ、あの男に負けたくなくて、例の事件のことを調べてただけなんだから。 ねえ、ところで、どう思う? 何がって? 分かんないのかな、そう、人を殺す感覚だよ。前に本で読んだんだ。犯人像を想像するには、その犯人の心理を想像するのがいいんだって。 あの事件の犯人の手口は本当に見事だよね。街の人の中には霧の魚が喰い殺したんだだとか、霧の中にバケモノが潜んでるだとか言ってるのもいるんだよ。まあ、そうかもしれないね。人を殺すようなやつはバケモノ以外のなにものでもないと思うよ。 ある日の深夜、いつものように連続殺人事件のことを調べまわっていたアステは、建物の影に倒れこんでいたひとりの酔っ払いを見つけた。 それなりに年のいった男だった――少なくともアステの父親よりは年上だったろう。彼は介抱するアステに向けてか、それとも独り言だったのだろうか。とにかく、最近家庭や仕事先で続いている不和についてくだを巻いた後に、まるで助けを請うような顔でアステの顔を仰ぎ見たのだ。 帰りたくない、帰ってもまたどやされるだけだ。って、そう言ったんだよ、あの人。疲れた顔でさ。でもそんな事言われたって困るだろう? ぼくだって困ったんだよ。 ふと、頭をよぎったのは昏い好奇心だった。 辺りには深い霧がかかっていたし、何よりも深夜の、人通りも少ない場所だった。建物と建物に挟まれた寂れた路地の上だった。 トントントン、音が響く。 ぼくの父は街の有力者でさ。そう、名前ぐらい聞いたことあるよね。父はあれでも保身にすごく力をいれる人なんだよ。だから、万が一に息子がこんなことしてるなんて知れたら、うん、間違いなくもみ消しに入るだろうね。きみが死んだことだって、無かったことにされるかもしれない。霧の魚に喰われたってことにしようよ、それがいい。 だってさ、ぼく、あの夜から、スイッチが入っちゃうようになったんだよ。帰りたくないっていうことばを聞くとさ。つい、ね。 ああ、この音はとても耳に馴染む音だね。トントン、トントン。 その小気味いい音は次第にくぐもった音へと移り変わり、やがて最後に熟したトマトを床に落としたときのような音が 「やあやあやあ! 探偵! 首尾はどうだった? うまくいったかい? ああ、いったとも! そうだろう?」 店の外に出たアステを迎えた男は、声を弾ませ、そう言った。 アステはふわりと笑って首肯する。 「とても気持ちのいい音を聞けました。楽しかったですよ」
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