「インファ。早く寝なさい、明日は巡節祭に行くんだろう?」 まだ消えぬ娘の部屋の明かりを見咎め、父親が入口から顔を覗かせて言う。 すると中で真っ白な子犬と戯れていた少女、リー・インファが残念そうな表情で返事をした。「はぁい。ほらテン、おいで」 呼ぶと子犬もてってっとベッドについて来る。 一人と一匹で布団に潜り込み、父親が部屋のドアを閉めたのを確認し、ふーっと息を吐く。「お父さんはちょっと厳しすぎると思わない?」 子犬のテンは首を傾げた。 インファはくすりと笑い、その頭をもふもふと撫でる。まるで綿毛のような感触だ。インファはテンのこの毛並みが大好きだった。「ふふ、明日は一緒に巡節祭へ行こうね。珍しいものがいっぱいあるから」 楽しい一日になる。 そう疑うこともなく、インファは目を瞑り眠りに落ちていった。 巡節祭。 インヤンガイで行われる祭りの一つで、壱番世界でいう正月を祝う祭りの名前だ。 この日のインヤンガイには沢山の出し物や店が出、活気の良さが目に見えて分かる日だった。 街区によって催し物は違うが、点心を初めとする食欲を刺激する香りの食べ物が売られ、ある者は雑技を披露し、またある者は獅子の被り物をして舞い踊る。爆竹も鳴らされ、普段なら煩いそれは賑やかな街に馴染んでいた。「この祭りの日はインヤンガイの土地が持つ……霊的なパワーとでも言うのか、そういうものが高まる日らしい」 ロストナンバー達を集めて話をしていた世界司書のツギメ・シュタインは説明を続ける。「皆にはそんなインヤンガイの様子を調査して来てほしい。……まあほとんど観光のようなものだ、そう緊張することはない。が」 ツギメは一枚の書類に視線を落とす。「新米の探偵から助力してほしいとの申し出があった」「助力?」 疑問の言葉にツギメは頷く。「探偵は名をチャンというのだが、探偵になって日が浅い。そこに依頼が一つ舞い込んで来たらしいんだが……」 その依頼というのが、迷子になった子犬を探してほしいというものだったのだという。 依頼者はリー・インファ。探す子犬はテン。 巡節祭に来ていたインファとテンだったが、爆竹の音に驚いたテンが逃げてしまい、そのまま姿を見失ってしまった。 そしてその日たまたま巡節祭に来ていた新米探偵・チャンにテン探しを依頼したらしい。「依頼を受けたは良いが、大規模な祭りで人がごった返す中で子犬を探すのは至難の業だったようだな」 しかも、とツギメは付け加える。「インファの家は近辺でも有名な大金持ちでな、犬の首輪には宝石の装飾が施されていた」「趣味悪い……」「そこは触れてやるな」 咳払いをし、話を続ける。「あれだけ人が居れば不埒な輩も必ず居る。そこに歩く宝石がやって来たら……どうなる?」 ロストナンバー達はそれぞれ結果を想像し、顔をしかめた。「まあそういう訳だ。調査のついでにチャンに協力してやってくれ」 子犬の容姿を記した紙を配り、ツギメは視線を巡らせてロストナンバー達の顔を見る。「皆に向かってもらう街区では十人で行う長い獅子舞や点心、肉まん等の店が立ち並んでいるらしい。土産話、期待しているぞ? ――以上だ。では解散!」
●祭りの中 どこを見ても人、人、人の波。 一番混雑した道の中央から少し離れた位置、目印にと指定した黄色いベンチに座り、新米探偵のチャンはそわそわと助っ人が到着するのを待っていた。 彼の隣には落ち込んだ顔をした少女、インファが座っている。今は落ち着いているが、親友とも言える愛犬が居なくなったことに感情が昂ったこともあったのだろう、目の周りがほんのりと赤くなっている。 道行く人を眺めてみたり、意味もなく背広の襟を正したりすること数分。ふと顔を上げると、そこには助っ人――シレーナとB・Bの二人が立っていた。 「おお、来てくれたか! 僕はチャン・ジン。こっちがリー・インファだ」 「話に聞いてたチャンにインファか。俺はB・Bだぜ、宜しくな?」 「あたしはシレーナよ、宜しくね。……インファちゃん、きっと見つけ出してみせるから心配しないでね?」 未だに不安そうな顔をしているインファの頭を撫で、シレーナが微笑む。 その横顔をチラ見しながら、B・Bは心の中で頭を掻いた。シレーナは気がついていないようだが、彼女はB・Bと同じ世界の出身。しかも恋人として日々を過ごしてきた仲だった。 自分だけがその事実に気付いていたため、ここに着くまでの車内では戸惑いを隠すのに必死になっていたB・Bである。 きちんと声を掛けようかとも思っていたが、戸惑いのせいでタイミングを逃して今に至る。半ば現実逃避しているような気分になりながら、B・Bはチャンに今分かっていることを聞いた。 「犬……テンというんだが、そのテンとはぐれたのはこの付近らしい。西の方角へ走って行く背中は見えたが、そこから先は人ごみに紛れてしまって分からないそうだ」 「それから時間も経ってるんだよな?」 「ああ、だから必ずこの付近に居るとは思わない方が良いかもしれない」 「そんじゃあ、とりあえずは走ってったっていう西の方を見に行ってみるかぁ……」 そうね、とシレーナも相槌を打つ。 シレーナとB・Bが二人に背中を向け、チャンも独自に捜索を再開しようとしたところで、インファの小さな声が聞こえてきた。 「あのっ……大事な、家族なの。宜しくお願いします……!」 使い慣れていないその敬語に、二人は笑顔を向ける。 そして言った。もちろん、と。 ●犬の姿を追って 西へ向かった二人は途中から別行動をすることになった。 とはいえトラベラーズノートで細かく何度も連絡を取り合っているため、途中で片方が迷ったり、いざという時にその場に居ないという心配はない。 「この辺りの路地には居ない、か……」 シレーナの連絡を見、B・Bは唸るように呟く。 呟いたと同時に、けたたましい爆竹の音が右耳から左耳へと突き抜けていった。その直後にワッと人々の歓声が上がる。 「こんだけ景気良く爆竹が鳴りゃ、ワンコも命の危険感じらぁ」 その時のテンの心情を想像し、B・Bは早く見つけてやらないとな……とポケットからハンカチを取り出した。 このハンカチは別れる際に役立つのではと借りたインファのものだ。 他に犬の餌も用意していたが、それは人ごみから少し脱してからの方が良いだろう。ぶつかって落としては対処の方に時間がかかってしまう。 「飼い主が心配してんだ、早く帰ってこいよ」 どこに居るか分からない犬に小さな声で呼び掛け、B・Bは別の路地へと足を進めた。 「こんな犬なんだけれど、知らないかしら?」 シレーナはチャンに借りたテンの写真を通行人に見せ、目撃情報を募っていた。 「んー、良いとこの犬みてーだが知らねぇなー」 「そう……ありがとう、もし見かけたら教えてもらえると嬉しいわ」 「はっはっはっ! わかったが今度来た時は買ってってくれよー?」 ええ、と笑みを返し、シレーナは慣れた手つきで点心を箱に詰めてゆく店長へと背を向ける。 あれから三十分……最初にテンが逃げてしまった地点からそれなりに離れたが、人の流れは未だに物凄いものだった。 「まーあ、可愛いワンちゃん!」 甲高い声が聞こえたと思うと、シレーナの前に現れたのは毛皮を纏い子犬を抱いた婦人だった。 どうやら犬好きな性格らしい。子犬も万が一のことを考え、ちゃんとリードに繋がれている。 「あら、このワンちゃん……」 「知っているの?」 「ええ、飛び込むようにあっちの細い道……というか家と家の隙間ね、そこに入って行ったのよぉ。保護したかったんだけれど、ほら、私こんな体型でしょ?」 婦人はボンッと立派な腹を叩いてみせる。 「あなた飼い主さん?」 「いいえ……でも探すように頼まれたの」 「なら早くワンちゃんを安心させて。あっちにある橋を渡ってから右に進んで、また橋を渡ってこっちに戻ってこれば楽に建物の向こう側に行けるわ」 ここから先は橋までの間、ずっと家並みが続いているようだ。 シレーナは頷き、B・Bに連絡をしてから橋の先で落ち合うことにした。 ●テン 人々のざわざわとした話し声が遠くから聞こえる。 道も舗装されたものから土や石の混ざったものに変わり、雑草も目立ってきた。 やっと沢山の人間の足に怯える心配も無くなり、白い犬……テンはぶるるっと体を振って埃を落とす。 あれだけいっぱい居る人間は初めて見た。これまで彼にとっての人間とはインファとその父に母、そしてたまに来る訪問者くらいだったのだ。 そして恐ろしいあの音。耳が壊れるかと思った。それは家に来たばかりの頃に聞いた雷鳴に似ていて、もしテンが人間だったならば涙の一滴や二滴は余裕で流すくらい驚いたものだ。 しかしやっと静かになった。ここならインファと一緒に寛げるかもしれない――と思ったところで、重大なことに気が付いた。 インファが、居ない。 その事実を目の当たりにした瞬間、自分の上に黒い影が落ちた。 「なんだぁ、この犬」 インファかと期待したが、その声と嗅いだこともない臭いに違うと気付く。 その声と臭いはいつの間にか六つにもなっていた。 初めはからかうような声が上からしていたが、その中の一人がある言葉を口にする。 「おい」 「なんだ?」 「こいつの、首輪――」 合流したシレーナとB・Bが辿り着いたのは路地を進んだ先にある空き地だった。 近くで飴細工を売っていた男性に話を聞いてみたところ「白い犬がそこに入っていった」のだそうだ。 「しっ」 しばらく進んだところでB・Bが人差し指を口の前で立てる。 その視線の先を窺い見ると、ガラの悪い服装をした青年たちが数人たむろしているのが見えた。見える範囲に居るのは六人。ガタイの良い者、痩せぎすな者、小さい者、でっぷりと太った者と様々だ。 「何してるんだ……?」 六人は何かに興味を持っているらしく、視線は一点に注がれていた。 その内の一人が壁際に近寄ろうと動いたため、その何かがシレーナとB・Bの視界に入る。 「……!」 探している迷い犬、テンであった。 テンは尻尾を後ろ足の間に丸め、声はここまでは届かないが唸っているように見える。 それを確認した二人は音をなるべく立てないようにし、気配を殺してそろりそろりと進みだした。 「へっへっへっ、祭りはだるいが来て良かったなぁ」 「ああ、ツイてるぜ。こんなワンコに会えるとはよ」 太った男がテンを――否、テンの着けている宝石の散りばめられた首輪を見て言った。 男たちは全員汗をかいていた。つい先ほどまで逃げるテンを追い回し、やっとここまで追い詰めたところなのだ。 「ほーら、痛い目にはあわせねーから大人しくしてろよ?」 そう言って首輪を外そうと痩せぎすの男がしゃがもうとした時、彼の頬に何か冷たいものが当たった。B・Bのトラベルギア、ガイトラッシュだ。 「大人しくするのはお前らだぜ」 「な、にを――うおッ!?」 眉を吊り上げて振り返った男の視界が一気に地面で埋まる。 足払いをかけて不良を退けたシレーナは、呆気に取られている他の男たちの前を通り過ぎ、テンをそっと抱きかかえてその場から離れた。 テンは暴れようと四肢を動かしたが、飼い主の匂いを二人から嗅ぎ取ったのか大人しくなる。 「っててェ……おい、何してくれるんだ! それは俺らが先に見つけたんだぜ、横取りたぁ良い度胸だなッ」 「あたしたちは飼い主に頼まれて探していたのよ。あんたたちこそ何をしようとしていたの?」 その質問には答えず、不良たちはジリ、と距離を詰めてきた。何人かの視線はテンに固定されている。 あちらは二人、こちらは六人、しかも二人の内片方は女性だと侮っているのだろう。B・Bの手に握られた三節棍を見てもあまり怯えていないらしい。 舌打ちし、B・Bはガイトラッシュでバシィッ!と地面を叩いた。 「今なら見逃してやるよ、とっとと失せるんだ」 「ああ?」 「痛い目を見たいのか?」 B・Bは目付きを鋭くし、三節棍から六角棍へと一瞬でその形状を変えると、一番前に居た男の脛を正確に狙って打った。 「んなッ……!?」 「次は誰だ?」 笑顔――しかし好意的なものは一切感じられない、殺意さえ含んだもの――でガイトラッシュを突き付け、B・Bは不良たちの顔をひとつひとつ見ながら言い放つ。 それを見て何やら考え込むシレーナと、ヒッと悲鳴を上げる不良たち。 B・Bがもう一度同じことを問うと、ついに不良たちは「鬼ー!」や「覚えとけ!」等と情けない捨て台詞を残して走り去っていった。 「敵にしなけりゃイイ人よ? 俺」 ガイトラッシュを元の形状に戻し、テンの様子を見ようと振り返る。 「ふう、なんとか……まあまあ穏便にいったな」 テンを抱いたシレーナはまだ考え込んでいるようだった。 「おいおい、どうし……」 「……!! やっぱり。なんであんたがココに居るの!?」 ゲッ、という顔をするB・B。どうやらシレーナが先ほどの脅し方でB・Bの正体に感付いたらしい。 「その顔、もしかして初めから気付いてたの?」 「と……とりあえずこんな湿気ったところから早く出ようぜ?」 半ば強引に通りまで戻るが、シレーナがそれで引き下がるはずがない。 じいっと半眼で見ながら矢継ぎ早に捲くし立ててくる。 「どうして言ってくれなかったの? 何か気付かれちゃマズいことでもあった?」 「そんなはずないだろ、フェデ! 俺だって理由がだな……」 「ならちゃんと説明なさいよ!」 二人の口論を見、壁際で飲んだくれていた親父が気の抜けるような笑い声を出す。 「ふっへへへ、痴話喧嘩たぁ景気が良いねぇ、お二人さん~」 「「外野は黙って!!」」 ほぼ同時にそうツッコんだ姿は、まるで夫婦漫才だったという。 ●祭りの楽しみ チャンとインファの元へ帰った二人は、目に涙を溜めたインファに何度も頭を下げられた後、去ってゆく彼女とテンを見送った。 シレーナは初め、「探偵一人でこの子を探し出した」とチャンに花を持たせるつもりだったのだが、ハンカチ等を借りる都合もあったためそれは叶わなかった。しかし新米の探偵であるチャンにとって、今回のことは何かを得る勉強の場になったらしい。いつか逆に頼られるようになるよう精進すると頭を下げ、チャンもその場を去っていった。 残ったのは祭りの賑やかさのみ。 「……ベル、司書さんのためにお土産を買って行きましょう?」 あれから話したいことは沢山あるが、今は祭りを楽しもうということに落ち着いた。 B・Bは頷き、点心の店へと駆け寄るシレーナの後ろをついてゆく。 「俺も丸くなったわ……ホント」 シレーナに聞こえないように呟き、見守るような眼差しを向ける。 「ああ、点心の他に茶葉も買ってくか。あとは報告書だな」 「なんて書くの?」 「えーっとだな、共時性と霊力の……」 「長くなるなら書いてから見せてちょうだい」 はは、と笑みを返し、B・Bはペンを走らせていく。 そこで司書は土産のことを知らない……ということはサプライズプレゼントだということに気付いた。 報告書を見せた後に手渡すのも一興かもしれない。 そう思い、二人でメモにこう書いて最後に貼り付けた。 ――「ポットとカップは用意した?」
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