「青い海に白い雲。それに潮風。ロマンだよね」 もさっとした金髪を避けることもしないまま、その世界司書はにっこりと口元を緩めた。「今度の行き先は、ブルーインブルー。皆にやってもらいたい仕事は、船の護衛だよ」 彼……鹿取燎は、手元に持っていた導きの書を開いてそこに目を通しながら説明を始めた。緩めていた口元を引き締めて、真剣な表情になる。「護衛してもらいたい船は、染料を積んだ交易船。名前は、『眠る兎号』で、ジャンクヘヴンから染料を積んで出発することになる。皆には、いつものように『流れの傭兵』ということになっているから、その船に乗り込んで、護衛をしてもらいたい。もちろん、皆が乗りこむように手配はしてある」 さて、と彼は再び導きの書に視線を落とした。正確に言えば、落としたらしい。「それで問題の何から護衛するかなんだけど……カニ、だね」 巨大なカニらしき海魔が一匹、船に襲いかかってくるらしい。鋏があって、足が沢山あって、茹でたら赤くなるアレだ。大きさとしては、ハサミで細めのマストをバキッと行ってしまえるレベルには大きいようだ。「残念ながら襲ってくるタイミングは分からない。わかればよかったんだけどね……ともかく、交易船が無事着けるように力を貸してほしいんだ」 そこまでいってから、彼は僅かに下唇をかんだ。何か言おうか迷っているようだったが、言うことに決めたらしい。悩むように導きの書の上に置いた指を上下させていたが、それを止めた。「なんとなーく嫌な予感がするんだよね、理由がないから言うか迷ったんだけど……」 まあ、十分気をつけてほしいと付け加えると、司書はよろしくおねがいしますと言ってぺこりと頭を下げた。「旅人達に、祝福がありますように」 * ジャンクヘヴンから、その船は出発する。積み荷は、布を深い深い青に染める染料。ここジャンクヘヴンから幾らか離れた小都市へ、このインクの原料を運んで行くのだ。「よお、居眠り兎はそろそろ出港じゃないのか?」「ええ、そうなんです。今回ご一緒する傭兵の方も、そろそろ着くとか着かないとか」「相変わらずどことなく便りねぇなぁ、ハンス。お前一応副船長だろう。まあ……船長、っつーか親父さんも親父さんだがよぅ」 赤く日焼けた男性に声をかけられた男は、同じように日に焼けた手で目の上にひさしを作って、茶色の瞳を細めた。陽光を跳ね返す水面と、その海面に浮かぶ自分達の船……眠る兎号。のんびりゆったりと寄せてきた波に上下するその姿は最近ぬり直したボディの白と相まって、ますますうつらうつらと眠っている白兎に見えてくる。「傭兵が付くってよほどだろ。俺が言うのもなんだが、大丈夫なのか?」「んー、まぁなんとかなるでしょう。うん。任せるしかないですしねー。海魔ともなると」 まったりとそう言って、彼はふと気がついたようにあなた達を出迎えた。「ああ、ようこそ、居眠り兎……じゃなかった、眠る兎号へ」
「本当に青色が拡がっている場所ですのね」 その海より深い青色の髪を揺らして船から僅かに身を乗り出すようにして、青藍が丸眼鏡の奥の黄緑色の瞳を細めた。海からの光を反射して、その瞳はペリドットのように煌めく。 「本当? エルは二回目なんだ。天気も良くてよかったよね」 彼女の横に、ひょこんと機敏に顔を出したのはエルエム・メール。二つに括った桃色の髪を風に遊ばせ、彼女は船の上を渡り港に抜ける潮風を受けて、くるくるっと軽やかにターンするとくすくすと楽しげに微笑んだ。艶やかにカラフルな衣装が風を孕んで彼女と一緒にふわりと回る。 「そうだ! エルは小舟が積んであるか聞いてくる」 いざというときのために積まれる小舟だ。積んでないということはないだろうが、折角だからちょっとお話もしてみたいし、と出港の準備をする副船長の方へ歩いていくエルエムの横から入れ違いにやってきたのは神ノ薗紀一郎で、彼は歩いていくエルに手を振られて振り返し、足元にとぐろを巻いている縄やら、見上げれば広げられつつあるマストの帆などを物珍しげに見ながら先の方までやってきた。高く結いあげたぼさぼさの黒髪が、潮風にはためく。 「いやぁ、船旅は初めてなで、よろしゅお願いしもんで」 「紀一郎様もなのですね。私も、ブルーインブルーは初めてですの。この船……眠る兎号も、とても可愛らしい船でなんだかわくわくいたしますわね」 青藍がにっこりと微笑んだ。旅人達は乗船前に一通りの挨拶はしたものの、名前など簡単なものだったのでお互いの詳しいことまではよく知らない。副船長と何やら話していたオルグ・ラルヴァローグも、こちらの方へやってきた。ゆらりとふさふさした金色の尾が揺れる。 「俺は久しぶり、だな。――今回は改めてよろしくな」 狼に似た瞳をきゅっと細めてオルラが笑って見せた。と、彼は吹き抜ける潮風に惹かれるようについっと後ろへ鼻先を向ける。紀一郎もつられてそちらを向き、釣竿を肩に担いだティルスがやってきているのに気づいて、軽く手をあげた。オルグを金狼と評するならティルスは銀狼だろうか。……銀というよりは青みのかかった毛並みの耳をピクリと動かして、ティルスが微笑んだ。 「みんな、こっちにいたんだね」 「ここが一番、風が気持ちよかからかの。……海ん上はおもしとかね」 にこにこと紀一郎。オルグもつられるようにまた笑った。 「ああ。やっぱこの世界の空と海は好きだぜ。――と、そろそろ出港か?」 「もー、副船長はなんだかやる気がないなぁ。……あ、みんなー! 出港準備ができたから出港するって!!」 エルエムがぱたぱたと駆け寄ってくる。ぽてぽてと歩いてきた副船長が、まったりと挨拶した。 「えーと、そうそう、それでは出港しますね。皆さん、よろしくお願いします」 「もっとテンションアゲアゲでいかないと人生つまんないよ~?」 ってわけでエルの躍りで盛り上げてあげるよ! と申し出たエルエムに、他の船員からそれは見てみたいと声が上がる。傭兵が付くと聞いてもあまりぴりぴりと緊張した様子もなく、船員たちも非常にのんびりとした船だ。流れの傭兵と思われている旅人達に対しても、どこか人懐こく接してきた。 「とうとう出港しますのね」 青藍がゆっくりと動き出した船に瞳を輝かせる。真っ青な世界に眼鏡の奥の瞳を細め、嬉しそうにティルスが海を見渡した。先の黒い、ふさふさとした尻尾がぱたりと揺れる。白く塗られた船は、ゆっくりとジャンクヘヴンの港を離れて行った。 「――じゃ、やつが来るまで、この世界の青を満喫するか!」 ブルーインブルーの青色を瞳に映して、オルグが金の毛並みを風に遊ばせた。 * とんっと軽いステップから鮮やかに空を切って、伸びやかな足が弧を描く。軌跡のように虹色の飾り布が後を追い、ひらりと重さのない羽根のようにエルエムが甲板に降り立った。一拍遅れてふわっと桃色の髪が降りてくる。船のあちこちから上がる歓声に誇らしげに微笑み、彼女は再び甲板の上で軽やかに舞い始めた。 「エルの踊いは華やかなぁ」 船の舳先で胡坐をかいて座っていた紀一郎が、そちらを見返って微笑む。例の海魔が出てくるかもと見張っている訳だが、今のところそんな様子もなく。 「……あんまい何もんと眠とうなってくうなぁ」 ちょっと見回ってこようか、と彼は立ち上がった。染料が積んである船倉などを見てくるのもいいかもしれない。ところでその船倉では、なにか手伝えることはないかとやってきていた青藍が船員から話を聞いているところだった。 「すごく綺麗ですのね。海の色にもそっくり――」 「ああ、いつもこの船で運んでんだ。値はそんなに張らないが、それだけに愛されてる色らしい」 蒼に染められた布を見て、青藍が小さく息を漏らす。確かにその青色には美術品や高級品のような気高さはないものの、海を見たような穏やかな暖かさがあった。わっと甲板から歓声が上がったのを見上げ、船員が声をあげる。 「お、あのお嬢ちゃんの踊りが始まってるのかもしれんな」 仕事もひと段落したし見に行こうか、と言って上がって行く後について、青藍も再び陽の光の下に出た。水面がちらちらと真白く輝いて、まるでそれ自体が輝きを放っているかのようだ。 エルエムの踊りは軽やかに続く。彼女はいったん呼吸を整えると今度はゆったりとした仕草で舞い始めた。釣り糸を垂らしたティルスもまばゆい水面から視線をそちらに移し、感嘆したように見つめる。 「お、何か釣れるのか?」 と、オルグが片手をあげて歩み寄ってきた。隣に並んできてティルスが糸を垂らしている水面を覗きこむようにして首をかしげる。 「ほら、カニがいつ襲ってくるかわからないし、水中での戦いになったら不利だから船上に釣り上げられないかなって。あと、僕のギアや素手での攻撃は効かなそうだから、別の戦法を考えないとって思ってるんだけど」 「あー、なるほど」 ティルスの言葉に、感心したように頷いて水面から視線を船の上に戻す。穏やかに吹き抜けて行く潮風に立った耳をそよがせていたティルスだったが、海を見つめて口を開く。 「視界いっぱいを海と空の青に出来るなんて、この世界じゃないとなかなかできないよね」 「ああ。……そういえば、歴史学者、だっけか?」 「え? うん、そうだよ」 「いや、こんなところで俺と同じような種族の歴史学者と出会えるとは思わなかったから」 折角だしちょっと話してみたいと思っていたんだ、とオルグが笑いかけると、突然の話題にきょとんとしていたティルスも、人懐っこく微笑んだ。 「こっちの様子はいけんだ? おかしかこたあんかな」 「あ、見回りなんだね。とりあえずこっちはなにもなしだよ」 ひょっこり顔をのぞかせた紀一郎に、ごらんのとおり、とティルスが糸だけが揺れる水面を示す。 「……ないごって? 何か釣れうか?」 糸に首をかしげる紀一郎に、ティルスが先ほどの説明を繰り返した。ほほうとやはり頷いて、紀一郎は剣を携えたまま船首に戻ると言って水面や甲板を見ながら戻って行った。 「――しかし、司書の言ってた『嫌な予感』もなんか引っかかるところだな」 カニもまだこねぇし、とオルグが海の遠くの方を見つめてぽつりとこぼした。それにティルスもこくんと頷く。 「海の上だから、嵐とかが来るのかもね……」 と、その瞬間だった。ぶわりと船の下を横切った影に、紀一郎が機敏に立ち上がる。 「お客さんが来よったようだが」 ティルスの釣り糸がものすごい力で引かれ、ぶつりとはじけ飛ぶ。慌てて後退するその後を追うように、甲板に巨大なカニが這い上がってきた! 「海魔が出やがったぞ! 船の中に避難しろ!」 すっと一対の剣……オレンジに輝く短剣の日輪と、青白く煌めく長剣の月輪を構え、オルグが叫んだ。 「出来れば被害は最小限に抑えたいところなんだが」 彼は踏み込みの音を残し、突くように構えると一気にカニへと切り込んでいく。どこか橙がかった茶色の甲羅に刃が突き立つが、硬い甲羅に、深手を与えるには至らない。 「コスチューム・ラピッドスタイル!」 凛とエルエムの声が響き、衣装の一部を脱ぎ捨てた彼女が一段と軽やかに舞いあがる。ジャンプの頂点でふわりと一瞬滞空したその瞬間に、くるりと鮮やかな回し蹴りが放たれ、その軌跡を追うように虹色の飾り布が槍となって甲羅に突き立った。 「金色のカニはすごいって聞いたことあるけどさ!」 普通の色してるし、楽勝楽勝! と軽やかにエルエムは舞う。ふわりと地面に向かって落ちるかと思われた彼女のしなやかな体躯は一瞬撓められ、まるで空を蹴って加速したかのようにスピードに乗ったパンチの一撃が虹の煌めきを帯びて放たれた。 怒ったように鋏を鳴らす海魔の足元に躍り出たのは青藍だ。彼女はシスター服の裾をはたりとはためかせると拳を構えた。 「出来ることなら投げ飛ばしてしまいたいですけれど……」 こうも多足では上手くいきそうにない。一撃に勢いを乗せながら青藍は鋏に狙いを定めた。 「私の武器はこの攻撃……いきますわ!」 重い踏み切りの音とともに青藍の拳が甲羅にぶつかる。ぎちりと鈍い音が響き、彼女は眉根を顰めた。この硬さは――苦戦しそうだ。彼女は身を翻して今度はハイキックを繰り出した。ニーソックスに包まれた足がスピードに乗った一撃へと変貌する。 「おはんらぁ下がっちょれ。怪我すうぞ!」 まだちょっとこちらを気にするように顔を出していた船員たちに叫んで、紀一郎がすらりと瞳を細めた。かすかな鞘走りの音とともに鬼薙が引き抜かれ、銀色の刃が海からの煌めきを返す。何か、猫科の生き物にも似たしなやかさで踊りかかると、銀の軌跡が足の一節に食らいつき、振り抜かれた。ぐらりとバランスを崩したカニの複眼に、輪状に結わえられたロープがかかる。マストの上からそれを放ったティルスが、下に向かって降り始めながら叫んだ。 「引っ張って裏返そう! 誰か手伝って!」 「わかりましたわ!」 前進しようとする足を牽制していた青藍が身を翻してカニからマストを支点に伸びたロープを手に取る。相手が減り注意が逸れたカニを見てエルエムがカニの目前に躍り出た。 「エルが気を惹くから、やっちゃって!」 海魔の視界から離れぬように気を配りつつ、右へ左へと舞っては攻撃を仕掛けてエルエムがカニを惹きつける。オルグと紀一郎もロープに取り付き、一気に引っ張った。 「倒れて……下さいませっ!」 ぎしっとロープが軋んだ音をたてる。引きずられまいともがく海魔の重さに、青藍はきゅっと歯を食いしばって瞳を細めた。その黄緑の瞳がほんの一瞬、ふわりと赤色に染まる。ヒトを超えた膂力にずるりとカニの足が空滑りし、どうという轟音を立てて海魔は仰向けに転がされた。 「チャンスだ!」 オルグが声をあげる。エルエムが素早く飛び乗って一点集中の拳の連打を浴びせると、ぴしりといびつな音がして腹部の甲羅に穴が開く。虹色の軌跡を纏った右腕を引き、彼女は一気に叩きこんだ。やみくもに振り回される鋏をひらりとかわした紀一郎が、刃を閃かせる。ごとんと重い音がして鋏の一つが落ちた。刃を再び構える彼の横を巧みにすり抜け、黒い揺らめきが優美な曲線を描き、柔らかそうな関節に食らいついて燃え上がる。魔法を放ったオルグは直接攻撃を加える仲間のカバーリングに次の炎の狙いを定めた。同じように関節を狙ってティルスが爪を立てる。青藍が着実に中身を揺さぶるほどの打撃を積み重ねて行った。 「このあいだ教えてもらった居合切りだっ!」 エルエムが虹色の剣を振るっているかの如く腕を閃かせ、足を断つ。耳障りな悲鳴をあげて暴れる海魔の足の一本がティルスの腕をかすり、引き裂いて行った。小さく呻いた彼に青藍が駆け寄り。活性治癒を施した。本人の治癒力を少し早めるちからだ。 「傷は深くないですわ……大丈夫、すぐに治しますの」 「気張れ!」 紀一郎の激励が飛ぶ。瞬く間に連係プレーに因って海魔からは全ての足が失われ、文字通り手も足も出なくなったカニの本体は、支えをなくしてごろりと甲板に転がったのだった。カニがもう何もできないのを確認して、エルエムが笑顔を見せる。 「エルが最速最強だねっ!」 「しかし、厄介な相手だったな……」 「ああ、きひかった」 紀一郎が同意して頷く。ふう、と息をついたオルグだったが、辺りを見回して金の目を瞬いた。遠くの海まで見えていたはずのあたりの視界が、狭いことに気付いたのだ。 「ん? 霧か……?」 「そうみたいだね。天気よかったのになぁ」 エルエムも呼吸を整え、辺りを見回す。ぼんやりとした靄が、辺りに立ち込めていた。 「心なしか、寒い気もするね」 ティルスが窺うように辺りを見回すが、辺りはますます深い霧に埋もれて行く。風が流れてくるが、その風に因ってまた、濃い霧が吹きこんできているようにすら思えた。青藍が真っ白く染まってきた船の上を見渡した。船員たちも首を出し、霧の濃さに首をかしげている。ハンスがぽつりとつぶやいた。 「ここ、こんなに霧の出ることろじゃないはずですけどー……」 「――何か、嫌な予感がしますわ」 青藍が呟いたその次の瞬間、どさっと何かが落ちる音がした。鋭く視線を向けられた先では甲板に尻餅をついた船員が、ある一点を指さしてぱくぱくと口を開閉させていた。 「ゆ、ゆゆ、幽霊船だ!」 それに呼応するかのように、ゆらりと濃い霧の中から、ぼろぼろになった船がはっきりと姿を現しはじめた。船体が歪んで軋む音が、ざらざらとした舌でなめるように耳をちくちくと刺激する。切れ切れになった帆、近付くにつれ見えてくるのは腐ったのだろう穴のあいた甲板や……ぼろぼろに擦り切れた布を纏った、幾つもの影。 「あれは――」 「幽霊船?!」 青藍がロザリオを握りしめ、エルエムが茶色の瞳を見開く。紀一郎が眉根を寄せて鬼薙に片手をそっと駆け、オルグがエルエムと同じようにその一団から目を離せないままに呟いた。 「オイオイオイ……冗談じゃないぜ」 「こ、こっちにくるよ!?」 思いがけないスピードで近付いてきた船に、ティルスが警告を発する。我に返った皆は再び船員たちを船内へ追いやった。最後戸が閉まる前に、どさりという思い音が甲板に響き渡る。ゆらっと幽鬼のように、鈍く輝く剣を携えた一人が立ち上がったところだった。 「――っさせるか!」 気合とともにオルグが黒炎を放つ。次々と乗船しようとやってくる姿に紀一郎が鬼薙を引き抜く。と、エルエムが声をあげた。 「皆っ、カニ作戦!!」 言い残して彼女は乗船しようとわらわらと寄ってくる一団の前に躍り出て、つぎつぎと攻撃を仕掛けて攪乱し始めた。虹色の衣装の一部を脱ぎ捨て加速する姿はぼろぼろの布を纏った一団の中においてひときわ艶やかに映える。彼女の言葉の意味を察した青藍が、残っていたカニの鋏を抱えると、幽霊船の本体に向かって投げ飛ばした。重量のある鋏が、重力に引かれて船にめり込む。囮になっているエルエムに攪乱されて散り散りになった一人を相手取った紀一郎が、相手の翻すサーベルと刃を交えて小さく歯がみした。こいつらは幽霊などではない。れっきとした生きた人間だ。――それも、手練れの。ティルスが事典らしき本の角で一人の足を薙ぎ払い、叩く。カニのパーツで船本体へ攻撃を仕掛ける青藍をカバーするように、オルグが月輪と日輪を構えて攻撃を受け、襲ってくる敵を海へ叩き落とす。 ばきょりとひときわ大きな破砕音が相手の船で響いたところで、腐り落ちた甲板の上に一人の影が現れた。黒い衣装を身にまとっている。ここからでは顔は暗く沈んでよく窺えない……いや、あれは顔ではなく、仮面―― と、突然潮が引くように幽霊船の船員たちは身を翻して退却を始めた。襲って来た時と変わらぬ素早いスピードで、見る間に引きあげて行く。 「逃がすかっ!」 エルエムが叫んで飾り布をふるうがそれでも捉えきれない。幽霊船は静かに離れると、眠る兎号から離れて行った。黒い姿がなにか、吐き捨てるように呟くのが見える…… 「逃げていきましたわ――」 青藍が茫然とそれを見送る。紀一郎はほう、と息をついて首を振った。 「てげな格好じゃったのう」 「何だったんだ、あれは……」 オルグが呻いて辺りを見回すと、霧が風に押し流されて晴れてくるところだった。 「あ、晴れてきた!」 気を取り直したエルエムが声をあげ、変わらず照っている太陽を見上げる。 「……今の霧も、幽霊船と来たのかな?」 「船は幽霊船みたいでしたのに、乗っているのは生きた人でしたわね」 ティルスが難しい顔でつぶやいたのに、死んだものの匂いはしなかったと青藍が呟いた。いまの一瞬の邂逅はなんだったのか――詳しい答えは与えられぬまま、船は元通りの航海を取り戻した。 * 「今回はありがとうございました。本当に助かりましたよー」 ぺこんと頭を下げたハンスが、前方を軽く示して行った。 「そうだ、そろそろ染料を下ろす港に着きますよ」 「……あ、あれですわね」 ジャンクヘヴンから出港したその船が着くのは、染めた色布を干して乾かす海岸沿いの港のようだった。青藍が示した先を見て、エルエムが手すりから身を乗り出すようにしてその光景に瞳を煌めかせる。 「すごいね! あそこも海みたい!」 「あの色が、この船に積まれている染料なんだね」 ティルスも黒い瞳を輝かせてその光景を眺めていた。さして大きくない港の海岸では、渡されたロープに染められた布が沢山の面積にわたって干され、風に揺られてさながら波のように揺らめいていた。ふわりと船の上を過ぎる風に髪をなびかせて、紀一郎が微笑む。 「綺麗なあ」 「ああ、面白いもんだ」 オルグも感嘆したように呟く。 まるで海と空の間、陸に広がるもう一つの海のように、その光景は旅人達を出迎えたのだった。
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