「嵐が来る」 そう言うなり、獣人の世界史書はぶるっと小さく震えた。「嵐が来る。大波が船に打ち寄せる。船員が波に浚われる。あっと言う間。一度浚われれば二度と船には戻れない。波が人を食べてしまう。風が人を殺してしまう」 説明している間に、嵐の恐怖に耐えられなくなったのか、その場にぺたんと座り込む。『導きの書』を唯一身を護ってくれるもののように胸に抱え込み、ぺたりと三角耳を倒し、いつもはくるりと巻いた赤茶色の尻尾を肢の間に挟み込み。「嵐の海は怖い。荒ぶる水は怖い。……でも、お願いしなくてはならない」 座り込んだまま、旅人たちを見上げ、震える肢を叱咤するように立ち上がる。大きく息を吐き出す。「船の護衛を、お願いしたいのです」 固く眼を閉ざし、開く。怖いところにあなたたちを向かわせてしまうけれど、と旅人たちを見据える。その眼からは先程の異常な怯えは拭い去られている。「護って頂くのは、ジャンクヘブンを出て西方の島に向かう交易船。荷物は香木。砕いて加工して、煙を出したり、エキスを抽出して香水にしたり。いい匂い。……いい匂い?」 私にはそうは思えないけれど、と小さく首を傾げる。「その船が航路の途中、大きな嵐に襲われる。船員が何人も海に引きずりこまれる」 そう予言されている、と感情を殺した声で告げる。「嵐から、船員たちを護ってください」 深く、頭を下げる。下げたまま、低く、続ける。「……予言することで、助けられる人間はあまりにも少ない」 世界司書たちが『導きの書』から予言を為し、旅人たちの手によって救い上げられる人間がいるのは確かだが、それは、救いを得られず斃れていく人間の内のほんの僅か、一握り。「でも、助けたいのです。助けられるのならば、力の及ぶ限り、助けたいのです」 上げた黒い眼には、必死の力が篭められている。「私が出来るのは予言だけで、現地で危険に遭うのはあなたたちで、」 泣き出しそうにも見える眼は、瞼を閉ざすことで、消す。「……ごめんなさい。船の護衛を、お願いしたいのです」 もう一度、頭を下げる。「嵐と、……」 言いかけて、ふと首を傾げる。「嵐と、……?」 人数分のチケットを差し出しながら、三角耳の間に難しげに縦皺を寄せた。「よく、分からないけれど。嫌な感じがする。嵐と、何だろう、……とにかく、くれぐれも気をつけて。必ず無事に帰って来てください」 不安を振り払うように、明るく付け足す。「交易船が島に到着する時期は、丁度、花の頃。島は百花で溢れている。嵐の疲れをきっと癒してくれる」 悪魔のような黒雲が渦を巻く。風が波が、弾丸の勢いで全てを打ち据える。突然に掴みかかる波は、畳んだ帆を、甲板に縛り付けた艀を引き千切ろうとするかのように、押し寄せたのと同じに突然に引いていく。 船が浮く。波を滑り落ちる。船よりも巨大な波が壁のように押し寄せる。嵐に慣れているはずの船員たちが悲鳴じみた怒声を上げる。船がみしみしと悲鳴をあげる。 波と波の間を風に弄ばれる木の葉のようにくるくると翻弄される。 嵐の間、船体がもつことを祈る。今はただひたすら、嵐が一刻も早く過ぎるように、波に誰も浚われぬように。 舵に縄で体を縛りつけた老船長が、必死の形相で船を操る。「おォら、テメェら、波に持ってかれんじゃねッぞー!」 とぐろ巻く蛇のような暗雲に、凶器に取り付かれたような黒く凶暴な波に、怒鳴る。 応えるのは、船員たちか波風の轟音か、それとも、――
水平線が黒く濁る。湿った風が押し寄せる。穏やかだった波が不意にうねる。船員たちが慌しく甲板を駆けずり回り、主帆柱の帆が畳まれ―― ぼたり、と大粒の雨が頭を叩くのに驚いて空を仰げば、いつの間にか頭上に黒雲が渦巻く。 「しゃあねェ、突っ切る!」 老いた船長が塩辛声で怒鳴る。 「波に船ッ腹やられんッじゃねェぞ!」 甲板で嵐に備える船員たちが力強く応える。 フェイ・リアンは、穏やかな航海が続いていた暇に、船員から習った舫結びで自らの胴と船尾部分の手摺とを結わえつける。 「よし、坊主、上手いもんだ」 「――はい」 フェイの作った結び目を確かめ、若い船員が、結い上げた黒髪をごしごしと撫でる。身体を打ち始める大粒の雨に陽に焼けた顔を顰める。 「嵐の間は船倉に居てもいいんだぞ?」 「いえ、手伝います」 嵐を避けられないことが分かった時から何度となく繰り返して来た問答をもう一度、繰り返す。 「よし、じゃあ、そこの嬢ちゃんと艀を護っててくれ」 見仰いでくる黒の眼の揺ぎなさに、船員は僅かに笑い、傍に立つコレット・ネロを眼で示した。激しい雨に華奢な身体を打たれながら、コレットは翠色の眼を空に渦巻く黒雲に向けている。僅かに滲む嵐に対する怯えは、何かを決意して白い項を小さく頷かせると同時、消えた。 「人手不足でな。助かる。船尾は頼む」 「はい」 フェイは大きく頷いた。船員から身体を固定する用の縄の束を受け取る。 「兄ちゃん、頼んだぞ」 「ああ」 船員に呼ばれ、アクラブ・サリクが鋭い金眼を上げた。打ち寄せる波に大きく揺れる船上でも、落ち着いた態度を崩しもしない。切り揃えた顎先の髭に付いた雨粒を指先で払い、自らの身体を船の手摺に固定する。 「姉ちゃんも」 慌しく船首へと走り出しながら、船員は擦れ違うハーデ・ビラールに声をかける。ドライスーツに身を包んだハーデは小さく頷いた。肩に貼り付く、結い上げた黒髪を掴み、背中に流す。手摺を固く掴んで、暗い波間へと青い眼を凝らす。 人が投げ出されるのが眼に入れば、すぐに自らの能力、『アポーツ』を使い、船へと引き戻すつもりでいる。その為には、広い視界が必要だ。船の周囲全てを視界に入れるためには、ここは狭く、低い。 (見える範囲の人型は全てアポーツする) 波が高さを増していく。 (本当に人かは……運だな) 波に乗り上げた船が大きく揺れる。風が暴れ始める。雨と変わらない激しい波飛沫が旅人たちをずぶ濡れにする。 「大丈夫ですか」 「うん、ありがとう」 揺れる足元に苦戦しつつも、フェイはコレットの胴と船の手摺とを結わえ付ける。アクラブに結び目の堅さを確かめてもらった後、ハーデさんも、と縄を伸ばして、 「ここに用はない」 縄だけを取られ、低く、断られた。 「私一人なら生還できる」 激しく上下する床にも構わず、ハーデは踵を返し、その場を離れようとする。 「でも……っ」 孤立するのは避けるべきです、と言いかけて、 「それよりも、フェイ。この嵐がいつ終わるか予測できるか?」 肩越しに振り返る、人の温もりを拒絶しているような青い眼に、フェイは一瞬言葉に詰まった。小さく首を横に振る。 「人間は、自然の脅威には敵いません」 「自然の脅威、か」 どうだろうな、と短く呟き、ハーデはその場を離れた。 「どう、って、――わあッ?!」 風に煽られ波に打たれ、船が傾ぐ。宙にふわりと足が泳ぐ。 「フェイさん!」 転び、床に叩きつけられかけるフェイの腕をコレットが掴む。けれどその細い腕だけではフェイを支え切れず、共に海水の溜まる床に投げ出され、 「しっかり立て」 二人の身体を抱えるようにして助けたのは、アクラブ。然程太くない腕を満たす筋肉が、ぎしりと軋む。 「船員たちを助けたいのだろう?」 コレットを立たせ、フェイの足を床に付けさせ、アクラブは僅かに眉を顰める。 「はい」 フェイが強い眼で頷き、 「私に出来ることは、ほんの少ししか無いけど……」 コレットが金の睫を伏せながら呟く。無力を嘆きながらも、それでも、 (でも、司書さんや乗組員さんを、一人でも多く悲しませることのないように、) 「がんばりたいです」 海に呑まれる運命の乗組員さんを助けたい。 予言をしたことも、救出を依頼しなくてはいけないことも、辛いと思ってしまうあの司書を少しでも楽にしてあげたい。 真っ直ぐな瞳の子供たちを前に、アクラブはますます渋い表情になる。彼らに比べ、 (俺が人を助けるのは意外か?) 自身に問いかけ、心中で自嘲する。 もとの世界では神官でもあった彼は、人を助けることもあったが、 (まぁ、……傷つけることの方が多かったがな) それでも民は救うもの、と自身に言い聞かせるように呟く。 (それに香木を運んでいると聞いた) 揺れる船上に真直ぐに立ち、船員たちの動きを冷静に観察する。 (香の香りは好きだ) 主帆柱に自らの身体を結わえる船員、暴れる舵を二人掛りで制御する老船長と若い男、船室の屋根に登り視界を確保しようとしているのはハーデか。船上の船員は八名。護るべき『民』は、子供たちとハーデを含めれば、十一名。もっとも、ハーデは助けを拒否するかもしれないが。 (さて) フェイとコレットも幾多の世界を渡り歩くロストナンバーだ。子供の姿をしていても、困難を乗り切る力は持っているはず。 (まずは、嵐) 三つ編みにした紅の髪を風に暴れさせながら、激しい雨に打たれながら、アクラブは油断なく周囲を見回す。 嵐に呑まれる、小さな小さな交易船。 その船に自らを繋ぎ、フェイは嵐の空を睨み据える。小さな胸を痛めて過ぎるのは、世界図書館で震えながら予言を告げていた、司書。 (僕の方こそ非力で) 恐怖や悲しみを癒し、勇気づけられるような言葉も持たない、と雨に濡れる眼鏡の奥の黒眼を歪める。 ――例え少なくても貴方にしか救えなかった命なのだ そう、伝えることが出来るように。 (僕は僕の最善を尽くします) きつく、掌に拳を作る。 うねる波が重なり、巨大な壁じみて船を押し潰しに掛かる。船の舳先が波を切り裂く。切り裂き損ねた波に船が乗り上げる。垂直にも思える黒い波を駆け上り、凄まじい速度で落ちる。波が跳ねる。風が雪崩寄せる。縄できつく身体を固定していなければ、吹き飛ばされてしまいそうな暴風に誰かが悲鳴を上げる。その悲鳴さえも波に呑まれる。 轟音の中、右舷に居た船員が一人、風と波に吹き飛ばされた。悲鳴が掻き消される。驚いた顔のまま、黒い波に食われ―― その身体がぐい、と船に引き戻された。人を喰らい損ねた波が不満気に飛沫を上げて崩れる。 船室の屋根に叩きつけられるようにして、船員は海から生還する。死の恐怖と自身に起こった出来事を理解出来ず、肩で息をしながら眼を見開くばかりの船員に、 「運が良かったな?」 屋根に片膝ついたハーデが手持ちの縄を投げた。言いながらも、周囲にうねる波からは眼を離さない。また誰かが波にさらわれようものならば、自らの能力を使い、船へと引き戻すまで。嵐が続く限り、船外に投げ出される者が居る限り、何度でも。 「波がお前をこちらへ弾き飛ばした」 その運をなくす前に、と嵐の最中でもよく通る声で続ける。 「さっさと身体を固定しろ」 訳が分からぬまま、船員はがくがくと頷き、手近な手摺に縄で自らを結わえる。落ち着け、と自らに言い聞かせるように短く息を吐く。 「ありがとよ」 掠れた声で言われ、ハーデは嵐の海を見据える眼に僅かな当惑を浮かべた。何故、礼を? 問い返す暇も無く、船の屋根さえ越える巨大な海魔のような波が打ち寄せる。 覆い被さり、船を帆柱を砕こうとする凶暴な波を打ち破るは、波よりも轟音立てて爆ぜる、業火。 「うわあぁあッ!?」 「何ッだ――!?」 黒い波が紅く染まり、大量に白く蒸発する。船員たちが悲鳴を上げる。力の源を辿って、ハーデは思わず周囲を見回す。海魔ではない。焔の主は、船尾に悠々と立つ、あの男。 ハーデの視線に気付き、火色に染まり降り注ぐ波飛沫の合間、アクラブは唇の端を吊り上げ、笑んだ。 波に乗り上げた船首部分が大きく持ち上がる。空に渦巻く雲にまで届くのではないかと思えるほどに、暗い波間に落ちれば船も五体も砕けるのではないかと思えるほどに、高く。 華奢な少女が黒髪の少年に支えられながら、羽ペンを片手に、空に何か描いている。 (この非常時に何を) 波の頂点に達した船が、今度は凄まじい速度で波の底へと滑り落ちる。海水に塗れた髪が叩きつける風に煽られる。 眉を僅かに寄せるハーデの疑問は、コレットが若草色の眼を嬉しそうに笑ませた瞬間に消えた。落ちる波の半ば、ふわり、船が浮く。それは決して嫌な浮かび方ではなく、冷たい嵐の最中に温かな翼を得たような―― 「船長、羽根! 羽根ーっ!?」 「うるッせェ! 羽根だろうが何だろうが助けてくれんならありがてェ!」 舵に必死に取り付く老船長と船員が怒鳴りあう。 嵐に翻弄される船の両舷には、巨大な翼が生まれていた。子供が描いたような、どこまでも伸びやかに大きく大きく、広がる翼。黒い海に光を投げかけるようなその翼は、海面に叩きつけられようとする船をふわりと緩やかに波の上に着地させる。暴風の空に船を翔けさせることは出来ないまでも、殴りかかる波から船を護ることは出来る。跳ね上がり、鉛のような海面に叩きつけられる船への衝撃を緩めることが出来る。 自らの意思を受けて広がる大きな翼をトラベルギアの羽ペンで描き終え、コレットは安堵の溜息を吐いた。しばらくすれば翼は消えてしまうけれど、また描けばいい。船を支えるほどの大翼は、描くまでに時間が掛かってしまうものの、その間はハーデとアクラブがどうにかしてくれる。波に押されて倒れそうな身体はフェイが支えてくれる。 「だいじょうぶ」 自身に言い聞かせるように呟いた言葉を受けて、ずぶ濡れのフェイが励ますように大きく頷いた。 「きっと大丈夫です」 翼を擦り抜けて襲い来る波をアクラブの操る業火が焼き砕き、波に浚われようとする船員をハーデが『アポーツ』でもって助け上げる。コレットの描いた翼によって、嵐に揉みくちゃにされる船の揺れは格段に少なくなっている。 (司書の予感したもの……、天災でないとすれば) それでも大きく揺れる船にしがみつきながら、フェイは黒い眼を冷静に細める。 (人災か) 内部に反乱が起きる可能性、 積荷を狙う外敵に襲われる可能性、 絶え間なく冷たい波に大粒の雨に撲たれ、暴風に身体を連れ去られそうになる。考えるには最悪の状況で、それでもフェイは考えることをやめない。 (互いに疑心暗鬼になることだけは避けなければ) 何があろうと、ひとりでも犠牲を出すことの無いようにしなければ。 幸いにして、戦う術は知っている。死ぬ思いで手に入れた力が、この場で役に立つかどうかは分からないけれど、 (――戦います) 波に投げつけられるようにして船が空中に飛ぶ。コレットの描いた翼がふわりと羽ばたき、荒れる海面に緩やかに降りる。豪雨と波にどれだけ打たれ、暴風にどれだけ翻弄されたか。 「そろそろ、抜けるか」 アクラブが呟いた。フェイは懐に仕舞っていた伸縮式の望遠鏡を取り出し、波のようにうねる黒雲の先に明るい空を見つける。船を支えていた翼が消え、新しい翼を描こうとしたコレットは、最早翼も必要ないほどに波に激しさがなくなっていることに気付く。 安堵は、束の間。 「――あれ?」 望遠鏡を覗いていたフェイが声を上げ、自らの眼を小さな掌で擦り、望遠鏡の硝子を濡れた服の袖で擦る。 「どうかしたの……?」 コレットの問いに、フェイは首を傾げながらもう一度望遠鏡を覗く。 「いえ、あの辺りに、」 袖に包まれた細い腕をもたげて指し示すのは、黒雲の切れるか切れないかの波間。黒雲の下の黒い海と、嵐の雲が切れ、青空の下の蒼海の見える不思議な景色の中、フェイの示す一点だけが白く濁っている。 「何かしら、……霧?」 コレットが明るい翠の眼を凝らす。 「こっちに、来る……?」 まさか、とアクラブが笑おうとして、やめる。 嵐の波と同じ速度で、霧が迫って来ている。異変に気付いた船員たちが騒ぎ始める。 霧をよく見ようと、船首部分に走ろうとして、フェイは胴を巻く縄に動きを封じられ、つんのめった。慌ててほどこうとする。固く締めた縄は波に濡れ、容易くは解けない。 「待って。切るわ」 コレットが小さなナイフを取り出し、フェイを縛める縄を切る。 「ありがとうございます」 どうしてナイフなんか、と思うが、今はあの不気味な霧の正体が気になる。フェイは濡れた床に転びそうになりながらも、船首へと走った。その足を止めるように、船室の屋根からハーデが飛び降りてくる。 小さく声を上げるフェイに構う様子を見せず、ハーデは見る間に船を包む霧へと鋭い眼を向けた。 「海魔でもなく自然現象でもないなら……」 手を伸ばせば掴めそうな冷たい霧は、間近に立つ人間の姿さえもぼんやりと滲ませてしまう。 「オーバーテクノロジーだろう?」 ハーデは吐き捨てた。 ブルーインブルーには昔、高い文明を誇る大陸が存在したという。 その文明は海に沈むことで滅んだが、今も時折、その古代文明の粋を凝らした機械が発掘されることがある。 (古代文明の遺産、ということでしょうか) フェイは以前探索した、ブルーインブルーの古代遺跡を思い出す。あの技術力をもってすれば、霧を発生させる機械を作ることは可能かもしれない。 「でも、どうして霧なんか……」 望遠鏡を両手に、フェイは船首へと再び走った。後に続いて、ハーデ。縄を解くか切るかしたらしい、船尾の二人も続く。アクラブが掌に焔を生み出し、霧の薄暗がりの中、灯りの代わりとする。 「無事か」 「はい、皆さんも」 お陰さんで全員無事だ、と舵にもたれかかるようにして老船長が白い髭面を笑ませる。 「しかし、嵐抜けた途端にこれだ」 笑ませた顔を一転、眉間に深い皺を作って霧の向こうを見透かそうと眼を凝らす。甲板から一段高い船首に身軽く飛び乗り、フェイは望遠鏡を覗く。 霧の向こう、思いがけず近くに見えたのは、 「……何だろう、あれ……」 黒い船影。帆柱は折れ、襤褸切れのような黒い帆がぶら下がる、帆船。 「貸してくれ」 老船長が望遠鏡を取り、目を凝らして覗き込む。 そうする間にも、その船はこちらを目指し、真っ直ぐに向かってくる。 霧が揺れる。黒い船の姿が露になる。壊れた手摺、矢が刺さり、弾痕が残り、傷付いた船体。嵐から逃れてきた船ではない。 その船上に揺れるのは、蒼白い顔をし、血塗れの顔で何か叫ぶ幾人もの―― 「出た――ッ?!」 「幽霊船だあぁあッ!」 船の姿を眼にした船員たちが次々に悲鳴を上げる。フェイの隣で老船長が腰を抜かす。 黒い眼を見開くフェイの横をハーデが駆け抜ける。 「ハーデさん?!」 小型酸素ボンベを手に、躊躇なく霧の海へ飛び込もうとするハーデの腕を掴んで止めようとして、振り払われるフェイをコレットが抱き止める。フェイの傍から手を伸ばしたアクラブが、ハーデの腕を掴んで再度引き止める。 「どうするつもりだ」 問うアクラブに、 「人を殺すものは殺す」 それが私の範だ、と切りつける勢いで答え、 「私の邪魔はするな」 アクラブの手を振り払い、海へと真っ直ぐに飛び込んだ。少し遅れて、水飛沫の上がる音が響く。アクラブは小さく息を吐き出し、幽霊船へと視線を投げる。悠然と腕を組み、船首より先に巨大な焔の玉を生み出す。 「予言の嵐は去った。無駄な戦闘は避けるべきだな」 近付く幽霊船向けて、その焔を放つ。本物の幽霊船ならば、効くとも思えないが、威嚇にはなるだろう。 幽霊船向け、熱を放ち奔る焔を見ながら、コレットは船縁へとそっと向かった。私に出来ることは少ないけれど、あの怖い船をみんなの乗るこの船から遠ざける囮になることぐらいは、出来るかもしれない。 翠の眼を決意の色に染め、コレットは折り畳みナイフを取り出す。躊躇いもなく、手首に冷たい刃を押し当て、 「駄目です!」 引こうとした手を、小さな手が掴んだ。 「幽霊なら血に惹かれるかもしれないから」 平然と言うコレットの冷たい手を両手で握り締め、フェイは首を横に振る。 「きちんと逃げられるように背中に翼を貼り付けて行くわ」 「駄目です、……自分を傷つけたりしちゃ、駄目です」 「でも、」 こんな傷、大したことないのに、とコレットは呟いた。こんな傷は傷の内にもきっと入らない。 「駄目ったら駄目です!」 小さな子供とは思えない力で、ナイフをもぎ取られ、コレットは途方に暮れる。 「……役に、立ちたいの」 翠の眼が悲しげに伏せられる。焦って乱れた息を整えながら、フェイは取り上げたナイフを畳んで自らの懐に仕舞いこんだ。 「翼を、描いてください」 大きな翼、と続ける。嵐の最中にこの船を助けた、あの大きな翼。 「羽ばたいて、風を起こして。そうすれば幽霊船から早く離れられる」 嵐のせいで、船員たちの疲労は濃い。今はこの船を幽霊船から引き離すべきだ。 「でも、ハーデさんが」 「一人なら生還出来ると言っていました」 唇を噛む。心配でないわけはないが、 「信じましょう」 嵐の影響か、濁った海をハーデは手で掻き分ける。揺れる海の中、眼を凝らし、目標とする幽霊船を視界に捕らえる。 手足を使って行くには遠いが、視認してしまえば、特殊能力の一つである瞬間移動が使える。幽霊船の船底近くまで、瞬時にして近寄れる。 (無茶でも) 海中の波に翻弄されていたハーデの身体が一瞬にして、消える。瞬きの間に幽霊船の傍に場所を移す。その手に現れるのは、破壊の力持つ光の刃。 (幽霊船だろうが何だろうが、破壊するまで) 海水の流れに邪魔されながらも腕を一閃させる。鈍い音が海中に響き、船の横腹に大きな穴が開く。海水が流れ込む。 船底に何者かが居たのか、幾つかの悲鳴が聞こえた。幽霊のものとは思えない生々しい人間の悲鳴と、恐慌をきたして走り回る幾つもの足音。 (……人間?) 水流に巻き込まれないよう、無事な船板に背中を預け、ハーデは船内へと耳を澄ませる。遠い頭上、灰色に濁る海面を紅く染めて、焔の玉が過ぎった。 (アクラブの焔か) 焔が直撃したのか、船が大きく揺れる。 「――船長! ジャコビニ船長ォ!」 船底の人間が悲鳴じみて船長の名を叫んでいる。それに応え、撤収を告げる低い男の声が響いた。 「……ジャンクヘブンの犬共が……」 船内に流れ込む海水の音に声を途切れさせながら、その男が毒づく。 (ジャンクヘブンに仇なす海賊、と言ったところか) 切り裂いた船底に船内から板が当てられ、素早く修理が施される。幽霊船を装った船が向きを変え、現れたのと同じ素早さで霧を引き連れ去っていく。 (予言されていたのは、嵐だ) 敵対するものとして指示されていた嵐は、もう遠い。 霧が晴れたのか、見仰ぐ海面が見る間に明るく蒼くなる。 島には、三方を崖に囲まれた小さな入り江があった。静かな波の寄せる岩場に腰をおろし、アクラブは老船長から分けてもらった香木に火をつける。細い煙を上げ始める香木を、風に触れない岩陰に置く。入り江の外に見える海へと金色の眼を移し、大きく息を吐く。潮の香りと共、香木の香りを吸い込む。清冽な甘さのある香りに猫のように細まった眼が、不意に不審げに顰められる。 波に黒く濡れる波打ち際の岩場、鮮やかな蒼海から、黒い影がゆらりと立ち上がった。黒髪をかき上げ、疲れた様子もなく岩場へと登ってくる、ドライスーツ姿の女。 「ハーデ」 無事だな、と声を掛けるアクラブにちらりと眼を向けた後、ハーデはその場を去ろうとしてか、足を速めた。近寄ろうとするアクラブに向け、 「私に……触るなっ!」 低く叫ぶ。その一喝に、怯えにも近い響きを感じて、アクラブは足を止める。仕方ない、と小さく肩をすくめ、流れ来る風に混じる香木の香りと島を満たす花の香りを追う。岩陰に紛れるようにして姿を消すハーデの背中を視界の端に確かめる。 ロストレイルに乗り込むまで、誰にも会わないつもりか。 (まぁ、……一人になりたいのだろう) 追っては来ないアクラブの視線を背中に感じながら、ハーデは聳える崖の傍に小さな洞穴を見つけた。島一面に花の溢れるこの季節、暗い洞穴に入ってくる人間は居ない。 人を避け、ハーデは洞穴の隅に蹲る。 (敵対するならば、神をも殺すが我が使命) 膝を抱え、背中を丸める。次の戦場は、と掠れる声で囁く。嵐との戦は終わり、島には百花が溢れる。けれど、ひとときの安らぎはハーデを癒さない。 (戦わない私に生きる価値なんてない) 敵との闘いに生を捧げて来たハーデにとって、癒しなど無駄なもの。自らを苛み、弱体化させるもの。 (早く、早く次の戦場を) 「誰か……早く」 自らを抱きしめ、ハーデは呻いた。 「助けて」 崖の上には花が満ちる。 純白の小さな花が群生し、鮮やかな青紫の大輪が今を盛りと開き、薄紅色の可憐な花弁が風に揺れ、重なる淡金色が甘やかな香りを風に広げる。 数え切れないほどの種類の花が咲き乱れ、華やかな香りの満ちる花畑の只中、金色の髪を風に光らせ揺らし、コレットが立っている。清楚な白いワンピースの腕に抱えているのは、丁寧に摘み集めた、様々な色の花々。 花の最中に膝を突き、もう一輪、海色した花を摘もうとして、意外な茎の強さに折り取れずに居ると、 「それ、硬いですよ」 風を連れるようにして、フェイが隣にしゃがみこんだ。懐から小さな折り畳みナイフを取り出し、広げた刃で花の茎を切り取る。 「どうぞ」 差し出される小さな手から蒼い花を受け取り、コレットは柔らかく微笑んだ。 「ありがとう」 「……これは、お返しします」 あなたのものですから、とフェイは折り畳んだナイフを両手で包んで渡す。 「でも、覚えておいてください」 僅かに躊躇って、眼鏡の奥で伏せられた黒い睫が、コレットを見仰ぐために持ち上がる。 「これは、出来れば花を摘むために使って欲しいです」 僕が言うのも可笑しいかもしれないですが、と難しげに眉を寄せる。コレットは小さく首を横に振った。 「そうね、……そうする」 身を案じてくれる少年ににこりと笑み、コレットは受け取ったナイフを仕舞った。フェイの手に大切そうに握られた蒼い花に眼を留め、 「そのお花は、どうするの?」 小さく首を傾げて、尋ねる。フェイは手にした花を持ち上げ、黒い眼を細めた。 「司書さんに」 (王も花を愛でられたでしょうか……) 応えながら、フェイが想うのは、元の世界で仕えていた王の遠い面影。 (あの方のことを、僕は何も知りません) それでも、こんな僕を王宮においてくださった。役に立てるようにと知識を与えてくださった。鍛えてくださった。 物思いに沈みかけた心を、フェイは目の前の花を抱える少女へと戻す。 「あなたは?」 逆に問われ、コレットは花束を手持ちの結紐でまとめながら、若草色の眼に蔭を落とす。 「海に」 私たちの護った船は無事だったけれど、あの嵐に呑まれた船も、あったかもしれない。荒ぶる海に呑まれた人もいたかもしれない。 「海の底に沈んでいった人たちに」 両腕で花束を抱き、コレットは崖の先に立つ。遥かな蒼海に向け、大事に作った花束を放つ。風に抱き止められ、花弁を撒きながら、海へと落ちていく花束を眼で追い、コレットは瞼を閉ざす。 (お花が届きますように) ――祈る。 終
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