鋭く長く、汽笛の音が響き渡る。 空は鮮やかに晴れ渡り、雲の一つも携えずにいた。 緩やかに、けれど堂々とした威厳を伴って波を掻き分けてくる一艘の船を、少年は睨(ね)め上げる。 取り戻さなければならない、そう自分に言い聞かせて、強く強く唇を噛んだ。 護らなければいけない物を、喪ってしまった。 愛してくれた祖父母、愛していた父母、大好きだった彼らから受け継いだ大切なものを、喪ってしまった。 警察には盗賊の仕業だ、諦めろ、とあしらわれ、早々に捜査を切り上げられてしまったけれど、諦める事なんて出来るはずもない。あれは少年にとって、矜持そのものなのだから。 ――それが、あの船に乗っているのだと、聞いた。大人達の話を盗み聞いただけであるから、どういう経緯を経たかは判らないが、とにかく目の前を行き過ぎる商船に、積み込まれているのだと言う。 数日の寄港の後、船はこの島を去る。 それまでに、何とか取り戻さなければいけないのだ。「あの船に、在るんだな」「――!」 決意に拳を握り締めた少年へと、背後から声が掛かる。 驚き振り返ったその視界に映るのは、背の高い一人の青年だった。「おまえの誇りが」 褐色の肌が日を浴びて毅然と輝き、瞳には快活な色が燈る。 真摯な視線に射抜かれて、少年は小さく竦み上がった。そんな彼を安心させる様に、青年はからりと笑顔を浮かべてみせる。――燦々と降り注ぐ太陽の光によく似た、朗らかな表情だった。 晴れやかに笑って見せるその青年は、青い空を背負い、まさに海に愛されている様だ。「おれが、取り戻してやるよ」 視線の高さに突き出された褐色の拳。少年はそれをきつく睨みつけた後、一つ頷き小さな白い拳を突き合わせた。「ブルーインブルーに行ってもらいたい」 唐突に話を切り出して、世界司書シド・ビスタークは右手指に挟んだ小さな紙片をひらひらと振った。サングラスに隠されたその顔は、何処か浮かない表情をしている様にも見て取れる。「数日前、ある商船に海賊から襲撃の予告状が届いてな」 現物ではないが、これはその文面だ。 言葉と共に机上に置かれた紙を、ロストナンバーは覗き込んだ。『i am no pilot, yet wert thou as far Apart from me, as That vast shore which is washed with The farthest SEA, i should venture FOR such merchandise.――Romeo』 私は船乗りではない。しかし、貴方がどれだけ離れていようと――そこが遥かな海に洗われている広々とした岸辺だとしても、私は貴方の様な宝を求めて旅に出るだろう。――ロミオ「一見しただけでは、よく判らない文章だ」 自ら語りながらも頷き、武骨な指先が紙面の文字を指し示す。「……だがな、この最後の『Romeo』って名前。これは、ブルーインブルーで広く名の知れた海賊が使っている通称なんだ」 “海賊王子”ロミオ。 かつて無限の海洋を支配した伝説の海賊『海賊王・グランアズーロ』、その正統なる継承者だと名乗る男だ。『人は全て自由であるべき』――胸に抱く信念の為に豪族や富裕者の船ばかりを狙い、持ち前の気前の良さから奪い取った財は貧しい民に分け与える。 海を渡る風の様に自由に、空を泳ぐ鳥の様に気侭に義賊的な活動を続ける、そんな青年の振る舞いを支持する民衆も多い。 だが、それを説明するシドの表情には明るい物は見えなかった。 普段の豪放な様子はなりを潜め、眉間には深く皺が刻まれている。獅子の鬣に似た髪をがりがりと掻き回して、シドは酷く言い難そうに言葉を発した。「……実は、護衛の依頼が在った商船の方にも良い噂が無くてな」 曰く、立ち寄った都市島で盗品を買い取り、そこと交易を持たぬ島で売り捌く――島を渡りながら行商を続けるその船には、そう言った噂が付いて回っている。「実際、商船が島に訪れた前後で、盗難事件が多発しているらしい」 噂は噂を呼び、人の悪意を喚び起こす。その船が来島した前後でだけ盗難が起こる、その様な刹那的な商売はいずれ発覚し、いずれ治安部隊の知る所となるだろう。 だがな、とシドは言葉を加えて、導きの書のページを捲った。「確かにその噂がホンモノなら、商船にも同情の余地はないかもしれない。……だが、義賊だろうが何だろうが、人を襲って物を奪ってる事に変わりはないんだ。それを許すワケにもいかないだろう?」 今回乗り込む船は一般的な帆船で、船室は三層構造となっている。客室や調理室など人が活動するスペースは上二層に集められ、最下部は船倉となっているので、ロミオ率いる海賊団の規模がそう大きく無い事も含め、相手の狙いさえ判れば撃退するのはそう困難ではない。「その『狙い』なんだが、盗品のどれかじゃないかと思ってる」 十字の輝きが入った大粒の真珠の首飾り、澄んだ空の様に淡い藍玉の指輪、碧がかった深い青の宝石――大小様々な盗難が起こった中で、この三つが特に高い値打ちを持つ物であったらしい。 現物が喪われてしまっている為口上でしかその外見を説明する事が出来ず、シドは紋様の走る貌を申し訳なさそうに歪めた。「それぞれ『星の涙』『ジュリエットの瞳』『母なる海』だとか、そんな気障な名前が付けられている」 この中のどれかが、海賊王子・ロミオの狙いではないか、とシドは推測する。「もちろん盗品だからな、船内の何処に隠されているかは判らない。だが、それは向こうさんも同じだろうよ」 そう言って、ようやくその顔に彼らしい笑顔を浮かべた。緩く首を振り、開いていた導きの書を音を立てて閉じる。「これは確かに世界図書館の依頼だが、それに縛られる事はない。気負わず、お前達がやりたいようにやって来い」 穏やかな激励が、促す様に旅人達の背中を押した。
羽織るマントの裾が、潮の匂いを孕んだ風に靡いた。 「自由、良い言葉だね」 不自然に滑らかな指先で、手の中の球体を弄ぶ。鏡にも似たその球体の表面は美しく、指紋の一つも残らずに海の色を映して煌めいていた。 「とくに海風の中で聴くと、胸が躍る」 楽しげな言葉と笑みの割に、放つ声に表情は窺えない。感情を抑え込んでいるのではなく、元より感情などとは無縁の――機械を連想させる、平坦な抑揚で語る。 「そうは思わないかい」 マントを羽織り、フードを目深に被った背の低い女は、甲板の柵に凭れかかり海面を眺めたまま、自らの背後に向けて問うた。 「……海風はべた付く。苦手だ」 かけられた言葉に、世刻未 大介は明確な答えを返さない。ただ怠惰に髪を掻き上げて、吹きかかる海の匂いに眉を顰めるのみだ。女は振り返る事も無く、ただ無邪気な子供の様に笑った。答えが返る事など、端から期待していなかったのだろう。――或いは、ただの独白であり、問いですらなかったのかもしれない。 「なら、言葉を変えよう。『人は全て自由であるべき』……彼らについて、きみはどう思う?」 「さあ」 肩を竦め、軽く首を振る。その返答は怠惰でしかない。自らの心の内を朗々と語って聞かせるほど、大介は雄弁な男ではなかった。 「だが、この依頼。……あまり気乗りはしないな」 海賊が海賊なら、護衛対象も護衛対象だ。どちらに肩入れする気にもなれない。ロストナンバーとなって初めての任務がこれか、と大介は胸の内だけで嘆息した。 甲板に差し込む陽射しがやけに強く、蒸す様な不快な暑さにネクタイの結び目を緩める。ちらりと横目で見やった女は、この陽射しの下でもマントを煩わしく思う素振りすら見せない。 「気負うことはないさ。好きにしていい、と言われてるしね」 マントの合わせ目から伸びる左の腕、その奇妙な質感だけがいやに目を惹いた。指先で弄ぶ球体と、何処かよく似ている。 「まぁ、な。皆がどう行動するか……気持ちのいい終わり方になれば良いけどな」 籠る熱気に辟易し、大介は踵を返した。去り際に振り返る事も無く「あんたはどうする気だ」と問い掛ければ、平坦な笑い声が耳に届く。 「ぼく? ぼくは元から好きにするとも」 視界の端を、鏡面の泡が光を跳ね返しながら滑る様に浮遊していった。 「にゃー……」 中層部と船倉とを繋ぐ階段の隅に腰かけて、小柄の猫型獣人――ポポキは膝の上に広げた書簡を見詰めていた。 「この予告状、ちょっとおかしいにゃね……」 『……文章自体は別に読めなくはないぞ?』 ぼやく彼の周囲に、人影は見当たらない。だが、確かに彼の呟きに対して返る声があった。ポポキはそれを訝しむでもなく、ひとつ頷く。 「にゃ、文章じゃなくて、文字そのものが変なのにゃ」 顔を上げ、声が掛かった方を探して周囲を見回す。その姿に応えて、何も無かったはずの空間がいびつに歪み、色を得た。 ポポキの目線の高さで、ゆらりゆらりと太い縞模様の尾が揺れる。それは彼の物ではなく、彼と同じロストナンバー――グランディアの物だ。トラベルギアの能力を使って自らの姿を消し、尾だけをその場に残している。 ポポキはそちらに視線を合わせて、書簡を彼に見せる。 「たとえばここ。『SEA』の文字だけ大文字になってるにゃね?」 『ああ、なるほど』 見えもしない虎の首が、縦に振られる気配がした。 『SEAと言えば、盗品の中に『母なる海』と言うのがあったな。それじゃないか、と思うが』 「にゃ、でも大文字になってるのはSEAだけじゃないのにゃ」 グランディアの言葉に、綴られた文章を眺めながら首を傾げる。猫の肉球を持つ手を器用に操り、余白に文章中の大文字だけを書き出した。 「大文字になってるのは……ATTSEAFORRの十文字にゃね」 『RomeoのRも含むのか』 「多分、にゃ」 虚空から降る虎の声に応えながら、ああでもない、と思考錯誤を繰り返し、十文字のアルファベットと向き合う。ポポキが知る限りの単語を、幾つも幾つも連ねて行った。 そうして出来上がった、三つの言葉を猫の手で指し示して、力強く言葉を放つ。 「TEAR OF STARにゃ!」 『星の涙、か。なるほどな』 グランディアがそれを受け、感嘆の息を洩らした。紙面の端にその言葉を綴る。 海賊王子の狙いは判った。後は、それが何処に在るかを彼より先に探し出さねばならない。実の所、海賊王子と盗賊商船のどちらが悪なのか、ポポキは未だ計りかねている。 「オイラは船内を探して回るのにゃ」 階段から軽く跳ねる様に降りて、ポポキはグランディアが居るであろう場所を見上げる。だが、答えはおろか反応が返る気配もない。勇壮なる獣王の候補者は、既に何処かへと立ち去ってしまったようだ。 『星の涙』。そう冠された真珠の首飾り、それがもし、街で耳にした噂通りのものであったら――自分はどうするべきか。どうするだろうか。 ポポキは首を横に振って考えを振り払い、階段を勢い良く駆けあがって行った。 西の空が、淡い紅に滲み出している。 海面で閃く青と、天上に広がる青の狭間に、一滴の赤い塗料を零したようなその光景に引き寄せられ、一ノ瀬 夏也はカメラを片手に歩み寄った。 「――もし」 背後から掛けられた声に呼び止められ、足を止めて振り返る。長い茶の髪がそれに合わせて跳ね、甲板の風に靡いた。 「何か?」 首を傾げて問えば、船員らしき男は含みのある、曖昧な笑みを浮かべる。 「いえ……その首飾り、綺麗だと思いましてね」 「ありがとうございます」 首元で控え目に輝く真珠に手をやり、夏也は微笑んで応えた。 清楚な印象を受けるその飾りは、夏也が知り合いに頼み、精巧に作って貰ったイミテーションだ。とは言え、壱番世界の技術とブルーインブルーの技術は比べようも無いだろうから、贋作が露呈する心配はしていない。ロミオの標的である『星の涙』と同じ真珠を身に付け、宝石好きと触れ回る事で何かしら情報を得られるのではないか、と考えての事だった。 「真珠に興味が御有りですか?」 男の物腰は柔らかく、一般的な海の男の印象からは随分とかけ離れていた。どちらかと言えば、言葉巧みに惑わす商人に程近い。 「ええ。……海の神秘です」 「そうですか。それは良かった」 浮かべる笑みは貼り付けられた仮面の様で、如何にも気味が悪い。後退りたくなる己を叱咤して、夏也も負けじと笑みを貼り付けた。 「よかった、とは?」 「……無事に船が着いてから、お教えしましょう」 それとだけ言って、男は夏也の横を通り過ぎ、甲板から立ち去って行く。その姿を目に焼き付ける様にして見詰め、夏也は再び西の空に目を向けた。 日は既に沈もうとしている。この時期の夕暮は長い様だが、じきにそれは昇る月に追いやられ、星の落とす涙が海面を美しく照らすだろう。全てを覆い尽くす宵闇が、訪れる。――そして、彼らが。 美しい空と海をファインダーに収めて、夏也はシャッターを切った。そうして、己の首を飾る真珠に手を触れ、自らを落ち着かせるように軽く眼を閉じる。 月光を受けてうねる海面を斬り、船は堂々と波間を滑る。 雲の隙から星が瞬く夜空を見上げ、青年は静かに視線を落とした。 迷いの無い指先が、遥か彼方に見える光を指差す。船員がそれに応えて、船の速度を上げる。広い視界の先に燈る一点の灯は、目印としては充分過ぎるものだ。船は海面を滑り、見る間に灯の元へ忍び寄った。 灯――商船の方もそれに気付き、船首の向きを変え、進む速度を上げる。だが、船は逃げようとするのを赦さず、その脇腹に船体を叩きつけた。 衝突音が轟き、二つの船が勢いよく揺れる。海面が大きく唸り、白銀の水飛沫が高く飛ぶ。木と木、金属と金属の削れ合う不穏な音が已むのを待って、青年は腰に佩いた剣を抜いた。 鞘と刃の擦れた音を聞く。 切っ先を天上の月へと向け、号令を上げた。 「――行くぞ、野郎ども!」 「応!」 返るのは頼もしい男達の声、響き始めるのは船から船へと飛び移る足音。 甲板で剣と剣とが克ち合う音、悲鳴と怒号とが入り混じり始める。敵も味方も判らぬ混乱の中を、青年は軽やかに駆け抜けた。 赤いバンダナが、幻影の様に翻る。 「……出たか」 食堂に佇み、静かにその時を待っていたグランディアは、頭上から響く足音と悲鳴、勝鬨にも似た怒号に顔を持ち上げた。鋭い牙の備えられたあぎとを天井へと向けて、何処かニヒルな笑みを零す。ティグリスの輪によって姿を消している為、見えている者もいないだろう、と踏んでいた。 「だが、俺は姿を現すわけにはいかないな」 そうひとりごちても、恐慌状態に陥った船内でそれを聴く者は誰もいない。ゆったりとした動作で身体を持ち上げ、尻尾をゆらりと廻した。 「壊さないよう、色々見ていくか……」 まずは、ロミオが求める宝石の在る場所を。そう考えて、派手な物音を立てぬよう、勇猛なる虎は四肢を踏み出した。 内部へと繋がる扉を潜り抜け、仲間と船員が戦う脇を通り抜ける。中層部へと続く階段を駆け下りて、ロミオは一旦足を止めた。差し込む月光と燈る電灯で奇妙な色を為す廊下を一度睨みつけ、どちらへ行くべきかを瞬時に判断する。 右に身を翻し、走り出したロミオは、しかし直ぐにまた足を止める事となった。 「待って」 廊下の先の船室から、一人の女が姿を現し、彼の前に立つ。 行く手を阻む様に立つ女に、ロミオは眉を顰めて腰の剣を抜き放った。 「……誰だ、おまえは」 好青年然とした顔立ちに睨む様な疑いの眼差しは似合わず、女は小さく息を吐いて表情を緩める。手に持っていたクリアファイルを掲げ、適当に開いたページをロミオの方へと向けた。 「船内の写真よ」 突然の行動の真意が掴めず訝しげな顔をする青年に、彼女は軽く微笑んでみせた。 「盗品が映ってる写真を撮れば、この船の悪事を暴けると思うの。手伝ってくれない?」 「は?」 予想もしていなかった誘いに、間の抜けた声が出てしまったとして、誰が彼を責められよう。思わず、目の前に立つ女をまじまじと見詰めてしまった。緩やかに波打つ、明るい色をした髪の、青空に似た晴れやかな女だ。――こんな、盗賊商船には、似つかわしくない。 首を傾げ微笑んでいた女が、首から下げていた一眼レフのカメラを手に取る。軽やかに長い髪を翻し、颯爽と背後へ振り返ると、それを構えた。 木の板を軋ませる、無様な地響き。それが彼らの方へと走ってくる慌ただしい足音であるとようやく気づき、ロミオは剣を再び強く握り締める。 角を曲がって姿を見せた二人の男へ、女は躊躇う素振りも見せずにシャッターを切った。銃剣をその手に携えて、片足を強く踏み込み、地面を蹴る。不格好なフォームで走るその瞬間を、カメラが捉えた。 軽やかな音と閃光が走り、男達の動きが静止する。 「……!」 男達から時間を奪い取り、フィルムの中にそれを焼き付ける。見えぬ針と糸でその場に縫い止められた二人は、立体的な写真の様にさえ感じられた。 目の前で起きた光景に目を瞠るロミオに、女――夏也が振り返る。 立場上は商船側の人間である彼女を信じろと言うのは難しいと、夏也自身も判っている。だが、この船の行っている悪事は許し難く、見逃す事も出来ない。 「人の大事なものを盗んで売り捌くなんて、許せないじゃない」 だから協力したいのだと、夏也は笑った。明るい色の瞳に浮かぶ光は強く、揺るがない意志を湛えている。 「どうせやるなら、二度とこんな事が出来ないように徹底的に暴いてやりたいのよ」 ただ盗まれた物を盗み返し、持ち主の元に戻すだけでは、何も変わらない。また同じ悪事が繰り返されるだけだ。夏也はそう、確信している。だから、これ以上誰かが悲しむ前に、この連鎖を断ち切らねばならない。彼女を突き動かすのは、そんな使命感だ。 「おまえ、この船の人間じゃ……」 「依頼を受けただけよ。それも、この船から直接じゃない」 その依頼者にも、「やりたいようにやって来い」と許可を得ている。悪しき商船を庇う義理など、元よりないのだ。 もう一度ファイルを示してみせ、夏也は首を傾げた。 「でも、写真だけじゃちょっと証拠としては薄いの。だから、もう少し何かあれば――」 『――音の証拠なんて、どうかな?』 不意に降り注いだ声に、怪訝な顔をしていたロミオがはっと顔を上げた。声のかかった方を見上げ、誰だ、と剣呑な声で問い質す。――だが、背の高いロミオが見上げるほどの空間に、人の姿が見えようはずもない。 あるのはただ、月の光に照らされて、ゆらゆらと煌めく幾つかの球体。 彼らの周囲に浮遊し、鏡の様な滑らかな表面を持つそれらは、海の底から立ち昇り、海面に届いて儚く弾ける泡の様にも見えた。 『はじめまして、海賊。……声だけで失礼するよ』 「そう思うんなら、姿を見せろよ」 一度は降ろした剣を再び構え、ロミオは泡の浮かぶ方を睨め上げる。幾つも浮かぶそれらから、機械染みた平坦な笑い声が溢れ、周囲に反響した。 『ひどいなあ。女の子には優しくしないと、モテないよ?』 茶化す様な冗談めいた物言いに、青年の眉間に刻まれた皺が深くなる。抑揚のないその口調に覚えがあり、夏也は上空を見上げながら首を傾げ、ぽつりと問うた。 「……ベヘルさん?」 『正解だよ、カヤ』 肯定が返って、やっぱり、と胸をなで下ろす。船に乗り込んですぐ、彼女の前からふらりと姿を消した、異形の右腕を持つ少女だ。マネキンめいて不自然に皺の無い滑らかな肌で飄々と笑う、捉えどころのない彼女が、何を思ってこの依頼に参加したのかは知らなかった。 『探しているのは、『星の涙』で合ってるかな』 「……ああ」 警戒を解く事無く、憮然とした面持ちでロミオが頷く。浮かぶ泡から降り注ぐ声は、揶揄を知る機械の如き口調で、問い掛けを止めない。 『どうしてそれがほしいんだい? 高く売れるから?』 「この船と同じにするなッ! おれはただ、約束しただけだ!」 不躾な言葉に思わず激昂して叫べば、問い掛けの言葉は已み、代わりにくつくつと抑えた笑い声が零れた。 『それだけ聴ければ満足さ。ついておいで、宝石の場所へ案内してあげよう』 波打つような緩やかさで上下に昇降を繰り返し、月光を跳ね返す鏡の泡が彼らをいざなう様にして廊下を行く。 それを追うか追わぬか迷った夏也は、同じく戸惑いの色を隠せないロミオへと振り返った。 「ロミオさん、あなたはどうするの?」 早くこの場を離れなければ、先程トラベルギアで止めた男達の時間が動き出してしまうかもしれない。そんな微かな焦りはあったが、彼女が焦ったとてどうしようもない事だ。自らの行動を決めあぐねているであろう彼が、結論を出すのを静かに待つ。 やがて、遠ざかっていく泡を見上げ呆けていた青年が、小さく息を吐いた。 「……おれたちの今回の狙いは、『星の涙』だけだ。……だが、それ以外の盗品も奪ってやるから、好きにしろよ」 困惑と呆れを伴いながら、けれど不快ではなさそうに放たれた言葉に、夏也は破顔し、頷いた。 泡――ベヘルが彼らを案内したのは、最も船尾に近い部屋だった。彼女の言葉では、隣は船長室になっていると言う。 『やましい物であればあるほど、人は眼に付く場所、手に届く場所に置きたがるものだよ』 もっともらしい説明を、ロミオはそっぽを向いたまま聞き流す。素直ではないその姿に、夏也は思わず笑みを零した。 「べヘルさん、本当にここなの?」 『音の反響からこの船の地図を作ったんだけどね。ここと隣の部屋の間に、不自然な空間が見られたんだ』 「その隙間が怪しい、か」 ロミオは頷き、扉に手をかけて内側へと押し開く。湿気を含んだ木が、重く軋む。 内部へと滑りこもうとするその足元を、するり、と小さな影がすり抜けた。 「!」 小さな影はそのまま軽やかに駆け、夏也の傍らまでやってきて、彼女を見上げる。 「……猫?」 金と茶の毛並みを持ち、金の瞳を聡明に輝かせたその獣は、小さな猫だ。声を上げず、ただまっすぐに夏也を見上げる。その首裏を撫でてやろうとして、膝を曲げてしゃがんだ夏也が小さく声を上げた。 猫が声を上げぬのは、その口に何かを咥えているからだ。 「――これ、『星の涙』!」 月光に照らされ、薄い膜を張って輝く淡い色。 気がついた夏也が手を出すよりも早く、猫はその腕をもすり抜け、廊下を駆けていく。そして、曲がり角の近くで一度足を止め、再び彼らを見た。 首飾りを咥えたまま、金の瞳を細めてみせる。それはまるで人間が笑う仕種に似ていて、その不自然さに、唖然としていたロミオが我に返って声をかけた。 「おまえ……」 咥えている為に、その猫が声を出して鳴く事は出来ない。故に、金の瞳が何事かを訴えかけ、ちいさな首を傾げた。そうして、ロミオから視線を逸らして駆け出す。 「あ、おいっ! 待て!」 はっとしてその後姿を追い掛ける青年を、鏡の泡と夏也とが見送った。 「……今の猫。あの毛並みって……」 夏也の脳裏に思い浮かぶのは、種族を超えた小さな友人。だが、彼はあの猫よりももうすこし大きく、二本の足でしっかりと歩いていたはずだ。首を捻る夏也に、上空から降る声は曖昧な言葉を返した。 『さあ……ぼくには見る『目』がないから、確かなことは言えない。それよりも、いいのかい? この部屋には星の涙以外の盗品もしまわれているよ』 飄々とした声に当初の目的を促され、夏也は慌てて目の前の扉に手を掛けた。 するすると人の足元を擦り抜け、あるいは船荷を飛び越えて、猫は最下層である船倉へとロミオをいざない、足をとめた。樽の上に飛び乗り、首飾りを其処に置いて、一声小さく鳴く。 ――持っていけ、と。人間染みたその仕種は、そう促している様でもあった。 ここまで彼を案内したのは、人の眼につかぬ場所でそれを渡したかったからなのだろうか。猫がそんな事を考えるはずがない、と思いながらも、先程から彼の常識を飛び越えた事態ばかりが起こっている為に、完全に否定する事は出来なかった。 ゆるゆると首を振って曖昧な考えを振り払い、樽の上の首飾りを手に取った。 手の中で輝く、淡く色付いた大粒の真珠。まさしく夜空に浮かぶ星が流した一滴の涙の様で、名に恥じぬ美しさを伴っている。 感謝の代わりに猫に一礼を送り、ロミオは踵を返す。 ――その視界に、背の高い影が立ち塞がった。 「……残念だが、それを渡すワケにはいかない」 青く白い光が真円の窓から差し込んで、漆黒を煌々と照らし出す。 宵闇に浮かび上がる刃は鋭く、ゆらゆらと水面の如くに揺らめいている。無造作にそれを提げたまま、扉の前に立つ男は緩慢な視線をロミオへと投げた。 「今を噛み締めろ」 怠惰に放られたのは、まじないにも似た言葉。 背筋を駆け抜けた悪寒を抑え込み、腰の剣に手を伸ばしたロミオの髪を、鋭い風が浚う。鼓膜を駆け抜けた音は颯の様で、それを把握するよりも早く、首筋に冷たい感触が触れた。 「――!」 忍び込む月光に似た、凍りついた金属の感覚。 瞬きの間にロミオの眼前まで飛び込んできていた男が、身の丈ほどもある大鎌を彼に突き付けている。足を踏み出す、その気配さえも感じ取る事は出来なかった。 唾を呑む事で喉を鳴らし、冷えた沈黙を破る。震える腕を叱咤して、剣の柄を握り――抜き放ち様に、一閃揮う。 しかし、振り抜かれた鉄の刃は虚しく弧を描き、空を掠めるだけだった。男はロミオから刃を離し、背後へ一歩飛び退く。追い縋る切っ先が、それに触れる事は出来なかった。 緩慢な動作だ。 ――緩慢で在りながら、辛うじてその動きを眼で追えただけの、刹那の動きだった。 人では追う所か捉える事すらも叶わぬ速さ。それを察して、ロミオは強く唇を噛み締めた。 「答えろ」 男が携える得物の分厚い刃が、砂の城の様に崩れゆく。まるで、掬っても掬っても零れゆく、時の如くに。 しかしそれに動じる事はなく、男――大介は真摯に対峙する海賊を見据えた。夜の月光の下に、漆黒の色を湛えた瞳が閃く。 「どうして、『星の涙』だけを狙ったんだ?」 船に積み込まれている盗品は、星の涙の他にも在った。その中には確かに粗悪品も混ざってはいたが、鑑定に長けた大介の眼から見ても逸品と呼べるものも多かった。――それらに眼もくれず、大粒ではあるがそれほど価値も高くない真珠を狙ったのは、何故か。 「……約束したんだ」 圧倒的な力を目の当たりにし抵抗する意思も失せたのか、両腕を力なく下げたままロミオは俯く。しかし、その瞳は未だ輝きを喪わず、声にも押し殺した激情が垣間見えた。 「必ず、取り戻してやるって」 「元の持ち主か。……だが、どうしてお前がそこまでするんだ」 白くなるまで握りしめられた拳が、わなわなと震える。 「これは、あいつの誇りだ」 噛み締める様にして零れた声に、大介だけでなく、猫までもが小さく反応を示した。樽から軽やかに降りて、項垂れるロミオへと身を寄せる。ロミオは力なく笑い、屈み込んで膝をつくとその首裏を指で撫でた。 「誇り?」 問い掛ける語調に、先程までの刺々しさは感じられない。 「代々その家が受け継ぐもので、……今となっちゃ、ただ一つの両親の形見だ」 見おろす大介の視界の端で、青年が握り締める真珠の首飾りが静かに煌めく。それは冷たい色をして、けれど情の通った柔らかさを纏っている様に、見えた。 「まだ小さいのに、親を亡くして、その形見も奪われて、それでも泣きもしねえ」 ただ前だけを見詰めて、唇を噛み拳を震わせていた。――それを目にしてしまったから、手を貸そうとロミオは決めたのだ。訥々と語る海賊の肩もまた、小さく打ち震えている。 取り戻してやる、そう約束したと言うのに、自分は無力だ。 首飾り一つ、満足に奪う事が出来ない。 「情けねえよな、ホント」 自嘲と悔恨とに、声が掠れて響く。 無言でロミオの話を聞いていた大介が、不意に身を翻した。 「行けよ」 窓から忍び込む光に背を向け、吐き棄てる様に放った言葉に、青年が弾かれた様に顔を上げた。最早振り返るのも億劫になって、肩越しにひらひらと手を振ってみせる。 「必ず、それを渡せ」 否、億劫なのではない。胸の内に巣食うその感情を説明する言葉を、持ち合わせていないだけだった。 鎌を握り締める指先に、鮮明に蘇るのは、喪失と絶望、そして凍える様な虚無。 「そして伝えろ。――もう、絶対に失くすな、と」 明日も同じ日が続くなどと、誰にも知る事は出来ないのだから。 その言葉が星の涙を指すのか、それとも何か違うものを指すのか、言葉を放った自分自身にも判らなかった。その言葉が、誰に向けて投げられたものなのかさえ。 膝を着いたままのロミオは、ただ茫然とそれを見上げた。大介の言葉を聞き届けはしたが、理解が出来ない、そんな子供染みた表情を浮かべている。 「どう、して」 そして、先程幾度も投げられた問いを、彼へと返す。 「どうして、おまえたちは……おれを助けたり、見逃したりするんだ」 「さあな。俺はただの気紛れだが、他の奴がどうかは知らない」 元より大介は、この依頼を受けた仲間達がどんな行動をとろうとも止めぬつもりでいた。故に自分以外の旅人の意志には無関心であり、無関係だ。ロミオの直ぐ傍で彼を見上げる猫が、何を思っているのかも知らなかった。 「……ただ、それぞれに考えた上でそうしてるんだろ」 だから、答えがぶっきらぼうになってしまうのも仕様のない事だ。大介は小さく息を吐き、その場を後にした。 立ち去る間際に聴こえた、小さな「ありがとう」の声は、聞かぬ振りをして。 暫く膝を突いたまま呆けていたが、やがてしっかりとした足取りで立ち上がったロミオを、猫は静かに見上げた。船倉から駆け出していくその手に、放すものかと『星の涙』が握り締められているのを認めて、金の瞳が柔らかく緩む。 その小さな背中に、低く太い声が掛かった。 『……何でいきなり、持ち出したりしたんだ?』 「元あった所からそのまま奪われると、オイラ達の責任になっちゃうにゃ」 声に応えるようにして、猫がゆっくりと立ち上がる。空になった掌を広げてみせ、元の二足で立つ姿へと戻ったポポキは笑った。 「でも、『あれ』は何処かの野良猫の悪戯にゃから、仕方ないのにゃ」 飄々とそう言ってのければ、姿を消したままの相手は笑う様に呼気を緩めた。 「……グランディアさんは、何か誇りを持ってるかにゃ?」 そしてぽつりと落とされた呟きに、沈黙が返る。猫科特有の暗視能力に優れたふたりの眼は、暗闇の向こうへ溶け行く海賊の背中をじっと追いかけていた。 『そうだな……強いて言うならば、この身そのものとでも言おうか』 暫しの間をおいて返された答えに、ポポキは頷く。緩やかに虚空から滲み出て来た虎の巨躯を見上げ、羽織ったダッフルコートから、刀身が湾曲した一本のナイフを取り出した。 「オイラにとっては、この『ククリ』が誇りなのにゃ」 この、氷雪の様に冴え冴えとして、けれど燃える山の様に苛烈な刃に見合うだけの力を、ポポキは目指している。彼が一族を誇りとする様に、一族からも誇られる堂々たる戦士となれた時、晴れて彼の前に道が開けるのだろうと、剣を握り締める度に彼は思うのだ。 「……だから、その誇りを奪われる辛さ、よくわかるのにゃ」 静かで真摯なその想いに耳を傾けて、ふむ、とグランディアは尻尾を揺らめかせる。 「……それは、大介も同じだったんじゃないか」 「そうなのかにゃ?」 ポポキは首を傾げて、大鎌の青年が去った方を見遣る。ロミオとは違い、彼は角を直ぐに曲がってしまった様で、暗闇の中にその姿は既になかった。 「ロミオの話に、何か思う所があったんだろう」 ポポキが首飾りを盗みだしてから、ロミオを追い、彼の行動を見て来たグランディアの脳裏に、先程のやり取りが蘇る。星の涙の話を聞き、あの怠惰な青年の瞳は、確かに揺らいだように見えたのだ。――それは、誇りという言葉に呼応したものでは無かったのかもしれないが。 「……そうだといいにゃね」 頷いて、すっと背を伸ばす。 既に遠くなったロミオの背を凛と見据える、その姿は、誇り高き戦士そのものだ。 「さて、もう一仕事するのにゃ!」 場の空気を振り払う様に明るい声を出し、誇り高きクムリポ族の戦士は再び猫の姿に戻った。 「なるほど、まさしく夢物語の海賊だ」 くすり、と無機質な笑みを零し、マントの下から伸ばした左手で、小さな機械を弄ぶ。手に入れた幾つかの情報を噛み締めて、べヘルは満足そうに頷いた。 見おろす甲板の中央部では、未だに海賊と船員達が戦いとも言えぬ不格好なやり取りを繰り広げている。べヘルは敢えて、彼らの目が届く場所にその身を置き、己が耳であり声でもある『泡』だけで情報を集めていた。時折音で甲板に振動を送り、諍う彼らにちょっかいをかけるのももちろん忘れない。 そうして手に入れた物語は、べヘルの好奇心を充分に満たすものであった。 伝説の中からそのまま姿を現した様な海賊団。悪事を見逃さず、貴族ばかりを狙って金を奪い、平民に配って回る。襲撃の際にわざわざ予告状を送る所と言い、何から何まで物語の様ではないか。 興味本位で船に乗り込んだが、本人達の活躍を直に目にするまでは話半分、尾鰭や装飾の為された噂話に過ぎぬと考えていた。 だが、実際に海賊王子と会話をする事が出来、べヘルは非常に満足している。浮世においては生きにくいだろうとすら思えるその信念も、噂に聞いていた義理堅い性格も、何もかもが彼女の期待通りのものだったからだ。 「流石『海賊王子』、といったところかな」 ひたすら上機嫌に、宵闇の中でひっそりと笑い声を漏らす。 そして、月光に照らされて、甲板を慌ただしく駆けていく男達へと目を向けた。その中に赤いバンダナの青年を認めて、口許に刻んだ笑みはより強くなった。 海賊達の手には武器以外見当たらず、収獲があった様子は見て取れない。船の積み荷には一切手を出されなかったのだから、これは護衛成功と言っても良いだろう。 「……まさか、盗品がこの船に載っていたはずもないし、ね」 愉しげに諳んじるその言葉は、紛う事なき揶揄。しかし、それを聞き咎めた者はいなかった。 海賊王子の目的は達せられた。 後は、商船が港へ付き、積み荷を検分する治安部隊の目の前で、この機器が『勝手に』作動するだけで良い。朗々と暴かれる会話は盗品とその価値に関するこの船の乗員達のやりとりで、それを『初めて』耳にした夏也が、『船の建築構造を学ぶ為に』撮り貯めていた写真の中から、くだんの宝石が映り込んだものを発見する。それだけで良いのだ。 数刻後に繰り広げられるであろう芝居を胸の内で予測しながら、べヘルは船室へと足を向けた。 宵闇に包まれた海が、光を受けて煌々と躍る。 美しい波の軌跡を立てて、偉大なる青を抱く船が遠ざかって行った。
このライターへメールを送る