トラベラー達の目の前で、「導きの書」がはらはらと捲られる。そこに映し出されるものは、確定はしないが「これから起こる未来の出来事」であった。「今回、皆にはブルーインブルーで客船の護衛をして欲しいの」 「導きの書」の頁に指を掛け、世界司書である瑛嘉はトラベラー達にそう切り出した。 依頼は客船の護衛。ブルーインブルーでもそれなりに裕福な階層が乗っていて造りは豪華な方だが、大型ではなくどちらかといえば小型寄りの中型船。ジャンクヘヴンからとある街に着くまでの間の護衛という事だったが、今回何故トラベラー達に依頼を求めたのか瑛嘉は説明を始めた。「その客船の事なのだけれど、航行の途中で海魔が出る海域を通るみたいなの。その海魔は姿形の方はちょっと詳しくは分からないのだけれど皆に乗り込んで貰う船より一回り小さい程度の大きさで、人の呻き声のような鳴き声を出すらしいわ。海魔が住む海域は暗くなると霧に覆われてしまうから、多分霧に紛れて近付いて来るのではないかしら」 そして、まるで人のような黒く長い腕が何本も伸び、船を沈めようとするのだという。その為に普段、その海域を通る場合は明るい内に限らせていた。 しかしながら、今回護衛するという客船は暗い時にその海域を通るらしい。海魔の事も通る海域の事も知っているという事だったが、それは何故なのかと瑛嘉は少し呆れたように笑って続けた。「その海魔が棲む海域はね、昔からこの海魔によって何隻も船が沈められていたの。でも、昔の人はそれが海魔の仕業だとは分からなくて、海魔の鳴き声や襲撃手段から其処で沈められた船の人達の亡霊が同じようにして船を沈めようとしているのだと信じていたみたい。真相の所は皆にも話した通り、海魔によるものなのだけれど、そういった昔の人々の話を現代の人が辿ろうというか……体験してみましょう、というのがこの客船の目的でもあるみたいなの。笑っちゃうわよね?」 客船に乗っているのは、ブルーインブルーでも富裕層。現代で言うミステリーツアーみたいなもので、俗に言ってしまえば金持ちの道楽という事になる。 普通ならその海域は明るい内に通ってしまえば良いものを、それを見に行く為に暗い時に通る。ただ、海魔という事で危険である事には変わり無く、その為にトラベラー達にこの依頼が来たのだった。「言ったように客船だから、大砲とかの武装は無いわ。甲板上は広く取られているみたいだから足場には困らないでしょうけれど……」 「導きの書」に目を落とした瑛嘉の眉が、僅かに潜められる。暫し奇妙な沈黙が漂った後、瑛嘉は顔を上げて何事も無いかのようにトラベラー達にロストレイルの乗車チケットを差し出した。「御免なさい、ちょっとぼんやりしちゃって。私から言う事はこれくらいね。……それじゃ、気を付けて行ってらっしゃい」
昼間は太陽と青空の下で青々とした色を見せる海も、今は澄み切っているどころか暗闇の中に居るかのように底が見えない。陸からそれなりに離れた所為もあるのだろうが、海鳥の声も聞こえず、海の波が船体にあたる事によって生まれる音だけがよく聞こえていた。 温暖な気候を保つブルーインブルーではあるが、今は太陽が沈んでしまった時刻である為に吹く風は冷たく感じる。その冷たさは空気が澄んでいる事を示しているようにも思えるが、船が行く先はその標を裏切るものだと決まっていた。 「こう海だけだと、不思議な感じがしますねぇ。北都に訪れないと見られないものでしたから……今は、そこへ訪れる事も出来ませんけれどねー……」 顔の前に布が垂らされているにも関わらず景色は普通と変わらず見えているかのように、船の縁に手を掛けて青燐が呟く。のんびりとした口調の中に、微かな寂寞が混じって暗い波間に落とされていった。 青燐は一つ息をつくと、身体を海の方から甲板上に向ける。僅かに揺れる床板の上では、フカ・マーシュランドがギアの組み立てをしていた。 「あら、アンタの方はもう準備終わったの?」 「えぇ、ほとんどは乗った時にやっておきましたのでー。備える分には手間が掛からないのですよねぇ」 組み立ての作業からふと顔を上げてフカが問うと、其方に近付いていた青燐は頷く。緩やかな着物の袖の下から、植物の種が零れ落ちた。 「今はただひたすらに静かな夜に海、なのですけれどねぇー」 波も穏やかで、夜の航行を楽しむには絶好だと言える。しかしながら、今回はその為に来ている訳ではなく、これから起こるであろう事を考えるとそういったものを期待するのも憚られた。 今回の依頼は、この客船が通る海域に現れる海魔の襲撃から船を護る事。その現在、客船は夜間霧が立ち込めるという海域に向かっている最中だった。 「にしても、霧に海魔か……何つーか……」 「よう――船長に話をつけて来た。今、他の準備やら手の空いている船員達にやらせているが……じきに件の海域に入るそうだ」 フカが呟き掛けた所で、今回護衛をするにあたっての諸々について説明・指示の為に船長の許へ行っていた斎田 龍平が戻って来て結果を告げる。配置の方は特に変更する必要性も無かった為にそのままで、海魔襲撃の際とその前の準備を言っておくだけで良かった。 海図片手に近寄って来た斎田の方に、青燐とも話しながらフカが振り返る。 「ね、斎田……アンタも思い出さないかい?」 「ん? あぁ……微妙に違うけどな。フカ子、また頼むわ」 いきなり話を振られて斎田は一瞬怪訝な顔になるが、直ぐに何の事か察すると手を軽くひらりと振る。この船は元々戦闘用でもない為、船に乗り込む時に炸薬を持ち込んで貰い、火工品知識に長けたフカに頼んでそれに爆雷を仕込んで用意をして貰ってもいた。 「私も仰っていた準備、終わりましたよー」 「分かった。それで後は……と、悪いな。助かる」 「礼には及ばん」 青燐の言葉に頷き、斎田が海図を広げた所でアクラブ・サリクが掌の上に火を灯して見えやすいように海図を照らす。ブルーインブルーに来たのは初めてではないとはいえ、慣れない海は勝手が違う。慎重にルートを確認した所で、目を海図から周囲へ移動させた。 潮風が通り過ぎて行くと共に、呼吸をすると湿っぽい空気が肺の中に入っていく。少しずつではあるが、周囲が霞掛かって来た。 夜が降ろした帳の上に、白いカーテンが掛かっていく。水蒸気が温度低下によって小さな粒状となり、空中に表出した状態――霧、だった。 「……この辺りの海域か」 「らしいな。……敵潜在圏に侵入した。突然の接敵が予想される。対潜見張りを厳となせ……って、潜水艦も何もねえわな」 アクラブの呟きに同意しつつ、斎田は船員達に指示を飛ばしながらも肩を竦める。帆船が一般的な世界で、潜水艦などそうそう見るものでもないかもしれない。 ともかくも、周囲に霧が立ち込めて来たという事は、今航行している海域は海魔が出るらしいという事でもある。ギアの組み立て準備を完了したフカは、意識を集中させて海魔の襲撃に備えた。何か不審な気配や匂いがあれば、即座に感じ取れる上に他の者達の様子も分かる。青燐も今の内にと、皆の気配を身に覚えさせておいた。 赴く海域は夜間、霧が発生するというが、現在周囲を包み込むようにして在る霧は思いの外深い。濃霧、と言っても差し支えないだろう。少しばかり、天候に嫌われてしまったのだろうか。 「この分だと、通常通りの航海も難しそうか……サリクのおっさん、船首2000ヤード……あー……決まった間隔で『灯火』を出して航路を間違えないようにしてやってくれ。間違っても爆雷の所には点けんなよ」 途中で言い直したのは、単位が分からないのではないかという懸念の為。最初から夜には霧に覆われる海域を通る事は承知しているから霧中航行の方の対処はしているだろうとは思ったが、一応配慮をしておく事に越した事は無い。 斎田の言葉にアクラブは頷き、船首近くにふわりと霧の中でも仄明るく見える炎が一定の間隔で生まれていく。ゆらゆらと揺れるその炎に導かれるようにして船が海を行く中、客船が右に大きく傾いた。 何かにぶつかったにしては衝撃の質が違う。直後に聞こえて来たのは、人が呻くような――鳴き声。 「御出座し、って所ですかね」 海魔が襲撃して来た。誰に言われずとも分かる事を察し、青燐が言葉を漏らす。平時のんびりとしたような語調は、今は普段よりも薄らいだものとなっていた。 衝撃に揺れた船が右へ傾いていく。傾きによって覚束無くなる足元を確保しながら、船が傾いていく方向を見る。 視界は相変わらず、霧によって悪いものとなっている。しかしながら、その中でも船と同程度の黒い大きな影が見えた。 詳細は明瞭としないが、まるで人の頭部がそのまま巨大化したようにも想起出来る。何処から出しているのか分からない鳴き声は幾重にも反響し、複数の存在が船全体を取り巻いているかのようだった。 「海魔か……海魔との戦いは、面白そうだ」 アクラブがそう言葉を零し、トラベルギアを展開する。蠍を模した鎖が装飾された剣を握り、ぼんやりと見える海魔の頭に向かって一振りする。 同時に発動させた業火は、水蒸気から成る霧ごと切り裂くように海魔へ襲い掛かる。海魔はアクラブの攻撃に頭らしき部分を海中に引っ込め、その代わりというように何本もの長く黒い手が伸びて来た。 船を海中へ引き摺り込むという海魔の手。それぞれが意思を持つように、凶悪な脅威を以って蠢く。アクラブは四方八方から伸びて来る手の内、最も早く自らに届きそうな手に意識を向けて剣に炎を纏わせながらそれを受け止める。見た目の割に骨がしっかり中に通っているのか、予想以上に手応えは固い。何とか受け止めた海魔の手首ごと焼き切ったが、その隙に別の手が襲って来た。 「狙ってんのは、こっちも同じだわさ……っ!」 手がアクラブに届く寸前、フカの支援射撃によって海魔の攻撃が妨げられる。幾本も蠢く手に対し、フカは一本ずつ狙撃を行っていた。 腕や手首ごと吹き飛ばすような事や威力までは無くても良い。様子を見る限り、この海魔の手は耐久力がそれなりにあるらしい。狙いやすい海魔の掌に向けて撃っていきながら、海魔本体の居場所も索敵していく。 「斎田! あんたは怪我しないように引っ込んでなさいよ!」 「船における武装は、此方がなろう」 飛んで来たフカとアクラブの言葉に、セクタンの力丸を船から飛んでいってしまわないように抱えながら斎田は密かに何とも言えない顔を作る。 確かに、どちらかといえば直接戦うのは得手ではない。指示をしている方が向いていると言えて、その上での言葉なのかと頼もしいやら少し情けないやら思えてしまった。 しかしながら、その思考は不意に聞こえて来た悲鳴によって中断される。はっとして視界を狭める霧の中、目を凝らすとこの客船に乗っていた数人の乗客が何時の間にか甲板に出ていた。 準備をしていた時は、船内で催し事をしていた筈。海魔の出現とこの騒ぎに、好奇心をそそられでもして野次馬でもしに来たのだろうか。 対処しているのが他人である所為なのか好奇の方が強いらしい客達に向かって斎田が注意をしようとすると、客等の背後から黒く長い海魔の手が忍び寄る。此処から叫んで、気付く頃には遅過ぎる。何も気付いていないらしい乗客に海魔の手が届こうとした時、鋭く空気を切り裂く音が響いた。 一瞬後、ぼたり、と鈍い音がして海魔の手が甲板に落ちる。その音に漸く気付いた乗客が甲板に落ちた海魔の手に更に悲鳴を上げ、その乗客達の前には青燐が居た。 「戻れ――要らぬ好奇は命取りになる」 通常とは違う、緩やかな調子の無くなった男性的な言葉遣い。顔の前に垂らされている布によってその表情が晒される事は無く、長く鋭く伸びた爪が代わりに際立つ。 思い出すのは、霧と闇夜に相応しい中に居た頃の事。けれども今それはきっと必要ではなく、何より現実は思い出に浸る暇は与えてはくれない。 青燐は再び襲い掛かって来る海魔の手に、トラベルギアの香炉を差し出すように持つ。そこから放たれた衝撃波は、攻撃を仕掛けようとした海魔の腕を弾いた。 「近付かされ過ぎているか……こうも近距離過ぎると、ちょっとばかり心配だが……」 霧の所為で状況は分かり辛いが、海魔の頭部は海面に見えていない為に船体に取り付いているか何かしているのだろう。あまり海魔に船を近付かせ過ぎると、船の耐久力が心配になって来る。そろそろ頃合だろうか、と斎田は表情を引き締めた。 「これより対潜戦闘を始める! 青燐、サリクのおっさん、頼んだ……フカ子、今度は海中には潜るなよ! ……爆雷、攻撃始め!」 一呼吸の後、出る限りの大声で指示を飛ばす。返事は要らない。その代わり、行動で示してくれればそれで良い。 海魔の襲撃によって一時は隅の方に退避していたようだった船員達だったが、斎田の指示によって搭載していた爆雷を次々と落としていく。その爆雷が海へ落ちて行くタイミングを見計らい、青燐は衝撃波を利用して爆雷の水中衝撃波を船体に向かわせないようにする。流石に近距離での行為だった為に船体は僅かに傷付いてしまったらしいものの軽微と言える程で、爆雷を喰らった海魔は呻き声のような鳴き声を一層低くして怯んだように船から離れた。同時に、船を襲うようにして伸びる海魔の長い腕も力を失う。 手が船体に当たって衝撃が来るよりも早くアクラブは剣を振るってそれを断ち、青燐は音も立てないような動きで船の縁に足を着ける。見え難い霧の中だが、海魔が波間で苦しげな声を出して沈もうとしていた所だった。 「せめて安らかに眠れ、海魔。我らが忘れぬ限り、お前は生きている――」 果たして零れる言葉は、海魔に届いているだろうか。届いて来るのは、やはりというべきなのか人の呻き声のような鳴き声しかない。 戦場の呻き声は、こんな生易しいものではなかった。おぞましく、しかしそれでも背負い立とうと思う。夢ならぬ霧の中では、忘れたくない面影は見えて来ないけれど。 やがて海魔の鳴き声も気配も無くなり、意識を海の方から船の甲板の方へ向ける。そこではフカが、先程甲板に出て来た乗客に詰め寄っていた。 「ちょっとアンタ等! 自分がどんだけ危険な事をしていたのか分かってんの!? だいたいね、金で全て解決出来るっつう発想自体が馬鹿なのよ!」 立て板に水、機関銃か何かのようにわめき、もとい説教をする。その勢い良過ぎるフカの様子に、乗客は反省や反論をする余地も無くただただ圧倒されっ放しだった。 「……おやおや。まぁ、御気持ちは分かりますけどねー」 そんなフカの方の状況に、青燐は聞こえない程度の音量でそう漏らす。口調は、すっかり元の緩やかなものに戻っていた。 この海魔が潜む危険な海域を通るのは、実際に航行上必要である為ではなく富裕層の娯楽余暇の為。自分達はトラベラー達に護られているという事があるとはいえ、危険である事に変わりはないのに甲板へ出て様子を見に行った事に対しても含め何か思う所が色々あるのは仕方の無い事だろう。 「一度、痛い目を見ないと懲りぬだろうな……。尤も、死んでしまっては元も子も無いが」 その辺りの事は同感であるのか、アクラブも些か呆れを含んだ口調で言葉を漏らす。 さて、そろそろフカの方をやんわりと止めに入った方が良いだろうか。割合暢気な思考が浮かび始めたその時、唐突に船体が何かにぶつかったように左に大きく揺れ傾いた。 「!?」 緩み掛けた空気が一転、再び緊張が走る。客達に突っ掛かっていたフカは、意識を客から周囲の方へ切り替えた。今の揺れで、事後の仔細について話し合っていたらしい斎田も駆け寄って来る。 「海魔は仕留めた筈じゃ無かったの!?」 退治し切れず、海魔がまた襲って来たのだろうか。思うが、その可能性に青燐は首を横に振る。海魔の事は見届けたから、その筈は無い。何より、感じている気配が違った。 「この辺の海域は海魔以外に巨大な生物も、障害物も無いらしい。ましてや、夜が明けてないってのにこの船みたいに態々通るような船も無い。それに、もう霧は晴れても良い筈らしいんだが――」 船長から聞いた事を説明し、船が傾いた方へ何気無く視線を向けた斎田が言葉を止める。不審なその様子に面々がつられるようにして目を向けた先で、その理由を瞬時に察した。 其処に在ったのは、船。だが、普通の船ではない。大きさはこの客船とほとんど変わらない程度のように思えたが、その外観は見るからにボロボロで古めかしい。 例えるのならばまるで――「幽霊船」のようだった。 「……冗談でしょ?」 本当に幽霊船が出た、とまた後ろで騒ぎ立てる客達の声を聞きながら、フカは思わず呟きを落とす。 この海域は昔、沈んだ船が新たな仲間を呼び込むように船の人々の亡霊が通り掛かった船を沈めているのだと伝えられているという。しかしながら、それは海魔の仕業だった筈で本当にそこに船の人々の亡霊、幽霊船が居るという訳では無い筈だろう。司書の言った事は間違いだったのかと疑ってしまうが、「導きの書」が映し出す「確定は出来ないがこれから起こり得る未来」であり、トラベラー達に混乱を与えない為にも司書が示す情報は絶対。事実、提示された情報通りに海魔は襲って来た。 それならば今この事態は、示された依頼とは外れた「不確定事項」なのだろうか。 動揺が鎮まらない内に、船がまたしても揺れる。先程よりも小さく、その場に踏み止まる事自体は容易だったがその隙を狙うようにして「幽霊船」から此方の船に梯子とロープが掛けられた。そしてそこから、十数人の何者かが此方へ来るのが見えた。 古そうに見えるあの船と合わせるように、此方の客船に来ようとしている者達は皆襤褸切れのような衣装を着ており、顔は隠れるようになっている。現在のブルーインブルーも壱番世界と比べると古い時代を彷彿とさせるようなものではあるが、今眼前に居る「幽霊船」とその者達はそれよりも時代錯誤に思えた。 「まずい……乗り込んで来るぞ」 怯える客達に船内へ戻るように告げながら、斎田は思わず渋面になる。海魔の対策はしていたが、今の事態は予測していない。 「それならば、阻止するまでだ」 簡潔過ぎる言葉を放ち、アクラブは剣を構え直して駆ける。此方の客船に、余計な被害を与えないようにするのは海魔退治と変わりない。 狙うのは此方の客船に掛けられた梯子とロープ。まずは侵入を妨げなければならない。梯子を剣の柄で引っ掛け、それを「幽霊船」の側へ押し返すと同時にロープを断ち切る。火を纏わせていたので一瞬気付くのが遅れたが、船の見た目に反して梯子もロープも比較的新しかった。 それと似た違和は、船に乗り込んで来た者達を相手にしている青燐やフカも感じていた。服装は「幽霊船」と同じく亡者が常世に這い上がって来たかのような格好だったが、手にしている武装はそれに準じていない。 細かな所がちぐはぐに思えてしまう中、青燐は攻撃を仕掛けて来た者に対して香炉で衝撃波を放つ。霧の中では亡者とも思えてしまうその者へ攻撃をした時の手応えは、しかし。 「……生きている、人間のもの……」 幾つか、ブルーインブルーの依頼の中で「幽霊船」が出たという報告がある事を思い出す。今出くわしてしまったこれは、その「幽霊船」だというのだろうか。 見た目は確かに、「幽霊船」そのものに見える。だが、そこに乗っていた者は霧の中では亡者のように見えるかもしれないが間違い無く生きている人間。本当の所は「幽霊船」ではなく、それを装った他の――そう、海賊船なのではないだろうか。現在、この客船が襲われているという点からしてみれば、「幽霊船」が仕掛けた行為は海賊行為に他ならなかった。 客船の甲板上に乗り込んで来た分は何とか倒し切ると、件の「幽霊船」はそれ以上仕掛けて来ずに客船から離れ始める。退く気であるらしい。 それと同じくして晴れ掛けて来ている霧の向こう側、そこまで届くかまではギリギリの見積もりだったが、アクラブは剣に出来る限りの炎を纏わせて「幽霊船」の船首に向けて強く薙ぎ払った。 「幽霊船」の船速は見た目にそぐわず、遅いものではない。向けた炎の一波は狙いに届くには及ばず、その代わり大分薄らいでいた霧を一掃する。 炎の熱気に煽られ、霧が晴れて「幽霊船」の船首近くが遠目ではあるとはいえ見えるようになる。 「……船首の所に誰か居るわね」 遠くではあるが、霧が晴れて随分と視界が利くようになってから、フカが「幽霊船」の方を見て船首を示す。 面々が船首近くに立つ何者かへ注視するのと同じように、「幽霊船」の船首付近に居る者もトラベラー達の方へ向いている。その者だけが、客船を襲撃してきた者達とは一線を画していた。 体形は男のように判断出来そうだが、歳の頃までは分からない。仮面で浮かばせているであろう表情も読めなかったが、その仮面越しからでも充分に伝わって来るものが一つだけある。 トラベラー達、否、この客船に乗っている者全てに対しての――悪意。 何故そんな感情を向けられているのか、面々には分かる筈も無い。ただ、向けられるぴりぴりとした空気を受け止める。 距離がありながらも強張った間が続き、「幽霊船」に乗る仮面の者は身を翻す。意識が外れた為か緊張した空気もそこで和らぎ、「幽霊船」の方も見えなくなっていた。 「……行ったか。青燐、街に着くまで船は保ちそうか?」 「えぇ。心配無く」 安堵に大きく息を吐きながら、斎田は青燐に船の状態を尋ねる。海魔と先程の襲撃の時に船体が幾らか傷付いてしまった為、青燐に予め船の各所に撒いておいた種を成長させ、それで船体の局部を一時的に補強して貰っていた。 「しかし、あれは……」 「……さぁな」 少なくとも、この客船の状態であの「幽霊船」を追う訳には行かない。幾らか推測出来る事も無い事は無いが、それでも分からない事があり過ぎる。それに元より、今回の依頼はこの先危険な事は無い筈だから既に果たされていた。 「だが――」 「幽霊船」が去って行った方向を見て、アクラブは言い掛けた言葉を飲み込む。 これだけでは、きっと終わりそうにない。 そんな予感とは裏腹に霧の晴れたブルーインブルーの夜空は、明日が何処までも見えていきそうな快晴だと告げていた。 了
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