インヤンガイから戻ったアリッサは、執事に向かって言った。「司書たちを集めて」「かしこまりました。……インヤンガイで何か?」「……おじさまの行方がわかったかもしれないの」 執事のおもてが、はっと引き締まる。 世界図書館の本来の館長である人物が、消息を断ってからすでに6年が経過していた。 今までも、手がかりらしきものがなかったわけではないが……今回は、ほんの数カ月前の目撃情報であるという点で、アリッサたちの注意を引くものではあった。「というわけで、みんなには、インヤンガイに向かってもらいたいの」 アリッサはロストナンバーたちに言った。「行き先は『美麗花園(メイライガーデン)』っていう場所。名前はきれいだけど、今は人間は誰も住んでいない廃墟の街区よ。2年前から、ここは『暴霊域』っていう生きた人間はとても立ち入れない地域になってるの。おじさまがそんな場所に本当にいるのか、いるとしたらどうしてなのか……誰の『導きの書』も手がかりはくれなかったわ。でもーー」 危険は承知で、この廃墟の街の探索をしたい、それが世界図書館からの依頼であった。 街区は広いため、いくつかの小集団に分かれて探索を行う。現地までは、今回はロストレイルで乗り付けることとなった。地下鉄の廃線が美麗花園の地下にも伸びているという。「各チームの探索ポイントについては、担当の司書さんから説明してもらうね。それじゃ……、お願い」 ***「探索ポイントは美麗演奏庁(メイライヤンソウティン)。要するに、コンサートホールじゃ」 世界司書、アドルフ・ヴェルナーは面倒くさそうに切り出した。彼にしては珍しくおざなりである。いつもは回りくどい説明を延々続けて要領を得ないこと夥しいのだが、今回は簡潔かつ話もそう長いものではなかった。 最初から『館長の手がかりを探す』という目的がはっきりしているせいかもしれない。 探索ポイントとなる美麗演奏庁は大ホールと小ホールからなるL字型の建物で、エントランスは巨大なアトリウムとなっている。 大ホールは動員数2000(立見含/座席数は1階974席・2階356席・3階302席の計1632席)を誇り、小ホールでも200席以上ある。当然、付属の楽屋や音響室・調光室があるだけでなく、地下にはリハーサルルームなども完備、アーティストロビーなども含めるとかなり広い建物であった。 だが、問題はそこではない。「このコンサートホールは、今も夜毎大ホールでコンサートが開かれておるんじゃ」 2年前、そのコンサートホールでコンサート中に被災した人々の暴霊が、今も同じコンサートを延々繰り返しているという。 幸い、暴霊たちは生者を無闇に襲う凶暴化はしていないらしい。もしかしたら彼らは自分たちが死んでいるという事にも気付いていないのかもしれないが、何れにせよコンサートホールに入るには、コンサートの入場券かスタッフPASSが必要で、それがなければ警備員の暴霊に追い出されてしまうという事だった。それでも襲われるよりはマシなわけだが。 さて、いかにしてホールに潜り込んだものか、配布されたホールのパンフレットのコピーに掲載されている会場案内図をぼんやり見ていると、ヴェルナーがついと指を2本立てて厳かに言った。「任務にあたり注意が2つある。まず1つ目は、大ホールで行われているコンサートの邪魔をしないこと。2つ目は、決して演奏を聴かないこと」 1つ目は、暴霊たちを怒らせ凶暴化させないためと窺える。しかし、2つ目は一体……。 だがヴェルナーはその理由を話すでもなく机の上にそれを置いた。いつもの発明品らしい。「耳栓型イヤフォンマイクじゃ。とはいえ暴霊の紡ぐ音がこれによって完全に遮断される保証はないが、の」 いつもは自信満々の彼が珍しく不安にさせるようなことを付言した。 演奏を聴くな。しかし耳栓は役に立たないかもしれない。とするなら、大ホールには近づかない方がいいという事だろうか。 最後に彼は念を押すように言った。「今回の目的はあくまで館長に繋がる何かを探すことで、暴霊をどうにかする事じゃない」 下手をすればそこにいる2000体近くの暴霊を相手どることにもなりかねないのだ。 それほどまでにこの任務は危険であるという事なのかもしれなかった。 *** 2年間放置された廃墟を抜けると、それはひっそり姿を現した。美麗演奏庁の文字。ツタの這う大きな煉瓦づくりの建物。 ガラス張りのエントランスホールでは暴霊どもが楽しそうにコンサートの開演を待っていた。その姿があまりに普通に見えたので、一瞬、これは霊力エネルギーが見せる追体験かと疑ってみたが、それにしては目の前の広場の噴水が枯れている。 建物の外周をゆっくり回って侵入出来そうな場所を探索。地下駐車場を覗くと搬入口があった。どうやらそこから入れそうだ。 息を殺して侵入の機会を窺う。 ―――さぁ、幕の上がる時間だ。*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・!注意!イベントシナリオ群『死の街へ』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『死の街へ』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・
『ディーナさん久しぶり』と耳元で囁く彼の声にディーナはこの状況で少し頬を緩ませた。彼とは先ほど別れたばかりだったからだ。気が抜けるというよりは変な緊張が解けるそれに近い。 「……久しぶり」 応えながら耳元に手を当てる。小さな突起が指先に当たった。数えるようにそれをスライドして音量を微調整。静まり返った空間では小さな音でも大きく聞こえる。 サングラスを付けたまま彼女は正面の暗がりを見据えた。普通の者なら目を凝らさないと見えないだろうが、彼女にはそれらがはっきりと見て取れる。 地面を区切るように引かれたホワイトライン、そこに連なる輪止めの縁石、柱にはオレンジ色の数字=地下駐車場の様相。入口を示す矢印の先にあるのはグランドピアノが通れるほどの大きな扉。開きっぱなしのそこには警備員や暴霊の姿はない。まるで罠の中に飛び込むような気分だ。 「準備はいい?」 マイクに向かって声をかける。 『いつでも』と彼が応えた。 『ああ』と彼女が応えた。 ディーナはそれに頷いて呼吸を整えるように3つ数える。 「ミッション開始!」 コンクリートの床を蹴って飛び込む健の後に続いて大きな扉の中へと突入。彼の背を見送りながらディーナは壁に背を預けると周囲に気を配った。監視カメラの位置を先行する健が伝えてくる。 大ホールで行われている演奏を不用意に聞いてしまわないよう渡された耳栓は、当然それ以外の音も全て遮断する。たとえば暴霊の足音、そして自身の足音。殺気を帯びない暴霊たちの位置を気配だけで把握するには限界がある。そのため健を先行させたのだ。彼にはセクタン=ポッポのミネルヴァの目がある。 雑音を嫌ったものか廊下にはダークグリーンのカーペット。健が先行している以上すぐ近くに暴霊がいるとも思えなかったが自身の足音が聞こえない分、ディーナはいつも以上に慎重に足を進めた。 向かう先は警備室。ここを制圧しマスターキーを確保する。 ここへ来るまでのロストレイルの中で、健は『暴霊を解放したい』と言った。その気持ちはディーナにもわかる。ハーデもそれについては吝かではないといった風情だった。暴霊を全て排除してしまってから探索した方が容易ではないのか。『暴霊を倒すのは簡単だぞ? トラベルギアに倒すという気迫を込めるだけだ』そんなハーデに健は首を振った。ヴェルナーからの依頼を受けるのは今回で2度目となる彼には『暴霊をどうにかする事じゃない』という司書の言葉が引っかかるらしい。『それがこの任務を遂行する上で一番の近道のような気がする』のだという。それが前回の任務で得た教訓なのかはわからないが、結局、暴霊よりも探索を優先する事にした。 それは果たして吉とでるか。 イヤフォンからの囁きがディーナの回想を遮る。先行する健の声。どうやら警備室前に到達したらしい。そこまでの道程に暴霊の姿はなかったという。健が突入すると言うのに、合流するまで待てというハーデの声が重なった。 ディーナも慌てて足を早める。 『……いない』 半ば呆気にとられたような呟きが聞こえてきた。 健の声以外には何も聞こえてこない。そういう設計がされているのだから当たり前なのだが、戦闘に入った様子もない健にディーナは警備室のドアを覗いた。 「どういう事?」 『さぁ?』 健が室内を見回しながら肩を竦めてみせる。拍子抜け、そんな顔だ。 『マスターキーもない。俺は予定通りこのまま音響室へ向かうけど』 「え、ええ」 ディーナは応えて警備室の監視用モニタを見上げた。カメラを避けて向かっているハーデの姿はなく、警備員らしい暴霊が映っている。一つのモニタに音響室へ向かう健の姿が横切った。ここに警備員がいないのだから監視カメラを気にする必要もないと思ったのだろう。それは別に構わない。 ただ、ディーナは引っかかる。 程なくして、警備室にハーデが到着した。 彼女の顔を見た瞬間、ディーナの中で一つのパズルが完成した。 ロストレイルでの会話。 「どの『導きの書』にも館長の手がかりはなかった。ならばこの場所が探索ポイントに選ばれた理由は何だろうな?」 ハーデのささやかな疑問。テーブルの上に投げられたコンサートホールのパンフレット。ディーナはそれに目を落とした。 真理数を失った事で人は真理にたどり着いた。だが、館長は『本当の世界の秘密』を探しているのではないか。ディーナはそんな風に考えていた。ならば事象が継続している今の時点で館長はここには来ておらす、ここに館長の求める『何か』はない、のかもしれない。 「それが真なら、それでも我々は館長に追いつくため暴霊を解放し、秘密を探ると……?」 ハーデの問い。頷くディーナに彼女は納得のいかないといった顔つきで鼻を鳴らした。 「秘密とはなんだ? それがコンサートホールにあるというのか?」 「壱番世界では、クラシック音楽は真理を探求するための手段だったと聞いたことがあるわ。なら、音楽の中に真理を解くための鍵が隠されていても不思議じゃないと思う」 「しかし解せない」 「何が?」 「他の探索ポイントも、暴霊や追体験といった事象が残っている。そのどこにも館長は来ていないというのか?」 「…………」 「わかった……」 ディーナの呟きにハーデが訝しげに振り返った。 『何がだ?』 「どうしてここが探索ポイントの一つに挙げられたのか、どうして司書があんな念を押したのか」 地下の搬入口に警備員はいなかった。モニタにこれだけの警備員が映っているにも関わらず、ここまで来る途中にも警備員はいなかった。その意味するところ、以前ここに誰かが来たという事。 たとえば誰かがここへ来て警備員の暴霊を倒したとする。その抜けた穴はどうやって埋める? 封鎖された空間で暴霊を補充することは出来ない。 「つまり、ここが探索ポイントに挙げられた理由は、ここに館長か、或いは別の誰が来たという痕跡があったからよ」 そして、ここに来た誰かが何をしようとしていたのか、どこに向かったのか、或いは向かおうとしてたのか、それは暴霊の抜けた穴で絞り込める。だから司書はあんな念を押したのだ。 「先に暴霊全てを排除してしまったら、全てを闇雲に探さねばならなくなるわ」 ならば暴霊よりも探索を優先することは正解。そう確信してディーナはモニタ画面を見やった。この中に全く暴霊の映らないエリアがある筈だ。そこを辿っていけば、ここに訪れた『誰か』の目的がわかる。そうすれば、その『誰か』もわかるだろう。 『坂上を呼び戻すか』 「そうね。彼が暴霊を倒してしまわない内に」 頷いてハーデはトラベラーズノートを開いた。耳栓の性能を信用していないわけではないが、マイクを通じて大ホールに流れる音が入らないとも限らない。もちろん定周波マイクの性能も信頼している。ただ、声の周波数と同じ周波数を持つ音が、たとえ一部であったとしても何かしらの効果を与えてこないとも限らない。だから音響室に入るときはイヤフォンマイクを切り、トラベラーズノートを使う事にしていたのだ。 だがいくら待っても健からの連絡はない。モニタにも彼の姿が映らなくなった。カメラの死角で交戦中なのか。 『あれほどこまめにチェックしろと言っておいたのに』 ハーデは憤然と吐き捨てノートをポケットに押し込んだ。 『見てくる。お前はここで“誰か”の足取りを追ってくれ』 「わかったわ」 ハーデが警備室を出ていく。ディーナはモニタに向き直ると操作パネルを叩いた。進入と退出その両方の道を考え合わせながら“誰か”の目的地を絞り込むために。 * その少し前に遡る。 健はポッポと共に音響室を目指していた。廊下を気にせず走り抜けられるのは、もちろんミネルヴァの目があってのことだ。 廊下の角を曲がったところで一体の警備員と出くわした。急に襲ってくることはない。まるでロボットか何かのように彼は自分の仕事を果たそうとする。つまりは身分証の提示を求め、それがない場合は迷子になった客と判じてチケットの半券を確認。 身分証の提示を求められた健はとりあえず生徒手帳を出してみたがこれは警備員を呆れさせただけだった。 警備員は半券を持たない健を場外へ連行しようとする。もちろん健はそれに応じるわけにはいかない。 「悪いな」 呟いて健は腕を下から後ろへ大きく一転、そのまま警備員の肩を掴んで軸足を払う。横転する警備員に健はバックステップで間合いを開けてトンファーを構えた。 「っっ!!」 警備員が何事か怒号らしきものを放って立ち上がると本性を剥き出しに警棒を抜く。振り挙げる警棒に健は床を蹴った。がら空きになった懐へ。右から相手のわき腹を凪ぐ。しかし警備員はよろめきもしない。 「タフだな」 そのまま右足を軸に、警備員が振りおろす警棒をかわして一転。警備員の脇を弧を描くように背後へ回って左のトンファーをその後頭部にたたき込む。警備員の体が前へ傾いだ。間髪入れず背中に回し蹴り。 倒れた警備員に、ふぅ~と一息。 しかし警備員はあっさり立ち上がった。顔面からドス黒い体液を流しながら。だが、まるでダメージがあるようには見えない。 健は先手必勝とばかりに間合いを詰める。そのスピードのままトンファーを警備員の鳩尾へ。肉をも抉り骨をも砕く勢いに手応えは十分。 しかし次の瞬間息が詰まったのは健の方だった。 彼の背中を警棒が強打していたのだ。警備員はあれほどの攻撃を受けてもびくともせず。 「痛覚が、ないのか」 片手をついて、なんとか床に這うのを逃れ一転すると立ち上がる。そこに警備員が警棒を突き出してきた。床を蹴り紙一重で逃れる。執拗に追ってくる警棒。右手のトンファーで受け止め流しつつ左のトンファーが突く。攻防一体。しかし打撃攻撃ではダメージを与えられないのか。 「くそっ」 警棒から逃れるように後方へ倒れ込んで、無防備になった警備員の右腕を左右のトンファーでクロスに挟撃。力任せに払うと警備員の腕は警棒を掴んだまま肘から先があり得ない方へ曲がった。 黒い体液が溢れ出る。 警備員の攻勢が止まった。少なくとも健はそう思った。痛みに怯む。しかし痛覚がないという事は怯える事もないという事だった。頭では理解しているつもりでも体に染み着いた感覚は容易に払拭出来るものではない。だからそれは油断とは少し違っていただろうか、人心地吐く一瞬の間隙。健の鳩尾に警備員の靴先がめりこんでいた。 「ぅぐっ!!」 激痛と共に胃が悲鳴をあげる。健の体は紙のように軽く吹っ飛び壁にしたたかに背と後頭部を打ちつけていた。 「っっ!!」 それでも得物を手放さなかったのは賞賛に値するだろう。 右腕をぶら下げたまま畳みかけてくる警備員の蹴りをトンファーで受け止めて、もう一方のトンファーで膝を割る。左右を割って立てなくなった警備員に健は渾身の力と祈りをもって引導を渡した。 「祖霊に戻れ!! そしてまたこの世界に戻って来い」 荒い息を吐く。息がうまく出来ない。健自身のダメージも深かった。よろよろと壁に手をつき背を預けるとずるずると座り込む。 最後の方は気力だけで立っていたのか、霞み始めた視界の片隅、ポッポが膝の上に降り立つのが見えた。 「やべ……」 胸元を探る。そこにあったはずの物がない。トラベラーズノート、戦闘中に落としたのか。探すように視線を巡らせる。 そこに人影。ディーナでもなく、ハーデでもない。 ――女……? 霞む視界の中で彼女は健を見下ろしていた。その手が伸ばされる。彼女は敵なのか味方なのか。だがそれを確認する事なく健の意識はそこでブラックアウトした。 * ハーデは健を追い廊下を早足で音響室に向かった。 ダークグリーンのカーペットに倒れた警備員の死体を見つける。随分と古い。当たり前だろう、2年前の暴霊災害の際に命を落としたのだ。そしてつい先ほどまで生ける屍として動いていたのである。 体のあちこちに打撃の痕。健がやったのだろう。周囲を見渡す。そこに手帳が落ちているのを見つけてハーデは舌打ちと共にそれを拾い上げた。 「トラベラーズノート……坂上か」 いくらメールを飛ばしても返事がないわけだ。 それを握りしめるようにしてハーデは音響室へ。だが、それを止めるようにディーナの声がイヤフォンから届いた。 『待って!!』 反射的に足を止める。 『その先には警備員がいる』 警備室のモニタを見ているのだろうディーナの言に、廊下の角を見据えるようにしてハーデは2歩後退った。 それから自身の背後を振り返る。 「ならば、奴はどこへ消えた?」 『…………』 再び警備室。体勢の立て直しを図る。 ディーナの話す結論と現状を鑑みた対応策についてハーデは異論の挟む余地を感じなかった。 「随分戦いなれているな、お前」 ハーデが感想を漏らすとディーナは「ありがと」と笑みを返した。 健の捜索は後回し。それは切り捨てるという意味ではない。自分の身は自分で守る。これはそういう任務のはずだ。だからそれは非情ではなく信頼。 それよりも。 “誰か”の足跡はアーティストロビーで途切れていた。そこに探し物があるのか、それともその先の大ホールにあるのか。 『最初の予定通り音響室を制圧しましょう』 今このコンサートホールで起こっている事象は、暴霊個々が起こしてるものではなく、別の力が働いている可能性が高い。でなければ追体験でもなく全員で同じ時間を繰り返すなんてありえないだろう――ここに訪れる前から考えていた。恐らく、その媒体はロビーにある大時計や、音響室。 『大ホールに答えがあるなら、繰り返される時間を終え、観客の暴霊には帰っていただきましょう』 かくてハーデはディーナと共に2人で音響室を制圧した。 * 健が目を覚ましたのは柔らかなベッドの上だった。広い視界が乳白色の天井を映している。それから健は驚いたように飛び起きた。 ここはどこだ。周囲を見渡す。救護室か何かのようだ。傍らにポッポ。 「彼女が助けてくれたのか?」 そう問いかけるとポッポが頷くような仕草をした。 痛みもなく軽い体にベッドから降りて改めて部屋を見渡す。壁に掛けられた時計を見やって、それほど時間が経っていないことに安堵。左耳に手をやる。指に当たる耳栓型イヤフォン。突起をスライドしてONへ。向こうはイヤフォンをONにしてるだろうか。 「ディーナ、さん?」 刹那。 『健!! どこにいるの!? 無事なの!?』 鼓膜を破る勢いで届くディーナの声に思わず健は耳を塞いだ。イヤフォンなのでそんな事をしても音が小さくなるわけでもないが、条件反射というやつだ。 「えぇっと、たぶん3階の救護室」 『何でそんなところに? 何があったの? まぁ、いいわ。動ける?』 早口で話を進めていくディーナに健は「ああ」と応えた。 『えぇっと、救護室ね。じゃぁ、そこから右へでて、南側の非常階段を使って地下に降りたら警備室から東側の階段でアーティストロビーに向かって』 「はぁ? なんで、そんな遠回りなんだよ」 『それが一番近道だからよ』 「…………」 ここは3階の救護室。アーティストロビーは3階。健は全く理解できない。 『とにかく、そこを通ってアーティストロビーに集合』 指令塔はディーナだ。何かしらの意図があるのだろう。 「……了解」 答えて健はゆっくり息を吐いた。とりあえず、またここに戻ってくるのも面倒があるから、と健は部屋を物色し、懐からスプレー缶を取り出す。部屋を出てドアにスプレー缶で×印。分かれて捜索する際、互いにチェック済みがわかるようにと用意したものだ。 「これでよし」 健は缶を懐に戻すとポッポを飛ばし、ディーナに言われた通り一度階段で地下まで降りて、東階段からアーティストロビーを目指した。その間暴霊と出くわす事はなく、ディーナの近道の意味するところを知った。 * ハーデはその音響室で大ホールの演奏を見守りながら、ディーナからトラベラーズノートで健と合流したという連絡を受けた。今までどうしていたのか、さすがにメールで細かい説明はなかったが、とりあえず探索に復帰できるくらいには無事だったという事で良しとした。 暴霊達に繰り返しを強制している暴霊がいる。それを健が探す。ディーナはロビーの大時計を始めとした時計を壊しにいく。ハーデはESPを生かした遊撃に備える。 と、ディーナからのメールに気になる文字を見つけた。『健を助けたらしい女の霊』がいるという。 ハーデはホールに目を凝らした。どの暴霊も確かに肉体を持っているように見える。ここにいるのはその殆どが死体型に分類される暴霊だ。だが健が見た女の霊は霊魂型という事である。 『何か見かけたら連絡を送る』と返信してハーデはノートを閉じた。 大ホールの演目。タイトルを聞いてもわからない。この世界の音楽には詳しくないのだ。健が『今回の演目は民衆本にまとめられた話を元にした交響曲らしい』と言っていた。いたずら好きの主人公がいたずらを繰り返す。だが度が過ぎたのか遂に主人公は役人に捕らえられ処刑されてしまう。しかし物語は、いや曲はオープニングへと戻っていく。繰り返される輪舞曲。繰り返されるコンサート。繰り返されるいたずら。繰り返される……。 「!?」 演奏の終わらぬ大ホールに飛び込んできたディーナに音響室からホールを見ていたハーデは一瞬我が目を疑った。あの、ディーナがこんな暴挙に出るとは思えない。 「何をしている!?」 しかしその声はイヤフォンの切られたディーナにも健にも届かない。とりあえず健にエアメールを飛ばす。 ホールではいたずらを繰り返す主人公を表す軽快な音楽が流れているのだろうか、ディーナの体が操り人形のように踊りだす。 演奏は続いている。ハーデの一瞬の逡巡は耳栓の信頼性だったか。ディーナが掴まったのだ。だが、そもそも時計を破壊しに行ってた筈のディーナが何故。 ここで演奏を止めて大ホールにいる2000体もの暴霊を一度に敵に回すか、このまま予定通り曲が終わるのを待って、コンサート終了の案内を流すか。健の言葉が脳裏を過ぎる。『流れない水は濁って腐る。彼らは辛い記憶を忘れて幸せかもしれないけど、俺は彼らに世界を構成する輪の中に戻って欲しい』甘いな、とハーデはそんな言葉を振り払うようにして床を踏む足に力をこめた。その時。 大ホールに健が飛び込んできた。曲に絡めとられることなく健がエアメールで耳栓の有用性をハーデに伝えてくれる。安堵。しかし――。 曲はハーデの耳には届かないが、高々に掲げられる金管に息を呑んだ。いたずら者が役人に捕らえられたのだ。高らかに鳴り響いているだろうラッパの音。せき立てるように打ちならされる小太鼓。斬首台に登る道化。まるでそのようにディーナが舞台を登る。このまま物語が進めば――。 「まずい!」 ハーデは瞬間移動で大ホールに躍り出た。舞台に立ちトラベルギアを構える。 気づいたように健が走った。ディーナを押し倒すように飛ぶ。 それを視界の片隅にハーデは光の刃を一閃。健の後ろ髪と舞台上で演奏していた奏者たちの体をまっぷたつに切り裂いた。 舞台にドス黒い体液をまき散らし演奏が止む。 客席の暴霊が一斉に立ち上がった。 ハーデは再び構える。 だが、それよりわずかに早くディーナが健の下から這いだして舞台の中央に歩いていた。 ディーナが口を開く。と、同時に客席の観衆は腰を下ろし始める。 ハーデは訝しげにイヤフォンをONにした。もう演奏は止んでいる筈。 「歌……?」 イヤフォンから綺麗な歌声が響いていた。ディーナの体に重なる女性の霊に気づく。健を助けた女の霊、か。それからハッとしたようにハーデは記憶を辿った。音響室にあったコンサートの進行表。交響曲の後に用意されたアリア。 刹那、舞台上の胴と足が決別した肉片がもぞもぞと動き出した。 「歌を止めさせるな!」 ハーデの言に健もトンファーを構えた。彼女の歌でコンサートは幕を閉じる。 「出て来い、傀儡屋!!」 暴霊を操り肉片を操る暴霊。健はトンファーを凪ぐ。今度こそ演奏者の暴霊たちをただの死体に変えた。 観客たちはディーナの、いや女の霊の紡ぐ鎮魂歌を聞き入っている。 そして。 「みんなを解放してお前も眠れ!」 健の言にそれが姿を現した。健が一瞬たじろいだのは、それが幼い子供の姿をしていたからだろうか。 「トンファーは俺の魂だ! だからこれで、人を操るお前も還してやる!」 まるで自分に言い聞かせるみたいに意気込んだ健にハーデは右手を翳して進み出た。淡々と。 「暴霊を操る暴霊……他者を冒涜するものは排除される。世界の範を超えれば討伐される。それだけだ」 ハーデは光の刃を振り下ろすように右手を下ろした。 アリアが静かに終わりを告げ女の霊がディーナから剥がれ落ちた。 深々とした一礼と共に。 声は聞こえなかった。けれどその唇は『ありがとう』と動いたような気がした。 ここに残された痕跡は彼女のものだったのだろう、最初は肉体型だった。だが大ホールにたどり着いたところでその肉体は破壊され彼女は霊魂を残して待つ事になる。 繰り返しを終えてしまったら死を自覚しなければならない。そんな死を受け入れられない子供のいたずらを誰かが終わらせてくれる事を。 彼女の記憶を共有したディーナの中で全ての点が一本に繋がった。 『演目は全て終了しました。本日を持ちまして美麗演奏庁は閉鎖します。長いご愛顧ありがとうございました』 大ホールにハーデの声が流れた。 ホールにいた暴霊たちがその軛から解き放たれていく。 それをディーナと健は音響室の前のアーティストロビーから見送っていた。 「怖い時間はもう終わったんだ。またこの世界に戻って来い」 紙幣や線香を供える。壱番世界中国ではこのように鬼=幽霊を弔うらしい。 「あ……」 アトリウムのガラス張りの壁の向こうに大輪が咲くのが見えた。 「花火?」 ディーナが首を傾げる。 「誰が花火なんか?」 音響室から出てきたハーデが首を傾げた。 「確か、あの辺りの探索をしているのは……」 ディーナが記憶を辿って苦笑を滲ませる。 「帰りのロストレイルも賑やかになりそうだな」 ハーデが笑った。
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