福岡市営地下鉄は、空港線、貝塚線、七隈線の三つの路線からなる。 福岡市の中心である天神エリアから東西にのびる空港線は、その名のしめすとおり東の終着駅に福岡空港を配し、空の旅人たちの客足がたえない。北へとのびる貝塚線は、放生会(ほうじょうや)で有名な箱崎宮前などを経て、最終的には西日本鉄道貝塚線と連結する。近年開通した七隈線は、南の終点である橋本駅にいたるまでに、福岡大学、九州大学六本松地区などの学舎をかかえ、通勤客だけでなく、おおくの通学客をもはこんでいる。 一日平均30万人もの人々が、主要な交通手段のひとつとして、この地下鉄を利用していた。 そして、この福岡市営地下鉄こそが、飛田アリオとその仲間たちが関わることになる、陰鬱たる事件の舞台となる。 西新駅――空港線の西端である姪浜駅からかぞえて三つ目の駅。 始発電車にそなえ、年配の駅員が事務室を出たとき、彼の頭のなかはちょっとした疑問でいっぱいだった。引き継ぎ事項として、昨夜の担当職員が業務日報にしるしていた、とある出来事が原因だ。 昨晩、空港駅方面からやってきた最終電車を降りた乗客が、いっせいに係員のもとへ押しかけたというのだ。しかも、用件はすべておなじ。 ――電車内で切符をなくしたので改札をとおれない。 全員に聞き取り調査をしたわけではなかったが、13名いた降車客のなかには、切符を財布にしまっていた者もいたし、腕時計のバンドにはさんでいたという者もいたらしい。 しかし、そういったパターンは例外的で、常識的に考えれば、彼らのほとんどが上着やズボンのポケットに切符を入れておいたのではなかろうかと、年配の駅員は考えた。 それらがいっせいになくなるとはどういうことだろう。 駅を出る際に切符が見つからない。さほど多いわけではないが、ありがちなトラブルだ。だが、それが乗客全員となってくると、長い駅員人生のなかでもお目にかかったことがない。 訴えをうけた係員も、この奇妙な現象に最初は面食らったらしい。そしてすぐに常識をはたらかせ、いたずらではなかろうかと乗客を疑ったようだ。なんらかの理由で、列車内で結託した13名が口裏を合わせているのだ、と。 ところが、切符をなくしたと主張する乗客たちは、どう見ても嘘をついているようには思えなかった。尊大な態度で電車内の治安にクレームをつける者もいれば、ひたすら頭をさげて謝罪する者もいた。13名もいれば、ひとりくらいは真に迫った演技ができない者もいるだろう。まさかどこかの劇団がしかけた、大がかりないたずらということもあるまい。 決定的だったのは、泥酔した客もいたという点だ。千鳥足でコンコースを歩くその男性は、かなりアルコール臭がきつく、演技ができるような酔い方ではなかったらしい。 彼らは本当に切符をなくしたのだ。 状況の異常さから、だいぶごねた客もいたようだが、結局は13名全員に再収受の手続きをとってもらい、再度料金を受け取る処理をしたとのことだった。 いったいなんだったのだろう。 ありえそうでありえない事件に、どことなく薄ら寒さをおぼえる。変わらぬ日常に、突如ぽっかりと空いた暗い穴蔵を覗き込んだ心地だ。 べつだん気にかけたからといって、なにかしら人生に影響をあたえるようなことではなさそうだったが、頭のすみにひっかかってとれない。もどかしさを振り払えないまま、年配の駅員は動き出したばかりのエスカレーターで地下2階のホームへと降り立った。 彼が違和感を感じたのはそのときだ。 姿勢をひくくし、目をほそめる。 なにかが通路に落ちていた。 きちんと清掃されているはずの通路に。 彼には一瞬、それが無生物に思えた。たとえば、ぬいぐるみ。 近づくにつれて、生々しい臭気がそれを誤認だとわからせる。「だれがこげなこと……」 駅員はこみあげる不快感に口元をおさえた。 まっしろな床面に、薄汚れた毛並みのネズミの死骸がころがっていた。 死骸。いや、頭部といったほうがより正確だ。 ただネズミが死んでいるだけでは「だれが?」などとはつぶやかない。切断、もしくは引きちぎられた頭だけが、いくつも並んでいたのだ。それらは奇妙な文様を描いているようにも見えた。 駅員は時計を確認し、始発の時間が間近であることを知ると、あわてて掃除用具を取りに戻った。客が目にしたら、すくなくとも良い気分にはならないだろう。今の自分と同じように。 もしかしたら、彼は無意識にこの異様な現場から早く逃げ出したかったのかもしれない。 ふたたび無人となったホームで、ネズミは物も言わず、うつろな眼球を宙にむけている。 ぽっかり空いた口腔内に、押し込まれている紙切れがひとつ。 それが昨夜、最終電車の乗客がなくした切符だということに駅員が気づくのは、13個のネズミの頭をゴミ袋に放り入れるときだ。 そして、これと同じ現象が、昨日は隣接する藤崎駅で、一昨日はさらに隣の室見駅で、三日前には姪浜駅で起こっていることを、彼が知るのは午後のことだった。「なんだって?!」 飛田アリオは世界司書の言葉にすっとんきょうな声をあげた。「ごめん。もう一度言ってくれる?」 かすかに眉をひそめたその世界司書――リベル・セヴァンは、こほんと咳払いをし、ことさらゆっくりと導きの書のしめす内容をくりかえした。「壱番世界内にファージが侵入した模様です。場所は、日本と呼ばれる島国の南端にある、福岡と呼ばれる地域です」「日本……今度は九州かよ」 少し前、北海道にディラックの落とし子が侵入したときも驚いたが、まさか今度は九州とは。日本ばかりが怪獣に襲われる根拠をしめした映画があったが、タイトルはなんだっただろう。 アリオが詮無いことに思考をめぐらせていると、注意をうながすようリベルが再び咳払いをした。「ファージがどのような生物に寄生したかまではわかっていません。ですから、みなさんにはまず侵入したファージを探し出してほしいのです。ファージ寄生体の正体が判明してから、その対処法を考えたいと思っています」「だけど、探すって言ったって、福岡ってけっこう広いよなぁ」「そうえいば貴方は壱番世界の出身でしたね」「え? う、うん」 なんだか自分が物知り顔をしてしまったようで、アリオはすこし頬が赤くなるのを感じた。 リベルは気にした風もなくつづける。「手がかりがなにもないわけではありません。現地ではすでに奇妙な事件が起きているようですから」 そう言うと、彼女は福岡市営地下鉄で起きている一連の不可思議な出来事を語って聞かせた。どうやらそれがファージの仕業のようだということも付け加える。「都会の地下鉄内か。だったら、寄生された生物も限られてきそうだけど……結局は、壱番世界に行って調べてみるしかないよな」 このときアリオは、壱番世界出身である自分の知識を活かせるかもしれないという期待感と、久しぶりに見慣れた世界に帰還できるという高揚感に胸を躍らせていた。 彼はまだ、世界の浸食と戦うということがどういうことであるのか、本当の意味で理解できていなかったのだ。
<1> 「むぅ! ここが壱番世界ッ! 飛田殿の故郷ッ!」 イフリート・ムラサメは、日本国は福岡県福岡市に到着するなり兜の奥のモノアイを妖しく光らせた。その後、電源が落ちてしまったかのように数秒間沈黙する。 再びモノアイが煌めいたとき、分析は終了していた。 「大気成分、良しッ! 半径500メートル以内に武器反応、無しッ! 案ずることなかれ、飛田殿。貴殿は拙者が護ってみせるッ!」 背中のハルバードを手にとり、無意味に地面に突き立てた。 「あ、いや。イフリート、さん? ええっと、あんまり目立つようなことはしないほうがさ、いいと思うんだけど……」 飛田アリオが周囲の目を気にしながら、イフリートの腕をがしっとつかむ。 イフリートは低くうなると、あらためて同行者たちを確認した。 飛田アリオ――壱番世界出身の、いわゆるコンダクター。 佐上宗次郎――こちらもコンダクターであり、当然この世界になじんでいる。 そして、翁――彼は他世界の出身者ではあったが、元いた世界が壱番世界に似ていたようで、自然な感じで風景にとけこんでいた。 「し、しまった! どう考えても、拙者が一番目立っている!?」 急におろおろしだした侍型ロボットに、アリオも宗次郎も乾いた笑いをうかべるしかない。チケットの効力――旅人の外套があるため、すましていれば問題ないのだが。 「飛田殿! 佐上殿!」 右と左それぞれの肩をイフリートにつかまれたアリオと宗次郎は、当惑して顔を見合わせた。 「拙者がスーパー怪しまれたら、『自分のロボットなんです!』と誤魔化してくれ!」 「ちょ、それ無理!」 アリオがぶんぶんと首をふれば、宗次郎は「猫型なら可能だったのに。残念だなぁ」などと楽しそうにしている。 宗次郎の言葉を真にうけ「拙者には猫型モードは搭載されておらん」と本気でくやしそうにしているイフリートの背中を、うしろからつつく者がいた。 「オレのこと、忘れてねぇか?」 ばちこーんとウィンクするのは人狼のルイスだ。ロボットにまですっかり忘れ去られていたが、今回の調査には彼も参加していたのだった。 「目立ってるのはおまえだけじゃねぇぜ。オレだって狼型になりゃあ……」 そう言って、ただでさえジーンズとTシャツという格好なのに、シャツをめくりあげさらに薄着になろうとする。 「ルイスさん! 壱番世界には、っていうか日本には公然わいせつ罪ってものがあって――」 宗次郎もさすがに蒼白となってルイスを止める。それでも「え? だって、脱がないと狼型になれないじゃん」ときょとんとしている彼を、アリオも止めにはいった。 結局、姿形ではなく、その大騒ぎする様子から現地人の興味をひいてしまっていることに、彼らは気づいていない。 「これはこれは、先が思いやられるのう」 年格好に似合わぬ口調で、翁がだれにともなくつぶやいた。顔を隠した能面の裏にどことなく楽しそうな響きが見え隠れしているところから察するに、彼もまたまんざらでもないのかもしれない。 この数時間後、事件の真相にちかづくにつれて、この穏やかな雰囲気は霧散してしまうのだが…… <2> 一行が福岡市に到着したのは、午後3時頃のことだった。 リベルからの情報によると、今朝方ネズミの死骸が発見されたのは唐人町駅とのことだ。空港線の西端である姪浜駅からかぞえて五つ目の駅舎だ。 彼らは問題の唐人町駅まで町を軽く散策することになった。 「九州は修学旅行で一度行ったことあるけど、福岡は初めてだな」 福岡ヤフードームを遠く眺めながら、宗次郎は感慨深げにつぶやいた。 「おれも初めてだよ」 アリオがにっこり笑う。 ふたりは同じ壱番世界の出身者として、どことなく気持ちがうわついていた。ファージ寄生体をさがしにきたというよりも、なつかしい故郷に帰省したような気分だ。 「おいおい、ふたりとも。任務を忘れちゃいけねぇぜ」 そう言うルイスが一番物見高い性格のようで、ちょくちょく寄り道をしてはアリオと宗次郎に疑問をぶつけていたのだから、的はずれな発言だ。 「まぁでも、悠長に観光気分にひたってられないのはたしかだよね」 宗次郎は唐人町駅の入口へと歩をすすめながら、現状を整理しだした。 「今日の朝、この唐人町駅でネズミが発見されたんだよね。だったら、今までのパターンからすると、今日の夜おそくに最終電車のお客さんが切符をなくすのは『大濠公園駅』ってことになるよね」 これまで例外なく、最終電車での切符紛失がおこった次の日に、『その』駅でネズミの死骸が見つかっている。となれば、今晩、『大濠公園駅』で切符が消え、明日朝、大濠公園駅にネズミの頭部があらわれると考えるのがすじだ。 「その最終電車ってやつに乗っちまうのが手っ取り早いだろうけどさ。それなりに準備ってものも必要だぜ。どんな生き物にファージがくっついてるかわからねぇんだろ。だったら、なおさらだ」 ルイスにしてはまともなことを言う。 「おれは――ネズミなんじゃないかと思うんだけど、どうかな?」 アリオの推論に「ネズミにファージが寄生していると?」とイフリートが首をかしげた。 「ほら、ファージってのは同じ種族っていうか、同じ生き物をあやつるだろ?」 ディラックの落とし子の影響で北海道山系の野生動物がファージ化してしまったとき、たしかに同系統の動物をあやつっていた。 「だから、今回はファージに寄生されたネズミが仲間をあやつって――」 「自殺させてるってこと?」 宗次郎の問いかけに、アリオは神妙にうなずいた。 「もしかしたら、お互いに殺させてるのかも」 ネズミたちが殺し合う場面を想像したのか、アリオは気持ち悪そうに口元をゆがめた。 「だったら、切符の消失はどうなるんだよ?」 ルイスが問題点を指摘し、アリオは口ごもった。 「そ、それは……ネズミだったら小さいから切符を盗めるかも……」 言い訳がましく主張してはみたものの、さすがにアリオ自身にも無理があることはわかる。 「オレもファージが同種族をあやつってるって話には賛成だぜ」 ルイスはそれなりに傾斜のきつい階段をおりながら、やはりきょろきょろしていた。行き来する人間たちからして興味をひくらしい。 「だけど、今回の事件はなんというか――臭うな」 鼻をひくひくさせる。彼は人狼だ。実際になにか臭っているのかもしれない。 宗次郎は階段をのぼってくるサラリーマンをよけながら言った。 「今までもファージ型の落とし子は壱番世界で発見されてたけど、宿主のどれもが昆虫や動物だった。北海道だってそうだったし。でも、この事件はちょっと毛色が違う気がする。鼠の口に切符を入れて、頭だけを並べるなんて……どうしてそんな行動をおこなうのか気になるし、なによりそれって人工的な力が加わったとしか思えないよね?」 ふたりはそれきり黙ってしまった。つぎにくるべき言葉を、口にするのをためらっているようだ。 階段をおりきって券売機が視界にはいってきたころ、ついに耐えきれずアリオが訊いた。 「宗次郎、ルイスさん。だったら、ファージはなにに寄生してるっていうんだ?」 「……まだ現場すら調査してねぇんだぜ。証拠がすくなすぎて推理にもなってやしねぇよ」 ルイスが肩をすくめ、宗次郎もうなずいた。 アリオはなっとくいかず眉をひそめた。そのまま振り返り、話しかける。 「翁さんはどう思い――」 呼びかけは地上へとぬける階段通路にむなしく消えた。一行の最後尾にいたはずの翁がいなくなっていたのだ。 「翁殿なら先に行ったぞ」 イフリートがかわりに答える。各種機械的なセンサーを備えた彼だからこそ感知しえたことであり、アリオも宗次郎も、ルイスでさえも、翁の行動にまったく気づかなかったのだった。 翁は会話に夢中になっている面々をふらりと追い越し、軽い足取りでコンコースにおりたった。どうやらイフリートをのぞいて、だれも彼の行動に気づいた者はいないようだ。 翁の素顔は暗殺者である。気配を絶つ術には長けていた。もっともマシンセンサーだけは誤魔化せなかったようだが。 「殺すことができぬモノは専門外じゃからのう」 多少なりとも矜持を傷つけられたのか、言い訳じみた独白をおこなう。 「つぎは機械をも欺く術を考えるかの」 軽い調子だが、どうにも本気のようだ。そして、翁なればそれを可能にするだろうと思われた。 彼が単独行動をとったのには理由があった。彼なりにみずからの能力をつかって事件を調査しようと考えたのだ。 まずはネズミの頭部を見つけた、もしくは見た駅員をさがさなければならない。翁は、券売機のところで客の応対をしている係員に背後からちかづくと、とんと相手の影を踏んだ。 一瞬、係員の体が硬直したが、話している客も気づかない程度のものだ。 運が良いとはこのことだろう。翁のなかに流れ込んできた係員の記憶からすれば、この男こそがネズミの第一発見者だった。 翁の特殊能力は他人の影を盗むもの。盗んだ影にあたえた影響は、本体にもおよぶ。つまりは、影を殺せば本体も命をうしなうのだ。これぞ、翁の二つ名である『影法師』の由来だった。 そして、盗んだ影から本体の記憶を覗き見ることもできるのだ。 係員の記憶によると、ネズミを見つけた際の最初の感想は「ああ、これが噂の」といったものだった。これだけ連続して同じ出来事が起これば、さすがに地下鉄職員のあいだでは有名な話になっているのだろう。つぎに「たしかに気味が悪い」だ。 係員自体は影を盗られたなど思いもせずに、券売機から去って行く。翁は音もなくエレベーター付近まで移動した。 彼はひととおり今朝からの記憶を流し見たあと、係員の視角映像から現場の分析をはじめた。 ネズミの頭部はたしかに13個、事前の情報どおりだ。この市営地下鉄空港線の駅が全部で13個あることとなにか関連があるのだろうか。並べ方は規則的にも思えるし、不規則のようでもある。意味のある文様を描いているのかもしれないが、すくなくとも翁の持つ知識からは判断がつかなかった。そのあたりは壱番世界出身のアリオや宗次郎に訊ねてみなくてはなるまい。しかし、この係員の記憶から、駅員たちは死骸の配置に意味を見出せないでいたこともわかっていた。 なにかしらの違和感やそういったたぐいのものが探れたらと期待していたのだが、駅員たちからすればむしろこの出来事は違和感だらけであるらしい。 ここで翁は駅員――普通の人間では入手困難な情報をえた。ネズミの死骸を始末するビジョンから、傷口を観察することができたのだ。職業柄、彼は生物の体について詳しい。傷口ともなればなおさらだ。 それは引きちぎられた跡に近かった。すくなくとも刃物のたぐいで断たれたものではない。ネズミ同士が互いの首筋を噛み切ったにしても、歯形がのこるはずだ。まさしく強い力でひっぱられたのだ。 彼にしてはめずらしく、翁はうすら寒いものを感じた。生き物の害意とか憎悪とかいうマイナスの感情ならば、日常的に触れている。この死骸から伝わってくるものは、そのようなものではなかった。 これはそう、未知、だ。 ネズミの殺され方にも並べられ方にも、おそらくなにかしらの意図がこめられているはずなのに、なにも受け取ることができない。 理解できないものは、知的生命にとって恐怖の対象だった。 翁は我知らず能面のすきまから汗をぬぐっていた。身の周りにまつわりつく不快な空気を散らすように、かぶりをふる。 つぎに収集すべき情報としては、切符に関するものだろう。ただし、昨晩勤務していた職員はもう帰宅してここにいない可能性が高い。間接的に手に入れるしかない。 翁は踏んでいた影から足をどけ、係員のもとに黒い塊がもどっていくのを確認すると、またほかの駅員の影をもとめて改札口のほうへ歩きだした。 「拙者には壱番世界のことはウルトラわからん! しかも、なににファージが寄生しているのやら、スーパー見当がつかん」 イフリートは堂々と宣言すると、駅全体をスキャンするため、アリオと短い旅に出た。コンコースを端から端までめぐる旅だ。 ルイスと宗次郎はなにやらファージについて話し合っている。ふたりには共通の推論というか、懸念があるらしく真剣そのもので、イフリートとアリオは、ルイスから頼まれたのもあったが、どちらかというと居心地がわるくなりスキャニングを買って出たのだった。 「赤外線その他のセンサーにはとくに反応がないな」 モノアイの光を四方に投げかける。彼の内蔵する機器には異常は映らないようだ。 そんなイフリートの隣で、アリオは浮かない顔をしていた。 「飛田殿、どうした? 元気がないようだが」 イフリートにのぞきこまれ、アリオはバツが悪そうに頭をかいた。 「おれさ、この世界の出身だし、もっと役に立てるかと思ってたんだ。でも、ファージがネズミに寄生してるって考えもなんか違うみたいだし。イフリートさんみたいに、調査に役立つこともできないし……」 軽くため息をつくアリオを、イフリートは足をとめて真正面から見すえた。 「そのようなことはないぞ。翁殿もルイス殿もこの世界では飛田殿のことをアテにしているはず。拙者もだ。佐上殿とて年長の飛田殿のことを頼りにしておろう」 「そう、かな?」 イフリートは力強くうなずいた。 「飛田殿は飛田殿にしかできぬことをやればよい」 アリオはぐっと握り拳をつくった。 「よし、おれもなにか奇妙なことがないか注意深くまわりを観察する。壱番世界の常識から考えて奇妙なことなんて、センサーにひっかからないんだし」 その後、ふたりは文字通り目を皿のようにしてコンコースを調べたが、結局なんの収穫もないままルイスたちのもとにもどることになった。 ルイスと宗次郎は一番安い切符を買い、改札口をぬけると、エスカレーターを利用して地下2階のホームへと移動した。実際に切符とネズミが置かれていた現場を視認するためと、地下鉄電車を目にしたことがないルイスが車輌の様子を知るためだった。 「へぇ、こいつが壱番世界の電車ってやつね。ロストレイルよりは小さめか」 「うん、何輌編成かによっても違うけど、基本的にはそんなに大きくないよ」 ルイスがどっかりと待合いのためのベンチに腰をおろす。宗次郎も横に座った。 「こりゃあ、ますます思うんだけどさ。これだけ狭い車内なんだ。人間以外の生物は異様に目立つよなぁ」 あえて答える必要などないのだろう。宗次郎は肯定の意味で沈黙をたもった。 「13人の乗客全員から切符を盗むとしたら、最高で13回は盗む現場を目撃できるはずだぜ。本人が気づかなくても他人の目ってもんがあるんだからよ。これまで姪浜、室見、藤崎、西新の4つの駅で盗みがおこなわれてるんだから、13×4で52回ってわけだ。それなのに、1回も窃盗の現場が目撃されてねぇのはどうしてだ?」 ここからは完全にルイスの推測だった。なんの証拠もない。だからこそ、みんなの前で話してしまうのはためらわれたのだ。 ただ、宗次郎もまた同じ仮説にいきついているような気がしたので、先をつづけることにした。 「状況的には誰かが気づくはずなのに、誰も気づいてねぇ。もしかしたら、気づけなかったんじゃねぇか? つまりは、乗客全員が気づけない状態になっちまってたってことだ。たとえば、意識を奪われちまったり……」 そこでいったん言葉を切る。 「……あやつられちまったり」 宗次郎は駅の階段をおりる際に、こう言った。 「鼠の口に切符を入れて、頭だけを並べるなんて……どうしてそんな行動をおこなうのか気になるし、なによりそれって人工的な力が加わったとしか思えないよね?」 人工的とはつまり、あやつられた人間が実行犯だということにほかならない。この点で、ルイスと宗次郎の推理は一致していたのだ。 しかし、この流れで論理を組み立てていくならば、あるひとつの結論がうまれる。それは、特に宗次郎とアリオにとっておぞましい結論だ。 彼らはその起こりうる最悪の結末を胸のうちにしまっておくことに決めた。推論のままアリオや翁たちに話して、逆に志気が落ちることを心配したのだ。ただし、そのときになってあわてずにすむよう、ルイスと宗次郎でできうる限りの対策を講じておくことにした。 <3> 午前0時過ぎの最終電車に乗り込むべく、アリオ、宗次郎、翁、ルイス、イフリートの5名は『赤坂駅』のホームにいた。昼間入手した情報を整理した結果、真相を究明するには、結局のところ電車に乗り込むしかないという意見に帰結したのだ。 お互いばらばらになってしまったときのため、イフリートが全員に無線機をくばった。耳にイヤホンをつけ、本体は胸ポケットなどにしまうタイプだ。トラベラーズノートのエアメールは筆記せねばならないので時間がかかってしまう。これなら即座に連絡をとることができた。 アリオは拳を開閉させて、トラベルギアである『カストルとポルックス』の感触をたしかめた。事と次第によっては使うことになるかもしれない。セクタンのポラすけもいつでもパスホルダーから出せるようにした。 宗次郎も『シャドウ・シーカー』の踵を鳴らして戦闘体勢だ。とはいえ、彼はファージ寄生体と遭遇しても深追いするつもりはなかった。彼が想像する最悪の相手なら、戦う気力さえわかないはずだ。それに心配事もある。トラベルギアの力をつかって素早く退却する心づもりだ。 「ふたりとも、無理は禁物だぞ」 イフリートもまたシールドとハルバードで物々しく武装していたが、今度はだれも止めようとはしなかった。どうせホームに他の客はいない。それに武具が必要となる可能性は高かった。 「さて、鬼が出るか蛇が出るか」 翁の飄々とした口調にも、隠しきれない緊張感がただよう。さすがの翁も駅員たちの記憶から受けた、あの無機質で冷たい印象を、胸の中からぬぐいされずにいた。 最後に、いつもなら饒舌なルイスが寡黙そのものだった。これは雰囲気のせいでもなんでもなく、単に狼型に変身しているため言葉がしゃべれないのだ。連絡手段が無線である以上、不便な選択としか考えられないのだが、本人にはなにかしらの意図があってのことのようだった。 各自、自分の分の切符はしっかりと保管していた。切符が狙われることだけは確かだった。 勝負は1分―― 『赤坂駅』から『大濠公園駅』までの移動時間は1分しかない。なにかが起こるとしたら1分の間にちがいない。 到来を告げる音楽と放送が流れ、彼らの眼前に、最終電車がすべるように姿をあらわした。黄色い光を流しながら、いくつもの窓が水平に流れていく。 防護柵が自動で開き、それにあわせて電車の扉も開く。最初にイフリートとルイスが、つづけて宗次郎とアリオが、しんがりに翁が、車内に足を踏み入れた。この並びには、宗次郎とルイスのある狙いがあったのだが、翁たちは知らされていない。 5名はなんの迷いもなく電車の進行方向へと車内を進んだ。この車輌に人がいないことは乗り込む前から窓を通してわかっていた。それどころか、このまた隣の車輌にも乗客はいない。 車輌が到着したときに目を凝らし、先頭車輌に人が集まっていたのは確認済みだった。 ぐんと揺り動かされる感覚に、体がかしぐ。電車が『大濠公園駅』に向けて出発したのだ。 ――あと59秒。 カウントダウンが始まった。 先頭車輌に最初に飛び込んだのは並び順でルイスだった。そのまま入り口で足を止めたため、後続のイフリートはつっかえてしまった。そのため、残りのメンバーはルイスとイフリートの体のすき間から車輌内を見るしかなかった。 「え?!」 アリオの口から驚きの声がもれる。 どんな生物がファージに寄生され待ちかまえていても、心の準備はしてきたつもりだった。ネズミだろうが、ネコだろうが、イヌだろうが。だが、これは完全に予想外だ。 そこには乗客だけがいた。サラリーマン風のスーツ姿の男性が多かったが、中には女子大生らしき客もいる。ざっと数えてみたら、13人いた。これはやはり事件が起きるときの人数だ。 「……やっぱり」 宗次郎は予想が的中した旨の言葉と同時に肩を落とした。横顔はなんとはなしに色が悪い。 宗次郎とルイスはほかのメンバーに自分たちの推理を伝えていなかったため、アリオにはなんのことだか理解できない。ただ…… 奇妙だ。 乗客たちは無表情に立ち尽している。だれひとり座席にすわっている者がいない。 奇妙だ。 どこから取り出したのか、ひとりひとり手にネズミをつかまえている。 奇妙だ。 皆がいっせいにネズミの首をつかみ、そして―― アリオは目を背けた。 「なるほどのお。これならたしかに引きちぎられた傷跡になる。それに……」 あやつられた人間のつくった傷なのだから、無機質で意図の感じ取れないものになって当然だ。 そこで翁はルイスが狼型になっている意味を素早く察した。宗次郎に目をやると、異様な光景にショックを受けた様子ではあるものの、みずから後ろにさがろうとしている。事態の危険性を理解している証拠だ。彼とルイスがなにかしらの推測のもと話し合っていたのは、このことだったのだろう。 アリオはというと、顔色悪く、呆然としている。 翁はアリオの首根っこをひっつかむと、うしろへ引っ張った。 「わっ! お、翁さん?!」 「アリオ殿、ここはさがるのじゃ。あやつられたくなかったらの」 ようやくここでアリオは思い至った。 乗客たちはあやつられているのだ。 誰も切符を盗まれたことに気づかないはずだ。乗客が自分で差し出していたのだから。 誰もネズミの死骸が並べられるところを目撃しないはずだ。乗客が自分で並べていたのだから。 乗客があやつられている。駅員だってあやつられていたかもしれない。 だとしたら、自分だってあやつられてしまうかもしれない。 同じコンダクターである宗次郎も。 もしかしたら、壱番世界の人間によく似た翁も。 この場で安心して動けるのは、ロボットであるイフリートと狼型であるルイスだけだった。これこそが、ルイスが人型で電車に乗り込まなかった理由であり、ルイスとイフリートが前衛を務めた理由だった。 「ガウッ!」 ルイスが呼びかけると、ロボット侍は「うむ! すべて拙者のHDDに動画として保存中だ!」と応えた。全員があやつられているのか、この中に黒幕がいるのか、どちらにしろ映像を持ち帰ることの意味は大きい。 そのとき、乗客たちの光を失った瞳が、いっせいにルイスたちに向けられた。血まみれの手に持ったネズミの口腔に、自分たちの切符を押し込みながら、近づいてくる。ゆるゆるとした歩行だったが、意外にも足元はしっかりしている。邪魔者を排除しようということだろう。 「あやつられておる壱番世界の人間を傷つけるわけにはいかんぞ!」 これにはイフリートも矛を収めるしかない。 ルイスが息を吸い込む。推測が的中した場合、あやつられる可能性のある宗次郎たちはすぐさま撤退し、ルイスが時間をかせぐ予定だった。 狼の顎から雄々しい咆吼がほとばしった。途端に、どこからともなく風が逆巻き、乗客たちを押し戻す。ルイスの風を操作する能力だ。 「もうすぐ1分が経過するよ!」 後方の車輌に避難した宗次郎が叫んだ。 『大濠公園駅』に着いたらすぐに車外へ逃げ出す。もはや敵の尻尾はつかんだ。彼らの任務は成功したようなものだ。 ところが、そこで急に何かがルイスの腹部に巻きついた。直径5センチ程度の触手のようなものが―― アリオを含め、全員の視線が運転室に吸い寄せられた。運転室と客室との間のドアが開けはなたれ、触手はそこから伸びていたからだ。 運転手がこちらを凝視している。激しい憎悪の燃えさかる双眸だ。しかし、その色彩は真緑。ふつうではありえない。なにより触手は、彼の左腕だった。 「ファージの寄生体」 翁がつぶやいた一言に、アリオはびくりと身を震わせた。 ファージに寄生された生物は、同じ種族をあやつる――アリオ自身が言っていたことだ。もはや結論はひとつしかないではないか。 「う――うわああああ!」 アリオは翁をおしのけ、無意識のうちに飛びだしていた。ポルックスに力をこめて、ルイスと運転手をつなぐ腕をなぐりつける。エネルギーの光が炸裂したが、腕触手はぐねぐねと曲がりくねって衝撃を吸収しているようでダメージは見受けられない。 そのアリオにもう一本の触手がおそいかかる。運転手の制服を破って肩口から生えた三本目の腕だ。 「飛田殿!」 イフリートが攻撃をシールドで受け止め、腰の脇差しでルイスに絡みつく腕を斬り裂いた。紫とも黒ともとれる体液がしぶいた。 宗次郎がものすごいスピードでアリオに駆け寄った。シャドウ・シーカーが地面との摩擦で淡い白煙をあげる。 「アリオ、つかまって!」 宗次郎がアリオと手をつなぐうちに、翁がするすると躍り出て、13名の乗客たちの影を踏んでいった。影を盗まれた人々は、身動きできなくなる。 「今のうちじゃ!」 ジャスト1分―― ちょうどこのとき、電車が止まった。運転手は邪魔者を排除する行動に出つつも、職務を――いや、個人的な目的を果たすことを忘れなかったようだ。片側だけで攻撃してきたのも、運転をやめられなかったせいだろう。 一行は、開いたドアから車外にまろび出るように撤退し、そのまま地上へと通じる『大濠公園駅』のエスカレーターを走り抜けた。駅にいる係員から、ほかの乗客まで、すべての人間がうつろな眼差しでそれを眺める。すべてあやつられている。 エスカレーターのうえから、振り返ったイフリートのカメラとマイクが最後に記録したのは、ホームにネズミの頭を並べて置く13名の乗客たちの姿と、宗次郎の暗いつぶやきだった。 「肉体を滅ぼさなきゃ落とし子は消滅しないみたいだし。寄生されたのが人間じゃないことを祈ってたんだけど……」 今後、誰かがこのファージ型落とし子を、肉体ごと滅さなければならないのだった。
このライターへメールを送る