インヤンガイから戻ったアリッサは、執事に向かって言った。「司書たちを集めて」「かしこまりました。……インヤンガイで何か?」「……おじさまの行方がわかったかもしれないの」 執事のおもてが、はっと引き締まる。 世界図書館の本来の館長である人物が、消息を断ってからすでに6年が経過していた。 今までも、手がかりらしきものがなかったわけではないが……今回は、ほんの数カ月前の目撃情報であるという点で、アリッサたちの注意を引くものではあった。「というわけで、みんなには、インヤンガイに向かってもらいたいの」 アリッサはロストナンバーたちに言った。「行き先は『美麗花園(メイライガーデン)』っていう場所。名前はきれいだけど、今は人間は誰も住んでいない廃墟の街区よ。2年前から、ここは『暴霊域』っていう生きた人間はとても立ち入れない地域になってるの。おじさまがそんな場所に本当にいるのか、いるとしたらどうしてなのか……誰の『導きの書』も手がかりはくれなかったわ。でもーー」 危険は承知で、この廃墟の街の探索をしたい、それが世界図書館からの依頼であった。 街区は広いため、いくつかの小集団に分かれて探索を行う。現地までは、今回はロストレイルで乗り付けることとなった。地下鉄の廃線が美麗花園の地下にも伸びているという。「各チームの探索ポイントについては、担当の司書さんから説明してもらうね。それじゃ……、お願い」 ビヨォオォオオオォォォ・・・・・・ 時折吹き付ける風が割れた窓を揺らし、不気味な旋律を奏でる。 誰もいないはずの病室でカシャン、となにか硬質なものが落ちる音がした。それはふわりと浮き上がり所定の位置へと戻される。「いけないなぁ、また汚れてしまった。消毒しておかなきゃ大変だ・・・・・・」 白衣を着た男性はそう呟くとどこへとともなく消えてしまった。 ――そう、消えてしまったのだ、跡形もなく。 よく見ると彼の姿が透き通っている事がわかっただろうが、今は誰も彼の姿を目撃するものはいなかった。 耳を澄ませば時折人の声のようなものや物音が聞こえる。 ゴゴゴゴゴ・・・・・・ そして建物全体を揺るがす振動。 この病院はいつの間にか迷路のようになっていた。「まったく物好きだな、君達も」 その世界司書は飴玉を口に運びながら呆れたように吐き捨てる。「君達に探索して欲しいのは病院だ。病院の中には複数の暴霊が潜んでいると思われる」 ガリッと飴玉を歯で砕く。「その暴霊共をかいくぐりながら探索してもらいたい。今回はいつにもなく危険な任務だから、気を引き締めて行けよ」 そう言うと手元の籠を引き寄せロストナンバー達に差し出す。「餞別だ、持って行け」 いつもはこんな事などしない世界司書の戸谷千里だ。それほど危険だという事か。 集まったロストナンバー達に緊張が走った。!注意!イベントシナリオ群『死の街へ』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『死の街へ』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
ここ、美麗花園(メイライガーデン)と呼ばれていた街区は、二年前の原因不明の霊力災害が原因で封鎖されたのだと聞いた。 「こんな所に本当に館長が……?」 時折吹き荒ぶ風に艶やかな黒髪を弄られながら流鏑馬明日(ヤブサメ・メイヒ)が言う。 この場所へ向かう道すがら、周りの様子を観察していたのだが、とても生きている人間がいるようには思えなかった。それほど街の様子は荒廃していた。 明日は館長の身を案じ、今回の探索に参加したのだが…… 「まさか、病院の探索になるなんて……。これも縁なのかしら、ね……」 自らの出身世界の病院に縁(ゆかり)のある人物に思いを馳せ、微苦笑する。 今、彼等は一つの病院を目の前に佇んでいた。個人病院にしては規模が大きく、立派な建物だった。おそらく総合病院に次いで主要な役割を果たしていたに違いない。 しかし―― 「霊力災害に見舞われたわりにはキレイだわね」 幼い顔立ちの中にもどこか妖艶めいた雰囲気を持つ闇姫(ヤミヒメ)が建物の外観を見回して感想をもらす。 この病院は隣接する他の建物と相対して被害が少なかったのか、目立った損壊場所が見受けられなかった。 「そうですね。ここには奇妙な違和感を感じます。油断は禁物、といったところでしょうか」 妙な胸騒ぎを感じ、口を挿んだのは顔の右半分を白皮の眼帯で覆ったヴィヴァーシュ・ソレイユだ。 「世界司書の話では、この中が迷路になっていると言う事だったな。対策を練っておかないと少々厄介だろう」 「迷路の対策も必要だとは思うけど、探索方法も話し合っておいた方がいいんじゃないかしら?」 ロディ・オブライエンの言葉に明日が他の留意点も指摘する。 「そうだな。何か良い案でも?」 「良案というか、提案なんだけど……。病院の中では二人一組で行動するというのはどうかしら? 単独行動では多大な危険が伴うと思うし、全員一緒にというのは効率が悪いように思えるわ。無線機を持ってきたから、これで連絡を取り合えば不都合はないはずよ」 そう言って明日はヒップバッグの中から無線機を取り出す。 「準備がいいわね。……でも、私は一人で行かせてもらうわ。他人に指図されるのは嫌いなの」 闇姫はそう言うとさっさと病院内へ向かってしまう。 「待って! 単独行動は危険よ」 明日の制止の声に振り返りもしなかった。 「私が行きましょう。無線機を」 ヴィヴァーシュが明日の方へ手を差し出して促す。 「お願いね」 無線機を渡しながら明日が言うとヴィヴァーシュは無言で頷き、闇姫の後を追う。 「やれやれ、先が思いやられるな」 「……そうね。でも、最善を尽くすまでよ。行きましょう」 「ああ」 病院は来訪者を静かに飲み込み、大気は不気味なうねりを上げる。 「あら、わざわざ追い掛けて来たの? ご苦労なことね」 自身の背後に気配を感じ、振り返った闇姫は言葉をヴィヴァーシュに投げる。 「ここは何かがおかしい。あの女性も言った通り、単独行動はなるべく避けた方がいいでしょう」 おかしい――とは言ったものの、今のところ病院内に変化は見られなかった。 「心配は無用よ。私は真闇の姫、インヤンガイごときの闇に脅える必要はないわ」 ヴィヴァーシュの言葉を闇姫はぴしゃりと撥ねつける。取り付く島のない闇姫の態度にヴィヴァーシュは軽く溜息を吐く。 「わかりました。では、私は勝手に貴女の傍に仕えましょう。それなら問題ありませんね?」 「好きにすればいいわ」 それだけ言うと闇姫はくるりと向きを変え、歩き始めた。 「しかし、一体どういう事なのでしょうか」 院内は電気が点いており、明るかった。人の姿が見られない事以外は普通の病院と変わりない。 だが、何も起こっていないという事がかえって不気味さを増していた。 「これはどういう事かしら?」 病院内に入った明日は困惑した。 「ふむ。今のところは異常なし、という事か」 院内は迷路化などしておらず、それどころか電気が点されて明るかった。 「明るいのは助かるけど――」 明日は困惑しながらもホッと胸を撫で下ろす。正直、深夜の病院や廃墟といった雰囲気でない事はありがたかった。 「もしかしたら、嵐の前の静けさというものかもしれないな」 明日の安堵を打ち消すようにロディが言う。彼の言葉にドクン、と鼓動が跳ね上がる。 「ちょっと、不吉な事言わないで」 「これは失礼。しかし、注意は怠らない方がいい」 ククッと含み笑いをもらしながら明日に言葉を返す。 「と、とにかく館長がいないか探すわよ!」 「いや、待て。あちらのグループがどういう行動をとっているのか把握すべきではないのか? あちらが館長を探して院内を動いているのであれば、こちらは“なぜ館長が美麗花園に来たのか”その手掛かりを探す方がいいと思うのだが」 「そうね、連絡をとってみるわ」 明日は無線機を取り出し、スイッチを押す。 「こちら流鏑馬明日、聞こえましたら応答して下さい」 ザッという音の後、向こうからの返信が届く。 「こちらヴィヴァーシュ・ソレイユ、なにかありましたか?」 「ヴィ……?」 「ああ、呼びにくければヴィーとでもお呼び下さい」 「ごめんなさい、そうするわ。そっちはどのような探索の仕方をしているのか教えてくれないかしら?」 「こちらは院内を歩き回っている状態です。書類を調べたりといった細かな探索はできていません。彼女がさっさと歩いて行ってしまって、見失わないようにするので精一杯です」 「わかったわ。では、そちらはそのまま館長がいないか探して下さい。こちらは書類などに館長の手掛かりがないか探してみるわ」 「了解」 ピーガガッ……ブッ…… 「?」 「どうした?」 「いえ、なんでもないわ。こっちは地道な方法で館長の手掛かりを探しましょう」 無線の切れる間際に聞こえた雑音が気になったが、こういう機器にはよくある現象だと思い直し、気にしない事にした。 それがこれから始まる奇異の前触れとは知らずに……。 ブウ……ン モーター音のようなものが聞こえてきたと同時に照明が明度を落としていった。一瞬、元の明るさを戻したかと思ったが、チカチカと明滅を繰り返したあと、完全に照明が切れてしまった。 「そろそろ私を楽しませてくれるのかしら?」 闇姫は妖しく笑い、ヴィヴァーシュは手の中に光球を生み出し、宙に浮かせる。 「おかしいわね」 明日は書類やカルテを机の上に置き、溜息を吐いた。通常ならば異世界の文字でも何の問題もなく読める筈なのだが、ここにある書類にいたってはどう頑張っても読めないのだ。 読めないほど悪筆でもなく、書類が汚れている訳でもないのに……。 「ここが暴霊域であるという事が影響しているのかもしれないな。こうなると暴霊でもいいから捕まえて聞き出したいところだが……」 “暴霊”という言葉に明日がビクッと反応する。暴霊域なのだからいない方がおかしいのだがあえて考えないようにしていた。それなのに……。 「やっぱり……出るわよね?」 心なしか声が震えている。 「もしかしてあんた、霊が怖いのか?」 ロディに指摘され、明日はうろたえる。 「そ、そ、そんな事……」 ないわよ、と言おうとした時、突然の振動に言葉が遮られる。 ゴゴゴゴゴゴゴ…… 「な、何?」 今の振動で棚が倒れ、書類が床に散乱し、辺りは散々たる有様だ。しかし、幸いにも電灯は点いたままだった。 「外の様子を見てこよう」 「私も行くわ」 「いや、明日はここにいてくれ」 一人になるのは嫌だったが、おそらく自分の身を案じての事だろうと察し、明日はロディの言葉に従った。 「何か探し物でも?」 明日が何気なく床に散らばった書類に手を伸ばしたところで後ろから声を掛けられた。 書類から手を引き振り返るとそこには壮年の男性が立っていた。白衣を着ている事から医師であるとわかる。 「いえ、あの……、すみません。黙って入ってしまって」 とりあえず明日が謝罪すると、彼は微笑んだ。 「いいんですよ、久しぶりのお客人です。歓迎しますよ。さあ、こちらへ」 促されて奥の部屋へと進むと扉が静かに閉まり、壁に溶け込むように消えてしまった。 暗闇から突き刺すような光を向けられてヴィヴァーシュは顔をしかめた。 「あら、ごめんなさい。あなた新顔ね。どこが悪いのかしら?」 懐中電灯の光でヴィヴァーシュの顔を照らしたのは看護師の女性だった。 「悪いところなんてないわ。私達は人を探しに来たのよ」 ヴィヴァーシュの代わりに闇姫が答える。 「まあ、お見舞いの方? でも残念だわ。ここにいる患者さんは皆、みぃんな……」 ぶわりと悪臭が膨れ上がる。動物が生を失い腐りゆく臭い。死臭だ。 「死んじゃったもの。もう、お見舞いなんてできないのよォ!」 キャハハハハ、と看護師が邪悪な顔で嗤い、二人に襲い掛かる。 シャッと腕を振りかぶる。すんでのところでヴィヴァーシュが避ける。指先がかすったのか、パラパラと数本の銀糸が舞う。看護師の指には長く尖った爪が生えていた。 「ふふ、いいわ。もっと楽しませてちょうだい」 闇姫は看護師の猛攻をダンスのステップを踏むように優雅にかわす。 ヴィヴァーシュが光球を暴霊と化している看護師に放つ。 胸に光球を受けた暴霊はギャッという声を上げてもんどりうつ。暫くじたばたともがいていたが、やがてゆうらりと立ち上がり、再度襲い掛かってきた。 「しぶといわね」 その言葉とは裏腹に闇姫の顔には笑みが浮かんでいる。 「これならどうかしら?」 闇姫がすいと暴霊に向かって腕を上げるとバシュンと音を立て、暴霊の右腕が弾け飛ぶ。 「ギャアァァァアアアァ」 暴霊は悲鳴を上げ、赤黒い粘液質の血を撒き散らす。が、こちらへの攻撃を止める様子はない。 闇姫は次いで暴霊の足に狙いを定め、手をかざす。すると暴霊の足がねじれ、骨が砕ける。なおもねじられ続ける足が、とうとう千切れてしまった。 「悪趣味ですね」 徐々に四肢を失っていく暴霊の姿を見ながらヴィヴァーシュは吐き捨てる。 「そろそろ飽きてきたわね。……永遠にさようなら」 闇姫の額の目が光り、紅い閃光が暴霊を貫く。ぶばっと暴霊の体が膨れ上がり、破裂する。残骸は塵となりやがて消滅した。 ゴ、ゴゴゴ…… ホッと息を吐く間もないまま今度は激しい揺れが二人を襲う。 とてもではないが立っていられず、膝をついてしまう。そのまま揺れがおさまるまでやり過ごす以外に二人に術はなかった。 「明日、壁が動いて病院の構造に変化が起きているようだ。……明日?」 部屋の外の様子を見に行っていたロディが戻ると、明日の姿が見えなくなっていた。部屋の中を探してみるが見当たらない。 「妙だな、一人で行動するとは考えられないのだが……」 どうにも腑に落ちないが、現に姿が見えない以上、移動したとしか思えない。誰かに連れ去られたにしては争った跡が見られないのだ。 トントンと自らのこめかみを指で叩き思案する。 「ここに留まっていても埒があかないな。ここに戻ってくる気配はないし、彼女を探しながら探索をするか」 ロディは壁を背にして部屋を出て行ってしまった。彼女が壁の向こうにいると気付かずに……。 「どうやらおさまったようですね」 ヴィヴァーシュは側にあった壁に手をつき立ち上がる。 「おや? こんな所に壁なんてあったでしょうか?」 光球を放ち辺りの様子を窺う。 「どうやら迷路化してしまったようですね。それに彼女ともはぐれてしまったようです」 軽く息を吐き、壁に背を預ける。 新しい暴霊が襲ってくる気配がないのでヴィヴァーシュは少し休憩をとる事にした。 ヴィヴァーシュがポケットを探り、キューブチョコを口に運ぼうとしたとき、何者かの視線を感じた。光源を落とし、光球を近付ける。視線の主の元に到着すると一気に明度を上げた。 「きゃっ」 光球が映し出したのはパジャマを着た一人の少女だった。腕にはウサギのぬいぐるみを抱えている。 ヴィヴァーシュは充分に注意を払いながら声を掛けてみた。 「きみはここの入院患者かい?」 少女はこくんと頷く。 「驚かせてごめん。私はここに人を探しに来ていてね。少し話を聞きたいのだが、いいかな?」 ヴィヴァーシュは少女が警戒しないよう、砕けた調子で尋ねてみる。そうすると少女がそろそろとヴィヴァーシュの元へとやってきた。 「あなたはだあれ?」 「私の名前はヴィヴァーシュ・ソレイユ。旅行者ですよ。どうぞヴィーと呼んで下さい、お嬢さん」 ヴィヴァーシュが名乗ると少女は笑み、自らも名乗った。 「わたし、ユジン・チャオ。あの、それ……」 もじもじと話す少女の視線の先にはキューブチョコがあった。 「ああ、これ? チョコレート、お菓子だよ。食べるかい?」 「いいの? ありがとう」 少女は嬉しそうにチョコレートを受け取り、頬張った。 「おいしい!」 少女の様子から暴霊ではないと感じ、ヴィヴァーシュは警戒を解く。彼女からなにか聞き出せるかもしれない。ヴィヴァーシュは心中でそう思った。 「壁……」 ヴィヴァーシュとの間にできた壁に手を当て、闇姫は呟く。 「まあいいわ。もともと好きに動くつもりだったもの。それに――」 彼女の背後でうぞりと影が蠢く。 「退屈しなくてすみそうだし?」 振り返った彼女は、ゾンビのような見目の患者を前にして艶然と嗤った。 「どうぞ」 カチャ、と小さな音を立てて明日の前に置かれたのは、芳醇な香りを漂わせる紅茶だった。 白衣を着た男性と紅茶――この二つのキーワードがそろうと彼の人を思い出して何とも言えない気持ちになってしまう。 「どうかしましたか?」 男性の問い掛けに明日は我に返った。 「あ、いいえ、なんでもありません。……いただきます」 出された紅茶を一口啜り、喉を潤す。 「美味しい……」 自分でも知らぬうちに緊張していたのか、喉が乾いていたようだ。そのまま二口三口と飲み干してしまう。 そんな明日の様子を男性は穏やかな笑みを浮かべ、見つめている。 「おかわりを入れましょう」 「す、すみません。ありがとうございます」 男性がカップを取り立ち上がると、明日は己の無遠慮さに気が付き、赤面してしまう。 再び入れた紅茶を明日の前に置き、男性が切り出した。 「それで、当院へはどういった用件でいらっしゃったのですかな?」 明日は一瞬逡巡したものの、人に聞かなければ館長の痕跡を見出せないと思い、口を開く。 「こちらに、四十歳前後の見慣れない男性が最近訪れなかったでしょうか?」 「さあて、私は見かけませんでしたが……」 少し考える仕草を見せたあと、男性が答えた。 「そう……ですか」 明日が落胆した様子を見せると男性は続ける。 「もしかしたら院内の者が見ているかもしれませんね。後で聞いてみましょう」 「はい。よろしくお願いします」 明日が礼を述べると男性はにっこりと笑う。 「ああ、そうだ。貴女に見せたいものがあるんですよ」 「見せたいもの、ですか?」 初対面の人間に見せたいものとは、一体なんだろう? 明日は少し訝しげに思いながらも面には出さない。 「ええ、素晴らしいものですよ!」 弾んだ声で男性は言う。早く見せたくて仕方がないのか、立ち上がった男性は「さあ」と明日の手を取り、奥の部屋へと案内する。 ギィ…… 扉が少し軋んだ音を立てる。部屋の中は暗く、中がどうなっているのか判別できない。消毒液のにおいが漂い、室温が少し低いのか、体がぶるりと震えた。 「あまり明るくするといけないのですが、今日は特別ですよ」 男性はそう言い、照明のスイッチを入れる。 「!」 部屋の中のものがはっきりとした姿を見せると、明日は息を飲んだ。 悲鳴が口から飛び出そうになるのを必死に抑える。ドクドクと心臓が早鐘を打ち、冷や汗が浮かび上がる。 「どうです、美しいでしょう?」 彼は自慢気にコレクションの数々を明日に披露する。それらは皆、人間の臓器、体の部位であった。よく見ると、臓器は脈打ち、眼球はギョロギョロと保存液の中で動いている。 バサリ…… 奥に設置してある解剖台の上に掛けてあったシートが音を立てて落ちた。 台の上に置かれたモノを明日は見てしまった。 それは解体途中の人間。腹を開かれ、いくつかの臓器が取り出された状態で放置されている。大きく開いた目から涙を流し、助けを求めていた。 ――生きて、いる!? 「ああ、すみません。見苦しいものをお見せしましたね」 男性はなんでもない事のように再びシートを掛ける。 「あ……あなたは、一体……」 なにをしているのか、何者なのか。 「そういえば自己紹介がまだでしたね。わたしはこの病院の院長を務めている、ジョ・ウェイゴウと申します。二年前の災害で酷い目に遭いましたが、今では感謝しているんですよ」 顔を明日の傍に寄せ、生臭い息を吐きながら喋っている。 「ここでは取り出した臓器が体内に納まっている時と同様に、腐らず動き続けているんです。素晴らしいでしょう?」 院長は明日の顔のラインをなぞり、恍惚とした表情で言う。 「それに、貴女という素体にも出会えた。貴女はとても健康そうなので、体の中もさぞ美しいのでしょうね。今からゾクゾクしていますよ」 この人は私も解体する気でいるのだ。そう理解した明日は院長の腕を振り払い、距離を取る。 「私はあなたのコレクションになるつもりはないわ!」 明日は院長に拳銃を向ける。 「それは残念。でも、私は貴女をここから解放する気はありませんよ」 拳銃を向けられながらも、院長は余裕の笑みを浮かべた。 「こういう時は一度通った場所に印を付けるというのが基本とも言えるが、どこまで通用するか」 ロディには懸念している事があった。もし、この迷路が時間と共に変化するものだとしたら、目印など無意味なものになってしまう。 「……とはいえ、何もしないよりはマシか」 マジックを取り出し、壁に印を付ける。 「しかし、探索するには迷路になっているというのが一番厄介だな。ある意味、暴霊よりも性質が悪いかもしれんな」 扉があれば開き、中を一通り検める。今のところ何の進展もない。館長の手掛かりも明日の姿も見つけられなかった。 「此処の住人の協力でも得られればまた違うんだろうが、少々難しいか」 暴霊にすら出会っていないのだ。 いくつかの部屋を過ぎ、階段を上がっていると、何者かにつけられている感じがした。ロディの足音に遅れてぺたぺたという小さな足音が一つ。 角を曲がったところで足を止め、潜んでいると小さな影が飛び込んできた。 「捕まえた」 飛び込んできた影をロディは捕まえた。 「なんだよ、放せよ!」 影がもがく。十二、三歳程の少年だった。青いストライプのパジャマを着ている。足は裸足だった。 「君はここの子か?」 「そうだよ、あんた誰だよ。何しにきたんだ?」 反抗的な態度はとるが、邪悪な感じはしない。 「俺は旅行者だ。此処へは人を探しに来た。以前に四十前後の男性が訪れなかっただろうか」 「知らないよ。こんな所に来るもの好きなんかいないよ……あんたぐらいしか」 「そうか……」 我々の探索は無駄だったという事か。少し残念だが、これで我々が此処に留まる必要はなくなった。なんとか仲間と合流してロストレイルに戻らねば。そう考えていると、背後から女性の声が聞こえた。 「あら、駄目じゃない。病室を抜け出して……」 その声に少年はビクッと体を揺らす。少年の手はロディの服をギュッと掴み、震えている。 何かある。とっさにそう思ったロディは少年を背後に庇い、看護師の方に向き直る。 「すまない。俺が連れ出したんだ。この子を叱らないでやってくれないか?」 「あら、見ない顔ね。でも、黙って抜け出した子には罰を与えないと。さあ、その子をこちらへ渡して下さらないかしら?」 「嫌だと言ったら?」 「腕ずくでも渡してもらうわ!」 看護師が跳躍し、ロディに襲い掛かる。 「離れてろ!」 ロディが言うと少年は柱の陰に身を潜める。 看護師が長く伸びた爪を振りかざす。切っ先がロディに届こうとしたその瞬間。 バチバチバチバチ! 雷光が瞬き、倒れ込んだのは看護師の――暴霊の方だった。 帯電した雷がロディの体を取り巻き、髪を揺らす。 「言え。おまえたちは何をしている」 「お前には関係ないわ!」 暴霊がカッと口を開き、硫酸をロディに吐きつける。 「――っ!」 すんでのところで避け、デス・センテンスを暴霊の頭に向けトリガーを引く。電撃を纏った弾が放たれ、暴霊の頭を撃ち抜く。頭蓋が破裂し、暴霊はそのまま霧散した。 「大丈夫か?」 柱の陰にうずくまっていた少年に声を掛けると、彼はロディにしがみつき話し始めた。 「あ、あいつら、俺たちを捕まえて体をバラバラにして、楽しんでやがるんだ。みんな、いつ自分の番が回ってくるのかとビクビクしてる」 ロディが背中をさすってやると少し安心したのか、少年は体から力を抜いた。しかし、体の震えはまだ止まっていなかった。 「ほら、これをやるから舐めて落ち着け」 飴の包装紙を剥ぎ、少年の口の中に入れてやる。一瞬、辺りにストロベリーミルクの甘い香りが広がった。 「助けて、助けて。怖い思いはもうしたくない」 「わかった、何とかしてやろう。俺の仲間も危ない状態かもしれないんだ。悪い奴のところに案内できるか?」 少年はこくりと頷き、一つの病室に案内した。聞けば今日は此処の患者が連れて行かれる日らしいのだ。 「時間になると生け贄の病室から院長室への道ができるんだ。あいつをやっつければ俺たちはもう……」 「おびえなくて済むんだな?」 「……うん」 明日や仲間の事が気掛かりだったが、今は待つしかなかった。 「こっち」 一方、ヴィヴァーシュは少女――ユジンに手を引かれ歩いていた。迷路になっているはずだが、ユジンの足取りに迷いはない。 たどり着いたのは一つの病室だった。 「ここが私のお部屋なの」 そう言うとスライド式のドアを開け、中に入る。 「ヴィヴァーシュ!」 「貴方は……」 病室には先客がいた。ロディだ。 「探す手間が省けたな。もう一人のお嬢さんは?」 「突然現れた壁に阻まれて、はぐれてしまいました。そちらこそ、一人足りないようですが……」 「行方不明だ。ちょっと目を離した隙に消えてしまった」 「……で、どうするんです?」 「親玉を叩くさ。そうすれば何とかなるんじゃないか、と思っている」 「そうですね。セオリー通りにいけば、ですが」 「今はそれに掛けるしかないだろう」 ロディの言葉にヴィヴァーシュは溜息と共に頷いた。 「お話はすんだの?」 ベッドに潜り込んだユジンが頃合いを計り、声を掛ける。 「わたし、疲れちゃった。少し寝るね」 「ああ、ゆっくりおやすみ」 ヴィヴァーシュが言うとユジンは目を閉じた。 ――すると、この少女が……。 ロディは苦い思いで少女を見下ろした。 「今日、この部屋から一本の道が通るそうだ。それを辿れば親玉である院長の元へと行けるだろう」 「では、それまで体を休めておいた方がいいですね」 「そうだな」 それぞれ椅子や付添い用のソファーなどに腰をおろし、体を休める。少年は少女のベッドに潜り込み、一緒に眠ってしまったようだ。 ゴ……ゴゴ…… 部屋を揺るがす振動にその場にいた全員が目を開く。 少女の部屋の壁が動き一本の道を作る。少年と少女がベッドから降り、道の方を向く。 「変だな。いつもならお迎えが来るのに……」 お迎えとはすなわち暴霊と化した看護師の事である。迎えに来るはずの看護師は闇姫が葬り去っていたのだが、この場にいた人間は知る由もない。 「行こう」 少年は少女の手を握り、少女はウサギのぬいぐるみを抱き締める。子供達を先頭に立たせるのは気が引けるが、院長を油断させるには仕方がなかった。 院長室への扉を開くと、院長が笑顔で出迎えた。 「おや、迎えの者がいないね。まあ、いい。こっちへおいで」 そう言って、少女を解剖台の上へと寝かせる。少し離れてついてきたロディとヴィヴァーシュには気付かなかったようだ。 「怖がる事はないよ。さあ、目を閉じて」 優しい声で囁きかけると、少女は催眠術にでもかかったようにゆっくりと目を閉じる。 少女の服を剥ぎ、メスを手にする。 胸元にメスが当てられた時―― 「そこまでだ」 院長のこめかみにデス・センテンスが押しつけられる。 「おやおや、最近の客人は躾がなってないと見える」 院長はメスを置き、両手を上げる。ちら、と院長が視線を動かした。つられて視線を向けるとそこにはロープで縛られた明日の姿があった。 「明日!」 ロディが叫ぶとヴィヴァーシュが素早く動き、明日のロープをナイフで切る。 「大丈夫ですか?」 「ええ、なんともないわ」 「役者は揃った、というところですかな? では、まとめて始末してあげましょう!」 「気を付けて!」 明日が叫ぶとメスなどの鋭利な刃物が浮き上がり、四方に向かって飛んだ。 明日は足技で弾き、ロディは掴んだシーツで叩き落とす。ヴィヴァーシュは光球を盾のように使い、防御する。 子供達は隙を見て院長室から逃げ出していた。 「なかなかやりますね」 院長が不敵に笑うと今度は薬品や臓器の入った瓶などが飛んでくる。それぞれは棚の陰に隠れやり過ごし、銃で弾く。また、身近にあった物で直撃を免れる。 どんなに防ぎ、破壊しようとも次々と飛んでくる凶器に院長へ近付く事ができない。 「キリがないな」 焦りが出始めた時、突然壁に大穴が空いた。 「楽しそうなことしてるじゃない? 私もまぜてよ」 突然現れた闇姫に、院長が一瞬気を取られる。その隙を明日達は見逃さなかった。明日は二丁拳銃、ロディはデス・センテンス、ヴィヴァーシュは光球をそれぞれ院長に放った。弾は貫き電撃を与え、院長に吸い込まれた光は、内側から破裂する。 断末魔の叫びや爆撃音が重なり、耳を覆いたくなるような調べを奏でる。 終わったと息を吐く間もないまま、大きな揺れが建物全体を襲う。天井から塵が落ち、壁に亀裂が走る。 「崩れるぞ!」 四人は病室へと続く道を戻る。ガラスの割れる音が遠くから断続的に響く。 出口を探す暇などなく、病室から飛び降りる事を選択する。ベッドからマットレスを剥ぎ、窓から投げる。 闇姫は無造作に身を投げ、ふわりと着地する。 「あなた達も一緒に!」 明日が子供達に手を伸ばすが、彼等は頭を横に振った。 「ううん、わたしたちはここに。……ありがとう」 ヴィヴァーシュ、明日、ロディはマットレス目掛けて飛び降りる。 ドドドドドドドド…… 四人が脱出して間もなく、病院は崩れ落ちた。 「なんて事……。結局、私達は館長を見つける事も、あの子達を救う事もできなかったというの?」 「そうでもないさ」 「ええ、見て下さい」 瓦解した病院から幾つもの青い光が空を目指して立ち昇っていた。 「彼等は病院という場所に縛られ、動けなかったのだと思います」 「じゃあ、解放されたのね?」 「おそらく」 「私達のした事は無駄ではなかった……?」 「はい」 館長を見つける事はできなくとも彼等を救う事はできた。 それが彼等にとって、せめてもの慰めとなった。
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