「やあ、よく来てくれたね」 そういっていつもと同じようを装って貴方達を迎えたのは世界司書の鹿取燎で、彼は目を覆う金髪をよけようともせずに導きの書の表紙を指先でくるくるとなぞっていた。「今日は皆に、ブルーインブルーに行ってもらいたいと思う」 言ってから、考えるように首を傾ける。唇の端を軽く噛み考えていたようだったが、やがて決心したように彼は口を開いた。「今からとりあえず、導きの書に出たことと、それに関連してジャンクヘヴンの海軍から言われたことを伝えようと思う」 * 非力だ。 アルは檻から鼻先を引っ込めて歯がみした。――自分は非力だ。 檻の中を振りかえれば自分と同じように質素な服を纏った女性や自分より幼い子供達がいる。床は不規則に揺れていた。……この揺れは海の上にいる証拠だ、とアルは理解した。そう、彼らは捕えられた獣のように檻の中に入れられ、船に積み込まれて海の上に居た。柵のそばから外をうかがう彼とは対照的に、捕えられた他の人々は、檻の隅で寄り添って小さくなっていた。自分だって十になったばかりの子供だ、不安は隠せない……でも、とアルは考えた。でも、他が動けないのであれば、自分が何とかしなくては――「大人しくしてるか」 突然横柄な声が響いて、二つほどの人影が現れた。普段は上司に虐げられているようなひずんだ声だ。二人はじろじろと檻の中を観察すると、わざとだろう、大きな声で会話を始めた。「まあ、こいつらにはその内元気になってもらうがな。今日の出し物はなんでも、サーカスらしい」 サーカス? 檻の中に動揺が広がる。サーカスが何か、聞いたことがないわけではない。だが……檻の中の人々は視線を見交わした。彼らは、攫われたり売り飛ばされたりしてきたのだ。今までも獣程度にしか彼らを扱ってこなかった者が発する『サーカス』という単語は、不吉なものに響いた。「ああ、お前知ってるか。なんでもこの前は火の輪潜りと……ああ、あと、『アレ』やったらしいぞ」「あぁ……可哀想に、自分のパーツが減るのは俺ぁ見たくないね」 ぞっとした、とその対象が自分でない安堵、だろうか。卑屈な笑い声が船倉に立ち込める。「ところで、相変わらずか?」「あー、相変わらず下々の興行は見るに値しないとさ。ま、俺が聞いたんじゃなくてここのキャプテンのコメントだがな」「こう言っちゃなんだが、理解しがたいもんだ」「本当だよ。――ガルタンロック様やお客様みてぇな方々のお考えは難しいな」 下卑た笑い声が、耳に張り付く。――あぁ、今ここから手を伸ばしたところで、目前で嗤う彼らにすら手が届かないなんて。 にぎりしめた拳から、ぱたりと赤色が滴る。 *「それは『ショー』が行われる船なんだ。皆にはジャンクヘヴン海軍の手引きをしてもらうことになる」 燎はページを開いた導きの書のうえに片手を置いて、淡々と続けた。「行われる『ショー』はサーカスと称した見世物……サーカスなんてのは名ばかりで、捕えてきた人々に拷問まがいの――あるいはそれ以上の行為を強要し、それに高額を払って『観る』って趣向だ。船への潜入の手筈は、こちらの方で何とか繋ぎを付けておいたから、潜入方法自体は考えなくていい」 一つ自分を落ち着かせるように呼吸を置いて、彼は続けた。「ジャンクヘヴン海軍は、一網打尽にしたいと考えているみたいだ。だけど海軍は証拠を何一つ持っていない。だから、皆には相手が逃れ得ない状況下で、手引きの合図をしてほしいと言っているんだ。そこで通りがかりを装った海軍が突入する。――彼らが欲しいのは誘拐とか監禁とかだけじゃなくて、『ショー』の証拠もまた、欲しいらしい」 そこまで言ってからぱたんと導きの書を閉じて、燎はまた首を傾けた。「内容を簡単に整理すると、皆にしてほしいことはごく簡単なんだ。船に潜入し、潜伏し、ショーの開催を待つ。ショーが非人道的であることが確認できる箇所になったらジャンクヘヴン海軍に合図。……合図は明かりを決まったパターンに明滅」 導きの書の背を撫でて、世界司書は悩むように付け加えた。「あと俺から言えるのは、潜伏期間にどう振舞うのかと、合図のタイミングはみんなに任せる、ってこと……かな」 ぺこり。神妙にその頭が下げられた。「それでは、よろしくお願いします。――旅人達に、祝福がありますように」
たぷんと大儀そうに海の水が揺れる。昼の日陰でもこうなのだから、夜の海の静謐さは、さぞ危うく引き付けられるような仄暗さを持っているのだろう。薄暗い港から、船が出港するためにいくらかの荷と客が船上へと動いていく。大きな荷物を肩に担いだ黒髪の青年は、隻眼の左目を注意深くあたりへ廻らせながら木枠に詰められた荷物……食材だろうか? を運び込んだ。青年――深槌流飛は口を噤んだまま荷物を抱えて船内を歩んでいく。彼が運ぶ箱の木枠には一羽の蝙蝠がぶら下がっていた。その蝙蝠はじっと身じろぎもせず、荷物と一緒に運び込まれていく。 一方では客に紛れて見目麗しい黒髪の長髪をなびかせた女性が、すらりとした足を颯爽としたリズムで運びながら乗り込んでいく。肩から流れる黒髪を軽く払って、アストゥルーゾはふわりと唇の端を釣り上げた。こんな悪趣味なショーは気にくわない。 「だから……ぶっ壊してア・ゲ・ル♪」 周りが聞き取れないごくごく小声で呟くと、美女は人並みにまぎれて姿を消した。同じように客に紛れて動いていたアルジャーノが不審がられない程度に辺りを見回していると、隅の方でなにやら仰々しいマスクをかぶって船員たちと話しているガルバリュート・ブロンデリング・フォン・ウォーロードの姿が見えた。客から死角になる位置で何やら使い道が想像しづらいトゲトゲの付いた鋏みたいなのやら剣らしき何やらを並べて話し合っているようだ。 「うむ、そしてこのタイミングでこれを使えば客も最高潮に盛り上がろうぞ」 「すげぇ……ああ、いや、じゃあそんな感じでお願いします」 「しかし、楽しみのためだけに罪のない女子供を切り刻むとは実に趣味が良い」 拷問方法か何か、だろうか。思えば仰々しい四角めいたマスクは刑吏のものだ、とアルジャーノは思い出した。うん、ホラー映画をレンタルしまくって予習した甲斐があったというものだ。 「して、出し物に使う連中を見てみたいのだが」 「ああ、では案内しますよ」 船員がそそくさとガルバリュートの前に立って案内を始める。そこににじむのは未知のものへの恐怖だ。この船で行われる出し物も、この目の前に立つ男にも彼は怖さを抱いていた。ガルバリュートはこの立場を上手く利用するらしい。自分も一緒に行こうかとアルジャーノは思ったが、それより先にすべきことがある、と思いいたって、大まかにどちらへ行ったかを見送ると船内の主に端の方などを調べるように歩き始めた。 「んー……イザって時にお客サンを逃がす以上そんなに遠くはない筈ですよネ……」 呟きながら不審がられない程度にあちこち歩く。と、目的の物はほどなく見つかった。脱出用の小舟やロープなど、いざというときのためのものだ。 「残念ながら客も船員も逃がすツモリはありませんヨ……っと」 呟きつつその腕がするりと液体になって熔ける。そうやって出来た鋭利な刃を船底辺りに適当に突きたてて船を使えなくすると、腕を戻し残りの小舟を探すためにアルジャーノは歩き始めた。 * 「ったく、この荷物はここじゃないって言っただろ、聞いてたのか」 がつっと足蹴にされたことに怯えたように身体を縮めてみせて、流飛は荷物を再び持ち上げた。もちろんこの荷物はここに置くものでないことぐらい知っている。が、彼はあえて口をつぐんだまま次の言葉を待った。荷物から蝙蝠が離れ、暗がりへ飛んで行く。 「これは向こうの船室に積むっつっただろうが……」 全く、と呟いた男が、苛立ち紛れの溜息とともに別の方向を指さした。 「アレにエサをやる時間だから、お前はコックの所に行って来い。……あと、日が暮れたら出番のやつから呼ぶって伝えとけ」 幾度かまばたきをして動きを止めると、相手はやはりいらいらしたように手近な壁を叩いていけと急かした。逃げるような足取りでその場を離れ、コックとやらの所を探す。日が暮れるまでが一応のタイムリミット、か。頭の片隅にメモし、流飛はコックに押しつけられたトレイを抱えて船倉へと踵を返した。それを見送った蝙蝠……否、それはボルツォーニ・アウグストの仮の姿だ。彼は流飛を見送ると、蝙蝠の姿のまま船内をふわりふわりと探索し始めた。いざというときに構造を把握していないようでは困るので、どんな部屋があるのか散歩がてら見て回るつもりだった。 客の入りはそこそこの様だ。こんなものをわざわざ見に来るような者は暇なのだろうと天井付近から見下ろして、思う。自分は娯楽にうつつを抜かすほど暇はなかった。――かと言って領主でなければ……つまりすることがなければこんな見世物を見に来たかと言われれば、それもノーだ。船員たちの話からするに、そのサーカスは一番派手な時で、人体のパーツを分けられるだけ分けるというものらしい。……不死者は、己に必要な分だけを奪い、そんな風に喰らいもせずに血を流させることはしない。 さて、船には怪談も付き物だ。多少演出してやった方が物見高いお客さま方にも満足いただけるだろう。ふと微笑むと……とはいっても、彼が本来の姿でもただ口の端をほんの少しだけ釣り上げただけにみえただろう微笑みを心のうちで浮かべ、彼は一人何処かへ向かって歩いている船員を見据えると空を滑るようにその場から離れた。 * 下っ端は使えない奴らばっかりだ、と彼はいい加減うんざりしていた。おまけに船長もこの船に乗っている客も薄気味悪いと思う。そもそもこの船の『オーナー』たるガルタンロックなど姿はおろか声すら聞いたこともない。まあ会わないでいられるのはそれはそれで幸運だ、と彼は思った。その幸運も今日までとは知らぬままに――とはいっても、なにもガルタンロックが現れたのではない。 「またお前か! いい加減に倉庫管理を徹底しろと言ったのを忘れたか!」 「すみません!」 コイツ、部下が増えるとすぐ指示を飛ばせなくなって仕事が滞る。興行に影響でも出たらどうしてくれるんだといらいらと指先で肘を叩き、顎をしゃくった。 「良いから行け。興行には間に合わせろよ」 「失礼します!」 腰に手をやって見送る。と、ふと背後に気配を感じて振り返れば、長髪の黒髪を持った美女が少し困ったようにこちらを見ていた。 「あ、ああ……いかがなさいました、お客様」 「実は私……迷ってしまいましたの」 アストゥルーゾは胸元にちょっと手をやって、続けた。 「なにぶん、人が多かったでしょう? それで、アクセサリを落としてしまったみたいなんです。向こうの暗がりに転がって行ったと思ったのですけど……」 船員はちらちらと気にしつつも少し考えるようにしていた。先ほどの様子から考えて、自分がここから離れても大丈夫か考えているようだ。シタゴコロと職務の天秤はまだ揺れているらしい。あとひと押しか、と唇を開き、すこし瞳を伏せる。 「貴金属的には値打ちの低いものですけれど、大事な……品ですの」 「判りました。私もご一緒して探しましょう。――どちらですか?」 ちょろい。先に立って歩く船員に適当に人気のなさそうな方を指さしながら、アストゥルーゾは彼の顔や身体の作りを観察していた。口調や大体の癖はさっきのやり取りで覚えたつもりだ。 「ないですね……どんな品で?」 「この辺に行ったのは見たのですけれど……こちらかしら?」 「どちらですか?」 何の気なしに振り向いた腹に一発。叫ばれないように口をふさいで念のためもう一発叩きこんで気絶させる。手早く身包みを剥がすと船員をそこらへんの物置に突っ込み、自分がそれを身に着けはじめた。 「どっちにしろ、てめぇーみたいなやつはお断りだよ。なんてね」 上機嫌に言った美女の顔が、不機嫌に部下を睥睨する船員のそれに代わる。彼は通路から船室に出てくると、適当な部下を見つけて声をあげた。 「ショーで使うやつらはどうなってる。ちゃんと管理できてるんだろうな」 「はっ、はい……! み、見に行かれますか?」 「……ふん、それもまあいいか。じゃあお前はそこの荷物を持って一緒に行け」 * 「ふむ。こいつらが今夜の」 「ええ、そうです」 ガルバリュートはインヤンガイで入手してきたマイクを目立たないようずらしながら、檻の中を覗き込んだ。檻の中に入れられているのはいずれも年端もいかない子供か、あるいは女性だ。それまでの扱いがどんなものであったのかはわからないが、ほとんどの人の瞳に生気は無い。まるで彼らはすでに殺されてしまったかのようだ。――弱いものが理由もなく、いや、嗜好というより酷い理由でいたぶられている事実が、どうしようもなく腸を煮立たせる。しかしここで耐えねば救えない……と思った時に、まだ強い光を持つ視線を感じてガルバリュートは檻の隅の方を見た。 檻の隅の方で膝を抱えて座る少年が、じっとこちらを睨みつけている。品定めをするふりをして檻を回り込んで近付くと、刑吏のマスクに鍛え抜かれた身体のガルバリュートに明らかに少年は怖気づいたようだったが、それでも視線だけはそらすまいと必死にこちらを見てくる。そこに近づくと、ガルバリュートはそっと囁いた。 「安心しろ、拙者たちは味方である。必ず助けよう。……但し騒ぐでない。助け出せなくなるぞ」 「え……?」 そこまで一気に囁くと、少年は不審さの中にも驚きを秘めたような表情でガルバリュートを見返した。と、そこに新たな足音が加わる。見れば明らかに他の船員より身なりの良い船員が荷物を持った別の船員に先導させて現れた。やや身分の高いものが現れたか、とガルバリュートは檻の中を見回しながら、さりげなく少年と話したことを悟られぬように動いたが、振り向いて目のあった偉そうな船員が、ちらりと見逃しかねない早業でウインクを送ってきたのにやや緊張を解いた。なるほど、そういうことか。ウインクした船員は、自分を連れてきた船員に向かって顎で来た方をしゃくった。 「そこに荷物を置いてお前は持ち場に戻れ」 「はっ、はい!」 「そこのお前もだ」 「わ、私はこの方の案内を……」 「私がやる。さっさと戻れ」 ガルバリュートを案内していた船員もわたわたと戻って行った。船員……いや、アストゥルーゾはちらりと見張りを見やり、どうしたものか数瞬悩んだようだったが、不審がられない程度に捕虜の方を覗きこんだ。ふんと小さく鼻を鳴らしているが、その表情は気にくわなそうだ。見張りの方はといえば、彼がいつもそんな表情なのかとくに気にとめた様子は無い。 「交代の時間だぞ。……あ、お疲れ様です」 去って行ったのと入れ替わりにまた新しい奴がやってくる。それに頷いて、見張りは鍵を新しい見張りに預けると出て行った。出来ればどかしたいが、どうしようかと思っていると、かつり、かつりというブーツの音とともに黒革のロングコートを纏ったボルツォーニが現れた。銀に近い金髪が、船倉を申しわけ程度に照らす明かりに映える。 「それは私のこの船での下僕だ。……一人くらいはいた方が動き易かろうと思って先ほど食事ついでに、な」 彼が手を出すと、見張りは受け取ったばかりの鍵をそのまま彼に手渡した。それならばと口を開こうとしたところに、流飛がやってきた。後ろにアルジャーノも一緒にいる。彼はロストナンバーが勢揃いした船倉を見やると、ちらりと見張りとアストゥルーゾに目をやったが、それにガルバリュートが頷いたのを見てにっこりとした。流飛はとくに反応をみせることなく、両手に持ったトレイを檻の方へ運んでいく。 「捕虜も見つかったし、海軍を手引きするまでどうするか、だね」 アストゥルーゾが腰に手をやって小さく息をついた。 「証拠は何か? 一応拙者も会話の録音はしておいたが――」 「このおじさんがいくつか書類を持ってたみたい」 制服から薄っぺらい書類の束を出して、アストゥルーゾ。 「……『ショー』は日没かららしい」 ぼそりと流飛。その言葉にボルツォーニが口を開く。 「日没か。……せいぜい海軍が来るまで盛り上げて差し上げるとしようか」 「か……海軍が、ジャンクヘヴン海軍が来るのか?」 ふと檻の方で上がった声に、どこから取り出したものやら輸血パックを加えていたアルジャーノが、向き直って微笑んだ。見れば檻の方、格子をつかんでロストナンバーたちの方を一人の少年が見ている。 「ええ、その通りでス。檻の中の皆さんは誰ひとり傷付けずこの船から出すことを誓いまス。……けど、それには全員の協力が必要になるでしょうネ」 「少年、名前は」 「……アル」 「では、私がアル君に擬態しましょうカ。私ならバラバラでも大丈夫ですしネ。……舞台の上でその状態が確認されれバ、証拠になると思いたいものですガ……」 アルジャーノは相変わらず唐辛子のマークの付いた輸血パックをずるずると啜っている。 「一人で大丈夫かな?」 「一人分なら擬態できますヨ?」 いや、そうじゃないんだとアストゥルーゾは首を振った。 「海軍がどのくらいの速さで来るかわからないからさ。かと言って……他の人には少しきつそうだし」 檻を見やっても、助かるかもしれない可能性を見出して瞳を光らせているのはアル一人だ。もう希望も持てないほどに疲弊してしまったのかと、心臓が痛む。 「俺が出よう」 食事を格子の間から配っていた流飛が振り向いて言った。 「時間調節にはなるだろう」 「拙者が受けても良いのだが……」 「拷問係やってもらわないと困りますヨー」 やはりそうだよなと一瞬かなり残念そうな表情になったガルバリュートだったが、気を取り直したように息をついた。やり取りを聞いていたボルツォーニがふむ、と呟く。 「ではいいか。必要そうなら下手人が自らに手を下すという図も盛り上がりそうに思えたが、頭数は足りたようだな。では私は雰囲気でも盛り上げるとしよう」 言うなりぶわりと彼の周囲に霧がまとわりつくように現れた。天候を操る、彼の能力の一つだ。 「残りの人達は?」 「使えないという状況にならねばいけないだろうな」 ガルバリュートのコメントに、アストゥルーゾがアルジャーノの方を見た。 「モチロン、考えてはありまス」 * ゆうらりとゆらめく霧を引き連れ、背の高い、革のコートを纏った男がことり、ことりと甲板を歩いている。その姿を垣間見た者は、あるいは海魔の類かとすら邪推したかもしれない。男はコートの裾を揺らめかせてゆっくりと歩んでいた。 太陽は水平線に熟れたような赤色を焼き付け、沈もうとしていた。 「……日没だ」 * 「何、捕虜が全員死んでるだと?!」 「は、はい……それが、ほぼ全滅で……」 アストゥルーゾは船員からの報告を受けて駆け出した。薄暗い船倉に駆け付けてみれば、そこでは噎せ返るような血の匂いが立ち込めている檻に残っているのは、倒れ伏した女子供と、檻の隅で膝を抱えてがたがたと震えている少年が、一人。集まっている船員たちの視線を感じつつ、アストゥルーゾはアルに詰め寄ると詰問した。 「一体何があった!」 少年の怯えた視線はこちらを捉えず、床を彷徨っている。アルは震える声で、ぽつり、ぽつりと話し始めた。 「み、みんな死んだんだ。……子供も、大人が殺して。ぼっ……僕は、僕、怖くて――」 「全く、見張りは何をやっていたんだ!」 「それが、いなかったみたいなんです――」 アストゥルーゾは嘆息すると知らせに来たのとは別の船員を指して声をあげた。 「お前、ショーに間に合わせるからとりあえずその小僧を連れて行っておけ」 「……はい」 どこか茫漠とした眼差しを垣間見せた船員は、それに応えてアルを連れて歩いていく。 「――こうも数が減っては、ショーが持たんな」 「っ、今日の拷問屋か」 ガルバリュートが現れて檻を覗きこんだ。アストゥルーゾが視線をそらして唇の端をかんだ。檻の端でもたもたと片付けを始めている流飛に目をやった。 「頭数が足りないならあいつを使え。丈夫そうだから保つだろう」 「ふむ……まあいい、そうしようか」 言われて流飛が引き立てられて連れられて行く。船員たちも逃げるように持ち場に戻り、アルジャーノが啜っていた輸血パックと同じ血臭の立ち込める船倉を見渡して、アストゥルーゾは溜息をついた。役者はそろい、時も満ちた。後は船長辺りを言いくるめに行くだけだ。 「もう皆行ったから、君も早く」 声を掛けられて、倒れ伏して死相を浮かべた人々の顔がゆらりと揺らめいたかと思うと、瞬く間に檻の中にアルジャーノが現れた。倒れていた人々も輸血用の血液の中、身を起こす。 「了解でス。――手足落とされて目玉でもえぐられればいですかネ?」 「……さあ? 残念ながら趣味じゃない」 「では、後はまかせて大丈夫ですカ?」 その言葉に頷くと、アルジャーノは駆けて行く。アストゥルーゾはそれを軽く見送ると見送る檻の中の人々を助け起こし始めた。 * 鞭の音が響き、ひそひそとした嬌声が上がる。さぞ盛り上がりの様で、と小さく呟いて、ボルツォーニは手元の明かりの窓を操作した。決まったパターンに、ちかちかと明かりが明滅する。海の遠くで応えるように明かりが明滅して、船が近づいてくるのが見えた。――狂宴の終焉は、近い。 船内を窺うと、身体を赤く腫らした流飛が押し込められるように下げられていくところだった。代わりにアルが連れだされてくる。いや、作戦通りなら、アルに擬態したアルジャーノか。同じ名前のよしみでとか言っていたが、全く瓜二つだ。猿轡をかまされたアルは、ガルバリュートの持ち出してきた鋸にいやいやをするように首を振っている。 船体にわずかな揺れを感じて視線を離す。軍が密かに接触してきたようだ。見やれば一人の男性が近付いてきていた。 「現場は?」 「中ですが」 「手引き、感謝する」 それだけ手短に言うと、彼は数人の軍人を引き連れて駆けて行った。ばん! と華々しく蹴破られるドアの音。夜の空気にどろりとした熱と密度を持った船内の空気が、溶けだす。ふわりと漂う血の香りに、ボルツォーニが唇の端をゆがめた。――結局自分は、不死者ゆえにこの血の匂いに惹かれたのか? 予想通り、船内には切り刻まれた少年の肢体が散らばっていた。アルジャーノは上手くやったもので、良く切れるナイフで削ぎ落したらしい肉の塊までそのまま形で残してある。輸血パックを啜っていたのはこのためだったのか、噎せ返るような血の匂いまでもがヒトだった。 そう――ここまでされれば、生きてはいられない。けれども船の中は、良くわからない興奮で満たされていた。ドアから滑りこんだ軍隊が、部屋の状況を見渡す。 常軌を逸した異様な高揚感と異様な香りの充満する船内に、朗々たる声が響き渡った。 「――我々は、ジャンクヘヴン海軍だ!」 とたん、船内にパニックが拡がる。 「もう証拠は充分であろう! 奴らの豚の宴の非道、目に余る!」 ガルバリュートが宣言し、いち早く操舵室へ駆けだそうとする。理解が追いつかないながらも機敏に動きだした奴が内通者と判断し、立ちふさがろうとした一人の船員の腹に軽く手が当たった。隻眼の左目が、下から突きささる。伸びあがるような無駄のない動きで船員の喉を潰すと腹に当てた手で軽く押しやって、流飛はもう一人の足を足で絡めて引き倒した。 「な……」 船員が見上げれば右耳の翡翠色のピアスがきらりと煌めく。あった瞳は刃のように冷酷な感情を移していた。まるで、お前などいつでも殺せたと囁かれたかのような悪寒。みぞおちを殴られて意識が落ちる。流飛は事態を把握し始めた船員達の対処に走った。 一方ガルバリュートに瞬く間に制圧された操舵室では、操舵していた船長がガルバリュートに追い詰められていた。そこへドアを蹴破らん勢いで、船員が一人踊りこんでくる。 「船長!」 「助けてくれ!」 「大丈夫ですか! ……なんていうと思った?」 制服を纏った黒髪の美女が、ふうわりと微笑んだ。 * ロストナンバー達は、残りの夜を海軍の船で過ごした。 「……ありがとう、僕達を、助けてくれて」 ジャンクヘヴン海軍は、死んだはずの少年が生きた捕虜として保護されたことに気付いたのか気付いてないのか、何も言わなかった。甲板から海を眺めて、少年は目を細める。 「いや、アレはなかなかの迫真の演技だった」 「アル君がいなけれバ、私達も難しい所でしたヨ」 「……お兄さんの、傷は?」 「大したことは無い」 少年は下を向いたまま、ぽつりと口を開く。 「――また、会えるかな」 「普通に考えて確率はほぼ無いに等しいだろうな」 「……そっか」 ボルツォーニの冷静なコメントに、アルは少し苦笑した。船の甲板に、あふれてとろけそうな金色の光が満ちる。――夜明けだ。 「本当に……本当に、ありがとう」 船は、陽が昇り切る前には港に着くだろう。 海軍の話によると、この船からなんとか大元へたどり着けないか頑張っているそうだ。ガルバリュートが、先ほどまで宴の繰り広げられていた船を見やって唸る。 「……いずれ、ガルタンロックには報いを受けさせてくれる」 声は潮風とともに海へ流れ、金のさざなみの中に溶けた。
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