「お花見行きたーーーい!」 ある日のターミナルで、世界司書・エミリエが言った。「お花見と言いますと……壱番世界の?」 リベル・セヴァンが資料から顔をあげて応じた。「そう。サクラの花ってキレイなんだって! それからお弁当に~、お団子に~」 どうもエミリエは誰かにお花見の話を聞くか本で読むかしたらしい。 しかしながらお花見の本場、壱番世界はニッポン列島においても、今年は桜の開花が早く、すでに盛りを過ぎつつある地域も多い。いやそれ以前に、ロストメモリーたちがターミナルを離れて壱番世界で花見ができようはずもないのだった。 ところが。「こいつぁ、どうすっかな……」 シド・ビスタークがやってきた。「どうかしましたか」「いや……、無人のチェンバーが見つかったんだ。広くて本当に無人かどうかはわからんので、それを確かめてから閉めちまえってさ。べつだん危険もなさそうだし放置してもよさそうなもんだがなあ……。こんな依頼、誰が受けてくれるもんかね。だいたい、何のつもりかしらんが、このチェンバーの中はサクラの樹しかありやがらねえ」 エミリエとリベルは、あまりのタイミングのよさにはっと顔を見合わせる。 かくして、無人のチェンバーの確認依頼――という名のお花見大会が行われることになったのである。「ハナミ」 ハナミハナミ、と呪文のように繰り返しながら、赤茶色の毛並みの獣人が慌しげに旅人たちの脇を駆け抜けた。首に掛かった布製の鞄を引き摺りながら、図書館の外向かって一目散に駆けて行く。「お花見ー! 桜の林のチェンバーで、ハナミー!」 尻尾が今までに見たことないほど、激しく振り回されている。 扉の前で足を止める。前肢を床につけて勢いを減じ、くるりと旅人たちを振り返る。「無人のチェンバー。本当に無人か調査した後に閉鎖。桜が満開。ハナミのついでに確認調査」 言ってから、首を傾げる。「違う。調査のついでに花見」 もうどちらでも良い、と尻尾を振り回し、耳を倒して眼を細め、身体中を喜びに満たしながら、獣人の司書は四本の肢で飛び跳ねる。「皆で調査。皆でハナミ。朝から夜までずっとずっと」 近寄ってくる旅人たちに、頭を低く構え、飛び掛るような伸びのような姿勢をしながら、司書は嬉しさのあまり、ぅわん、と吠えた。 吠えてから、ふと我に返る。黒い眼をきょとんと見開き、ひょいと後ろ足で立ち上がる。「チェンバーは広い。きっとあちこちで皆、宴会。迷子の出る可能性、ある」 落ち着いた口調で話しているものの、尻尾だけは飽きずに振り回されている。「わたしは迷子預かり係。桜の下で迷った人と一緒に迎えの人を待つ。目印の旗を掲げる」 首から提げた鞄を開き、大きな幟旗を取り出してみせる。白い生地には、『まいご』と黒い文字が書かれている。勢いがあると言えば言葉は良いが、どうにか読み取れる程度の下手な文字。「大きな桜の下。眠れば夢の中で逢いたい人に逢える。迷子の人が心細くて泣いていても、だから大丈夫。夢の中、逢いたい人に逢える。起きれば、迎えの人がきっと来る」 逢いたい人と迎えの人は違うかもしれない。起きても、迎えの人など来ないのかもしれない。けれど、「起きても寂しい時はわたしとお菓子。食べれば元気。桜も綺麗。きっともっと元気」 迷子にならなくても、と司書は三角耳を忙しなく動かす。「来てみて。ハナミは皆。皆でしたい」 花見が目当てか旅人たちと話をするのが目当てか。獣人の司書は楽しそうに跳ね回る。迷子や、一緒に花見をしてくれる人に提供するためのお菓子を駅前広場の商店で用意するのだと、引き摺るような大きな鞄はお菓子を詰めるためのものなのだと、嬉しそうに話す。「待ってる!」 最後に一言残し、司書は駆けて行った。!注意!イベントシナリオ群『お花見へ行こう』は、イベント掲示板と連動して行われるシナリオです。イベント掲示板内に、各シナリオに対応したスレッドが設けられていますので、ご確認下さい。掲示板への参加は義務ではなく、掲示板に参加していないキャラクターでもシナリオには参加できます。このイベントシナリオ群は、同じ時系列の出来事を扱っていますが、性質上、ひとりのキャラクターが複数シナリオに参加しても問題ありません。
◇ 調査の名目で開かれた花見の会場には、世界司書たちやロストナンバーたちが集う。広大な桜の林のそこここで様々な催しが行われ、桜の下、笑い声や話し声、果ては悲鳴や爆発音までが、賑やかに巻き起こっている。 咲き零れる桜の林の一角、周囲の樹よりほんの少しだけ大きな桜の樹がある。その樹の傍には、『まいご』と書かれた旗が舞い散る桜と共、春風に揺れている。 ふらりと立ち寄り去る人、仲間とはぐれてしまった人、迷子の際にはここで落ち合う約束をした人、腰を据えて迷子の人々とお菓子を食べ歓談する人。桜の樹の下の迷子預かり所にも、様々な人が集う。 たくさんの人に囲まれ、司書は楽しげに走り回る。ハーデがこっそり掛けて行ってくれた毛布の匂いを嗅ぎ、綾とじゃれ合い、ミトサアを探し、ミレーヌにお菓子を勧め、薊の頬を舐める。 クアール・ディクローズの持つ絵本から飛び出した、ウルズとラグズ、犬と猫の妖精獣と一緒になってはしゃぎまわる。 ウルズとラグズと司書と。桜の花弁に塗れながら、小さな獣人たちはころころと駆け回る。春風に黒髪を揺らして、クアールは微かに茶色の眼を和める。 「……少し、眠いな」 小さく呟いて、身体を横にしてしまえば、眠りはすぐに訪れた。 眼鏡を掛けたまま寝入るクアールの傍に、駆けずり回って遊んでいたウルズとラグズがそっと近寄る。ウルズがクアールの眼鏡を外す。ラグズがクアールの脇で小さな身体をくるりと丸めれば、反対側でウルズも両前肢を揃えた上に顎を乗せ、眼を閉じる。 眠るクアールの身体に、ふわりと温かな毛布が掛けられる。 巨大な石版は、あの戦で命を落とした人々の墓標。その墓標に絵本を押し当て、描く、描く、描く。文字も、絵も、暖かく優しい。戦など無い世界。戦で死ぬ人などいない物語。けれど。 絵本が完成してしまえば―― 筆を握る手を休めることなく、彼は、泣く。 ふわり、夜が舞い降りる。夢であることを示すように、夜の訪れは早い。慰霊碑の前には、泣きながら絵本を描いていた人影はもう無い。その代わりに立つのは、一人の狼族。 冷たい夜風に金色の毛皮をなびかせ、静かに立っている。 彼に、逢いたかった。身寄りの無い自分を、こんな自分を理解してくれた、親友。 ちゃんと逢って、きちんと別れを告げておきたかった。 (俺が世界から消えてしまう前に) 「アイギルス」 名を呼ぶ。金色の毛皮がふわりと揺れ、彼がこちらを真っ直ぐに見る。 「これでもう逢う事もないだろう」 切り出す。 「さようなら、アイギルス」 告げることを望んだものの、告げてしまうととても悲しかった。二度と逢わないと告げることは、身を裂かれるように辛かった。眼を閉ざす。目的は遂げた。後は、眼を覚ますだけだ。夢から覚めるだけだ。 夢の終わりが腕を掴むよりも先、 自分よりも一回り大きな身体が、ぐっと身体を抱きしめた。大きな手が頭をしっかりと掴む。 「私はお前の全てを受け入れる」 だから、また逢おう。 伝えられた言葉は、別れのものではなく、また逢うための約束。 クアールは、別れを告げたはずの親友を、いつか、きつく抱き返していた。 生まれたのは、絵本の中から。ウルズとラグズを描き、召喚の妖精獣として生み出してくれた『お父さん』、まだ幼い日のクアールが、生まれたばかりの二人を見守っている。今の無表情な顔ではなく、眩しいほどの笑顔の少年である、クアール。その隣には、太陽と同じ金色の毛皮持つ、狼族のアイギルス。 ウルズも、ラグズも、『お父さん』の笑顔が大好きだった。 ――逢いたかったのは、あの日のように笑う、『お父さん』。 『お父さん』が笑ってくれるのが嬉しくて嬉しくて、ウルズもラグズも笑う。笑いながら、『お父さん』の足元で転がるように駆け回る。 それなのに。 それなのに、眼を覚ました二人の眼に映ったのは、笑わない『お父さん』の顔。今は固く眼を閉ざして眠っているけれど、眼を覚まして眼鏡を掛けてしまえば、『お父さん』の顔はお面のようになってしまう。氷のように凍り付いて動かなくなってしまう。 ラグズは外して置いたクアールの眼鏡を隠し持つ。この眼鏡がなければ、『お父さん』はきっと笑ってくれる。 そうだ、手紙を書こう。その手紙に、笑っている『お父さん』の顔を描こう。『お父さん』はとてもきれいに笑う。笑顔の横に、言葉も書こう。 ――笑って、お父さん 夢じゃなくて、現実で。笑顔のお父さんに、逢いたい。 眠るクアールの傍で、ウルズとラグズは二人揃って、心を籠めて絵を描き続ける。 ◇ ひらひらと。舞い落ちる桜の花弁をそっと掌に受けて、青燐は空色の垂れ布の下の顔を俯けた。 桜の林の中、連れと共に歩いていたはずなのに、気がつくと一人。彼らはどこへ行ってしまったのだろう。迷子なのは自分なのか、彼らなのか、 (その両方なのか……) 大きな迷子ですよね、私。そう一人呟いて、思わず笑ってしまう。植物の意思を感じ取れる力で持って、桜の木に聞けば、彼らの場所も自らの今居る場所もわかるだろうけれど、こういうときに聞くのは不粋というものだろう。 「まあ、ここでのんびりしましょうかねー……」 まいご、と書かれた幟の傍、お菓子がたくさん転がるブルーシートの上に、青燐は人知れず腰掛ける。春空色の長い髪を桜の花弁が撫でた。 眼を包帯で覆った歪が、綾と司書に手を取られるようにしてシートの真ん中へ導かれ、遠慮がちにやってきたフェイが司書に飛び掛られかけ、ナウラがまいごの幟をどこか不満気に読み上げ、ヘータがふわふわと青燐の脇を掠める。 満開の桜を見仰ぎ、花見会場の賑やかさに感心しているうち、ナウラや司書や、何人かと言葉を交わし、垂れ布を上げることになる。 その中の一人、綾に水を向けられ、青燐はほんの少し、青空色の眼を細めた。 「……懐かしい人ですかー……」 青燐は、自身でも何年生きたのか判らなくなるほどの永い年月を生きてきた。懐かしい、と思う人は数え切れない。 けれど、逢いたいと思うのは。逢いたくても、二度と逢えない人は。 腰までの黒髪を高く結い上げ、青空色の着物を好んで纏っていたあの人の姿を思い浮かべる。眼を開いていては追いつけない気がして、瞼を閉ざす。 ――天人様。私は、幸せです そう言って微笑んだ声を顔を、覚えている。売り物の花をいつも大事に抱えていた、小さな手や華奢な腕を、覚えている。 名乗らなかった。青燐と言う今の名は、都の長の名。身分で萎縮してほしくなかった。まだ身内ではなかった彼女に、本名も名乗れなかった。その本名さえも、自らで考えたものではあったけれど。 (ああ、そう言えば) この布も見せていない、と今は頭の上に上げている布に手を触れさせようとして、やめる。 結局、自分のことを何も教えてなかった。恋人だったのに。家族になろうとしていたのに。なれると思っていたのに。孤児だった彼女を、独りでなくならせられると思ったのに。 瞼を閉ざしてしまうと、瞼を通った温かな陽の光だけを感じられるようにしてしまうと、桜が舞い落ちるように、眠気が降って来る。 東都の通りを、歩いていた。 森の都とも呼ばれる東都には、至るところに翠が溢れる。屋根の上に、足元の道の上に、柔らかく優しい翠の影が降る。獣人や、青髪の人に緑髪の人、様々な姿や色を持つ人々が賑やかに行き交う。野菜や香木、様々な物の露店や店舗の並ぶ大通りを、歩いていく。 賑やかな大通りのその先に、花屋がある。 様々な花で彩られた花屋の店先、花束を作ったり花に水をやったりして働いている人々の中に、 「……子夜」 彼女が、居る。 「天人様」 作業の手を止め、彼女は、記憶にある通りに笑んだ。他の店員に許しを請う仕種をして後、真っ直ぐにこちらに駆けて来る。 何を言えばいいのか、わからなかった。逢えたのに。逢いたいと願っていた子夜に逢えたのに。 (千年以上生きたのに、わからないのか) 「天人様」 何か、言いたいのに。 腕を伸ばす。駆け寄る子夜の身体をきつくきつく、抱きしめる。夢だとわかっていても、彼女の身体は温かかった。 「天人様……」 背中に抱きついてくる細い腕。頼りなげで、心強い、腕。柔らかな温かな声。 髪を撫でる。腕の中に納まる優しい身体を抱きしめる。逢いたかった。逢いたかった。簡単なその言葉すらも、声にならない。 ――彼女は、二十歳になる前に死んだ。 東都の長に、青燐に、首だけとなって捧げられた。生贄の制度など、千年以上前に廃止されたのにも関わらず。 「天人様」 胸の中で、子夜が微笑む。彼女の笑顔が、とても好きだった。笑う声をずっと聞いていたかった。 「私は、幸せです」 ずっと、抱きしめていたかった。 たった半年程前の記憶。なのに遠く感じるのは何故だろう。思い出になどしたくないのに、遠くなるのはどうしてだろう。失ってしまった人を忘れることが、何よりも一番怖いのに。 「夢は……優しくて、残酷」 ぽつりと。涙の代わりのように、小さな言葉が降り積もる桜の花弁の上に、落ちた。 それでも顔を上げれば、笑みが浮かぶ。 「逢いたい人に、逢えましたよー」 笑顔が地顔になったのは、いつからだろう。 ◇ 歪は、案内された座布団に泰然と座る。ナウラに分けて貰ったうぐいす餡鯛焼きの優しい甘さに、顔を綻ばせる。 はぐれてしまった時は、迷子預かり所で待っているようにと言っていた連れの友人を思い出す。 (迷『子』か) 子供扱いされているようで不服はあったが、見えない眼ではぐれた友人を探すのは大変だ。大人しく待つことにする。 「……眼の見えない俺でも、夢なら、見えるだろうか」 傍に座っているらしい司書の熱を感じながら、歪は頭をもたげた。包帯で覆われた眼は、光を喪って久しい。視界を占めるのは、唯、闇。 けれど、頬に降る柔らかな陽の温もりや、風を震わせて舞う何千何万の桜の花弁や、そのあえかな香りは、見えずとも感じることが出来る。周囲で波のようにさざめき笑う人々の声や、楽しげに歩いたり走ったりする音に耳を傾ければ、心が和む。知らず、唇に笑みが滲む。 アクラブの名を呼んで司書が駆けて行き、クアールの迎えのオルグが彼の名を呼ぶ。 この桜の下で眠れば、夢の中、逢いたい人に逢えるのだと、この場を設えた司書が言っていた。 探している人が、居る。顔すらも判らない、誰か。それが誰なのか知りたい。逢いたい。例え夢とは言え、逢うことが叶うのならば―― ふわり、頬に黒髪に、桜の花弁が触れる。ほのかな陽の温もりを抱いた花弁が、頬を滑り落ちる。背中に触れている桜の樹に、優しく体重を預け、意識を委ねる。 爪先が幾重にも積もった桜を踏む。顔を上げれば、視界を覆うのは闇ではなく、薄紅色の桜。風と共、狂ったように舞い踊る桜の吹雪。桜の大樹が柱のように空へとそびえ立っている。天蓋のように桜が空を隠している。 空に重なる桜の枝を風が揺らす。曇天の雲のように重く咲き乱れる花々から、幾万の花弁が散る。桜花が頬に額に斬りかかる。冷たい花の嵐の中、眼を凝らす。いつも眼に付けているはずの包帯がない。見える。 これは俺なのか。俺ではない誰かなのか。ああ、でも、今はそんなことは構わない。 眼が見えるのならば、―― 桜の樹の下、探している相手が立っている。あの場に居るのが探している人だと、それは判るのに、桜吹雪が視界を覆い隠す。濃い霧のようにあの人を覆い尽くして隠してしまう。 踏み出す足が桜に取られる。桜を纏った風が進もうとする身体を阻む。押し流されてしまう。 逢いたいのに。探していた人に逢えると思ったのに。せめて顔だけでも知りたいのに。 桜の香が息詰まるほどに身体を押し包む。足を桜に掴まれ、身体を桜吹雪に押し倒され、花の上に膝を突く。花の風が耳元で渦巻く。 渦巻く風を払いのけるようにして、声が聞こえた。 「見つけ出してやる」 風に紛れていても、聞こえた。一言だけ、耳にはっきりと届いた。 声の主を求めて、桜吹雪に負けないように頭を上げる。 「必ず待っている」 声と共に涙が溢れる。 「破ったら承知しない」 声を嗄らして叫ぶのは、『歪』ではない。今在る自分ではなく、忘れてしまった過去の自分。 どうしてこんなに涙が溢れるのだろう。 頬に冷たく触れるのが、涙なのか周囲に舞い狂う桜の花弁なのかも、もう判らない。視界に押し寄せる、薄紅の桜。 僅かに身動ぎする。背に触れる桜の樹が暖かい。陽の温もりが頬を撫でる。花と違う柔らかな甘い匂いは、お菓子の匂いだろうか。 眠っていたのはほんの少しの間だったらしい。耳に届く人々の声も話も、それほど遠くなってはいない。 頬を裂くように吹き付けた夢の中の花弁と、今、ふわりと髪を撫でる温かな花弁の感覚の違いに僅かに混乱する。あちらが夢で、こちらが現実なのだと風や土の温かな匂いで確認する。 あれが誰なのかは、やはり判らなかった。相手の姿も見えなかった。 けれど、声を聞くことが出来た。結局判らないことだらけではあったが、不思議と落胆はしていなかった。 (……近くに、居るのか……?) 瞼の暗闇に小さな光が灯るような、心臓をつと掴まれるような、そんな感覚。 見えない眼で、思わず辺りを見回す。探している相手がすぐ近くに、桜咲き乱れるこのチェンバーの何処かに来ているような、そんな気がした。今立って走って行けば、きっとその人を見つけ出すことが出来る。 ――見つけ出してやる 歪の胸に、夢の中で聞いたその人の言葉が響く。 そうだ。待っている、と約束をした。待つと決めた。 降り注ぐ温かな桜の下、歪はその場に背筋を伸ばして座り直す。 待っている。俺は、ここに居る。 ◇ ナウラは小さく欠伸した。純白の髪の下の金眼に涙を滲ませる。眠たそうに瞬きする眼を茶褐色の肌した手で擦る。 持って来たうぐいす餡の鯛焼きや、司書から貰った金平糖や団子でお腹はいっぱいだ。 クラウスがチーズビスケットを一口で食べ、司書が桜餅を食べるのを躊躇っている。餅を食べると上顎と下顎がくっついてしまうらしい。青燐の迎えの黄燐が泣きじゃくりながらやって来る。歪の頭をくしゃくしゃと撫でているのは、迎えの鰍だ。 少し離れた桜の下では、猫と犬の獣人、ウルズとラグズに挟まれるようにして、クアールが横になっている。川の字、可愛い、と思い、唇に柔らかな笑みが浮かぶ。 「私も……」 桜の花を擦り抜けて降り注ぐ陽の光も、ほのぼのと暖かく、眠気を誘う。 「いや、寝ない」 小さく頭を振って、重たくなる瞼を再度擦る。だって周りでは大勢の人が楽しげに話をしている。お菓子を食べ、笑みあっている。まだまだたくさん、話がしたい。笑い合いたい。眠ってしまうのは、 「勿体……な……」 言いながらも、瞼が落ちる。こくり、頭が傾ぐ。 一度睡魔に捕まってしまえば、後は早かった。桜に肩と頬を寄せ、ナウラは静かな寝息を立て始める。 公園には桜で満ちていた。穏かな青空の下、大勢の地上人達で賑わう桜の公園を、歩いて行く。初めての花見に足が弾む。桜は綺麗で、みんなも楽しそうだ。 けれど、こちらを地底人だと気付いた何人かが、眉を顰め、あからさまに白い眼で見て来る。向けられる悪意に気を取られかけた時、温かな掌がナウラの手を取った。 眼を上げる。この花見の場に連れて来てくれた、『平沢特別探偵社』の社長、平沢と眼が合う。 地底人を厭う者も居る地上で、平沢を筆頭とする探偵社の面々はナウラに家族として接してくれた。兄や姉のように優しくしてくれた。地底人の兵士である自分に、温かさを教えてくれた。 「迷子になるから」 平沢に手を取られて、照れた。心配ないと言い、手を解こうとすると、 「察してくれたまえ」 彼は笑った。 「僕が迷子になる」 そうまで言われてしまうと、解こうにも解けない。繋いだ手は、平沢の人柄と同じに、温かくて大きかった。手を繋いでいれば、時折向けられる悪意も、簡単に受け止められる気がした。 桜の舞う中をのんびりと歩くだけで、幸せだった。地上人抹殺のための兵士として扱われる地下から、故あって地上に亡命し、『人類の敵』と戦う危険ながらも充実した日々が続いていた。平沢の下に居れば、特別扱いも蔑まれる事もなく、探偵社の皆と助け合えた。この優しい温かさを失いたくなかった。 幸せだと思う反面、罪悪感があった。故郷を離れた自分だけが幸せに過ごして良いのか。 頭上に咲き零れる桜を見仰ぎながら、平沢にその気持ちを告白する。 「幸福や平和を知らなければ、それらを歪めずに築く事は難しいのではないかな」 賑わう公園の一角、桜の木の下に、探偵社の仲間たちが茣蓙を広げる。その中の一人が二人に気付き、こっちこっちと手を振る。皆が揃い、弁当を広げる。 「去年の怪獣に踏み潰されなくて良かった」 「此処は駄目だと心得ていたのかも知れない」 桜が舞う中、話し合い、笑いあう内、いつの間にか花見も弁当もそっちのけで仕事の話に熱が入り出す。 「諸君が仕事熱心なのは有難いが」 その中にやんわりと割って入るのは、平沢。信頼する社長の言葉に、皆照れたように笑った。仕事を忘れ、戦いを忘れ、他愛もない話に興じる。降る花をそっと払いのけながら、弁当を摘む。 皆が笑う。温かな笑みの中、平沢と眼が合った。 『幸福や平和を知らなければ――』 先程の彼の言葉を思い出す。微笑む。 柔らかく優しく、平沢が笑み返してくれる。 優しくて幸せな時間だった。 眼を覚ましても、桜が舞っている。けれど、こちらに平沢達は居ない。 それでも、眠っている間に、誰か膝に毛布を掛けてくれた。起こさぬようにと気遣ってくれた。 夢の中で、大好きな人達に逢えた。 夢の中でも、現実でも、ナウラの唇は嬉しげに微笑んだままでいる。 ◇ 見仰げば、空を覆っていた桜の花は随分と散っている。地面を覆い尽くすように、桜の花弁が広がる。花見の時間はそろそろ終わる。 クアールの肩が大きな手で掴まれる。眼を覚ましたクアールの傍に居たのは、ウルズとラグズと、アイギルスの息子、オルグ。 クアールは夢の名残に泣く。親友と別れた悲しみと、掛けられた言葉の嬉しさ、その二つにいつもの無表情が崩れている。いつもなら、感情を封印してくれる眼鏡があるのに、寝入る前までは掛けていたはずの眼鏡は、今は無かった。慌てて探すものの、見つからない。 ラグズが懸命に描いた『お父さん』の顔と手紙をクアールに見せる。 『笑って、お父さん』 手紙に次いで差し出されたハンカチで涙を拭う。ごめんな、と震える声で謝る。 「その顔に戻るには、まだ時間がかかりそうだ」 それでも、いつか。いつか感情を隠すことなく、素直に表すことが出来るようになったときは。 ラグズの隠した伊達眼鏡を金色の鼻先に掛け、悪戯気に笑うオルグが立ち上がる。先に去るオルグの言った通り、今日はウルズとラグズと一緒に歩いて帰ろう。 迎えに来た鰍に頭を撫でられ、 「……俺はもう子供じゃァないんだ」 撫でないでくれ、と歪は苦笑いした。 見送りの司書や綾からお菓子の詰め合わせを渡され、歪はありがとう、と微笑む。ずしりと重い袋には、どれだけのお菓子が詰まっているのだろう。これだけあれば、持って帰って、弟にも食べさせてやれる。 ナウラに貰った鯛焼きをかじりながら、歪は鰍の足音を追う。 逢いたい人に逢えたのか、と言う鰍の問いに、歪は頷いた。 顔は判らなかったが、――いつか、きっと逢える。 その確信はある。約束を、したのだ。 ぱたぱたと尻尾を振る司書に抱きつき、ナウラは楽しげに笑う。 迷子預かり所の名を借りた、花見の場の片付けは大方終わっている。待っては居たが、迎えは来そうにない。立ち上がり、帰り道を辿る人々の背中を見回しながら、 「あいつ、来なかった」 まさか本当に迷子になってしまったのか、と唇を尖らせる。大人のくせに仕方ない奴だ、と拗ねたように言うが、その顔はすぐに笑み崩れる。 迎えは来そうにないけれど、良い夢を見ることが出来た。心は春の陽射しのように温かく、嬉しい。夢の中で見た、平沢の笑顔がまだ鮮やかに残っている。 「今回は許してやろう!」 くすくすと笑むナウラの足元で尻尾を振る司書に、またな、と満面の笑みを向ける。連れを探しながら、降りしきる桜の花弁の中、軽い足取りで歩いて行く。いつか彼らにまた逢えると信じて、今は前を向いて歩いて行こう。そうすれば、きっと。 「また会おうな!」 桜がひらひら舞い踊る。振り返り、ナウラは笑んだ。 ぽくぽくと音がする。青燐と同じような形の蒲公英色した衣装と顔を隠す布を被った、黄燐が履いているぽっくりの音だ。泣きながら青燐を探しに来ていた黄燐は、今はもう泣いてはいない。足元にじゃれつく司書に付き合って、ぽっくりの音を楽しげに奏でている。ぽくぽく、ぽくぽく。 目覚めた青燐が黄燐の手を取る。花散る道の帰路に着く。お師匠と弟子の関係でもある二人が話すのは、青燐が夢の中で逢った人のこと。 青燐と子夜。事情を知る黄燐に出来るのは、ただ、お師匠の悲しい気持ちや寂しい気持ちを理解すること。話に耳を傾けること。 愛しい人との繋がりを、この上もなく惨い方法で断ち切られてしまった悲しみを癒すことは、出来るのだろうか。癒すことなど、出来ないのだろうか。 「また……」 桜の樹の下で見送る人々に、青燐は微笑みを向けた。治まらない悲しみを抱いて、それでも、青燐は笑み続ける。 ひらひら、ひらひら、桜が薄紅を舞い散らせる。 春風に乗って、空を渡る。辿り着く先には、何があるだろう。誰が迎えてくれるのだろう。 終
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