「かわりはないか」「はっ。今のところ敵の姿は見えません。辺境の蛮族ども、先の戦いで相当痛い目を見たのでしょう」「そうか。だが油断はするなよ」 リュカオスの言葉に見張りの兵士は敬礼で応えた。 辺境の風は穏やかで、日差しは暖かい。静かな時間が続くと、ここが戦地であることを忘れてしまうほどだ。 駐屯地の兵士――彼が指揮する百人隊の様子を横目に、彼は兵営の天幕の傍らを過ぎ、ゆるい斜面を登った。隊は今、わずかな潅木だけが生える山の裾野に陣を張っていた。「隊長、どちらへ」 リュカオスが天幕へ戻らないのを見て、兵士のひとりが声をかけた。「向こうに温泉が湧いているのを見つけたのだ」「お一人で?」「心配はいらん。すぐ戻る」 すこし歩くと、岩肌からあふれだす湯がたまっている場所を見つけた。 リュカオスは武具と衣服を脱いでそこに揃えて置くと、自身を湯のなかにそっと沈めた。 辺境に着任してから戦い続きで、ゆっくりと湯浴みをする暇もなかった。疲労の蓄積した肉体がほぐれる感覚に、彼は目を閉じて息をつく。 この戦はいつ終わるのだろう。 はやく都に戻って設備の整った浴場へ行きたいものだ。 そのときだった。「隊長ー! 隊長ーーー!!」 部下の声に、リュカオスははっと目を見開く。 斜面を駆け登ってくる兵士の姿がある。そして、立ち上る煙と、遠くから響いてくる怒号。「敵襲か!」 彼は勢いよく立ち上がった。 その瞬間、濡れた岩のうえで、足が滑った。「うお!」 どぼん、と背中から湯の中へ倒れた。だがそんなことはものともせず、彼はおのれの役割を果たすために立ち上がろうとし――そして…… ◆ ◆ ◆「やあ、きみたち。依頼をしたいんだ。壱番世界へ行ってほしいんだけど」 世界図書館のホールには、依頼を出したい世界司書と、依頼を受けたいロストナンバーたちがいつでもたむろしている。そして今日もまた、新たな冒険旅行が始まろうとしていた。「壱番世界にどこかの世界から覚醒したばかりのロストナンバーが転移してくることがわかった。彼を保護してターミナルまで連れてきてほしいという依頼だよ」 司書と呼ぶにはいささか武骨な指で導きの書のページをめくるのは、大柄な壮年の男――世界司書モリーオ・ノルドだった。「行き先は壱番世界のニッポンというところ。しかも……」▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼スパリゾート『温泉キングダム』へようこそ!『温泉キングダム』は天然温泉を利用した都会の温泉テーマパークです。・豪華なローマ風呂エリア・楽しいジャングル風呂エリア・情緒あふれる江戸露天風呂エリア3つのエリアで、さまざまなお風呂が楽しめます。もちろんお食事処や休憩所、ゲームコーナーもあります。ご家族みんなでお越し下さい!▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼「……」「……」 大型連休のまっただなか、『温泉キングダム』の湯船に、高々と水柱があがった。 驚愕に静まり返った人々の注視のなか、そこに立ち上がった男は、ひどく狼狽した様子でなにごとかを喚き始めた。 そこは男湯だったから、たとえそれがコーカソイドに見えたところで、全裸の男がいてもなんら不自然ではなかった。ただ外国人客がなにか訴えているようだが誰も言葉がわからないのでどうしようもない、くらいの受け止められ方をしているようであった。 とはいえ男はあきらかに混乱をきたしており、誰か施設のスタッフを呼んだほうがいいのではないか――、人々がそう思い始めたところだった。 男の手のなかに、1秒前にはなかったはずの「剣」が……、他にどう呼びようもない、西洋風の凶器が出現しているのを見たとき、人々はわっと声をあげて逃げ惑い始めた。「……というわけで、その――“スーパー銭湯”っていうのかな? 大型の公衆浴場施設だね、そこにあらわれたロストナンバーを保護してほしいんだ。彼がどんな人物なのか詳細はわからないが、どうやら『自由に武器をつくりだす能力』を持っている。現地の人たちに被害が及ばないようにだけはしてあげてほしい」
1 「わかります。ターミナルにも近い施設はありますよね」 言ったのはミトサア・フラーケンだ。 壱番世界へと向かうロストレイル車中――風間 剛志は念のため、これから向かう銭湯のなんたるかを仲間たちに解説していた。 そういう剛志も異世界から来たツーリストではあるのだが、彼がもと暮らしていたのはミトサアやもうひとりのツーリスト、リーミンのいた世界より壱番世界に類似した世界であったし、しかも、そこで旅館を営んでいたというのである。 「大きなお風呂、楽しみですね」 リーミンが、観光旅行にでも行くように、無邪気に言って笑った。 そんな一同から、一人、離れた席にかけているのは間下譲二。 世界司書の話を聞いているときから、いやにニヤニヤしていた。なにか考えがありそうだったが……。 『間もなく壱番世界――、壱番世界です』 「お客様、大変、申し訳ありませんが……」 「ンだと、コラァ!?」 トラブルは着いて早々、起こった。 女性型サイボーグであるミトサアは浴場を掃除するスタッフに扮して潜入するつもりだ。彼女が掃除人の制服を拝借しに行くあいだに、男性陣はあたりまえの客のような顔で浴室へ入る。子どものリーミンも剛志といれば、おじいちゃんと孫に見えるし、なにも問題はないはずだったのだが。 「申し訳ございません」 施設のスタッフが頭を下げる。 平身低頭だが、規則は規則とゆずる様子はなかった。すなわち…… ――刺青の方のご入場はお断り致します アロハの下の刺青のおかげで、譲二の入浴が認められなかったのである。凄んでみせる譲二であったが、向こうも客商売。難癖をつける客あしらいは手馴れていて、ぺこぺこしながらも、一歩も引かず、押し問答となっていた。 しかも、譲二の連れているポンポコフォームのセクタン・諭吉がまったく空気を読まずに荷物からにゅっと顔を出し、 「お客様、ペットのお持込みもちょっと――」 といっそう状況をややこしくする。 もめごとにざわつく脱衣場を、申し訳ないが先に行かしてもらう、と軽く一瞥だけを送り、あとは他人の振りをして浴場へ向かう剛志とリーミンだ。 「ねーねー、おじいちゃん!」 リーミンがわざと大きな声で言った。 「今日、なんかイベントやるらしいよ!」 他の客にも聞こえるように声を張り上げる。 「武器をもった人から逃げ回ればいいんだって! えっと『銭湯で戦闘ビックリショー・闘争から逃走ミッションイベントフェアー開催!?風呂から風呂へ逃げまくれ!君は全ての風呂を制覇できるか!?』っていうんだって」 「ほう、そりゃあ、面白そうじゃなあ。武器とは物騒じゃが、まあとにかく見かけたら逃げればいいわけじゃな!」 剛志が話を合わせる。 いったいそれはどんなイベントなんだ、という感じだが、要は一瞬でもごまかせればいいのだ。武器を持った男が出現したら、浴客はすみやかに避難してもらわなくてはならない。 年齢を感じさせない屈強な体つきの剛志と、その孫かと見えるリーミンのふたり連れは、それなりに目立つ組み合わせではあったが、ロストレイルの旅人の特性により、違和感の眼差しを向けられることはなかった。それをいいことに、ふたりは広い浴場を、場所を変えながら同じ話を繰り返しているのだった。 途中、デッキブラシで床を磨くミトサアとすれ違った。こちらも見事に場に溶け込んでいた。 掃除のふりをしながら、浴場のレイアウトを記憶する。 来てみると、ターミナルにもある銭湯とはだいぶ様相は異なっていた。公衆浴場という意味では同じだがよりレジャー施設としての性格が強い場所だ。 ぶくぶくに泡立てたシャンプーの泡を頭に盛り上げて、さながらアフロヘアのようなになった自分を鏡の中にに見て、リーミンはくすくす笑った。 ざざーん、とそんなリーミンの頭から湯をかける剛志。 「楽しいかね」 「べ、べつに……遊んでなんかないですよ! こうして壱番世界に紛れることも作戦なんですっ」 ぶるぶると湯を飛ばして、リーミンは言った。見つめる剛志の目は優しい。 「あっ、浴槽も調査してこなくちゃ!」 「こりゃ、走っちゃいかん。それと、タオルを湯に漬けんようにな」 湯船に向かうリーミンに声をかける。 そのときだった。 2 「何の音だ!?」 脱衣場にまで、その音が聞こえた。 なにか大きなものが水に落ちたような音だった。 「今だ!」 譲二は、出遅れを取り戻さんと、気をとられたスタッフの隙をついて、その脇を走り抜ける。 「あ、ちょっと、お客様っ! 困りま――ぶっ!?」 彼の顔にぼふっとぶちあたってきたのは、ポンポコフォームのセクタンだった。譲二が投げつけたのだ。 走りながら、器用に服を脱いではぽいぽいと捨て去り、浴用タオルと洗面器片手に浴場に飛び込む譲二。 「待ってろよ、儲け話――って、うお!?」 譲二が飛び込むのと同時に、浴室からはわっと客たちが逃げ出してくるところだったのだ。完全に流れに逆らう格好になった譲二に、誰かがどん、とぶつかり、バランスを崩したところ、運悪く足のした石鹸があった。 「……ッ! いってぇな、おい、コラ! てめぇ何しやがん――ぐぁ!」 普段なら刺青の譲二に恐れをなすものもいただろうが、非常時にあって頓着するものはいなかった。すっ転んだ譲二を踏みつけていくものさえおり、文字通り踏んだり蹴ったりとはこのことである。 のそのそと追いついてきた諭吉が、そんな譲二の様子を、ウシシ、と憎たらしい感じで笑った。 「なんだというのだ、これは……何の魔道だ!」 リュカオスは叫んだ。 慌ててはならぬ――長年の経験で、混乱するおのれに平常心をよみがえらせようと努力する。同時に、生み出した剣の柄をしっかり握り、油断なく周囲に目を走らせた。 「!」 ごう――、と空を切って襲いかかってくるものがある。 反射的に防御姿勢をとった。 「ぐっ」 カァン、と高い音を立ててそれが刀身に命中した。なんという衝撃か。剣はリュカオスの手を離れて飛んでゆき、彼自身もよろめきかけた。 「話を聞いて!」 ばさり、と清掃スタッフの制服の下からあらわれるバトルスーツ。 ミトサア・フラーケンは洗面器を両手に構え、突然、浴槽に降ってわいた男――ロストナンバーに向かって声を掛けた。 「何者だ!」 リュカオスの手の中に、再び剣が出現した。空気から取り出したように、忽然とあらわれたのだ。 「武器はだめだよ!」 ミトサアは洗面器を投げた。 たかが洗面器であってもミトサアがものを投げるとき、それは凶器であった。常軌を逸するスピードで洗面器が空を切る! 「ぬ、ぐ!」 しかしリュカオスも、同じ攻撃を二度とは食らわなかった。今度は逆に剣で洗面器を叩き落としたのである。もっとも、そのせいで剣は完全に刃こぼれしてしまった。だが彼は躊躇なくそれを捨てるのだ。 「見慣れぬ武器だな。チャクラムの一種か」 本当は洗面器である。 「ならば」 リュカオスの両手に手斧が出現する。投げる武器には投げる武器、と思ったようだ。 「俺に何をした! ここはどこだ!」 ぶん、と手斧を放つ。 「だから武器はだめだって!」 ミトサアの姿が、残像をのこして素早く動く。避けたあとの武器の軌道に誰もいないことを確認しては避け、あるいは叩き落す。そして手近なものを掴んでは、 「くらえっ!」 と投げつけた。 「好きなだけ武器を呼び出せるみたいだけど――こっちは投げられる物ならすべててボクの武器だ! ソニックシュート!!」 思いつきで技名をつけたが実態はシャンプーボトルだったり、 「ジェノサイドサイクロン!」 石鹸置きだったり、 「アステロイドクラッシュ!」 石鹸そのものだったりした。 だがいずれも豪速で投擲される破壊兵器と化している。 リュカオスも負けてはいなかった。手斧にブーメラン、ボーラ、投げナイフなど、投擲武器を次々につくりだしては投げ返してくるのだ。 「うわぁ、こりゃひどいや」 ひょいひょいと飛び交う武器をよけながら、リーミンが駆けた。 とにかくあのロストナンバーの男に話を聞いてもらわなくては。司書の話では、相手は異世界の軍人ではないかという。 「隊長ーーー!」 彼は声を張り上げた。 相手がぴくりと反応した。隊長、という言葉に耳慣れているようだった。 「当浴場は制圧済みであります! 敵に抵抗の意思はないようです、我が隊には帰還命令が下りました!」 「な……に。どういうことだ。それにおまえは――、いやいや、おかしいぞ。わが隊におまえのような少年兵はいない!」 「とにかく武器を置いて話を聞け!」 剛志だった。威厳のある声で語りかける。腰にタオルを巻いただけの姿だったが、威風堂々とした様子に、リュカオスは目をしばたいた。 「そうか、蛮族の呪術師だな。魔道で俺を惑わそうということだろうが、そうはいかんぞ」 「黙らんか! おまえは武人だろう!」 鋭い叱責。 「その体つき、身のこなしを見ればわかる。なかなかできる。さあ、まわりを良く見渡してみろ! 武器を持っている者など一人もいないではないか! そんな中で武器を振り回すなど恥ずかしいと思――」 いや。 武器を持っているものはいた。 「……」 ふと目が合ったのは、両腕いっぱいに、リュカオスの投げた武器を拾い集めている間下譲二の姿だった。 「……なに見てンだよ!」 譲二は凄んだ。 「なにしてるの?」 無邪気に、リーミンが訊ねた。 「なにって、そりゃおめぇ、こいつが無限につくりだす武器を売り払やぁ、元手いらずで大儲け――あ~いやいや、なんでもねぇ、片付けてるンだよ、散らかしちゃ迷惑じゃねェか! おまえらは続けろ! 俺に構わず、続けろ! な!」 そのときだ。脱衣場のほうからどたばたと足音と声がする。 「こっちです! 武器を持ったひとが暴れてて!」 「まずい。説明はあと。とにかくここは」 ミトサアの言葉に反論するものはいない。 剛志とミトサア、リーミンが3人がかりでリュカオスをひっつかむと、わめく彼を問答無用でひきずっていく。 かれらがローマ風呂エリアから江戸露天風呂エリアへ消えたのとほぼ同時に、警備員たちが浴場に駆け込んできた。そして通報のとおり「武器を持っている男」を発見したのだ。 「おい、何をしている!」 「あァ!? うるせぇな、商売の邪魔すんじゃねーよ!」 「あー、この人、刺青禁止なのに無理やり入場してしかもペット持ち込もうとした人だ!」 付き添いの浴場のスタッフが譲二の罪状を並べ立てた。 「ちょっと来なさい!」 「おい、こら、なにしやがるーーー!!」 譲二の声がローマ風呂に響いた。 3 いったいこれはいかなる魔法だ。 辺境の蛮族が、このようなあやしい術をあやつるとは知らなかった。 たしかに、一瞬前まで山肌の温泉にいたはずなのだ。それが足を滑らせて、起き上がったときには別に場所にいた。 そこは、都の大浴場のようだった。 夢でも見ているのか、と思った。 いやそんなはずはない、と思い直した。その浴場には、同胞の姿はないようだった。かわりに、あまり見かけない、黒髪で起伏のない顔をした小柄な人種――おそらく奴隷階級と思われるものたちばかりがいるのだ。奴隷用の浴場だろうか。それにしては設備が豪華だ。 「ここはどこだ。おまえたちは誰の奴隷だ? 俺はリュカオス・アルガトロス。百人隊長だ!」 叫んだが、誰からも返事はなかった。 聞いたことのない言葉でぼそぼそと何事かを話し合っている。 そのとき、彼はふと気づいた。 凹凸の少ない顔の奴隷たちの頭の上に、ぼんやりと輝く数字のようなものが浮かんでいるのを――。 「おい! 放せ! 無礼もの!」 「どっちが無礼なの!」 じたばた暴れるリュカオスを、ミトサアが叱りつけるように言った。 「だいたいその見苦しい物をレディにいつまでも見せてんじゃないわよ」 「なに……っ」 そうだった。 ミトサアがあまりに平然と相対していたので今更指摘するのもどうかという感じだが、リュカオスは出現してからこのかた、全裸なのであった。 リュカオスはそのときはじめて、ミトサアが女性なのに気づいたとでもような素振りだったが、かといって、全裸なのをあまり恥じる様子でもなかった。そういう文化風俗の中で生きていたのかもしれない。 「手加減してあげてたけど、なんなら、次はそこに命中させてもいいんだよ!」 ミトサアのパワーでそんなことになったら気絶どころではすまないだろう。おそらく絶命する。 それを慮ってか、リーミンが手持ちのタオルをリュカオスの股に通し、両端をきゅっと縛り上げて肝心なところを隠すように包みこんだ。 「パンツ~♪」 「こ、こら、何をする!」 「暴れるな! いい加減、頭を冷さんか! ええい、仕方ない」 剛志が業を煮やしたようだった。 さいわい、かれらがリュカオスを運び込んだ江戸露天風呂エリアは、騒ぎのせいですっかり客がいなくなっていたのだ。 剛志の丸太のような腕が、うしろからリュカオスをがっしりと羽交い絞めにした。 「な、なにを」 こうなると身じろぎさえできない。 次の瞬間――、 「う、おおおおおおお!?」 剛志は露天の空高く、舞い上がっていた。むろん、リュカオスも道連れだ。 「おとなしくせんと、ここから落としてしまうぞ!」 リュカオスは脚をじたばたさせたが、一喝されて動きを止めた。 「な――」 リュカオスの翡翠色の瞳が、見開かれた。 「こ、ここは……」 空を渡る風が、風呂場で暴れて汗だくの体を冷やしていく。 上空から見下ろす風景は、どこまでも続く壱番世界の街並みで、それはリュカオスの生きていた世界とまったく違うものであることはあきらかだった。 「ここは……どこだ。……俺は……どうなってしまったんだ……」 「やれやれ」 剛志が息をつく。 「じゃからそれを説明してやるというに」 「じゃあ、あれは全部、玩具なんですか? はあ、よくできてますねえ……」 ミトサアが片付けている武器を見て、施設のスタッフは言った。 ミトサアは再び清掃人の姿で顔を隠しつつ、そそくさと武器を抱えてどこかへ消える。――と、武器があらわれたときと同じように忽然と消え失せたので、彼女は目をしばたいた。一定時間が経過すれば消えるということか。これでは譲二の儲け計画もまったくの皮算用ではないか。 「……って、あの人、どこに行ったの?」 「ま、そんなわけで、日本の銭湯が珍しくてちょっと興奮したみたいでの。本人にも言って聞かせます。ご迷惑をおかけしました」 剛志がそう言って、リュカオスの膝の裏を蹴る。 言われたとおり、頭を下げて、「すまない……」と謝罪を述べるリュカオス。その言葉はまだ通じないが、これで一応、外国人客がちょっと騒ぎを起こしただけだということにできるだろう。 施設のスタッフを見送って、ふう、と一息。 それから剛志は、リュカオスの肩を叩いた。 「さ、あらためて、風呂に入り直しじゃ」 剛志とリュカオス、そしてリーミンは、ジャングル風呂エリアへ向かった。 天窓から陽の光が差し込む中、大小の湯船の合間に熱帯性の植物が植えられ、目にしみるような緑が鮮やかな空間だった。心なしか空気も爽やかだ。 湯に浸かりながら、剛志はロストナンバーについて、語って聞かせた。 リュカオスは、武人ではあったが、決して知性に乏しい男ではないようだった。剛志の言うことを、驚きはするが理解はしている。 「……そうか。戻れないのだな……」 「残してきた仲間や世界は気がかりじゃろうがなぁ」 「……」 聞けば、彼は遠征中に覚醒した。戦いの最中に、指揮官が消えたのだ。自分の部隊のことが心配でたまらない。しかし考えても致し方がないことだった。残されたものたちを信じるしかないと言われ、リュカオスは頷く。 長い話が続くあいだ、リーミンはつい、誰の目もないので、風呂で泳いでみたり、握った手の間からぴゅーっと湯を飛ばしてみたりして、ちょっとだけ(ほんのちょっとだけ!)遊んでみたりした。 「……あれ?」 ふと気づくと、近くの植木の茂みががさごそと揺れている。 「……」 首を傾げ……、それから、はたと気づいてぽんと手を打った。 そして、風呂桶に湯を汲んでくるや、くすくす笑いをこらえながら…… 「うお!? 熱ィ!?」 悲鳴とともに飛び出してきたのは、もちろん譲二だった。 「なにしやがんでぃ、このガキ!」 「そんなところに隠れてるのが悪いんですよーっ」 けらけらと笑った。 「なんじゃ、どこに行っとんたんじゃ」 呆れた様子で剛志が言った。 「う、うるせぃ! なんだよ、もう終わったのか。……おい、新入り!」 「……俺のことか?」 「他に誰がいるってんだ。この世界じゃ自分が先輩だ。裸の付き合いでどんと行こうじゃねぇか」 なれなれしく肩を組む。 いきなり先輩風というのも驚きだが、たしかに譲二の弁も本当ではあるのだ。 「そ、そうだな。いろいろ教えてもらわねばならないが……」 「おーゥ、いい心がけだ! じゃあまず背中でも流してもらおうか!」 そう言って、いやに大きな態度で、風呂椅子に腰掛け、背中を向けるのだった。 「背中を……? あかすりということか?」 「あかすりたぁ、よく知ってるな」 「俺の国では、風呂で過ごす時間はとても大切なものだった。あかすりも専用の係がやるのが普通だが……まあ、やってやれないことはない。では」 リュカオスは湯からあがると、おもむろに、譲二の前に立つ。 「ではいくぞ」 「……あ?」 「体の汚れを落とす前に汗をかくために運動する。常識だろう!」 「なんだと、おい、コラ……!」 話を聞くに、壱番世界の古代ローマに似た世界だったようだ。 ローマの浴場では、彼の言うように、利用者が風呂にはいる前にレスリングを楽しむのが習慣であったという……。 あざやかに決まる関節技に、譲二の悲鳴がジャングル風呂に響き渡ったのは言うまでもないことだった。 * 「じゃあ、浴衣は持って帰ってきちゃったの?」 帰りのロストレイル。 ミトサアの問いに、頷く剛志。 「仕方ない。裸のままというわけにもいかんじゃろう」 「確かに」 「……アレも、ずいぶん気に入ったみたいね」 「そうじゃのう……」 『温泉キングダム』というロゴ入りの浴衣を着たリュカオスが、リーミンと並んで腰掛けている。 「う、うまい……ッ!」 「うん、おいしいよねー」 「これは一体、何でできているのだ……!」 「うーん、フルーツ牛乳だから……、フルーツと、牛乳?」 「もう一本、開けてもいいだろうか……」 「いいんじゃない?」 フルーツ牛乳の空き瓶が、すでに十本近く、そこに並んでいた。 別の席では、譲二が関節の痛みに伸びていたが、ポンポコフォームの諭吉が、飼い主の惨状も知らぬ顔で、フルーツ牛乳のお相伴にあずかっているのであった。 (了)
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