オープニング

 進路は北北西。天候は上々で、風向きも申し分ない。

 掌の中に収められたコンパスを眺め、青年はひとつ満足げに息を吐くと、欄干に寄り掛かった。赤いバンダナの端が、風に躍る。
 微かに揺らぎながら一点を指し示すその針が、背を向ける方角。青い空ばかりが広がるその場所に、眩いまでの太陽が高く昇る。
「――あ」
 不意に強い風が吹き抜けて、船が軽く揺らいだ。
 その拍子に重心を崩され、たたらを踏んだ彼の掌から、真鍮の鎖を靡かせてコンパスが滑り落ちる。焼けるような陽の光が硝子に跳ね返り、眼を射るように煌めき躍る。
「……本当に行くのか」
 落ちたコンパスを拾い、ロミオへと差し出したひとりの男が、苦々しい口調でそう言った。受け取り、青年は小さく頬を歪める様にして笑う。
「ジャンはいつもそれだ」
 大方、つい先日送り付けた予告状の事を言いたいのだろう。ロミオよりも幾つか年上のこのジャンと言う男は、もう長いこと彼の隣で共に戦ってくれているくせに、いつまで経っても慎重に過ぎるきらいがある。
 コンパスを握り締めた片手を胸に宛て、とんとんと叩いてみせる。心配いらない、とでも言いたげなその仕種に、男の眉間には更に皺が寄り、けれど口許には笑みが浮かんだ。
「すこしは信じろよ、おれを」
「信じてるさ。……前の様に油断はするなよ」
「いつのことだ?」
「……いつものことだったな」
 軽やかに会話を重ね、二人顔を見合わせてからからと笑い合う。
 彼らの眼前に広がるのは、果ての見えない空の青と、無限に広がる海の青。奔放に流れる風が、ロミオが巻いた赤いバンダナの端を翻していく。


「お前達に行ってもらうのは、無限の海洋・ブルーインブルーだ」
 世界司書シド・ビスタークは集まったロストナンバーへ目を向け、徐に口を開いた。
「とある観光船に海賊から襲撃の予告状が届いてな。――そう、『海賊王子』だよ」
 ひらひらと指に挟んだ紙を揺らしてみせ、その口許を微かに歪める。
 『海賊王子』ロミオ。ブルーインブルーで広く名の知られた海賊であり、義賊的な振る舞いと爽やかな佇まいから、一般の民衆にも支持されている青年だ。世界図書館――ロストナンバー達は、これまでに幾度か彼と接触し、その人となりに触れてきた。
 シドの口から出た耳慣れたその名に、旅人達は小さく頷く。
「……だが、今回の依頼。少し様子がおかしい」
 不意に表情を引き締め、予告状の写しをテーブルの上に広げたシドは、サングラスの奥からロストナンバーを窺い見た。予告状の紙面には今までと変わらぬ気障な台詞が綴られているが、問題はそちらでは無いらしい。
「ロミオはいつも、悪徳貴族の乗っている船だとか、不正な取引をする船だとかを狙う、と言うのはお前達も知っているな? 今回の襲撃対象は、そのどちらでもないんだ」
 それは希望の階(きざはし)・ジャンクへヴンからその近くに在る都市島・ランゴバルディアへと向かう、ただの観光船だ。二つの都市島を結ぶ海域は常に霧に覆われていて――かつては海魔が頻出する海域であったが、最近ではそれも姿を見せなくなったと言う――霧の夜の情景を楽しむ、穏和なツアーであるらしく、海賊王子が目の敵とする貴族達が乗り合わせそうには見えない。
「……予告状を見る限り、ロミオはこの船を人身売買の船だと思い込んでいるらしいな。どうしてこんな勘違いが起こっているのかは判らんが……おかしいのはこれだけじゃないんだ」
 一旦言葉を切って、ゆるく首を振る。獅子の鬣にも似た髪が、大きく揺らいだ。
「どうやらその船は、ジャンクへヴン海軍からの護衛を断ったらしい」
 己で傭兵を雇ったため護衛は必要ない、と――無力な人々を乗せるはずの観光船が、海軍の介入を拒絶した。胡散臭いだろう、と大仰に肩を竦め、シドは苦笑を浮かべる。
 とは言え、実際にその船はただの客船とは思えぬほどの武装を施しており――海魔が出ていた海域なのだから当然の装備だ、とツアーの主催者は語っている――、弱小海賊に過ぎぬロミオ団を撃退するには充分過ぎるほどであるらしい。
 この上で海軍が世界図書館に協力を仰ぐ意味はあるのか、とロストナンバーの頭に疑問が浮かぶのを見越し、シドは言葉を続けた。
「ジャンクへヴンとしてはロミオを捕縛するなり何なりしたいらしい。……奴も、海賊である事に変わりは無いからな」
 その為に、ロストナンバーを『船の雇った傭兵』として送り込みたいのだと言う。正式な護衛依頼では無いため、派手な行動は控えてほしいとも釘を差されている。
 それとな、と表情を緩めぬまま、シドは言葉を続けた。
「――最近、ジャンクへヴン海軍が我々に不審な目を向けているようだ」
 曰く、ロミオ団を撃退しに行ったはずのロストナンバーに、海賊と内通しているかのような素振りが見られた、と。ジャンクへヴンから世界図書館へ向け、通達があったのだとシドは語る。それが一度ならばともかく、二度三度と続くものだから、耐え兼ねて彼らも苦言を呈したようだった。
「ジャンクへヴンとの交流が断ち切られるのは、世界図書館にとっては大きな痛手だ。……だが」
 その先の言葉は、続かない。
 己も世界図書館に従事する者であるためか、シドの声は常よりも精彩を欠いている。苦虫を噛み潰したような顔で、しかしサングラスの奥の瞳は真摯に旅人達を射た。
「……こればかりは俺からは何も言えない。ただ、お前達の信じるままに動いてくれ」
 俺はそれを信じよう、と呟き、世界司書は旅人達の無事を祈る。


「そう、あの子鼠さんは簡単に引っ掛かってくれたようですね」
 背後で淡々と語られた報告を不穏な静けさの中で聞き届け、ソファに深く深く身を預ける。淀んだ赤、乾いた血にも似た色彩に身を包んだ男は、振り返る事も無くくつくつと笑った。
 新たな『ショウ』を行うために、必要な条件は整った。圧倒的な武力、屈強な傭兵、広い客船――そして、弱小だからこそ嬲り甲斐のある、人間達。
「理想だけの集団など、力の前には簡単に瓦解するでしょう。――ですが、それだけではいけません。このショウの主役は、観客の皆様なのですから」
 彼らの手をお借りせねば、この壮大なショウは成り立ちません。囁くように語られた言葉に、背後に立つ相手が深く頭(こうべ)を垂れた。見るまでも無く、男にはそれが判っている。
 そして、前置きを設ける事も無く、唐突に問うた。
「ねえ貴方、人を殺したいと思った事はありますか?」
 媚を孕んだ軟弱な口調は男の肥大した身体には似合わず、気味の悪いほどによく響く。地を見たままの相手から答えが返る事は無く、けれど男は上機嫌に笑みを零した。
「私はありますねえ。……人は皆、醜い欲望を理性と言う箍で抑え込んでいるだけなのですよ」
 殺戮は快楽に繋がる、と男は常々そう考えている。法の秩序の下にあって、いつまでも犯罪が已まぬ事こそ、その理由だ。――人は何処かで、殺戮願望、破壊衝動を抱えて生きている。
「たとえば、蜘蛛の子を踏みにじるように人の命を奪うことが許されたら? ……彼らは喜んで、武器を手に取るでしょう。何しろ『正当防衛』という、絶対の免罪符がこちらにはあるのですから」
 愚かな群衆を責めるつもりなど、毛頭ない。その手に武器があり、眼前に無力な獲物が居て、罪を問われないと言われれば、誰だって抑圧していた衝動を爆発させるに違いない、と男は確信していた。
「私たちはね、そのお手伝いをするのです」
 決して悪い事ではない――寧ろ、善行であると、男は謳うように語る。

「さあ、狩りのはじまりですよ」
 遠く遠く、無限に広がる青の何処かで、銃声が轟く。

品目シナリオ 管理番号631
クリエイター玉響(weph3172)
クリエイターコメント皆様、こんばんは。
月見里WRからバトンを受け継ぎまして、【青の羅針盤】シリーズ二作目は私、玉響が勤めさせていただきます。
今回は前作から一転、ややダークな内容のノベルですので、場合によっては後味の悪い結末を迎えるかもしれないことを御承知くださいませ。

此方のノベルでは、無限の海洋・ブルーインブルーへ行っていただきます。
ジャンクへヴンからの指示としては「正式な依頼では無いため派手な行動は控える事」「ロミオ団を撃退する事」となりますが、シドの言う通り、護衛対象の船には不穏な動きがある様です。
OPの情報から、船で何が行われるのか推測するのは簡単だと思いますが、PC様が聞いた情報と、PL様がお持ちの情報を混同されないことが大切です。その上で、あなたのPC様であればどの様に考え、どう行動するかをお聞かせくだされば幸いです。
ちなみにOPに登場したガルタンロックは船には同乗しておりませんので、本編には登場しません。

尚、【青の羅針盤】はシリーズとなっておりますが、一連の事件にはあまり繋がりはありませんので、前回参加されなかった方のエントリーももちろん歓迎しております。

それでは、参りましょう。月明かりの下開かれる、血塗られたショウへ。

参加者
ベヘル・ボッラ(cfsr2890)ツーリスト 女 14歳 音楽家
夕凪(ccux3323)ツーリスト 男 14歳 人造精神感応者
レウィス・リデル(chdp8377)ツーリスト 男 28歳 狙撃屋
一ノ瀬 夏也(cssy5275)コンダクター 女 25歳 フリーカメラマン
世刻未 大介(cuay8999)ツーリスト 男 24歳 特務機関七課三佐

ノベル

 怠惰な漆黒の瞳が、談笑する人々を観察する。
「……仮面舞踏会、か」
 腕を組み、世刻未 大介は聴こえぬほどの小さな声で呟いた。
 華やかなその宴は、深々と凪いだ夜の海にはふさわしくない。
 左右色の違う面を被り、飄々と歩き去る道化が居る。目元を華やかな仮面で覆い、数人で語らう貴婦人が居る。漆黒のヴェールでその貌までもを隠した喪服の女が居る。色彩も形状も様々なそれらに共通しているのは、素顔を晒さない、と言う一点のみだ。
 壁に貼り付く様にして屈強な男達が並び、ただじっと立ち尽くすその姿は、息を殺して、何かを待っている様にも見える。壁に背を預け、気楽にしている大介が浮いて見えるほどだ。若干の居心地悪さを覚え、再び視線をホール内へと向ける。
 ――そして、彼を襲うのは、小さな違和感。
「どうして、誰も外を見ない……?」
 この船は、霧の夜を楽しむ観光船ではなかったのか。夕刻はとうに過ぎ、空の陽は落ちて久しい。夜の帳が天上を覆う今こそが、彼らの目当ての時刻ではないのか。何故、誰も外を見ようとしない。
 かすかな違和感はあれど、それは予感に過ぎない。欠伸を噛み殺し、大介は怠惰な瞳を上空へと向けた。


 意識だけが肉体から離れ、虚空をさまよう感覚。
 精神を肉体から切り離し、幽体となって周囲を偵察する。Sランクの精神感応者である夕凪の持つ能力のひとつだ。常態よりも明るく、正確に物の輪郭を把握できる幽体の眼でもって、部屋のひとつひとつをつぶさに観察していった。
 やはり、世界司書の言っていたとおり、やけに武器が多い。砲台のような物騒なものまでも平然と置かれており、誰一人としてそれを訝しがるものも居ない。まるで、そこに在るのが当然だとでも言うかのように。
 ふと、目を凝らす。
 黒く煌めく砲台の傍に、何者かが蹲っている――否、背を低く屈め、何やら細工をしているように見えた。
 砲撃手として雇われた輩だろうか。見当を付け、幽体を廻り込ませてその顔を窺う。
 銀の髪をもった、柔和な顔立ちの青年。傭兵にしてはやけに華奢な男だ、と考えた所で、ようやくそれが誰であるかを思い出す。夕凪が知る男、彼の同胞だ。
 不意に、砲身を探っていた手を止め、男が赤の瞳で周囲を窺う。誰かが近付く気配に感づいたのか。幽体である夕凪もまた、周囲を探ってみるが、人の気配は無い。
 しかし、男は視線を彷徨わせるのを止めず――やがて夕凪が留まっている辺りに視線を定め、小さく笑んだ。
「……」
 視えているのか。そう問おうとして、やめた。敵でないならば関係がない。
 代わりに、それ以上の偵察を止め、夕凪は意識を肉体へと引き戻した。
「おかえり」
 実体の瞼を開く。虹彩に忍び込む光が眩しく、しかしそれ以上の視覚情報は得られない。小さく舌を打った。双眸が使い物にならぬから、創り出した第三の眼。感覚をそちらに移行させて、改めて辺りを――声のかかった方向を、探す。
 船倉の樽に凭れかかって、女が一人、座り込んでいた。ひとつ首肯を返せば、フードに顔を埋めたままの女は平坦な声で「おはよう、の方がいいかな」と言った。
「……なー」
「ん?」
 欠伸混じりに声をかけてみれば、女は表情一つ動かさずに夕凪へと視線を向ける。
「あのおっさんの事だけどさ」
「おっさん……海賊王子の事かい?」
「そうそう。……その二つ名、恥ずかしくねーのかな」
 思わず独りごちた言葉を拾い、フードと外套に姿を隠した女、ベヘル・ボッラは笑う。妙に響いて聞こえるその平坦な声は、まるでスピーカーから流れているようだ、と夕凪は感じた。
「きみは、この船についてどう思ってるんだい?」
 夕凪の疑問には答えず、抑揚のない声でベヘルが問う。目を細めて欠伸をひとつこぼし、夕凪は投げやりな口調で応えた。
「……はめられたんじゃねーの、おーじサマ」
 胡乱な眼を上空へと向ければ、窓から射す月光を浴びて煌めく球体が浮遊している。そうかい、と返る声が、そこから放たれているように聞こえた。
「観光船が海軍の護衛を断ってるって、どう考えても怪しいだろ。おーじサマなら見過ごさない、絶対食い付いてくる偽情報を流して誘き寄せたって事じゃねえの」
 ぼんやりとした口調で語りながら、その観察眼は決して鈍くない。ベヘルはフードの下で、唇を満足そうに歪めた。
「こっちの船に乗り移ってきた後なら、相手に何をしても『襲われた』で通せるしな。相手が犯罪者なのと海域の様子を考えれば、辻褄あわせもカンタン」
「そう。ロミオは海賊で、この船は『被害者』なんだ」
 口に出して呟いても、まるで御座成りの舞台の役柄にしか聞こえない。本当に襲い、襲われる側はどちらなのか――どうやら、それを見極めねばならぬようだった。


 擦れ違った二人の貴婦人を振り返り、一ノ瀬 夏也は胸元のポラロイドカメラを握り締める。
「あの、すみません」
 声をかけてみれば、二人の女性は素直に歩みを止めた。同時に振り返る、仮面に隠されていない口許には怪訝な表情が見え隠れし、彼女達の持つ素朴な善良さを窺わせる。
「ちょっと、写真を撮らせてもらってもいいですか?」
 夏也は微笑み、手にしたポラロイドカメラを軽く掲げて見せた。
「シャシン……?」
 ブルーインブルーには、カメラと言う機械技術はない。夏也は僅かに肩を竦めて、
「異国の絵画技法なんです。ちょっと立ち止まってもらうだけで、本物と見間違えるほどの絵が出来るんですよ」
 と、淀みない口調で答えてみせた。異世界でカメラの事を咎められたら、大概こう答えるようにしている。二人の仮面の女は怪訝な表情を浮かべたままであったが、一応は納得したようだった。
「写真、撮っても構いませんか?」
「……ごめんなさい」
 再度の嘆願は、暫しの逡巡の後に断られた。明らかに困惑した様子を見せ、けれど申し訳なさそうに、女達は軽く会釈をしてその場を離れる。
 それを残念に思うでもなく、夏也は二人の後姿を見送った。念の為に起動させていたボイスレコーダーの電源を切り、二人とは逆方向に踵を返す。
 彼女達は、己の姿が絵として残される事を厭うたようだった。
 写真、それは写っている人物がこの場に居た証に他ならない。それを忌避する、と言う事はつまり――後ろめたい何かがある。人身売買ではない、何かが。
 確証にも似た確信を掴み、夏也は肩の上に乗せたセクタンの毛並みを優しく撫でる。
「ホロホロ、少し頼みごとをしてもいい?」
 つぶらな瞳を覗き込むと、無表情の梟は首を傾げ、ほーう、とひとつだけ啼いた。


「……鳥だな」
「だな」
 波飛沫とイルカの描かれた帆をはためかせ、揚々と船が進む。その甲板に立ち、ロミオは薄く霧がかった空を見上げてひとつ首を傾げた。隣に立つジャンもまた、頷く。
 薄い青色をした、掌で包み込めそうなほど小さな鳥が、彼らの頭上で懸命に羽ばたいている。何者なのか、と羽撃きながらもロミオを見つめるそれへ手を伸ばせば、
『暢気なものだね、まったく』
「!?」
 唐突に、青い鳥が彼へと語りかけた。
 驚いて手を退いた青年の眼前に、ひとつの円が降る。狭霧を映して白く曇り、けれど確かに光を放つ、ひとつの球体が。
「おまえ、確か」
『やあ、海賊。久しぶり、早速だけど勘違いだ』
「勘違い?」
 かつての記憶を探ろうと上げた声を制され、更には矢継ぎ早に放たれた話題に、ロミオはついていく事が出来ずただ鸚鵡返しに問い返す。鏡の表面をもった泡、ベヘルはひとつ肯定を返し、言葉を続けた。
『詳しくはそこのホロホロ君から聞くといい』
 ベヘルに己が名を呼ばれ、青い梟が小さくほーう、と誇らしげに鳴いた。足元に括りつけられた紙片を、ロミオへと差し出す。
「人身売買が誤解……どういう事だ」
『見ての通りの意味さ』
「信じろと言うのか、これを」
 青い鳥が運んだ情報が、あまりにも己の収集したものと食い違っていて、当惑を隠せない表情でロミオは頭上の球体を睨みつけた。
『信じないと言うのかい、ぼくらを』
 ロミオの言葉を真似て答え、茶化すような響きを伴った声が降る。
「……だが、見てみない事には判んねえだろ」
『そう』
 抑揚のない声がひとつ相槌を打ち、不意に口を閉ざす。唐突に訪れた静謐は霧の夜に不気味なほど沁み渡り、海賊達の背筋を震わせた。
『そういうと思った。別にぼくは止めやしないよ』
 やがて、繋げられた言葉は機械じみた響きの中に若干の期待を滲ませ、霧中を漂う泡と羽撃く梟は高く飛び上がる。
「おい、」
『ひとつだけ忠告。攻撃をしてはいけない。真実を確認したら、逃げるんだ。いいね』
 光すら届かぬ場所から訪れた泡は、そのまま深い霧の闇に立ち昇り、姿を消した。


 控え目な拍手の音が、ホールに響いた。
 喧騒とは言えぬ程度にざわついていた場が、波紋を描くように静まり返る。
「皆様」
 ホールの中央に踊り出、恭しく腰を折って口火を切ったのは、装飾の無い白い面を被った男だった。まるでマネキンの顔をそのまま切り落としたような、不気味に表情の無い仮面。
 絹の手袋に覆われた手を恭しく掲げる。まっすぐに窓の向こう、狭霧に包まれた海面へと向けたそれを追って、顔を傾けた。
「仕掛けて来たのはあちらです。――我らには、罪は無い」
 厳かに放たれた言葉に、ホールの中を行き交う全ての仮面が頷きを返す。
 手袋に覆われた両手が、二度打たれた。小さな音は、話し声ひとつないホールに響き、それを合図に、屈強な体躯の男達が数台のワゴンを曳いてきた。
「何をしようと、我らが罪を問われる事は無いのです」
 白い布が敷かれた、その荷台の上。
 それを目にし、大介は小さく息を呑んだ。周囲に聴こえなかったかと、咄嗟に口許を抑える。
「さあ、どれでもお好きなものをお取りください」
 武器だ。剣、曲刀、短銃に猟銃――或いは手榴弾に似たものまで、ありとあらゆる銃器が、並べられている。どれも、人の命を容易く奪う、といった意味では同じものばかりだ。
 ぞろぞろと、光に誘われる蛾に似た様子で無貌の者達が集う。口許を隠していない者達の表情が、醜く歪んでいるのが見える。
 無理矢理にでもたとえて言うならば――獲物を罠にかけ、じっくりと嬲り殺しにする捕食者のそれだ。残虐な愉悦に満たされた、いびつな笑み。
 人々の眼が武器に向けられている隙を縫って、大介はホールを抜け出した。ここに居てはいけない。身を斬られるような謀略、そして吐き気がするほどに醜い欲望を察し、己のすべき事を悟った。
 不穏な空々しさを孕んで、船は霧の夜を進む。


 大きな衝撃が、船倉を襲う。
 一瞬の、自然的とは思えない大きな揺るぎに、夕凪は胡乱な眼を壁へと向けた。
 焦点の合わぬ眼を大きく見開いて、ただ無言を通す。試しにスピーカーを眼前で揺らしてみても、反応ひとつ見せない。また幽体離脱をしているのだろうかと疑うほどだ。
 緩慢に立ち上がり、さながら目覚めたばかりの獣のように、両腕を上げて伸びをする。ベヘルがその仕種に合わせて視線を上げれば、少年はやはり胡乱な瞳を彼女へ返した。
「そろそろおーじサマが来るんだろ」
 髪を掻き混ぜ、気だるそうに呟く。先程の揺れの意味を正しく理解し、部屋の外へと歩き始めた。
「会いに行くつもりかい」
「訊いてみたい事があるしな」
 表情の薄い面(おもて)をフードの奥に隠し、いってらっしゃい、と陶器人形に似た女は呟く。立ち去る少年の後姿を、ただぼうやりと眺める。
「……それにしても、やけに素直だ」
 ホールに忍ばせていたスピーカーからの音声を聴きながら、ことりと首を傾けた。その場所に集っている観客達に、己の意志と言うものが一切感じられない。それを奇妙に思い、また不穏にも思う。
 わざとらしいほど、華々しい口上を述べた男。あれが扇動者だろうか、と見当を付けて、ホールに忍ばせた泡に新たな指示を飛ばした。
「……海賊。こんなもので心を折るなよ」
 独りごちて、余計なお世話かな、と自嘲する。ただ、それを聴く者は何処にも居ない。


 風がいやに冷たい。霧の孕む生温さを吹き飛ばすかのように、彼らの皮膚を突く。肌寒さに二の腕を摩り、ロミオは船から船へと飛び移った。
「待て、ロミオ。おかしくはないか」
 続けて飛び移ろうとしてたジャンが、ふとロミオを呼び止める。これだけ派手に船をぶつけたと言うのに、誰一人として迎撃に出ない。船腹に並んでいた大仰な砲も結局放たれる事は無かった。いくら観光船とは言え、この反応は妙だ。
「ビビって出てこられないんだろうよ」
 振り返り、渋面を作るジャンに笑ってみせる。さあ、と歩みの鈍い彼を促し、船室へと続く階段を意気揚々と下った。
 階段を降り、廊下をまっすぐに進む。突き当たりに置かれた仰々しい扉を開けば、半円形のホールが彼らを迎えた。円の弧にあたる場所には深緋色のカーテンが引かれ、元は真円の部屋を二つに分けているようだ。
 だだ広いだけで物の置かれていないその場所に、二人の人間が立っている。それを目にし、警戒を露わにするジャンを今度はロミオが止めた。
 その片方、淡い茶の髪を軽やかに流した女を、ロミオは知っている。――船上で鏡面の泡と邂逅した時から、彼らが来ているのではないかと薄々感づいてはいた事だった。驚くでもなく、ただ片眉を上げる。女の方も、真摯な瞳で微笑み、応えた。
 少女めいた容姿の少年が、大きな黒い瞳を二人の海賊へと向ける。人形の首が曲がるように無表情で顔を傾げ、その青白い唇を動かした。
「アンタが恥ずかしい二つ名のおっさん?」
「おっさ……!?」
「ロミオ、反応すべきはそこじゃない」
 思わず激昂し、少年に掴みかからんとしたロミオをジャンが押しとどめる。長年の慣れが見えるやりとりに、状況も忘れて夏也は小さく笑みを零した。夕凪は怯えるでも笑うでもなく、首を傾げたまま淡々と言葉を続ける。
「おっさん、綺麗事掲げて、なんで何の得にも成らない事すんの?」
 前のめりのロミオとそれを止めるジャン、二人の海賊の動きが止まった。虚を突かれた顔で、ただ少年を見つめる。
「綺麗事、だと」
 辛うじて紡がれた問いに、夕凪は頷いた。その瞳には、侮蔑の色も、困惑の色も、何一つとしてない。ただ怠惰な、好奇心とも呼べる光だけが宿っている。
「知り合いでもねえヤツを命張って助けたりさ。金にもならないのに、どーして」
「……困ってる奴がいるんなら、助けたい。それだけでいいじゃねえか」
 それ以上を考えた事は無かった。唸るように呟いて、そっぽを向く。その仕種は実際の少年である夕凪よりもずっと子供らしく見え、期待していた答えとは随分かけ離れていた。
「馬鹿じゃねーの」
「なっ」
「そういうのを綺麗事って言ってんだよ」
 目を白黒させるロミオを鼻で笑い、更に言い募ってやろうとした夕凪を、傍らの夏也が制止する。不機嫌ともつかぬ表情で振り返った彼に、夏也は小さく首を振った。
 そして、意志の強い瞳を、二人の海賊へと向ける。
「あなた達の志は否定しない。けど、もう少し違うやり方があると思うわ」
「やり方?」
 訝しげに眉を顰め見下ろすロミオを、真摯に見据えて、夏也は言葉を紡ぐ。
「このやり方では、悪事を元から断つ事なんて出来ない」
「なら、どうすれば」
「それを考えるのが、大切じゃない?」
 対峙する青年は、怪訝な顔をしながら、それでも真剣に夏也の言葉を聴いているようだった。
 己の行動に疑問を持つ事なく、この青年は今までやってきたのだろう。それを根本から問い質されて、確かに考えようとしている。打てば響くその姿勢は好ましく、夏也は微かに笑みを零した。
「とにかく、ここはあなたが思っているような場所じゃない」
「船の地図ならあるぜ」
 夏也の言葉を継ぎ、ベヘルから預かった船内の地図をひらひらと掲げて見せながら、夕凪は告げた。『商品』を隠すスペースなど、何処にもない。
 海賊達はそれを薄々察していたようで、訝る事もなく頷いた。
「……なら、この物々しい武装は何なんだよ」
 しかし、それだけが引っかかる、とロミオは険しい目つきのまま周囲を見回す。カーテンに遮られた半円の空間には、彼ら以外の人はいない。それもまた、不気味ではないか、と唸った。
「それは、」
「あなた方を歓迎するためですよ」
 唐突に割り込んできた声と共に、カーテンが引かれる。
 取り払われた深緋の覆い、その向こうに、仮面を被った無貌の者達が、一列に並んでいた。
 各の手に握られているものを眼にし、二人の海賊は息を呑む。
「!」
「御機嫌よう。愚かな子ネズミさん」
 先頭に立つ白面の男が、芝居がかった会釈を一つ送る。侮蔑の滲んだ口調で嘲笑い、白い手を恭しく広げ、背後を振り返った。
「さあ、皆様。やらなければ、殺されるのは私達なのです」
 その言葉は、絶対の響きを伴う。
 張り上げられた声は、霧の夜に染み込み、無貌の客達を捕らえて離さない。表情の無い幾つもの顔が二人を見、情の無い幾つもの深淵が二人に向けられる。
 無数の銃口の前に晒され、二人の青年は息を呑んだ。唐突の対峙に、絶望、恐怖、その全てに思い至らない。ただ呆然と、立ち尽くしたまま漆黒の視線を受け止める。
 立ち並ぶ銃列に、無防備の『犯罪者』。
「その心の、赴くままに」
 ――これではまるで、銃殺刑ではないか。


 ロミオとジャンの帰りが遅い。
 二人からの連絡を待っていた海賊達は、痺れを切らし始めていた。船へ乗り込む事は当のロミオに禁止されていたが、元が豪気な海の男ばかり故に、辛抱が利かなくなるのも早い。
 行ってみようぜ、と誰かが言いだせば、たちまち同意の輪が広がる。船上の警戒は薄く、これを好機と海賊達は己が船から次々と跳び渡り始めた。
 甲板上に立つのは一人。武器も何も持たぬ男が、気だるげな様子で手摺に寄り掛かって海賊船を、波飛沫とイルカの旗章を胡乱に見上げていた。月明かりの下に、男の漆黒の髪が揺らぐ。
 怠惰に佇む男を一瞥し、海賊達は押し退けるでもなくその脇を通り抜けた。
「考え無しだな」
 静かな声が、落ちる。
 先頭に居た男が、唐突に弾き飛ばされた。重い身体は軽々と宙を舞い、深い闇に似て口を開く、海面へと吸い込まれる。
 後に続く男達がどよめき、咄嗟に周囲を見渡す。
 甲板上に立つのは一人。相変わらず手摺に凭れかかったままで、怠惰な目でこちらを眺めている男が一人だけだ。――それをしたのが誰であるか、目の前に答えはあれど、それを信じる事など出来ない。
「大人しく待ってるんじゃなかったのか?」
 揶揄めいた声が、男達を挑発する。男――大介が指先で誘う仕種を取れば、気性の荒い海賊は容易くそれに乗った。
 襲いかかる男の拳を肘で受け止め、もう片方の手で胸倉を掴みあげて投げ飛ばす。手摺を容易く飛び越えた身体は、そのまま凪いだ海へと放り出された。
 呼吸ひとつ乱さずに水飛沫の跳ねる音を聞いて、大介は海賊船の男達を順に見やる。
「この船には一歩たりとも立ち入らせない。それがお前達の為でもあるんでな」
 怠惰だが真摯な、鋭い視線に男達は気圧され、知らず足を退いていた。


 銃声に重なって、不協和音が響く。
 調律のされていない弦を盲に引き裂いたようなその音は、白霧を揺るがし、大気を蹂躙する。そして、銃火を放つ者達の鼓膜を襲い、その軌道を狂わせた。
 しかし、銃弾が放たれるのを止める事は出来なかった。
 無数の漆黒から、無数の鉛玉が飛び出す。
 不協和音に揺さぶられ、吐き出された鉛玉はてんでばらばらな方向に向かい、愚直なまでの軌跡を描いた。
 幾つかが、二人の海賊へと向かう。迫る鈍色。逃げる事も忘れ、ただ、四つの眼がそれを視る。
「ロミオ!」
 片側の男が、唐突に動きを見せた。
 咄嗟に隣の青年を引き倒し、腕を広げて矢面に立つ。飛び込むもの全てを、受け入れようとでもするかのように。
 無慈悲な弾丸は留まる事なく走り抜け、その肩を、腕を、脚を、脇腹を続けて貫いた。

 立ち昇る白煙、咲き散る真紅の華、飛沫。
「――ジャン!?」
 床に這い、銃火の群から逃れたロミオが、男の名を呼ぶ。
 だが、崩れ落ちる男がそれに応える事は、ない。

 不意に訪れた静寂。身を斬られるほどに、冷酷な沈黙。
 弾かれたように夏也は駆け出し、ロミオを助け起こす。構えていた銃を降ろした無貌の者達と海賊との間にはほんの一瞬、白煙の壁が出来て――これを逃すべきではない、と夕凪は反射的にそう思った。
 血を流して倒れる男へ、全ての意識を集約させる。肉体と、精神と、全ての傷を受け取るように、精神を感応させる。
「ッ……!」
 肩が、腕が、脚が、焼けるように痛む。突き刺すように、抉るように、夕凪の身体を架空の激痛が襲う。零れ出そうになる絶叫を、噛み締めた。
 怯んではいられない。霧散しそうな意識を無理矢理ひとつにまとめ、今度は無貌の客、そして傭兵達へと向ける。
 己が担う痛み、海賊が受けた激痛を、そのまま彼らに与えた。
 悲鳴が上がる。
 仮面を掛けた者達が、次々と崩れ落ちる。その手に持った武器が、次々と床に放られる。次いで響くシャッター音に、白煙の向こう側が、時を止めた。
「今だ――ッ」
「逃げて、早く!」
 切れ切れの夕凪の声、夏也の悲痛とも取れる叫びが、ホールに響く。
 促されるままに、ロミオはジャンを引き起こし、彼を引きずって走り出した。


 逃げたぞ、追え、と緊迫した叫びが霧の夜に轟く。
 決して狭くない船内を走り回る、足音が響く。
 その内の一つが近付いて来るのを見計らって、レウィス・リデルは扉を開けて廊下に出る。行く手を阻むように立ち止まれば、駆けていた白面の男は忌々しげに足を止めた。
「どこへ行かれるのですか?」
 可愛らしいぬいぐるみを片手に隙のない笑みを見せる銀髪の男が、己の雇った兵のひとりであると気付き、男は薄い安堵の息を零す。
「いや、獲物が逃げてしまったのでな。見てはいないか?」
 客の前で見せた薄気味悪い演技を捨てた、砕けた態度で男が問うた。レウィスは男によく似た性質の微笑を湛えたまま、首を横に振る。
「いいえ。……獲物、とは物騒ですね?」
「恰好な獲物だろう」
 男は享楽を滲ませ、嘲笑った。
「この機を逃せば、人を殺す経験などそう出来ない。奴らはそれを己の方から持ち込んできてくれたんだ」
 客達も御満悦の様子だったのに、と白面の奥の瞳が悔しさに揺らぐ。それほど、仕留め切れずに逃がしてしまったのが屈辱だったようだ。
「お前などには、判らないかもしれんがな」
「いえ。判りますよ」
 深紅の瞳を和らげて、銀糸の男は慇懃に微笑む。白面の男は意外そうにひとつ相槌を打ち、改めて彼に視線を向けた。そして、悟る。
 柔和な深紅の奥に潜む、明らかな侮蔑の色を。
「人を殺すなど、容易い事です。誇ろうとは思いませんが、それが事実」
 ごく自然に貼り付けられた笑みから目を逸らし、優男には似合いの――狙撃手には不似合いの、うさぎのぬいぐるみへと視線を落とす。そして、男は驚愕と絶望に表情を凍り付かせた。
 手の中に抱かれていたはずの小さなそれが、男が視線を離した隙にその姿を変えている。
 今、男の眼前に突きつけられているのは、漆黒の虚。
「だからこそ言います」
 湖面に張られた氷の如く薄い笑みを、ふ、と消し去る。
 これは憤慨ではない。正義感から来る怒りなどと、綺麗事を言うつもりもない。これはただの、
「――気に入らない」
 同族嫌悪だ。

 人知れず轟いた銃声を、虚空に漂う深海の泡だけが聴いている。


 五人ほど海に投げ落としてやれば、流石に男達も学んだらしい。飄々と佇む大介を強く睨みながらも、己の船から先へ進めないでいる。
 威嚇として取り出したトラベルギアが効果的なようだった。漆黒の鎌を提げて立つ大介の姿は傭兵と呼ぶよりは黄泉へと通じる門の護り手のようであり、男達に畏怖すら感じさせる。
「どうした、もう終わりか?」
 く、と男達が呻くのを、薄い笑みすら浮かべて眺めた大介の耳に、何かを引きずるような足音が聞こえる。それが船室へ続く階段からだと悟り、振り返るより早く、海賊達がめいめいに叫んだ。
「お頭!」
 赤いバンダナを揺らした青年が、甲板を歩いて来る。
「おれは無事だ、それよりもジャンを――ッ」
「ッ、待て!」
 頭目の姿を眼にし、途端に色めきたって船へ乗り移ろうとする男達を止める。殴りかかろうとする者は容赦なく手摺から海へ叩き落とし、大介は重い足取りの青年へ目を向けた。
「無事か」
 険しい形相ではあるが、決して睨んでいるわけではない。それを察し、怪我人を抱えたロミオも無言で首肯を返す。
「すぐに撤退する」
「そうしろ」
 通りのよい声で放たれたその言葉を受け、手下達も理解したようだった。ロミオに駆け寄り、意識のないジャンを預かり受ける。
「……おれは、馬鹿だな」
「……」
 呻くように呟き、唇を噛む。その昏い瞳は、連れられて行くジャンを、ただ追っている。
「ええ、本当に愚かな人です」
 その背中に、冷酷な声がかかった。
 憤慨する気力もなく、ただ疲弊しきった眼で振り返る彼を、声の主は小さく嘲笑する。
 銀の髪が、薄い霧の中に泳ぐ。
「ですが、私の仕事はまだ完了していないもので。ご了承くださいね」
 深紅の瞳を歪ませて、小さなぬいぐるみを抱きしめた男は微笑んだ。
「仕事……?」
 冷酷な言葉を浴びせかけながら、レウィスは端麗な顔に酷薄な笑みを乗せた。片手に握られていたうさぎのぬいぐるみは、気づかぬ内に漆黒の回転式拳銃へと姿を変えている。
 唇を噛みしめて、ロミオは仲間達を護るように銃口の前へと立ち塞がった。
「さっさと御帰りになってください」
 引き金が引かれ、轟いた銃声が深い霧を引き裂く。
 青年の身体が、後方へと傾ぐ。
 赤いバンダナの端が、風に浚われる。まるで、誰かの流す血、そのものであるかのように。
 バランスを失った身体は、手摺を越え――闇に染まる海へと、落下した。
「ロミオ!」
 名を呼ぶ声が走り、霧の中を影がひとつ駆ける。
 それが誰であるか、視認する事が出来る者はいなかった。残像さえも遺さぬ刹那の速さでそれは駆け抜けて、消えた。

 やがて、静謐を取り戻した船上に、二つ、水音が響く。


 海は風もなく凪いでいるのに、船上の喧騒を映したのか、海面は大きく荒れている。普段着のまま飛び降り、水を含んで思うように動かない身体を叱咤し、大介は船腹へと泳いで近寄った。
「ダイスケ」
 大きく揺らぐ潮騒に紛れて、平坦な声が大介の名を呼んだ。この高さでは船上にまで届かないだろうと考えて、大介はその声に応える。
「ベヘルか」
「身投げなら、歓迎しないよ」
 ゆるりと首を巡らせれば、彼の頭上にひとつ、鏡面を煌めかせる泡が見えた。淡々とした響きは感情を窺い難く、冗談なのか否か判別がつかない。
「世刻未さん!」
 頭上高く、霧の向こう側から声が響く。若く、溌剌とした女性の声。一ノ瀬か、と見当をつけて、見えもしない上空を降り仰いだ。
「ああ、ここにいる」
 声を張り上げて己の居場所を伝えれば、すぐ引き上げますから、と焦燥を押し隠せない声が返った。そして程なくして、降りてきた縄梯子に手を伸ばす。
 並んでいた二つの船の内、波飛沫とイルカの旗を掲げた海賊船が、慌てた様子でその場を離れていく。やっと引き揚げたか、と安堵の息を零して、大介は振り返ってそれを眺めた。
「海賊王子は?」
「……さあ」
 梯子を昇っている合間も構わずに鏡面の泡が語りかけてくる。空とぼけて簡潔にあしらえば、そうか、とやはり平坦な返事を得た。
 船が離れていく方角から、音が聴こえない。全く別の方向から波音が聴こえる事に気付き、訝しく思えば、軽やかな笑みが降る。
「海軍の船が来てる。追いかけられたら困るからね、ちょっとごまかしてみたよ」
「随分とあいつを気にかけるんだな」
「ぼくはかれのファンなんだ」
 機械じみたその声とファンという単語が噛み合わず、奇妙だとは思いもするが、決して悪い気はしない。軋む縄梯子を登り切り、船の手摺に体重を掛けた所で、球体は柔らかく浮遊して彼から離れた。
「だから、礼を言っておくよ」
 去り際、感情の無い声が感謝を告げてくる。
 大介は苦笑し、ああ、とだけ応えた。


「お頭!」
「団長!?」
 あちらこちらから、声が降り注ぐ。聴き間違えるはずもない、仲間達のものだと気づき、軽く唇を曲げた。
 ああ、何を不安がってるんだよ。おまえ達はいつもそうだ、おれが居なきゃうろたえてばかりで何も出来やしない。もっと信じろよ、おれを――

 ――信じているさ。
「ジャン!」

 その名を呼ぶ声で、眼が醒めた。
「お頭」
「眼ェ覚ましたんですね!」
 また、周囲が騒がしい。仰向けの視界を埋める、仲間達の顔に反射的に安堵を覚える。痺れる身体を叱咤し、身を起こそうとすれば仲間の手で遮られた。仕方がないので頭を巡らせ、事態を把握する。
「逃げた、のか」
 悪夢と呼ぶのも忌まわしい、惨劇が脳裏を掠め、それから逃がれるように首を振った。呆然と、己自身に問いかけるようにして呟く。
「それとも――みんな揃ってあの世への航海中か?」
「縁起でもない事言うなよ」
 誰かが言って、力なく、しかし安堵を滲ませる笑いが起きた。途端に船を取り巻いていた空気が軽くなり、ああ、やはり生きているのだと実感する。
 撃たれたはずなのに大した痛みもない事を不思議に思っていると、特に怪我は無い、と団員の一人が言った。それを皮切りに、団長が落ちた時は何人か追って飛び込みかけた、縄梯子に引っかかっていたのを見つけた時は肝が冷えた、気絶しているのに、人為的に括り付けられたとしか思えない頑丈な結び目だった、などと、人の身体の上を好き勝手に言葉が駆け巡り、相変わらず馬鹿ばかりだと引き吊る口元に笑みを刻む。
 だが、一人、足りない。
「ジャン、は」
 途切れる声帯を震わせて、己を覚醒に導いたその名を口にする。口にして、ようやく、先ほど彼の名を呼んだのも己なのだと理解をした。
 頭上を行き来していた言葉が、唐突に途絶える。傷だらけの顔に浮かんでいた笑みも忽然と消え失せ、男達はそれぞれの顔を見合わせた。
 不意に、走馬燈が蘇る。向けられた銃口、立ちふさがるその背中、風に揺れる金の髪――倒れゆく身体と、尾を引いて散る赤い色。
「――ああ……」
 直接的な言葉は、ひとつもない。
 だが、ロミオは全てを悟り、静かに瞳を閉じた。


 帰還したロストナンバーの報告を、シド・ビスタークはただ黙って聞いていた。やがて、報告が海賊船が去った直後のくだりに差し掛かった時、静かに顎を上げ、一言だけ差し挟む。
「海軍の船を呼んだのは、夏也か?」
「ええ」
 海軍に対し、義理は果たさねばならない。夏也の答えに世界司書は頷き、続きを促す。
 夏也が撮った写真に武器を持たぬロミオの姿が映っていた事もあり、乗っていた客達は皆、事情聴取と言う名目で海軍に引っ張られていった。唯一、主催者――白面の男だけが船上から忽然と姿を消していたが、何故かそれを問題視するものは居なかったようだ。
「まあ、少々過激なパフォーマンスだったが、功を奏したようだ。ブルーインブルーでは今、ロミオ死亡説が流れている」
 サングラス越しの一瞥を受けて、レウィスは肩を竦めて微笑んだ。
「ジャンクへヴンの疑いはまだ晴れていないが、少しは見直してくれたようだ」
 いびつな笑みを口端に乗せ、複雑な心境を隠しもせずにシドは語った。
「シド」
 それまで黙して言葉を受け入れていたベヘルが、不意に世界司書の名を呼ぶ。シドは片眉を上げてそれに応え、続きを促した。
 陶磁器のように滑らかな唇から、ひとつ溜息がこぼれる。
「裏がある船ばかりで困っているのはこちらだって、ちゃんと言ってやったらどうだい」
 それくらいは許されるんじゃないかな、と抑揚のない声で、つまらなさそうに吐き捨てる。その明け透けな物言いに、しかし剛胆な世界司書は怒るでもなく呵々と笑った。
「違いないな。ああ、ちゃんと伝えておこう」
 鷹揚に二度頷いて、開いていた導きの書を片手で閉じる。
「ともあれ、よく還ってきた」
 静かなホールに響いた軽い音は、事件の幕を降ろす合図のようにも聞こえた。

クリエイターコメント大変お待たせいたしました! 五名様、御参加ありがとうございました。
逃げ場のない船の上、人間狩りのショウは終わり、海賊たちは己が海へと還っていきます。

今回のシナリオには大きく分けて二つのルートがありましたが、皆様のプレを拝見し、ロミオ寄りのルートを取らせていただいています。これがどういう結果をもたらすかは、次シナリオにてお確かめください。
ちなみに今回、あえて空白の多い書き方をしています。空白の間にPC様が何をしていたか、考えてみるのも面白いかもしれません。

筆の向くまま自由に捏造してしまいましたので、口調、設定、心情等、イメージと違う点がありましたら事務局まで御伝えください。出来る限りで対処させて頂きます。

それでは、玉響の出番はこれにて御終いです。アンカーのWR様にバトンをお渡ししましょう。
公開日時2010-06-29(火) 17:10

 

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