気がつくと寄せてかえす波のすぐ近くに立っていた。 つい今ほどまで、神ノ薗紀一郎は確かにディラックの空の中にいて、カンダータ兵と交戦中であったはずだ。それが今は静寂に包まれた海辺の白砂の上に立っている。すぐ横手には高い岩場があり、白砂はその真下に、ちょうど一筋の細い路を描くような形で、ずっと遠くまで続いているようだ。 夢、でも見とうんやろか。 ひとりごちながら頭を掻き、頭上に広がる空を仰ぐ。 曇天。しかし、頬を撫でる風は潮を含んだものではあるが、雨の予兆を孕んではいない。 波の向こうに小さな小島があるのが見えた。ついで、白砂の先に橋のようなものがあるのも見える。 いずれにせよ、このままここに突っ立っていても仕方がない。 紀一郎は小さな息をひとつ吐くと、白砂の向こうに見える橋を目指し、足を進めた。 周囲を囲むのは緑深い森だ。森の向こうには海原が広がっているが、少なくとも、男のいる塔の窓から見えるのは海原の青ではない。塔の高さもさほど高いわけではないが、それでも、彼が治める世界の中ではもっとも空に近い位置にある。手を伸ばせば流れる雲に指先が届くのではないか、そんな空想さえ引き起こすほどに。 男は吹き抜けになっている窓の近くに椅子を置き、その上に腰を落として、肩に宿る海鳥の白い羽を撫ぜていた。 海鳥の羽と同じ、白く長い髪。それが風をうけてはらはらと揺れる。口許には笑みが浮かび、言葉をなして海鳥に向かいささやくように言葉を編み落としているようだ。 ふと、それまでおとなしく男の肩で羽を休めていた海鳥が、次の瞬間、大きく羽ばたき、窓から曇天の空へと飛び立っていく。男はそれを見送ると、窓とは真逆な方向に視線を移して口を開けた。「ツルバミか」 男がそう声をかけるよりも先に、男の視線の先にあった扉が開かれ、鳥を模したものだと思しき仮面で顔を覆い隠した男がひとり、無遠慮気味に部屋の中に踏み入ってくる。「話し声が聴こえたようだけど、お客さんでも?」 仮面の男がそう問うと、白髪の男は小さな息を吐き出し、かぶりを振った。「“客人”に関する情報はつかめたのか?」「まあ、大体はね。――どうも反乱軍が匿っているらしい。もっとも、“らしい”ってだけで、確証があるわけじゃあない。向こうさんの居場所がつかめているわけでもないし、情報がこちらに流れてくるわけでもないからね」「それを調べるのがお前たち暗部の務めではなかったか」 白髪の男の言に、仮面の男は肩をすくめる。「申し訳ありません、我が主リンドウ王」「何年前だったか……あの時の“客人ども”はお前が追い払ったのだったな」「今回の“客人”も同じように追い払えと?」 訊ねた仮面の男の言葉に、白髪の男は口を閉ざし、穏やかな微笑みを満面に浮かべる。 窓の向こう、森のずっと遠くで、真白な海鳥が大きく羽ばたき、曇天の中に消えていった。「神ノ薗紀一郎さんの居場所がわかりました」 眼前に揃った五つの顔ぶれを順番に検めながら、世界司書ヒルガブは指の腹で銀縁の片眼鏡を押し上げる。 ヒルガブの首には羽のあるヘビが巻きついていて、皆の視線は必然的にそのヘビに向けて寄せられる。その視線を薙ぐように、ヒルガブは導きの書を拡げページをめくりながら言葉を繋ぐ。「紀一郎さんが飛ばされたのは“ケイハ”という名前の世界になります。もっともこの名前は一個の国の名称であるようなのですが、ケイハ国がその世界の中でもっとも大きく、力を有しているので、呼称として用いても支障はないはずです」 言い置いて、司書は小さく息を吐く。「じつは、このケイハは数年前に既に発見されていた世界なのです。しかし今もなお一切の交流もなく、情報すらも入手できずにいる状態にありまして……。発見された当時、ケイハを探索するために派遣された者たちが、壊滅的な被害を受けたのです。隊員のほとんどが死傷しました。鳥の仮面をつけた男からの攻撃を受けたのだと、彼らは証言しました」 言って、司書は導きの書を閉ざし、改めて五人の顔を眺めながら言葉を続けた。「ケイハは、もともとはプラス階層にある世界でした。が、数年前から少しずつ変化が生じているのです。つまり、マイナス階層に近付きつつあるというわけなのですが」 階層の変化は、ごく稀にではあるが、確かに生じている現象だ。それがケイハにおいては比較的急速に進んでいるのだ。また、階層の変化は該当する世界には、世界の滅びにも近い何かが起きているともされている。派遣された者たちが死傷した一件から数年、現段階でのケイハが果たしてどのような状態にあるのか、定かではない。「本来なら調査もお願いするところですが、先程申し上げたようにケイハ国の状態がまったくわかっておりません。よって、調査内容は皆様の判断にお任せします。紀一郎さんを救出しだい戻られても構いませんが、その道中の事だけはご報告ください。……また、紀一郎さんは現在、ケイハ国の言語を解することが出来ずにいる状態にあります。あらゆる事態が想定されます。……出来る限り速やかな救出を、よろしくお願いします」 言って、司書は小さく頭を下げた。 剃りあげた頭、頬に咲く菫の花。――花は見事な技巧による刺青だ。紫色の菫の花を、男は右頬に彫ってあるのだ。 その男の言語を、紀一郎は何ひとつとして理解することも出来ずにいる。逆に、紀一郎の言葉も男には届いていないようだ。が、いずれにせよ、男が紀一郎を善意で手助けしてくれているのであろうことは窺い知ることができる。 衣服は和装によく似てはいる。が、どこかが違う。まるで大陸の文化をいくらか取り入れたもののような。 ざあざあと音がする。 音の源は、波か、森か、それともついに雨でも降り出してきたのだろうか。=========<重要な連絡>「神ノ薗 紀一郎」さんは、このシナリオに参加しなくてもノベルなどに登場します。プレイング締め切り日時までに、NPC「エミリエ・ミイ」宛のメールという形式で、600字以内のプレイングにあたるものをお送りいただけましたら、それをもってこのシナリオのプレイングとして扱います。このメールの送信がなかった場合、「救出後すぐにロストレイルに収容され、調査には参加しなかった」ことになります。エミリエ宛のメールはこのURLから!https://tsukumogami.net/rasen/player/mex?pcid=cttd4156※強制転移したロストナンバーの方は「世界図書館のチケットによって移動していない」ため、「現地の言葉を話せません」。この点のみ、ご注意下さい。=========
空の高い場所を飛ぶ鳥は、見下ろす下界に影を落とすこともない。否、落とす影があまりにも小さいがために、そうと気付かれることも滅多にはないのだ。地表に影を落とすのは好奇を持って地表近くを飛ぶ鳥だ。食を求め、あるいは休息のための場所を求め、彼らは地上に影を落とす。 理星(リショウ)は背に伸びる大きく真白な両翼を広げ、重々しく広がる厚い雲の間を飛んでいた。額の真ん中と両脇に伸びる三本の黒い角、背に伸びたままの翼。どうしても人目を引いてしまいがちな特徴ではあるが、こうして空の高い位置を自在に飛んでいれば、少なくとも好奇な視線を受けることはない。それに、上空から一望すれば“ケイハ”と称される世界がどういう地形をしているのかの確認もできる。尋常ではないほどの視力をもってすれば、これだけの距離を保ちながらでも、どの辺りに何があるのかぐらいは知ることもできた。 青々と広がる海。その中にいくつかの島々が確認できる。一部分だけを見れば窺い知ることはできないかもしれないが、こうしてはるかな上空から全様を見渡せば、島々の並びが示すものを知ることもできた。 この国は、一際大きな島を中央に、それを囲むような形で小さな島が点在している。その様相はまるで花芯を囲む花弁のようだ。中央の、一際大きな島と周囲の島々との距離は決して近くはないはずだ。少なくとも泳いで渡りきることは、常人には不可能だろう。しかし、その割には大きな船も見当たらず、橋と呼べるようなものもないようだ。 理星は銀色の双眸を細め、形の良い唇を横に引いて、しばし考え事をしながら、中央の大きな島を見据えた。高い視力を誇っているとはいえ、これだけの距離を持てば、さすがに、明瞭に確認できるはずもない。だが、どの辺りにどのような建造物があり、どの辺りに人の姿があるのか程度は判別できる。 島の中央、周囲を囲む海原を断絶しているかのような深い森に覆われた位置に、比較的大きな建造物がある。塔や城のそれを思わせるような建物だ。その建物の一番上階に吹き抜けの窓があり、白髪の男がひとり立っている。 ――目が合った、ような気がした。 はるか高い空の中、さらに雲間に身を潜めている理星の姿をまっすぐに捉え、口角をつりあげて笑ったように思えたのだ。 それほどに離れていない場所で、百田十三という頑強な男が、茶屋の主に鍼を施術しながら談話に花を咲かせているのを、人見広助は未だあどけなさを残す風貌に似つかわしくない、分厚い学術書を両手で広げ持ち、視線だけを送って忌々しげに舌打ちをする。 十三は壱番世界で手に入れてきたという和装で身を包んでいた。彼が施術を行っている相手もまた和装に近い出で立ちをしている。とはいえ、どちらの装束も“限りなく和装に近い”というだけのことで、実際には異なるものだ。けれど、それだけで、広助に渋面を作らせる理由としては充分だった。 同居人と喧嘩をした広助は、しばらく同居人の顔を見ずに済むのなら好都合と考え、世界司書ヒルガブからの依頼をうけた。けれども司書からの説明を聞き、その内容に多少怯みもした。その上ケイハという国は同居人の風体を彷彿とさせる、東洋の色濃く連想させる土地だった。十三はケイハの情報を事前に確認し、住人たちに警戒されないような居住まいを、と考えたのだろう。結果的には、ケイハに足を運んだ後も、同居人の顔を常に思い出すことになってしまった。 十三はといえば自分に向けられる広助の疎んだ視線に気がつきながらも、それを流し、眼前にいる初老の男に鍼治療を続けた。 「疲れがたまっているな、オヤジ。見事にこっているぞ」 言いながら、自分よりも倍の齢であろうと思しき男に鍼をうつ。――そうすることで、男がじつは十三とさほど違わず、決して初老と称するに相応しくもない齢であることも知った。しかし実際に、枯れ枝のように細い身体と疲弊を滲ませた面持ちからすれば、とてもではないが四十を前にした壮年だとは思いがたい。 海岸線を見下ろす勾配をもった坂の上に見つけた集落の入り口近くに軒をかまえていた小さな茶屋は、客を五人も集めれば手一杯になってしまうであろう程度の規模でしかない。茅葺の屋根に木材を寄せ集め建てた掘っ立て小屋、端的に説明をするならばまさにそういった造りの建物だ。 「オヤジ、名前は何と言う?」 鍼を抜きながらそう問うと、店主は唸るような息をついた後に応えた。 「青の五だよ」 「アオノゴ? 変わった名前だな」 「? あんた、まさかネシュカーラじゃないだろうね。そうは見えんが」 「ネシュカーラ? 何だいそりゃ」 首をかしげた十三に、青の五はしばし訝しげに眉をひそめた後、思い出したように口を開ける。 「……いや……まさかな……」 口の中でもごもごと呟きを落とす店主に、広助は読んでいた本を閉じて腰を持ち上げた。 「……どうしたの?」 声をかけられ、男は視線を広助の顔に向け、広助の出で立ちを頭から爪先まで検めるように見据えた後、懐かしげに目を細めて口を開けた。 「ああ、……そうだ。あんたが連れているその鳥も見たことがある。あんたたち”ロストナンバー“だろう?」 トラベラーズノートを開き持ち、ミア・リースは困ったように小首をかしげる。 人の気配のする集落を抜け、波音も聴こえなくなるぐらいに森を歩き進めてきた。仰ぎ見る上空は高く伸びる木々の枝葉で覆われ、その向こうには今にも降り出しそうな曇天が広がっている。潮の気配をまじえた生温い風が木立を揺らし、波音にも似た音を響かせる。 「ねぇねぇ、やっぱりさあ、さっきのところに戻ろうよ。なんかさあ、ここ、なんか暗いしジメジメしてるし、虫とかいそうじゃん」 横から顔を覗かせたエルエム・メールが長いピンク色の髪をふるふると振るわせた。 「ええ、そうなんですけれども……」 ノートに視線を落としたままのミアに、エルエムは不服そうに頬を膨らます。 「紀一っちゃんの救出が最優先! って、あの司書だって言ってたしさ。紀一っちゃんの情報は誰かに聞くのが一番手っ取り早いって。チケットだって持ってないんだし、言葉も通じなくなるんでしょ? これないと。困ってるって、ぜったい」 言いながら預かってきたチケットをひらひらと揺らした。 神ノ薗紀一郎は正規のルートでケイハに足を踏み入れたわけではない。ゆえにチケットも持たず、チケットがなければ他所において言語の疎通は一切不通となるのだ。言語が通じなければ意思の疎通も難しくなるだろう。そう踏んだエルエムは紀一郎の分のチケットを発行してもらい、それを預かってきたのだった。 「ええ」 しかし、対するミアはエルエムに笑顔こそ向けてきたものの、すぐにまたノートに目を落として首をかしげる。 「ねえ、エルエムさん。これ、何だと思います?」 言って、細い指先でノートのページを示した。 「なにって」 返しながら、つられるようにエルエムもまたミアのノートを覗きこんだ。 そこには筆書きされた達筆な文字らしきものと、その下に描かれた、幼児が描き殴ったような絵図のようなものが浮かんでいる。 「これって、紀一っちゃんの字だよね」 「そうだろうと思うのですけれど」 達筆すぎる文字は、逆に読みにくいものになってしまいもする。ミアはそれを読み取ろうとして、あるいは絵図が何を表しているのかを知ろうとして、ひとしきり思い考えていたのだ。 「“おいは今、頬に菫の花の刺青を咲かせた男前の兄さんと一緒におる。言葉はまるで通じんが、まこと良き男じゃ。酒など馳走になっておる。手製のどぶろくみたいじゃが、こいつがまことに美味”」 つらつらと記された達筆は紀一郎が何者かに保護されているらしい現状を報せている。 「元気そうだね、紀一っちゃん」 エルエムが安堵の息を吐く。ミアも同意のようで、ふわりと微笑み首肯した。 しかし、その時だ。 空気を割くようにして飛んできた数本の小刀がエルエムの長い髪を少しばかりかすめ、後ろの大きな木に突き立ったのだ。 おそらくはエルエムの喉本を狙い飛ばされたものだったはずだ。それをかわすことができたのは、エルエムが持つ戦闘能力の高さゆえだろう。 「エルエムさん!? 大丈夫ですか!?」 言ってノートを閉じたミアに、エルエムは頬を膨らませながらもうなずいた。 「ひどくない!? エルの髪! 見て! 切れた!」 そう返し、足もとに散らばる髪を拾い上げて怒りの表情を浮かべる。 「そこに隠れてるキミ! エルの髪! よくもひどいことしてくれたわね!」 言い終えるのと同時に虹の舞布をまとい、一点をねめつけた。 視線の先、現れたのは鳥の面をつけた黒衣の男だった。 白髪の男と目が合ったように思えた。が、男はすぐにきびすを返して窓の奥に姿を消した。気のせいだったのかもしれない、そう考える理星の横を、真白な海鳥が飛んでいく。 陸の面積よりも海の面積のほうがはるかに広い。ざっと見ても、陸地が二、対し海は八といったところだろう。海鳥の姿が目立つのもそれに由来するのだろうか。純白の羽を広げ、厚い雲の向こうへと消えていく。 と、そのとき、理星は眼下に広がる深い森の中に見覚えのある少女がふたりいるのを見つけた。ひとりは印象深いピンク色の髪をしている。遠目にもかなり目立つ。 降りていこうとした理星が次に見たのは、少女たちが対峙している黒衣の男の姿だった。 「おはんの名前もわからんのじゃきのう」 紀一郎は眼前の男の顔を見据えながらため息を落とす。 海沿いを当て所なく歩き回っていた紀一郎は、鳥を模した面で顔を隠した男たちからの襲撃に遭った。鳥の面をつけた連中の数は四、得物は個々で異なり、日本刀に似た長剣を手にした者もいれば、鎖鎌のようなものを手にした者もいた。動きから察するに、おそらくはそれなりの腕を持った者たちだったはずだ。むろん言葉は通じず、ゆえに何故自分が襲撃されているのかを知るすべも持たなかった。さておき、面で顔を隠しておきながら人を手にかけようとする、その心構えが不愉快だった。 三人目を切り捨てたとき、笠をかぶった和装の男が現れた。男は残るひとりの首を背後から近付いてへし折ると、口許だけでゆるゆると微笑んだ。頬に菫の花の刺青が施されていた。 男とももちろん言葉は通じず、名前を知ることもできずにいたが、一応名乗りはしてみた。 「おいは紀一郎じゃ。神ノ薗紀一郎とよかもす」 き・い・ち・ろ・う。一語一語ゆっくりと口にしてみたり、もちろん紙片を見つけてそこに書き記してみたりもした。男もまた同じようにゆっくりと口を動かしたり紙片に筆を滑らせたりもしてくれたが、どうやらやはり互いに言語の疎通はできないようだった。 ロストナンバーはチケットを持つことで、ロストレイルで訪れる様々な世界で言語の疎通を行うことができる。これは逆に言えば、チケットを有さなければ言語の疎通は不可能になるということだ。訪れたのが平穏な世界であるならばさほどに問題はないだろう。しかし、実のところ、見知らぬ土地にひとり置かれ、言語の疎通もままならない状況であるということは、まったくもって危険を伴うものでもある。意思の疎通が不可であるという一点のみを過大に取られ、何の事情も読み取れぬままに処刑台に立たされたとしても不思議ではないのだ。 紀一郎を襲撃してきた鳥の面をつけていた男たちは、全員が男だという点の他は年齢の統一性は認められない集団だった。それは紀一郎が男たちを斬り捨てる際に面を割り、確認した。同一の面、同一の黒衣。それはおそらく彼らが共通する何らかの組織に類しているのであろうことを想定させる。 菫、と呼ぶことにした男は、言葉こそ通じないものの、まるで紀一郎の意思を酌んでいるかのように、そつない接し方をしてくれる。男のまわりにもまた、出で立ちの共通こそ持たないまでも、なんらかの共有性を感じさせる者たちが集う。そもそも菫が身を置く場所も、まるで何かから身を隠しているかのような立地にある。 トラベラーズノートに、現在地の簡易的な地形を描いてみた。あるいは誰かがこの国に向かってきている可能性も、なくはない。彼らがノートを目にすれば、紀一郎の居場所を把握してもくれるかもしれない。 数年前まではケイハ国にもロストナンバーは訪れていたんだ。茶屋の店主はそう言ってため息を落とす。 「国王も、そりゃあ優しいお方だった。知ってるかい? ケイハはまわりをいくつもの島々で囲まれているのさ。あのころはケイハと島々をつなぐ橋があったんだ。それも今じゃひとつを残してなくなっちまった。そのひとつも、向かう先にゃああるのは監獄だ」 頭を抱えた男を宥めながら、十三は視線を広助に向けた。 ケイハ国は階層の変化が確認できた世界だと、司書は言った。ケイハ国が発見された当時、調査隊がこの地を訪れた、とも。男が言っているのはその調査隊のことだろうか? 「その島々ってのには行けないの?」 一瞬のうちに一際年を重ねたかのようにすら思える男の顔を見据え、広助が問う。 「言っただろう? 橋は監獄に向かうもの以外、全部壊れちまってる。監獄に向かう橋も跳ね橋だ。いつも繋がっているわけじゃない」 「なるほどなあ。なかなか難儀そうな話じゃないか」 鍼を片付けながら、十三はやんわりとした口調で告げた。その口調が気に入らないのか、広助がむっつりとした表情で十三をねめつける。 「俺ぁこう見えて荒事は苦手でなぁ。せっかくの新天地だ、実入りのいいお客のいる場所で鍼灸院なんぞ開きたいと思ってるんだがね」 広助の視線など意に介することもなく、十三は変わらずのんきに言を続ける。 「……実入りのいい客なんざいやしない。みんな殺されるばっかりだ。オレだっていつ監獄に渡らされるか、海に放りやられるか、分かったもんじゃない」 海、という言葉を口にする瞬間、男は心底怖ろしいものの名前を口にするかのような語調で、視線を泳がせた。顔色が見る間に悪くなる。 「ところで、この国はケイハという名前だそうだが、字面はどう書くのかな? 傾くに覇だとか……」 男の肩に両手を置き、今度は按摩を施してやりながら、十三は問いかけを続けた。 「傾くはないだろう?」 間を置かずに広助が諌める。十三は肩をすくめる。 男は十三に肩を揉まれ力なく身体を揺らしながら、虚ろな目を広助に向けた。 「茎に葉でケイハ、だ。ここは緑の豊かな土地だ。大いなる神ネシュカが豊かな緑を与えてくれてるんだ、そうだろう?」 そう言うと、男はぶつぶつと独り言を落とすようにして、大いなる神を称したものを讃える言葉をぶつぶつと繰り返すばかりとなった。 鳥の面をつけた黒衣の男は、エルエムが小刀を避けたのを見て知ると、弾かれたように大きく踏み込み、同時にどこからともなく抜き出した数本の小刀を指の股に挟み持って振りかぶる。一刀目が投げられ、エルエムは大きく跳躍してこれを避けた。二刀目もその次も、エルエムは踊るような動きでこれらを難なくかわし、大きな木の枝の上に跳ね上がる。そうして舞布を構え持つと、「今度はエルの番だね!」笑みすら浮かべて跳躍した。 「エルエムさん、いけない!」 同時にミアが叫ぶ。次の瞬間、エルエムは眼下に張り巡らされた細い糸が美しくひらめくのを目にした。 罠、 そう認識したが、エルエムの身体はその糸のただ中を目指し下りていく。 「エルエム!」 その時、どこからか理星の声がした。次いで上空から激しい風が地表をめがけて降ってきた。枝葉が風にまきこまれて渦を巻き地を叩く。 気がつくと、エルエムは宙の中にいた。否、正確には理星の腕に抱えられた状態で宙に留まっていたのだ。 理星の手には、一振りの大太刀が握られている。理星ははるかな上空からの滑空速度に加え、大太刀が起こす剣風を利用して、森に張り巡らされた蜘蛛の糸のようにも見える罠を弾き落としたのだった。 離れた場所に立っているミアは風の勢いをいくぶん受けたものの、さほどの影響は受けずに済んだ。これもおそらく理星の気遣いの内なのだろう。あるいは深い森の木々がミアを守ってくれたのかもしれない。 「あったまきた! エルのダンスが最強最速なんだってこと、あの男に思いしらせてやんなきゃ!」 理星が地表にエルエムを降ろすのを待っていたように、エルエムは面をつけた男の姿を探した。が、どこにも男の姿はない。気配すら感じられない。 「風で……飛ばされてしまったのかしら」 吹き飛ばされないようにしっかりと抱え持っていたトラベラーズノートを持ち替えて、ミアも男の姿を探す。 視界に映るのは静まり返った深い森。風が枝葉を揺らし、波音に似た音を響かせている。 「……何か、変な感じがする……」 頬に触れる風がつめたい。ミアは誰にともなく呟いた。 「で、これなんだが」 十三がトラベラーズノートを開き、紀一郎が描いた絵図を指で辿りながら四人の顔を検めた。 絵図はやはり幼児が描き殴ったようなもので、ひどく分かり辛い。しかし共にしたためられていたメッセージを照らし合わせることで、その絵図が示しているのであろうものを理解するに至ったのだ。それは地図のようなものだった。もっとも地図というにもほど遠い、どちらかといえば周囲の地形や特徴を描いたもの、と喩えるほうが正しいのかもしれない。 「紀一郎はこの“スミレの刺青の男”に保護されているようだ。なにぶんにも言葉が通じないんだ、男が何者なのかも分かるはずもないが、文面から察するに、少なくとも悪人ではないらしい」 「問題は、これがどの辺を示しているのか、だよね」 広助が十三の言を継ぐ。 絵図には海が描かれ、絶壁のようなものが描かれている。特徴的な目印となるようなものは特にないようだが、ふと、理星が何かを思いついたように口を開けた。 「この色」 「え?」 「この絶壁のここに花が描かれてあるだろ」 「えーと、確かに、これは花だね」 エルエムがうなずく。エルエムの後ろから顔を覗かせたミアもうなずいた。 「すごく鮮やかな白ですね」 絶壁に描かれているのは群生する白い花だった。周囲が深い緑で覆われているからこそ余計に白さが際立っている。 「この花だったら森の中にも咲いてたよ」 エルエムが言うと、理星は小さくかぶりを振りながら顔をあげる。 「俺、ずっと上空からケイハの様子を見てたんだけどな。確かにこの色の花は島のあちこちで咲いてたけど、絶壁に咲いてるのはあんまり見なかったんだ」 「あんまり、ということは、咲いている場所もあった、ということですか?」 ミアが訊ねる。理星はミアの目を見据えてうなずいた。 「一箇所だけな」 「心当たりがあるのか」 「一応、それなりに全体を見てきたつもりだ」 続けて訊ねた十三に、理星は表情を変えずに応える。十三は「なるほどな」と呟くと、 「エルエムたちが遭ったという鳥の面の男、紀一郎が遭ったらしい男たち。まぁ、特徴なんかも考えれば、共通した何かに属する集団だと考えるのが筋だろうな」 「茶屋のオヤジがネシュカーラがどうのとか言ってたよね」 広助が口を開くと、それを聞いたミアが首をかしげる。 「ネシュカーラ?」 「ネシュカーラってのがどういうものかは分からん。人の名前なのか、それとも違うのかもな」 「でも、ケイハっていうのはネシュカっていう神を信仰しているらしいっていうことは分かった」 十三と広助とがそれぞれに言葉を編む。ミアは興味深そうにうなずいたが、エルエムは 「そんなことよりも、今は紀一っちゃんの救出が最優先でしょ!? 理星が見つけたっていう場所に紀一っちゃんがいるかもしれないっていうなら、さっさとそこに行こうよ!」 そう口を挟み、頬を膨らませた。 「その男か」 部屋に入るなり、飾り気のない装束で身を包んだ男は吐き捨てるような口ぶりでそう落とした。 頬に菫の刺青を施した男は、横目に客人の来訪を検め、小さく首肯する。 「久しぶりじゃぁねぇか、ツワブキ」 菫の花が男の表情に合わせて小さく歪む。 ツワブキと呼ばれた男は返事をするでもなく、間近にあった椅子の上にどかりと腰を落とす。 「ロストナンバーってやつだろ。言葉が通じないってのはどういうことだ、スミレ」 「はてさて、どういうカラクリやら、あっしにはとんと」 笑みを浮べながら首をすくめるスミレに、ツワブキは小さな舌打ちをひとつ吐き、次いで視線をスミレの横に座る男の顔に向けた。 スミレが海で保護したという男は、人の良さそうな笑みを満面にたたえて、平穏そのものといった空気を漂わせながら湯気のたつ茶を口に運んでいる。とてもではないが剣術の覚えがあるようには見えない。が、確かに暗殺組織ネシュカイハの者を三人、瞬く間に斬り伏せたのだという。 男は茶器を机の上に置き、ツワブキの顔に視線を寄せてニコリと笑んだ。 「迎えが来ているらしいって話を聞いたんですがね」 男の茶器に新しい茶を注ぎ、スミレは視線だけをツワブキに向ける。 「まもなくここに来るだろう。……どうやってこの場所を知ったのか、気になるところではあるが」 ツワブキが眉をしかめると、それをうけたスミレが「ああ」と小さくうなずいた。 「帳面をねぇ、広げてたんですよ、この彼が」 「帳面?」 「その上に、この辺りの地図みたいなのを、つらつらっと描いてね」 「……なぜ止めなかった? この場所がリンドウに知れたら」 「文字みてぇなのもつらつら書いてたんですがねぇ。あっしにゃあその文字も読み取れなくてねぇ。それに」 「それに、なんだ」 表情を曇らせたツワブキに、スミレは口角を歪めあげて笑みを作った。 「この隠れ家ももうだいぶ古くなってきやしてね。次の場所に移ることにしてんですよ。……さすがに次の場所にまでこの方を連れていくわけにはいきやせんがねぇ」 言って頬を緩め、スミレは男の顔を見る。 紀一郎は眼前の男たちがなぜ自分の顔をまじまじと見据えているのか、その理由もさっぱり分からずじまいだった。 「言葉が分からんってのも、困いもすなぁ」 呟き、頬を撫ぜる。 そのとき、部屋の外がばたばたと騒がしくなり、次の時にはスミレの部屋のドアが荒々しく蹴破られたのだ。 「紀一っちゃん! 助けにきたよ!」 先頭をきって飛び込んできたのはエルエムだった。続き、理星、ミア、十三、広助の順に部屋に立ち入る。 「ご無事ですか!?」 ミアがそう口にしたとき、紀一郎はといえば、注いでもらったばかりの茶を口に運ぼうとしているところだった。 「おはん、スミレちゅう名前やったがか」 エルエムからチケットを受け取り、ようやく恩人と言葉を交わすことができるようになった紀一郎は、喜色を満面に浮かべた表情でスミレに対峙した。 「おいの名は紀一郎じゃ。分かるか? き・い・ち・ろ・う・じゃ」 「聞こえてやすよ、紀一郎さん。お仲間がいらして、良かったでやんすね」 言いながら、スミレは少しばかり伸びた赤銅色の髪の上に編み笠をかぶる。 「紀一郎さんがその旅券をお持ちじゃあなかったから、あっしらはひとつもお話できなかったんでやんすねえ。いや、しかし、こうして言を交わせるようになって良かったでやんす」 そう続けて微笑み、スミレは目線を横手へと移した。視線の先には広助がいて、広助はスミレと目が合ったのを知ると、慌てて顔を背け不快を顕わにした表情を浮かべた。 「ところで、スミレとやら。仲間を助けてくれた、一宿一飯の恩義、ぜひとも返させてほしい。俺たちに手伝えるようなことはないか?」 十三は述べると、スミレは穏やかに微笑み、かぶりを振る。 「そういう事でしたら、ひとまず、一刻もはやくご自分たちの世界にお帰りいただけやすかねぇ?」 「なぜだ? 荒事なら喜んで手伝うぞ」 「そうだよ。エルの髪を切った、あの男にお礼もしなきゃだしさ!」 エルエムも口を挟む。が、スミレはやんわりとかぶりを振るだけだ。 「ありがてぇお話でやんすが、あっしらはこれから次の隠れ家に移らなきゃあらなんのですよ」 「隠れ家?」 ミアが問う。 「そういや、ここは絶壁の中の洞の中だったな。……隠れ住まなきゃなんないような集団なのか?」 理星もミアに続く。 「まぁ……そうでやんすね。たとえば」 口許に薄い笑みを浮かべ、スミレは煙管を手にとって火を点けた。 「たとえば、もしも次にあなた方やお仲間さんたちにお会いすることがありやしたら、そのときにはゆっくりとお話いたしやしょう」 そう言って、スミレは腰を折る。簡素な挨拶を残すと、あとはそのまま振り向くこともせずに部屋を出て行った。 「ツルバミ」 呼ばれ、鳥の面をつけた黒衣の男はリンドウ王の部屋のドアを開けた。 吹き込んでくる冷ややかな風。海より遠く距離をもった森の真ん中にある場所であるにも関わらず、風はわずかに潮の気配を含んでいる。 真白は海鳥が王の肩で羽を休めている。王は海鳥の羽をゆるゆると撫で、しかしツルバミを振り向くこともしないままに言を続けた。 「なぜ逃がした?」 海鳥が羽を羽ばたかせる。 「いやあ。手を抜いたつもりもなかったんだけどね」 頭を掻きながら、ツルバミは悪びれもせずに応える。 「前の連中と違って、今回の連中はなかなかだよ」 「なぜ逃がしたのかと訊いているんだ」 言って、リンドウはゆっくりとツルバミを振り向いた。その表情には、しかし、穏やかな笑みが浮かんでいる。 「申し訳ありません、我が主リンドウ王」 リンドウの目がツルバミを捉えるときには、もうすでに、ツルバミは片膝を床につけ、頭を深く垂れた格好を作っていた。 リンドウの肩を離れ、海鳥が飛び去っていく。森が風に揺られ、波の音をたてる。 リンドウはゆっくりとツルバミの傍に近寄ると、自身も同じように片膝をついて身を屈め、ツルバミの肩を優しく叩きながら口を開けた。 「構わん。――おまえは私の退屈を思い、事を楽しく進めようとしているだけなのだろう? ……次には期待している」 ささやくような口ぶりでそう告げて、リンドウはほころぶ花のような微笑を満面にたたえた。
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