「調査隊を送り出した結果、壱番世界――日本国の福岡市営地下鉄において不可思議な事件を起こしているファージ型落とし子は、『人間』に寄生していることが判明しました」 リベル・セヴァンは淡々とその事実を告げた。 彼女の前には、ファージ討伐のため選抜されたロストナンバーたちがそろっている。その中には調査隊のひとりであった飛田アリオもいた。「ファージが動物に寄生した場合、それらは単に暴れたり、周囲の世界を闇雲に侵食しようとするだけです。これは北海道にて行われた変異獣の討伐からも、みなさんおわかりでしょう。しかし、寄生体が高い知性をもつ人間の場合は、事情が異なります。ファージにとりつかれた人間は、人間としての生活をつづけながら、計画的に侵食をすすめていくのです。これがどれほど恐ろしいことかおわかりですか?」 ほとんどのメンバーが疑問符を浮かべる中、アリオは顔を青ざめさせた。「ファージに寄生されても人間としての記憶や性格といったものを失うわけではありません。ただ、この世界を異世界につくりかえなければならないという意識を植えつけられるのです。つまり、ファージ人間は、家族といった身近な人にでさえ気づかれぬよう壱番世界を侵食することが可能なのです」 アリオは思う。あの地下鉄の運転手も、ふだんは同僚と馬鹿話をして笑ったりしているのだろうか。休日には家族と連れだって買い物にいったりするかもしれない。でも、その裏側では、気のおけない同僚や愛する家族が住む壱番世界を侵食しようとしているのだ。「……話し合い」 リベルが声のした方に顔を向けると、アリオがうつむいたまま言葉をつむいでいた。「話し合うのは無理なのかな? ファージに寄生された人には、記憶とか性格とか残ってるんだろ。だから、話し合ってどうにか――」「無理です。ディラックの落とし子は彼らなりの知性というものをもっているようですが、その性質は異質すぎて、とりついた人間とコミュニケーションをとることができません。ですから、ファージ人間は計画的に世界を侵食しようとはしますが、本質的には気が狂ったような状態だと考えてください」 はっきりと否定され、アリオは口をつぐむしかなかった。「話を戻しますが、ファージ人間は『儀式』を行うことによって世界を侵食します。この『儀式』は他の者からすればまるで意味のないものに思えるのですが、ファージにとっては非常に重要なもので、彼らにしかわからない様々な手順を経て完成されます。『儀式』が完成したとき、その周囲は異世界へと変わってしまいます」 ここでリベルは、いま福岡市営地下鉄で起こっている儀式とおぼしき現象の説明にはいった。 地下鉄空港線の駅は全部で13個ある。西端にあたる姪浜駅から順々に、真夜中の最終電車で13名の乗客が切符をなくし、翌朝には消失した切符をくわえた13個のネズミの頭部がホームに並べられる、といった流れで儀式がおこなわれていた。これが手順なのだろう。 ここで調査隊が記録した最終電車内の映像が映し出される。「調査に赴いた方々の活躍で、儀式は乗客みずからの手で行われていることがわかっています」 画面に、最終電車に乗り合わせた13名の乗客がネズミの頭部をひきちぎり、自分の切符をその口に押し込みながらこちらへ迫ってくる場面が流れた。「ファージが人間に寄生した際に、もっとも恐るるべきは、この点です」 ファージ寄生体は同種の生き物をあやつることができる。つまり、ファージ人間は他の人間を自在にあやつることができるのだ。彼らの手による儀式が発覚しづらく、妨害しづらい一番おおきな理由がそれだった。 ただし、コンダクターおよびツーリストがファージ人間にあやつられることはないと、リベルがつけくわえる。 つづけて、異形と化した運転手が襲いかかってくる場面。「この鉄道運転士がファージに寄生されていることまで判明しています。問題はこの儀式がどこで完結するのか本人にしかわからないというところです。儀式完成まで時間的に余裕があるのかないのかすら、私たちには知りようがないのです。そこで貴方がたには、これからすぐさま壱番世界へ移動してもらい、福岡空港駅より最終電車に乗り込み、このファージを討伐していただきます。ちなみに、つぎに切符が消失する予定の駅は天神駅です。福岡空港駅から天神駅までは、恵比寿、博多、祇園、中洲川端の4つの駅が存在し、総移動時間は11分となっています。可能であればこの11分の間に決着をつけてください」 討伐――その言葉の意味に、アリオは押し潰されそうになった。 ファージに寄生された生物は命を絶つしかない。もう絶対に元にはもどらないのだ。だとすれば、これからおこなう任務の目的とは、実質的にあの運転手の殺害ということになる。そうしなければ、壱番世界が――みずからの故郷が異世界へとつくりかえられてしまうのだから。 自分にできるだろうか。いや、それ以前に許される行為なのだろうか。 疑問と不安だけが渦を巻き、彼をさいなむ。 アリオはファージ人間の腕を殴ったときの感触を思い出していた。あれは人間の腕などではない。トラベルギアで攻撃してダメージを受けない腕など、人の腕であるはずがない。「落とし子を倒して、自分の世界を守るんだ……」 16才の少年は、自分に言い聞かせるかのように、力強くつぶやいた。
<1> 「俺も同じだよ」 ぽつり、と言ったのは虎部隆である。 「え」 聞き返したアリオに、うっすらと微笑を返す。 「正直気が重い」 「……」 車窓の向こうには、どこまでも空虚なディラックの空が広がる。 ロストレイルが目指すのは壱番世界。アリオや隆たちにとっては故郷である世界だったが、この日の旅路は、気の弾むものではなかった。 「俺もだ」 アリオの隣の席にかけた、佐上宗次郎も控えめに同意を示す。 「あの人にだって、家族がいるのかもしれない」 宗次郎とアリオは、先日の調査で、彼と遭遇しているのである。 すなわち、ファージに寄生された、人間と。 「まあ、みな、考えることは同じだよな」 山本檸於が加わった。 「俺が参加しなくてもよかったかもしれない。ターミナルには強い奴らが山といるから、俺が来なくても何とかなるだろうし」 肩をすくめてみせた。セクタンのぷる太がふるふると揺れ震えた。 「けど俺は、参加する事を選んだ。俺が、何とかしたいんだ……、自分の世界だからさ」 「……」 アリオはじっと考え込んでいるふうだった。 「世界を救うなどと考えても範囲が広すぎてスーパー実感がわかんのだろう」 イフリート・ムラサメが――いつになく静かに通路を挟んで反対側の席にいた鎧武者がそう言った。 「迷うくらいなら、向こうに着いたらそのままこの列車で帰れよ」 そして、イフリートの対面のルイス。 ルイスの言葉は厳しく響くが、その意味は、アリオにだってわかっている。 正論なのだ。 ファージ寄生体を排除しなくては、壱番世界が侵食され、さらに大きな被害が出ることになってしまう。 しばし、沈黙。 「まあ深く考えすぎるのも良くない。本番はこれからなのに、考えるだけで疲れてしまっては意味がないというもの。おのおのがた、酢コンブがいかがかな」 売店で買ったのだろうか、酢コンブの小箱をとりだして、イフリートが皆にすすめた。ひとつ貰うか!とわざと大きな声を出して、隆がそれを受け取る。 「しかし今日のメンツはイロモノ勢ぞろいじゃね?」 酢コンブをかじりながら隆が言った。 「そういうことを言いながら俺を見るな」 「イロモノとな! たしかに拙者、つやけしレッドのカラーリングであるが――」 「たしかにギアはアレだが、別に俺自身はイロモノってわけじゃ」 「俺は含まれてないよな!?」 各方面から一斉に声があがる。そのひとりが、最後のひとり、烏丸明良である。 「つーか、なんだよ。福岡行きっつうから、こりゃ、本場のとんこつラーメンでも食いに行くか、って来てみりゃ、ファージ退治だ? マジかよ……、ラーメン出汁の竜刻回収とか博多和牛アニモフを救えとかそういうんじゃねえのか!」 明良の言葉に、アリオが笑った。 重苦しい空気が、いくぶん、やわらいでいる。 やがて、列車は目的地へ近づきつつあった――。 「とんこつラーメンを、俺は食う!!」 「はいはい……終わってからね」 放っておくとそのまま博多の夜の街に消えていきそうな明良を、墨染の袖を引いて宗次郎が引き止めた。 福岡市営地下鉄・福岡空港駅――。 アリオが人数分の切符を券売機へ買いに行った。 ここから地下鉄の終電に乗り込む。今夜、『天神』駅で、例のあやしい儀式が行われるはずだ。 「……しかしネズミの首をひきちぎるたぁね」 明良が言った。 前回の調査報告を読んできているのか。宗次郎はふっと頬をゆるめた。ラーメンだなんだと言いつつ(それも本当かもしれないが)、彼もまた自分の意志でチケットを受け取っているとわかって、宗次郎は心強さをおぼえた。この戦いは、ひとりで背負うには重過ぎる――。 「ひどいよね」 宗次郎は前回、『儀式』について目撃している。 どういうしくみかは誰にもわからないが、あの奇怪な儀式がこの世界の摂理を弱める役割を持つのだという。 「……お、ネズミだ」 「えっ、どこ!?」 明良の言葉に、宗次郎は視線を巡らせたが、どこにもその影は見えなかった。 終電間際の駅には、帰りを急ぐ人々の姿だけがまばらにある。 「ネズミっていえば、ハーメルンの笛吹き男思い出すね。こう、笛を吹いたらねずみが集まるって」 明良は続けた。 「俺の場合は――、お経でも唱えたら集まってくるかね。へい、テメーら、俺のお経を聞け!!」 突然、始まるラップ調の読経に、驚いて人々が振り返った。 「ちょ、ちょっと、目立ってるよ!」 宗次郎は慌てた。 なんだか前回も、無意味に騒がしく、人目を引いてしまった気がする。もっとも今回は、一番世界の常識を知らないツーリストなどではない、明良は正真正銘のコンダクターなわけだが……。 「おお、みろ、ネズミたちだ! よし、おまえら、仲間の仇討ちにいくか!」 「何言ってんの、ネズミなんていないよ」 「はあ?」 「もうすぐ時間だ。急いで」 アリオがふたりに切符を渡し、改札を急かした。 意気揚々と、読経を続けながら弾んだ足取りの明良。傍目には……、まあ、酔っぱらいということにしておこう――。彼がときおり後ろを振り返るのを、宗次郎とアリオは首を傾げながら、続いた。 「斬撃は効果があった、ということでしたよね」 「ああ」 檸於は一足先に改札を抜けていた。 ルイスやイフリートが前回の遭遇で得た情報は皆に共有されているし、それをもとに作戦を、かれらは練っていた。 「なら俺のギアも斬撃で攻撃します。補助的にレーザーも。あ、俺のギアは……召喚系――、です」 形状について深くは聞かないで下さい、と目をそらし気味につけくわえる。 「乗客を如何にする」 「そいつは任せろ」 イフリートが言うのへ、ルイスが応じた。 「乗客は無傷だ」 他の人間はファージの能力で操られているだけだ。かれらについては命まで奪う必要はまるでない。 地下鉄のホームに揃った参加者を、ルイスはもういちど眺める。 考えてみれば、よくもコンダクターが揃った。 「……じゃあ、いいな」 ルイスの問いに、全員が頷く。 そして、ホームに滑り込んできた地下鉄へ乗り込む。 プシュ、と音を立ててドアが閉まれば、いよいよ電車が走り出す。 もう後戻りはできない電車が。 <2> 真夜中の列車が地下道を進む。 そして、目的の駅が近づいてくる……。 ひとつ手前の駅を出発するや否や、乗客たちが動き始めた。 『儀式』のはじまりだ。まずはこれを阻止しなくては。 面々もまた、一斉に動き始める。 乗客たちが、表情を宿さぬ瞳のまま立ち上がり、どこからかぐったりとしたネズミを取り出したところへ、どっと車両へなだれこんだ。 「発進! レオカイザー! ……質問は後程受け付ける!」 檸於の声にこたえて、彼のトラベルギアであるロボットが、50センチの威容で立ち上がった――! 「レオレーザーァァァ!」 レオカイザーの胸にある獅子の口が、咆哮のようにレーザーを放った。乗客のひとりがレーザーにかすめられ、驚いて手を放した。 同時に、ぱらりとこぼれおちる一枚の切符。 「ごめん!」 いつのまにか、彼のすぐうしろに忍びよっていた宗次郎が、当て身をくらわせた。どっと崩れ落ちる。 そのとき、車両内を一陣の風が吹く。ルイルの吹かせた風だ。それが切符をさらっていった。 ネズミは隆が拾いあげている。 「やっぱ気持ちいいもんじゃねーなあ」 と、へきえきしがら、しかし儀式のための品を奪わなくては。 邪魔者がいる、と乗客たちが――あるいはかれらを統率する何者か――が気づいたのが、人々がうつろな目のまま、一同に向き直った。人形のようにぎこちない動きで迫ってくる。 そのときだ。 「行くぜ、OKYOU!!」 明良だった。 終電車内に響き渡るお経! 「な、なにやってんの――」 ときならぬ仏教ライブにアリオが目を見開いたが、同時に、足元を猛烈なスピードで過ぎゆくなにかを感じて、うわ!と声をあげた。 「なにかいる!?」 「ネズ公ども!! 足止め頼むぜ!! ――レディゴー!!」 「うそ……、ネズミ!?」 宗次郎は、大量のネズミが車両内の床を走ってくるのを見た――ような気がしたのだが、たしかに視界をよぎるその影を見ようとするとなにもいない。 だが乗客の何人かが、ふいに動きを止めてもがくような様子を見せた。よくわからないがなにかが起こっている。 それが烏丸明良の読経が招いた大量のネズミの動物霊による心霊現象だとわかるのは後のことであるが、少なくとも意図通り操られた乗客たちの動きを阻害し、付け入る隙をつくったことは間違いなかった。 宗次郎の蹴りや、イフリートの盾による一撃が乗客たちを昏倒させていく。 ルイスが窓のひとつを破って、風に乗せたネズミや切符を外へと放り出す一方、正体をなくした乗客を縛り上げては隣の車両へ転がしていく。 「……とりあえず、今回の儀式は阻止できたな。後は……」 檸於が前方を見据えた。 「でたな」 ルイスの銀の瞳にうつる、仁王立ちの影。 車掌室の扉の前に制服の男が立つ。幽鬼めいたあやしい気配は錯覚か。しかし制帽の鍔がつくる陰のなかで、一対の目が人ならざる輝きを宿しているのだ。 「……」 アリオたちは二度目の対峙だ。 だがどさくさにまぎれて遭遇した前回とは違う。かれらは、あの男を討つためにここへやってきた。その気迫を感じ取っているのか、あるいは『儀式』の邪魔をされた憤りか――、男は静かに一歩を踏み出す。 「ヒャッハー、汚物は成仏だァ……!!」 よくわからない叫びとともに誰よりも最初に動いたのは明良だった。 「お、おい!」 アリオには、明良はあまりに無策に見えた。案の定、男の腕が伸び、その五つの指が明良の坊主頭をがっしりとわし掴んだ! 「うお!」 だがこのことにより、敵の第一撃が明良に向かい、他のものたちが踏み込む好機となったのだ。 「レオブレェーーード!!」 虚空から出現したレオカイザーの剣が、明良を掴んだ腕に斬りつける。 そのあいだに、宗次郎、隆が走りこんでいた。 敵のもう一方の手が伸びる。 「……!」 隆は吊革を掴んで体操選手の吊輪よろしく身体を浮かせ、その一撃をやりすごす。 だが、伸びた腕は不気味な粘菌の分裂のようにわかれて無数の触手となり、隆を追う。別の尖端が狙うのは宗次郎だ。 「くそ!」 宗次郎が触手を蹴り上げるが、打つよりも斬るほうが効果があるように思える。 「ルイスさん! なんかすごいワザ!」 「なにその無茶振り」 言いながらも、小刀で触手の群れをなぎながら、ルイスが突っ込んでくる。 トラベルギアのリードをしならせる。風を切る鞭の音とともに、数本の触手がちぎれ飛んだ。 アリオは明良に駆け寄っていたが、 「なにしてんだ、敵はあっちだ」 と、彼は言った。 「飛田殿」 アリオが顔をあげると、そこにイフリートの背中がある。 手首から先を斬り落とされた腕が暴れるのを彼がつかんで、そのまま引き寄せようとしていた。イフリートの両脚が渾身の力をこめて踏ん張っているのがわかる。あの腕にそれだけの力があるのだ。 そんな格闘をしながら、機械の鎧武者の背中が続ける。 「いまだ覚悟が決まらぬのであれば、烏丸殿を連れて向こうの車両へ。戦うのなら拙者を越えて行かれい。今、拙者がこれを引き寄せるゆえ――」 「……」 イフリートの腕に力がこもる。 敵の腕が途中からいくつもの触手を枝分かれさせ、イフリートに襲いかかった。彼の首や手足にからみつく。人間なら、締め上げられて窒息し、手足の関節を脱臼していたかもしれない。イフリートでさえ、ぎしぎしとそのボディが軋む音がするのである。 レオカイザーのビームによる援護射撃が触手を焼き切っていくも、焼かれた傷はどんどん再生していくのだ。 「飛田殿、こう考えよ。貴殿は今銃を手にして敵と向かい合っている。考えるのだ。貴殿の大切な人を、そして銃を手にした敵が、家族と団欒している姿を」 ごくり、とアリオの喉がなった。 両腕を異形と化した男――。 昨日まで……変わらず、地下鉄の職員として勤務していた人間だ。彼にも家族がいるのだろうか。友人だって、いるだろう。しかし……今の彼の正体は、この異形の化け物であって。 「よいか、命は平等だ、と言うのはウルトラ妄言だ。『味方の命は敵の命より重い』。守りたいものを守るために命をかける、戦いとはそういうものだ――」 アリオは目を閉じる。 ふっと、九州の街を思い浮かべた。 雑踏の中に消えていく制服の姿。たあいのない会話に興じている何も知らぬ人々。そのなかにまぎれこんでいく男の、赤い不吉な眼光。羊の群れの中の狼だ。 「……わかってる……」 彼はつぶやいた。 「そんなこと――わかってるんだ……!」 スニーカーが、床を蹴った。 ぐっと握りしめた拳――アリオのトラベルギアの手の甲のジェムが輝いた。イフリートを越えて飛び出す。触手の群れの一部が彼へと向かうが、レオカイザーがアリオをかばった。レオブレードが触手を薙ぐ。 「ディラックの落とし子だと……バカにすんな――……その人だって――人間だったのに……畜生、ちくしょぉおおおおおおおおお……!!」 アリオの拳の光が流星のような軌跡を描き、叫びとともに列車の床にたたきつけられる。 電撃の速度で、光り輝くエネルギーが床を走る。 そして男の足元でスパークした。 <3> 「!」 バランスを崩した敵の身体――その首に、鋭くからみついたものがある。イフリートのワイヤーだ。それが一気に引き寄せられる。 男は咆えた。 それは獣の叫びのようにも、なにか得体のしれない呪文のようにも聞こえたが、少なくとも、もはや、人間の声ではなかった。 だん、と音を立てて床に転ぶ。そのまま引きずられていく。 腕だけなく――男の制服を突き破って、無数の触手や、昆虫の節足のようなものさえ生え出している。 人間の骨格の限界を越えて開かれた口のなかに、何列にも牙が並んでいるのを、ひきずられてくる男の間近に見た宗次郎は知る。 ぎりぎりとワイヤーに締め上げられている喉が、ろくろ首のように伸びた。頭部は奇怪な変貌を続けている。にもかかわらず、そのうえに制帽が載っているのが、シュールな悪夢のようだった。 今やそれだけが、彼が人間であった名残だった。 「……っ」 宗次郎は、一瞬、躊躇を見せた。 だが敵ごしに、隆が敵の後方から近づくのが視界に入った。 ふたりの瞳が見交わされたのは、一秒にもみたない。隆は何も言わなかった。だがそこにあったのは、静かでたしかな決意であって。 「……」 隆がトラベルギアの尖端を敵に振り下ろす。 風が――唸っていた。 ルイスが吹かせた風、そして、割れた窓から入り込んでくる風。 なにを言うべきかと、宗次郎は思っていた。しかし、何も――この期に及んでは言葉などは無意味だった。ただやるべきことだけが、ある。 隆の無言の行動がなにより雄弁に語っていた。 話せば決心が鈍る。そう考えていたのだろう。彼は正しい。 すべての思いは言葉ではなく力に変えて、宗次郎の脚が動いた。シャドウ・シーカーのつま先が、敵を蹴り上げた! 渾身の蹴りが叩き込まれると、敵の身体が宙に浮かんだ。 いやな音を立てて、触手がちぎれ飛ぶ。 (せめて――苦しまずに) 宗次郎の、その思いは通じたか。 なにかが蒸発するような音とともに、形容しがたい光の爆発が、ちぎれた触手の尖端から起こった。 「壊れていきやがる」 ルイスがつぶやいたとおりだ。 ディラックの落とし子は、いずれの世界にも属さぬ存在。どこにもあってはならないものだ。その事実を体現するように――歪められようとしていた摂理がもとに戻る反動のように、光の破裂となって、その異形の細胞ひとつひとつが崩壊していく。 カッ――、と目を射る閃光。 そして…… 「あ――」 気づけばそこには、もう何もなかった。 あとかたもなく、消滅してしまったのだ。 まるでなにもかもが悪い夢だったように。しかし夢ではない証拠は――、ぽつんと、そこに車掌の制帽だけが落ちていることだった。 ガタン、ガタン――、と。 意識の埒外にあった地下鉄の走行音がもどってくる。 割れた窓からごうごうと吹きこんでくる風。 ふいに、さっと、窓の外が明るくなり、地下鉄のスピードが落ちた。 駅に、ついたのだ。 天神駅――の表示が見える。 なんと、すべてはたったひと駅の出来事だったのだ。そのことに、アリオは愕然とする。 電車は止まり、ドアが開いた。 到着のアナウンスがないのは、車掌がいないからだ。 * 終電の乗客が切符をなくすという奇妙な事件は、この夜が最後だった。 ただこの日だけは、あの不気味なネズミの生首はあらわれず、そのかわり、電車の車掌が走行中の車両から姿を消すという、ミステリーが起こり、一時、ワイドショーをにぎわすことになる。 もちろん、その晩、天神駅で降りた7人の乗客について、報道されるはもちろん、駅員たちがなにかを語ることはなかった。 「さて、と」 改札を抜けると、明良が墨染の裾をさばいて、どっかりと地べたに腰をおろした。 「俺の出番だなー」 「……え?」 「成仏祈願だ。決まってるだろ」 「あ」 彼の前に、制帽が置かれていた。 「なるほど」 隆が、渇いた声で低く笑った。 「そうだな。ここは和尚の仕事だよな」 明良は頷いた。 そして、数珠を持つ手を合わせると、朗々と読経を始めたのである。 「……迷うのは当然だ」 ルイスが言った。 「だから迷う自分を恥じるな。それが今の自分なんだと、受け入れて必死に足掻け」 「……」 アリオは頷いた。 「一人で不安なら、誰かを頼れ。一緒に頑張ってくれる誰かは必ずいる。今は、ここに居る連中が、そうだろ?」 「うん。俺、今回はアリオがいてくれて良かったよ。俺とおんなじこと考えてる奴がいて、そういう割り切れない気持ちを抱くのは、決して間違っていないって自信がついたから」 と、宗次郎。 「俺も、後悔はしてない」 檸於が言った。 そんな彼らを見回して、イフリートが、うむ、と頷いた。 「皆は壱番世界の危機のひとつを退けて、この世界を守ったのだ。それは誇ってよいことであろう」 「いろいろ考えちまうけど……、引きずってちゃ何もできねーもんな」 隆が努めて明るい声を出す。 「……っていうか、お経を聞けよ、おまえら!!」 「っと、わりぃ」 そして、笑った。 「よし、みんな帰るかー」 「なんだか疲れたな、いつも以上に……」 「え? とんこつラーメンは?」 「あ、そうだった。でももう帰りのロストレイルの発車時刻……」 「なにーーー! なんのために来たのかわからん、俺はとんこつラーメンを食うぞーーッ!」 「ダメだよ、戻らないと!」 「ててて、引っ張るな、おい!」 「むう、そこまでこだわるとは、その『とんこつラーメン』とは如何なるものなのかな」 「ああー、さらば、俺のとんこつ、俺の博多の夜……」 「はーい、みなさん、席にお着きくださーい。まもなく、ロストレイルは0世界へ向けて――」 「チュウ」 「チュウ? 今、チュウって言わなかった?」 「あ、ネズミ」 「え、どこに!?」 「!? きゃーーーー、ネズミーーーー!!」 「おー、おまえらまだいたのか」 「もう、コイツ、下ろそうぜ、ネズミごと……」 (了)
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