オープニング

 ビリー・グラトニー二等兵は、不満だった。
 もし生まれついた場所が「永久戦場カンダータ」でなければ、彼は「ただの食いしん坊な怠け者」として、平穏な日常を送っていただろう。
 ほんの少しの、周囲の軽蔑の眼差しと引き換えに、舌と腹を満たす快楽に埋もれながら、至福の時を過ごす権利を守っていられただろう。
 しかし、戦闘に明け暮れる故郷では、成人男性の大半が「兵士」として戦いに赴かねばならなかった。
 当然彼も例外ではなく、マシュマロのように甘いひと時は終わりを告げ、代わりに訪れたのは一日中走らされ罵倒されるばかりの、厳しい訓練の日々。
 支給される僅かな食事では、丸々とした脂肪の塊を維持するのも一苦労だった。

 インヤンガイに派遣されてからは、状況は少しマシになったかもしれない。
 いくつかの制限付きではあったが、時々地元の市民に変装して外出する機会を得られたからだ。
 背徳の街であると同時に、美食の街でもあるこのインヤンガイは、彼にとって正に楽園だった。
 街を歩けば、香ばしい油の匂い、暖かな蒸し物の匂い、瑞々しい果実の匂い、そんな心地よい匂いがそこかしこで鼻腔をくすぐる。
 店に入れば、故郷のカンダータではお目にかかれない様々な美味を味わうことが出来た。安い大衆食堂でも、腕の良い料理人にかかれば、想像以上の美味・珍味をいただくことが出来る。軍の支給する無味乾燥なレーションとは雲泥の差だ。
 同胞達が博打や女に費やす金も、全てアジトに帰ってから食べる『非常食』の購入に費やした。
 彼の不満は、少しだけ解消された。
 上官の小言と監視の目がなければ、もっと最高なのだけれど。

「……ダンクス少佐の本隊が撤退しただと!?」
「きっと俺たちは見捨てられたんだ! ちくしょう、こんなことってあるかよ!!」
「そんなはずはない! 少佐のことだ。きっと何か考えがあってのことに違いない……とにかく、我々は我々の任務を全うするしかない」
「任務って……あのキルケゴールとかいう薄気味悪い奴の言っていた『アレ』か?」
「口を慎め。仮にも上官だぞ」
「確かに、兵器開発に関する頭脳については比類ないことは認めるが『何を考えているのかよく分からない』人物なのも事実だな。例の件にしても『より欲望に忠実な者こそが最適なのです』と言っていたが……本当にあの穀潰しがどう役に立つのか、俺たちにはさっぱり……」
「ともあれ、既に計画書にある『準備』も整った。あとは実行に移すまでだ」

 アジトで囁かれるそんな会話にも、ビリー・グラトニーは全く興味がなかった。
「ああ……腹減ったなあ……」
 今日も今日とて、自室のベッドの上で、スナック菓子の袋を空っぽにする作業が始まる。
 彼にとっては、それこそが世界の全てなのだから。



「凌雲楼崩壊事件は、覚えているな? 以前オリガが担当した、あの事件だ」
 世界司書のシド・ビスタークは、開口一番、集まったロストナンバーたちにそう告げた。
「その事件があったテンシャン街区に、今度はカンダータ軍の残党が終結しているとの予言があった。そこで、だ。今回のおまえらの任務は、同街区に駐留している部隊を制圧し、一人でも多く捕虜として連れ帰ることだ。今回お前らが相手するのは、ダビデ・フルチ大尉をリーダーとする『フルチ小隊』。人数はざっと30人前後といったところか……もっとも、もう少し減るかもしれないがな」
 最後の一言を聞いて、その場の空気が一気に凍りついた。
「……おまえらが心配しているのは『タグブレイク』のことだろ?」
 彼らの不安を察したかのように、シドが言う。自軍の兵士の命と引き換えに、十数人ものロストナンバーたちを異世界へと放逐した、恐るべき切り札。
「それなんだが、『導きの書』の予言によると、今回の戦闘で使われることはないそうだ。いくら味方の犠牲を厭わない連中と言っても、ただでさえ主力の撤退で減少した貴重な兵士をこれ以上無駄遣いするわけにもいかねえ、という腹なのか、それとも……いずれにせよ、その点に関しては心配はいらねえ。武装の方も、首魁のダンクスの直轄ではないせいか、殆どが壱番世界の一般的な軍隊で正式採用されてるようなもので、先のトレインウォーの時ほど強力なものはないそうだ。ただ……いくつか気味悪りぃ予言があってな」
 シドの強面に、普段の豪放快活な性格からは程遠い不安の色が浮かぶ。
「一つはさっきも言った『敵兵力の不自然な激減』。フルチ小隊は元々、50人前後の大所帯だったらしい。それがここ最近で、急激に数を減らしているんだよ。カンダータの連中にしては珍しく、裏社会と組んだ形跡は無いわ、かと言って他に表立った活動も見えてこないわで、何があったのかまでは分からんが……。それともう一つ、今回の敵の中には1体だけ『物理攻撃及び精神攻撃が全く効かない奴』がいる。否、無力化どころか……食うんだよ。刀剣だろうが鉛玉だろうが『形あるものなら何でも』、な。恐らくはこの前の『夜叉露』のような、えげつない人体実験の産物ってやつだ。ただでさえ、奴さんらが大人しく捕まってくれるような聞き分けの良い連中じゃねえってことは先刻承知だ。先の予言の件もあるし、必死に抵抗された結果、双方に死傷者が出る可能性は極めて高いだろう。いいか、過酷な戦いだからこそ『冷静さ』を失うな。知恵を絞れ。命を無駄にするな。そのことを忘れんなよ?」



 テンシャン街区外縁部。
 再開発計画から取り残され見捨てられたスラムが広がるこの場所で、『霊能探偵』ミン・ユィンは、ある事件を追っていた。
 最近になって、このあたりで浮浪者たちの失踪事件が相次いでいる。
 中心部に居を構える富裕層や中流層ならともかく、薄汚れた路地の片隅を彷徨う何処の誰とも知れない浮浪者の行方が一般市民に省みられるはずがなく、警察の対応もおざなりなものであった。それだけなら、このインヤンガイではさして珍しいことではない。
 しかしユィンの『霊能探偵』としての勘が囁いていた。
 誰に依頼されたでもない。一文の得になるわけでもない。それでも自分は、この事件を追わねばならない、と。
 ありふれた事件の背後に、名状しがたい闇が蠢く。その先に待つのはきっと、あの「凌雲楼事件」以上の惨劇。
 最悪、この街が丸ごと滅びてもおかしくない程の。

 懸命の聞き込み調査の結果、彼女は浮浪者たちが最後に目撃されたという、とある廃ビルに辿り着いた。
 放置されてもう何年になるだろうか。中の備品は全て撤去され、老朽化の果てに壁の塗装も剥がれ落ちて、打ちっぱなしのコンクリートの肌をさらけ出している。
「!」
 一番奥の広間に一歩踏み出した途端、むせ返る血の匂いと共に目に飛び込む光景に、さしもの彼女も言葉を失った。
 灰色の壁と床一面に、人の血で描かれた、奇妙な文様。
 その中央にばらまかれた数人分の骸。どれもこれも骨と皮ばかりの痩せぎすで、一人を除いて全員がバラバラの肉片と化していたが、辛うじて残った着衣の切れ端から、彼らが皆失踪した浮浪者たちであることは、容易に見当が付いた。
 バラバラの肉片は皆、まるで何者かに食いちぎられたような、ギザギザの断面を晒していた。
 唯一五体満足の死体も、何者かに心臓を一撃で刺されていた。狂気に目を見開き、口の端も指も胸元も、凝固した血で汚れていた。
「これは……」
 禍々しい血の惨劇に絶句し顔をしかめたその時、背後に何者かの気配を感じ取った。
「誰!?」
 誰何の声と共に構えた拳銃。しかし程なく、人影の正体――ロストナンバーの姿を認め、銃を降ろす。
 ロストナンバーたちは、自分たちもさる筋からの情報で、この辺りで起こった別口の事件を追っていることを告げた。カンダータ軍の存在は彼女に明かさず、この廃ビルから武装テロ集団のアジトに通じる通路がある、ということにした。
「……この壁や床に描かれた文様は、霊的存在を召還する際に用いるものよ。それも、かなり邪悪な部類のモノを呼び出すためのね。ここで行われたの儀式と呼び出した存在、そして貴方達が追っているテロ組織の間に何があるかは分からないけど……ものすごく嫌な予感がする」
 ユィンの感じた不安は、そのままロストナンバーたち自身の不安でもあった。思えばあの『夜叉露』も、人の絶望や怨念といった「霊力」を薬剤として精製したものだった。邪悪な霊的存在に、カンダータ軍の持つ未知のテクノロジーが融合した「何か」。恐らく彼女の想像を超えた、そして彼女の能力では太刀打ちできない代物だろう。
 この危険な任務に彼女を同行させてよいものかは、判断に迷うところだが、少なくとも「この先に待ち受ける邪悪を、このまま放置してはおけない」という点において、両者の意見は一致していた。
「もし、更に探索を続けるのなら……これを持っていって」
 そう言ってユィンは、彼らの一人一人に、紙幣ほどの大きさの術符を手渡した。
「万が一致命傷を受けても、この『身代わり符』が死の運命を跳ね除けてくれるわ。だけど、効果は1回だけ。二度目は無いってことを忘れないで……気をつけてね」



 そこにあるのは、全体を太い鎖でがんじがらめに拘束された、巨大な『肉塊』であった。全長は3メートルはあろうか。
 頭部と思われる丸い突起部の中央あたりを横方向に走る裂け目が、地の底から鳴動するような唸り声を上げる度、だらだらとねばついた涎が滴り落ちる。
「彼」はもはや、人の形をしていなかった。否、「人」ですらなかった。


 オッ……オォォォォォッヲォォォ……オォォォォヲオオオオ……ッ!
 ……ラガ……ヘッ……タ………ク………ワセ……ロ…………
 モット……モットモットモットモットォォォォォォゥオヲ…………………!!!!!!


「……にしても、いつ見てもグロいな。こいつは」
「しっ、こないだの連中みたいになるぞ! こいつを取り押さえるのにどれだけ犠牲が出たのか、忘れたのか?」
「ああ……結局あいつ等も皆、こいつの『中』で……」
「それ以上言うな。飯が食えなくなる。キルケゴールが何を考えているかは知らんが、出来ることなら、こいつを使うことが無いように祈りたいね……ほれ、エサだ。食え」
 兵士の一人が、どこかで捕まえてきたらしい野良猫を一匹、肉塊に向けて放り込んだ。鞭のように細く長い舌が伸び、一瞬で空中のエサを捕らえ、口の中に納める。
 そのまま口の中でゴリゴリと噛み砕き、ゴクリ、と音を立てて飲み下す。

 裂けた口の上で、細い瞳孔の瞳が二つ、不気味に輝いた。

品目シナリオ 管理番号629
クリエイター石動 佳苗(wucx5183)
クリエイターコメントこんにちは、石動です。

このシナリオは拙作「天国は遠すぎる」と同じテンシャン街区が舞台ですが、女探偵のNPCミン・ユィンが再登場する以外にストーリー上の関連は全くありません。前作に参加されていない方でも問題なくご参加いただけます。
ただし例によって、残酷・グロ系描写の含有率は極めて高くなる予定ですので、ご了承下さい。

今回の目的は「テンシャン街区の地下アジトに潜伏中のカンダータ軍残党(フルチ小隊)を制圧し、出来るだけ捕虜として連れ帰ること」です。
もちろん敵も激しく抵抗してきますので、結果的に一人も生け捕りに出来ずに全滅させても「任務失敗」とはみなされません。
ただし目的はあくまでも「情報収集の一環としての捕縛」であり、「殲滅」そのものが主目的ではありません。地上には一般人の生活圏もあります。攻撃方法を考える際にはこの点ご留意下さい。

敵のアジトには、儀式の行われていた廃ビルから、地下の隠し通路を通って行く事になります。
しかしアジトの最深部には、一般的な兵士の他に、シドの予言にあった「厄介な敵」が1体存在しています。

OP内容からシドの言う「物理・精神攻撃の無効化」の原理(理由)とその「副次的な効果」を推測し、対処方法を考えてください。
(ヒント:「力押しではまず勝てません」「廃ビルの儀式で召還されたモノは何?」)
なお、PCの皆さんはユィンの持たせてくれた『身代わり符』で『1回だけ』死亡ダメージを回避できます。
ただしこの方法で「ある攻撃方法から」復活した場合、敵側の「ある効果」の方はきっちり発現してしまいますのでご注意下さい。

女探偵ユィンは、プレイングで特に「同行させない」といった記述がなかった場合は、PCの皆さんに同行し、術符によるサポートを行います。
式神召還、回復、防御結界など、一通りのことは出来ますが、同時に複数の事をやらせようとすると効果が半減します。
彼女のサポートが欲しい場合は「何をして欲しいか」を明記してください。

それでは、ご参加をお待ちしております。

参加者
ファーヴニール(ctpu9437)ツーリスト 男 21歳 大学生/竜/戦士
フェイ リアン(cnbx7560)ツーリスト 男 11歳 学士候補生
コレット・ネロ(cput4934)コンダクター 女 16歳 学生
椙 安治(ctcw8121)ツーリスト その他 28歳 悪魔/しょぷスト料理人
チェキータ・シメール(cden2270)ツーリスト 女 22歳 自由人。時々ペット。

ノベル

 奇妙な浮浪者失踪事件を追ううち、カンダータ軍残党捕縛の任を受けたロストナンバーたちと遭遇した『霊能探偵』ミン・ユィンは、床に描かれた魔法陣、そしてばら撒かれた「人間の残骸」を一つ一つ検分していた。
「これは……」
「何か分かったのかい?」
 ユィンの呟きに、ファーヴニールが反応した。
「ここで召喚されたのは『餓鬼』ね。極限の飢餓状態にあったか、逆に飽食の快楽に耽溺したかの理由で『食欲への妄執』を残して死んだ者が変化するという、暴霊の一種よ。しかも、普通の術者なら危険過ぎてまずやらないような、複数の術式が組み合わされている。恐らくこの術者は、かなり強力な存在を使役するつもりだったようね……」
「ヒャーッハッハッハ、やぁっぱりなぁ!!」
 それを聞いた悪魔料理人の椙 安治は、どこか楽しげにすら見えるハイテンションで笑う。そもそも彼が此度の依頼に応じた理由は、義憤でも正義感でもカンダータへの怒りでもなく、ただ『食』という行為への純粋な興味であった。それも、少なからぬ人を肉片に変え、強力な暴霊を生み出すほどの『狂気』を孕んだ、比類なき『欲』への。
『食欲』と『餓鬼』。まるで『因果』を示すように、これほど似つかわしい組み合わせがあろうか。
「飢餓によって生み出されたものなら……これで鎮められないかな?」
 美麗庭園でのとある事件を思い出し、コレット・ネロはチョコレートを差し出そうとするが、
「無理ね」
 にべもなくユィンは断言する。
「確かに『施餓鬼』といって、餓鬼に食物を与えることで魂を鎮める除霊法はあるわ。でも、その程度で満たせるほど、ここで召喚された餓鬼の……或いはその贄となった彼らの飢えは生易しいものじゃない。今回のそれはあまりにも大きすぎるの。下手すると貴方自身が『エサ』として食われることになるわよ」
 自分が食われる……ユィンが突きつけた非情な現実に恐怖し、コレットは慌ててチョコレートを引っ込めた。射抜くようなユィンの眼差しから見て、これが決してただの嫌味やこけ脅しで言っているのではないことは明らかだ。
「ここで何が行われたか……あくまでこれは使用された術式や遺体の状況から導き出した私の推測だけど、失踪者、つまりここに集められた浮浪者たちは全員、貧困のあまり食うや食わずの生活を強いられていた。そこへ突然捕らわれ、密室に鎖で繋がれ監禁され、水も食物も与えられないまま放置された。飢えと渇きの苦痛、迫りくる死への恐怖……そして……極限状態まで追い込まれた彼らは、とうとう同じ人間同士、互いを喰らいあったのよ。勿論そのままでは衰弱してまともに動けないから、下級の餓鬼を召喚して憑依させる。餓鬼に身体を乗っ取られ操られた彼らは、目の前の『獲物』に襲いかかり、殺し合い、相手の屍を貪り食って……そして最後に残った一人が術者の手で殺されて、人としての理性も良心も禁忌も破壊し尽くされた『最強の餓鬼』となり果てたってわけ。言うなれば『蠱毒の人間版』ってところかしら。分からないのは『一体そんなものを作って何をしたいのか』ってことなんだけど……」
 口調こそ冷静さを保っているものの、己の導きだしたグロテスクな推測に、ユィンは眉をひそめる。
「食」とは即ち「自らの生命維持のために他者を殺し糧とする」行為である。
 動物の肉に限らず、青果や穀物、果ては調味料の原材料に至るまで、おおよそ全ての食物は「命あるものの骸」で成り立っている。今コレットが持っているチョコレートとて例外ではない。
 最もプリミティブにして、生きとし生けるものが決して逃れることの出来ない「殺し」の原罪。
 もしカンダータ軍が、それを知っていて尚、意図的に利用していたとしたら……
「そんなもの、何か『ろくでもないこと』に決まってる。そうだろう?」
 チェキータ・シメールの言葉は、他の皆もまた同様に思うところであった。『夜叉露』事件にタグブレイク……敵も味方も関係なく、完全に人間を『モノ』として使い捨てるカンダータ軍の非道を、既に彼らは知っているのだから。
 ユィンや安治と共に、最後に殺された『五体満足の遺体』を確認していたフェイ リアンが顔を上げる。遺品の中にはカンダータ軍のドッグタグはなく、服装から見ても、死亡者の全員が現地の浮浪者であることは疑いようがなかった。
「……それでも、私たちは前へ進まなくてはなりません。私たちにはカンダータ軍残党の捕縛、そしてシドの『導きの書』が示した、最悪の未来を阻止するという使命があるのですから」
 年齢不相応に落ち着いたフェイの言葉に、皆異論はなかった。たとえこの先に何が待ち受けていても、自分たちには果たすべき役目がある。
 目の前に災厄の萌芽がある以上、もはや「恐れをなして逃げ帰る」という選択肢はないのだ。



 元々は、様々な店が軒を並べる地下街だったのだろう。廃ビルから続く地下通路には、打ち捨てられ、ひび割れ荒れ果てた看板やショーケースが、そこかしこに放置されていた。
 従業員用の出入口を抜け、その先に巧妙にカモフラージュされた隠し扉を抜け、ロストナンバーたちは一歩一歩、確実に目的地へと近づいていた。出発前にシドが教えてくれた情報のおかげで、彼らが道に迷うことはない。
「敵アジトは近い……油断するなよ?」
 ファーヴニールの警告通り、一行は物陰に何者かが潜んでいる気配を感じた。
「ちょっと待っててね」
 トラベルギアの羽ペンで、コレットが壁に大きなクマさんの絵を描く。すると描かれたクマさんが、まるでレリーフが膨らんでゆくかのように、次第に実体化してゆく。見た目はアニモフのように可愛らしいテディベアだが、その表面は固いコンクリートで、しかも通路の幅ギリギリの大きさともなれば、かなりの威容だ。
「な、何だあれは!?」
 突如現れたファンシーな巨大クマに、潜んでいた兵士が驚き発砲する。しかし、コンクリートで出来た身体は、簡単には倒れない。敵の銃撃から仲間たちを守る盾の役目も果たしていた。
 弾切れとなった兵士の一人にクマさんの手が伸び、がしっと捕まえる。
「殺しちゃだめだよ? 先に0世界へ行ってる兵士さんたちに会わせるんだからね?」
 コレットの言いつけどおり、クマさんは掴んだ兵士をそっと一行の前に下ろした。すかさず仲間たちが拘束する。
「逃がさないよ!」
 チェキータの素早い動きが、逃げようとする兵士の行く手を阻み、そこへ安治の熊手攻撃が、フェイの針が、ファーヴニールの電撃が襲いかかる。極力殺さないように配慮しつつも、確実に敵を無力化してゆく。
 出発前のシドの言葉通り、このフルチ小隊には、ダンクス少佐率いる本隊のような最新鋭の装備も『夜叉露』のようなドーピング剤も支給されていないようだった。だからと言って、決して彼らが弱いわけではない。カンダータ兵士の例に漏れず、軍隊としての練度は、壱番世界でも有数の特殊部隊に匹敵する。それでも、様々な特殊能力とトラベルギアを駆使するロストナンバーたちの敵ではなかった。
 しかし、何かが引っかかる。
「ここの連中……何かおかしいと思わないか?」
「皆さんも、そう思いますか」
「……なーんかこいつら、活きが良くねぇっていうか、ミョーに『料理』のし甲斐がないんだよネェ?」
  ファーヴニールが、フェイが、そして安治が、それぞれに疑問を口にする。同じことを考えていたのは、どうやら自分だけではなさそうだ。
 違和感の正体は、銃を構えながらも己が身を震わせる、兵士たちの奇妙な呟きにあった。

「お願いだ……これ以上近づかないでくれ……」
「『アレ』を見るな……触るな……近寄るな……」
「それでも近づくと言うなら、殺してでも止めてやる。だから来るな来るな来るな来るな来るな!!」
「俺たちはまだ死にたくない死にたくない死にたくないんだああああ……!!」

 奥へ進むにつれ、兵士たちの様相は、次第に恐怖の度合いを増してゆくように思えた。これではまるで、自分たち侵入者ではなく、奥にいる『仲間』に殺されると言っているようなものではないのか……?
 何か居心地の悪いものを感じながらも、彼らは見張り役の兵士たちを次々と倒し、拘束していった。



 通路内の敵勢力を粗方拘束し終え、一行はついに一番奥の部屋にたどり着いた。
 現在拘束中の捕虜は10人。小隊長のダビデ・フルチ大尉を含む残り20人が、この錆びついた扉の向こうに潜んでいることになる。
(さっきから何か……すごく嫌な予感がするんだよね……)
 シドの予言、ユィンの推測、そして兵士たちの奇妙な言動……それらの全てが、この奥に待ち構えている『何か』のおぞましさを、絶望的な未来を物語る。
 ドアノブを握る手がじっとりと汗ばむのを感じながら、ファーヴニールは一行に宣言した。
「……行こう」

 かちゃり、と小さな金属音を立てて、ドアノブが回る。
 開け放たれたと同時に、一行は室内へ向けて、それぞれに遠距離攻撃の一斉射撃を放った。先手必勝、生け捕りという目的のためあえて急所こそ狙わないものの、数に勝る敵の攻撃に手加減する余裕は残されていない。
 狼狽する敵兵士を、猫形態と人間形態を自由自在に変化させるチェキータが更に翻弄し、一人ずつ確実に仕留め気絶させてゆく。一方で敵の銃撃は、コレットのクマさんが全て防いでくれる。
 全員が生粋の軍人であるカンダータ人と言えども、既に拘束済みの捕虜たちと同様、様々な特性と能力を持つロストナンバーたちの奇襲には、成す術もなかった。

「……封印を解け。『アレ』を解放する」
 制服の胸や腕にに多くの階級章をつけた、カイゼル髭の中年男が奥へと駆け寄る。恐らく彼が、ダビデ・フルチ大尉その人だろう。
「いけません隊長! 多くの同志の犠牲を出しながら封印したというのに……」
「『アレ』が解放されたら……今度こそ我々は終わりです!」
「ええい黙れ! どうせこのまま坐していてもどうにもならん! 虜囚の屈辱に甘んじるぐらいなら、奴ら諸共全て消し去ってくれる!!」
 叫ぶや、フルチは部屋の奥でわだかまる「巨大な影」の側に駆け寄り、その周囲に巻かれた鎖の一本を握った。そして、そこに張られた小さな護符を引き剥がす。ユィンのように呪術の知識を持つ者が見れば、その護符が「邪悪な存在」を封じるためのものであることが分かるだろう。
 ついに封印は解かれ、肉塊を拘束していた太い鎖が、まるで蜘蛛の糸を引きちぎるかのように、ボロボロと断ち切られた――。




 グ……ヴォ……グオゥワァァァァァァ!!




 解放された『肉塊』は、地の底から鳴動するような雄叫びを上げた。
「グゥ…ワァ……ゼ……ロォォォォ…………」
 その右側面から延びるぶよぶよとした腕が、すぐ側にいたフルチの方へと伸び、まるでおもちゃの人形でも弄ぶかのように、大柄な体を掴んで引き寄せる。

「ぬおっ……」

 悲鳴を上げる暇もなく、フルチの姿は巨大な口の中に飲み込まれた。
 あまりにも突然で凄惨な隊長の最期に、恐慌状態に陥った兵士たちが逃げ惑う。フルチを飲み砕いた肉塊は、その兵士たちをも掴んでは、次々と己の口の中に放り込んでいく、

 ぐぎゅ……ごきゅっ……ごくっ……

 兵士たちの断末魔の悲鳴が上がる度に、血を搾り骨を砕くような嫌な音が響く。
「やめて……兵士さんを殺さないで!!」
 コレットが悲痛な叫びを上げる。しかし、既に理性を持たない『肉塊』に、彼女の願いは届かない。
 あまつさえ、彼女の呼び出したクマさんまでも、庇っていた兵士共々引っ掴み、むしゃむしゃと噛み砕いた。
「そんな……」
「……こいつは、もう人間じゃない。もはや説得してどうにかなる相手じゃないんだ。でなけりゃ、ああも味方を貪り食うわけがない……」
 がっくりと肩を落とすコレットをファーヴニールが諭す。あまりにも非情な現実を突きつけられた彼女の心中を思うと、自分のことのように胸が痛む。
「あれが……あそこで呼び出した『餓鬼』だというの!?」
「ええ、恐らくは件の餓鬼が、別の生物――それも人間に取りついたものでしょう」
 見たこともない異様な化け物に絶句するユィンに、フェイは答える。現地人であるユィンにはあえて明言することを避けたが、正確にはあれは「取りついた」ものではない。恐らくはインヤンガイとカンダータの合同技術によって「人為的に合体させられた」存在だろうと、彼は踏んでいた。
 本能の、底無しの食欲の赴くまま、眼前のものを全て食らい尽くす。後に残るのは奇麗さっぱり、一切の敵も障害物もない更地だけだろう。いかにもカンダータ軍が、特にキルケゴールあたりが考えそうなことだ。

「この位置じゃ、背後を取るのは無理だな……」
 猫形態で周囲の状況と敵の戦法を探っていたチェキータは舌打ちする。巨体ゆえに動き自体は鈍そうだが、部屋の一番奥で壁を背にした状態では、当初狙っていた背面攻撃は出来そうにない。
「なら、この手でいくか」
 人間形態に戻り、トラベルギアの銀の鈴で生成した氷の鎧を纏う。既に食らいつくされたのか、カンダータ兵の姿は見えない。次に攻撃の矛先が向かうのは、恐らく自分たち「侵入者」だ。
 敵の攻撃方法、そして特殊能力は何か、おおよその見当はついている。チェキータはそれを警戒し、舌の届かない距離までバックステップでかわし、牽制する。
「こうやって注意を惹きつけて……っと」
 肉塊が伸ばしてきた右腕の端から、軍用ライフルの銃身が伸び、チェキータに向けて発砲してきた。
「おっと!」
 気配を察知しすかさず回避する。ここまでは彼女の予想通り。だが、
「なっ……!」
 突然、肉塊の舌が彼女に伸び、一瞬のうちに絡め取る。先刻の銃弾をかわした際に、誤って舌の攻撃範囲に入ってしまったようだ。自分も迂闊だったが、それ以上に敵の反応速度が速すぎる。まるで目には見えない「敵の臭い」を嗅ぎつけたかのようだ。
(落ち着け、舌や口内粘膜は無防備のは……)
 そんな風に冷静に判断する余裕すらなかった。一瞬のうちに肉塊の舌は縮み、哀れな獲物を口の中へと飲み込む。
 昼なお暗い鍾乳洞のように上下から延びる鋭い歯が、肉体を貫き、断ち割り、すり潰す。
 そんな苦痛を感じることの出来る意識は、もはや今のチェキータには残されていなかった……


 ――黄泉ノ門ニ至リシ者ヨ 在ルベキ場所ヘ還レ
   命輝ケシ者ヨ 光射ス道ヲ往ケ
   魂還リノ秘蹟 今コソ成就セリ――


 暗転、そして再生。
 噛み砕かれる毎に、再構築される身体。
 巻き戻されるビデオ映像のように、反転する時間。
 やがてそれが、ユィンの持たせてくれた身代り符の効果だと知る。
(……これは?)
 交錯する時間と意識の中、チェキータは見た。
 無残にもあの肉塊に食われ、その血肉になり果てようとした瞬間、流れ込む『彼』の記憶を。



 ボクの故郷は、生まれた時から戦場だった。
 日に日に激しくなる一方の戦局、絶望的な戦況。
 支給される食料は、次第にその数を減らしてゆく。
 だからこそ、美味しいものをお腹いっぱい食べることは、極上の「幸せ」だった。

 ボクの父は、軍の上級士官だった。
 他の一般家庭に比べ、支給される食料は、質・量共に恵まれていた。
 だから、小さい頃はまだ、戦火に怯えながらも精一杯の幸せを享受できたんだ。

 ボクに足りないものは、父の様な上級士官になれるだけの脳みそ。
 弱肉強食の永久戦場では、親のコネなどクソ役にも立ちはしない。
 だから、一兵卒になり下がってからは、正に地獄の毎日だった。

 食いたい! 食いたい! もっと食いたい!!
 それだけが、ビリー・グラトニーの全て。
 食わせろ! 食わせろ! もっと食わせろ!!
 それだけが、ビリー・グラトニーの存在証明。

 食らうことは命繋ぐこと これ即ち『生』の証。
 金も地位も名誉も愛も、死の鎌の前には無価値なれば。
 生きたい食いたい生きろ食わせろもっともっともっともっともっと!!!!!!



 再生された肉体がぺっと吐き出される直前、チェキータは「自分の中の『何か』を写し取られるような」奇妙な感覚を覚えた。
「うげえ……気持ち悪りぃ」
 不快感の原因は、つい今しがたまでの『死の感触』や、自身に纏わりつくねっとりとした唾液のせいばかりではない。あの巨大な肉の化け物が、元々は「ビリー・グラトニー」と言う名のカンダータ軍兵士だったのは間違いない。だが今目の前にいるアレは、明らかに「人間にはない能力」を有している。
 猫のような夜目に、カメレオンのように自在に伸びる舌。猟犬が敵の臭いを嗅ぎわけるように、鋭敏に研ぎ澄まされた感覚。そして突きつけられた銃身は、つい今し方まで敵兵士が使っていた軍用ライフルのそれではなかったか……?
 何だ何だ何だ。心臓がざらりと撫ぜられるような、この嫌な感じは何だ。
「ヒャーッハッハッハッハ! 人も獣も有機物も無機物もお構いなしってかァ? ますます以って面白れェ! この際だから満腹になるまでとことん食らいな! 生食ばっかじゃ飽きるだろォ? どうせならこんがり焼き立てのウェルダンをヨォッ!!」
 チェキータの思考を断ち切るかのように、安治は奇声を上げながら、手近にあったコンクリート片に炎を纏わせ投げつける。しかし、
「なァッ……!?」
 ジュッ、っと蒸気音を立てて、白い湯気が飛散する。いつの間にかビリーは、水晶のように煌く氷の鎧を纏っていた。それは正に、チェキータのトラベルギア『銀の鈴』の力と同じもの。安治の放つ炎は、冷たく硬い氷の鎧に悉く防がれ相殺されてしまう。
「チックショォォォォオ! これじゃあ折角の料理が冷めちまうじゃねえかよぉぉぉぉぉ!!」
 彼も含め、その場にいた全員が、同じ推論に達していた。ビリー・グラトニーの持つ、もう一つの恐るべき能力。それは「食った相手の能力や武装を、そのまま自分のものとして吸収する」というものであった。
 確かにユィンの身代り符は、チェキータの「死の運命」を一度だけ回避してくれた。しかし、彼女の持つ能力を――その武装、トラベルギアの能力をも含めて写し取り、我が物とするこの異能までも無効化することは出来なかった。
「……一体何なの、これは……こんな能力まで持ってる餓鬼なんて……あり得ない!」
 防御結界の符で一行を守りながら、ユィンが呟く。カンダータの技術が産んだ狂気の落とし子は、彼女が知る霊力知識の常識を遥かに越えていた。
 狼狽する一行を翻弄するように、かつて捕食した野良犬から得た「鋭敏に研ぎ澄まされた野生の本能」で、ビリーは次なる標的を定める。草食動物のように、この中で最も戦う意志の薄い者。抵抗されるリスクの少ない者……コレット・ネロ!

「やらせるか!」

 コレットへ向けて伸びるビリーの長い舌先を、ファーヴニールの電撃が打ちすえた。ショックで痺れた舌は一瞬動きを止め、その隙に彼は、呆然と立ち尽くすコレットを背後に庇う。実体を持たない電撃攻撃は「食われる」ことはなく、また使い手本人が食われない限りはコピーされることもない。しかし、周囲の物を――兵士たちがいなくなった今は机も椅子もお構いなしに食らい、少しずつ体力を回復してゆくビリーに対して、致命的なダメージにはならないであろうことも、ファーヴニールは自覚していた。
 敵の体力と、自分の気力と、どちらが尽きるのが早いか。
(ここまで来たら、本気ださないといけねえよなぁ……)
 ファーヴニールの四肢が、銀地に青いグラデーションの、金属質な鱗に覆われてゆく。最凶最悪の敵を前に、彼は「真の力」を解放し、己が身を「竜形態」へと変化させてゆく。
(ああ、何だか頭の中が、妙に冷えてきやがった……)
 強大な竜の肉体と引き換えに、その根源となる魔法にも似た力は、次第に彼の思考を「敵性対象の殲滅を最優先するように」侵食してゆく。0か1か。白か黒か。勝利か敗北か。全か無か。そして……生か死か。
 出来ることなら、自分は人間のままでいたい。大切な、気のいい仲間たちと馬鹿騒ぎしながらも笑いあう日常を、大切にしたい。こんな力を使わずに済むなら、今だってそうしたい。
 それでも、今この時にただ坐して力を出し惜しみすれば、愛する者も、世界そのものも、全てを守ることなど出来ない。
 そんなどうしようもない二律背反に心を引き裂かれながらも、彼は精いっぱい、コレットに笑いかける。
「なあ……もし俺が『本物のバケモノ』になっちまったら……その時は……な?」
「あ……ああ……そんな……」
 コレットは何も言えなかった。こんな状況にあるというのに、ファーヴニールの微笑みはいつものように朗らかで優しくて。そんな彼の為に何もしてやれない自分が、尚のこと辛い。

「あなた一人が、業を背負うことはありません」

 悲痛な覚悟を決めたファーヴニールに向けて、フェイが語りかける。
「僕は……故郷では『王の側近』として、様々な教育を受けてきました。その中には『王を守るために、仇なす者を人知れず葬り去る技術』も含まれています。王の為、国の為なら、僕は何の躊躇いもなく自分の手を血に染める……そのつもりで、今日まで生きてきました」
 目上に対して「私」という一人称を使うことも忘れ、フェイは自身の心情を吐露してゆく。若干11歳にして、壮絶な生きざまを選んだ彼の覚悟はいかばかりか。それでもフェイは、あくまで表面上は冷静さを失わず、言葉を続ける。
「ロストナンバーとなり、主を、帰るべき故郷を失った今、僕は自分の心に従って生きてゆくしかありません。そして今……僕は皆さんを、大切な仲間を守りたい。義務を超え、使命を超えて、自らの意思で、この力を使います」
 彼の衣服の袖口から、あらかじめ仕込んであった針が飛び出す。その先にはごく少量の毒が塗られている。普通の人間なら一刺しでも即死に至るものだが、巨大な怪物を相手に、どこまで効果があるかは分からない。それでも、もし少しでも可能性が残されているのなら、それに賭けてみたい。
 フェイの投げた毒針が、厚い脂肪に覆われたビリーの腹に突き刺さる。
「ヴ……オ……?」
 最初のうちは、まるで蚊にでも刺されたかのように、大して堪えていないように見えた。しかし、血流と共に全身を循環する毒は、次第に、しかし確実に、ビリーの肉体を内側から侵食してゆく。
「グ……グオゥアァァァ……!」
 さすがに即死とはいかないまでも、全身に回った毒の苦痛に、ビリーは悶絶し、断末魔の悲鳴を上げた。攻撃の手も、飲み込んだ特殊能力の発動も、確実に鈍くなっている。これならば接近戦や炎攻撃も、今までよりは数段楽に挑めそうだ。
「一気に畳みかけるぞ!」
 ファーヴニールの電撃、チェキータの拳と氷、安治の炎、そしてフェイの針。それらの全てが一斉に、巨大な肉の塊へと襲いかかる。コレットはユィンに庇われ、彼らの死闘を見守り続けた。
 邪魔をする兵士は既にいない。話し合う余裕も既にない。
 一時は難攻不落と思われた、強大な敵を殲滅すべく、彼らは持てる力の全てを出し尽くした――。

 そしてついに、どう、と音を立てて「ビリー・グラトニーだったモノ」は倒れた。

 沈黙した肉塊は、次第に熱したフライパンの上の牛脂のように溶けてゆき、ついにドロドロのゲル状に変化した。
「ああ、もったいネェなァ。これじゃあ食材にもなりゃしネェや」
 その独特の風貌故にどこまで本気なのか判然としない道化口調で、安治は肩をすくめる。しかしさすがに、冗談でもそれに頷く者はいない。巨体の殆どは脂肪で構成され、しかもフェイの針に仕込んだ毒が全身に回っている。それに何より、元は彼らと同じ「人間」だ。
 激戦の末、彼ら自身も相当に疲弊してはいたが、それ以上に敵側の被害は悲惨なものだった。室内に待機していた兵士は、隊長のフルチ大尉を含め、全員がビリーに捕食され死亡。結局捕虜として確保できたのは、拘束して途中の通路に残してきた僅か10名であった。
「……あんな実験さえなければ……こんなことにはならなかったのに……ビリーさんも、食べられた兵士さんたちも……」
 コレットの双眸から涙が零れる。彼女の嘆きは、他の者たちも同様に感じるところであった。過去の恩讐を水に流して彼らと仲良くできることなど最初から期待してはいない。それでも、もし生まれた場所がカンダータでなければ、もしキルケゴールにさえ目をつけられなければ、かくも悲惨な末路を迎えることはなかったのではあるまいか。敵でありながら、そんな同情にも似た思いすら去来する。まして、もし自分たちが倒れ、あれがインヤンガイの地上に解き放たれたら……想像しただけで背筋が凍りつく。
 キルケゴールの行方は、トレインウォーの際にタグブレイクに巻き込まれ消失して以来、杳として知れない。直前まで彼を捕縛していた者は『ミスタ・テスラ』なる世界で保護されたと聞くが、そこにキルケゴール本人はいなかったという。同じ世界に転移したという確証は、未だ見つかっていない。
 しかし、インヤンガイから去ってなお、彼は深い深い災厄の爪痕を、この地に、人々の心に残したのだ。

「……クソッタレぇぇぇぇぇっ!! 絶対、絶対に許さねえぞおおおおおおっ!!」

 人々の怒りを、悲しみを、絶望を飲みこみ、普段の穏やかさからは想像もつかない激しさで、ファーヴニールの慟哭が、薄暗い地下アジト内に響き渡った。


<了>

クリエイターコメントこんにちは、石動です。
完成がギリギリになりまして申し訳ありません。

今回のラスボス「ビリー・グラトニーだった肉塊」の特殊能力は

・武装や人間、果ては魔法攻撃による氷塊や石つぶて等を含めて「実体のあるもの」なら何でも食べる。
・食べた相手の能力や武装を、自分のものとして吸収する(PCが食われた場合は、ユィンの護符で武装も含め完全復活するが、能力は「コピー」されてしまう)
・ダメージを受けても、周囲のものを食べることで少しずつ回復可能(回復量はさほど多くないが、長期戦になるほどジリ貧に)。

というものでした。
これについては、殆どの方が正解を言い当ててらっしゃいました。お見事です。
ただし、実際の戦闘においては接近戦を挑む方が多く、逆に有効打となる攻撃法(例:毒や劇薬を食わせて内側から弱らせる、火炎や電撃など「実体を持たない魔法」で攻撃する等)を書かれている方が少なかったため、チェキータさんが飲み込まれて能力をコピーされ、思いの他苦戦するという結果になりました。

今回、PCさんの状況や心境に合わせ、口調などを一部、設定にはないものにアレンジさせていただいております。
もし描写面等で何かお気づきの点がございましたら、事務局までご連絡下さい。出来る限り対処させていただきます。
今回はご参加いただき、ありがとうございました。
公開日時2010-06-30(水) 18:30

 

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