「ネイサン小隊長殿、お話があります」 我輩の部下、今夜の見張り当番を共にしているアーチー二等兵が話しかけてきたのは、日の出も間近な頃合だった。 歓楽街の喧騒も静まり、耳を澄ませば薄い壁から隣人の市民たちが立てる寝言、寝息まで聞こえてきそうな時間帯であるから、年若い二等兵の声はやたらに大きく聞こえる。「勤務中の私語は禁止されている」 我輩が声を潜めて忠告を返しても、薄暗がりの中、二等兵の顔色は変わらない。「勤務後に懲罰を受けます。サー」「――発言を許可する」「サー、ありがとうございます。……ダンクス大隊からの連絡が途切れてから、我らはずっと潜伏を続けています。もう何十日になるでしょうか。その間我らの誰もが一度も外へ出てはおりません」 二等兵が部屋の奥へ目を向ける。乾燥レーションと水の詰まった段ボール箱の隙間に身体をねじ込んで、ひざを抱えて丸まった部下たちが睡眠をとっていた。足を伸ばして眠れるほどこの隠れ家は広くない。 小さな窓の向こうには、隣のビルの壁が迫っている。だからこの部屋で見る天気はいつだって曇り空だ。 二等兵が首を振る。無精ひげに覆われた顔には悲壮ささえ漂っていた。「もう限界です」「ダンクス少佐に何があったのかもわからぬ今、うかつに外を出歩くことは我らにとって危険極まりない」「このままここに閉じこもっていても、我らの精神はお仕舞いです。サー、どうか」 唯一の出入り口である鉄扉に取り付けられた小さなのぞき窓から黄金色の光が差し込み、アーチー二等兵のこけた頬と、油だらけの髪を照らし出した。 *** 世界図書館の長机の上、メロウでムーディなメロディを背景に、古びたラジオが狂ったようなテンションで叫んでいた。『ご通行中の皆様、こーんにーちはぁぁぁぁぁっ! スーパー華麗な僕様ちゃんこと世界司書のE・J様が、ダンクスに置いてきぼりくらったカンダータ小隊の行方を掴んじゃったよぉぉぉっ! ブッ捕まえに行きたいやつ寄っといでぇぇぇぇっ!』 自らを世界司書と名乗るラジカセが怒鳴り散らすたび、前面に取り付けられた計器がビクビクと針を振るわせる。 胡散臭いが、インヤンガイで筆舌尽くしがたい悪事を働いてきたカンダータ兵を捕まえるチャンスを見逃すわけにもいかず、じりじりとラジカセと距離をつめていく。『僕様ちゃんが発見したのはネイサン・レッドフィールドっつーオッサンが率いてる三十数名の小隊だぜぇ。こないだのトレインウォーでダンクスがボッコボコにされて以来、奴ぁ部下と一緒に隠れ家に引きこもってやがってなぁ。ネイサンの野郎は状況がわかるまでずっとそうしてるつもりだったんだろうが……部下から突き上げでも食らうのかねぇ? 理由はわからねぇがともかく数日後、ネイサンの部下たちが隠れ家から出てきやがる。この絶好のチャンスを逃すほど僕様ちゃんは甘くなぁぁぁぁぁぁぁぁいっ! お前らにゃあネイサン小隊が外に出たのを見計らってブッ捕まえてきてもらうぜぇっ! ハイここまでで何か質問は?』 誰かが手を挙げる。「どうして隠れ家にいるところを襲わないんだ? 外だと誰かを巻き込んでしまいそうで危ないと思うが」『襲えるもんなら襲ってくれたって構わねぇぜぇぇぇっ! だが問題がひとぉぉぉつ! あいつらが隠れ家に使っていやがる場所ってなぁ、インヤンガイの工業地帯に建ってるボロアパートなんだよぉぉぉっ!』 階段登りゃあギッシギシに軋み 扉ぁ開けりゃぁ床を擦り パンチ一発で壁に大穴ぁ開くわ 屋根は乗った途端に一階までまっさかさまだわ『おまけに上下三軒両隣みぃんな何にも知らねぇインヤンガイの一般人どもとかありえねぇぇぇぇ! こんなとこでドンパチやられちゃ僕様査定に響くんだよねぇぇぇぇっ!』「だがそれは外で襲っても同じだろう?」『別にドンパチやる以外が捕獲作戦じゃないだろぉ? 実はなぁ、ネイサン小隊の隠れ家の近くにゃいい規模の歓楽街があるんだよねぇ』 ラジカセの向こうでニヤリと笑う気配があった。『いいかぁお前らぁ。兵隊どもは久々の外出で浮かれてやがる。身体もさっぱりさせてぇし美味い飯も食いてぇ、キレイなオネ―チャンとイチャイチャだってしてぇ! 奴らのそういうところに付け込んでぇ! 人目のつかねぇ路地裏でも店の中にでも連れ込んでっ! 後はボコってふんじばるなり薬盛るなり好きにしなぁぁぁぁっ!』 店舗が要るなら僕様ちゃんが探偵越しに手配してやるからよぉと付け加えて、E・Jはぎゃははと笑う。『あーそうそう、こないだのトレインウォーで十二人のロストナンバーが二度目のディアスポラ現象に見舞われちまっただろぉ? 理由はわからねぇが今回はアレ、起きねぇみたいだから。余計な心配してねぇで、カンダータの奴らをコロリと参らせちゃう美味しい罠(ハニートラップ)を用意するほうに全力を尽くしてきちゃってねぇぇぇぇぇっ!』
隊長に休養を言いつけられてから数十分、隠れ家から出て数百歩、あるいは大きさを増す歓楽街の喧騒にふつふつとした興奮が沸きあがってきた頃。 「ちょっとそこのお兄さんがた、私たちと遊びませんこと?」 「男同士でこんなとこ来たって面白いことなんざありゃしないよ?」 商売女らしい二人連れが、カンダータ兵士らを呼び止めた。 一人は、白い髪をショールに垂らした細身の女。熱帯魚のようにひらめく長衣には左右に切れ込みが入れられて、女が兵士のほうへ歩むたび、すらりとした足が付け根まで見え隠れする。見せ付けるように差し出された足のなまめかしさに、兵士の片方がごくりとのどを鳴らす。 もう一人は凹凸のある体のラインを強調する、ぴったりと張り付く衣装を着ていた。刺繍が施された襟の間から、男なら誰でも顔をうずめたいと思わずにいられない、豊かな谷間が見下ろせる。物言いは蓮っ葉だが、立ち居振る舞いにどことなく気品が感じられた。どちらの女も比べようもなく美しい。 「私たちのお店、今日リニューアルオープンいたしましたの」 「酒や食事も安くなってるけど……あっちのほうも、サービスするよ?」 豊満な肉体の女が提示した額は、周辺の相場を大きく下回っていた。顔を見合わせた兵士たちが浮かべたのは、揃いの笑み。 哀れな獲物は二人の女に――マルフィカと、幻術で姿を変えたアルティラスカに手を引かれるまま、歓楽街へと導かれた。 「とても疲れているように見えますわ。お仕事、大変ですの?」 兵士の一人に腕を絡め、小首をかしげるマルフィカ。声には媚びと同情が透けていたが、本音はもちろん情報収集にある。 「ああ、まあそれなりに」 「普段はどんなお仕事をしてらっしゃいますの?」 「肉体労働みたいなことさ」 カンダータ兵は肩をすくめて、通りのあちこちを浮いている赤提灯に視線を流す。 (腐っても軍人、ということですわね……中々情報を漏らしませんわ) カンダータ兵と正面からぶつかり合うのを忌避するこの作戦、か弱い――残念ながら突っ込み要因はここにはいない――マルフィカにはちょうど良いと思っている。己の演技一つでインヤンガイの人々に生じるかもしれない被害を押さえつけられるなら望むところだ。 だからといってカンダータ兵が行ってきた非道極まりない策略に対する怒りを押さえつけられるかというと、答えは否。腰に回された手が下へ下がろうとするのをやんわり笑顔で押し返すマルフィカの腸は煮えていた。 (人目につかない場所に入った時が、あなた方の最後ですわ) 無慈悲に蹂躙された女性達の痛みを、少しでも味わうが良い。 「さ、お店まであとちょっとだよ」 どこから見ても場慣れした娼婦でしかありえない格好のアルティラスカが、通りを外れた裏道へカンダータ兵を引っ張っていく。 「こんな裏道を通ってくのか?」 「こちらの方が近道ですの」 すかさず相槌を打つ。アルティラスカも彼女のものではない笑顔で無理やりに押し切って、なおも顔を見合わせるカンダータ兵を路地裏へ押し込んでゆく。 もちろん、近道なんてただの建前だ。 本当の目的は他のカンダータ兵の目につかぬようE・Jの用意した店まで行くこと、そしてアルティラスカの幻術で景観を変えている事実を隠匿するため。 息抜きに来た男が華やかな中央通りを訪れることはあっても、あえてごみごみした裏路地を通ることはそうあるまい。 引き換えしたら二度と戻って来れない幻の街路を通ること数分、歓楽街から一本脇に入った場所に出た。本通りの電飾は遠く、人の流れからは外れ過ぎず近過ぎず、程よい距離感に立てられたビルの一階と二階が、今回の作戦のため用意された狩場だ。 「変わった店名だな。なんて読むんだ?」 「……私、学がないものでして」 魚介と香草の焼ける力強い匂いの漂う店の入り口には、看板代わりか赤い布きれが下げられていて、「瀬海賭夜歓」と堂々とした筆致で刺繍されていた。 室内は薄暗く、ふわふわと宙を浮く白提灯が板敷きの床にぼんやりと影を落としている。 この街区では、夜の明かりに提灯を使うのが一般的らしい。貼り付けられているお札に書かれているのは、アルティラスカには模様にしか見えないが、おそらくこれがインヤンガイの呪術なのだろう。 「いらっしゃい」 一段高くなったカウンターの向こうから声をかけてきたのは、旅の同行者である西光太郎だ。落ち着いた色合いの給仕服を着込んだ彼は、せわしなく動き回っていた。店の外で嗅いだ匂いからして、料理の真っ最中なのだろう。 ――少しくらい、羽を伸ばさせてやりたくてね。 昼間に聞いた光太郎の声がよみがえる。あの時、彼は酒屋から届けられた酒瓶をカウンター奥の棚に並べていた。 「実はってほどでもないんだけど、取り残された兵士に会うのは、これが初めてって訳でもないんだ」 「そうなのですか?」 砕氷の中から魚をつかみ出していたアルティラスカは、ふと落とされた光太郎の言葉に顔を上げる。室内には、野菜や肉の詰まった木箱が不規則に積まれている。 「うん。……ずいぶん悲惨な状況だったな……」 光太郎の視線が、ここではないどこかを捕らえる。それが何なのかアルティラスカにはわからなかったけど、おそらく今の彼が見ている世界は気持ちの良いものではないはずだ。 「カンダータの人たちがしてきたことは許せないけど……捕まえる前に少しくらい、羽を伸ばさせてやりたくてね」 「だから、お食事を振舞おうと?」 「コックもバーテンも経験あるし、第壱世界の軍人さんの話も生かせそうだったしね」 それに、と言葉が切られる。棚から一歩離れた光太郎の目が、並んだ酒瓶を水平に眺めていた。 「俺が色仕掛けってのはちょっと無理があるだろう?」 気色悪いだろうなと光太郎は笑い、アルティラスカもつられて微笑んだ。 「お部屋は二階ですの……さ、こちらへ」 マルフィカの甘い声に、現実へ引き戻される。薄暗い店内に他の客の姿はまだ見えない。これなら兵士達を行動不能にしてすぐ階下へ戻っても、見咎められる心配はなさそうだ。 「ほらお兄さん、早く早くぅ」 アルティラスカは身をくねらせながら兵士の一人に抱きつく。男の身体に胸や足を押し当てると油断させられることは、これまでインヤンガイを訪れた経験から学習済みだ。 (……でも、どうしてなのでしょうね?) 清廉な女神に男心は複雑怪奇だった。 二階の天井付近にも、一階と同じ提灯が浮かんでいる。狭い廊下の左右には変わり映えのしない扉が三つずつ並び、とろりとした花の匂いが鼻先を掠める。建てつけはあまり良くないらしい。 この頃になると男達の興奮も最高潮に達しているようで、荒い吐息がアルティラスカとマルフィカの項を濡らす。一瞬だけ交錯したマルフィカの視線には、男達に対する不快感の火が掠めていた。 「御代は後で結構ですわ……ゆっくり楽しみましょう」 マルフィカは男の一人を手近な部屋へと案内する。扉の閉まる瞬間、垣間見えたその横顔には酷薄な笑みがたたえられていた。 「あんたはこっちだよ、そこの奥の部屋さね」 残った男の手を引いて、廊下の先へと歩む。花の香りはいや増していたが、男は不審に思うそぶりもなく扉を開ける。備え付けられているのは簡素な、しかし大の大人が二人寝そべってもまだ十分余裕のある寝台一つ。この部屋が何のために用意されたのか、無言で主張している。 「ごゆるりとお休みください」 言い終えるが早いか、兵士がアルティラスカの身体をまさぐる。口調が変わっていることにさえ気づかない興奮振りに、呆れ交じりの吐息を一つ。弛緩しだした身体を引き剥がし、突き倒しす。 屈強なはずの兵士の身体は抵抗もなく倒れ伏し、膝からずるずると崩れて床に転がった。その身体を、透明な木の根がしゅるしゅると衣擦れの音を立てて縛り上げていく。 「……ふう」 かすかな風が湧き上がり彼女を中心に渦を巻く。一瞬の後そこに立っていたのは、疲労の滲んだため息を吐く緑髪の女神の姿だった。 「……こういう態度と口調は慣れません」 「そうですか? 中々堂に入っていたように思いますわよ」 「マルフィカさん」 いつの間に来ていたのだろう、戸口にマルフィカが寄りかかっていた。片手に、白い糸のようなもので雁字搦めに縛られた男を引きずっている。男はしばらくもがいていたが、部屋に充満する花の香りが効き始めたのだろう、血走っていた目はうつろに、ばたつかせていた手足からは力が抜けていくのがわかった。 気絶するように寝込んだ男をつま先で二、三回つついて完全に寝入ったのを確かめてから、マルフィカはアルティラスカが糸だと思っていたものを解いた。それは彼女の真っ白な髪の毛だった。 「思っていたよりストレスの溜まるやり方でしたわね。さっさと終わらせてシャワーを浴びたいですわ」 「同感です」 髪を乱暴にかき乱すマルフィカの言葉の端々には不快感が滲んでいる。 二人の兵士を木の根で縛り上げ、協力して寝台の下に押し込んだ。これで次の客を部屋に連れ込んでも、仲間が眠っているとは思われないだろう。 「アルティラスカの香りは凄いのですわね」 「ふふ、ありがとうございます。お渡しした種は?」 マルフィカが髪の隙間に差し込んでいた種子を摘み上げてみせる。冷えた朝に似た清涼な香りが、熟れ過ぎた果実のような花の匂いを駆逐していた。アルティラスカがその力で生み出し、万が一に備えて全員に渡した種子だ。 「この部屋に入る時は、絶対に身に着けていてくださいね。失くしたら、ターミナルに戻るまでぐっすりですよ?」 「まあ、怖い」 顔を見合わせてくすくす笑う。 「……そういえば、槿(むくげ)さんはどこでしょうか?」 年下のツーリストの姿をここ数時間見ていない。まだ日も残っていた時分、二階へ上がっていったのは覚えているのだが。まさか良くないことに巻き込まれているのではないだろうか、アルティラスカがまつげを伏せると 「槿なら、カンダータ兵を陥れる罠を確認してくると言って出て行ったきりですわね。何か不具合でもあったのでしょうか?」 マルフィカは窓の外を見た。アルティラスカも提灯にうすぼんやりと浮かぶ町並みへ視線を投げる。いつかの光太郎のように。姿の見えない彼女の姿を思い描いて。 *** 「なんでこうなるかなー!」 所は薄暗い路地のどん詰まりに、浮浪者らしいボロボロの身なりの男達が倒れている。その真ん中で一人の少女が絶叫していた。 ポンポコセクタンがそっと彼女に近寄って、洗い立てのタオルのような全身をすり寄せると、慰めるように手を伸ばす。 ――が。 「グーグー暑苦しい!」 ぺいっ。べちゃっ。 哀れセクタンは少女の一言の元壁へ投げつけられ、そのままずるずると生臭い木箱に頭を突っ込んで動かなくなる。 「うええええん」 ツーリスト、神原槿。彼女が荒れているにはこういう訳があった。 「働きなさい、働くのよグーグー! 世界図書館法第一条は『セクタンは一日二十四時間どころか愛の力で二十五時間労働が義務で正義』って書いてあるんだからねっ!」 リベルあたりが聞いていたら「そんな規則ありません」と突っ込んだかもしれないデタラメルールで鼓舞されたセクタンは、けなげにもきりっと眉を揺り上げ、次から次へとインヤンガイの高額紙幣を量産していく。 「軍人さんでも息抜きってなればありゃただの一般人になってるはずだし、注意力が散漫になっているはず! イコールトラップに引っかかりやすい! グーグー、あたし達は奴らの金銭欲に付け込むわよ!」 槿の書いたシナリオはこうだ。 まずはグーグーに真似マネーを大量に用意させる。それをカンダータ兵の隠れ家から店の裏口までさり気なく、でも目に付くような位置にセット。そのまま室内へ誘い込み、最後はトラベルギアで一発殴って気絶。後は奥の部屋まで運んでしまえば目覚めることはない。 そう思っていた。罠の最終確認のため、日暮れ間近の歓楽街へ出かけるまでは。 「インヤンガイって、治安悪かったんだよねえー……」 槿が数時間かけてセットしたはずの真似マネーは、ことごとく持ち去られていた。店を出る時にはパンパンに膨らんでいたがま口も、今の槿のようにしゅんとしている。 (カンダータ兵に気づいてもらえるってことは、他の人にもわかっちゃうってことだもんね……あああ、失敗した) それでもあきらめず再度の罠を仕込んでいた槿は、今度は浮浪者の集団に囲まれてしまう。インヤンガイの激しい貧富の中にあって、金をばら撒く子供など襲ってくれといわんばかりの獲物だと思われたのだろう。 もちろんただの一般人に負ける槿ではない。八つ当たり気味に浮浪者たちをボコボコにして、ふと胸をよぎるのはむなしさだった。 「……上手くいくと思ってたのになあ……」 後悔、羞恥、仲間の役に立てないくやしさ、焦り。そんなものが槿の心をぐるぐるカフェオレみたいにかき回す。グーグーの身体は乾いていて暖かくて優しかったけど、慰められているのもつらかった。 ……どれほどそうしていたのだろう。ちんとんしゃん、どこか陰のある音色が表通りを鮮やかに飾り立てて耳に忍び込む頃、槿は自身の両頬を叩いて、表通りに足を向けた。生臭くなったグーグーを回収するのも忘れずに。 (くよくよしていたってどうしようもないしっ! 早く次の行動起こさなくっちゃね! ……といっても他にどんな作戦があったかな。お色気作戦以外で) 出がけに垣間見えたセクシー&ナイスボディの美女二人を思い出し、視線を下げて、ため息。欝になりそうだ。 (……あ、窓から偽通貨をばら蒔いてみる! ってのはどうかな? でも一般人を巻き込んだら怖いし……そうだ、長手道さんに気を逸らしてくれるようお願いしてみよう!) そうと決まれば膳は急げだ。店までの道のりはそう遠いものではない。 「お兄さんたち居酒屋いかがですかー? 今ならすっごくお安くなってますよー」 人ごみの向こうから聞き覚えのある声が聞こえ、槿は足を速める。と、慌てて建物の陰に身を隠した。 もがもが声をかけているのはカンダータ兵だ。頭上の数字がない。そういえば、旅の同行者である西光太郎は居酒屋をやるといっていたっけ。あれはきっとその呼び込みだ。 交渉が終わったらしい。カンダータ兵がもがもに案内されて「瀬海歳夜歓」ののれんをくぐる。 (どうしよう?) 忙しそうだし、声はかけずに他の作戦を考えるべきだろうか。迷っているうちに、今度はあちらが槿の存在に気づいた。ぶんぶん手を振ってこちらへ近づいてくる。その顔には安堵のようなものが浮かんでいる。 「槿ちゃん暇!?」 「へっ?」 「お店が今大変なことになってて……お願い助けて! 手伝って!」 返事も聞かずにぐいぐい腕をとられ、連行される。すれ違う女性達が不審げに槿たちを振り返った。瀬海歳夜歓に近づくたび、鉄板で油のはじけるような音が大きくなる。そういえばおなかすいた。 「マスター、槿ちゃん帰ってきましたあ!」 店内は人でごったがえしていた。客はカンダータ兵も多いが、インヤンガイの真理数を頭上に抱いた一般人もちらほら見られた。集まった人々の熱気なのかカウンター向こうの火種のせいか、やたらと蒸し暑い。光太郎が額に浮かんだ汗を乱暴にぬぐって、槿、と声を張る。 「悪いがちょっと手伝ってくれないかい? まさかこんなに繁盛するとは思わなくて」 「あ、は、ひあ! あたしにできることなら、何でもします!」 *** 敗因は換気扇だ。めまいのするような忙しさの中で、光太郎はそう考える。 ちょっと考えれば気づけるはずだった。ここはインヤンガイ、出張中のカンダータ兵よりただのインヤンガイ市民の数のほうが何倍も何十倍も多いのは自明。 そこに換気扇が拍車をかけた。 漂う匂いは本来作戦に巻き込んではいけないはずの人々まで罠の舞台に引きずりこんで、その結果はごらんの有様だ。 「肉野菜串と魚の香草焼串お待たせしました!」 「おい姉ちゃん酒足りねえぞ! 樽で寄越せ樽で!」 「ごちそうさん! お代ここ置いとくぜ」 「鳥葱串まだか?」 「ちょ、どさくさにまぎれてあたしのお尻掴んだの誰!? 殴るよ!?」 槿はそう広くない店内を、客の要望にこたえるべくくるくると走り回っている。ある時は酒を注いで酔いを回し、またある時はつぶれたカンダータ兵を二階奥の部屋に押し込んでと、彼女のおかげで光太郎は料理に専念する余裕ができた。 槿にも槿なりの捕獲作戦があったろうに、無理やり引き込んで重労働を押し付けることになってしまった己の見通しの悪さに腹が立つ。全て終わったらノンアルコールカクテルをご馳走しよう。 結局、店が落ち着いたのは草木も眠る深夜過ぎだった。カウンターの端、顔中パイ生地だらけにした男が、戻ってきたマルフィカに担がれてずるずる二階へ引っ張り上げられていく。 カウンターには食べかけのパイと皿、フォークは床だろうか。連れて行かれた兵士のリクエストで作ったものだ。 「…………」 ここまでカンダータ兵を見てきて、わかったことがいくつかある。 肉も魚も野菜も、彼らはえり好みせず本当においしそうに食べてくれる。酒は大抵が強い。ウォッカに似たきつめの酒も平気で飲み干して楽しそうにしていた。そしてもう一つ、カンダータという世界は光太郎の想像より厳しい土地らしい。 「お客さん、どっか遠くから出稼ぎにでも来たのかい?」 端の席でうつらうつらしかかっている兵士が、何十杯目かの酒を飲み干して「……ああ、うん」と曖昧に頷いた。 「住む場所が違うと色々苦労もあるんじゃないか。お客さんの故郷はどんな所なんだい?」 「……こきょう。故郷、は」 寒かった、と兵士がどろりと座った目を虚空へ投げる。 「……寒くて……いつも腹を空かして……。……だからここは、いい。好きだ。飯が美味いのがこんなに幸せなんだって、あっちにいたころは思いもしなかった」 「そう褒められると照れくさいね。良かったら故郷の料理でも一つ作ろうかい?」 「ふ、ふふ……」 男が唇を歪める。肩を震わせるしぐさで、笑っているのだとわかった。 「よくない、よくないよ。絶対に。俺はもう一生分の芋と干し肉と乾パンを食べたし……オイル付けのキノコは嫌いなんだ。……ああ、でも、そうだな。もし作ってくれるなら、パイがいい」 「パイ?」 「ただのパイじゃないぜ……カブとか芋の尻尾にくず肉、腐りかけの魚の臓物……そういう、いやなモンがぎっしり詰まったパイだ」 「……美味いのかい、それは?」 兵士はにやりと笑って、それ以上何も言わずに酒をあおった。会話を聞いていたのだろう、食器を洗っていた槿がどうするんですか? という視線でこちらを見ていた。もちろん、作るさ。彼らの世界を知ることは、光太郎たちにとって絶対に必要なことだ。 ――数十分後、長年の就労暦でもついぞお目にかかったことのない、若干グロテスクな色味のパイが匂いだけは香ばしく完成した。槿がうへあ、と妙なため息を漏らす。芋の尻尾が邪魔で中々刃物が通らず、ゆがんだ平行四辺形に切り取られたパイを見て、兵士は 「ぐちゃぐちゃだな」 となぜか嬉しそうな顔になる。のろのろとナイフを突き立て、一口、二口。神妙な顔で噛んでいたかと思うと 「まずい」 力いっぱい吐き捨てた。 (……ならなんで注文したんだ?) 光太郎の心の声が聞こえる訳もなく、兵士はまずい、まずいといいながらパイを頬張る。その上お代わりまで要求するのだから矛盾しきっている。 「……このパイはいつも食べていたのかい?」 「……まさか……特別な時だけさ……」 光太郎は薄く目を見開いた。これでも食えればマシなほうなのか。 「……あの頃はいつも、腹を空かしていた……他の家がうらやましかった。温かいスープに、乾燥していない肉、蜂蜜のソース……。……あの頃は美味い、美味いと思っていたが……世界は広いな」 今はすごくまずい、と呟いたきり、兵士はずるずると机に突っ伏してしまう。やがて規則的な寝息が光太郎の耳に届き、今頃は二階で仲間と一緒に寝こけているだろう。 「…………」 兵士が残したパイを一欠けら、口に放り込む。 鼻腔を満たす生臭さ、粘ついた触感、楊枝でも噛んでいる気分になる芋の尻尾。三拍子揃って絶妙にまずい。洗い物を終えた槿が首をかしげている。 「どうかしたんですか? なんか凄い顔になってますけど」 「いや……カンダータの人のリクエストで、パイらしきものを作ってみたんだけど……」 「カンダータ料理ってことですか? あたしも食べてみたいです」 「……少しだけね」 残っていたパイを槿にカウンターへ差し出し、光太郎はシェイカーを振る。口直しに何か飲まねばやってられない。 「いただきまー……うえ、苦い。筆箱に入れっぱなしにしてた消しゴムの味がする。カンダータの人たちっていっつもこんなの食べてるんですか?」 「全員、というわけでもないみたいだよ。さっきの彼の家は特別貧乏だったんじゃないかな。他の家がうらやましい、これが食べられるのも特別な時だけって言ってたから」 「じゃあ、あの人普段はもっと凄いの食べてたんですか!?」 シェイカーを傾け、細足のグラスにオレンジとレモンとパイナップルのジュースをシェイクしたカクテルを注ぐ。槿に渡すと一気に干した。勢いを付けすぎてむせ返った槿の背中を叩いていると、マルフィカが上階から戻ってくる。さすがに疲労の色が濃い。 「お疲れ様。何か飲むかい?」 「ありがとう。でもその前にアルティラスカを探してきますわ。いくらなんでも遅すぎるもの」 「そういえば」 前回彼女が戻ってきたのはいつだったろう。店内を飛び交う会話と忙しさが、記憶に霞をかけていた。 「あ、あたしも一緒に行きます!」 「俺は残らせてもらおうかな。上で兵士も寝ていることだし、誰もいなくなってはね。夜食でも作って待っているよ」 「ねえ光太郎、もがもにも一緒に来てもらってもいいかしら」 「え?」 意外な人物の名前が出てきて、光太郎は一瞬面食らう。 「そりゃ、本人が行きたいって言うなら俺が引き止める理由はないけど……でもなんで?」 マルフィカはいたずらっぽく笑った。 「適材適所って言いますでしょう?」 *** 光太郎と槿が店を訪れる客の相手に追われていた頃、マルフィカはカンダータ兵の隠れ家を覗ける物陰に潜んでいた。 彼らが交代で休暇を得ているらしいことは、歓楽街にいる兵士の数で察しがつく。E・J曰く小隊を構成する人数は三十数名、内店にて捕らえられている兵士はその三分の一ほど。おそらくこれからもっと増えるだろう。 人並みの使命感があるならば、それだけの数の兵士が帰ってこないことに対し、何かしらの対策を考えるに違いない。おそらく部下の行方を探らせようとするはずだ。 (もしくは、自分で探しに来るかもしれませんね) そうなればありがたい。リーダー格の兵を捕縛できれば、得られる情報の幅はぐっと広がる。 (……おでましですか) 待つこと数時間、明かりの消えた扉が開く。階段を軋ませる音からして人数は二人。ごつごつしたシルエットは、おそらく武器を携帯しているためだろう。 (では、予定通り参りましょう) 息を潜めて彼らをやり過ごし、歓楽街へ向かう背中を魔力のこもった視線で見つめる。 二人組の動きが止まった。今の彼らの目には、楽しそうに人気のない場所へ走っていく部下の姿が見えているだろう。二人が顔を寄せ何事かささやきあい、横道へ消える。後を追ってアルティラスカも走り出し、角を曲がる。 「動くな」 ひたり、首筋に刃物の感触。身を引くまもなく片手がひねり上げられ、壁に押し付けられる。鮮やかな手並みに、首筋を冷や汗が伝う。身体を反転させられる最中、垣間見えたのはひげ面の中年の顔。道の奥の離れたところでは少年と称してもおかしくない年頃の男が、ほっそりした黒い長銃をこちらに向けて構えていた。この距離からでは手が届かない。 「今の幻は貴様の仕業か?」 アルティラスカを押さえる男の声は象のようにしわがれていた。ネイサン・レッドフィールド。脳裏に蘇る名前。 「残念だったな、誉れ高きカンダータ軍に、遊興に現を抜かして時間を忘れるような者はいない」 「……どうやら、リサーチが足らなかったようですね」 「貴様何者だ? ダンクス少佐をどうした?」 首に押し付けられたナイフに力がこもる。ぴりっとした痛みに、思考と薄皮が断ち切られる。 この状況をどうやって切り抜けよう? アルティラスカの命は今、ネイサンに握られている。よしんばネイサンの拘束を振り切れても少年兵という存在がある。だからといって仲間達の命まで危険に晒すような真似はしてたまるものか。 「訳あって身分は明かせませんが、名乗るならばアルティラスカ。ダンクス少佐にお会いしたいなら、連れて行ってさしあげましょうか? 私と一緒に来ていただければ、きっと会えますよ」 世界図書館でね。 「口の利き方には気をつけたほうがいいぞ。我々は無作法者でな、レディファーストの何たるかなど虫唾が走ってしょうがない」 「ええ、存じておりますわ。あなた方が女性達にした惨たらしい仕打ちもね」 「っ!」 路地奥から響く声は殺気立っていた。年若い兵が振り向くが、遅い。暗闇から白い糸がしゅるしゅると伸び、銃ごと少年を絡め取る。 「アーチー!」 ネイサンが叫ぶ。アーチーと呼ばれた少年が気を付けの姿勢で地面に倒れた。その影から武器を構えた少女が躍り出る。 「アルティラスカさんを離せ!」 槿だ。トラベルギアの一撃が振り下ろされ、もろい土壁をえぐる。アルティラスカの首筋からナイフが離れ、捕まれたままの腕が捻られて、軋む。痛みに顔をしかめつつトラベルギアの羽衣に力を込め、逆にネイサンの手首を縛り上げた。向けられたナイフは槿のギアが防ぐ。ぶつかる硬質の音。羽衣はその隙をついて全身を締め上げる。 「ご無事でなによりですわ、アルティラスカ」 「助かりました、マルフィカさん、槿さん。でもどうしてここが?」 「長手道さんが以前、美女を見つけるのが得意だと仰っていたのを思い出したのですわ。なのでもしかしてと、思ってお力を借りましたの」 「がんばったよー」 路地のゴミ箱の陰から、ひょこっと顔が覗く。 「こら、動くな! ここで暴れられたら私たち、あなたをボッコボコにしなきゃいけないんだから!」 地面に転がるアーチーにギアを突きつける槿。アーチーが憎々しげに睨み上げる。そのぞっとするほど冷たい視線に、槿が一歩あとずさった。 隙あらば自害せんばかりのアーチーを押しとどめたのは、以外にもネイサンだった。 「抵抗は止めろ、アーチー。貴様はまだ、名誉ある戦死として勲章を授かるには早すぎる」 「サー、ですが!」 「耐えるのだ」 アーチーはそれきり押し黙る。 思いがけず人間らしいやりとりを見てしまった三人は、思わず顔を見合わせた。非道な実験に手を染め、インヤンガイの人々を悲しませていた彼らの業と、人間的な思いやりを見せるネイサンの姿は、重なるようで齟齬を起こす。 世界図書館は、カンダータについて知らないことが多すぎた。
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