ざん――、ざざん――。 寄せては返す、波の音。ブルーインブルーではどこにいても耳につく、海の音だ。 風にまじって、海鳥の声がする。屋根の上で、たくさんの鳥たちが羽を休めている、それもまた、海上都市ではよく見られる風景だろう。 波止場に、白波が砕ける。繋がれたままの小舟が揺れている。雲の影が、ゆっくりと、港を横切ってゆく……。 ざん――、ざざん――。 静かだった。 波の音以外に、何の音もしない。 鳥たちは、異変に首を傾げただろうか? その海上都市に、ただの一人も、人間の姿が見えないことを、不思議に思っただろうか。 世界が死に絶えたような静寂。 遠く水平線に、かすかに船影が見えたように思えたが、それもまた茫々と広がる青に溶ける夢に過ぎなかったのかもしれない。 ◆ ◆ ◆ 世界司書モリーオ・ノルドは、神妙な顔つきで旅人たちを迎えた。「なんといえばいいか。奇妙な事件――これを事件と呼んでいいかどうかもわからないのだけれど、奇妙な出来事では、あるだろう」 壮年の司書がもたらすのは、ジャンクヘヴン――異世界ブルーインブルーで世界図書館と盟約を結んだ都市からのものである。「十日ほど前のことだ。ジャンクヘヴン海軍の巡視船が、辺境の海域でひとつの海上都市に立ち寄った。都市と呼ぶにはだいぶ小さな、それでも二百人程度は人が暮らしている、海の上の町だった」 モリーオは語る。 補給のために港に近づいた巡視船は、奇妙なことに気づいた。港から何の応答もないのである。 船を停め、上陸した海軍はさらに驚くことになった。 町には人間が、一人もいなかったのである。「海賊や海魔の襲撃、あるいは疫病の蔓延で住人が死に絶えた――、そういうことも考えられる。けれども、町のどこを探してみても、争いがあった形跡もなければ、なにより死体が見つからない。ただ人間だけが、忽然と消え失せたようだった」 うす気味悪い状況に、海軍は早々に都市を離れた。 ジャンクヘヴンへ帰還し、このことが報告されると、軍本部は、あらためて調査隊を派遣することを決定した。「きみたちもこの調査隊に加わって、その町へ向かってほしい。そういう依頼なんだ」 件の都市は名をマイスターポート。腕の良い機械工たちで知られる町だった。「海軍の調べで、住人が消えているのが発見された、その一週間前には、いつもと変わらぬ様子だったと、町に立ち寄った商船の証言がある。ただそのとき、町で普段見かけないような柄の悪い連中を見たとも。それで、海軍は海賊によるなんらかの犯罪があったのではないかと考えているらしいんだが……」 いまだ真相はわからない。 不可解な謎が待ち受ける海の向こうへ、ロストナンバーを載せた船が出るまでは。
1 ブルーインブルーの空は、いつも夏の色だ。 だが水平線に見えるあの影は、陽炎ではあるまい。そろそろ、マイスターポートへ着く時刻だからだ。 ジャンクヘヴンほどの大都市ではないが、都市と呼ばれるには足るほどの、決して少なくない人数の住人が消え失せた……。それは不気味な色彩の事件だった。 「どう思う?」 煙をわっかにして吐き出しながら、アラクネはふと訊ねた。 煙の輪はすぐに、潮風にさらわれてゆく。その風はミスト・エンディーアの銀の髪をさらさらと吹流しもするので、彼女は髪をおさえながら、 「まだ情報が少なすぎるわ」 とだけ応えた。 世界図書館から派遣された旅人は4人だ。 岩髭正志が眼鏡を正しながら話題に加わる。 「可能性だけならいろいろ考えられます」 古来、人が突然消え失せるという出来事は、伝承などにも数多く見いだせる。大勢の人間が一度に消えるという例もまた、その中には見つけられるのだと、正志は言った。 「壱番世界でも、船の乗組員がすっかり消えて、無人の船だけが海を漂っているのを発見されたことがあるとか。今しがたまで人がそこにいたように、湯気の立つ食事さえ残したまま、人だけが消えていたと言います」 「ふうむ」 前髪の下から片方だけのぞくアラクネの目が、話の続きを待った。 「あるいは、魔法の笛で子どもたちを連れて消えた笛吹きの伝説もありますね。たとえばブルーインブルーの海魔の中にも、なんらかの方法で人間を誘い出す力を持ったものがいたとしたら」 「なるほどねぇ」 「仮定に過ぎませんが」 正志は肩をすくめた。 ミストの言ったように、今はまだ情報が少なすぎて、断定はあまりに早い。 「あれがそうみたいだぜ」 祇十が仲間たちの注意を引いた。 彼が指す方向――波間の彼方に、目指す都市の輪郭がいよいよはっきりし始めていた。 この距離では人がいるもいないもわからない。 ただ、確かに煮炊きの煙などは上がっていないようだ。 ゆっくりと、船は無人の港へ接近していった。 ジャンクヘヴン海軍の船は、このまま、都市の周辺と近海をひとめぐりする。その間、旅人たちは都市の内部を探索することとなった。 「さぁ、お仕事を始めましょう」 と、ミスト。 祇十が頷き、 「まず周辺を歩いて、それから内側へと、狭めていくのはどうだ」 と提案した。なるほどそれは合理的だ。 「時間がかかりそうだけどねぇ。ま、この子たちにも手伝ってもらうとして」 そっと口元を隠した着流しの袂から、ぽたり、ぽたりと、いくつかの影が落ちる。それが蜘蛛だと気づいて、正志は目を見開いた。蜘蛛たちはかさこそと這い出していく。 「手分けをしたほうがいいかしら」 「ノートで連絡を取り合いましょう」 正志が、蜘蛛を目で追いながら、言った。 ミストが祇十と、正志はアラクネと、波止場で別れてそれぞれ反対の方角へ歩き出した。 「……あの、蜘蛛は普段は……」 おずおずと尋ねる正志に、アラクネはくくく、と低く笑った。そしてとんとん、と指先でおのれの胸を叩いてみせる。ああ、やっぱり。聞かなかったほうがよかったのだろうか、と思いながら、正志はアラクネのあとに続いた。 「蜘蛛の見たものは俺も見ることができる。なにかを探すにはいいだろう」 「なるほど……細かな場所へも入れますしね……それにしても、本当に静かだ」 「そうさなぁ……。天気もいいし。昼寝したら気持よさそうなんだがねぇ」 のんびりした声で、アラクネは言った。 聞こえるのはのどかな海鳥の声に、波の音だけ。 空にはぽっかりと、白い雲がただよっている。 「これでよし」 一方、祇十とミスト。 祇十は自分の腕をまくると、さらさらと肌のうえに文字を書く。 「黙」に、「隠」。 祇十の文字はその字義通りの力を発する。どこに何が潜んでいないとも限らないのだ、こうして気配を殺し、ひそやかに歩く。 「こそこそするのは性に合わんが仕方あるめぇ。姐さんも」 「ふふふ」 ミストも手の甲に字を書いてもらう。大筆の筆先が存外繊細に文字を綴る感触に、ミストは笑みをもらした。 2 それからしばらく――、旅人たちは海上都市マイスターポートの外周に沿って歩いた。 「争ったりした形跡は確かにないようね。なにも壊れてはいないし」 ミストは港に近い家屋や店の戸口から中を覗き込んでみた。 「強制的にさらわれた、ということなら、抵抗したあとがあるはずでしょ? ……さっきの話みたいに、魔法の笛で操られたなら別かもしれないけれど」 「この町にゃ、何人くらいが住んでたんだろうな。十人や二十人じゃねぇだろ」 「そうね。一度にアブダクションしたらUFOが満員になってしまうかもね」 「あぶ……、何だって?」 ミストはそれには応えず、つかつかと食堂らしき店に入っていく。 本来なら、漁師や船乗りたちで賑わい、かれらの腹を満たしていたであろう大衆食堂だ。木製の簡素なテーブルと椅子のあいだを抜け、誰もいないカウンターの内側へ。 「……」 そして棚や引き出しを開けてみる。 「片付いてるじゃねぇか」 祇十は言った。 「ここも手がかりはねぇ――、か」 「いえ……これは逆に考えるべきだわ」 「逆?」 「何の形跡もないことが手がかりだ、って。食材の残りがないじゃない、お店なのに。それに、棚に空きがある。持ち出しているのよ」 「するってぇと……」 「腐るものは処分した。そして必要なものは持って行った」 「てめぇの意志で出ていったのか。……おい、この町のやつら全員がか?」 そのときだった。 ミストがはっと顔をあげる。祇十もその気配に気づいた。 足音――、そして誰かの話し声。 人がいる! ふたりは顔を見合わせた。 同じ頃、正志は波止場に繋がれた船を熱心に見ている。 「数が少ない。そう思いませんか?」 「そうかね」 「海上都市の人々は足は船だけです。おそらく、ここはすべて船で埋まっていたはずですよ」 そう言って正志が示した場所は、船を係留しておく、いわゆるマリーナであったようだ。波に揺られている大小の船は、その列がところどころ歯抜けになっている。 「ふぅん。今ここにない船は、じゃあ、どうしたんだい」 「もちろん、住人がそれに乗って行ったんです。そして、戻っていない」 「……」 アラクネは、一瞬、空気を探るような様子を見せた。 正志はそれに構わず、 「これだけの人間がいなくなったんです。いちばん合理的なのは、やはり自分たちの意志でどこかへ行ったということ。これは船が残っているかどうかで判断できます。街の中へ行ってみませんか。家から家財が持ち出されているようなら決まりでしょう」 そう言って、正志は町の中心へ続く道へ視線を投げた。 「どぅれ、なら行ってみるかね」 鷹揚に、アラクネが応えた。 「……にしても、こう静かだとすこし不気味ですね」 正志が言った。 波止場から家々のある通りへ入り込むといっそう、そう感じる。港はまだ、朝の漁が終わり、市場も引けて漁師は昼寝をしているのだと言われればそうかと思うが、町の中がこんなに人の気配がないとやはりおかしい。かといって何年も放っておかれて家屋が廃墟と化しているほどでもなく、まだ暮らしの名残がのこる街並みから人間だけを消し去った風景は、どこか落ち着かない不安感のようなものを呼び起こすのだった。 「職人の町――という話だったかねぇ」 それらしい看板を見つけ、アラクネが戸口をのぞきこむ。 正志もそれにならえば、機械油の匂いが鼻をついた。 「金属を加工していたのかな……おや、これは」 作業台の上をじっと眺める。 「ここに置いていたものを動かした跡。やっぱり、道具を持ち出したんだ」 「じゃあ引越しか」 すう、と煙管を吸った。 「ところで」 紫煙を吐きながら。 「他にもお客がおるようだが、どうするね」 アラクネのその口調があまりに危機感のない穏やかなものだったので、正志は一瞬、意味を掴みかねた。 「……町の反対側に船がついておるのだね」 と、アラクネ。 彼の放った蜘蛛たちが、くまなく町を探っている。その眼が見たものは、すべてアラクネ自身も見ることができるのだ。 船を降りてきたのは、見るからに人相の悪い男たち…… 「まさか海賊!?」 正志は息を呑んだ。 「こら、待てェ!」 怒号――。 「ちくしょう、どこ行きやがった」 「おい、ほっとけよ。どうでもいいだろ、子どもなんか」 三人の、男たちだ。 頬に傷のある男……、眼帯の男……、そしてスキンヘッドの男。いずれも腰に剣を下げており、堅気のものではないようだった。 かれらはなにかを追って走ってきたようだったが、見失ったようで、きょろきょろと周囲を見回している。 ――と、そのときだった。 「お!?」 「あ――」 そこに立ちすくんでいたのは銀の髪の若い女だ。 「あ、あの」 「なんだオマエは」 「こんな若い女も残ってたのか」 へへへ、と男たちが下卑た笑みを浮かべた。 「……あの――私、たまたまこの街に立ち寄ったのだけど」 むろん、それはミストである。 すぐそばの物陰には祇十が潜んでいる。 「ああ? そうなのか? この街にゃあ、もう誰もいねぇぜ」 「あなたたちは?」 「俺たちは、まあ……」 男たちは目をみかわし、そして、 「残りモンをいただこうってな!」 一斉に襲いかかってきた。 だが。 「……ッ!?」 かれらは自分たちの足が、その場に貼りついたように動かないことに驚き、声をあげた。 「ふん」 祇十が鼻を鳴らした。 担ぎ上げた大筆の先から、したたる艶やかな墨。 男たちの脚に、いずれも『石』という文字が書かれていた。一瞬の早業だ。祇十自身の腕に書かれた『速』の文字の効果だろう。そして文字通り――まさしく、文字通りに!――『石』になったように男たちの足は動きを封じられたのである。 「どういうことか、詳しく聞かせてもらえるかしら?」 ミストが、艶然と笑みを浮かべた。 3 「ちょ、危ないですよ、海賊の船になんか近づいちゃ」 正志がアラクネの袖を引く。 「上陸しとる以上、どこにいたって出くわすだろう」 「そうだけど……ここは一度、みなで集合してですね」 すたすたと歩いていくアラクネ。 すると、前方からドン!と空気を震わす大砲の音が聞こえてきた。 「お、海軍の船に見つかったか。こりゃ、任せておけばいいな」 蜘蛛の眼を通してみたのだろう、くるりときびすを返した。 「ちょ」 あまりのマイペースさに正志はつまづきかける。 「で、どこに行くんだったかな」 「役所とか、そういう場所を探そうと言ったんです」 眼鏡を正しながら、正志が提案する。 「なら街の真ん中あたりか」 「なにか記録があればいいんですが」 「そういうものを残しておくかねえ……」 そのときだった。 視界の端をなにかがかすめ、正志はハッとしてそれを追った。 「な、なにか、そこに!」 思わず、アラクネの陰に隠れるように。 船から降りた海賊の3名が、祇十たちに捕縛されているのを、ふたりはまだ知らない。海賊がそこらをうろついているかもしれないと、身を固くする。 「……」 煙管をくわえ、アラクネが周囲の気配を探る。 「おっ」 そして声をあげた。 物陰から、そおっとアラクネたちをうかがっている一対の目……。 「こ、子ども?」 それはまだ、年端もいかぬ、少年だったのだ。 彼は気づかれたと思ったのかぱっと走り出すが、 「待って!」 と声をかければ立ち止まる。 こちらに害意がないのを、感じ取っているのだろうか。 「この町の子か?」 問いに、こくりと、頷く。 正志はトラベラーズノートをひっぱりだし、ページをめくった。ミストたちに伝えなくては。……と、そこに、向こうからの伝達があるのに気づく。 数分後、町の広場で一同は落ち合った。 「つまり、町の人達はほぼ全員、ここを捨てて出ていってしまったというわけですね。その……『ジェロームの町』へ」 海賊3人組は、互いの後ろ手を縛られている。 「こいつらは無人になった町に残ったものを盗みにきた空き巣というわけらしい。コバンザメみたいなもんだな」 「コバンザメとはひでぇ」 祇十の言葉にスキンヘッドが抗議するが、ごつん、と大筆の柄でこづかれる。 「いてェ! けど頭のいい方法だろうが。どうせ捨てたものを貰って何が悪い」 「そのジェロームというのも海賊なんですか?」 正志が聞くのへ、ミストが頷く。 「さっきの話をもう一回聞かせてくれるかしら?」 ミストが促すと、眼帯が話し始めた。 「ジェロームといやあ、ここから先の海じゃ知らないものはいねぇ大海賊だ。ジャンクヘヴンに近いあたりじゃ、ロミオだの、ガルタンロックだの幅を聞かせてるだろ。でもそんなのは、ジェロームが本格的に動き出したらものの数じゃねぇよな。ジェロームはなんせ……町を持ってる。そこに人をどんどん集めてるんだ」 「こんな大勢の人間をどうやってさらってるんです?」 正志のこの問いには、海賊たちは、へへへと笑った。 「ちょっと違うんだなァ」 傷持ちの音が言った。 「さらうんじゃねぇんだ。みんな着いていくのさ。貧しい町の連中ならさ……、ジェローム様の膝下にいたほうが安全ってもんだろ……?」 次は、アラクネたちが出会った子どもに案内される番だった。 一軒の家の戸口をくぐると、そこには何人かの子どもたちがいる。そして――ベッドによこたわったひとりの老人も。 「……旅の人かね」 老人が、しわがれた声を出した。 「ええ、ジャンクヘヴンから来たの」 「おお……若い頃に行ったことがある。ずいぶん遠くだ」 「おじいさんは……『ジェロームの町』には行かなかったのね」 「むろんじゃとも」 老人は笑った。 「わしはここで生まれて、ここで育った。捨てられるもんかね」 「……でも他の住人はそうじゃなかった」 アラクネが言った言葉に、寂しげに頷く。 「じゃがそれも仕方がない」 訥々と、老人は語り始めた。 「使者」は、ふた月ほど前にやってきたという。 見るからに海賊風の柄の悪そうな男たちではあったが、態度は意外にも丁寧で、穏やかだった。 かれらはまず町の職人――機械工たちに、仕事があると持ちかけた。 次に、商店を営んでいるものたちに。 若い女たちに。 体力のあり余る若者たちに。 かれらが暮らす「ジェローム様の町」なら職にあぶれることもないし、何より、海魔や海賊の害がないと、説いて回ったのだった。 むろん、故郷を離れるのは嫌だと言うものはたくさんいた。 しかし、家族と一緒に移るのであれば――近所のなじみのある面々とともになら……と思い始めるものたちも、しだいに増えて行ったのだ。 「ここは、ジャンクヘヴンから遠い」 老人は言った。 たとえば海上都市の同盟があっても、その環のもっとも遠いところにある町は、海賊の襲撃にあまりに無防備だ。海軍の巡回が行き渡らず、海魔の出現もある。 それならば――、と考えたのだろう。 ひとり、またひとりと、賛成するものがあらわれれば、あとは雪崩をうつようだった。 人々は荷物をまとめ、住み慣れた家を跡にした。 身寄りの子どもたちや、もう動くことのできない老人だけを、わずかにあとに残して。 「……移って行った人たちは、幸せに暮らしているんでしょうか」 正志は訊ねた。 老人は息を吐く。 「わしはそうは思わんね。……ジェロームは、海賊だ」 * 老人と子どもらは、ジャンクヘヴンに連れ帰ることとなった。 誰もいない町で暮らすよりはまだマシな生活ができるだろう。 老人はマイスターポートを離れるのは名残惜しいようだったが、子どもらのことを思えば仕方がない、とジャンクヘヴン海軍の申し出を承諾したようだった。 泥棒海賊団についても、船ごと捕縛され、これは海軍は思わぬ収穫だった。海賊船を曳航しながら、船が帰路へと着き、しばらく経ったときだった。 「あれを見ろ!」 誰かが叫んだ。 甲板に出たものたちは、あっと息を呑む。 水平線の向こうに、ぼんやりと、それが浮かんでいる。 「あれはまさか」 「蜃気楼だわ。海面に接してない」 正志が眼鏡の下から食い入るように見つめ、ミストは値踏みするように観察する。 「蜃気楼ってことは……どこかに実物が存在するってことですよね。この海の向こうの、どこかに」 「あれがそうなのかね」 ぷっかりぷっかりと煙を吐きながら、アラクネが誰にともなく言った。 それは……なんと形容すればよかっただろう――、町、には違いなかった。 だがジャンクヘヴンなどとはすこし毛色が違う。 吹き上がる蒸気や炎。そして動いている巨大な機械。 あきらかに砲塔とおぼしきものもある。 なにもかもが、黒っぽい金属でできているようだ。 町というよりは、城砦。城砦というよりは、軍艦だ。そう……、軍艦と呼ぶにふさわしい。なぜならば。 「動いてる――のか」 と、祇十。 蜃気楼の町は、ゆっくりと、海の上を動いていた。 「海賊ジェロームの拠点は知られていない」 ジャンクヘヴン海軍の士官が言った。 「あれがそうだとしたら……」 「海の上を町ごと移動している。なるほどね」 ミストは頷く。それなら見つからないはずだ。 そして、行く先々で、人々を移住させ、人口を増やしているのだ。おそらくは働き手として。 海上都市にとって人口の過密は歓迎できることではない。にもかかわらず人を増やし続けるのはどういう意味か、その答は、あまり幸福なものではないように思われた。マイスターポートの移住者は、新天地での幸せを夢見て発ったはずだ。だが行き着いた先――あの黒鉄の軍艦のような町でかれらを待ち受けていたのはいったいどんな世界だったろうか。 なにものかの低い笑い声を、人々は聞いたような気がした。 その後、ジャンクヘヴン海軍のさらなる調査で、ジャンクヘヴンから遠い辺境の海域で、同様に、住人の大半が移住してしまったらしい町がいくつか見つかることになる。 まだその全貌をあらわさない、しかし巨大ななにかの存在を予感させる、それは不気味な兆しだった。 暗い胎動を孕みながら、蜃気楼は、水平線の彼方にはかなく溶けるように失せてゆく。 (了)
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