船は孤島であり、牢獄だ。海上にあるうちは外に出ることすらかなわない。 茫洋たる海と空に挟まれ、船乗りは単調な生活を繰り返す。彼らは飢えている。些細な娯楽にすら飛びつき、必死に退屈を紛らわそうとする。 その方法のひとつが怪談であるという。『ジャンクヘヴン海軍から幽霊船の噂を聞いた』 男の声が邸じゅうを駆け抜ける。邸内に張り巡らされた伝声管から、声ばかりが響いている。『実に血が騒ぐ。昔のように怪談集を編纂したいところだが、この体では海に出ることもかなわぬ』 豪商アレン・アーク。かつては自ら船で各地を巡りながら商いをしていたが、脚を悪くして現役を退いた。現在は商売で築き上げた莫大な富を元に小さな海上都市を領有し、領主として暮らしている――と言われている。 彼の姿を見た者はいない。そう、邸の使用人たちでさえも。『そこでだ。ひとつ頼まれてはくれぬか?』 奇譚卿。それが彼の二つ名だ。 ジャンクヘヴン近海にデルタ海域と呼ばれる場所がある。小さな浮島が、海を巨大なデルタ(Δ)型に囲い込むように点在している。潮は島にぶつかりながら三角形の海に流れ込み、複雑怪奇な動きで船を翻弄する。奇譚卿は、遭難と奇怪な噂に事欠かぬこの海域を怪談集の舞台に選んだ。「というわけで、デルタ海域に行ってほしい。奇譚卿は怪談好きで有名だが、ジャンクヘヴンを盟主とする海上都市連合の一員でもある。治安のためにジャンクヘヴン海軍に多額の出資をしていて、同市に対して発言力を持ってる……という噂だ。正体不明の人物だが、金は実際に動いてるから卿が実在してることだけは間違いない。つまり」 ロストナンバー達の前で、シド・ビスタークは愉快そうに喉を鳴らす。「ジャンクヘヴンとしてはこの酔狂な試みに協力せざるを得ないってわけだ。手筈は整えてあるから、よろしく頼む」●口髭の誘い「それでは、ここから先はわたくしが説明を引き継ぎたく思います」 どこからともなく聞こえた声と共に部屋の照明が落とされ、何事かと色めき立つロストナンバー達。「その輝き、ある者は天上の快楽と評し、ある者は地獄の責苦と恐れ慄く……」 ぼう、と浮かび上がった小さな灯が、一面蒼白な少女の顔を真下から照らし出した。「こんばんは。エリザベス川・ジュンジで御座います」「「……………………」」 苦しい。苦しいなー、その展開は。「皆様に調査して頂くのは、海上を高速で奔る謎の発光体になります」 無言でスルーされてしまったので、泣く泣く付け髭を外し、明るさの戻った部屋の中で世界司書エリザベス・アーシュラは手元の書類をパラパラとめくる。「物凄い速度を誇りまして、ジャンクヘヴンの所有する船では到底追いつけません。その為、目撃情報は偶然発光体の軌道上にいた方々のものになります」 それが、先程の天国だの地獄云々の文言らしい。しかし何故か、近くで直接目にした者もその詳細を語るのを拒むという。「奇譚卿が求めているのは怪談話ですので、正体は分からずとも旅の記録を編纂すれば、ジャンクヘヴンとの関係に影響は出ないものと考えます」 しかし、謎と聞けば真実をつきとめてみたいと思うのが人の性(さが)である。「是非とも皆様には正体をつかんで頂き、お土産話として聴かせて頂きたく――失礼致しました」 思わずぐっと拳を握り熱弁しようとするエリザベスだったが、自分の仕事を思い出したのか、咳払いと共にいつもの表情へ。「それでは、こちらがチケットになります。皆様に良き風の導きがあります事を」 一方その頃。デルタ海域のとある海上にて。『オホホホホ! アタクシが世界最速ですわ!』『そうはゆくか! オレ様こそ世界最速よ!』 人間には理解できない領域でそんなやり取りを交わしつつ、夜の帳の下りた水平線を、輝く星がやかましく尾を引いて流れていった。======================!注意!イベントシナリオ群『デルタ海域奇譚集』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『デルタ海域奇譚集』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
●港と怪談と私 男は力説する。 「怪談といえば和尚に決まってるだろ!」 爽やかな(?)笑顔と共にくるりと振り返れば、太陽の下に光り輝くごま塩頭。 「和尚といえば、この俺、烏丸ですよ!!」 自らの肌に刻まれたハートマークは、ラヴ&ピースの証。 「さぁ、とっておきの怪談話で可愛い女性陣を怖がらせて、『いやーん、烏丸さんコワーイ』って展開に持ってい……って、女性いねぇぇぇ!?」 目の前に並ぶ顔に激しくショックを受けたようで、彼は人々の往来する通りであるにもかかわらず、地面にがっくりと膝をついたのだった。 そんな烏丸 明良を見下ろす者達の表情は様々だ。 「そればかりは、ぼく達には何とも……」 激しいテンションの上下にディガーが戸惑いの表情を浮かべれば、 「何を語っているのかと思っていたが、そんな事にも気づいていなかったのか?」 アインスは「こいつは馬鹿か?」と言わんばかりの冷たい目を向けている。 すると、明良は涙までにじませた瞳をキッと引き締め、意外に俊敏な動作で立ち上がる。 「フンだ! いーんだもんね! この世界にも可愛いおねーさんは一杯いるんだ、一夏のイケナイ花火を打ち上げてやるんだーい!!」 「バーカ、バーーーーーカ!!」――何故か他のロストナンバー達に向けてアッカンベーをしつつ、明良、明後日の方角に退場。 「……えーっと……」 「放っておけ。いずれ戻ってくるだろう」 見送るしかないディガーの目配せを受けたアインスが一言で切り捨て、改めて周囲の風景へと目をやる。 「今は情報収集を進める方が先だ」 「にしても、凄ぇ暑さだな」 そうぼやいて額を拭ったのは燎也・オーウェンだ。目の前まで持ってきた手の甲は、びっしりと汗に濡れて光を反射している。吸い込む空気も、そのまま喉を焼いてきそうな熱を帯びていた。 ジャンクベヴンは今日も大賑わいのようで。繋留した舟に乗り降りする、日焼けした漁師達。彼等を目当てにした露天商の数々。美しい肌を太陽の下に惜しげも無く晒した娘達――と、そのお尻を追い掛ける明良は見なかった事にして。 (オレももう少し、日差しを避ける格好をした方が良かったか?) そんな思いと共に、ディガーの頭のてっぺんから爪先にまで目を走らせる。 「?」 自分に何か変な部分でもあるのだろうかと身だしなみをチェックしている青年は、完全に肌の露出を控えた出で立ちだ。工事用の安全ヘルメットをかぶり、ゴーグルや軍手、そして毎度お馴染みのツナギに身を包んだその姿は、確かに日焼けは防げるだろうが、同時に見ている方が熱中症を起こしそうな気がする。 (……オレじゃ、絶対死ぬな) そう結論づけて、オーウェンは足を別の方向へ向けた。 「それじゃあ、オレはそこの酒場で聞き込みしてくるぜ」 うん、これは酒や食事でリラックスした連中から効率良く有力な情報を集める為であって、別に太陽光から逃げるわけではない。断じて。 「あ、ぼくもご一緒していいですか? 日光は苦手で」 「おう。お前ぇさんは取り敢えず、中に入ったら色々脱がねぇと逃げられちまいそうだけどな」 素直なその心根が少しだけ羨ましくて。軽口を飛ばしながら、ディガーを連れたオーウェンは歓声の零れる酒場の中へと入っていった。 「では、私達も行くか」 アインスが振り向く。実はもう一人、同行者がいる。 「そうだな。俺は飛んで行けるけど、船の調達もしないといけないし」 そう言った理星の背中で、一対の翼が大きく開いた。小さな悲鳴が上がり、通行人達が一斉に遠巻きになって指差してくる。 「あれ? 何かマズかった?」 人々の反応に、目を点にして疑問符を浮かべる理星。アインスも思案顔で頷き、顎に手を当てた。 「ふむ。私にもよく分からんが、官憲が寄ってくる前に退散した方が良さそうだ」 「この世界にいる間、その羽は畳んでおくべきかもしれんな」、「結構大変なんだよ」――吃驚している観衆達を尻目に、二人はそんな会話を交わしながら通りを走り去っていった。 目撃証言、その一。 もはや日に焼けたのか酒に酔っているのかも分からないくらいに赤銅色の顔をした男は、エールに満たされたジョッキを傾けながら豪快に笑った。 「おぉ、あれか! 俺も見た事あるぜ。運悪くデルタ海域に迷い込んじまってよ、俺もいよいよ年貢の納め時か? って覚悟したもんだが――いやー、この世に天国ってあるもんなんだな。何度でも拝ませて貰いたいぜ!」 目撃証言、その二。 漁から帰って来たばかりらしい青年は話を聞いた途端に、強い日差しにしかめていた表情をさらに脱力させた。 「何の話かと思ったら……あれかぁ。僕も噂を聞いてデルタ海域まで足を延ばした口だけどね、悪い事は言わない。特殊な趣味が無い限り、近づくのはやめといた方がいいよ。沈没なんて目じゃないくらいの地獄が待ってるんだから」 「え? あたし達とお茶? アンタと? アハハッ、ウケる~。――鏡見てからおととい来やがれ」 「……………………」 ジャンクヘヴンで流行中の夏ファッションで全身を固めた十代後半の少女は、妙にドスの利いた声で告げると、汚いものを見るような視線だけを残して立ち去って行った。連れのもう一人に至っては、目も合わさずに無視を決め込んでいるようだ。自分から離れたところで始まるガールズトークが胸に突き刺さる。 「海のバカヤロー!!」 夕焼け迫る砂浜。真っ赤に燃える太陽に向かって叫んだ後、膝から崩れ落ちておいおいと嗚咽まで漏らす明良の後ろ姿を背景に、ロストナンバー達は集めた情報を持ち寄っていた。 「発光体の目撃位置とその時間を図にしてみると……こんな感じでしょうか?」 広げられたデルタ海域の海図に、ディガーがペンで印と時間を書き込んでいく。最後に、それらを順に線で繋いでいけば…… 「一定の範囲を時計回り、か。かなりの規則性が見て取れるな」 アインスの言葉通り、噂の発光体とやらは、いびつな円を描くようにして周期的な動きをしているようだ。一夜の間に何度も同じポイントで目撃されている点も、その事を裏づけている。 「船の目処も立ったし、あとは実際に行ってみるのが早いんじゃない?」 「そいつは同感だが、結局謎は残ったままだな。どいつもこいつも、突っ込んだ話になると黙っちまう」 理星に言葉に頷きながらも、オーウェンは苦い表情で不快感を露わにした。 ジャンクヘヴンで行った聞き込みの結果は――一部余計なものも混じっていたが――先に紹介した通りなのだが、そこからさらに「具体的に何を見たのか」と踏み込んだ質問をすると、誰もが複雑な表情で口を閉ざすのであった。 「他人に詳細を話すと呪われちまうようなジンクスでもあるんかねぇ……?」 これまた怪談にはありがちな要素であるが、噂を聞く限りそんな話は無かった。別の理由があるのか、はたまた……まぁ、こうして首を捻っても仕方が無いのは確かであろう。 「でも、その割には随分と人気があるみたいですよね?」 ディガーの指差す先には、出航の時を今か今かと待ち侘びる船の数々。驚く事にこの全てが、ロストナンバー達もその存在を追う謎の発光体見たさに、危険極まるデルタ海域に繰り出すのだという。 アインスの口許に薄く笑みが広がる。 「『渡りに船』とはよく言ったものだな。もっとも、最後に笑うのは我々だが」 既に交渉は済ませてある。何隻かの船が、ついでと言わんばかりに格安の料金で連れて行ってくれるそうだ。ロストナンバー達はそれぞれに足となる船を選び、乗り込む事となる。 「それでは行こうか。――UFOめ、暢気にキャトっていられるのも今の内だ。私が捕まえて、某国に高値で売り飛ばしてくれよう!!」 「「え゛?」」 他の者達が思わず振り向く中、アインスの哄笑が星のちらつき始めた空に木霊していた。 「キシシシッ」 煌々と輝く漁り火の灯りを宿し、次々と海原へ繰り出していく船影を見下ろし、その闇は独りほくそ笑んだ。 「あンだけのギャラリーがいりゃ、最高のショータイムになりそうだぜ」 ゆっくりと息を吸い込むのと同時に、星の瞬く天を仰ぐ。中空には妖しく光る月影。こんな夜は血が騒ぐというものだ。 普段は忌み嫌っている、『魔』としての血が。 トン、と建物の屋根を蹴ると、ゆったりとした衣服に包まれた漆黒の体躯が自由落下を始めた。見る見る内に地面が迫る中、薄い被膜を備えた羽が大きく広がる。そのまま風に乗って滑空する形で、彼は大空へと躍り出た。 「ママー。さっき、まどの外に大きなコウモリさんがね――」 「あら、寝ぼけちゃったの? 分かったから、もうお休みなさい」 どこかの家から聞こえてくる会話に、思わず笑みが零れる。坊やには悪いが、これからの時間は大人の為のお楽しみタイムである。 「全力でイくぜ、キシシシシッ」 闇の獣の名は、ベルゼ・フェアグリッド。闇に生まれ、光に恋する異端の異形なり。 ●ゆらり揺られてデルタ海域 「我ながら、なかなかの冗談だと思ったのだが……これが文化の壁というものか」 出航前の一幕を思い出し、アインスはそっと息をついた。出身世界では一般市民と切り離された世界で暮らしていた自分も、数々の異世界旅行で少しは常識というものを身につけられたかと思うのだが……UFO発言を真に受けられてしまう辺り、まだまだらしい。 と、そこへ飛来するものがあった。 「もうそろそろ予定のポイントだけど、ざっと見る限り妖しい光は無いね」 理星だ。船の縁に上半身を預けたアインスの目の前でふわふわと器用にホバリングしながらも、自由に飛べるのが嬉しいのか満面の笑顔を浮かべている。 「この船では、目標に接近するには先回りするしか手がない。引き続き警戒を宜しく頼む」 「分かったよ」 羽ばたきと共に一陣の風が吹き、見張り台で望遠鏡片手に驚いている船員の眼前をかすめるようにして、理星は宙に舞い上がっていった。 「さて、もう一人は……」 ぐるりと甲板を見渡すアインスの視界に、基本は黒と白を基調にしながらも、ド派手にドレスアップされた姿が飛び込んできた。本当に、あの特徴的な外見は探すのに手間取らずに有難い。 「おっとお姉さん。そんな大きな荷物を一人で運んでたら危ないぞ。『注意一秒怪我一生』ってな。俺が手伝うから、力を合わせて頑張りましょ。ついでに身体もピッタリ密着させて。ゲヘ、ゲヘヘ――あう!」 木箱を運ぶ女性船員の背中に張りついた明良が、見事なまでの肘鉄を食らってゴロゴロと甲板を転がっていった。これでもう何度目だろうか。海に出てから続く明良の「スキンシップ」に、女性ばかりで構成された船員達はそのほとんどが諦め顔だ。 その代わりに、何故かアインスに視線が突き刺さるのだが。「あの変態を何とかしろ」という意味なのだろうが、彼にしてみればそんな義理は無い。澄ました顔で受け流す事にしていた。 「もう一人も異常無し、と」 確認だけを済ませて、再び夜の暗い海へと視線を移す。一見する限りはとても穏やかな波に見えるのだが、難所というのは本当のようだ。周囲では先程から、船員達が慌ただしく駆け回っている。 ここまでの苦労を強いられてなお、何故この海域に足を踏み入れるのであろうか―― 「その時まで、待つしかあるまい」 潮騒が響く。今はただ静かに。 別の船にて。アインスと同じようにして海面をのぞき込むディガーの姿があった。真夏なので涼しいとまでは言えないものの、陽はすっかり落ちている為、ツナギと靴だけの身軽な格好だ。 「うわぁ……」 漁り火を反射して黒光りする海は、まるで水そのものが真っ黒であるかのような錯覚を起こさせる。 「よう、どうした?」 背後からの声に振り返ると、丁度オーウェンが船倉から出てきたところのようであった。ディガーも先程までそうだったのだが、彼も荷物運びを手伝っていたらしく、上気した顔に快活な笑みを浮かべている。 「波にでも酔ったか?」 「あー、それも少しあるかもしれませんね」 そんなやり取りをしている間にも一際激しい揺れが船体を襲い、二人は甲板に足を踏ん張って何とかこらえた。船員の話によれば、「まだまだこんなもんじゃない」らしい。 「海が珍しくって。やっぱり地面の上とは感覚が違いますね」 「で、その珍しい海を見ていたってわけか」 「はい」 二人並んで、ゆらゆら揺れる水面を見つめる。 「……夜の海ってぇのはどうにも辛気臭くていけねぇな。余計な事ばかり考えちまう」 「そうなんですか?」 そうなんだよ――と、オーウェンはさして背丈の変わらない相手の髪をわしわしと撫でていた。自分の言葉と表情を誤魔化すように。 「そういうお前ぇさんは、何を考えてたんだ?」 「えーっと……柔らかそうだなぁ、とか」 「……はい?」 「い、いえ! 水って掘っても掘っても隙間を埋めてくるから、結構強敵なんですよね。ホースで吸い出した方が手っ取り早いですし。そう思いません!?」 「あー、いや、うん、そうだな……」 どうにも噛み合わない感じは、今まで生きてきた世界の違いから来るものなのであろうか。途切れた会話に気まずい雰囲気が漂い始めた頃、意外なところから助け船はやって来た。 「出たぞー!!」 見張り台からの声に、空気が一瞬にして沸き立つのが感じられた。皆して船の縁に集まるので、船体が傾かないようバランスを取るのに苦労したくらいだ。報告のあった方角とは反対の船縁に追いやられた者達も、望遠鏡を手に、あるいは肩車をしたりと、それぞれの方法で「観客席」の準備に余念が無い。 「あれが、すっごい速さで飛ぶ蛍……」 「いやいや、あれだけの明るさと大きさ、速度の蛍ってどんだけだよ」 サングラスを掛けたディガーとオーウェンに向かって、光の根源である存在は近づいてきているようだった。徐々にその影――という割にはピカピカ光っているが――が大きくなっていく。 それはやがて詳細な姿を確認できるまでの距離に迫り、船員達から大きな歓声が沸いた。同時に、船の動きを操る者達からは焦りの声が漏れる。 「ヤベぇ、ぶつかるぞ!」 「面舵一杯、急げ!」 本当は衝撃に備えて避難した方が良いのだろうが、二人は目の前の光景に心を奪われてしまったかのように動かない。 「ふわ~……」 「こんなんアリかよ……」 「駄目だ、ぶつかる!!」――誰かがそう叫んだ時だった。 「と、飛んだぁ!?」 全員の頭が一斉に頭上を向いた。その呆けた表情を、接近してさらに強烈になった光が照らし出す。 まるで陸上選手のように船を飛び越え、発光体は遥か彼方の水平線へ向かっていく。 再び訪れた夜の静寂の中、オーウェンはサングラスを持ち上げながらディガーに声を掛けた。 「……見たか?」 「……見ました」 周りの船員達は初めてではなかったのか落ち着いた様子で、再び待ち伏せる為にそれぞれの持ち場に戻っていくようだ。「次、席換われよ」等といった、実に平穏な会話がなされている。 「女だ……」 「女の人でしたね……」 際どいハイレグビキニに身を包んだ、絶世の美女――ただし、忙しなく動かす足で海面を蹴りながら走っているという、残念なオプション付き。 そういえば、別の船に乗った人達は――視界を巡らせた二人の目に飛び込んできたのは、まばゆい光に照らし出される船体の影であった。ついさっき自分達が目撃した光とは方向が全く違う。まさか、他にもいる!? すぐ傍にいた船員から望遠鏡を奪い、オーウェンはサングラス越しに遠くの景色に目を凝らした。甲板に仁王立ちし、銃を構えているのは―― 「アインス……?」 光に覆われた世界の中、アインスは独り高笑いを挙げていた。 「フハハハハ! ようやく現れたな、UFOもしくはUMAめ!」 あんた、それ冗談だったんじゃ? 「フッ、敵を騙すにはまず味方から!」 よく分からない事を言いながら、アインスの指が引き鉄に掛かる。 「往生せいやぁ!」 およそ彼らしくない殺し文句と共に、銃口から花が咲くように投網が広がって発光体へと絡みついた。口ではああ言っているが、彼の目的は前にも言った通り捕縛する事にある。その為に手段は選ばないつもりだ。この網も、ただの投網ではない。 「スイッチ・オォーーーーーン!!」 ぽちっとな。 アインスを人差し指が赤いボタンを押すのと同時に、網全体が発光体に負けじとばかりに光を放ち始めた。象をも気絶させるという高圧電流だ。これならば、たとえ相手がUMAであろうとも―― 「ば、馬鹿な!」 相手を見上げるアインスの頬を汗が滴り落ちる。 「効いていない――だと!?」 呆然とする彼の後ろでは、明良がコソコソと謎の動きをしていた。 (今がチャ~ンス) アインスの背中を視界に収めたその瞳は、何故だか物騒な光を放っている。 (ムキムキの筋肉野郎になんか興味無いし、今こそ積年の恨みを晴らす時!) 彼の指摘通り、この船に接近した発光体は筋骨隆々の中年男性の姿をしていた。スキンヘッドで、しかも海パン一丁。それが水平線の彼方から物凄い勢いで海上を「走って」来たのだから、明良にとっては恐怖以外の何物でもない。触らぬ神に祟り無し、である。 それはそうと。明良とアインス、この二人には何やら因縁があるようだ? (以前の依頼で俺を虎に放り投げた事、暗い海の中で後悔するんだな! 航海中だけに。クケケケケ!!) 暗き想念を胸に抱き、そろりそろりと近づいていく。幸い、周りの視線は発光体に釘づけだ。完全犯罪も可能であろう。あとはそっと背中を押してやるだけ。さあ―― ブルアァァァァッッ!! その時だ。発光体が天をも揺るがす雄叫びを上げ、全身の筋肉に力を込めると、特殊繊維製の投網はいとも簡単に引き千切られてしまった。再び海上を疾走し始めた勢いで高波が発生し、船全体を大きく揺らす。 「――え?」 衝撃に思わず目を閉じた刹那。明良は船縁から大きく外に放り出されていた。ちょいちょい、と手足を動かしてみるが、つかまれそうなものは何も無い。眼下に広がるのは漆黒の海のみ。 「あんれーーーー?!」 じゃっぱーーーーーんっ 情けない悲鳴だけを残して、明良の姿は水柱と共に海中へと没していった。 「ん? どうした烏丸?」 海面をのぞき込んだアインスを目が見開かれる。 「サメだ!」 「何ぃ!?」 坊主がJawsにLoseされる? 「カ、カスガ!! マイセクタンカスガ、助け……!!」 明良は船上へと助けを求める――アインスには頼まないのが、彼に残された最後のプライドである――が、 …………………… カスガは鼻○そをほじっている! あまつさえ、カスガは取れた鼻く○を明良に投げつけた!! 「カスガーーーーー!!」 烏丸 明良、享年25歳。セクタンに鼻○そをぶつけられながら逝く。 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏(チーン)。 風切り音が耳をつんざく。 しかし理星は普段と変わらぬ様子で、並走する二つの光に向かって声を張り上げた。 「なあ、何してんのー?」 聞こえてはいるようだが、二人はちらりとこちらを見遣るだけで返事は無かった。水着姿の男女は人の形をしているが、二本の足で平然と海面を疾駆しているのだから、厳密には人間ではないのかもしれない。 「キシシッ、いわゆる『海魔』ってヤツなんじゃね?」 新たな声に主を探せば、発光体を挟んだ向こう側。自分とは対照的な黒い翼の存在が飛翔していた。 「あんたは?」 首を傾げる理星に、相手は牙の奥で忍び笑いを漏らすのみ。 「キシシッ、俺の事なんでどうでもいいだろ? それよりも今は、コイツらと遊ぶ方が面白そうってなァ!」 見事な滑空を続けながらも懐から一丁の黒い銃を取り出したベルゼは、発光体の行く手を遮るように弾丸を連射した。波立つ海面にぶち当たった魔力は衝撃波を生み、ちょっとしたビルくらいの高さはあろうかという水柱をいくつも発生させる。 「さァ、どうする?」 愉しげに嗤うベルゼの目の前で、推定海魔の男女は―― 真正面から水柱に突っ込んだ。 「あァン?」 そして、上昇する海水の流れに乗るようにして虚空へと飛び出し、空中で奇妙なポーズを取った後に着水。それはさながら――残念ながら、翼を持つ二人には馴染みの無いものだったが――スノーボード競技の如きエアーであった。 「……………………」 「う~ん、俺も負けられないな!」 思わず絶句するベルゼの横で瞳を輝かせた理星は、さらに速度を上げて発光体に追いすがった。その速さたるや相当なもので、あっという間に再び追いついてしまう。 そこからさらにもう一頑張り。一気に追い抜く彼の脳裏に、ずっと昔に聞いた言葉がふとよぎる。 『お前の羽は、どんな天使より速く飛べる、凄い羽なんだ』 (とーさん……) 自然と零れる笑み。前に回り込んだはいいものの、さてどうやって捕まえようかと意識を現実に戻したところで―― 彼は気がついてしまった。 自ら光を放つ二人の目の色が変わっている事に。 「な、何だ!?」 そこから感じる感情は、羨望、憎悪、そして――嫉妬? 「うわ!」 突然速度を増した相手の進路から逃れ、理星はくるくると回転しながら何とかバランスを整えた。すれ違った瞬間に我が身を襲ったのは、物凄いスピードから自然と生まれた突風だろうか? 「一体何なンだよ? アイツら」 こちらには目もくれず爆走する発光体に興を削がれたのか、やや冷めた口調でぼやくベルゼに、理星も「さあ……」と曖昧な言葉を返し、 「でも、他人って気はしないな。そうは思わないか?」 「キシシシッ」 肯定とも否定とも取れる響きで。ベルゼは早くも聞き慣れてきた独特の笑い声を漏らすだけだった。 ●真夏の夜のバリバリ伝説 結論。 「どうやらあいつらは、レースをしてるみてぇだ?」 「アインスさんもそう判断したみたいです。でも、何故そんな事を?」 ディガーに不思議そうな顔をされて、オーウェンは静かに首を横に振った。 「俺が知るかよ。まあ、『世界最速』ってぇ肩書きにゃ、ちょいと惹かれるもんがあるけどな」 「そうなんですかぁ」 ちなみに、離れている船同士のやり取りは理星が引き受けてくれた。今は再び発光体を追い掛けるべく奔走中である。 「くそっ、私の銃が一発も当たらんとは。しかも天丼を掻き込みながら走っている相手に」 もしかしたらどこか故障しているのではないかと、アインスは本気で心配していた。 同じコースをぐるぐると巡る海魔? の二人に、ロストナンバー達も果敢に挑んではいたが、その結果は芳しくなかった。こちらの足場は限られ、向こうの身体能力は並外れている。 そして謎なのが、どうやら二人はスピードだけを争っているわけでは無そうであるという点。 ある時は、食事を取りながら。 またある時は、どこから持ってきたのかケンダマやルービックキューブで遊びながら。 それでも常に走っているのだから、根底には速さへのこだわりがあるとは思うのだが。もはやその行動はロストナンバー達の理解の範疇を超え、さしずめ「音速の彼方」へ突入しているのかもしれない。 「それにしても……」 ふと、ディガーの胸に新たな疑問が生まれた。 「皆さん楽しんでいるみたいですし、何で詳細が噂になっていないんでしょうね?」 抜きつ抜かれつのデッドヒートに歓声を挙げている船乗り達を眺めながらの発言だった。 それはオーウェンも引っ掛かっていた部分である。 「数少ない海の娯楽を独り占めしよう――ってぇのは、ちょいとケチ過ぎる気もするしな」 「そっちに行ったよー!」 理星の声が響き、一同に緊張が走る。 「これが最後になりそうだな」 「上手くいくと良いですね」 オーウェンとディガーが顔を見合わせ、 「フフフ……いつまでも私を馬鹿にできると思うなよ?」 アインスが不敵な笑みを浮かべる。 「3、2、1……今だ!」 発光体を誘導していた理星の合図に、海面すれすれを飛んでいたベルゼが急上昇を開始した。 「こういう力仕事は勘弁して欲しいゼ!」 両手で抱えるようにして握っているのは、何重にも束ねた荒縄の一端。その両端は二艘の船に繋がり、そこでもロストナンバー達に頼み込まれた船乗り達が底引き網漁用の巨大な網を宙に留めるべく踏ん張っていた。 二隻の間に帆を張った網は、さながら巨人の戯れるテニスコートの如く。 海魔達が何度目かもしれぬ跳躍をする。 「キシシシッ、足りねェ足りねェ!」 遥か上空で網の中間点を支えているベルゼが笑い声を立てる。どう見ても、跳び越えるには高さが不十分だ。 アインスも、思わず口の端に満足げな笑みを浮かべていた。 「終わったな」 「いや、待て。あいつら、何しようと――」 異常を感じ取ったオーウェンが目を凝らしたその時だ。 「うわっ、眩しい!?」 より輝きを増した閃光にサングラス越しでも耐え切れず、ディガーは反射的に顔をかばっていた。 「ゲェッ、何だァ!?」 さらに至近距離で浴びたベルゼなどはたまったものではない。網を放してしまいそうな苦痛が襲い掛かる。 が、それよりも衝撃的な光景に、彼は放心した表情で口をポカンと開いたのだった。 「脱い……でる……?」 同時に跳躍した二人の海魔は、空中で三回転半捻りの絶技をかましつつ、何故か生まれたままの姿になっていたのだ。 遥か下の船上では「キャー☆」と黄色い嬌声が沸き上がったり、「我が人生に一片の悔い無し!」と致死量相当の鼻血を噴き出したりと、ある意味阿鼻叫喚の光景が。 「ギャー! 目が、目が腐るぅぅぅ!」 てゆーか、生きていたのか、明良。 「いつの間に死んでるんだよ、俺! いや、今にも死にそうな目に遭ってるけど! 目が、目があぁぁぁっ!!」 ムキムキマッチョがお目当てだったらしい女性オンリーの船の方からは、どうやら男海魔の裸体しか拝めなかったようで。 「……他人に話したがらねぇ理由はこれか」 「そうなんですか? ――あ。オーウェンさん、鼻血が」 さっと差し出されたタオルで鼻の下を拭い、オーウェンは「助かったぜ」とディガーに礼を言った。 「天国」やら「地獄」だのと称された理由は、今の船乗り達や明良の反応を見れば一目瞭然であろう。ただの娯楽ならともかく、こういった「お楽しみ」は他の人間に内緒にしておきたいというのも、まぁ、何となく理解できる。 「さーて。奇譚卿への報告書、どうでっち上げるかねぇ」 素っ裸のまま腕や脚の一振りで生み出した鎌鼬によって頑丈な網をいとも容易く切断し、夜の明け始めた水平線へ走り去っていく発光体を見送りながら、オーウェンは煙草に火をつけるのだった。 (了)
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