船は孤島であり、牢獄だ。海上にあるうちは外に出ることすらかなわない。 茫洋たる海と空に挟まれ、船乗りは単調な生活を繰り返す。彼らは飢えている。些細な娯楽にすら飛びつき、必死に退屈を紛らわそうとする。 その方法のひとつが怪談であるという。『ジャンクヘヴン海軍から幽霊船の噂を聞いた』 男の声が邸じゅうを駆け抜ける。邸内に張り巡らされた伝声管から、声ばかりが響いている。『実に血が騒ぐ。昔のように怪談集を編纂したいところだが、この体では海に出ることもかなわぬ』 豪商アレン・アーク。かつては自ら船で各地を巡りながら商いをしていたが、脚を悪くして現役を退いた。現在は商売で築き上げた莫大な富を元に小さな海上都市を領有し、領主として暮らしている――と言われている。 彼の姿を見た者はいない。そう、邸の使用人たちでさえも。『そこでだ。ひとつ頼まれてはくれぬか?』 奇譚卿。それが彼の二つ名だ。 ジャンクヘヴン近海にデルタ海域と呼ばれる場所がある。小さな浮島が、海を巨大なデルタ(Δ)型に囲い込むように点在している。潮は島にぶつかりながら三角形の海に流れ込み、複雑怪奇な動きで船を翻弄する。奇譚卿は、遭難と奇怪な噂に事欠かぬこの海域を怪談集の舞台に選んだ。「というわけで、デルタ海域に行ってほしい。奇譚卿は怪談好きで有名だが、ジャンクヘヴンを盟主とする海上都市連合の一員でもある。治安のためにジャンクヘヴン海軍に多額の出資をしていて、同市に対して発言力を持ってる……という噂だ。正体不明の人物だが、金は実際に動いてるから卿が実在してることだけは間違いない。つまり」 ロストナンバー達の前で、シド・ビスタークは愉快そうに喉を鳴らす。「ジャンクヘヴンとしてはこの酔狂な試みに協力せざるを得ないってわけだ。手筈は整えてあるから、よろしく頼む」 ――そこには、人喰いの巨大な《桜》が存在しているという。 シドからの説明を聞き終えてふと視線をめぐらせると、真っ赤なクマのぬいぐるみこと世界司書、ヴァン・A・ルルーが、《導きの書》に手を添えて難しい表情を浮かべていた。 どうしたのかと思わず声を掛けてみれば、彼は微かに首を傾げてこちらを見上げてきた。「怪談収集のお話はすでに?」 こくりと頷きを返しつつも、それとルルーの表情が結び付かない事を不思議に思う。 タキシードを着たクマは憂い顔なのだ。 怪談収集といった行為そのものは多少胡散臭くもあるが、有り余る好奇心を満たし、その物語の裏側にある現象や元となった歴史や逸話に想いを馳せて楽しめるもののはず。 なのに、彼はまるで楽しそうではない。「桜が、咲いているんだそうです。そこで、ヒトが消えています」 桜が咲いている、ただそれだけならば本来何ら問題はない。 しかし、ことブルーインブルーという世界では、そこに別の意味が生まれる。 貴重かつ稀少な植物は、植物であるというただ一点においてのみで充分商売になりうるのだ。 商売になるから、ヒトが群がる。 しかし、噂の《桜》を求めて遺跡へ向かった商人は帰ってこない。 帰ってこないから、《人喰いの桜》とあだ名される。 そのうえ――「……導きの書は悲劇の訪れを示唆しています。ヒトの死を、惨劇を、いずれ訪れる未来として告げています。すでに何らかの悲劇は起きているのかもしれませんが」 世界司書が告げるのは、ありきたりな怪談話では収まらない何かを予感させる台詞だった。 帰ってこない人間たちは、果たしてどこに行ってしまったのか。 そして、悲劇とは何をさしているのか。 明確な答えはいまだ用意されていない。 けれど、関わらずにいれば未来は確定されてしまうだろう。「幻の桜、人喰いの業を背負った『怪談話』のその真相とは、果たして何であるのか……いかがでしょう? この謎、解いてみませんか?」 * 目指すは小さな島が集まったデルタ海域。 ゆらゆらと穏やかな航海を進めていた船から目的の島が見えた途端、船にぶつかる波が大きくなりだした。 船はぐらぐらと揺れ、ざぱんざぱんと波がぶつかり、跳ねる。「本当に花があるかどうか、なんて誰も知らないさ。そのサクラって名前だって、誰がつけたのかもわかりゃしない」 船乗りの一人がそう忌々しそうに呟けば、他の船乗り達もぼつぼつと言葉を繋ぎ、語り出す。「例え噂が噂を呼んでいるだけだとしても、それでも確かめずにはいられないってのを理解してもらいたい」「誰もが眉唾もんだって解ってる。わかってるんだが確かめに向かう人が帰ってこない事が、本当にあるんじゃないかって、そう思っちまうんだよ」「海賊に襲撃されたってヤツらもひとりやふたりじゃない。……オレたちだってそうだ」「せめてあいつの亡骸を取り戻してもらいたいんだ」「頼むよ……目印はつけてある。壁や通路に結んだ赤い紐を辿れば行ける」 桜の謎を追うついでで構わないから……と、行き帰りの船代がわりに《依頼》がひとつ託された。 砂浜から少し奥へ、小さな川沿いに川上へと進み、岩壁に小さな洞窟を見つける。船乗り達の言う遺跡の入り口にはしっかりと真っ赤な紐が括られていた。 ぽっかりと開いた入り口は、下に向かって長く続いているようだ。 それを辿りさえすれば、目的の場所までは迷うことなく到達できるだろう。 帰ってこない人間と人喰いの名を冠した桜。 怪異譚の謎と真相が、この先で待っている。 ――ぴしゃん。 水音が、足元から跳ねて虚ろに響く。 自分たち以外にも無数の足跡が残る場所に踏み込んで、依頼人の言うとおりに赤い紐を括られた道を壁伝いに歩く。 歩く、歩く、歩く。 けれど、そこには何もない。 いや、教えられたとおりの道を進んできたはずなのに、目印になるはずの赤い紐は途絶え、消え、ただ、無数の足跡と、何か不自然な破壊が起こった痕跡だけが残されていた。 遺跡、と彼らは呼ぶ。 砕けたシャンデリアの破片が散らばる場所を。 無体な崩壊を起こしかけているこの場所を。 水に浸食されたこの場所を。 かつて白かったのだろう壁は無残に崩れ、かつて緋色であったのだろう絨毯らしきものは襤褸切れと化し、かつてイスやテーブルであったのだろう飾り彫りの為された家具たちの断片が転がる場所を。 遺跡と彼らは呼び、ここにあるはずのない《桜》があるのだと言った。 そしてここに、海賊に殺された《仲間の遺体》があるのだと、確かに言った。 しかし。 あるはずの死体がない。 いるはずの被害者がいない。 さらにいうならば、ここで人が殺されたそもそもの証拠を探すこと自体が困難に思われた。 ざわりと肌を泡立たせるこの奇怪な現象もまた、《桜》にまつわる《怪談》なのだろうか。 それとも、超自然的な現象たり得ない、もっと別の、言うならば作為的な原因によるものなのか。 ひとつひとつを検分すべく視線を移していけば、ちらりと掠めるような違和感を覚えた。 だが、奇妙なこの感覚の正体を突き止めるより先に、あちらこちらに亀裂の入った石段が視界に入る。 ソレは、かろうじて下へ降りる道を示していた。 そしてその道は、よく目を凝らせば奥で左右二手に分かれてもいるようだ。 一瞬、赤い何かが、向こうでちらりと光に反射する。 『この謎を、解いてみませんか』 不意に、ヴァン・A・ルルーの言葉がよみがえった。 よみがえったその言葉を口の中で反芻し、そして頷く。 解いてみせよう。 死体は消えた。 喰われたのか、連れ去られたのか、怪奇現象か、単なる隠蔽工作か。 その答えを――かつて誰かの手によって作り上げられたはずの《遺跡》を通じて突き止めると、決めた。!注意!イベントシナリオ群『デルタ海域奇譚集』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『デルタ海域奇譚集』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
ぴちゃん…と、足元で跳ねた水音が、闇色に沈みかけた空間に虚ろに響く。 「青い空に青い海、白い砂浜! ブルーインブルーは夏にサイコーのシチュエーション! ……なのになんでホラーなこと調べようとしてるかなぁボク」 中津トオルは若干遠い目をして、深く長い溜息をひとつ落とした。 ここには青い空も青い海も白い砂浜もない。あるのは洞窟を降りてきたとは思えないほどに作り込まれた建物の朽ちた一室だ。 赤い紐の断片を追いかけ、崩れかけた石階段のその先で見つけたこの部屋は、壁の一面に嵌め込まれたガラスが砕け、カットグラスのシャンデリアの破片が散乱し、アンティークのテーブルセット共々、どうしようもないくらいに一帯が土と泥にまみれていた。 そして自分の傍にいるのは、夏の浜辺を彩る綺麗な女性陣などではもちろんない。 「まったくだよ。男ばかりだなんて華がないねぇ」 くすりと笑みをこぼして、自らを探偵と称したオーギュスト・狼がトオルの顔を覗きこんできた。 仕立ての良いスーツにシルクハットという出で立ちは、どうあってもトオルの中の『洞窟探索』のイメージとはそぐわない。 「ああ、でもまあ、トオルくんとは仲良くなれそうな気がするけど。ね、トオルくん。君は探偵としてきたんでしょ?」 「違いますー、ボクはアンニュイな顔したクマ司書さんをもふりたかっただけですぅ! そしたらちょーっと予定が狂っちゃったんですー」 「でも君からは探偵の匂いがするよ。謎があれば解かずにはいられない。ね?」 「えー、ヤだなぁ。本職さんはそちらでしょ? 偉大なる世界初の探偵とおんなじ名前で運命すら感じちゃいますけど」 自分にしか分からない《壱番世界の推理小説》をネタに否定を返しながら、トオルは《遺体回収》という同じ目的で動くこととなった他の面子に視線を向けた。 「で、どーですかね? お二人はなんか思うとこあります?」 「いまのところコレというものはないんだが……しかし、あるはずのモノがないというのは異常事態と取っていいだろう」 ロディ・オブライエンは怜悧な眼差しでもって、無残に崩れた壁にそろりと指を這わせた。 「海賊に殺されたという、その状況証拠が根こそぎ存在していないというのが奇妙だ。かといって、噂通り人喰いの桜の仕業と断言するにも、誰も見た者がいない以上は判断材料がなさすぎる」 彼は、本来遺体があるべきだったあの場所のことを思い返しているらしい。 「存在そのものが消滅してしまったかのような状態というのは……果たして何によるものなのだろうな」 ロディの検分に付き合う形で、アクラブ・サリクもまた部屋内部を歩き、目を眇めた。 「……『桜』というのは、先にチェンバーで見たアレのことだろう? 美しいモノではあったが、アレがここにあるというのも不可解だ」 彼の眼に映るのは不穏な気配を放つ闇色の道行であるらしい。 「本当に、それは桜であるのか……それとも、そう見えるだけの、まるで違う存在なのかも気にするべきだろう」 三揃いのスーツにブーツといった組み合わせのロディに対し、アクラブは黒を基調とした神官服だ。どちらもやはり、洞窟探索はもとより夏の海岸にも似つかわしいとは言い難い。 彼らのある種非常に隙のない装いを横目に、トオルはそろりと階段から離れて転がる家具の傍に足を向けた。 屈み、手を伸ばし、拾い上げたのは、赤い紐の断片だ。これで一体いくつめだろう。 「この繊維の状態は過剰な力で引き千切られたって判断したとして……どんな外部の力が働くとこんなふうになっちゃうんだかねぇ」 口の中だけで紡ぐこの独り言を拾い上げるものは居ない。 その証拠に、彼の呟きの後に投げかけられたのは、 「桜がヒトを喰らうと思うか?」 ロディからの改めての問いだった。 「この赤い紐があの船乗りたちの言う目印だったとして、コレも桜の仕業と考えるべきか?」 「怪談ねえ? 死体ごと食べてしまった何かがいたとしても不思議じゃなさそうだけど」 壁に埋め込まれた金具片をそろりと指でなぞりながら、オーギュストは首を傾げてみせる。その指が捉えるのもやはりほつれた赤い紐の断片だ。 「記憶に留めることもできないほどに数多の死と、その死を呼び込むに至るまでの憎悪と企みと嘘とまやかしとを生み出す人間たちを知っているぼくとしてはね、人喰い桜だなんてモノよりもずっと、人間の方が怖いと思うよ」 「人間が引き起こしたって仮定しときます? 植物が商売になるらしいから、噂で商人たちを引き寄せて金品奪い取るのが目的――とか」 「《桜》の名を出すことで、何を釣り上げるのかが問題となるだろうがな」 「怪談話ってのは、裏があってナンボじゃないですか? 裏のない怪談はノーサンキューですよ」 「得体の知れないオソロシイモノは、得体の知れない分だけ自身とは懸け離れた遠くにあるモノだからさ。そんなのは、ぼくらには関わってこないもんなんだよ」 「では尚更ひとつひとつの部屋なり場所を検分していく必要はありそうだな……現在流れている噂を遡って辿る事が出来れば噂の原形や発生した経緯も分かりそうなんだが」 「その時間が許されていないところが問題だな。我々がすべきことは怪談の真相を掴むことだけでもなく、ましてこの場所はそう長い時間保つとも思えん」 ロディの言葉に対し、アクラブは視界を阻む瓦礫を押しのけ、払い、その先に埋もれていた通路と、そして階段を見下ろす。 「急がなければ何ひとつ為し得ないだろう」 彼は躊躇わず、最初の一歩を踏み出した。 「異論はないよ。そこにどんな真実が隠されていようと、謎が提示されているのなら解き明かすだけなんだから」 くすくすと笑いながらオーギュストが続き、 「精々俺達も“人喰いの桜に喰われた”などという噂の一部にならない様にしないとな」 ロディが更にその後を追う。 「うわー、なんでそんな不吉なこと言っちゃいますかね?」 最後にトオルが踏みだした。 踏みだしながら、トオルは肩越しに振り返ると、自分がたった今までいた部屋の様相を記憶に刻みつけるように視線をくまなく滑らせる。 もう二度とこの光景を見ることは叶わないかもしれない、そんな奇妙な予感が頭の片隅をよぎった。 遠く近く反響する水音が人喰いの桜のさざめきであるかのようなこの場所へと、オーギュストは視線を巡らせる。 「ブルーインブルーって蒸気機関はあってもハイテクとは言い難い世界だよね? その遺跡というならもっと年代的に石造とかであるべきだと思うんだけど」 自分たちが歩くこの場所は、遺跡と言ってイメージする《通路》よりはむしろ泥や瓦礫にまみれた《廊下》と言ってしまった方が近い。 「確かに島に上陸し、どう見ても洞窟としか思えない場所から下ってきたが……桜だのといった植物が蔓延る天然の空洞とはとても言えんだろう」 アクラブが答え、 「どっからどー見ても廃墟かな。廃墟っていうか、むしろ廃屋? 身近すぎ。人工物過ぎ。ゴシックロマンを匂わせといてビミョー」 トオルが頷く。 「初めはなんかすんごい豪華そうな部屋だったのに、下に行けばいくほどグレードが下がっている気もするし?」 かろうじて残っているモノから原型を想像するに、ここには神殿や禁断の墓所などといった要素は一片たりとも入り込む余地がなさそうだ。 厳かさを持たない、無機と有機が微妙に混ざり合う場所。 「同感だな。更に付け加えるなら、巨大な迷路と見せかけておいて実際は単純な作りらしいのも不可解だ」 「だよね」 ロディの台詞はそのまま、オーギュストの考えでもある。 遺跡と呼ばれるならば、侵入者を惑わせ、捉えるしかけがあっても不思議ではない。 ここに踏み込んだ者たちが帰ってこられないというのなら尚更、不吉で不穏なモノを想定する。 なのに、攻撃的な側面がいまだに見つけられないでいる。 分かれ道があれば彼らは二手に分かれる。しかし、封鎖された道と突き当たりの壁を避けて廻れば、結局彼らは分かれた時と同じ場所に戻ってきてしまうのだ。 まるでただの回廊だ。 人喰い桜とは、その目にしたモノにのみ災いをもたらすのだろうか。 「ん?」 先頭を行くロディが不意に足を止めた。 トラベルギアである黒塗りに金の装飾を施した拳銃型のソレは、彼が構えることでどこか呪具的な印象を見る者に与える。 彼は警戒するように壁に背をつけ、途切れた通路の手前にぽっかりと開いた左右の穴のひとつをそろりと覗きこんだ。 「なに?」 問いながら、ロディへと身を寄せたオーギュストの耳に、そのとき、かろん…とかすかな音が届く。 「え……ロディくん、今なんか食べた?」 「手を塞ぐわけにはいかないからな」 「ふうん?」 タバコの匂いが沁みついているのに、キャンディの香りが漂ってくるアンバランスさと、表情を変えずにそんなことを告げる彼のその不可思議な感性になんとなく笑いたくなった。 「何か物音が聞こえたと思ったが気のせいのようだ。……行こう」 彼に促され、一行はかつて扉が嵌めこまれていたのだろう入り口から踏みこんでいく。 オーギュストは視線をぐるりと転じ、そうして崩れた壁の一角に手を伸ばした。 かつては美しい色だったのだろう、褪せた壁紙はどこか繊細な意匠を凝らされている。これらもやはり植物をモチーフとしているのか、細やかな刺繍が触れた指先に伝わる。 「なんだかザラザラしてる……土じゃないね。それに……模様が……」 言葉が途切れた。模様だけではない、壁を作る質感そのものが途中でざっくりと切り替わっているのを指先が捉える。 これは、何を意味するのか。 「やはり部屋なんだな。イスがあり、テーブルがあり、……これはキャビネットか」 ロディは己の宣言どおり、ひとつひとつの検分に移る。 おそらく大小二つでワンセットと思しき部屋が、壁で仕切られながら横に延々連なった場所だったのだろう。 しかし、 「……あの扉の連なり方ならば、ここで終わるはずがないんだが」 まるで本来続いているはずの部屋の存在を遮断するように、レンガ色の壁が視界を塞いでいる。瓦解によって埋められたというよりも、まったく異質なモノが嵌めこまれたかのようで、それはまるでキメラのようだ。 「おかしいね」 「ああ、空間を継ぎ接ぎしているかのようだ。ここがひとつの施設だと仮定するならば、これほどにちぐはぐであっていいはずがない」 ロディの言葉は、そのままオーギュストの感想でもある。 この建物にはいま何が起きているのか。 「アクラブさーん、そこのアレ、アレ取ってくれません?」 悔しいが頭ひとつ分ほどの身長差はいかんともしがたいらしく、トオルは遠慮なくヒトを使う気で頼みこむ。 「なんだ?」 「あれ、アレですー! あの何か赤っぽいのを」 かしかしと彼の指先はむなしく空を切る。 だがアクラブは何ら苦もなく手を伸ばし、トオルが望んで得られなかったモノをたやすく天井近くまで積み上げられた食器棚らしき瓦礫の上から掴みあげる。 「これは」 「あー」 トオルの掌に落としてやったソレに、アクラブは純然たる疑問が浮かぶ。 なぜこんなところに。 そう思わずにはいられない場所にその干からびた小さな魚はあったのだ。それには赤は赤でも、目印の紐ではなく布の切れ端めいたものが絡んでいた。 「なんで干物になっちゃったかな」 「生簀らしきものも見当たらん。どこからそれは来たんだ?」 「んー……水の引けた後の入れ物、水に一度沈んだ場所……? 壁紙の歪みもその一証拠になるかなぁ」 「本来のここの《呼び名》も知りたいところだ」 「あー、それについてなんですけどね、ちょっと思うとこ、が――っ!?」 部屋から扉へと足を向け、通路へと踏み出しかけたトオルの足元が、何の脈絡もなく唐突に崩れ、抜け、奈落の口を開けてきた。 あと一歩踏み込んでいれば、間違いなくその身体は階下へと転落していただろう、そのトオルの体を間一髪で捉え引き寄せたのはアクラブだった。 「あ、ありがとうございます」 「問題ない」 まだ心臓がバクバクすると言いたげに胸を押さえながら、トオルはそろりと床に開いた穴へと懐中電灯の明かりを投げ入れた。 「あー」 人工の細い明かりがまっすぐに落ち、階下にも褪せたボロ布が敷かれた通路と等間隔に並ぶ扉らしきものを見せる。 ミルフィーユの断面のように、同じ光景がずっと下まで続いていた。 「どうやら今我々がいる場所とほぼ同じ形態のようだが」 懐中電灯ではとても認識できない深い闇を照らすために、アクラブは自身の指先に生み出した炎をそっと穴の中へ落とした。 操る炎は形を変え、右に左に上に下にと視界を広げるように伸縮を繰り返しながら情景を浮かび上がらせる。 「あ」 しかし永遠に同じ光景が続くと思われた扉で埋め尽くされた階層の奥底に、ちらりと何かがきらめいた。 「進もうか」 水音に混じって、何か金属音らしきものが混ざってくる、ソレに追われるようにして、彼らは瓦礫によって生まれた近道を下る選択をした。 下へ下へ―― ひどく視界の開けたその場所は、かつては絢爛豪華なダンスパーティでも開いたのではないだろうか。 かつては豪奢だったのだろう巨大なシャンデリアは土くれの中に落ち、無残な姿になり果てて、今はもう干からびた藻と小魚が絡むばかりだが。 「人喰いかどうかはともかく、確かにここを喰らっている存在はあるらしいな」 顎髭を指先で撫でさすりながら、アクラブは目を眇め、頭上を仰ぐ。 「喰われているのは、この《遺跡》そのものって? なーんか、建物としての作りが無茶苦茶になりつつあるしー」 そんなトオルとアクラブのやり取りを耳に入れながら、オーギュストの視線はついっと上から下、そうして自分の足元へと移る。 「ん?」 大小さまざまな石や崩れた壁で決して足場がいいとは言えない床に落ちていたモノ――白手袋に包まれた指が摘み上げたのは、変色した木片だった。 しかもソレには確かに彫刻が施されている。繊細なそれはおそらく小さな花びらを模している。 「これは」 「アー、いいもの見っけたら自己申告お願いしますよー」 「やだな、トオルくん。期待するほどのものじゃないよ、たぶんね」 言いながら、思考はさらに進む。 この形は既に一度目にしている。ただし、ここではない。もっと上の階、はじめに自分たちが足を踏み入れた部屋でこれによく似た額縁の残骸を見たのだ。 「……紛れ込んできた?」 「その変色の仕方も、フツーに壊れたって感じじゃなさそうですよ」 トオルの台詞に、ちりり…っと、頭の片隅で何かが反応する。 散らばる証拠をかき集めて、組み上げていけば、あるひとつの仮説が生まれる。 「……あー」 「うん?」 「ノートにメール入ってました。あっちは全力で水浸し。水没した部屋まであったって」 エアメールを読み上げながら、次第にトオルの表情に複雑さが増していく。 「ん、んー……アレだ、なんかホントにアレだ」 「気づいた?」 「おかしーでしょ、コレは。おかしいって思ってもおかしくない感じでしょ」 「君が見ているものとぼくが見ているものは同じなのかな、どうかな?」 「答え合わせ、します?」 「死体消失トリック、ここに解決――とか言ってみようか」 ちらりと、あの赤いクマの世界司書の顔が浮かぶ。 「あの部屋に亡骸はなく、目印の赤い紐が千切れて、こうもあちらこちらでその断片を発見するということは、ですよー」 「壁の断層、崩れた壁、統一感のない調度品、時折聞こえる地響き……ソレも証拠になるとすれば」 互いの視線が交差する。 「「地殻、変動」」 オーギュストとトオル、二人の声が綺麗に重なった。 その声の反響を捉え、ロディは微かな笑みを口元に浮かべてホールを突っ切る形で奥の奥へと入り込んでいく。 「この奥に部屋らしきものがある……ここだけ妙に変色しているのも意味がありそうだな」 覗きこんだ部屋は、控室のようにも、別の棟へ続くようにも見える。 だが、より検分しようと壁についた手が触れたのは、あまりにも現在の自分の日常に限りなく馴染んでしまっているものだ。 遺跡という名を冠したモノには不釣り合い極まりない存在。 果たしてこれは機能しているのか。 パチン、と、指が壁についている突起を跳ね上げる。 一瞬のタイムラグ、そしてほんの刹那、チカチカと光が瞬いた。 瞬いて、ぱっと輝き、そうして、プツンと音を立てて沈黙してしまった。 「え? なになに? いま、なんか電気つきませんでした?」 「遺跡に電気、ね」 ふと、オーギュストの視界にこれまでとは明らかに長さの違う『赤い紐』の存在が引っ掛かった。 眼下に広がる闇色の光景と、きらめきながら落ちていくガラスや配線コードの断片を辿る。 無彩色の塊の中で浮く赤を追いかけた先にはあるのは、行き止まりの壁とひしゃげた扉、そしてその奥に続く空間だった。 「ここは縦に長いね。いやに人工的な匂いがするけど」 「この空洞はすべての層を貫いているのか」 アクラブが隣に立ち、覗きこむ。 朽ちて崩れたわけではなく、あらかじめ用途を以て貫かれたもののようだ。 中央にぶら下がった幾本もの極太ワイヤーもまた、初めからここにあるべくしてあるものだろう。 「これは一体」 「……エレベーター」 トオルの声はどこかポツリと浮いていた。 「え、なに、トオルくん? なんか今聞き慣れない単語を口にした?」 「……あー……なんか、あー……古代文明の遺跡探索ってゆうロマンから、ちょっといま全力で遠ざかってんですけどぉ」 トオルはどこか悔しげに呟く。 「人為的っちゃ人為的だけど、……アー、なんかここ、ホント……」 「言いたいことがあるならば明瞭かつ簡潔に述べるがいいだろう」 訝しげにして威圧的なアクラブの台詞に、トオルは思いきり眉をしかめ、それから深い溜息をついた。 そして―― 「どこまで分かってくれるか全然ですけど、古代文明ネタとかファンタジー世界で出てきたら一気に興醒めな単語ってあるし、というか、ミステリ世界でも本格ものだって言うなら別荘とか洋館とかせめてそういうシチュでお願いしたいし、ここはやっぱり宿とかそーいう単語のが通りがイイのかなーとか悩んじゃったり、でもできれば神様関係とかそういう感じのが付け入る隙が欲しかったりしないかなーとか考えちゃいますけど……“遺跡が高級ホテル”ってオチはどうかと思いません?」 「……トオルくんはソレが残念なんだ?」 くつりと笑みをこぼす。 「なので、このガッカリ感をあいつにも教えてあげよーと思います」 真顔でそう返し、トオルはトラベラーズノートを掲げた。 「でも残念がる必要なんてないよ。ここが宿泊を目的とした建築物だって言うのは分かった。でも、それじゃあ、『桜』っていうのは一体何だと思う?」 謎はまだすべて解けていない。 説くべき謎も、やるべきことも、まだ終わっていない。自分たちは今、赤い道標を辿ってもいるのだから。 「いま、なんか赤いのが見えなかった?」 ふとオーギュストが告げたそのタイミングで、がごん…っと大きく建物が揺れた。 「あーっ!?」 「入口を塞がれたな」 「そんな冷静に言うのやめてくれますー!?」 ロディの言葉に思わずトオルがつっこむ。だが事実は変えようがない。たった今起きた崩壊で、このエレベーターホールに自分たちは隔離されてしまったのだ。 後戻りもできなければ、他の道を探す余裕もない。 「仕方がないだろう。行くぞ」 「え、アクラブさん、まさかこっから飛び降りるとか言います?」 「飛び降りろとは言わん。だが、降りるしかなかろう」 地響きがまたしてもどこからか聞こえてくる。遠すぎるけれど、危機感を煽る程度には身近な音だ。 「あの赤が我々を導いてくれるかもな」 「そうそう、ロディくんの言うとおり。導きのままに進もうよ。まあ、あんまり体力勝負で来られても困るんだけど」 アクラブは躊躇いなく、ロディも何ら問題なく、そうしてオーギュストまでが慣れたようにワイヤーを頼りに炎で照らされた筒の中を降りはじめた。 「ヘンゼルとグレーテルみたいだねー……なんて言って、このネタ理解してくれる人、だっれもいないんですけどー」 ツッコミ不在の呟きを無意味にこぼし、トオルは渋々仕込んでいたロープを取り出した。 トラベルギアの《印》を仕込んだロープを極太ワイヤーへ括りつけ、己の意志のままに動くロープへと仕立てあげてから、一度たりとも挑戦したことのないリベリング降下を試みる。 赤の導きと共に、きらめく場所へ向けて下へ下へ下へ―― どこまでもどこまでも、気が遠くなるほどに続く長い筒状の空洞は、ぐしゃりとひしゃげて引っ掛かった鋼鉄の巨大な匣に阻まれたところで終わった。 「そこの横穴から出られるようだ」 「思いのほか長くはなかったな」 「ねえ、これがいわゆる“フロント”階だったりするのかな?」 アクラブに続き、ロディ、オーギュストがなんなく降り立ち、最後にようやくトオルが縦穴から広場へとふらつきながら這い出てきた。 そこはこれまで見てきたどの部屋よりも広く、どこよりも硬質であり、そしてどこよりも荒れ果て無残な姿を晒していた。 だが、ここは奇妙に明るい。 ロウソクだのアルコールランプだの、そういったモノよりもはるかに無機質で緻密な構成を必要とする人工の明かりが辺り一帯で明滅を繰り返している。 「見取り図まであるのか」 光を反射する金属プレートをエレベーター脇の壁に認め、視線を巡らせたアクラブは、周囲を取り囲み迫り出した鉄柵らしきものを発見した。 「……これは」 誘われるままに歩み寄り、柵に手を掛け、身を乗り出し、目を凝らすと同時に溜息にも似た重い息を吐く。 ここに植物はない。 樹木の根などどこにもなく、ただ、この建物のカラクリを支える巨大なケーブルのネットワークが複雑に張り巡らされているのだと思い知る。 ギシギシと軋む金属音が先ほどから断続的に自分たちの耳に届く薄闇の中、建物の下から上を貫き、ソレは――ガラスのような透明感のある筒の中を走るケーブルは、吹き抜けのラウンジを飾り、支え、まるで巨大な樹木の根のように天井をあまねく這い埋め尽くす。 おぞましいほどに支配的な存在感。 そして。 「ようやく見つけられたんだな」 ロディの問いに、頷く。 そこに、探している存在がいた。 消えたはずの、赤い紐をその身に絡めた死者――船乗りらに託された仲間の死体が、まるでゆりかごか、あるいは半透明の繭とでもいうべきモノの中に取り込まれていた。 手を伸ばしたところで届かない、何かを伝って辿り着くことも困難な、崩壊間際の装飾するガラス状の《樹の根》に、死者はその身を抱かれている。 「確かに、喰われているのだろうな」 アクラブはそっと静かに黙祷を捧げる。 自身がかつて生きてきた世界――戦場であれば、生き抜くことこそが至難の業。その亡骸を家族のもとへと還すことすらままならないのが日常だった。 けれどここは戦場ではなく、まして彼らは戦い挑む兵士でもない。 「せめてその亡骸を連れ帰ってほしいという……その願いは聞き届けてやれそうだ」 苦心はしても、約束は果たせる。 「柩ですか……」 トオルが微かに眉をひそめる。 ヒトの死への苦々しさと、それでも死者に慣れてしまっている自分への嫌悪が滲んでいるかのようだ。 「彼らの言う仲間の亡骸の、そのカケラでも持ち帰るといったぼくらの約束は、果たすことができそうだね」 「でも、どーやってあそこまで辿りつけばいいかって話ですよ」 鉄柵は階下へ降りる階段の手すりとしても機能する。一段、また一段と降りてはみても、あの棺には届かない。 キラキラと散る火花。 チカチカと瞬く人工の光。 明滅する光、跳ねる火花、砕けるガラス片、それらが落ちていく先にあるのは水面だ。 鉄柵から身を乗り出し、ぽっかりと口を開いたその眼下を覗きこむ。 「あ」 それ自体が薄ぼんやりと発光しているかのような、長い年月をかけて浸食してきたのだろう海水によって育まれた建物の最下層に広がる薄紅色。 水鏡に映る、幻想の色。 遺跡と名付けられた機械仕掛けの『建物』に、亡骸を抱いた装飾ケーブルを見上げる珊瑚礁が群れを為し、淡く輝く。 その事実を手に入れた途端、四人は揃って目を瞠った。 「桜という花を知る世界のものは皆、ソレをひどく愛しているように思えたが、なるほど」 アクラブは感慨深げにその光景を見つめる。 水面が揺れ、崩壊の呻きをあげる中で観たのは――夢幻の桜の巨木。 逆さ桜。 天井を這うケーブルの根を枝に変え、薄紅色のサンゴ礁を花弁に変えて、水鏡は虚構の桜を映し出す。 例えあのチェンバーで見た植物としての桜でなくとも、その形、その存在感は、確かに見る者の心を捉える。 「……地殻変動のせいでここまで辿りつける人なんかまずほとんどいなかったってことかな」 「うっかり踏み込めば崩壊に巻き込まれちゃいますし?」 「例え辿りつけたとしても、コレを桜として持ち帰るわけにもいかないだろうが……」 それぞれがそれぞれの想いを口に出し、そして、 「では、約束を果たしに行こう」 海に沈んだホテルが抱く偽りの『桜』をその目に焼き付け終えたのか、ロディが宣言と共に軽やかに地を蹴った。 「へ、え?」 「え」 「それは」 驚嘆の声をあげた彼らの視界に広がるのは、純白の美しい翼だった。 特殊な加護を受けた天上の美ともいうべき天使の翼を背に、ロディは空を舞い、あまねくケーブルを飛び越え、すり抜け、幻惑の棺へとその手を伸ばす。 偽りの樹に捕われ、赤い紐に絡まり眠る死者が、純白の光輝く天使へと迎えられる光景は、まるで宗教画のように厳かでもある。 だが、暴かれた《幻想》は脆い。 絡まり入り組み互いを支え合う根の一部を断ち切り、ロディが死者をその腕に収めた途端、 かしゃん。 響くのは、微かな電子音。あるいは作動音。もしくは―― ガシャン。ガコン。ガタン。ゴ、ゴ、ゴ……っ 足場が崩れていく。 硬質な、甲高い音。 連続する水音、重たい落下音、震動、破壊、崩壊の音がする。 「惑うな、上を目指せ!」 アクラブの指先が空を薙いだ。 飛び散る火花は彼の支配下に落ちる。 死者を弔うために、死者が弔いを受けられるように、死者を抱く天使と、共にここまで迎えに来た探偵たちとを守りながら、アクラブは上を目指す。 ブルーインブルーという世界にはあるまじき世界観で持って構築され、地に沈んだ高級ホテル――神殿でもなければ、王宮でもなく、神聖さの代わりに贅沢な美を極めた芸術作品が海の底へと沈んでいくなかで。 上へ上へ上へ―― 彼らはひらすらに上を目指し、走り、飛び、駆け抜け、護り。 壊れ、崩れ、終わりゆく《幻想世界》からの帰還を果たした。 * 逆さ桜を抱く廃墟。 土に埋もれ、水に沈み、ありうるはずのない技術で持って構築された機械仕掛けの高級ホテル。 地上に舞い戻った彼らが得た《人喰い桜》の真実は奇譚卿の知るところとなる。 しかし、その真相ゆえに別の騒動を呼び寄せ、居合わせた四人は揃って巻き込まれるはめとなるのだが、ソレはまた別のお話。 END
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