船は孤島であり、牢獄だ。海上にあるうちは外に出ることすらかなわない。 茫洋たる海と空に挟まれ、船乗りは単調な生活を繰り返す。彼らは飢えている。些細な娯楽にすら飛びつき、必死に退屈を紛らわそうとする。 その方法のひとつが怪談であるという。『ジャンクヘヴン海軍から幽霊船の噂を聞いた』 男の声が邸じゅうを駆け抜ける。邸内に張り巡らされた伝声管から、声ばかりが響いている。『実に血が騒ぐ。昔のように怪談集を編纂したいところだが、この体では海に出ることもかなわぬ』 豪商アレン・アーク。かつては自ら船で各地を巡りながら商いをしていたが、脚を悪くして現役を退いた。現在は商売で築き上げた莫大な富を元に小さな海上都市を領有し、領主として暮らしている――と言われている。 彼の姿を見た者はいない。そう、邸の使用人たちでさえも。『そこでだ。ひとつ頼まれてはくれぬか?』 奇譚卿。それが彼の二つ名だ。 ジャンクヘヴン近海にデルタ海域と呼ばれる場所がある。小さな浮島が、海を巨大なデルタ(Δ)型に囲い込むように点在している。潮は島にぶつかりながら三角形の海に流れ込み、複雑怪奇な動きで船を翻弄する。奇譚卿は、遭難と奇怪な噂に事欠かぬこの海域を怪談集の舞台に選んだ。「というわけで、デルタ海域に行ってほしい。奇譚卿は怪談好きで有名だが、ジャンクヘヴンを盟主とする海上都市連合の一員でもある。治安のためにジャンクヘヴン海軍に多額の出資をしていて、同市に対して発言力を持ってる……という噂だ。正体不明の人物だが、金は実際に動いてるから卿が実在してることだけは間違いない。つまり」 ロストナンバー達の前で、シド・ビスタークは愉快そうに喉を鳴らす。「ジャンクヘヴンとしてはこの酔狂な試みに協力せざるを得ないってわけだ。手筈は整えてあるから、よろしく頼む」 ――そこには、人喰いの巨大な《桜》が存在している。 シドからの説明を聞き終えてふと視線をめぐらせると、真っ赤なクマのぬいぐるみこと世界司書、ヴァン・A・ルルーが、《導きの書》に手を添えて難しい表情を浮かべていた。 どうしたのかと思わず声を掛けてみれば、彼は微かに首を傾げてこちらを見上げてきた。「怪談収集のお話はすでに?」 こくりと頷きを返しつつも、それとルルーの表情が結び付かない事を不思議に思う。 タキシードを着たクマは憂い顔なのだ。 怪談収集といった行為そのものは多少胡散臭くもあるが、有り余る好奇心を満たし、その物語の裏側にある現象や元となった歴史や逸話に想いを馳せて楽しめるもののはず。 なのに、彼はまるで楽しそうではない。「桜が、咲いているんだそうです。そこで、ヒトが消えています」 桜が咲いている、ただそれだけならば本来何ら問題はない。 しかし、ことブルーインブルーという世界では、そこに別の意味が生まれる。 貴重かつ稀少な植物は、植物であるというただ一点においてのみで充分商売になりうるのだ。 商売になるから、ヒトが群がる。 しかし、噂の《桜》を求めて遺跡へ向かった商人は帰ってこない。 帰ってこないから、《人喰いの桜》とあだ名される。 そのうえ――「……導きの書は悲劇の訪れを示唆しています。ヒトの死を、惨劇を、いずれ訪れる未来として告げています。すでに何らかの悲劇は起きているのかもしれませんが」 世界司書が告げるのは、ありきたりな怪談話では収まらない何かを予感させる台詞だった。 帰ってこない人間たちは、果たしてどこに行ってしまったのか。 そして、悲劇とは何をさしているのか。 明確な答えはいまだ用意されていない。 けれど、関わらずにいれば未来は確定されてしまうだろう。「幻の桜、人喰いの業を背負った『怪談話』のその真相とは、果たして何であるのか……いかがでしょう? この謎、解いてみませんか?」 目指すは小さな島が集まったデルタ海域。 ゆらゆらと穏やかな航海を進めていた船から目的の島が見えた途端、船にぶつかる波が大きくなりだした。船はぐらぐらと揺れ、ざぱんざぱんと波がぶつかり、跳ねる。「本当に花があるかどうか、なんて誰も知らないさ。そのサクラって名前だって、誰がつけたのかもわかりゃしない」 船乗りの一人がそう忌々しそうに呟けば、他の船乗り達もぼつぼつと言葉を繋ぎ、語り出す。「例え噂が噂を呼んでいるだけだとしても、それでも確かめずにはいられないってのを理解してもらいたい」「誰もが眉唾もんだって解ってる。わかってるんだが確かめに向かう人が帰ってこない事が、本当にあるんじゃないかって、そう思っちまうんだよ」「海賊に襲撃されたってヤツらもひとりやふたりじゃない。……オレたちだってそうだ」「せめてあいつの亡骸を取り戻してもらいたいんだ」「頼むよ……目印はつけてある。壁や通路に結んだ赤い紐を辿れば行ける」 桜の謎を追うついでで構わないから……と。ヴァン・A・ルルーの言う悲劇はこの事なのだろうか。行き帰りの船代がわりに《依頼》がひとつ託された。 島へと上陸した君たちは話に聞いた通り道を行く。砂浜から少し奥へ、小さな川沿いに川上へと進み、岩壁に小さな洞窟を見つける。船乗り達の言う遺跡の入り口にはしっかりと真っ赤な紐が括られていた。 紐を手繰り、つるつると滑る岩肌を――先程の小川の水がどこからか染み込んでいるらしい――ゆっくりと降りていく。先程の小川の水がどこからか染み込んでいるらしい。 とん、先頭の人物が地面に降り立った音がする。降りてきた岩肌とは違い、人の手が加えられた地面は少し斜めになっており、所々削れたり穴が空いたりしているが歩くのに支障はない。比較的綺麗な道路、といったところだろうか。 平らな地面の先に、一つの穴がまたある。頭上から伸びた赤い紐は真っ直ぐにその穴へと進んでおり、のぞき込むと階段が下へ、下へと続いてた。 遺跡。ジャンクヘヴンの人々がそう呼ぶ、過去の遺産は、いつかの時代に、誰かが作ったものだ。なら、その先にある物も、誰かが作った物に違いない。赤い紐が消える暗闇に向かうべく、階段を進んだ。 ――ぴしゃん。 水音が、足元から跳ねて虚ろに響く。自分たち以外にも無数の足跡が残る場所に踏み込んで、依頼人の言うとおりに赤い紐を括られた道を壁伝いに歩く。 歩く、歩く、歩く。 けれど、そこには何もない。 いや、教えられたとおりの道を進んできたはずなのに、目印になるはずの赤い紐は途絶え、消え、ただ、無数の足跡と、何か不自然な破壊が起こった痕跡だけが残されていた。 遺跡、と彼らは呼ぶ。 砕けたシャンデリアの破片が散らばる場所を。 無体な崩壊を起こしかけているこの場所を。 水に浸食されたこの場所を。 かつて白かったのだろう壁は無残に崩れ、かつて緋色であったのだろう絨毯らしきものは襤褸切れと化し、かつてイスやテーブルであったのだろう飾り彫りの為された家具たちの断片が転がる場所を。 遺跡と彼らは呼び、ここにあるはずのない《桜》があるのだと言った。 そしてここに、海賊に殺された《仲間の遺体》があるのだと、確かに言った。 しかし。 あるはずの死体がない。 いるはずの被害者がいない。 さらにいうならば、ここで人が殺されたそもそもの証拠を探すこと自体が困難に思われた。 ざわりと肌を泡立たせるこの奇怪な現象もまた、《桜》にまつわる《怪談》なのだろうか。 それとも、超自然的な現象たり得ない、もっと別の、言うならば作為的な原因によるものなのか。 ひとつひとつを検分すべく視線を移していけば、あちらこちらに亀裂の入った石段がかろうじて下へ降りる道を示していた。 その道は、よく目を凝らせば奥で左右二手に分かれてもいるようだ。 一瞬、赤い何かが、向こうでちらりと光に反射した。 『この謎を、解いてみませんか』 ヴァン・A・ルルーの言葉がよみがえる。 よみがえったその言葉を口の中で反芻し、そして頷く。 解いてみせよう。 消えた死者の先、地面に転々と描かれた赤は、誰かの鮮血か細切れの赤い紐か。 赤の先に待つのは、桜か、海賊か。それとも……
「あれ? またシャンデリア? 戻ってきた?」 「あれー?」 紡と黒燐は首を傾げてそう言うと顔を見合わせ揃って後ろを振り返った。階段代わりに使った瓦礫の上でハクアと鰍が辺りを見渡している。 「いや、ハクアの印もないから初めてくる場所だな」 「じゃぁ、また探検だな!」 「たんけんなのー!」 遠くには行くなよ~と鰍が声を掛ければ、紡と黒燐が楽しそうに返事を返し先へと進んで行く。 デルタ海域にて《人喰いの桜》の真偽を確かめよ。 簡単に言えば花を見つけてこいという依頼なのだが、場所がここ、ブルーインブルーとなると大事になる。ここでは、花が大変貴重なのだ。しかも《サクラ》があるのは帰らぬ人が多くいる遺跡の奥であり、海賊もいるという、いわゆる宝探しにぴったりなシチュエーションだ。 ハクア達四人は極力先に進み、《サクラ》を見つける事を優先している。他にも同じ船で来た四人がいるが、彼らは船員に頼まれた依頼を優先させ《消えた死体》を探しながら下に降りてくる手筈になっている。話に聞いていたより崩壊の進んでいる遺跡に長居するのは危険だと判断し、チームを二つに別けたのだ。 出入り口からは一本道だった。死体があった筈の場所を起点に、上と下から探索しあえば必ず、どちらかが目的の物を見つける筈だ。サクラと死体の他に、海賊という面倒な人達も見つけるかもしれないが。 瓦礫から降りたハクアは歩きながら手近な壁に赤いチョークを走らせるが、こっ、と僅かに引っかかる感じが指に伝わりふいに足を止める。ハクアは目印の赤い紐とは別に持参したチョークで目印を付けてきた。 「どうした?」 印を付けた壁を撫でていたハクアに鰍が声を掛ける。このチームのリーダーは鰍だ。本人が主張したわけでも、誰かがそうだと言ったわけではない。ただ単に知り合いが多かっただけだ。黒燐とは一度依頼を共にしており、紡とはファッションショウで知り合って以来、かじにぃと愛称で呼ばれている。別チームにも友人がおり、今も定期的にトラベラーズノートで連絡を取り合っている。 「壁の感触が違うんだ。それにうっすらとだが亀裂が入っている……」 ハクアがそう言うと、鰍も同じように壁に手を這わせる。海藻や苔が生え傍目には解らないが、指先には確かに亀裂の感触が伝わる。 「亀裂を挟んで、左右で壁が違うのか」 鰍がそう呟くと亀裂を上から下まで調べ、ハクアは今降りてきた瓦礫を戻り、上の階層を見に行った。 近くに転がっている手頃な瓦礫を壁に擦りつけ、海藻や藻をどけると壁に一筋の線が現れ、廊下に段差ができている。 「上にも亀裂が走っていた」 「あぁ、気がついて良かったぜ」 鰍がノートにペンを走らせると、ハクアは探索を開始する。 元々、道標としてあったはずの赤い紐は、最初の分かれ道で既に途切れていた。船乗り達の紐は、簡単には切れない様になっている。長い航海に耐え、人も荷物も船から落ちないよう、ナイフで切るのも一苦労な強度を持っている筈だ。それが、とても強力な力に引き千切られた様な紐が、本来の場所とは全く別の場所で見つかっている。床は勿論、道のど真ん中から壁や腐った家具、崩落した天井から垂れ下がり藻が生えているのもあった。 下の階層に降りれば降りる程海藻や藻の群生は増え続けている。内部の状態からいって長い間海水に浸かっていたのは間違いなく、ハクア達が居る場所は確実に海中の筈だ。無数にあった足跡も現れたり消えたりしている事から、この遺跡は海辺のように、満潮と干潮が行われていると推測される。今はなんらかの原因で海水が無くなっているようだが、いつまた海水が戻ってくるのかわからない。 更に言うなれば、この遺跡は何処も彼処も同じ作りなのだ。コレといった特徴のない通路に、壊れてはいるが同じシャンデリアが並び、等間隔に扉の跡が並ぶ、海藻だらけの空間。ハクア達ロストナンバーならまだしも、ブルーインブルーの住人がこの建物に迷い込んだら、どこまでいっても同じ場所だと勘違いし、迷っても仕方がない。細かい違いや赤い紐の痕跡が無ければ彼らも、迷っていたかもしれない。それくらい、同じ景色が続くのだ。 「よし、探すか」 ノートを仕舞った鰍がそう言い、ハクアと同じように辺りを探し始める。 彼らが探すのは《赤い紐》とその痕跡。 その近くに、下へと続く道は、ある。 紡がふぅ、と持っていた折り紙に息を吹きかけると、紙でできた蝋燭が本物のように赤く輝きだした。瓦礫の上に目印として折り紙で作った蝋燭を置き、黒燐にも灯りとして一つ手渡す。折り紙でできた蝋燭は本物と同じく灯りを照らすが、本物の様に風が吹いても消えないし、持っていても蝋が垂れて熱くなる事はない。とても安全な灯りだ。 黒燐が「ありがとうなのー」と礼を言い、足音を立てずに走り回る。この暗闇で黒い衣装を纏う小さな黒燐を見失ったら、大変だ。紡は探索をする最中も黒燐の姿を確認するよう、気をつけて行動している。 「とと、早いところ確認しないとな。黒燐! 俺部屋探してくるからな~!」 遠くからわかった~という可愛らしい返事がする。 「よし。一つ、二つ」 扉を指さし確認で数を数えながら歩き、十まで数えると足を止め、扉の無い壁を指差す。ゆらゆらと指先を動かし、辺りを探す。 「あったあった」 紡の指が指し示す先には、何かの跡が残っていた。例えるならば、日に焼けた壁紙に残った額縁の跡だろうか。そこに、何かが付いていた形跡が残っている。紡はその痕跡を背にして立ち、また指さし確認で扉を数え出す。 「えーと、1、2、あれか」 壁の印から三つ目の扉。紡は今までの階でも同じようにこの部屋を確認している。傾いた扉の隙間から中に入ると、いままでと同じ部屋があった。壊れた椅子とキーボードを思わせる土台、壁に並ぶ画面のような物。おそらく機械室か管理室なのだろうその部屋には、やはり、《彼》がいる。 最初にこの部屋に入った時は、この部屋が何かわからず、機械を操作し続ける《彼》の仕草をまねて、スイッチを押した。その結果、機械が急に動き出して音が鳴ったり電気がついたりとしてしまい、うかつにスイッチを押すなと鰍に注意されたのだ。 最初の部屋と違い、天井まで海水に使っていただろうこの部屋の機械が動くとは思わないが、また機械に触るつもりはない。紡はただ、機械のある場所の確認と、《彼》に会いに来たのだ。 「ん~、やっぱり聞こえてないか。残念だ」 他の部屋と同じく《彼》は壊れた椅子に座り画面を見ている……ように見える。 生まれつき霊感の強い紡は昔から幽霊の手助けをしている。彼が言うには「自分ならアイツらの言いたい事がなんとなくわかる。なら、助けてやりたいじゃん?」という事らしい。 残念ながら、《彼》の存在はとても古いらしく、相手の声もこちらの声も届かない。 この部屋の《彼》の他にも通路をうろうろしている《彼》や部屋のベッドではね回る《子供》通路の端から端までの部屋を出たり入ったりして移動している《彼女》も見かけた。紡の経験上、彼らはこの場に囚われているというより、この建物の記憶かもしれないのが、それでも、紡はこうやって会いに来る。ダメだったのなら、またな、と声を掛けて部屋を後にする。もしかしたら、会話や意思疎通の可能な《彼》がいるかもしれないからだ。 目印にした蝋燭まで戻り黒燐の姿を確認するが、見あたらない。改めて辺りを見渡すと、廊下の向こうから蝋燭の明かりが漏れており、紡は角からひょいと顔をだす。 瓦礫のそばには紡の折り紙蝋燭が置かれている。そのすぐ隣、小さな穴に潜る黒燐の姿が見えた。 危ないぞ そう紡が言おうとした時には、黒燐の姿がふっと消えた。 ぽちょん そんな小さな音がして、紡は慌てて穴を覗く。 「え、黒燐!? おい! 落ちた!?」 地面に手も膝も付け、身体を屈めて穴を覗くが向こう側は見えない。穴の中に手を伸ばしても床を触るだけだ。紡は無意識に息を殺し、耳を澄ませた。 何の音も聞こえない。水に落ちたのであれば、息を吐いた空気の音が聞こえる筈なのに。 さ、と血の気が退いた紡は立ち上がると折り紙で作った斧を取り出し、息を吹きかけようとし、止まった。崩壊しやすいこの場所でどっかんどっかんやったら、どうなるかわからない。それに、もし黒燐にあたったら大変だ。 「え、と、連絡、連絡! ととと、の前に目印もう一個!」 折り紙に息を吹きかけ、転々と蝋燭の目印を置きながら紡は急ぎハクアと鰍の元へと向かった。 ふわふわ ゆらゆら 今までの景色が嘘のように、そこの水は綺麗だった。どこまでも透き通り、どこまでも見渡せる。 黒燐は静かな水の流れに身を任せている。何時も顔を隠している布が浮かび幼い顔が露わになっている。金色の瞳はまっすぐ前だけを見ているが、身体が勝手に回るのでいろんな景色が見えた。真っ白な壁と、きらきらと揺れる海藻や珊瑚、のそりと動く貝殻やふいと通り過ぎる鮮やかな魚達。魚の群れを目で追うと眼下には海底が広がり、大きな窓が見えた。 黒燐はそこが水中だと忘れさせる様なゆったりとした動きでとん、と砂浜に降り立つ。海底、というのも可笑しいだろうか。ここの水は水温も塩分も管理されている、人工的な海水だ。 黒燐がいるのは巨大な水槽の中だ。見上げるほど大きなガラス窓の向こうでは、かつて多くの人々がこの中を眺めていたのだろう。その向こうには今までとおなじ、海藻に溢れた部屋がある。だが、今の黒燐には違う風景が見えていた。 柔らかなパステルカラーの部屋にたくさんの子供の声が響いている。笑い声と、鳴き声、楽しくて楽しくてしょうがない叫び。小さい子供が沢山集まっていたらしい。 いままで探索した場所の水は、遺跡中で使われていたいろんな水に海水や小川の水が、混ざり合い、どれも記憶が曖昧だった。だが、ここは違う。生まれては死に、また生まれ行く魚や珊瑚、ガラスの向こうの、朽ちてゆく部屋と、動く海水。動きが鈍くなりついには動かなくなる機械。見える記憶を手繰り寄せるように黒燐は辺りを眺める。 ゆらゆらと水中にゆれる光の線の根本に、別の光を見つけた黒燐は、ふわりと飛ぶようにその正体を確かめにいった。一見して貝の一種に見えるソレをおそるおそるつつく。噛みつくどころか、動きもしないそれを手に持ってみると、貝殻そのものが透明に光って見えた。貝殻越しに向こう側を見るとうにょうにょと歪み、面白い。 貝殻越しに辺りを見上げていると、上の方から黒燐を呼んでいるような声がする。 ふわふわ ゆらゆら 黒燐は袖口に貝殻を入れると軽く跳ぶ。砂がふわりと浮かび、水中に線を残して泳ぎ出した。 黒燐が水面から顔を出すと、安堵の溜め息が聞こえた。もう少し黒燐が帰ってくるのが遅かったら紡は助けに行こうと潜水するつもりだったらしい。 「ごめんなのー」 黒燐が申し訳なさそうに言うと紡はにかっと笑う。 「無事なら良いんだ」 紡が頭をなで回すと、黒燐はきゃーと楽しそうな声を上げる。きゃっきゃとじゃれ合う二人を困ったような笑顔で見ていた鰍は、黒燐の袖口から落ちた貝殻を目で追った。その貝殻を見たとたん鰍の、そしてハクアの動きが止る。 虹色の貝殻。 それはファッションショウにも使われ、あの幽霊船が求めているらしい、上質のオイルがとれる貝殻だった。 ぴちょん、ぴちょんと短い間隔で水滴の落ちる音がする中を鰍達は言葉少なに下へと向かう。ひたすら、下へ。無理もない。辺りには瓦礫も朽ちた家具も、何もない。がらんどうの穴と、瓦礫で出来た山だ。それも海藻や藻が生い茂り、ぬるぬるとしている。足場も悪いが、手をついても掴める場所は海藻だ。いざという時に意味があるかどうかも解らない。 先頭を行くのは鰍だ。彼のトラベルギア真鍮のウォレットチェーンは長さ、太さ共に伸縮自在だ。彼のセクタン、ホリさんは今回もフォックスフォームなので、灯りにも困らない。他の人達が降りやすいよう、また、帰り道の為にと新しくロープを垂らしながら、平らな足場へと降り立つ。 辺りの強度を確認し、ロープを引っ張って上で待つ人に合図を送ると、紡が降りてくる。足場が不安定な場合、彼の折り紙で補強する為だ。次いで黒燐が降り、最後にハクアが降りてくる。万が一、海賊が現れた場合を考え、全員で行動するようにしたのだ。 一つ一つの階層が大きいせいか、あれからどれだけの階層を降りたのか、正確な事は解らなくなっている。鰍のノートによれば、向こうのチームは「全ての階層を貫く謎の空洞」があったという。調べたところ、同じような物は確かに存在したのだが、残念な事にこちらの空洞は水没しているか、不思議な生物が巣くっているかでとても通れた物ではなかった。 ふぅ、と紡が息を漏らす。足場の為に必要な折り紙を考え、折っては息を吹きかけた彼は、皆より疲労が大きいのだろう。皆ここまで動きっぱなしだったのもあり、少し休もうかと、鰍が言った直後、ごん、と頭を叩かれたような揺れを感じた。驚きの声を掻き消すように、遅れて崩壊する音が響き渡る。口が動き、誰もが何かを叫んでいるが崩壊する音が大きすぎて何を言っているのかは、伝わらない。だが、やることは皆同じだった。 黒燐はトラベルギアを使い、落ちてくる大岩を砕いた。致命傷にならない程度まで砕きたいが、次から次へと落ちてくる岩にはそうも言っていられない。それに、適度な大きさまで小さくすれば、他の仲間が何とかしてくれるとも、知っている。 紡は前もって用意しておいた楯の折り紙をとりだし、息を吹きかける。紙製の楯は本物と同様の強度を誇るが、少しサイズが小さい為、複数用意しておいた。その楯を結ぶように鰍のトラベルギアが絡みつく。ウォレットチェーンは張り巡らせた面に結界を設置する事が出来る。これで楯は彼らのは壁となり、強度も十分だ。 ぐら、と足場が揺れ、ゆっくりと落ちていく。足場には、ハクアの血で描かれた魔法陣がほんのりと輝いていた。 揺れと崩壊の音が消え、四人の乗る足場が安定できる場所に下ろされた。ごと、と瓦礫同士がぶつかり合う音がし、静寂が訪れた事でやっと、彼らは安堵の溜め息を付いた。 「今度こそ、少し休もうぜ」 紡はそう言うと地面に座り込むが、ハクアは頭上を見上げて言う。 「これ以上先に進むべきかどうか、判断しかねるな」 「確かに、な。海賊もサクラも死体も見あたらない。このままじゃ俺たちまで帰れなくなっちまう」 鰍がポケットから幾つもの小さなガラスの欠片を取り出し、指先で転がすように床へ並ばせるとハクアはまた視線を頭上へと戻す。最初に見つけたガラスの欠片はシャンデリアの残骸に混ざっていた物だ。赤い紐の残骸と同様に、その場には不釣り合いな物だったソレは他の場所でも見つけられ、鰍が回収していた。 思い返せば、探索の最中に「遺跡っつーより壊れた屋敷じゃんなあー」と紡が呟いた時、泥水の下に隠されていた案内図を黒燐が見つけた事が、ここまで順調に進めた結果かもしれない。些細な変化はあったとしても案内図そのままの通路や部屋は存在し、こうしてここまで辿り着いたのだ。 多くの人が行き交った痕跡、鰍の回収した欠片、黒燐の手に入れた虹色の貝殻と《建物の記憶》は、ノートの情報と照らし合わせられ、一つの答えが導き出される。 虹色の貝殻は遺跡に残された機械の《燃料》であり、それを求めるのは《幽霊船》の海賊だ。 海賊に関する情報を手に入れた所で、改めて《サクラ》について考える。最初から存在しないのでは、とも考えたが、そもそも貴重な植物が、それも《サクラ》という明確な名前を持っている時点でその考えは消えた。発見者はそれが植物であり、《サクラ》という名前だとも知っていた。このブルーインブルーの世界で、壱番世界の桜を見たことのある人物――ロストナンバーがいたという事になる。その人物は世界図書館に所属していたのだろうか、それとも突然覚醒し、たった一人でこの世界に放り投げられたのだろうか。想像することしかできないが、その人はきっと《サクラ》について語ったはずだ。ならば、どのような形であれこの先に《サクラ》はある。 ――あるのだろうが、本物の植物でないだろう―― 海中に存在する事と、遺跡本来の用途からいって別の物がそう見えた、と考えるのが妥当だ。ハクアはもちろん、全員《サクラ》の正体も突き止めたいという気持ちだ。だがもう一度大きな崩壊が始まる前に脱出するべきだとも、気がついている。 「ねーー、あれ、なんだろう?」 足場の端から大きく開いた壁の穴へと身を乗り出し、覗き込む黒燐がそう言うと、鰍はハクアを見る。小さな黒燐はともかく、大人がバランスの悪い足場から身を乗り出しても大丈夫か、気になったらしい。ハクアは頷くと黒燐の傍に向かうので、鰍と紡もそれにならい、穴から外を覗き込む。 「う…わぁ。なんだこれ」 「まさか、これが《サクラ》か?」 そこには、とても大きく、不思議な物体が存在していた。彼らより高い位置にある天井、そこから筒状の物が様々な太さと細さで絡み合い伸びている。物質もガラスのような透明感の物や、金属の様な光沢を持った物まで、様々だ。見ようによっては風変わりなシャンデリアにも、巨木の根にも見えるそれは、天井付近こそ薄くキラキラと輝いているが、遠い地面に近づくにつれ徐々に色が付き、最先端の場所は汚く濁ったような色合いに見えた。 「ここまで来たんだ。とりあえず調べて行こうぜ」 皆は顔を見合わせ、頷くと下へと降りだした。 足下は海水が段々畑のようにまばらに存在し、魚が狭そうに泳いでいる。辺りにはピンク色の珊瑚や海藻が所狭しと生えており、どこからか流れてくる水の音や、雫の落ちる音が聞こえる。見上げると視界一杯に《サクラ》と思われる物体が広がった。 鰍は先程覗いた穴を見つけるとそのまま視線を天井から《サクラ》の根本へと動かした。今自分が居る場所を建物の一階、吹き抜けのエントランスフロアとする。覗いた穴は地上より天井に近いので三階と想定すると、だいたい五階くらいだろうか。それより更に上――フロアが食違ったりもあったが――から降りてきたのだから、想像以上に深い深い海の中だ。 そんな場所にある建物が内外から海水に浸食され、崩れている。先程のような崩壊はいつ起きても可笑しくない場所だ。そう再認識した鰍は天井の物体を調べるよりも先に、壁の前へと移動する。海藻に覆われた壁の前に立ち、このフロアの入り口が自分の真後ろに来るよう立ち位置を確認すると、迷わず海藻の中に手を突っ込む。 「……ビンゴ」 ギギと鈍い音を立て海藻の壁が開く。扉の先には最早見慣れた階段が赤い紐と共に上へと伸びている。 今まで通ってきた場所は全て左右対称に作られていた。空間、扉の位置、置いてある物、廊下や階段の位置も全てだ。更にトラベラーズノートの情報からいって、向こうのチームもそっくりな場所を移動している。始めに左右に別れた事から考えこの遺跡は、全てが左右対称に作られている。 「つまり、ここは中心」 鰍は改めて天井から伸びる物体を見据えた。 ピンク色の珊瑚礁を注意深く見ると人に踏みつぶされてうっすらと道ができている事に気がつく。場所によってははっきりと足跡があり、他にも誰かが訪れた形跡を残しているが、頭上にある物体について聞いたことが無いと言う。海賊か、先人か、という事だ。 色々と気になる点や考えたい事が多く、もう一つのチームから何か新しい情報でもないだろうか、と鰍がノートに手を伸ばすとキシ、と嫌な音が聞こえた。 さび付いた鍵穴のシリンダーを無理矢理動かした時のような、手に負えない状態の音にも似た音だ。同じく嫌な気配を気取ったのか、ハクアが辺りを見渡すと音が次第に大きくなり、次いで黒燐、紡も動きを止めて辺りを見上げる。 ゆら、と足下が揺れた。地震の用に縦横に感じる揺れとは違う。身体がふわと持ち上がった感覚の後ほんの僅か、一秒にも満たない浮遊間。 そして、身体が斜めに落ちていく。 足下の水溜りが海の様に波飛沫をあげ、中にいた魚たちが空を舞う。ぎしきし、みしと言う金属片の歪んだ音を掻き消すように揺れとは違う音が聞こえた。聞き慣れない轟音の発信源を探そうとせわしなく辺りを見渡す。天井や、壁の穴、階段の上。いろんな場所から水が流れ込んできた。「逃げるぞ! さっきのとはケタが違う!」 上から水が流れてくる階段を、四人は駆け上がる。途中、鉄砲水が上から現れ、紡は迫り来る水に背を向け、黒燐を庇い赤い紐を掴んだ。吹っ飛ばされるのを覚悟していた紡だが、水は太股の辺りまで増水しただけで、直ぐに足首まで水位は下がった。階段の上を見上げると、鰍が踊り場に鎖を張り巡らせ水を蒸発させたらしい。 「サンキュー! カジ兄ィ!」 「鰍さんも紡さんもありがとうなのー」 「おう、だがこのままじゃいつか溺れちまうぜ。ハクア! 広場から上の階まで移動できるか!」 鰍より先にいたハクアは膝上まで達している水の中を更に進み、壁に開いた穴から辺りを見渡す。異変に気がついてからの行動が早かった為、彼らは今二階と三階の間にいる。ハクアは更に穴から身を乗り出し、脱出できそうな道を探す。 ハクアの魔法には使用制限がある。水中でも空間でも、何処にでも応用の利く魔法が使えるハクアだが、その魔力の源が、彼の血液なのだ。身体に無理なく使える回数も限られており、こんな場所で自力で動けなくなるなど、足手まとい以外の何者でもない。 確実に脱出できる道を選ばねば、全滅だ。 「この先に穴がある。そこからならあの《サクラ》の上まで行ける」 「よし、一気に駆け抜けるか」 水位が上がり、歩けなくなった黒燐は紡が肩車している。いくら水中での呼吸が可能とはいえ、ここではぐれたら脱出するのも難しい。水の勢いもあり、水位も太股まで来ている階段を、鰍の鎖を命綱にして登るが少しでも立ち止まったら水に浚われて落ちてしまいそうだ。ざばざばと滝の麓にいるような音がする穴に手を掛け、ハクアは直ぐに浮遊の魔法陣を展開する。 空中にぼんやりと浮かぶ文字に乗り、頭上から落ちてくる水や瓦礫を避けて進む。 「あ、あそこ!」 黒燐が別チームのメンバーを見つけるが合流はまだ難しそうだ。無理に今合流せずとも大丈夫だろうと、ハクアの浮遊魔法陣は《サクラ》の根元へと向かう。 《サクラ》の上に降り立つとそこも水が流れていた。まだ穏やかと言える量だが、ここも直ぐ水没するだろう。少なくとも、海藻が生えていない場所までは急ぎ向かわないといけない。 向こうのチームは大丈夫だろうかと、誰か呟き、四人が振り返ると、そこには息を飲む程に美しい光景が広がっていた。 「《サクラ》だ……」 方々から降り注ぐ水の飛散は幾つもの虹を作り出し、それは彼らの足下にある《サクラ》へと掛かっているようだった。 その、根本。どす黒く濁り、汚らしい印象のあった最先端が広がる地面にはピンク色珊瑚礁が広がり、揺れる水面に映り合うそれは、まさしく、満開の櫻だ。 遺跡が崩壊し、海水に満たされる最中にしか見られない光景は美しく、噂通りの《人喰い桜》が水鏡に咲き誇っている。 その後、彼らは全員無事に脱出した。 《サクラ》を見つけ 《消えた死体》も持ち帰り 奇譚卿の求めた《真実》も見つけた 彼らがどう報告するのか。 それもまた、謎とすれば、新たな奇譚となろう。
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