船は孤島であり、牢獄だ。海上にあるうちは外に出ることすらかなわない。 茫洋たる海と空に挟まれ、船乗りは単調な生活を繰り返す。彼らは飢えている。些細な娯楽にすら飛びつき、必死に退屈を紛らわそうとする。 その方法のひとつが怪談であるという。『ジャンクヘヴン海軍から幽霊船の噂を聞いた』 男の声が邸じゅうを駆け抜ける。邸内に張り巡らされた伝声管から、声ばかりが響いている。『実に血が騒ぐ。昔のように怪談集を編纂したいところだが、この体では海に出ることもかなわぬ』 豪商アレン・アーク。かつては自ら船で各地を巡りながら商いをしていたが、脚を悪くして現役を退いた。現在は商売で築き上げた莫大な富を元に小さな海上都市を領有し、領主として暮らしている――と言われている。 彼の姿を見た者はいない。そう、邸の使用人たちでさえも。『そこでだ。ひとつ頼まれてはくれぬか?』 奇譚卿。それが彼の二つ名だ。 ジャンクヘヴン近海にデルタ海域と呼ばれる場所がある。小さな浮島が、海を巨大なデルタ(Δ)型に囲い込むように点在している。潮は島にぶつかりながら三角形の海に流れ込み、複雑怪奇な動きで船を翻弄する。奇譚卿は、遭難と奇怪な噂に事欠かぬこの海域を怪談集の舞台に選んだ。「というわけで、デルタ海域に行ってほしい。奇譚卿は怪談好きで有名だが、ジャンクヘヴンを盟主とする海上都市連合の一員でもある。治安のためにジャンクヘヴン海軍に多額の出資をしていて、同市に対して発言力を持ってる……という噂だ。正体不明の人物だが、金は実際に動いてるから卿が実在してることだけは間違いない。つまり」 ロストナンバー達の前で、シド・ビスタークは愉快そうに喉を鳴らす。「ジャンクヘヴンとしてはこの酔狂な試みに協力せざるを得ないってわけだ。手筈は整えてあるから、よろしく頼む」 *「暗い海で語られる怪談。ロマンだよね」 にこっと(見えているのは口元だけだが)微笑んで、金髪の司書……鹿取燎はそう告げた。「夏には怪談が付き物じゃない? それが海の上、船の中で語られるとなると一層雰囲気があるよね――じゃなかった。みんな、基本的な話はシドさんの方から聞いてきてくれたかな?」 それじゃあ、具体的な話を始めるね、と燎は言って簡単な地図を記した紙を広げた……と言っても、紙の上に三角形が描かれていて、適当な点に矢印が付いているだけのものだ。 それで……と意味ありげにふと沈黙してから、燎は続けた。「壱番世界の神話の、セイレーン、って聞いたことあるかな? 俺も聞いて初めて知ったんだけど、『警笛』つまりサイレンの語源になった言葉で、何でもセイレーン達は歌声で船乗りを惑わして沈める生き物なんだそうだ」 それで、歌声ではないのだけれど……と燎は続けた。「皆に調査してきてもらう予定の、この島。何でもここ数年になって新しく『とある噂』が立つようになったらしいんだ。――『島から奇妙ななき声のような音がする』ってね。まるで誘うみたいに、あるいは嘆くみたいに、その音は海に響くんだって。――遺跡でもない、海魔が住み着いている様子もない、岩と洞窟があるだけの小さな島なのに」 そしてデルタ海域は、難破船なども多く出す海域。……どこか彷彿とさせるでしょう? と燎は言って、地図をぺらりと振りながら続ける。「調査してきて、結局枯れ尾花、なんて可能性もあるけど、その時はまあ、秘密にしておけばいいかなってことらしい。あと、念のためこの島にディアスポラ現象で転移してしまったロストナンバーがいないかなども聞いて回ってみたけど、誰からもそう言う話は無かったから……」 もしかしたら、本物かもね。 ちらりと口元だけで微笑んで、燎はチケットをあなた方へ手渡した。「それでは、よろしくね。――旅人達に、祝福がありますように」 * お……ぉお……ぉん、おぉ……ん 獣の遠吠えにも似た音が、海へ響く。低く高く……細く太く。怨嗟の呪いのようにも、あるいは身を切るような切ない嘆きの声のようにも聞こえる。船乗りが一つの島を指さすと、口を開いた。「音はあの島から響いてるんだ。ある時から唐突に、聞こえるようになったらしい。……俺達の間では、いろんな噂が飛び交ってる」 この海で命を落とした女の幽霊が海への怨嗟を泣き叫んでいる、とか、だれも見たことのないような化け物があの島に棲んで、孤独に遠吠えしている、などだ。その噂を船員がぽつぽつ語るのを聞きつつ、貴方達はその島を見やった。海へ面した洞窟が端の方で口を開けている。――船乗りは、こちらを振り返った。「ここからは小舟で行ってくれ。この船じゃ入れないし……何より怪談は確かに好きだが、実際にご対面するのは、好きじゃないんでね」 ……どこか心の奥底まで触れてくるかのような低い音がまた、響いた。!注意!イベントシナリオ群『デルタ海域奇譚集』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『デルタ海域奇譚集』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
身を切るような音が、切なく響く。目指す島のある方向を見つめていた白燐が、ぴくりとその狐耳を動かした。興味深げにそのふさふさとした尾が揺れ、単眼模様の布が音と共にやってきた海風に揺れる。 「……海に浮かぶ島は、訪れた事が無いな」 どこか楽しみそうにそう呟き、彼は飽くことなく船の行く先を見つめる。 「あ、また……」 何気なく空を見上げて、仁科あかりはそう呟いた。唸るような、嘆くような音は途切れたと思えばまた、海の風と共に船へと訪れる。肩につかまったフォックスフォームのセクタン……モーリンも同じように鼻先を上げて見上げる仕草をする。 「うぉーぉん……」 また響いた音に合わせて、ふさふさが応えるように遠吠えをした。それは細く消えゆく音に重なるように響いて、夜の闇に溶ける。わぁふ、と彼はもふんと呟き、灰色の瞳を海の先へ向けた。昔、似たような事件があった事を思い出していたのだ。その時のセイレーンは海魔でしたっけ……。その姿に、白燐と並んで同じように響く音に耳を澄ましていたフォッカーが気付いて、ぱっと青い瞳を輝かせた。 「ふさふさに怖い仮面のギアの仁科なのにゃ! お久しぶりなのにゃ、元気してたにゃ?」 「わんっ! わぁふ」 「ご無沙汰ー! 忙しくて体壊したりしてないですか?」 「おいらは元気にやってるのにゃ。ふさふさも元気そうで何よりにゃ」 わたしはもうばっちり元気ですよとあかりが言うのに、フォッカーもにっこり。けれどまた音が響いて、三人はふと口をつぐみ、船の舳先の方を眺めやる。――また風が吹き抜けるのに、ホワイトガーデンの片翼がふわりと揺れる。彼女は、青い瞳を向かう先へ向けると、ぽつりと呟いた。 「……本当に、鳴いているみたいね」 「ああ。それに例の島、そろそろ見えてくるぜ。……あれだ」 船乗りが応えて、指さした。 「音はあの島から響いてるんだ――」 * 小舟を交代で漕いで行けば、小さな浜に着く。ギアで掴んでいたオールを置き、ふさふさは早速上陸した。ちなみに漕いでいる最中も流体力学に裏付けられた、オールによる効率の良い漕ぎ方など語っていたのだが、まあ毎度の如くわふわふでは通じなかったようだ。 「この音……おいら、思い当たるものがあるのにゃ」 フォッカーが耳を澄ましてそう呟いた。飛行機に乗っていると、こんなふうに怪物や女性の叫び声のように聞こえる事がある。原因は……そう、風の音だ。 「洞窟で穴とかあると、風が通った時に鳴るってTVで聞いたことあります」 もしかしたらこの音の正体はそれかも、とあかりが言って、洞窟の方を見やった。フォッカーがそれにこくりと頷く。 「急に聞こえてくるようになったってことは、洞窟のどこかが崩れて風の通り道が出来たからかにゃ……何にしろおいら、この音嫌いじゃないのにゃ」 飛行機に乗っている時を、どこか思い出すからかもしれない。 「まあ原因が何であれ、音が聞こえてきている洞窟を探検してみればわかるだろう」 「ふんふふん」 白燐が灯りを手にそう告げた。怪談は聞いて真実が判らないからこそ面白味があるというものだ。――とはいいつつも、そこはそれ、海に浮かぶ小島の、しかも洞窟の探検とあって彼の尻尾はぱったぱったとハイテンションだ。それをふさふさが嬉しげに鼻を鳴らしながらひょこひょこ追いかける。また島全体を包むように流れた音に顔を上げていたホワイトガーデンが、そんなふさふさに気付いてちょっと微笑んだ後、頷いた 「そうね、その通りかも」 「モーリン、明かりお願いね。――んじゃ、行きましょう!」 あかりが軍手をはめた腕を突き上げて、号令した。 「にゃっ!?」 「きゃっ?!」 ぴたん、ぴたんと洞窟の上から落ちてきた水が当たり、小さい悲鳴が洞窟内に響く。ジャージに長靴で水辺にも完全対応なあかりの肩に乗るモーリンの狐火と、興味深げに辺りを見回す白燐の手に下げられた灯がゆらゆら揺れ、洞窟の壁面に無気味な影を形作る。再び乗り込んだ小舟のオールを操りながら、フォッカーが洞窟の天井を見上げた。吹き抜ける風に、彼の黒耳が揺れる。時折あの音が聞こえるほかは、洞窟の壁に寄せる波が砕ける音だけが洞窟の中には満ちていた。ぱちゃ、ぱちゃとオールの先の水が水面に落ちる。 「ここ、音がすごく響くのね」 ホワイトガーデンがそっと呟いた声も、ふわんと響く。あかりがきょろきょろと壁面や天井を見上げ、頷いた。また、嘆くようなあの音が聞こえる。ますます風の唸りに似ている……と思うが、もしかしたら、幽霊だったらちょっと怖いと思うからかもしれない。 「すごく大きく響いてるね。流石に海の上まで響くだけあるよね……」 これほどの泣き声を上げるほど辛い思いをした人が成仏できずにいるっていうのも、思いたくない想像だ。 「底が浅くなってきたようだな」 灯りを片手に、白燐が洞窟の底を覗きこんだ。洞窟と水道自体は、曲がりつつ続いている。潮が程良く満ちていれば、もしかしたら小舟でもう少し先まで行けたのかもしれないが、ここからは歩いて行ったほうがよさそうだ。 「小舟は繋いでおけば大丈夫そうにゃ。……島の大きさからだとそんなに深くは無い筈にゃ」 フォッカーが小舟を繋ぎとめる。ホワイトガーデンが小舟を降りてそっと壁に触れるのに、ふさふさがわふわふ言いつつ後を追った。長靴で降り立ったあかりが、ゆうらりと揺れた影にびくっと身をすくめる。 「び、びびった……影か……」 「わぁふわふーふふーん」 ふさふさは半分ほど乾いたあしもとに鼻先を近づけてみたり、壁面をふんふんと言いながら見ていたが、小舟を繋ぎ終わったのを見て洞窟の奥を見た。風が流れて音が出る、というのでおそらく合っているだろうが、ある時からと言うのがやはり気にかかる。自然に出来たのでなければ、誰かが流れついたのかもしれない…… 「よしっ。奥へ行ってみようにゃ」 「ああ。足元には気をつけた方がよさそうだな」 白燐が言って、明かりを掲げた。 * ばきっ! と言う音がして、あかりは飛び上がった。思わず両手でギアの仮面を手にしちゃったりする。それにフォッカーがひくりと尻尾の端をひきつらせ、ふさふさが尻尾を下げてううーと唸った。 「びびったー! ってなんだ、木の板だ……」 「に、仁科、そのギアの方が怖いのにゃ」 「うーうーわふー」 「あ、ごめん」 暗闇で対面したら余計に背筋の冷えそうな笑みの仮面を仕舞いつつ、あかりはふと首を傾げた。白燐も屈みこんでそれを調べている。そう、木の板だ。 「大分腐っているみたい……」 ホワイトガーデンも覗き込んで首をかしげる。 「大分丈夫そうだにゃ」 なにかのパーツだろうけど……と呟いたフォッカーの言葉に、はたと沈黙が降りた。ぴたぴたと波が寄せる音が反響して、響く。 「――船、か?」 白燐がぽつりとつぶやく。難破船の破片、だろうか。フォッカーが、奥を向いた。 「先に行ってみようにゃ。何かあるかもしれないにゃ」 それにめいめいが頷いて、奥へ進む。すると、通路には次第に腐った木の板が多くみられるようになった。それも、少なくない。大半が腐り落ちている事を鑑みれば、見た目よりも多く合っただろうことがうかがえる。最初は高かった洞窟の天井も、白燐が手を伸ばせば届きそうなほどになっていた。 「誰かが流れついたのかな……?」 あかりが木の板をよけながら進む。と、皆のものではない明かりに、ふさふさがわん! と声を上げた。 「わんっ、わふわふ」 「あ、明かりが入ってきてる……」 ホワイトガーデンが青い瞳を見開いた。白燐の尻尾が、興味を示したようにぴたりと一瞬動きを止める。 「あ……!」 「これは……」 いち早くそちらへ駆けつけたあかりとフォッカーが声を上げた。ふさふさも尻尾を揺らして駆けつけると、そこにあったのは洞窟の半ばまでになる腐り落ちかけた頑丈そうな小舟の半分と、上空から零れ落ちる星明かりだった。 「――星が見えるわ」 ホワイトガーデンが、ぽっかりと洞窟の上部に空いた穴を見上げて呟いた。だいぶ大きな穴で、天井から地表まではだいぶ厚みがあるようではあるが、頑張れば登れそうでもある。それを同じように見上げる白燐の尻尾も、ぱたぱたと揺れている。 「わふわふっ。ふんふふん」 船の近くへ寄って、ふさふさはあたりを見回した。やはり洞窟内の空気の流れが変わったのが原因だったようだ。 「この船がここに流れ着いたせいで、この中の風の流れが変わったのかにゃ」 「わふっ」 きっとそうなのでしょう、とふさふさが一声鳴いて、フォッカーに同意した。近くを窺うように歩きまわっていたあかりも、どこか安心したように呟く。 「誰もいないみたい」 この船に乗っていた誰かは、もともと何かの事情で乗っていなかったか、あるいはおそらくこの穴から脱出したのだろう。 「こうやって聞くと、この音もなかなか味があると思わないかにゃ?」 また響いた音と吹き抜けた風に、フォッカーが穴から見える夜空を見上げながら呟く。一同も同じように見上げれば、ブルーインブルーの星空がこぼれんばかりに遠くで煌めいていた。また、風が吹く。白梅鼠色の髪を躍らせながら、白燐が頷いた。 「ああ。……残されたこの船が、朽ち果てるまでと奏でているのかもしれないな」 おぉ……ん、お……ぉおん。 海を滑るように、また音が響いた。それは主を求めるように、あるいは終わりを歌うように、波間の向こうへと、消えていく。
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