船は孤島であり、牢獄だ。海上にあるうちは外に出ることすらかなわない。 茫洋たる海と空に挟まれ、船乗りは単調な生活を繰り返す。彼らは飢えている。些細な娯楽にすら飛びつき、必死に退屈を紛らわそうとする。 その方法のひとつが怪談であるという。『ジャンクヘヴン海軍から幽霊船の噂を聞いた』 男の声が邸じゅうを駆け抜ける。邸内に張り巡らされた伝声管から、声ばかりが響いている。『実に血が騒ぐ。昔のように怪談集を編纂したいところだが、この体では海に出ることもかなわぬ』 豪商アレン・アーク。かつては自ら船で各地を巡りながら商いをしていたが、脚を悪くして現役を退いた。現在は商売で築き上げた莫大な富を元に小さな海上都市を領有し、領主として暮らしている――と言われている。 彼の姿を見た者はいない。そう、邸の使用人たちでさえも。『そこでだ。ひとつ頼まれてはくれぬか?』 奇譚卿。それが彼の二つ名だ。 ジャンクヘヴン近海にデルタ海域と呼ばれる場所がある。小さな浮島が、海を巨大なデルタ(Δ)型に囲い込むように点在している。潮は島にぶつかりながら三角形の海に流れ込み、複雑怪奇な動きで船を翻弄する。奇譚卿は、遭難と奇怪な噂に事欠かぬこの海域を怪談集の舞台に選んだ。「というわけで、デルタ海域に行ってほしい。奇譚卿は怪談好きで有名だが、ジャンクヘヴンを盟主とする海上都市連合の一員でもある。治安のためにジャンクヘヴン海軍に多額の出資をしていて、同市に対して発言力を持ってる……という噂だ。正体不明の人物だが、金は実際に動いてるから卿が実在してることだけは間違いない。つまり」 ロストナンバー達の前で、シド・ビスタークは愉快そうに喉を鳴らす。「ジャンクヘヴンとしてはこの酔狂な試みに協力せざるを得ないってわけだ。手筈は整えてあるから、よろしく頼む」 囚人服のような白黒横縞模様の水着で、赤茶色の毛並みした獣人の世界司書が歩いてくる。水着の尻から出た尻尾は、だらりと垂れて元気がない。ふと足を止める。革紐で首から吊るした『導きの書』を持ち上げ、同じ模様の水泳帽を取り出す。 難しい顔で水泳帽を被り、「水着。ご用意、できますか?」 水泳帽に隠れた三角耳の間に深い縦皺を刻んだまま、旅人たちに問うた。「奇譚卿。デルタ海域。わたしも、シドの手伝い」 自らが着ている水着には一切触れずに、抱えていた資料を旅人達に差し出す。「デルタ海域を囲む小島のひとつ。三日月形。砂浜と入り江。入り江の反対側、三日月の背中の方向、崖っぷち。小さな森、ひとつきり」 資料には、説明する司書の言葉通りの島の地図が描かれている。欠けた月の丁度半ば、砂浜から少し離れた入り江の海に、赤いバツ印。旅人の一人が印を示し、問う。司書は垂れた尻尾をぱたりと動かした。「小船、沈んでいる。波の間、帆柱の先が見える。目印」 夜になると、と首を傾げる。「怪奇現象。帆柱中心に、いっぱいの手。子供の小さな腕。手招き。こっち来いこっち来い。そういう噂。怪談。夜になったら、噂の確認。ただ、その前に、」 瞬きをする。「沈没船の確認。海、深くない。道具、あれば便利。無くても何とかなる。海に潜って、沈んだ船の調査」 お願いできますか、と水泳帽の頭を下げる。「水着、手持ちなければ、こちらで準備。エミリエ、水着と言えばこれだと」 おそろい、と囚人服風水着から出た尻尾を振る。 普段は航行する船の少ないデルタ海域は、けれど今ばかりは幾隻もの船が行き交っている。「奇譚卿、なあ……」 呟いて、老船長は気を取り直したように旅人達へと向き直った。小さな船は、もうすぐ指定された三日月型の小島に着こうとしている。巨大帆船では通り抜けられないほどの、岩と岩の狭い隙間を通り、入り江へと入る。夕日に照らされた白い砂浜が、旅人達の眼を奪う。「話は聞いてるとは思うが、……ここいらに出るのは手、だ」 船や陸に居る分には、と言い掛けて、顔をしかめる。急に寒気を覚えたように剥き出しの腕を掌で擦る。「手招きされるらしいな。こっち来い、こっち来ーい」 それを見た船は沈むとも、見た人間は高熱を出して寝込んだり、原因不明の病で死んだりするとも言われている。ただ、その辺は後から付いて来た作り話だろうな、と老船長は笑う。何せ怪談だ、と。 そう言いながらも、皺深い顔は引きつっている。「手招きされるのはこれくらいの小さい船ばっかりらしい」 船縁に寄り、朱に染まる海を覗き込む。墓標じみた木製の帆柱の先が波間に見え隠れしている。「ああ、まだ見えるな」 つられて覗き込んだ旅人達が見たのは、どこまでも澄んだ海の底、白い砂の上に沈む船。今乗っている、十人も乗れば満杯の船と変わらない大きさの船だ。 夕陽の海の中、小魚の群に囲まれて水中に揺れる船は、ひどく静かなものに見えた。怪異の源だとはとても思えない。「数年前に沈んだらしい。怪異も同時期に始まっている。人身売買の海賊船だとも、家族で魚釣りに来てここまで流された船だとも、色々言われている。船籍不明だ」 船室に幾つか取り付けられた丸窓は、沈没の衝撃にも割れなかったらしい。海の色をそのまま紅く映した窓の奥は、けれど闇色に沈んでいる。海上からは、その奥に何があるのかまでは見えない。「この時間だけ、この島周辺の海流は落ち着く」 人の悪いような申し訳ないような。渋い笑みを老船長は浮かべた。「あんたらの出番だ」 島に上陸するため、艀が海へと降ろされる。!注意!イベントシナリオ群『デルタ海域奇譚集』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『デルタ海域奇譚集』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
「はい、本郷幸吉郎です!」 蛍光グリーンのバミューダパンツ型水着が、海へ沈んでいく太陽をぴっかぴっかに反射している。 「今回は、真夏の暑ぅーい最中にぴったりの! 背筋が凍りつくようなちょっと不思議な世界へご案内致します!」 夕陽色の穏かな海に向け、幸吉郎は一息でちからいっぱい、滑舌よく言葉を放つ。何せ壱番世界での元職はアナウンサー。若手熱血、ガッツと闘志と体力に満ち溢れた不屈の局アナとして一部地域で有名だった。 幸吉郎のあまりに元気の良い実況に、砂浜で火を熾していた船員たちの間から気圧されたような拍手が起こる。 「ブルーインブルーの青い海に潜む、沈没船のお話ですッ!!」 黒髪の頭には水中メガネ、首から提げるはトラベルギアのストップウォッチとトラベルパス。準備は万端、迷惑顔のオウルフォームセクタンを片手にがっしり握り締め、 「さぁ! いざ恐怖の海へ!」 砂浜に押し上げられた移動用の小舟へと飛び乗る。途端、小舟に山と積み上げられていた柄杓がバラバラと飛び散った。柄杓の雨に水着の体を打たれても、熱血アナウンサーは動じない。 「これは一体何でしょうかッ?!」 よく見れば整った顔をきょとんとさせて、幸吉郎は熱い砂の上に転がった柄杓の一本を拾い上げる。柄杓の底は抜かれている。抜けた底から覗いてみれば、小舟の舳先に凛と立つ和装の男。海に入る格好ではないが、底抜け柄杓を両手に構え、任せときな! とでも言いたげに、灰色の端正な眼を細めて見せる。 「侘助様、これはまさか!」 幸吉郎は底抜け柄杓をマイクのようにビシリと湊晨侘助に突きつけた。 「手ェ出よったらな、これ渡したったらええ」 緩く束ねた長い黒髪を暖かな潮風になびかせ、侘助も準備は万端と淡く微笑む。けれど、 「今回出るのは船幽霊ではないと私思うのですが」 幸吉郎にそっと突っ込まれ、 「……そうなん?」 見る間にやる気を失った。つまらなさそうな顔でしょんぼりと舳先にしゃがみこみ、柄杓の先で砂浜に落書きをし始める。 描く先から、夕陽色した波が絵をさらっていく。 「いえ、けれどもしかすると、柄杓作戦も有効かもしれません!」 「別に慰めてくれんでもええて」 砂浜に落ちたままの侘助の視線の先に、裸足の爪先が映る。眼を上げる。黒ビキニ姿の女がにこやかな顔で立っていた。金色の飾り鎖が胸元で揺れる。華奢な腕には不似合いな鎖が巻きついている。鎖の先には、トラベルギアなのだろうか、物騒な鉤爪型ナイフ。 夕陽を背に笑みを浮かべるセクシー水着女性を前に、幸吉郎が鼻血を噴いてよろめいた。 「行きましょう」 ケルスティンは好奇心に青の眼を煌かせる。鉤爪型ナイフが彼女の意志を受けて動き、舳先にしっかりと引っ掛かる。 「海、海」 微笑みの顔を変えず、ケルスティンは侘助が乗ったままの小舟を曳いて海へ歩き出した。鎖が軋む。 「行った事がありません。潜ったこと、ありません」 爪先に波が触れる。細身の体に潜む強い力によって、小舟がじりじりと動き出す。 「行きましょう。潜りましょう」 「わ、私も! 私もお手伝い致しま……」 鼻血をぼたぼたと零しながら、舟縁に手を掛ける幸吉郎に、 「これ、使うといいよ」 タオルが差し出される。心配げに覗き込んでくるのは、蒼のグラデーションも鮮やかな水着のエレニア・アンデルセンと、白い兎のパペット。エレニアの手にはめられたちょっと不細工なうさぎの口が、ぱくぱくと動く。 「大丈夫?」 うさぎのエレクが喋る声は、幼さの残る少年の声。その言葉の後に、小さく小さく、 「……ですか?」 柔らかな女性の声が付け足される。波音にも紛れそうな、ほんの僅かなその声と、声を発した唇の動きに、幸吉郎は魅せられたように瞬いた。けれどそれは一瞬のこと。 「――ありがとうございます! 私本郷幸吉郎、鼻血程度で弱音は吐きません!」 タオルを受け取り、鼻血を拭いながら、幸吉郎は力強く宣言する。その幸吉郎を横目に見て、 「ほんま、熱血やなあ」 わぇには真似できひんわあ、曳かれる小舟に座って、侘助は無気力な溜息と共に呟く。あぐらの足に頬杖突いて、舟底に置き去りにされていた釣竿を何となく引っ張り出す。三日月型の小島の両端に挟まれ、湾となった海の水平線を呆と見遣る。 「貴方は水には入らないのですか?」 波を割って海に膝まで浸かりながら、ケルスティンが滑らかな肩越しに振り返る。素足に触れる波の感覚を確かめるように、舟を曳いていない方の腕を伸ばす。楽しむ、のではなく、確かめる。ロボットである彼女は、好奇心と言う名の学習のために行動する。 「海になんか浸かってみ、わぇ、錆びてまう」 刀の付喪神である侘助は、一応妖怪に分類されるような身。故に心霊現象は大して怖くないが、錆は嫌だ。断固として嫌だ。拒否したい。 「せやけど、怪奇現象の正体は興味あるしなあ」 やる気ないわけちゃうで、と気楽な緩い笑みを浮かべる。 ケルスティンが曳き、幸吉郎とエレニアが押し、小舟は紅に染まる海へ入る。 パペットのエレクを濡らすまいと、エレニアはしばらく迷った後、エレクを舟上に腰を落ち着ける侘助に託した。 夕凪の海に波は穏かだ。 「舟で海を渡ったことはあるけど」 うさぎのエレクが素の声を出さないエレニアに代わって話す。侘助の膝の上に座る格好のエレクが、本当に話していると錯覚をおこすほど、エレニアの腹話術は見事だった。 「こんなに水の近くまで来るのは初めてなんだ」 水着姿を僅かに恥じらいつつ、エレニアの青い眼は波間に覗く沈没船の帆柱の先をじっと見詰めている。波間から誘うと言う手は、何を意味しているのだろう。海の底、船に取り残された誰かが居るのだろうか。 青い眼に黒い睫毛が切なげな影を落とす。 沈んだままのその誰かは、何を思うのだろう。 エレニアの想いを他所に、小舟は舟底で砂を巻き上げながら海に入っていく。 「デルタ海域の海流は複雑怪奇、波に翻弄されて海路を外れ、迷い迷った挙句、暗礁に乗り上げ、沈んだ船は数知れずと言われております!」 腰のほどまで海に進めば、小舟は浮かんだ。浮かんだ小舟に勢いよく飛び乗り、幸吉郎は海水を撒き散らしながら手に櫂を握り締める。ついでに喋りだす。 「揺らしたあかんて」 波飛沫を浴びて侘助がエレクを抱きしめて抗議するも、更に幸吉郎のセクタンが、濡れた翼を震わせながら舟上に上がってくる。ばたばたと派手に散る海水に、また悲鳴を上げさせられる。 「と言う事はです! この海にはたっくさんの! 幽霊が居るに違いありません! 怖いですね恐ろしいですね!」 ひたすら喋り捲る幸吉郎に、心底迷惑そうな顔をしたまま、セクタンは主である幸吉郎の肩へ器用によじ登る。体力に充ち満ちた肩にどうにかやっと落ち着く。 「ケルスティン様、エレニア様。舟にお上がりください! 後はこの本郷幸吉郎にお任せを!」 櫂を掲げる幸吉郎に従い、ケルスティンとエレニアも舟に上がる。小舟の真ん中に陣取り、幸吉郎は櫂を扱い始めた。手慣れていない分は有り余る体力と気力で補い、舟を目的の場所へと漕ぎ進める。 「ここに沈む船につきましては、船長が仰られていた以上の情報は集められませんでした。海賊船か、家族漁船か。それさえも謎の沈没船です」 力任せに波に櫂を立てながらも、幸吉郎は喋り続ける。 「手の正体て何やと思う?」 幸吉郎の喋りを背景に、侘助は旅の仲間に問う。 さて、とケルスティンは首を傾げる。 「兎にも角にも、潜って怪異に遭遇しなければ話になりません」 鎖を巻きつけた腕を舟縁から伸ばし、指先で海に触れる。夕陽色の波飛沫が跳ねる。生温い潮風がケルスティンの銀髪を撫でる。 「潜って潜って潜り続けます。映像記録します。それが私のお仕事です」 「波間の手は誰を誘ってるんだろうね」 侘助の膝に鎮座したエレクが、エレニアに操られないまま、言葉を発する。 「寂しいからなのか、それとも呼びたい誰かがいるからなのか」 エレクに話させながら、エレニアは潮風に消えるような静かな息を吐く。 手の正体が沈没船に居る誰かだとして。 (みつけたとして――) もしも、沈没船に誰かを見つけられたとしても、 (私が捧げられるのは) エレニアの思考を遮って、 「さぁ行きましょう阿雀ヶ峰千寿朱珠宵景光(アジャガミネセンジュシュジュヨイカゲミツ)!」 幸吉郎が舟の上で立ち上がった。水中眼鏡を装着する。大きく揺れる舟の上、自らの肩で休むセクタンをがっしり力いっぱい握り締める。めいっぱい嫌そうな顔で無言の抗議をする阿雀ヶ峰千寿朱珠宵景光に構わず、 「とう!!」 海に飛び込む。大きく息を吸い込み、波の下へと入っていく。 「あじゃ……?」 エレクを腕で庇いつつ、侘助は難しい顔をする。早口言葉のようなセクタンの名を、けれど幸吉郎は素晴らしい発音と滑舌で呼んでみせていた。 目標としていた沈没船の帆柱の先はすぐそこに見える。 「では、行きます」 軽々と舟縁を越え、ケルスティンが海へ飛び込んだ。ロボットである彼女は、息を整える必要がない。海上に顔を出すこともなく、海に潜っていく。 「舟のことは頼んだよ」 エレクが話すと同時、エレニアが海へ静かに入る。エレクにか侘助にか、小さく手を振り、とぷん、と波に顔を沈める。 「任せとき」 侘助はエレクの手を持って振って返し、再び膝の上に座らせた。舟底の柄杓を掻き分け、取り出したのは釣竿一本。ぱたぱたと舟縁を叩き、舟を揺らす波の音に耳を傾ける。 「……ほんまに出て来よるまでは無理に入らんでもええよなあ」 のんびりと呟きながら、釣り糸を舳先から垂らす。こうして釣り糸を垂れていれば、もしかしたら何か手の正体のヒントとなるものが釣れるかもしれない。本体が釣れるかもしれない。 「本体言うたらあれか。水死体とかか」 どこか鋭利な笑みを浮かべ、膝のエレクにぽつりと話しかける。話しかける自分が我ながら可笑しくなって、今度はふわり、呑気な笑み。さっきまであれほど賑やかに、生きているかのように話していたエレクは、今は魂宿らない唯の人形にしか見えない。 「せやったらあなたの御主人の大当たりやけどなあ」 沈没船には何があるのだろう。波間に揺れる手が示すものは何だろう。手の下の海底に船から放り出された死体が隠れていたりするのか。それとも、船内に自らが死んだことを認めない死霊が潜み、新しい仲間を増やそうとしているのか。他人をも自らの不幸に呼び込もうとしているのか。 ――人は、意外と自分の見たいようにしか物を見ない。 たとえば、夜しか現われない魚や虫。 たとえば、夜しか光らない海藻。 幽霊だと思い込めば、そう見えるかもしれない。 (正体見たり枯れ尾花、てな) 釣り糸は静かに波にたゆたうばかり。 頭まで浸かってしまえば、海はいっそ温かい。唇の隙間から逃れていく空気が、珠となって頭上にゆらゆらと昇っていく。昼間、船上から見たときはどこまでも青く澄んで明るかった海は、今は紅く、暗い。 こぽん、と小さな空気の珠を吐き出して、エレニアは身体の上下を入れ替える。帆柱を伝うように、海を潜る。眼を巡らせれば、幸吉郎は沈没船の甲板に、ケルスティンは帆柱の半ばに見えた。 然程深くない海底は、波の形を描く白砂で埋まっている。所々に黒くうずくまるのは、波に隠れる岩だろうか。波を潜り抜けた夕陽の光の筋が海底の砂を紅く撫でる。人の気配を察したのか、海底の砂を巻き上げて、小さな魚が海の闇へと消えていく。水に揺れる自らの黒髪が視界を遮る。 ケルスティンは帆柱を片手で掴んで身体を固定し、水の感覚を確かめているようだった。隣にエレニアが並ぶと、楽しげな笑みを向けてくる。ケルスティンの腕に巻きついた鎖が、水中で生き物のように揺らめいている。行きます、と唇の動きだけで言って、ケルスティンは帆柱を掴んでいた手を離した。 ロボットの身体は酸素を必要としない。水中での動き方は学習したことがなかったが、仲間の動きを見、実際に潜って水の感覚を掴んでしまえば、活動は難しくなさそうだ。 幸吉郎が甲板を離れた。小さな沈没船の周囲を巡るつもりらしい。片手に阿雀ヶ峰千寿朱珠宵景光の足を握り締めたまま、器用に水を掻いている。オウルフォームのセクタンは、もう何もかも諦めたような面倒くさいような表情で、静かに水に揺られている。 甲板から右舷に周り、小さな船室の窓をゆっくりと覗き込もうとして、 ごぼん、大量の空気を吐き出して、幸吉郎が不意に慌てた様子を見せた。両手両足を必死に動かし、船から離れようとする。その手足に追い縋るように、白い砂よりももっと白く蒼い、細い腕。二の腕から後は水に溶けて無い。 一本の腕に眼を見開けば、船の周りには、いつか無数の白い腕が湧き出している。その内の何本かが幸吉郎に掴みかかる。水に在るものの動きではなく、空に在るものの素早い動きを見せる。 「うごごごごおおおおあぶらねべらでぁっ!!」 幸吉郎は、海水を呑みながら壮絶な悲鳴を上げる。水を掻く腕に、別の白い腕が取り縋る。ひいやりとした細い指が手首を掴む。足首を掴む。小さな翼を動かし暴れるセクタンを掴む。 苦い海水に眼を見開く。死に物狂いで手足を動かす。心臓が早鐘の勢いで耳元で鳴り響いている。追い縋る手を肩越しに振り返る。船の周りに群れて手招きする細い腕の間に、小さな黒い人影を見た気がして、 けれど今はそれどころではなく。 遠くから見ていれば、細かく細かく実況しつつ、細かく細かく波間の手についてメモを取れるのに、 (この本郷幸吉郎! 不屈のアナウンサー魂で以ってまだまだ! まだまだ沢山の取材と実況を全国の皆様にお届けしたいとォォォ!) 冷たい手に全身を掴まれながらも、幸吉郎はまだまだ暴れ続ける。ごぼごぼと空気と絶叫を撒き散らし、無尽蔵にも思える体力で、怪奇現象から逃れようとする。 もがく幸吉郎の傍に、音もなく鉤爪型ナイフ付きの鎖が近付く。助けか、と幸吉郎が伸ばした手からはついと素知らぬ動きで逃れる。生き物のように動く鎖は、幸吉郎や沈没船に群がる白い手に向け、ゆっくりと鉤爪部分を動かした。 こっちこーい、こっちこーい。ケルスティンが操る鎖の動きはそう言っている。 「ぅごうっ!」 誘われるように、と言うよりも助けを求めて幸吉郎が手を伸ばしても、貴方じゃないわ、と素気無く鎖は逃げる。 お目当ての、幸吉郎に縋りついた白い手が誘われる気配は無い。 仕方ないですね、と鎖が動く。幸吉郎の身体にぐるぐると鎖が巻きつく。助かった、と幸吉郎が安堵したのも束の間。身体の自由を奪った鎖が引き上げられる様子はない。顔を上げれば、紅い陽が波に揺れる海面がゆっくりと遠去かっていくのが見える。鎖を手にしたケルスティンが自らの手足で潜ってくるのが見える。幸吉郎を助けるためではない。白い手に引っ張られて共に海底へ沈むためだ。 「むごごご!」 空気の玉を吐きながら喚く幸吉郎の抵抗が無くなったのをいいことに、蒼白い手の群は海の底へと幸吉郎を引き摺り込む。死に物狂いで翼をばたつかせるセクタンと、好奇心に眼を輝かせたケルスティンを道連れに、幸吉郎は沈んだ。 血を薄めた色した海の底、沈没船の船内から、誰かがコツコツと船窓を叩く音がしている。小さな子供の笑い声を聞いた気がして、幸吉郎は呻いた。 首を巡らせる。恐怖に歪む眼のまま、音と声が聞こえる丸く小さな船窓を覗き込む。幸吉郎の頭にあるのはこんな状況にあって、――否、こういう状況にあるからこそ、唯ひとつの思いに占められている。 取材しなくては。 本郷幸吉郎は、骨の髄までアナウンサーなのだ。 白い手と鎖に全身を絡め取られたまま、幸吉郎は見る。幸吉郎と顔を並べ、その眼を通じた録画機能を持つケルスティンも、船窓から船内を覗く。 陽の欠片のような白い砂に埋められ、ほのかに明るい、朱色に染まる海中とは違い、船内は闇色した水が黒々とうずくまっている。 船内の暗闇に眼を凝らす。見てはいけないものがあるかもしれない、と思いながらも、見る。見なければならない。 そう広くない船室には、幾つかの家具が床に固定されて置かれている。潮流の中に揺れる海中で、沈没船の中とは言え、動かない家具は異様な不自然さがあった。赤茶色に錆びたスプーンが浮いて揺れている。 全身が冷たいのは、海の中に居るからか。それなのに、頭だけが酷く熱を持っているように感じるのはどうしてだろう。 こつん。船内から、窓に白いものが当てられた。幸吉郎は息を詰まらせる。ケルスティンは何であろうと記録しようと眼を見開かせる。 窓に押し当てられたのは、水にふやけた白く小さな、掌。 「――ッ!」 エレニアの上半身が海面から跳ね上がる。幾度か咳き込みながらも、慌てた様子で周囲を見回す。水に濡れて視界を遮る髪を片手でかきあげて、やっと見つけた舟上の侘助を必死の眼で見仰ぐ。 「どないした?」 尋常ではない様子に、侘助は釣竿を舟底に捨てる。船縁からエレニアへと手を伸ばす。その手を拒むように、エレニアは首を激しく横に振った。咄嗟に自らの口を開いて何かを言おうとして、 やめる。苦しげに口を閉ざす。唇を濡れた掌で押さえ、自らの声を封じる。青い眼が懇願の色で侘助を見る。 「手ェ、出よったか」 「――たすけて! お願い、助けて!」 侘助が呟くのと、侘助の膝から落ちたパペットのエレクが少年の声音を上げたのは、ほぼ同時。 侘助は周囲の波へと視線を巡らせる。幸吉郎とケルスティンが上がって来る気配は、無い。 「引きずり込まれたんか」 灰色の瞳が刃じみた鋭さを帯びる。何者をも斬り捨てるような鋭さは、けれどエレニアを見て和らぐ。 「任しとき」 羽織を舟底に落とし、和装の着物に手をかける。諸肌を脱ぐ。細身の身体を覆うのは、静かな筋肉。沈みかけの太陽にも白い背中には、蒼く、墨が入れられている。炯々と眼を光らせる、破魔の雲龍。 「これでもなあ」 言葉を放つ侘助の姿はもう人型ではない。舳先に突き立つのは、夕陽でさえ白銀に跳ね返す、玉鋼の美しい刀。 「仮にも元御神刀や」 刀身には背中の刺青と同じ雲龍が描きこまれている。 「怪しいもんは斬り伏せて御覧にいれまひょ」 軽い口調の底には、確たる意志が潜んでいる。己の役割を活かせるのならば、全力を尽くそうと言う、それは道具としての強い想い。 慣れない手つきで、エレニアは刀の柄を掴む。 「でも、錆びてしまうかも」 エレクが心配そうな声をあげる。 「……かまへん、皆助けたらんと」 もし錆びたら怒られるやろなあ、と内心では思っている。 (帰ったら暫くは逃げてよ) 刀を手に海に浮かび、エレニアは深呼吸を繰り返す。苦しく鳴る胸を押さえ、瞼を閉ざし、開く。再度、潜る。 帆柱を辿る。海底の船の周りには、赤暗い水さえ蒼白く染めるほどに、白い手が固まっている。近付けば、数え切れないほどの腕の一本一本が細い虫のように蠢いているのがはっきりと見える。その腕に手に絡め取られて、幸吉郎が居る。その隣にケルスティンも居る。けれど二人共、船窓を覗き込む格好のまま、動かない。 刀を手に、エレニアは足で水を蹴る。刀の扱いなど知らない。でも、とにかく助けなくては。 蒼白い手の塊に向け、刀を振るう。白銀の刃が水をまとい、水がゆるり、斬り裂かれる。新しい遊び相手を見つけたかのように、幾つもの腕がエレニアへと指を伸ばす。ちょうだいちょうだい、子供が甘い菓子を求めるかのように。抱き上げてくれる誰かを求めるかのように。冷たい水の流れが剥き出しの肌を掠める。 詫びるように、エレニアは刀を両手に握り、構える。振るう間もなく、刀に触れた蒼白い指先が両断されていく。削がれ、断たれ、斬られた先から溶けて消える。幸吉郎の身体が解放される。 白い手に掴まれていない幸吉郎に用はない。ケルスティンは幸吉郎の身体を縛めていた鎖を解く。 「もががが!」 肺活量の限界に達していたのか、幸吉郎は凄まじい勢いで海面へと浮き上がった。それをちらりとも見ず、ケルスティンはどこか無機質な表情で船窓を覗き込み続ける。水に揺れる銀髪と色白な頬の脇、蒼白い影が蠢いているようにも見える。 水に動きを阻害されながらも、慣れない刀を振り回し、群がろうとする白い手を追い払いながら、エレニアはケルスティンの傍に泳ぎ着いた。腕を掴む。あがろう、と一生懸命な力で冷たい腕を引っ張る。 泣き出しそうな顔のエレニアを見、船窓の内に居るものを見、ケルスティンは小さく頷いた。逆らわず、白い手がうろつく沈没船を離れる。光を失い、暗い水の中を浮き上がる。ケルスティンの足首に縋りつこうとした手が、エレニアの持つ刀の鋭い切っ先に怖じる。寂しげに海底へ沈む。 舟縁にしがみ付いいて喘ぐ幸吉郎の肩をよじ登り、濡れた頭を踏み越えて、阿雀ヶ峰千寿朱珠宵景光は舟に一番乗りする。翼を羽ばたかせ、水飛沫を飛ばす。心底迷惑そうに、ほーう、と鳴く。主である幸吉郎の額を嘴で突く。 「私っ、私只今大変な目に遭って参りました! 幽霊は実在したのですッ!」 水中眼鏡をもどかしげに顔から外し、首から提げたパスホルダーからトラベラーズノートを取り出す。舟縁にしがみついた格好のまま、 「女性お二方も無事戻って参られました! 侘助様は、……おおお! 何と刀が! 刀が侘助様の真のお姿でしたァァ!」 実況も止めないまま、海中での体験を勢いよく書き込み始める。 「……ずっと沈んでたんに、元気やなあ」 エレニアの手によって舟上に上げられ、侘助は人の姿を取る。舟に上がろうとするエレニアに手を差し伸ばす。 「ありがとう」 船底に転がるエレクが笑った。 夕空はいつか夜空に変わっている。海岸で燃える焚火を背に、船員たちが手を振っている。 「焼き魚の匂いがします」 幸吉郎とは反対の舟縁に上がって来たケルスティンが嬉しげな声を上げた。砂浜で待機している船員たちは、旅人たちの身体を暖める火を焚くついでに、船に積んで持参していた魚も焼いているらしい。 「戻りましょう」 異論は上がらない。 舟に上がった幸吉郎が驚異的な体力を発揮し、櫂を操る。 「ブルーインブルーの美しい海には海魔以外にも恐ろしいものが潜んでいるのです!」 喋ることも勿論忘れない。 波を分け、小舟は海岸を目指す。暗い空を星が埋める。気紛れに吹く潮風に、浜辺からの煙の匂いが混じる。星の光を映して、暗い波に細かな光が煌く。 手に兎のパペットのエレクを着け、海を見詰めていたエレニアが、不意に息を呑んだ。遠去かりつつある、波に揺れる帆柱をエレクの手で指し示す。 「手が現われました! またしても、またしても手がァァァ!」 幸吉郎が綺麗な発音で喚きたて、櫂を放り出す。ノートに白い手の特徴や様子を書き込みだす。 「ほんまに手ェやなあ」 侘助が詰まらなさそうに呟く。ケルスティンは怪奇現象をしっかりと目で映して撮るため、舟上から身体を乗り出す。 闇色の波の間に、白い手がわらわらと突き出ている。帆柱の先を中心にして、波にたゆたうように、誰かを招くように、ゆらゆらと揺れる。 「私が目撃した幽霊は船内に一人きりでした。霊は水に集まりやすいと言われています。あの手は船内の一人ぼっちの幽霊に呼ばれた、海に彷徨う霊の集まりなのかもしれません!」 幸吉郎はペンを動かし、口を動かす。此処に来る前に収集してきた情報を交え、話し続ける。話すうちに興奮し、声が大きくなる。 「そう、船内には、船内にはァァァ!」 幸吉郎の声も、砂浜の船員たちの悲鳴も打ち消して、歌が響いた。海と空に、静かな歌が響く。高く低く、全てを宥め、慰めるような、心を優しく撫でるような。それは、鎮魂の歌。歌うのは、パペットのエレクを膝に置いたエレニア。開いた唇から、柔らかな声が流れ出している。 波間の手が、歌に聞き惚れるように動きを止めた。星空に向け、細い指先が幾つも幾つも、伸ばされる。潮風に流れる霧のように、白い手がその形を崩していく。風に吹かれ、波にさらわれ、怪異が消えていく。 その様子を目にするまま実況しようとした幸吉郎の口を、 「今は黙っとき」 侘助が押さえ込む。水中での様子を記録しようと、いそいそ海へ飛び込みかけるケルスティンの腕も、 「やめときて」 掴んで止める。 「仕事熱心やと思うけどもな」 素早い動きを見せながら、侘助の灰の眼は、真直ぐに怪異の中心を見詰めている。 エレニアの鎮魂の歌に引き摺りあげられてか、周囲に居た白い手の群が消えたからか、 静まる海の真ん中、帆柱を抱きしめるようにして、水にふやけて膨らんだ小さな人のようなものが浮かんでいる。溶けた頭皮からは髪が抜け落ち、張れた瞼の下には暗い目がある。欠けた蒼白い唇が、赤黒い歯茎が、ゆるりと動く。 ――あそぼう 舟上の旅人たちが聞いたのは、舌足らずな幼い子供の声。鼻を、喉を、水に流れた腐肉の臭いが突いた気がした。星の光を浴びて、小さな人影は細い腕を旅人たちへと伸ばす。波に阻まれ、届く訳もないその手を、エレニアの鎮魂歌が包み込む。 ――あそぼ…… ぼちゃん、音たてて沈んだのは、小さな影ではなく、波に叩かれ続けて腐り折れた帆柱。夜色の海が、取り縋っていた小さな影ごと帆柱を飲み込む。 暖かな潮風が不意に強く吹いた。旅人たちの舟が岸へと押される。 エレニアが小さく息を吐く。潮風に逆らい、小さな影を飲み込んだ波に向けて腕を伸ばす。 波間に、白い手はもう見えない。 終
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