船は孤島であり、牢獄だ。海上にあるうちは外に出ることすらかなわない。 茫洋たる海と空に挟まれ、船乗りは単調な生活を繰り返す。彼らは飢えている。些細な娯楽にすら飛びつき、必死に退屈を紛らわそうとする。 その方法のひとつが怪談であるという。『ジャンクヘヴン海軍から幽霊船の噂を聞いた』 男の声が邸じゅうを駆け抜ける。邸内に張り巡らされた伝声管から、声ばかりが響いている。『実に血が騒ぐ。昔のように怪談集を編纂したいところだが、この体では海に出ることもかなわぬ』 豪商アレン・アーク。かつては自ら船で各地を巡りながら商いをしていたが、脚を悪くして現役を退いた。現在は商売で築き上げた莫大な富を元に小さな海上都市を領有し、領主として暮らしている――と言われている。 彼の姿を見た者はいない。そう、邸の使用人たちでさえも。『そこでだ。ひとつ頼まれてはくれぬか?』 奇譚卿。それが彼の二つ名だ。 ジャンクヘヴン近海にデルタ海域と呼ばれる場所がある。小さな浮島が、海を巨大なデルタ(Δ)型に囲い込むように点在している。潮は島にぶつかりながら三角形の海に流れ込み、複雑怪奇な動きで船を翻弄する。奇譚卿は、遭難と奇怪な噂に事欠かぬこの海域を怪談集の舞台に選んだ。「というわけで、デルタ海域に行ってほしい。奇譚卿は怪談好きで有名だが、ジャンクヘヴンを盟主とする海上都市連合の一員でもある。治安のためにジャンクヘヴン海軍に多額の出資をしていて、同市に対して発言力を持ってる……という噂だ。正体不明の人物だが、金は実際に動いてるから卿が実在してることだけは間違いない。つまり」 ロストナンバー達の前で、シド・ビスタークは愉快そうに喉を鳴らす。「ジャンクヘヴンとしてはこの酔狂な試みに協力せざるを得ないってわけだ。手筈は整えてあるから、よろしく頼む」 かくて、シドの依頼を受け、ロストナンバー達はロストレイルに乗り込んでいく。 出発するもの、残るもの、別の依頼に向かうもの。 とりあえずやることもないので、商店を冷やかしに行くもの。 そんな中、裏路地からちょいちょいと手招きする小さな手があった。 ピンクの髪の毛の少女、世界司書のエミリエである。「ねぇねぇ、幽霊って信じる?」 壱番世界の科学力の観点からは幽霊はいない。 だが、インヤンガイの霊力を根本にした文明も存在する。 死後、魂はどうなるのか? 誕生前、魂はどこにあったのか? 現在、過去、未来、哲学と呼ばれる分野において数限りない賢者達が激論を繰り広げた。 そして世界郡のうちでも解明されていない世界は少なくはない。 世界群、と一口に言っても物理法則が統一されているわけではないため、文字通り、次元の違う世界の中で統一された見解は「世界は一定ではない」という何の役にも立たない常識だった。 今回の舞台であるブルーインブルーにおいても怪異の存在は信じられている。 それは、インヤンガイのように科学的存在のひとつとして認められているわけではなく、ヴォロスのように魔術的存在として認められているわけでもない。 いるという話がまことしやかに語られている、というレベルだった。 今回の依頼人、奇譚卿ことアレンは独自にそういう噺を収集しているという。 そう話すエミリエの顔に妙な、本当に妙な引きつりがあった。「インヤンガイにいったら暴霊に襲われました、はい、怖いですね。……なんてのじゃ、怖くないよね。怪談っていうのは、もっとこう、ぞわぞわっと! 後からじわじわっと! お風呂でシャワー浴びている時に肩の後ろあたりが、ぞくぞくっと寒くなるような! 夜中におトイレ行った時に、なんか天井を見上げちゃいけない気になるような。……あれ? 押入れがちょっとだけ空いてるけど、なんか覗いてない? みたいな! そーゆー、よくわかんないものに対してワケも分からず怖くなるよーなものがいいと、エミリエは思うのっ!」 さて、熱弁しているエミリエは世界司書の中でも有名人である。 路地裏で彼女が騒いでいれば、なんとなーく覗きに来るロストナンバーも、わりと、いた。 彼女はギャラリーに構わず、いいや、ギャラリーにまで何か主張しているようだった。 いつの間にか人の輪の中心で心霊現象を叫ぶ少女となっている。「とにかくー! 幽霊を信じないって人はエミリエが美麗花園行きのチケットあげるからゆってくださーい。怖い話を知ってるひとは、荒れ寺スポットに招待するから、夜中にこっそり来るといいよ!」 ぜぇぜぇと肩で息をしている。 どうやら興奮しすぎて疲れたようだ。 再度、エミリエは導きの書を開くと、やっぱり何も書かれていない事を確認しバッグにしまいこむ。 代わりに取り出してきたのは古ぼけた装飾のメモ帳だった。 0世界のファンシーショップで、ハロウィンの時期に売られていたような気がする。「はーい、今回は導きの書の依頼じゃなくって協力者からのお願いです。そのお願いの内容は怖い話を集めてくれ、でーす。怖い話があるから解決してくれって言われていませーん! 怖い話を教えてくれって言われてまーす!」 彼女はぐっと拳を握り、ふりあげる。「だからエミリエね、アレンさんのおうちに百泊百日の予定で出張届を出したんだけど、リベルに怒られましたー。ひどいとおもいまーす! アリッサやアリオはいいんだってー、ありありありありーはいいのに、エミリエはだめなんだって。ぶー」 ひとしきりスネた後、エミリエはゆっくりと顔をあげた。 なんというか、純粋無垢な笑顔の下に何かしら黒いものが見え隠れする。 そして、エミリエは突如、両手を空にあげた。 ちょうど、万歳のポーズである。「信じて心で感じるんだよ、怪奇現象はあるんだよ!」 まっすぐな瞳でこちらを見つめてくる。 そのまま彼女はぱらぱらとメモ帳をめくった。「はい、みんなにいってもらう場所はここ、デルタ海域でーす。説明はシドがやってたからしょうりゃくだよ。ここには満潮になると沈む島とか、手がびっしり出てくるっていう噂の場所があるけど、島のこっち方面、こわーい噂がありません」「……ありません?」「ありませーん。でも、ぼろぼろの船がありまーす。ジャンクヘブンのリサイクルシップショップで捨てられてたのを、世界図書館が回収したものでーす」 メモに書かれたイラストは確かにバス一台分ほどの大きさの非常にボロい船だった。 ロストナンバーは困惑する。 困惑する。 困惑する。 不意に誰かが「あ」と声をあげた。 エミリエは、にっこりと、いや、にまぁぁぁっと笑う。「うん、そんな噂はないんだよー。アレンってひと、こわいはなし大好きで、ジャンクヘブンのじじょーつーで、おかねもちさんなんだって。どんな噂があったって、ねぇ? こうでしたーってゆっても、きっと、正体は知らなくても、なんかこういう話があるよーって知ってるよね?」 彼女は言わない。 決して言わない。『自分達で怪談を作ってこい』 とは、絶対に言わない。「ふつーだったらぁ、エミリエ、こーゆーことしないんだけどぉ? こわぁいはなし、ききたがってるしぃ。だーれも悲しくならないよねぇ? あ、エミリエがおねがいしてるのは、怖い話の調査だよぉ? たまたまなーんにも噂のないところに行って、ああ、なんにもこわいことなかったよねぇ、残念だなぁって報告があってもしかたないし、そーなっちゃうんじゃないかなーっおもってるけれどぉ。も・し・も、こわぁい何かがあったら、うんうん。アレンもびっくりして、こわがって、よろこんでくれるんじゃないかなぁ?」 くふふふふふ、と微笑んでいる。 いや、哂っているのかも知れない。 そう、魔女はいる。怪奇現象は存在する。 摩訶不思議なことが「起きる」のが怪奇現象だろうか? いいや違う。 摩訶不思議な事、それそのものを怪奇現象と呼ぶのだ。 ――例え。 例え、それが仮に作られたものだとしても。 最後にエミリエはカバンを差し出す。「水着ー、この夏、0世界の最新ファッションになる予定のデザインだよー。乗せておくから使う人は好きなように使ってね」 中身を見せないようにカバンを貨物車両に乗せると、エミリエは最後にもう一度笑った。 今度はくったくのない無垢な少女の笑顔である。「いってらっしゃい! 島のこのあたりは何にもない海域だから、つまらないと思うけど、も・し・も、怖い話があったら、教えてねー♪」!注意!イベントシナリオ群『デルタ海域奇譚集』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『デルタ海域奇譚集』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
エメラルドグリーンの海! 白い雲! 青い空! そして!! 今にも沈みそうなぼろぼろの帆船、バス程度の広さの船室がひとつしかない小さな船の中、四人のロストナンバーが壁や床を恐る恐る叩いては「大丈夫かいな」とばかりに顔をしかめていた。 実際、エミリエからボロいとは聞いていた船だったが、自分の瞳で確かめてみると浮かんでいることすら信じられないほどの中古品だった。 船底といわず、船室の壁といわず、あちこちに苔や錆が浮いており、腐敗している部分も両手で数え切れないほどに上る。 それでもロストナンバー達はその船に乗り込み、帆を張ると海原へと漕ぎ出した。 なんか豪華そうな船に乗っていたり、地元の漁船を借りてはしゃいでいるロストナンバーの仲間を横目に、ギャハハハ!! と一匹の鸚鵡がわめき散らす。 「アニキ! アニキ! 海似合わないッスねェ! ギャーハハハハハ!!!!」 ばたばたばたと激しく音を立て、けたたましく騒ぐ鸚鵡と、それとは対照的に船べりで沈黙を護り続ける男。 見た目は華やかなロストナンバーの一団で、彼とその鸚鵡だけが異質だった だが、異質といえば実は全員が異質である。 ブルーインブルーの爽やかな海の上、けたたましく吼え猛る鸚鵡と無言の男、ワームウッド。 白衣を着て、化石をながめては時折「うふふー」と微笑む女性、鵜城木天衣。 文庫本を読んでいるメガネをかけた物静かな女史は片岡渚。かと思うと、こちらは手荷物をちらちらと眺めては怪しく微笑む。 そして、こちらも物静かには分類される、パーカーの女性は夕篠 真千流。 だが、彼女は床に座り込んだ形で、布にくるまれた棒を胸に抱きかかえている。 時折、行きかう人の物音がするたびに視線を向けていることから、警戒を怠ってはいない、ということだろう。 そんな個性的、どうみても各自別のベクトルに不気味な四人が今回のチームだった。 青い海がウリのブルーインブルー。 だが、夜であれば当然、海も空も闇のベールに包まれる。 夜は夜で風情があるといえばあるが、基本的に明かりがないと真っ暗な水面は恐怖の対象である。 そんな暗黒の水面に囲まれて四人のロストナンバーと一羽の鸚鵡が車座に座っていた。 もちろん、鸚鵡はばたばた飛び交っているだけだ。 ざざぁ……と船べりに打ち寄せる波の音は穏やかで優しい。 ここいらの海域は海流のみならず空も気紛れのようで、話によると数キロ離れただけの場所ではスコールのような激しい豪雨も降り注いでいるらしいが、ことここに限れば晴天は星々の輝きを散らし、潮風が運ぶものは海の香りと海鳥の鳴き声だけだった。 口火を切ったのは渚。 先ほどまでの私服からいつのまに着替えたのか、ぼろぼろの布をまとい、とんがり帽子をかぶっている。 材質がやや光沢がかっているところをみて用意に推察できる通り、彼女が0世界のオカルトショップで衣装を購入してきたものだ。 トレードマークともいえるメガネも外しているらしいが、視界に不自由していないところを見るとコンタクトレンズでもつけているらしい。 「では、皆さん。今回は怪談を作る側ということですが……」 「ねえねぇ。その格好。魔女?」 最初から話の腰を叩き折ったのは天衣。 彼女は相変わらず白衣のままである。 「うふふ、女はみんな魔女ですよ」 「……へー?」 はてなマークを頭上に浮かべたままの天衣ににっこりと微笑む。 渚は微笑のヴェールでそれ以上の質問を封じると、ひとり立ちあがった。 「幽霊船のふりをして略奪行為を働いている海賊がいると伺いました。奇譚卿がおっしゃる幽霊船もその海賊のことなのでは……。せっかくですし、あたし達も流行に乗っかってみませんか?」 通常。 幽霊船のフリをするということは、幽霊船として扱われても文句が言えない。 しかもジャコビニは一部で知られている海賊の名前である。 即ち、万が一のことがあれば海軍を敵に回し、縛り首にもなろうという危険な提案だった。 そして、このロストナンバーチームの不幸はふたつ。 そのような提案がなされたことと。 それを止めるつっこみ役が誰一人としていなかった事にある。 かくて。 嬉々として船体に黒いスプレーを吹き付ける作業に入った渚と、よくわからないまま手伝い始めた真千流、そして無表情のままなので乗り気なのかそうでないのか判別すらつかない様子でワームウッドの三人がかりで船を改悪していく。 ものの二十分としないうちに船体はただのボロ船から、どうみても幽霊船へと変貌を遂げた。 ただのゴミから怪異へと変わった船、その最初の犠牲者は天衣。 先ほど、他の三人が作業をはじめた後、彼女だけは作業に加わらず、甲板から海面を覗き込んだ。 誰かに聞かせるためか、あるいは本当に独り言か、海に向かって語りかけている。 「うーん、海底にも地層はあるもんだけどぉ……。流石にこれじゃあ発掘なんてできそーにないわねぇー……」 そういいつつ彼女はカバンからいくつかの化石を手探りで取り出す。 くるくると小さなハンマーを回すと、彼女はこん、こんと化石を叩いた。 続けて三つ、こんこんこん。 叩かれた化石はうぞうぞとうごめきだす。 リアニマ・エルダ。 化石を生物として一時的に蘇生させる能力を無駄に発揮した彼女のトラベルギアに叩かれ、無限の眠りから目覚めた古代生物がぼちゃんぼちゃんと海中に解き放たれた。 「これで明日には、あちこちでクラーケン騒ぎとかおきてるでしょー……♪」 満天の星の下、天衣はうーんと伸びをすると白衣のポケットに手をつっこみ、さて船室に戻るかと踵を返した。 そして、彼女の惨劇が始まる。 最初に目に入ったのは、これが先ほどまで見ていたボロ船だとはどうしても思えないほどのくすんだ黒に塗りつぶされた船体だった。 ペンキでも使っていればまだ作り物臭く、分かりやすいものになったのだろう。 だが、塗料として使われたのは木炭を粉々に砕いて水に溶かしたものだった。 当然、塗りムラは激しく、乾燥した部分からどんどん黒が剥がれ落ちていく。 結果、否応なしに雰囲気は盛り上がる。嫌な方向に。 船体のあちこちには海の上だというのに、蜘蛛の巣が張られ、ご丁寧に巣の中心には派手な色をした大型の蜘蛛が陣取っていた。 ぴくぴくと断末魔の痙攣をしている蛾の模型まで用意しているのはさすがに悪趣味としかいえない。 何より、今、天衣から見える範囲にロストナンバーは誰もいなかった。 と、すれば三人揃って船室に下がっているのだろうか。 「船室ぅ……?」 ドアの蝶番が外れ(誰かが外したのだろう)中から白煙があがっている。 「ちょ、ちょっとぉ。みんなー? 準備できたのー?」 たてつけの悪くなったドアを無理矢理こじ開け、中に入る。 船室はそれほど広くはない。 だが、あちこちに暗幕が張られ、さながらお化け屋敷の様相を呈している。 海上という条件のせいで足場がゆらゆらと揺れ、白いスモークが濃く視界を遮る。 狭い空間にあと三人と鸚鵡が一匹いるとはとても思えなかった。 ひやりと首元を冷たい何かがなでる。 「ひぅやぁぁぉぉぉ!?」 よくわからない叫び声をあげて天衣が振り返ると、天井から糸で吊られたこんにゃくが揺れていた。 そんな幼稚な仕掛けさえ、暗闇で霧の中で見れば不気味さは果てしない。 「た、たすけてシンちゃん」 相棒のシンダーハンネスの名を呼ぶ。 こういう時に限ってそばにその姿が見えない。 「……え?」 船室に入るときには一緒にいたはずだった。 この短時間で行方不明になるという事があるだろうか。 ともかく一旦、外に出ようとした天衣の脚を冷たい手が思い切り掴んだ。 「きゃわぁぁぁー!?」 あわてて駆け出すと手はあっさりと離れた。 「で、出口……」 元来た方向を手探りで見つけて何とか足を運ぶ。 途中の首筋を撫でる手や、ガラスの割れる音、船内の僅かな明かりが明滅したりという一連の連続怪奇現象は目を閉じてみないように見ないようにと言い聞かせた。 ようやく立て付けを悪くしたドアに手がふれる。 天衣はようやく外に出られるとばかりに思い切り開いた。 そこに。 逆さの女がいた。 空中から逆さづりにされた格好の女性だった。 濡れた長い髪は重力にしたがって真っ直ぐに下へ垂れ下がっている。 瞳だけはらんらんと天衣を見据え「あ……、ぅ……」と呻いて手を伸ばしてくる。 その海水に濡れた手が天衣の白衣をつかむと、その女はにやぁぁと笑顔を浮かべた。 「ぎ、ふぎやぅわぉぉうあにゃぉいゆうううゎぁぁぁぁぁ!!!!!!」 声にならない叫び声をあげ、再び天衣は暗幕が垂れ下がる船室へと駆け込んでいった。 その様子を見送ると、逆さ吊りの女性がふっと息を吐く。 吊り上げられていた足の支えが取れ、地面へと落下すると、手を地面につけ、くるりと身体を反転して着地した。 どこからか取り出したタオルで濡れた髪を拭き始める。 そして、ぼそりと独り言。 「……よくある怪談だけど、ああいうのって怖いのかしら」 「オゥオゥ、ヤるじゃねーッスか! おじょーちゃん! ギャハハ!!!」 夜空から鸚鵡が舞い降りる。 鸚鵡の相棒であるワームウッドはまだ船室にいるらしい。 喋る鸚鵡に、さきほどまで逆さづりになっていた女性、真千流は表情を変えず呟く。 「私が怖いものは、殺気を持って近づいてくる相手だわ」 「そりゃー怖ェーっスね!! いや、怪談じゃねーッスよ、ソレ。マジモンっス。ギャハハハハハ!!」 「……海魔に慣れている海の人や、戦闘に長けたロストナンバーはそんなの怖くもなんともないのね」 「ギャハハハ、おじょーちゃん、会話が噛み合ってねーッス!! ホントに怖ェかどーか試してみるッスよ。次にドアから出てきたヤツをたたっきって見るッス」 「……わかった。それが任務なら」 こくり。 物騒な鸚鵡の話に、真千流は小さく頷いた。 ヤベーッス。このヒト、本気ッスー! と爆笑する鸚鵡をさておき、真千流は棒を包んだ布の紐を解くと、中から出てきた棒ではなく一振りの剣を確かめる。 僅かに身を屈め、彼女は呼吸を整えた。 真夜中だというのにポールがあがる。 炭を孕んで薄汚れた帆がポールにかかげられ、夜風にゆらゆらと揺れた。 ポールの下には垂れ幕に覆われた船室。 部屋の中、小さな蝋燭の明かりを灯したのは片岡 渚。 ボロボロの黒マントに身を包み、あえて乱した髪がおどろおどろしい。 彼女はうふふと微笑んだまま、ラジカセのスイッチを押した。 ひゅぉぉぉ……と、笛の音が響く。 古ぼけたカセットテープの音は、幼い少女の声をより一層に引き立てる。 『あれはー、エミリエが一人で図書室から帰るときのことでした……』 エミガワ・リエジの怪談集カセットである。 CDではなく、あえてやや延び気味のカセットを選択したあたりに味がある、らしい。 話よりも、話者の声よりも、そのBGMがヤケに強調されて夜闇に響く。 BGMを耳にくすくすと笑う渚の背後に、陰鬱な雰囲気の青年が一人。 その視線に気付いた渚が振り向くと、彼、ワームウッドはいつのまにかそこに立っていた。 「あら、ごきげんよう。お散歩ですか?」 「相棒を、探している」 「ああ。あの鸚鵡さん? それならさっき船室に、あ、今は甲板にいますわ」 ギャーハハハ! とけたたましいあの声は、船のどこにいても耳触りに響いてくる。 渚が指した方向、確かに鸚鵡が相も変わらずわめきつづけていた。 「そうか」と、ワームウッドは甲板へと向かう。 ギシッ、ギシッ、ギシッ、軋む床の音は暗闇にやけにしつこく鳴り響いた。 「ふぎゃっ」 倒れていた白衣の何かを踏んだようだったが、相手から抗議の声もなかったので、ワームウッドの方も気にしない。 黒い布を手で払い、甲板へと歩を進める。 相棒の鸚鵡は真正面でギャハハハ! と嗤っていた。 「アニキ! アニキ! こっちくるとアブねーッス!!」 「危ない?」 甲板に出て、二歩、三歩。 刹那、目の前にきらりと何かが光った……ような気がした。 ワームウッドの視界の前がいきなり銀色に染まる。 それが剣先だと理解するまでに、彼はある程度の時間を必要とした。 夕篠真千流の剣はワームウッドの目の先、1cmほどの距離で止まっている。 ワームウッドはといえば、そのまま切っ先を見つめた状態で固まっていた。 鸚鵡がけたたましく嗤う。 「ギャーハハハ!!! この女、ホントにヤっちまうトコだったッス! おっかネェ! ヒャハハハハハハー!!!!」 ついで船室のドアが開く。 白衣の鵜城木天衣が船室から出てきた。 「ちょっとぉ、今、誰か天衣ちゃんの背中踏んでったで……しょ……。わきゃぁぁぁー!?」 彼女の出現と同時、真千流が剣を構えなおし、殺気を伴って彼女に振り下ろされる。 わたわたと半ば転倒するように身を屈めた天衣の頭上、先ほどまで彼女のコメカミがあったあたりの位置を銀色の閃光が走った。 「な、な、なに……をぉぉ……」 「……怖かった?」 「あ、っっっったりまえでしょぉぉぉぉぉ!?」 「良かったわ」 「何がぁぁぁぁぁぁぁー!!!?」 かくて。 そんなかんじでお互いにビビらせあいつつ、幽霊船が夜の帳に覆われた大海原を、このボロ船は進みゆく。 いつもは「うふふ」と意味深に微笑む渚も、甲板で「おーっほほほほほ!!」とノリノリで笑い声をあげている。 たまたま犠牲となったのは近くの船だった。 それは中型の商船。 アレン卿の呼びかけにこたえて、このあたりの海域を探索していたのだろう。 あるいは何の噂もない海域を航海し、彼への義理立てさえすれば、本気で怪異を探す必要はないと考えていたのだろうか。 どちらにせよ、最初に叫んだのはその哀れな商船の見張り役だった。 「ゆ、幽霊船だー!!」 「ジャコビニか!?」 「わっかんねぇよう。幽霊も海賊も乗ってねぇように見えるけど、ボロボロの船だぁ。……う、うわぁっぁあっっっ!!? な、なんか女の笑い声が聞こえてきて!?」 炭塗りの黒々としたボロ船である。 甲板に立っていた四人の姿を認めた見張り役は、その内訳をこう語った。 「白装束の女!(白衣の天衣のことだろう、きっと) 怪しげな笑みを浮かべる魔女!(渚が聞いたら狙い通りだと喜んだに違いない) 水幽霊みたいな虚ろな表情の女!(真千流の感想は気になるところだ) 水死体みたいな青ざめた男と騒ぎ立てる不気味な鳥!(言わずもがなのワームウッドと相棒の鸚鵡)」 「オマエ、それはなんぼなんでも作り話すぎだろう」 呆れ顔で見張りを諭す船員と、怒鳴るように言い訳を繰り返す見張りの若者。 不意に彼はロストナンバーの乗る船を指差し、ついでその下の方を指した。 「嘘じゃねぇぇぇぇ!!!!! うわ、こちらへ向かってくるぞ!!」 「おい、あそこ。船底に何か取り付いてやがるぞ」 「でっかいイカだ!!!」 「か、か、海魔だぁあああああー!!」 「船幽霊と海魔が一緒に襲ってきたぞおぉぉぉ、逃げろぉぉー!!!」 言葉通り、ロストナンバーの船は船底を巨大な烏賊に捕まれ、ぐらぐらと揺れていた。 ワームウッドが水面下を眺め、トラベルギアである銃を放ったのを皮切りに、船底に取り付いた大きな烏賊はその質量を持って船全体をぐらぐらと揺り動かす。 「あら、大王イカ。……かしら?」 「ううん。あれは、エンドセラス! イカというより、オウムガイの仲間よ。ほら、イカにありがちなエンペラの部分が殻になってるでしょー? ちょっと夜だし、海の下は見づらいかも知れないけれど、体長が5メートルにも達する古代の海の支配者のひとつなの。分類は軟体動物門・頭足綱・エンドセラス目・エンドセラス科! オルドビス紀からシルル紀に生息していたといわれていたけど、今回のはデボン紀の地層で発見されたものよ。この時代まで生きていた可能性があるとも言われているの!」 「………」 ワームウッドの冷たい目が彼女を見据える。 鸚鵡は何が楽しいのか、ギャハギャハと爆笑していた。 その視線の意味はともかく、天衣はそのまま水面下をきらきらとした瞳で見つめている。 やおら、彼女が指差した先にワニの口のような先端が海面から顔を出す。 「あ、見て見て! モササウルス! 10メートル級の化石の一部を使ったんだけど、モササウルスなら15メートルくらいは普通にあったのよ! 胴体は細身の樽型、四肢は鰭になり、尾鰭のように太く幅広い尾をもっていて、爬虫類のくせに水生環境にバッチリ適応済! 肉食海棲爬虫類の名に恥じない獰猛っぷりだから、落ちたらサメの何倍も怖いの! 落ちないでよね。白亜紀後期の地層から見つかっていて、この時代の『大きくて強い!』を代表する生物の一種なのよ!!」 「おじょーちゃん、何でそんな、いきなり出てきた怪物に詳しいッスか?」 ワームウッドの肩に着陸した鸚鵡がわめきたてる。 天衣はいえば、白衣の胸を思い切り張って「えへん」とばかりに指を立てた。 「だって、この天衣ちゃんのトラベルギアで出したものだもの」 「ギャーハッハッハッハっ!! アニキぃ! なんかこの船、幽霊の方が万倍マシそーな物騒なロストナンバーしか乗ってネェッスー!!!」 なぜか嬉しそうにバタバタと飛び回る鸚鵡に煽られ、ワームウッドは船べりの手すりに手をついた。 このタイミングで何が巨大なものが船底へぶつかり、バランスを崩したワームウッドが海中へ投げ出される。 どっぽーんと勢いのいい水柱を立て、ワームウッドの姿が海中へと没した。 「わ、落ちた!? ど、どうしよう。今ね、マウソニア・ラボカティとかもいるの! 4~5メートルクラスのシーラカンス! あれは白亜紀後期の……」 同時、もう一つの水柱があがる。 天衣が振り向くと、そこにいたのは渚だけだった。 つまり、真千流が海中へ落ちた格好となる。 「ふわわわわ、落ちちゃった。う、浮き袋とか投げないと!」 そういって天衣は非常箱の中を探り出した。 海中に落ちたのはワームウッド。 それを見て、自分から飛び込んだのは真千流。 先に落ちたワームウッドを護るように、彼の前後を船と自分の体で挟む位置へと落下する。 真千流は着水すると、落下による沈力と、海水による浮力がちょうどつりあった地点で、服から札を取り出した。 水中では彼女の動きも阻害される。 目を開くと塩水で痛むが、生死の境でその程度の事を気にしてはいけない事を、彼女はロストナンバーとなった直後に痛いほど思い知っていた。 だが、いかに目を開いても夜の海中で視界は効かない。 水中で気配に頼ることも危険だ。 畢竟、彼女はワームウッドを抱きかかえ、自分の周囲すべてに符を使った壁を展開した。 天衣の放った壱番世界の古代生物が二人を餌と認識して迫ってくる。 剣を抜いた真千流が、腰の位置で力を溜めた。 水の抵抗のある海中で、剣を薙いだり、振り下ろしても効果は少ない。 ならば、攻撃方法は限られる。 「っ!!!」 真千流は水の抵抗を最小限に、まっすぐに剣を突き出した。 何がぐにゃりとしたものに剣先がめりこむ感触が手に伝わってくる。 その剣が刺さったままの相手が暴れ始めた事を悟り、彼女は剣を引き抜くと海面へと顔を出した。 船から垂れているロープをつかみ、ワームウッドの手を引っ張り、船へと上る。 ロープを掴み、ワームウッドと共に船の甲板へと転がるように上り詰めると、最初に悲鳴が聞こえた。 「ぎやぁぁぁぁぁぁ、船幽霊だぁぁぁぁ!!!!」 叫び声を聞いて、ようやく真千流はその船が自分の乗っていたボロ船ではない事を知る。 「ええと……」 説明をしようとしてきょろきょろとあたりを見回す。 なるほど、ワームウッドの風貌は水死体が動いていると言われても仕方ない程度には不気味だ。 そして、真千流はエミリエの言葉を思い出す。 おそらく、ワームウッドもそうなのだろう。 ロストナンバーがエミリエから受けた依頼の内容は『怖い話を作ってくる』こと。 二人同時に、このシチュエーションは、うってつけだと気付いた。 しかも、間のいい事に、いや、悪い事に、ワームウッドと真千流はともに、無表情、つまり真顔で任務をこなすのだ。 真千流が符を虚空に投げる。 その先で人魂が浮かび、二人の顔をあわく照らし出した。 海水にぐっしょりと濡れた長い髪の女と、陰鬱な雰囲気の暗い青年を、だ。 甲板の上で凍りついた空気が、爆発するかのように阿鼻叫喚の絶叫祭りとなった。 ダメ押しが必要かな、と真千流は呟く。 手には剣。 そして、彼女にとって恐怖といえば、実際の襲撃者。 「じゃあ、殺気込めて切りかかってくるわ」 「……さすがにやめておけ」 「分かったわ。海の男相手、返り討ちにあうかも知れないものね」 「そういうことでもないが」 海の男は迷信深い。 その二人を見て、そこに踏みとどまるものは一人もいなかった。 一斉に船室へと逃げ、バタリとドアが閉められる。 そして、海の男は勇敢である。 次にドアが開けられるまでの間はそれほどないだろう。 正体をじっくり見られる前に姿を隠した方が良いのは自明だった。 ならば、と、二人は甲板を蹴り、海へと飛ぶ。 同時、真千流は符を使って宙を飛び、ワームウッドは再び、枯れ葉のように海へと落ちていった。 黒塗りにしたボロ船の甲板で、天衣が暗い水面を見つめていた。 手にした浮き袋をどこに投げれば良いのか戸惑っているらしい。 「わ、私のせいで、もしかして二人がヒドい目にあってたりするぅ!?」 「心配いりません。女性はそういう辛いことのひとつやふたつ、胸に秘めているものですわ」 「うああ……。慰められてるのか、トドメ刺されてるのか、よくわかんない」 頭を抱えてパニクる天衣を抱きしめると、渚はにこにこと微笑んだ。 よしよしと天衣の頭をなで、甲板から船室へと導くと、渚は軽く瞳を閉じた。 「懐園(カイエン)、おつかれさま」 うふふふ、と、いつもの笑いを浮かべ、渚はぼそりと呟く。 そして彼女は自分の胸の中にいる天衣の頭を抱え込むように抱いた。 「そういえば、ブルーインブルーの話なのですが……。これは海賊の話ですわ。ある海賊が、月の綺麗な夜に、普段から仲の悪かった仲間を海に突き落としました」 穏やかな口調のまま、渚はぽつ、ぽつ、と語り始めた。 その空気があまりにおどろおどろしくて、天衣はごくりと固唾を飲んだ。 「……え、ちょっと、渚……ちゃん?」 どうしたの、いきなり、と言いたげな天衣に微笑で返し、渚は話を続ける。 「海賊は何事もなかったかのように布団に潜りました。明日の朝には誰かが、船員がひとり消えていることに気がつくでしょう。そして、あいつは海に落ちたんだ。事故だったんだ。と、何事もなかったかのように航海が続くでしょう。そう考えたその海賊が……そう、その海賊が目を閉じて眠ろうとするたび、ひたりひたり、ぴしゃぴしゃと足音、水音が聞こえるのです」 「え、ちょっ、わ、な、渚ちゃん。こわ! ちょっ、こわいからっ!」 「足音も、水音も、ずっと遠くにいました。でも、ゆっくり、ゆっくりと近づいてくるのです」 ぴしゃり。 ぴしゃり。 ちゃぷ。 ちゃぷ。 しと……、しと……、しと……。 「天衣さん。聞こえませんか? ほら、船室の前に」 ぴしゃぴしゃ。 「暗幕が張ってあるので、船室の中もよく見えませんが、ああ、ドアは壊したんでしたっけ。もう、音は船室の中ですよ」 ぴちょん。 ちゃぷちゃぷ。 ずしゃっ。ずしゃっ。 天衣は振り返ろうとするが、渚に頭をしっかりと抱きとめられていて振り返ることもできない。 うふふふふ、と微笑が時折聞こえてくる。 「そうそう、海賊の話でしたね。その水音が海賊の眠るベッドの傍までくると、びっしょり濡れた手がその海賊の首筋をすぅっと……」 すぅっ……。 ……と。 天衣の首筋が、濡れた手で撫でられた。 「うみゃぁぁぁぁぁぁぁァァ!!」 絶叫。 渚が顔をあげると、びっしょり濡れた二人が立っていた。 濡れた手で天衣を撫でたのは真千流。 その横でワームウッドが相変わらずの表情で佇んでいる。 二人にタオルを差し出しながら、渚は微笑んだ。 「おかえりなさい、真千流さん。ワームウッドさん。……ずいぶんと濡れてますね」 「大丈夫。ケガはないわ」 「……そんなことより、その海賊の物語、改めて聞かせてくれ」 わかりました、と渚は微笑んだ。 翌朝、からりと晴れた青空の下。 気絶も同然に早寝した天衣は最初に目を覚ますと甲板へと歩み出る。 昨夜、何があったっけ、と思い返し、うおおおおと思わずうめく。 「……天衣ちゃん、大失態」 ずーんと音がしそうなくらいの凹みっぷりである。 しばらく、そこでうな垂れていると、ティーポッドを持った渚が船室からドアをかける。 「お茶、いれましたけど、いかがですか?」 「うううう。渚ちん、ひどい。オウルフォームで見てたから、無事なの知ってたでしょ~……」 じとっと渚を見つめると、渚は思わず目を見開く。 手に持っていたポットを床に落とし、自身も崩れ落ちた。 横座りの格好で床にへたりこみ、手近な布を目頭にあてて、えぐえぐと涙ぐむ。 「そ、そんなっ。私はただ、エミリエさんの依頼通り、怪談で天衣さんに楽しんでいただこうとっ!」 打ちひしがれ、絶望に閉ざされたと言わんばかりの声を搾り出す。 片岡渚、26歳。 さすがにもう誰もこの手の嘘泣きに引っかかりはしないと自覚はしているが、どちらかというと彼女自身が楽しいのでやめられないでいる。 あー、はいはい、と頭を抱えて天衣も床にへたりこんだ。 「ええと、無茶シマシタ。ゴメンナサイ。大型生物を使う時はもう少し考えるわ……」 「はい、よくできました」 「……うう、どっちが年上かわからない」 打ちひしがれた人妻のポーズから一転して笑顔になった渚に、女性の身でありながらも、女って怖い、としみじみ思う天衣であった。
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