船は孤島であり、牢獄だ。海上にあるうちは外に出ることすらかなわない。 茫洋たる海と空に挟まれ、船乗りは単調な生活を繰り返す。彼らは飢えている。些細な娯楽にすら飛びつき、必死に退屈を紛らわそうとする。 その方法のひとつが怪談であるという。『ジャンクヘヴン海軍から幽霊船の噂を聞いた』 男の声が邸じゅうを駆け抜ける。邸内に張り巡らされた伝声管から、声ばかりが響いている。『実に血が騒ぐ。昔のように怪談集を編纂したいところだが、この体では海に出ることもかなわぬ』 豪商アレン・アーク。かつては自ら船で各地を巡りながら商いをしていたが、脚を悪くして現役を退いた。現在は商売で築き上げた莫大な富を元に小さな海上都市を領有し、領主として暮らしている――と言われている。 彼の姿を見た者はいない。そう、邸の使用人たちでさえも。『そこでだ。ひとつ頼まれてはくれぬか?』 奇譚卿。それが彼の二つ名だ。 ジャンクヘヴン近海にデルタ海域と呼ばれる場所がある。小さな浮島が、海を巨大なデルタ(Δ)型に囲い込むように点在している。潮は島にぶつかりながら三角形の海に流れ込み、複雑怪奇な動きで船を翻弄する。奇譚卿は、遭難と奇怪な噂に事欠かぬこの海域を怪談集の舞台に選んだ。「というわけで、デルタ海域に行ってほしい。奇譚卿は怪談好きで有名だが、ジャンクヘヴンを盟主とする海上都市連合の一員でもある。治安のためにジャンクヘヴン海軍に多額の出資をしていて、同市に対して発言力を持ってる……という噂だ。正体不明の人物だが、金は実際に動いてるから卿が実在してることだけは間違いない。つまり」 ロストナンバー達の前で、シド・ビスタークは愉快そうに喉を鳴らす。「ジャンクヘヴンとしてはこの酔狂な試みに協力せざるを得ないってわけだ。手筈は整えてあるから、よろしく頼む」* * * この三角の上の方ですと、世界司書アマノは地図を指差した。 デルタ海域に浮かぶその島には古くから伝わる怪異がある。「少女の幽霊がでるんだそうです」 神妙な面持ちで告げる。 今は無人島となった島の北端に大きな屋敷があり、そこに少女の影が漂うというのだ。「少女は何も言わず、ただ、屋敷の中をひとり歩きまわって、消えてしまうのだそうです。その表情は悲しげであったと言う人もいますし、またある人は、何かを伝えようとしていた、とも」 少女は、ただ見つめるのみ――「島民もみな去ってしまい、いまはもう訪れる人もいないそうですが、周辺の島々に噂だけは残ってるんですね。少女は屋敷の住人で、大富豪のひとり娘だったとか。婚礼を間近に控えての急死だったといいます」 そして今回の依頼はというと。「様子を見てきて頂きたいのです。真相が分かればそれもよし、そうでなくても、噂の洋館の現況が分かれば奇譚卿もお喜びでしょう」 いつものようににこにこと、アマノはチケットを差し出す。「少女に関する噂のひとつに興味深いものがあるんです。彼女は死の直前、『何か』を怖れていたというのです。それゆえに思い悩み、鬱々と日々を過ごしていたと。その原因については諸説ありますが、いまのところ分かっていません」 怖いものといっても人それぞれですものね、と、アマノは無邪気そうに笑った。!注意!イベントシナリオ群『デルタ海域奇譚集』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『デルタ海域奇譚集』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
照り付ける強い日差しに、鹿毛ヒナタは、汗の浮いた額を手の甲でぐいと拭って、あちぃ、と呟いた。船の甲板で海風を感じながらちょっとした旅行気分に浸っていたのも束の間、島に到着してからは地獄の行軍だった。旅人たちは、鬱蒼と生い茂った背の高い雑草を掻き分けながら、影も形も見えない目的地を目指し、だらだらと続く勾配を歩き続けている。 ふと後ろを振り向き、ヒナタは、すぐ後ろを歩いていた筈の女子高生の姿が随分と後方にあることに気付いた。 「ほたるちゃーん。だいじょぶー?」 「だいじょぶですーっ!」 僅かなタイムラグのあと、井上ほたるの元気な声が返る。 ヒナタは立ち止ってほたるを待ちながら、島の風景を見渡した。 (絶景かな! つか海、腹立たしい程青いな。) デルタ海域の北側に位置し、最盛期でも島民数100名程度であったという小さな島は、歪んだ正方形で、その四辺を切り立った崖に囲まれており、船を着けられる場所は僅かに二か所しかない。勿論旅人たちは目指す屋敷に近い方へと降り立ったのだが、島は起伏も激しく、小柄なほたるは特に苦戦を強いられていた。 「緋夏さんは、全然平気そうだね……」 ようやく追い付いたほたるが独り言のように言って視線を向けた先には、艶やかな赤い髪を揺らしながら淡々と歩き続ける女性の姿がある。まるでそこだけが別次元であるかのような不思議な佇まいは、彼女の持つ特性にも因るのだろう。その体内に炎を宿す緋夏には、真夏の熱気も敵ではないらしい。 緋夏は勾配を登り切ると、北の方を見下ろしてから、振り向いて言った。 「見えたよ」 ●最北端の屋敷 「すっげ」 言うなりヒナタは吸い寄せられるようにフラフラと敷地内に踏み込んで行く。 「えっ、ちょっ、ヒナタさん?!」 「『団体行動推奨!』とかって言ってたのヒナタだよー」 慌てて後を追うほたるに、呆れ顔の緋夏が続いた。 屋敷を覆い隠すように密生した木々、絡み付く蔦、あらゆる色形の雑草と、その根元で忙しげに蠢く大小の虫たち、全てが「生きもの」でありエネルギーに満ち溢れていて、それらの中心に位置する屋敷は、遠い昔に「死んだもの」だ。鮮やかな対比が、朽ちて猶お壮麗な屋敷の「死」を際立たせている。 (つまり、昔は生きてたっつーことね。) デジカメの液晶ファインダーに屋敷の全体像を収めつつ、無造作にシャッターを切っていく。 (メモリの予備も十分に用意してある。まずは外観、中に入ったら端の部屋から順に) 廃墟マニアであるところのヒナタの頭のなかは、目の前の廃墟を如何に忠実に写し撮っていくかということで一杯になっていた。 『団体行動推奨!』 女性陣に向かってヒナタがそう言ったのはほんの30分ほど前のことだ。 『怪異不在でも廃墟自体が危険物だからな』 うんうんと頷くふたりに、ヒナタはこう続けたものだ。 『が、お嬢さん達の自由意志は尊重するわ』 『ほたるちゃんの位置は舟(舟というのは俺のセクタンの名前ね)が判るし、緋夏ちゃんは……うん、俺より確実に生き残れそう』 緋夏はきょとんとした様子を見せ、ほたるはそれを眺めて、再びうんうんと頷いた。 「『自由意思』って、正に、こういうことだよねー」 夢中で写真を取り続けるヒナタの後姿からは、屋敷の怪異に対する怯えなど微塵も感じられない。 「えっと、でも、いろんな意味で心強いよっ」 ヒナタとは正反対に『幽霊』という単語が頭から離れないほたるは、スカートの右ポケットにしのばせたお守りを、ぎゅうっと握りしめた。 ●階段 「お邪魔しまーす……」 マグライトで辺りを照らしつつ、朽ちた洋館の佇まいに先程から前のめり気味のヒナタ、興味深げにきょろきょろと辺りを見回す緋夏に続き、恐る恐る屋敷に足を踏み入れると、後ろのほうでドアが大きく軋みながら閉まり、ほたるはビクリと震えた。 「ちょ、ちょ、ちょっと、待って」 昔、指の隙間から見たホラー映画のワンシーンを思い出す。こういうときにはもう何もかも手遅れで、二度と、この扉が開くことはないのだ。二度と。 慌てて押してみると、しかし予想外に扉は再び軋みながら外へ向かって開いていき、ほたるは、ふう、と安堵のため息を吐いた。 「どうしたの」 「や、あのっ、ドアがね、勝手に」 振り向いた緋夏が首を傾げ、「風じゃないかな?」と事も無げに言う。 「海が近いし」 「そう、だよ、ねっ。うん、わかってるんだけど」 ……怖がってばかりもいられない。 ほたるは、えいやっと顔を上げ、決意を新たにする。 結婚を控えて、死んでしまった女の子。 ずっと悩んでた、って。きっと何か事情があったはず。 「ぽてと、何か気になることがあったら教えてね!」 ドングリフォームのセクタンを頭の上に乗せ、手掛かりをメモする為に持参したメモ帳とペンを手に、ほたるは不安を打ち払い、歩き出した。 「えっ? ひ、ヒナタさん!? 緋夏さんも、待って、置いてかないでーっ!」 * 薄暗く埃っぽい邸内に、ヒナタのマグライトが光の道筋を作る。 重く淀んだ空気は外気との落差の為か、じっとりと肌に冷たい。 エントランス。正面に大きな階段。 階段を上り切ると左右に廊下が続き、北側の窓からは海が見下ろせた。 室内の装飾は、長い歳月を経てくすんでしまっているものの、それでも近くに寄ってみれば直ぐに判るほど上質な、目を瞠るような豪華なものばかりで、旅人たちは興味深げに歩き回っては貴重な品々に触れ、失われた過去に思いを馳せる。 ふいに、窓際のカーテンが揺れた。 風は無い。しかし、確かに先程までと違う気配に、三人は一斉に同じ窓の方を見た。 ゆらゆら、ゆらゆらと、 カーテンが揺れる。 否。 揺れているのはカーテンでは無かった。 カーテンの手前側に、白っぽく、ぼんやりと揺れる影がある。 影は次第にはっきりと形を成し、長髪の少女の姿を作った。 ひ、と、ほたるが息をのむ。 白いドレスの上にカーディガンを羽織った少女は、窓の外を眺めるように立ち尽くし、 そして―― 消えた。 * 「彷徨う幽霊少女ねえ……」 廃墟探索に夢中になるあまり、その存在をすっかり忘れていたヒナタが顎に手を当てて唸る。 「や、やっぱり、女の子の幽霊、いたんだっ」 「だねー。ユウレイってあんな感じなんだ」 興奮気味のほたるに、どこかちぐはぐな答えを返す緋夏。 ほたるの頭の上のぽてとも、ふるふると震えているようだ。 「緋夏さんは、怖くない? というか、怖いものって無いの?!」 屋敷に入る前から、緋夏に感じられたのは『興味』や『好奇心』ばかりだった。 「うーん。ユウレイは怖くないなー。でも怖いものはあるよ」 「そうなんだっ……、なんか、もはやそれも、意外だな!?ってくらい、落ち着いてるよね、緋夏さん…… ヒナタさんも」 見ればヒナタはデジカメを覗き込み、データをチェックしているようだ。 「あー、やっぱ駄目だったか」 「何が?」 「心霊写真、撮れちゃったかもーって思ったんだけどね。霊撮るにはデジカメは不向きっぽいよね、うん」 「写真!?」 撮ったの!? と、口をぱくぱくさせて声も無く尋ねるほたるの気持ちを察して、苦笑する。 「や、最初はビビったけどさ。でもよく見てたらなんか、ホラ、襲われる!ってことも無さそうだったし」 「そうだね。あたしたちに対する敵意はまったく感じなかった」 平気な顔のふたりを交互に眺めながら、そういう問題じゃないのに!と胸中で反論しつつ、それでも、と、基本素直なほたるは納得してしまう。 心を落ち着けて反芻する。 おとなしそうな……、優しそうな女の子だった。 歳も同じくらいだった、多分。 もし、生きてる時代が同じだったら。 「一緒に遊べたかもしれない、ね」 思わず漏れた声に、極端だなあと緋夏が笑う。 ほたるも恥ずかしげに、えへへ、と笑った。 「とりあえず、幽霊の存在自体は確認できた、と」 「証拠は無いけどねー」 「ゆ、幽霊の証拠なんて、みんな一緒に見た!ってだけでじゅうぶんだよっ!」 「だな。じゃあお次は?」 「えっと、調査、かなあ。なんで幽霊がでるのかとか、いろいろ」 「あたしも知りたいな」 「何を?」 「少女が、何を怖れていたのか」 ●少女の部屋 「大体さ、無念を晴らすと成仏するってのが定石じゃね?」 んーで、その『無念』と『少女が怖れていたもの』ってのが、関わってると思う訳よ。 全体的に柔らかな暖色の調度が揃えられた、可愛らしい雰囲気の部屋は、その可愛らしさゆえに、屋敷のなかでもひと際もの悲しい雰囲気を醸し出している。 『立派な寝台のある女子な部屋』というのが、少女の部屋を特定する為にヒナタが挙げた条件で、この部屋はまさに、条件にピッタリだった。 天蓋付きベッドの、繊細な彫刻の施された柱に指先で触れながら、緋夏が呟く。 「結婚が怖ろしかったのかもしれないし、単純に、死ぬのが怖かったのかもしれない」 「彼女の存在を快く思わない者に怯えてたとか、婚礼間際に酷い傷を負い相手側に拒否られるのを怖れたとか……、って、判断材料ねえと取留めもねえな。大体死因は何なのよ」 「急死って言ってたけど、もともと病気だったのかな?」 「ユウレイの噂話にも、死因は出てこなかったしねー」 「なんにせよ、現地での調査次第、か」 鏡台の引き出しをガタガタと引っ張り、中身を探るも、出てくるのは大小のガラスの小瓶や、玩具めいた指輪や、そんなものばかりだ。 怖いもの。ほたるが口のなかで呟く。 私だったら、……体重測定とか。特に、ごちそう食べすぎちゃった日なんか。 違う違う、頭をぶんぶん振って考え直す。 あの女の子だったらきっとそんな心配はしない! ……じゃあ、お屋敷での孤独? こんな広い家に住んでても、相手してくれる人いなかったら寂しいもんっ。 「あー。そういうのは、少しわかる気がする」 瞳孔の細長い、赤い瞳をゆっくりと瞬かせた緋夏に、え、き、聞こえてたっ?! と、ほたるが慌てたように振り向く。 慈しみあうような間柄とは限らない。例えば互いに殺し合い、喰らい合うような相手でも、己を認識する他者がいなければ、自分自身の境界さえあやふやになってしまう。他人の感情の機微に疎い緋夏は、世界に一人きりになった自分を想像して漠然と思う。 それは確かに恐怖だろう。 ほたるの考えたのは、もう少し単純なことだ。 家族や友人や、大切ひとたち、いつも傍にいるのが当たり前の……。彼らがいなくなった世界を思い描いた。大好きな人と、お別れしなければならない瞬間。その、如何しようもない程の心細さ。 けれどほんの束の間、見つめ合ったふたりの瞳に浮かんでいたのは同じ色合いだ。 人は孤独を怖れる。 「……正解かもね」 二人は弾かれたように声の主であるヒナタを振り向き、その視線の先を追った。 ベッドの上。 二度目の邂逅は、静かに静かに訪れた。 ボロボロに千切れ、色褪せて、疎らにぶら下がるベルベットのような布地の合間から、真っ白い少女の姿が見える。 こくり、と喉を鳴らしたのは誰だろう。 ほたるが勇気を振り絞って歩き出そうとする前に、ヒナタが、広いベッドに乗り上げるようにしてスケッチブックとペンを差し出した。 「お」 乾ききった唇をなめて湿らせる。 お話しましょー……コワクナイヨーココデ何シテルノー 棒読み気味に話しかけ、スケッチブックを示す。 (そっかっ! この子、話さないんじゃなくて、話せない……?!) 破れたベッドカバーの上に座り込んだ少女は、あらぬ方向を見つめたまま何か言いたげに唇を動かし、けれどその次の瞬間には、先程と同じように消えてしまった。 ふう、と、ヒナタが大きく息を吐く。 「相互理解つーのは難しいもんだね」 「なんか、でも、惜しかった気がする……っ」 どうしても強張ってしまう身体から力を抜いて、ほたるが悔しげに呻く。 ベッドの上、少女の消えたあたりをじっと眺めていた緋夏が、ごそごそとシーツを探ると、ふたりを振り向いて、手のひらの上の小さな紙片を差し出した。 「これ……なんだろう、手紙……、詩?」 ほたるが覗きこんだ紙片には、宛名も差出人の署名も見当たらない。 掠れて、消えかけた数行の文字。 辛うじて読みとれる単語はひとつだけだった。 ”Liberte(自由)” ●書斎 シャッターを切る度に、乾いた電子音が響く。 (そこに流れた年月を佇まいで物語る形骸…… いいねいいねー! 朽ちてる程趣きがあるね!) 三人は互いに目の届く場所で、思い思いの探索をしていた。 緋夏は実践型だ。動ける場所を動き回り、動かせるものは動かし、開きそうなものはとりあえず開く。初めこそ緋夏の無鉄砲さに危うさを感じていたヒナタだったが、いまはその行動の端々から、彼女が意外と用心深く、危険を察知する能力に優れていることを感じ取っていた。先程の紙片も、そんな彼女の行動から得られた貴重な情報だった。 ま、貴重っつったってね。 あの『自由』が何を意味するのか、サッパリ見当つかないワケだけど。 それでも、今のところはたったひとつしかない、重要なカギなのだ(多分)。 結局、少女の部屋で紙片以外の手掛かりが掴めなかった一行は、次に主の書斎を探索していた。 だがこの部屋からも有力な手掛かり――、手紙も日記も、その他どんな記録も発見できず、ヒナタは、デジカメを手にしたのだった。 部屋の内部をひととおり写真に収め、見渡すと、ほたるが床にぺたんと座りこんで、メモ帳に何か、一生懸命書きつけている。 「何やってんの」 「あっ、えーっと、ね! 別に!」 幽霊屋敷に座り込んじゃって、別にってこと無いでしょーよ。 って、あ。これ。 「幽霊少女の、絵?」 「うん、あの、あんまりうまく描けないんだけどねっ? こんなふうに、笑った顔、見てみたかったな、とか」 一本線のまるっこい輪郭に、長い髪、大きな目。にっこりと両端のつり上がった口。 可愛い絵だなあと素直に思う。 「ほんとは、話を聞いてあげられたら、あの子のこと理解してあげられたらって思ってるんだけど……、いざとなると、どうしても上手くいかないからっ」 こうして描いておいてね、あとでまた会えたら、見せてあげようって。 「ふうん。きっと喜ぶよ、あの子」 「そうかな? だったら嬉しいなっ」 ほたるが照れくさそうに笑う。 「もしかしたら」 頭の後ろから、ふいに緋夏の声がした。 「でも、もしかしたら、あの子には見えてないのかもしれないよ」 話せないのと同じように。 あの子の目は何処も見ていなかった気がする、と、緋夏は告げた。 少女の表情を頭に思い描く。 焦点の合わない、黒い瞳。 背筋にすっと冷たいものが走った。 俺の怖いもの…… 失明、だな。見えなくなること。 ヒナタは、気を逸らすように本棚の書物を手に取りながら、振り払いきれない想像と否応無く向かい合う。 手を失っても頑張りゃ足や口で描けそうだが 失明は文字通りお先真っ暗 これ迄培ってきたものも無に帰すし もう何も描けない 俺終了じゃん。 限界まで伸ばした腕で掴み取り。 あるいは、指先すら届かないまま。 震えそうな手のひらを見つめる。 描いてきた過去、描くはずの未来。 全部失われるなら、この手が一体何の役に立つ? 足掻いて、足掻いて、代わりに別の何かを失いながら、それでも必死に手に入れたものを、奪い去られる恐怖。 人は喪失を怖れる。 カチッと、小さな、小さな音がした。 全身の神経を緊張させたまま、此処に至る道程を振り返る。 二階の廊下を見上げる階段の下で。 少女の部屋、ベッドの脇で。 俺は確かに、同じ音を聞いていた。 ●怪談 「何が怖ろしいのか分からないのが怖ろしい」 緋夏は言った。 怖れというのは根源的なものだ。 敵を見極める為。生命の危機を察知する為。 生きていく為に、必要なものだ。 だから、生きていく為に、怖れから目を逸らしてはいけないんだ。 少女は、緋夏の目の前に立っていた。 顔色もドレスも、色を失ったように真っ白な―― 燃えるような髪と瞳を持つ緋夏とのコントラストは、薄暗い邸内でさえ眩い。 動き出そうとするふたりを制して、緋夏はただ、じっと少女の瞳を見つめた。 何かを語るような瞳は、しかし何をも映さず、悲しげに揺れて、 消えた。 「あの子は父親の姿を見てたんじゃないかな」 確かに、少女の立っていた位置からは、書き物机に向かう父親の背中がよく見えただろう。ふたりが生きていた頃には、何気ない会話を交わしたこともあったかもしれない。 遠い、遠い過去には。 それは残像だ。 「この屋敷に残る、傷痕みたいなものだよ」 「傷痕……?」 緋夏の言葉に、ほたるが首を傾げる。 「お嬢さん方、ちょーっと、確かめたいことがあるんですがー」 何かに気付いたらしいヒナタが手首の腕時計を示して言った。 「幽霊ってのは、時間にキビシイのかね?」 「ど、どゆこと?」 ほたるが時計を覗き込む。 「現在時刻、あー、14時20分、ちょい前くらい。で、これ」 今度はデジカメを取り出して、液晶画面にとある写真を呼び出した。 「えっと、これは廊下の写真? この場所に女の子が居た筈だけど映らなかったって」 「うん、そう、でも見て欲しいのは撮影した時間ね」 「12時17分?」 不思議そうな表情のほたるに、ああ、と声を上げる緋夏。 「ほたる、机の上の時計を見てみて」 「…………!!」 時刻は、0時17分。 「ぜんぶ、17分に起こったんだ……」 「そう。んで、俺には幽霊がそんな、キッチリした生活送ってるとは思えない」 「同意ー」緋夏もうんうん、と頷く。 「そ、そんな、わかんないよっ。だって、もしかしたら、もしかしたらあの子が死んだ時間が17分とかでっ、それで、それで」 「よし、じゃあ、もいっこ手掛かり!つか、証拠? 幽霊少女があらわれる前、必ずカチッて、スイッチの入る音が聞こえる」 「スイッチって……」 「オン、オフ、とかのスイッチだねー」 緋夏が指でボタンを押すしぐさをして見せる。 「あと一時間待てばハッキリするだろ、多分」 駄目押しのようにヒナタが言って、それから、一時間。 果たして少女は現れた。 見つけたのはほたるだ。 一階にある書庫、スイッチの音と共に少女は現れ、ほたるの呼びかけも空しく、それまでと同じように消えてしまったのだった。 * 「何もそんな、がっかりすること無いでしょ。本当に、病気で死んだ少女の無念!とかだったら恐いでしょーが」 「…………」 慰めるような口調に、ほたるは感謝の気持ちを込めて、黙ったまま頷く。 『ロストテクノロジー』 父親の書斎で、ヒナタと緋夏は、声をそろえて言った。 ブルーインブルーの島々にある遺跡には、未知の技術が眠っているのだという。 あの屋敷は、それらの遺跡の上に建てられたものだった。 ヒナタ達にもその仕組みは分からないものの、ある程度の推測は出来た。 あの屋敷にあったのは、『映像再生装置』だ。 そう言われてみれば、少女が消える前のノイズは、何かの障害でテレビ画面が乱れるときによく似ていた。 だから、ほたるは納得していたし、がっかりしてもいない。 本当に怖ろしいことを、考えていた。 窓の外を眺め、本を読み、ベッドの上で詩を書き、父親の姿をじっと見つめていた、あの女の子を、愛しいと思い、助けたいと思い、次の瞬間には失ってしまったことを。 そしてそれと同じことが、いつでも起こり得るということを。 ヒナタは、ほたるが抱いている不安を漠然と感じ取りながら、そこに触れることをしなかった。代わりに、『幽霊少女』を描いてやろうと目論んでいた。彼らの見た少女は、言ってみれば、生きていた頃のままの少女なのだ。それが流れる歳月に霞み、色を失っていったのだった。少女の生きていた証があの映像であれば、その姿にほたるの描いた似顔絵の愛らしさを重ね、自分なりに新しく息を吹き込むこともできるのではないかと、ヒナタは思っている。 ヒナタの思考と表現は、結局のところ、全て描くことへ繋がっているのだった。 ――色を亡くした少女、ね。 ふいに胸を刺した鈍い痛みは、抜けない棘のように、いつまでも消えずに残った。 * 「奇譚卿への報告はどうする?」 緋夏の言葉に、ヒナタとほたるは、少し、面倒くさそうな顔をした。 「えー」 「うーん」 「まずタイトル」 「「幽霊少女は実在した!!」」 声を合わせる二人に、緋夏がぷ、と噴き出す。 「だってさあ、実際のところ、あれがロストテクノロジーだって証拠も無いんだから」 「えっ。ヒナタさん、今更!?」 「はっきりさせない方がロマンでしょ」 「だって、調査はっ」 「様子を見て来てって頼まれただけだもの。金持ちのヒマつぶしだぜ」 「そりゃそうだよねー」 じゃあ、そゆことで、お土産と一緒に渡せばいいか……と、緋夏が取り出したのは、あの紙切れだ。 「それ、持ってきたんだね」 「うん」 「結局さ、あの子は何を怖がってたのかな……?」 「さあ」 旅人たちは首を傾げて、それぞれの答えを胸に抱く。 見上げた空、白い鳥が、美しい円を描いた。 了
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