オープニング

「みなさんにはインヤンガイに向かっていただきたいのです」
 世界司書、リベル・セヴァンが告げた。
 いまだ居所がわからない館長。しかし、少しずつ、消息を絶って以来のその足取りが掴めてきている。目下のところ、最後に彼の所在が確認されたのはインヤンガイということで間違いないようだ。
 一時期を『永久戦場・カンダータ』で過ごしたあと、かれらの異世界侵攻軍とともにインヤンガイにやってきた。だがそのあと軍を出奔し、行方不明になったあと、再びインヤンガイの暴霊域で姿を見られている。
「ロストレイルにもスレッドライナーにも乗れない以上、館長は『まだインヤンガイにいる』……そう考えるのが自然です。ですからインヤンガイで大規模な捜査を行うことには意味があるでしょう。もしこの捜索で館長が見つからなくとも、それはそれで事態としては前進です。可能性をひとつひとつ潰していくこと――、それによって私たちは少しずつでも真相に近づけるのですから」
 リベルは言った。
 かくして、大勢のロストナンバーがインヤンガイへと向かうことになった。
 今回も、頼みとするのは現地の探偵たちである。
 複雑なインヤンガイの社会の隅々までネットワークを持つ探偵たちの力を、この捜査ではフル活用することになる。ロストナンバーは数名ずつ、インヤンガイ各地に散り、その地を縄張りとする探偵と協力して考えうる限りの捜索活動に力を注ぐのだ。
 すでに、探偵への声掛けは行われており、「もしかすると館長に関係するかもしれない情報」について、集まり始めているという。ロストナンバーがその真贋を見極めに行くことになる。
「みなさんに向かっていただくのはこの街区です。縄張りとする探偵は――」
 リベルはてきぱきと、担当を割り振っていく。

 * * *

「――ようこそ、シバン区へ。歓迎するよ」
 ロストナンバー達をそう言って出迎えたのは、まだ十過ぎほどの少年である。探偵の使いかと問えばそうではなく、彼自身が探偵なのだという。
「僕はユンロン。あなた達の道案内と解る範囲で質問を返す係を仰せつかってる。よろしくね」
 怒られたくないし早速、と年相応の無邪気な声でユンロンは語り始めた。
「あなた達が探してる紳士、かもしれない人が目撃されてるのは、この地区をぶち抜いてる川のほとりだよ。ちょっとした曰くつきの」

 ヘイ川はどこにでもある汚い川である。他と少し違うのは、金目の物やら食品やら、お金持ち『だった』ものやらが緩い流れに運ばれてくることだろう。それを目当てに人が集まり、そして時々いなくなる。そしてご多分に漏れず、不吉な噂や事故が絶えない。
 いつからだろうか、そこに一人の紳士の姿が見られるようになったという。
「何をするでもなくぼぅっと川を眺めてるらしいよ。神出鬼没でいつの間にか消えてるみたい」
「それが館長だと?」
「さぁ? インヤンガイの普通のお金持ちはあんな所に来ないから、珍しい人であることは確かだね。おまけにあなた達の探し人さんと特徴が合致してたから報告しただけだよ、真偽はあなた達が確かめなくちゃ」
 そうでしょ? と笑ってユンロンは応え、続けた。
「ヘイ川にはある時間に川の近くにいると川の亡霊に喰われるっていう噂があってね。毎年結構な数の人か確かにいなくなってる。稼ぎがいいから人員補充には事欠かないし、実際のところはどうかなんて聞かれても判らないよ? 誰も探しちゃくれない人たちだから。
 で、件の紳士はその危ない時間の直前に姿を見せるんだって。今じゃいい警笛代わりだって近くの人は言ってる。そして『警笛』を無視した人は軒並みいなくなる」
「その、ある時間ってのはいつのことだ?」
「『死体が鳴く時だ』って言われてるみたいだね。こう、獣が吠えるみたいな、中途半端に首を絞められた人間が最期に出す絶叫みたいな声だって」
 自らの咽喉を掴んでおどけたように言うユンロンにロストナンバー達の視線は冷たい。単なる納涼祭に来たつもりはないとロストナンバーの一人が素っ気なく言うと、ユンロンは肩を竦める。
「実際何が鳴いてるのかは誰も知らないよ。ヘイ川にいるのは人間と蟲と死体と無機物だけだから、声を出せるのは人間か人間『だった』死体だけだっていう話から発展した与太話かもしれないし、本当に死体が鳴いてるのかもしれない。
 鳴き声は一旦置いておいて、違う角度から言えば、人が失踪する時は、失踪することになる人と件の紳士しか川岸にいないわけだよね。だから『紳士=人さらい』って考えた人は少なからずいたようでね。三日前だったかな、彼らが、暇潰しとか暇潰しとか憂さ晴らしとか暇潰し代わりに紳士にちょっかい掛けに行ったらしいんだけど。
 みぃんな、いなくなっちゃった」


 ぼぅっと川面を眺める金持ちに内心で悪態を付きながら、ホンユイは辺りを見回した。聞いた話とは違い、死体は一つもなかった。ドブ川にはゴミしか流れていない。もしかしたら、もうとられてしまったのかもしれないと、ホンユイは肩を落とした。
「ねぇちゃん」
「何、」
「……なんでもない」
 ホンユイが睨むと、ホンユイの服の裾を掴んだ弟は小さくなるばかりだ。そのまま消えてしまいたいとさえ、思っているに違いない。姉であるホンユイにはそれが情けなく、苛立たしい。幼い弟は愚直で、臆病だ。くだらない噂を真に受け、怯えている。泥をさらい、屍を漁ることで稼ぎを得られるのなら、この上ない行幸なのだといくら言い聞かせてもちっとも効き目がなかった。
「ねぇちゃん!」
 不意に情けない弟の悲鳴が聞こえ、ホンユイは思考から現実へ立ち返る。めいっぱい眦を釣り上げて叱りとばせば、意気地なしの弟にも怒りが伝わるだろうと思った。
 咽喉元までこみ上げた罵声は溜めた息ごと咽喉に詰まる。壁が、ホンユイの視界を塞いでいたのだ。
 驚いて身を引くとそれは壁ではなく、先程の身なりのよい壮年だった。ホンユイが壁と誤認するぐらいの長身は心理的な圧迫感を与える。
 いつの間に近寄られたのだろうか、金持ちが何の用だろう、と、ぐるぐると益体のないことがホンユイの頭を巡る。
 何よ、と問う声は自分でも呆れるぐらい弱々しかった。紳士は物も言わず、ホンユイを見下ろしている。
 獣が吠えるような絶叫が遠くから聞こえ始めた。



!注意!
イベントシナリオ群『インヤンガイ大捜査線』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『インヤンガイ大捜査線』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。

また、このシナリオは『ヴォロス特命派遣隊』『ブルーインブルー特命派遣隊』に参加している人は参加できません。合わせてご了承下さい。

品目シナリオ 管理番号891
クリエイター望月(wczw9254)
クリエイターコメントこんばんは、お久しぶりです。もしくはお初にお目に掛ります、望月と申します。当シナリオに目を通して頂き、ありがとうございます。

このシナリオではヘイ川の川岸で目撃されている紳士が館長なのか、そうではないのかを調べて頂くことになります。
 ヘイ川では失踪事件が頻発しており、件の紳士は失踪に関係がありそうです。また何やら曰くも事欠かないようですので、入念な準備をお勧めします。案内役のユンロンは皆様の道案内を努めますが、武力はからっきしですのでご注意ください。かと言って彼を守る必要もありませんし、放置するも利用するもご自由にどうぞ。

 OPにあることないこと色々と考えて、紳士が館長か否か、川に響く鳴き声はなんなのか、など、自由にプレイングを書いて頂ければと思います。皆様のプレイング次第で結果は如何様にも変わるでしょう。


それでは死体の鳴く川のほとりにて、皆様をお待ち申し上げております。

参加者
ディガー(creh4322)ツーリスト 男 19歳 掘削人
ディブロ(cvvz6557)ツーリスト その他 100歳 旅人
荷見 鷸(casu4681)コンダクター 男 64歳 無職

ノベル

 ユンロンの説明を受けたロストナンバー三人の見解は凡そ一致していた。
 「……ぼくは館長さんに会った事無いけど、ぼーっと立ってるっていうのはちょっと違う人な気がするなぁ」
「そうですね。詳しい人格については不明ですが、仮にも世界図書館の館長を務め、世界の危機に率先して行動を起こす人物、にしては、随分と大人しい」
 トラベルギアをぎゅっと握り締めながらのディガー呟きに、ディブロも同意する。隣を歩く荷見鷸(ニイミ シギ)は静かに頷くに留まった。
 ディガーが独り言のように思いついたことをぽつりぽつりと話し、ディブロは律儀に返答し、鷸は答を求められれば簡潔に所感を述べる。三人がヘイ川の周辺を調査し始めてからずっとこの調子である。
 鷸は不機嫌なわけではない。寡黙は元々で、かつ、それを弁明しようと思わない程度に愛想がないだけだ。その性格が誤解を生むことも少なからずあったが、幸いディガーやディブロは全く気にしていない様子だった。ちょろちょろと走り回るセクタン・クヌギがちょっかいを掛けても怒ることもない。ディブロの場合は、興味深げにクヌギを弄り回すので少し警戒されているようでもある。
 実にありがたい、気楽な同行者達だと鷸は思う。必要以上のことは話さず、旅人の外套のお陰で住民達に必要以上に干渉されることもなく、思考を折り重ねていくことができた。
「川の流れは緩いって探偵の子が言ってたけど、お金が目当てなら、死体は残ってそうですよね。居なくなった人は食べられちゃったんでしょうか?」
「普段どおりで構わないよ、ロストナンバーに年齢など意味をなさないからね」
「食べられた、とは『何に』でしょうか?」
「えぇと、川にいる『何か』に。鳴き声はその『何か』が出す合図で……とか」
 得体の知れない『何か』は狩りをするのだ。不気味な鳴き声を上げ、川を荒らす愚かな人間を丸呑みにしていく――そんなホラー映画まっしぐらな情景をディガーが思い浮かべていることは想像に難くなかった。
 僅かに苦笑して、鷸は応える。
「きみの考えを一概に否定することはできないが、鳴き声の原因はただの死体はである可能性もあるよ。内臓の腐敗ガスが急激に声帯を震わせることで発生する音だ。
 壱番世界でも起こる、超常的現象が関わらない生物学的現象だ。勿論、インヤンガイでも起こりえるだろうね。愉快なものではないが、生きた人間や未知の『何か』が上げている声だと考えるよりはマシだろう」
「しかし、そうすると何故死体が消えているのかが判りませんね」
「そうだ。自分で言っておいて何だが、死体は当たり前のように鳴くわけではない。仮にその時川に遺体があるとしても、それが鳴くには何らかの急激な変化が必要だ。その変化に居合わせた人間が巻き込まれているのかと思ったが……」
「じゃあ、紳士は関係ない? でも声がしてもその人だけ無事ってことに、何か関係ないのかなぁ」
「いや、無関係ではないだろうね」
「その変化を起こしているのが紳士である可能性が出てきますね。そうなると件の紳士は館長どころか、暴霊だと考えるのが自然だと思われますが。何れにせよ、これから明らかにすればよいことです」
 ディブロは立ち止まり、先導を見下ろした。それによって鷸とディガーも目的地に着いたことを悟る。周囲の建物とは明らかに違う豪奢で頑強な建物の前で、探偵のユンロンは三人に言った。
「そういうこと。期待してるよ、探偵さん達?」



変化に気づいたのはいつだったか、彼は考えた。
あれほど喧しくさえずっていた燕が消えたことに気づくのに、どれほどの時間を要したのか。
自分にとって大したことではなかったのだろうかと自問したが答えは出ず、結局いつもの場所から淀んだ川を眺めることにした。



 鷸がヘイ川周辺の地形を確認する間、ディガーとディブロが住民に聞き込みを行うという役割分担が出来上がった頃。恰幅の良い女が、立派な四肢を揺すりながら言った。
「この辺りで、好き好んでヘイ川の川原に立つような金持ちはイーフェイ爺ぐらいなもんだろうよ」
「そのイーフェイさんってどんな人なんですかー?」
 初めは口を噤んでいた住人も一人が口火を切ると、雪崩のように後を追う。
「ヤン・イーフェイ。可哀想な男なんだがね、」「フツーのお金持ちだったんだが、妻と娘を亡くしてからねぇ」「自分も顔半分爛れちまって」「いっぺん見たことがあるが偏屈で頑固な変人さぁ」「この十年、自分は屋敷から一歩も出てないらしいよ」「ここ最近じゃ、出入りの業者すら見た奴がいねェから、屋敷の中でおっ死んじまったんじゃねぇか?」「もう結構な歳だしな」「んで、亡者になって川にいるんじゃねぇかって」
 最後はお決まりの「皆そう言ってるよ」で締め括られた井戸端会議を受けて、ロストナンバー達はヤン・イーフェイ邸へと足を運んだのである。屋敷の造りこそ立派だが、長期間放置されていたことが誰の目にも明らかで、それ以上に人が生活した様子さえなかった。
「鍵は開いたまま。住人の気配なし。この屋敷の主は一体どこへ消えたのか……」
「旅行に行ったのかな?」
 主寝室にはベッドと机と本だけが詰め込まれている。窓を開け放つと、饐えた水の臭いが鼻を突く。窓のすぐ下はヘイ川の川原で、高さは二階建ての建物と同じぐらい。飛び降りるのは少々躊躇われる高さだ。
「すぐ下は川原ですか。ちょうどいい、ユンロン、三日前に失踪したという人達の風体を判るだけ詳しく教えてください。……鷸、ディガー、私は先にヘイ川を調べようと思います」
「川原に行くの? じゃあぼくも」
「いえ、潜ります」
「ヘイ川に?!」
 全員が驚くのを見てもディブロは平然とした態度を崩さない。彼にとってはごく当然の論理の帰結なのだろう。
「大丈夫、こう見えても本当の姿は水に適した小さな姿ですから。それでは後ほど、ヘイ川で集合しましょう」
「そういう問題じゃない気がするけど……」
 ディブロは最後まで聞かなかった。ふ、と赤毛の少年から何かがが飛び出すと同時に、身体が崩れ落ちる。何か――鷸の見間違えでなければそれはクラゲだった――は刃に形を変えたトラベルギアを従えて、ヘイ川へ消えていった。
「私たちも手がかりを探そう」
 鷸の一言で、ディガーと鷸は大量に積まれたイーフェイの寝室を探り始めた。私物を勝手に漁ることを詫びつつ手記を読む。そこには自分の体調に関することが少しと、残りのほとんどが鳥について記述されていた。
 さながら小鳥の観察日記である。
「ユンロン、インヤンガイで燕は年中見られるのかね?」
「まさか。渡りは一時期しかいないよ」
 さらさらと読み進めていく内、鷸の眉間の皺はどんどん深くなっていった。鳥ははしこいがどこか間抜けで、負けず嫌いで人に対して真摯だった。途中からイーフェイは鳥のことを燕と書くようになっている。しかし燕だとしたら、年中イーフェイの前に現れているのは妙な話だ。
「別の鳥を燕だと勘違いしてたのかなあ?」
「そう考えることもできるが……ん?」
 鷸が考えをまとめる前に、主寝室のドアが荒々しく開け放たれた。そこにいたのは全身全霊でワタクシゴロツキです主張しているような男だ。間違いなくイーフェイではないだろうと落胆した鷸は男を横目に一瞥して本の世界に戻った。
 男は男で鷸を値踏みするように見て、何かを放り投げて寄越す。それは、壱番世界でいうアジアンノットに似た組紐を合わせて作った首飾りである。特別美しいわけではない、寧ろ歪で素人の作品だろう。ヤンと刺繍されたタグがついていた。特に興味を惹かれなかった鷸は首飾りをディガーに渡す。
 どうやら鷸とイーフェイを取り違えているらしい。ニヤニヤとナイフをちらつかせて、次に言い出すことは簡単に想定できた。
「これ、あんたが目をつけた小娘にくれてやったもんなんだろ。親切な俺が拾ってやったぜ。だから、」
 爺とトロそうな奴二人ぐらいどうにでもなると舐めて掛かったのが彼の運の尽きである。
「ナイフなんて持ってたら危ないですよう」
 たかがと見くびった爺は、いささかも動じていない。トロいと侮った青年の手は、男がどれだけ力を込めても微動だにしない。いかにも純朴そうな微笑はそのまま、ディガーは掴んだ男の腕を離さないかった。男が戦意を失うのを見て取った鷸はいつもより更に無愛想な声で命じる。
「その話、もう少し詳しく聞かせてもらえるかね?」
 当然ながら、男に拒否権など存在しない。



昨日まであれほど重かった身体が今日は妙に軽い。
最近川から妙な声が聞こえる。
不思議と五月蝿いとは思わず、気になった。
たまたま、たまたま気が向いただけ。
十年ぶりに外に出る理由など、本当にそれだけだ。



 ごぼ っ
 (思った以上に汚れが酷いですが……何とかなりますか)
 インヤンガイの気弱な陽光は水深十センチの時点で退却した。視界は皆無に等しく、時折浮いてくる水泡と自分を除けば音源すらない。ある一面では平穏で安定した場所と言えて、どこか故郷に近しい場所だと感じた。故郷ほども心地よくはないが。
 (底を浚えば何か出てくるでしょう)
 緩い流れの中でそんな風にディブロは考える。本当に何も残っていないのでなければ、知覚さえできない泥の底に沈んでしまったのだろう。特別気の短い人間でなくても思わず溜め息をつく難題に対しても、ディブロは淡々と己がなすべきことを選び、実行するのみである。
 より一層、底とも知れぬ底へ。ディブロの本体は水中で存分に真価を発揮した。脚を伸ばして探り、水の動きを感じて周囲の状況を脳裏に描く。突然深くなる場所もあるようで、人間が脚を取られるとただではすまないだろう。
 ――――         。
 潜ってからどれだけ経っただろうか。脚に何かが触れた。
 拾い上げてみると、どうやら人間の腕のようだ。ほとんど白骨化し、人物特定の手がかりにはなりそうにない。他に何かあるだろうかと、身体を停止させる。
 ――――……、
 不意に声が聞こえた気がして、ディブロは感覚を研ぎ澄ませ。
 (!)
 次の瞬間、身体が傾いだ。
 脚の一本を掴まれたのだと気づいた時には、深みに引きずり込まれている。即座に水面へ浮上し始めたディブロの脚に何十人もの人間が掴まったような嫌な重みが掛かる。
 それは紛れもなく人間の手だ。けれど、この水中は生きた人間が住まえる世界ではない。
 ディブロは迷わずトラベルギア【愚者の庵】の刃を向けた。
 ―――……!!
 ブツリ、柔らかい物を断つ手応えと同時に、川全体が鳴動するような巨大な振動が伝わってくる。大量の気泡と亡者の手が川底から湧き上がってくる。
 鳴動は、人間の断末魔によく似ていた。



川原に立つのは初めてだ。間近で見ると尚更ヘイ川の汚さが良く判る。
あの燕はよく平気な顔をしていたものだと妙に感心した。
川原に立ってすぐ、あの声が聞こえ始めた。



「きみはこの首飾りを奪ったのかね」
「奪ったんじゃねぇ、落としたのを拾っただけだ」
「ではそういうことにしておこう。首飾りに価値はないが、その元々の持ち主がイーフェイ氏であると知った。私をイーフェイ氏と勘違いしたきみは体よく善意の拾い主として、『正当な』謝礼を頂こうと考えた」
「……そうだ」
「全く以って浅慮極まりない。本来の持ち主はどうしたんだね」
「しらねぇよ」
 鷸はそれきり彼への興味を失ったらしい。そちらを見向きもせず、物珍しげに観戦していたユンロンに男の処遇を投げ渡した。
「後はきみに任せよう、私達にひのこが掛からないのならどうしてくれても結構。これはインヤンガイの法で裁かれるべき事案だろう」
「じゃあ、なるべく面白く処理するよ」
 無邪気にユンロンは請け合い、男は得体の知れない寒気に襲われたというがその後どうなったかは定かではない。鷸は更に手記を読み進め、文字に疲れたディガーは窓から身を乗り出して川面を眺めていた。
「この川は掘れそうにないなぁ……あ」
 心底残念そうに肩を落としたディガーは、川原に人影があることに気がついた。一つは貧民層の住人らしき少女と少年。ディガーのほとんど真下に――
「鷸、あの人じゃないかな」
 長身痩躯の紳士の姿。ディガー達の場所からでは後ろ姿しか見えないが、ただひたすらに、何かを待ちわびるように川原に立ち尽くしているようだった。
「ずっと川見てるけど、そんなに好きなのかな?」
「解らない。……ここからでは人間かどうかすらも判らないな」
 じっと紳士を見据えていた鷸とディガーは同時に目を疑った。瞬き一つの間に少女と少年の許に紳士が移動したのである。数十メートルの距離を一瞬で移動するなど、普通の人間には無理だ。恐らく、ロストナンバーである館長にも。
 不気味な唸り声のようなものが鼓膜を叩き始めた。地獄の底から響く生者への怨み節のように聞こえたのは鷸だけの被害妄想ではないだろう。川面には何一つ浮かんでいないというのに。
「これが『死体の鳴く時』?」
「だとしたら急がなくちゃ」
 鷸はユンロンに厳しい口調で問う。
「ユンロン、ここから川原に向かうのに最短で何分掛かる?」
「五秒もあればいけるんじゃない?」
 至極不思議そうに首を傾げるユンロンに首を傾げる暇を鷸には与えられなかった。そして、同時に答を得る。細い鷸の身体が軽々と宙に浮いた。何事かと思えばディガーが抱え上げたのだ。その脚は既に窓枠に掛かっている。
「鷸、行こう!」
「ちょっと待ちなさ、いッ」
 この歳になって空を飛ぶことになろうとは誰が予想しただろうか。悲鳴なぞ挙げる暇もなかった。着地は思った以上に静かなものだったが、それでもふらつく足許と跳ね上がった心拍を宥めるのに時間が掛かる。その間に、ディガーは早々に紳士と少女達の許へと走っていった。つくづくツーリストのポテンシャルの高さには驚くばかりである、或いは『若者のポテンシャル』と評するべきか。

 「こんにちはー。あのう、館長さんですか?」
 緊迫した空気にそぐわぬのんびりした問いかけが、ホンユイの耳朶を打つ。背後から肩にやんわりと置かれた手は確かに生きた人間のもので、ホンユイは自分でも驚くぐらいに安堵した。ゆるゆると振り返ると、銀髪の二十歳ほどの妙に嬉しそうな笑顔の青年。別に何かが嬉しいとかではなくて、元々こんな顔なのかもしれない。
「こんなに近寄ったら、驚くからよくないですよう」
 青年――ディガーからは紳士の顔はよく見えない。怯える少女が可哀想だと、頭の天辺から爪の先まで完璧な善意で、紳士から少女を『取りあげた』。
 場の空気が変わる。今まで動くところをほとんど見せなかった紳士が、飛鳥の早さでディガーに手を伸ばす。
 ――び ォ!!
 追いかける紳士の手と帽子を鷸の矢が打ち落とした。露わになった顔を見て、ホンユイが息を呑む。
 この紳士が世界図書館館長エドマンド・エルトダウンであるはずがない。光のない濁った瞳と半分爛れた老人の顔を持つこの男は、生まれてから死ぬまでずっとインヤンガイに居たのだから。
「その辺りにしておかないか、ヤン・イーフェイ。そのお嬢さんは、きみが探している燕ではないよ」
「やん・いーふぇい」
「それがきみの名前ではないのか」
「……そうだ、私がヤン・イーフェイだ。では……お前達は、誰だ」
 老人の瞳にほんの僅か意思の光が戻る。会話ができると踏んだディガーがダメ元で尋ねる。
「ぼく達、エドマンド・エルトダウンっていうひとを探してるんです。あなたと同じぐらいの背格好の人なんですけど」
「知らんな」
「そうですか……あの、これ、あなたのですか」
 ディガーがゴロツキから回収した首飾りを取り出すと、イーフェイは目の色を変えた。ディガーからひったくるように奪い返す。
「お前、これをどこで!」
「街のゴロツキが拾ったと主張していた。私達が無理に手に入れたものだとは思わないでほしいところだね」
「……」
 鷸は的確にイーフェイの興奮を殺ぐ。
「私からも一つ。きみがこの川原に立つようになってから特に人が失踪しているそうだが、何か関係があるのか」
 寧ろそちらが気になるのでね、構えた弓もそのままに鷸が問う。お前を疑っていますと言わんばかりの直截な物言いにイーフェイは皮肉気な笑みを口の端に刻む。
「私は関係ない。ただ、私がここに立つ時間に、たまたまアレが出てくるだけだ」
 依然、獣の唸るような、地響きのような音は続いている。
「あれ、とは?」
「知らん。人間を掴んで引き摺りこんでいる。どうせ暴霊の類だろう」
 鷸の問いに、イーフェイが答えるのと同時、汚水を跳ね上げて、ディブロがヘイ川から飛び出してくる。
 ばツン、追い縋ってくる肉色の何かを斬り捨てる。斬り落とされた肉は、ぐずぐずと溶けてヘドロになって辺りに飛び散った。
 ディブロは空中に身体を安定させるや否やトラベルギアを展開し、鷸とディガーに注意を促す。
「でかいのが来ますよ!」
 お ォオオオぅぁああああああ――――
 聞く者の嫌悪感を呼び起こす轟音。ディブロに牽引されるように川から上がったそれは、人間が折り重なってできた巨大な肉の塊だった。
 ディガーはホンユイ姉弟を背後に庇ってシャベルを握りしめる。並大抵のことではぴくりとも動揺を面に出さない鷸さえ、その醜怪さに顔をしかめた。
 全く他人事の風情だったイーフェイもまた、肉塊の中の一つの顔を認めて絶句する。
「……シャオイェン」



ここは暗くて探し物をするには向いていない
あやまりにいこうと思っても、からだが重くて上がれない
猿みたいに身軽いのがわたしだったはずなのに
川にいる人に掴まって上がろうと思っても、ますます重くなっていく
ばかだから何回もためして、どんどん重くなった
最近は人がいないのに、今日は人がたくさん
一人ずつじゃ無理だったけど、たくさんいたら上にあがれるかなって思った



 




「おそらく、あの核のようなものが、昔からヘイ川にいた暴霊だったんだろう。それが例年の失踪者の原因だ」
「シャオイェンもその暴霊によって死んだのでしょう。ところが、他とは違う彼女の強い未練が暴霊を変質させてしまったのかもしれませんね」
「今となっては、想像の域だがね」
「そうですね」
 ざっ ざャりッ
 穴を掘る音が響く。湿った土は重く、頻繁に石とシャベルが引っ掛かる不快な音が鼓膜を引っ掻いたが、穴を掘る当のディガーはすこぶる幸せそうな顔である。
「ねぇお兄さん、インヤンガイの墓掘り職人に転職しない? お兄さんならすごく稼げると思うんだ。案外需要あるんだよう?」
「うーん、それも楽しそうだけど、ぼくはお墓を掘るのが好きなんじゃなくて、穴を掘るのが好きだから。遠慮しておこうかなぁ」
「そっかぁ、残念」
 それきりお喋りな探偵は黙り込んだ。掘削人が嬉々と穴を堀り、ディブロと鷸で遺体を収めた。神妙な顔のクヌギは、どこで見つけたか小さな白い花を持って鷸にひっついている。
「まぁ、あなた達の探し人じゃなかったのは残念だったけど、こっちは変な噂のオチが判って助かったよ」
 機械よりも精密で早い仕事を見せたディガーの働きで、埋葬には一時間もかからなかった。ユンロンは笑顔で三人を労う。彼にしてみれば面倒事が一つ減ったというところなのだろう。そして、異世界で果たすべきことが全て終わった以上そこから立ち去るのがロストナンバーの義務である。
 荒れ果てた庭に墓標代わりの小石が突っ立っただけの空間はひどく殺風景で物寂しい。最初にそこから踵を返したのは鷸だった。その風景にいささか心奪われた自分を振り切るように、足早にロストレイルへ引き返していく。鷸の脳みそは、一度通った道を記憶する程度のことならまだ余裕でこなしてくれる。
 その背を追いかけたディガーは立ち止まって、別れの言葉を告げた。
「ユンロン、また会うことがあったらよろしくね」
「なるべく覚えておく努力はしておくよ、つなぎのお兄さん」
「ディブロ、鷸行っちゃったよ?」
「今行きます」
 己を呼ぶディガーに頷いておいて、ディブロは最後にぽつりと呟いた。
「幸せそうで何よりです」
 土の下で寄り添う老人と少女は、今はもう穏やかに眠っている。

クリエイターコメントお待たせいたしました……!

残念ながら当シナリオでは館長を見つけることはできませんでしたが、皆様のご助力で暴霊達は安らかな眠りに就くことができました。

あれこれ書きたいと思う内に制限字数いっぱいいっぱいになってしまい申し訳ありません。それでもまだ駆け足という……。

お気に召して頂ければ幸いです。最初から最後まで大量に捏造いたしましたので、設定・口調などで気になる点がございましたら事務局を通じてとなりますが、お気軽に訂正をお申し付けください。

当シナリオに参加して下さった御三方、お読み下さった皆様、まことにありがとうございました。

公開日時2010-10-07(木) 20:00

 

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