「みなさんにはインヤンガイに向かっていただきたいのです」 世界司書、リベル・セヴァンが告げた。 いまだ居所がわからない館長。しかし、少しずつ、消息を絶って以来のその足取りが掴めてきている。目下のところ、最後に彼の所在が確認されたのはインヤンガイということで間違いないようだ。 一時期を『永久戦場・カンダータ』で過ごしたあと、かれらの異世界侵攻軍とともにインヤンガイにやってきた。だがそのあと軍を出奔し、行方不明になったあと、再びインヤンガイの暴霊域で姿を見られている。「ロストレイルにもスレッドライナーにも乗れない以上、館長は『まだインヤンガイにいる』……そう考えるのが自然です。ですからインヤンガイで大規模な捜査を行うことには意味があるでしょう。もしこの捜索で館長が見つからなくとも、それはそれで事態としては前進です。可能性をひとつひとつ潰していくこと――、それによって私たちは少しずつでも真相に近づけるのですから」 リベルは言った。 かくして、大勢のロストナンバーがインヤンガイへと向かうことになった。 今回も、頼みとするのは現地の探偵たちである。 複雑なインヤンガイの社会の隅々までネットワークを持つ探偵たちの力を、この捜査ではフル活用することになる。ロストナンバーは数名ずつ、インヤンガイ各地に散り、その地を縄張りとする探偵と協力して考えうる限りの捜索活動に力を注ぐのだ。 すでに、探偵への声掛けは行われており、「もしかすると館長に関係するかもしれない情報」について、集まり始めているという。ロストナンバーがその真贋を見極めに行くことになる。「みなさんに向かっていただくのはこの街区です。縄張りとする探偵は――」 リベルはてきぱきと、担当を割り振っていく。●「皆様には、探偵の出雲平助(いずも・へいすけ)より提供のあった情報を追って頂きたいと思います」 世界司書エリザベス・アーシュラがホワイトボードをひっくり返せば、既に用意されていた地図がロストナンバー達の目の前に姿を現した。「彼の事務所から少し距離を置いた所に広がる、巨大なゴミ捨て場。その近くには路上生活者達の暮らす廃墟が並び、ゴミを拾って毎日の糧を得ています」 そこはおよそ法の目が行き届かない、弱肉強食の無法地帯。治安の悪いインヤンガイでも、まず自分から向かおうと思う人間は滅多にいないくらいだ。 が。「最近になって、路上生活者達にまとまりが出てきたらしいのです」 危険に対処する為かゴミ拾いは数人単位のルーチンワークが行われ、まともに動けない老人や子供には食料の配給までなされているという。「気になった出雲様が調べてみたところ、皆が口を揃えて『先生のお陰』と言ったそうです」 この「先生」とやらが、館長ではないかというのだ。何でもその人物は、博識な頭脳と類い稀な指導力であっという間に路上生活者達の信頼を得たらしい。可能性としてはあり得る。「しかし一方では、懸念も生まれています。集団となり自己主張を始めた路上生活者達と、これまで地区を仕切ってきたマフィアとの対立が激しくなっているとの事。全面衝突となれば、多くの死傷者が出るでしょう」 ロストナンバー達が「先生」に接触する事で、それさえ回避できれば――それが出雲の思惑だった。現地の案内も兼ねて、今回は彼も同行するつもりのようだ。「皆様であれば身体に危険が及ぶ事は無いでしょうが、集団の力は時に思いもよらぬ方向へ向かいます。充分にお気をつけ下さい」 チケットを差し出し、エリザベスは深く頭を垂れたのだった。==========!注意!イベントシナリオ群『インヤンガイ大捜査線』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『インヤンガイ大捜査線』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。また、このシナリオは『ヴォロス特命派遣隊』『ブルーインブルー特命派遣隊』に参加している人は参加できません。合わせてご了承下さい。==========
閑散とした通り。乾いた風が物悲しく吹き抜ける昼下がり。 探偵業を生業とする出雲平助は懐から煙草の箱を取り出すと、人差し指で軽く叩いた。 (心許無い、残りは二本……か) 今度は縦に振って顔を出させ、直接口をつけて咥え込む。反対の手に取り出したライターで火をつけると、甘美な味わいが脳髄を満たしていった。 煙を吐き出し、再び歩みを進める彼の前で、壁に寄り掛かっていた人影が身を起こす。 風にはためく深紅のジャケット。頭に巻いた漆黒のバンダナから零れる金髪をなびかせながら、B・Bはどこか相手を小馬鹿にしたような表情の目を出雲に向ける。 正面から向かい合った二人はやおら満面の笑みを浮かべると、右の拳を打ち合わせた。 「やぁ、兄弟」 「おぉ、心の友よ」 実際には、顔を合わせるのはこれで二度目だったりするのだが。そんな事を感じさせない雰囲気で肩を並べる。 「じゃあ、行くか」 「あいよ」 まるで近所の居酒屋に飲みにでも行くかのように。 命の保証すら無い混沌の街へと、二人は呑み込まれていった。 ●さるく、さるく、ゴミの街 (ちっ、相変わらずシケた街だぜ) 短パンのポケットに手を突っ込んで歩くグレイズ・トッドの顔は不機嫌そのものだ。 右を見ても左を見ても、すえた不幸の臭いしかしない。 (俺は館長やココの連中がどうなろうとどうでもいいんだがな) だが、生きていく以上食べなければいけないし、その為に誰かの厚意に甘えるというのは、彼の矜持に反する。あるいは、ロストナンバーとなる前にいた世界と同じように、盗みで生計を立てる事も考えたが…… (零世界の連中、並外れた奴ばっかだし) 真面目に働くより苦労を伴うならば、罪を問われるだけ損というものだ。 そんなこんなで、今回インヤンガイを訪れたのも彼の意思によるものではあるのだが。 (ムカつくものはムカつくんだよ!) それが同族嫌悪に近い感情である事に、おそらく本人は気がついていないだろう。 「なあ、ちょっと人探しをしてるんだ。タダとは言わねぇから、話を聞かせてくれねぇか?」 ドラム缶を囲んで焚き火をしている子供達に目をつけ、挑戦的な目つきで声を掛ける。リーダー格らしき年上の青年は、黙って右手を突き出してきた。 この地区に来るまでに繁華街でくすねておいた板チョコをその中に放り投げると、焚き火の輪が崩れて自分を招き入れる。どうやら商談成立らしい。 「皆から『先生』って呼ばれてる奴の事だ。そいつがどこからやって来たのか知ってる奴はいるか?」 子供達はそれぞれに顔を見合わせ、バラバラに首を横に振った。「この街で過去の事を聞くのは野暮ってもんだぜ」、大人の言葉を真似ているのか、子供の一人が妙に気取った様子で帽子の位置を直す。 「それじゃあ、次。『先生』は食えない奴に食いもんまで配って回ってるって聞いたんだが、その金はどこから出てると思う?」 と、今度はパラパラと手が挙がった。 「先生のグループがゴミ山漁りした稼ぎは、全員でビョードーに分けてるんだよ。その中に病気の奴やジーサンバーサンも混ざってるんだ」 「何だっけ。『助け合いのセーシン』って言うんだっけ?」 「凄いよねー」 わいのわいのと盛り上がる子供達の様子に、グレイズは奇妙な違和感を覚えながらも思考を巡らせていた。 (一応筋は通ってるか……けどそれで『先生』に何の得があるんだ?) それから、彼等と似たような境遇を経験した事のある人間として疑問が一つ。 「でもよ、それだとどんなに頑張っても稼ぎは山分けなんだろ? サボる奴ばっかりになるんじゃねぇか?」 ゆえに理想論としての社会主義は崩壊し、世界には資本主義の荒波が襲い掛かる――と、グレイズが学問めいた視点を持っているはずも無かったが。学を修めていない分だけ、実体験から核心を突く思考が生まれる事もあるというものだ。 彼の言葉に子供達は再び顔を見合わせるも、質問の意味が分からないとばかりに戸惑った様子で首を傾げるのみ。子供とはいえ――否。こんな底辺の社会で生きる子供だからこそ、純粋に損得で物事を考えそうなものだが。 (……何か調子が狂うな) ボタンを掛け間違えたような、何とも言えない気色の悪さ。その正体を見極めようと、グレイズは氷の如く澄んだ瞳を細めるのだった。 子供の輪に混じっているグレイズの姿を遠目に確認し、木乃咲 進はそっと息をついた。 (あいつにはあいつのやり方があるってわけか) ロストレイルの車中でむっつりと押し黙り、不機嫌な表情で「近寄るな」オーラを放ち続ける彼の姿を発見した時には、どうなる事かと思ったが。 (俺もボチボチ始めるかね) ぼろ切れのような外套を羽織り直す。チケットの力で目立たないとはいえ、小奇麗な姿ではこの街には溶け込めないだろうと考えての事だ。 と、その視界の端を黒い姿が横切る。 飛天 鴉刃だ。癖になっているのか、足音一つ立てずに歩く姿に自然と目が吸い寄せられる。前を歩く複数の人物は、この地の住人だろうか? (なーんか、ヤな感じ) 訝しむような進の視線を感じながら、鴉刃は男達の後を追う。 ぐねぐねと入り組んだ路地を抜け辿り着いたのは、袋小路になった小さな空間だった。 「どういう事だ? 私は、危機を避ける為に『先生』と話し合いをしたい、そう申し出たはずだが」 落ち着いた様子で尋ねる彼女の視線の先で、拾い上げられた三本の鉄パイプが鈍い光を反射させる。 「どこのどいつとも知れない奴を先生に会わせるわけがないだろ。あの人は俺達の希望なんだ。先生は俺達が必ず守ってみせる!」 「成程、それでそのように殺気立っているのか。本気で私を殺そうと思っているのならば失格だな」 「うるせぇ!」 凶器が空を切り、澱んでいた悪意が一気に熱を帯びてくる。 (ここまでは予想通り) 徒手空拳で構えながら息を整える。彼等が「先生」を知っているのは間違いなさそうだ。これが突破口となれば良いのだが。 次々と襲い来る鉄パイプをかわしながら、鴉刃は束の間の狂宴に身を委ねる。 そんな事が起きているとは知る由も無く。 「ここも懐かしいなぁ」 うず高く積まれたゴミの山を見上げながら、B・Bはバンダナの位置を直した。ゴミに取り憑いた暴霊退治にやって来たのはいつの事だったか。ロストナンバーになって以来、どうにも時間の感覚が曖昧だ。 そこへ、長い白髪を垂らした人物が歩いてくる。隣には出雲の姿もあった。 「よう、どうだった?」 「芳しくないな。件の人物、その存在とカリスマ性だけが先行して、パーソナルな部分を知っている人間は少ないようだ」 ハクア・クロスフォードはそう返して、手の中の直方体を何とはなしに弄んだ。売り手の路上生活者曰く高性能の部品らしいが、彼にとっては無用の長物であるのに違いは無い。実際に買ったのは情報だが。 「ま、有名人はヴェールの向こうにいた方が、都合が良いもんじゃね? 人間、叩けば埃が出てくるもんだしな」 言葉の端々に妙に達観したものが見え隠れするものの、おちゃらけた態度からはその真偽をうかがう事はできず。 出雲が手帳をめくりながら頭を掻く。 「彼が多くの路上生活者に信頼されているのは間違いないだろうけどね。最近、この辺の死傷者及び行方不明者の数は劇的に減ってるんだから」 もっとも、その為に今度は人口過多の傾向が見られるから、一概に喜ばしい事とも言えないのだが。 あまり馴染みの無い類いの問題の話に、ハクアは瞳を瞬かせた。 「そうなのか……素直に喜べないとは、皮肉な話だな」 「でも、聞けば聞く程、館長とは違う気がするんだよねぇ」 考え込むような表情で、B・Bがそう漏らした。 そもそもの発端となった、カンダータを始めとした異世界での館長の足跡。それと比較するに、「先生」と呼ばれる人物像は明らかに館長のそれと異なる。あまりに異世界の社会のあり方に影響を与え過ぎているからだ。 「おいおい。そっちの当てが外れたからって、途中で帰らないでくれよ?」 「こっちもお仕事だからねぇ。そいつは状況次第かな?」 是とも非とも答えないB・Bだったが、ふと真顔で口許に人差し指を当てた。 「他にも仕事熱心な奴がいるみたいだよん」 そこでは数人の路上生活者とマフィアらしき男達が、人目をはばかるようにして言葉を交わしていた。 「――主はおっしゃいました。『汝、隣人を愛せよ』と。皆さんで祈りましょう。アーメン」 膝をつく白衣の人物の所作に合わせ、何人かの子供が動きを真似た。そして彼を指差しながら笑い声を上げて走っていく。 そんな様子を見送り、立ち上がった三日月 灰人は―― 「おぉっ、主よ! 異世界とはいえ神の教えが伝わっていないとは嘆かわしい限りです! これもひとえに、私達信徒の不徳の成すところ! どうかお赦しを……」 再び祈りを捧げて十字を切る。忙しい人である。 「それにしても、真面目に聞いて下さる方はなかなかいませんねぇ……」 用意した炊き出しはあっという間に配り終えたというか、奪われたというか。もう用は無いとばかりに、寄ってくるのは興味本位の子供ばかりだ。 「あんたか? 神だの何だの、変な事言ってる奴は?」 ほら、まただ。しかしこれも試練なのかもしれない。 「えぇ、そうです」 声変わりを終えていない甲高い声に笑顔を浮かべながら振り返ると、案の定一人の少年が裸足で仁王立ちしていた。 「この世の全ての命は、神の祝福の下に生まれています。その事に感謝し、善行を成そうというのが私達の教えです」 「ふ~ん」 少年はさして興味の無さそうな様子で鼻を鳴らし、 「それじゃあさ」 おもむろに、通りに面した路地の一つを指差した。陽の光もなかなか届かないこの場でなお暗い闇に隠れるようにして、ボロを着た人影がうずくまっている。 「あのジイさん、元はデカい会社の社長だったらしいんだけど、実の弟に騙されて全財産を奪われちまったんだって。その途端に周囲は手のひらを返したように冷たくなって、あれよあれよと言う間にこんな所さ。それも神サマの思し召しなのか?」 つつ、と指が伸びたまま横へ動いた。 「あいつはずっと目が見えない。生まれつきなのか、怪我したのか、怪我させられたのかは分からないけど。物心ついた時にはここにいたそうだから、親に捨てられたんだろうな」 灰人の見ている前で、細い角材を杖代わりに歩いていた幼い少女がバランスを崩して地面に倒れ込んだ。 「大丈夫ですか?」 駆け寄った灰人は手を差し伸べるが、少女はびくりと体を震わせて硬直してしまう。背後から、遅れて歩いてくる少年が息を吐く気配があった。 「安心しろ、オレの知り合いだ。つっても、知り合って十分くらいだけど」 随分と手厳しい事で――苦笑いを浮かべながらも、少女の顔に安堵の色が広がった事にこちらもほっとする。 ぺこりと頭を下げ、再び頼り無い足取りで進む少女。付き添おうとする灰人を、少年が手を挙げて押しとどめた。「助けて貰う事に慣れたら、ここじゃ生けていけない」と。 「皆、今日の食い物を探すだけで精一杯だ。金持ち共のおこぼれに頼ってな。悪い事をした覚えも無いのに、オレ達ばっかり何でこんな目に遭うんだ?」 「それは――」 口をついて出掛けたのは、聖書の一部を引用した紋切り型の答え。だが、まるで磨き抜かれた黒真珠のような瞳を前に、彼は二の句を告げられなかった。 神が見守っておられるのならば、何故人々は憎しみ合い、争う? 神が祝福してくれているのならば、何故人は産まれた瞬間から哀しむべき死に向かって歩んでいる? それが神の試練というのならば、何故乗り越えられずに死にゆく者達がいる? 何故だ? 何故だ! 何故だ!? もしかしたら、神などというものは、この世に存在しな―― 「何者ですか、貴方は!!」 しわがれた声に、深淵に沈んでいた意識が一気に現実へと引き戻された。 「え……?」 乱れた心が行き場を失い、意味を成さない音が思わず零れる。 今のはもしかして、自分の発した声か? まるで老人のような声だった。そういえば酷く喉が渇いている。いつの間にやら、全身から嫌な汗が噴き出しているではないか。 顔を上げて周囲を見渡すが、ついさっきまでいた少年の姿はどこにもない。どうやら、自分が思っているよりもずっと長い時間、物思いに耽ってしまっていたらしい。 「それにしても、今のは一体……」 渇いた喉を唾で無理やり濡らしつつ、呻く。絶対だと思っていた自分の信仰が揺らいだ――否、それだけではない。 (おぉ、神よ。私に試練を乗り越えるお力をお貸し下さい) 天を見上げ胸の前で十字を切る。その瞳に、闇の向こうの光は見えているのだろうか? ●溶ける心 振り回される鉄パイプの一本が、鴉刃の左肩を捉えた。 「ぐっ……!」 膝をクッション代わりにして衝撃を吸収しようとするも、衝撃と痛みに大きく体勢が崩れる。鴉刃は無理に逆らわず、そのまま地面を転がるようにして包囲から抜け出した。 男達は慌てて後を追おうとするも、すぐに全身のバネを使って起き上がった彼女の取る構えを前に、思わずたたらを踏んでしまう。 「どうした、何もせずに死ぬつもりか!」 「死ぬつもりは無い」 繰り広げられているのは一方的な暴力だったが、余裕の差では傍目にも逆転しているのが見て取れた。男達は言葉こそ威勢が良いものの、その表情には焦りが色濃く滲み、時折手元を滑らせる汗は激しい運動によるものだけではないだろう。 対して、鴉刃はさして息を乱すでもなく相手を見据えている。実のところ、内心では少々うんざりしているのだが。 (少し暴れれば頭が冷えるかと思ったが……) かわし、いなし、時には受け止め。いくら頭に血が上っていても――その理由すら鴉刃には見当もつかないのだが――、自分を倒す事はできないと彼等も察しているだろう。なのに何故立ち向かってくるのか。 (「先生」を守る……か) 健気な事だが、全くの見当違いだ。さっきから折を見てそう説明しているのだが、聞く耳を持ってくれない。 行き詰まった感触に次の動きを考えあぐねていた鴉刃だったが、そのゆらゆらと揺れる髭がピンと一点を差して硬直した。 (誰か近づいてきているようだな) 騒ぎが始まって遠ざかる者こそ多かれど、自分から出向いてくるような酔狂は初めてだ。ただの野次馬ではあるまい。 「そのくらいにしておけ」 やがて路地から姿を現した人影の隣に、彼女は見知った人物を見つける事になる。 「お前は……」 「よ。大変だったみてぇだな」 そこでは進が頬を掻きながら、安堵の表情を浮かべたのだった。 「いやー。俺が乱入するだけじゃ騒ぎが大きくなるだけっぽかったからな」 そこで話を通せる人物を探していたところ、丁度出くわしたのが目の前の老人なのだそうだ。 「この度は弟子が迷惑を掛けた」 「弟子?」 「あいつ等に棒術を教えたのは儂じゃよ」 そういえば、素人の割には構えが様になっていたかもしれない。 「それはそうと、茶はお好きかね? 詫び代わりに進ぜようと思うのだが」 「あぁ、有難く頂戴する」 鴉刃としては、天然水かいっそのこと酒の方が好みなのだが。流石にこの場で言うわけにもいかず。 独特の作法で淹れられた烏龍茶から立ち昇る湯気を挟み、三人は静かに会話を始めた。 「貴殿等は『彼』を探しているのだったな?」 「性別も年齢も分からねぇけど、『先生』って呼ばれてる奴だ。知り合いかもしれねぇ」 「その様子だと、御老体はその人物を直接見知っているようであるな?」 案内して貰えるのならば、かなりの近道になるのだが。 二人が胸に抱いた期待を察したのだろう。しかし老人は曖昧に言葉を濁す。 「会った事はある。言葉も交わした。不思議な奴じゃよ」 その瞳は、どこか遠くを見るように。茶を啜った口から息が零れた。 「彼の声も言葉も、この胸に焼きついて離れない。しかし何故か、その姿を思い出せぬのだ。そこにいるのは分かっているのに、霧の向こうの風景のように判然としない。まるで文通相手の想い人のようにの」 どういう事かと二人は不思議がるも、それ以上明確な答えがもたらされる事は無かった。 傾いた建物から出ながら、老人の言葉を思い返す。 「彼が何をしようとしているのかは、儂にも分からぬ。だが、彼との関わりの中で多くの人間が生き方を変えた。中には自分を見失っているようにしか見えぬ者も少なくない。お主等も努々(ゆめゆめ)、気をつけられよ」 山積みされたゴミによって生まれた天然の迷路の中。マフィアは目の前の路上生活者達に小さな包みを渡そうとしていたところだった。 そこへ、あらぬ方から声が掛かる。 「やめておけ。それは他人のみならず、自らをも蝕むぞ」 「またてめぇかよ」 大きく舌打ちするマフィアの視線の先にその姿を認め――ハクアが珍しく驚きを顔に表した。深い森の色をした瞳の中心で漆黒の瞳孔がきゅっと引き締まる。 (ロストナンバー……) フード付きの外套で全身をすっぽり覆った影。その上にあるべきはずの数字が無かった。それだけではない。 (顔が……無いのか?) フードの中は樹の洞のように何も無い。それなのにしっかりと人間の頭の形に盛り上がっているのが奇妙な眺めだった。 「いい加減、俺達のシマを荒らすんじゃねぇ!」 「そちらこそ、彼等を食い物にするのはやめろ。何度も言っているが、ここ以外でなら何をしようと邪魔するつもりは無い」 しばしの睨み合い。痺れを切らしたのは、マフィアの方が先だった。口々に罵声を飛ばしながら去っていく。 「成程ねぇ。おクスリの流通ルートに使ってるのか。美味しい商売だこと」 突然現れたロストナンバー達にも、その人物はさして驚いていない様子で――といっても、表情を見る事はできないのだが――顔を向けた。 「それだけではない。住民の集めたゴミを安く買い叩いて、そこから回収できるレアメタルを企業に売り飛ばすのが奴等の主な収入源だ。――君達は他の住人と少し違うようだな」 B・Bやハクアに何かを感じ取ったのか、怯える路上生活者達に「私は彼等と話がある」とここを去るよう促した後、小さく告げる。 「重度の中毒になる前に、麻薬からは手を引いておけ。私のグループに来れば、食べ物は保証する」 答えは無かった。逃げるようにして走り去っていく背中を見送る姿から物悲しさを感じるのは、こちらの勝手な思い込みだろうか? ――いや、重要なのはそこではない。 確信をもって、ハクアはかの人物に尋ねた。 「おまえが『先生』だな?」 「親から貰った名はとうに忘れた。個を主張する名称にも興味は無い。それでもこの意志を単体として認識するならば、あるいは」 ●Our choices are bad 「先生」、発見せり―― その報せはトラベラーズノートによってロストナンバー達に行き渡り、彼等は再び一同に会していた。その中心には新たな存在が。 「覚醒、ディアスポラ現象、そしてロストナンバー……それが私の身に起こった事象なのか」 烏龍茶の注がれた湯呑みが薄汚れたテーブルの上に置かれる。彼の住まいは拾い集めてきた家具で何とか体裁を整えている程度で、ほとんど廃墟と大差なかった。本人曰く「これでもこの界隈では上等な方」らしいが。 「それで、君達の目的は?」 「いや。探してたのは別の人間なんで、違うと分かったからお暇しようかなー、なんて」 頭を掻きながらへらへらと笑い、「それじゃ!」と背を向けようとするB・Bの肩を進がつかんだ。 「待てやコラ」 「これ以上は第三者が首を突っ込むべきじゃないよ。垣根を越えたら、鳥は針鼠になっちまうってね」 見ているだけだった垣根の鳥――Hedge Birdも、相手が自分達に干渉してくると知るや否や、針鼠――Hedge Hogへと姿を変えるかもしれない。棘で怪我する程度ならばまだマシだが。 独特の追い回しにも言いたい事は分かったのか、進が喉の奥で唸る。彼自身、どうするのが最善なのか迷っているのは否定できなかった。 「だがこのままでは、待っているのは悲惨な結末だけだ。何らかの対処が必要であろう」 横から口添えしたのは鴉刃。灰人も頷き、 「血が流れる事となれば、主がお嘆きになります。それを防ぐ為に私達はあらゆる努力をするべき……だと思います。多分」 尻すぼみになってしまうのは御愛嬌。 肩をすくめたB・Bが席に戻るのを確認して、ハクアは改めて「先生」の風貌に目をやった。 「社会から弾き出されて絶望していた彼等をまとめ上げたのがどんな人物か興味深かったんだが……これはお前の能力なのか?」 言いようの無い不快感に表情を歪めながら尋ねる。彼はこくりと頷いたように見えた。 「そうだ。微弱だが広範囲、大多数に及ぶ精神感応。相手を支配する事は無理だが、共通する価値観や願望を起点として潜在意識を共有する事になる。強い自我や信念を持つ者には効果が薄いようだがな」 路上生活者達が彼に好意を抱くのも、彼にとって不都合な事実を忘れているのも、そしてその事に疑問を抱かないのも、その影響というわけか。 小さく舌打ちの音が聞こえた。ここに来てからずっと黙っていたグレイズだ。 「人の心に土足で上がり込んで、何様のつもりだよ? 気に食わねぇな」 「……もっともな意見だ」 「てめぇ!」 一瞬の内に冷気をまとい殴り掛かろうとするグレイズを、鴉刃と進が慌てて押さえ込んだ。ハクアは見えない表情を探るように凝視しながら、ある可能性を口にする。 「まさか……」 「あぁ。自分でも自由にできない力だ」 「ちっ……! くそっ、放しやがれ!!」 ようやく解放されたグレイズは忌々しげに「先生」を睨むも、暴力を振るう気は失せたらしい。 「で? どうするつもりなんだよ? ここの連中、もう元の生活には戻れねぇぞ。今度はあれが欲しい、次はこれが欲しいって、有頂天になって突っ走るだけだぜ」 容赦の無い物言いに、相手は答えを口にする事ができなかった。 「私は、彼等がマフィアに利用されず、そして飢え死にしないような社会システムを作りたかっただけなのだが……」 事ここに至っては、余計なお節介だったと言わざるを得ないだろう。半分は彼自身がこの地で生きていく為に必要な行為でもあったのだが。 「さ~て、話はふりだしに戻ったわけじゃん?」 沈黙を破ったのはB・Bだった。視線に気づいた「先生」が視線を合わせ、数秒。二人の間でどんな会話がなされたのか、本人達にも分からなかったかもしれない。 「奴等と話をつけてこよう。私がここを去る換わりに、住民達には手を出さないようにと」 やおら立ち上がった彼の言葉に、それぞれが思案する。 腕を組んだ鴉刃が目を細めて「先生」を見遣った。 「だが、相手には随分と嫌われているようではないか。独りで大丈夫か?」 「独りでなくては奴等を刺激してしまう。それに私一人の命で済むのならば、それはそれで結構な事だ。どうせ、この世に未練など無い。ロストナンバーだったか? そういう存在になったのも、運命なのだろう」 「それで解決するんかねぇ?」 と、これは進。「先生」も絶対とは口にしない。 「他に方法が思いつかない。精神感応から解放された住民達に組織立った武力蜂起は不可能だと思う」 それ以上異論が無いと見るや、彼は部屋を出ていった。 「彼は――」 ぽつり、灰人が呟く。 「彼にとって、何が救いとなるのでしょうか」 路上で突然襲ってきた絶望感。今思えば、あれは少年を介して伝わってきた「先生」のものなのだろう。その求めるところを想像するも、神の信徒として口にする事はできない。 「ちっ、生きたいのか死にたいのかハッキリしない奴だぜ」 吐き捨てるグレイズをどこか微笑ましそうに見遣り、出雲は最後の煙草に火をつけた。 「それが人間って奴なのかもなぁ」 と、進が腰を上げた。懐からナイフを取り出し、重さを確かめるように握り締める。その様子を見て取り、鴉刃も壁に預けていた背を持ち上げた。 「行くのか?」 「あぁ。ただ待ってるってぇのは、やっぱ性分に合わねぇぜ」 「そうだな。手出ししないにしても、結果を見届けないといけない」 ハクアが頷き、 「あぁっ、世界はどうして争いに満ちているのでしょう! 神よ、お慈悲を!」 灰人は神への祈りを捧げて立ち上がった。 無言で後に続こうとするグレイズだったが、ある事に気がついて立ち止まった。 「……何ニヤついてんだよ」 半眼を向けられたB・Bはいつもと変わらぬ気の抜けた笑みを返し、 「いやー、ある意味分かり易い最短ルートになったと思って、ね」 「俺には、てめぇがそう仕向けたようにしか見えねぇんだけどな」 「またまたー」 自身の得物である三節棍を地面に突き立てると、彼はふっと視線を上げ。 「ま、地を固めるには雨が降る必要があるってね」 そんな言葉で締めくくるのだった。 「取り引きなどする必要は無い」 無慈悲な一言と共に、銃口が一斉に「先生」に向けられた。 「お前がここで死ねば、全ては元の鞘に収まるだけだ」 その時だ。突如として発生したつむじ風がマフィア達を薙ぎ倒していった。「な、何だぁ!?」、誰かが叫ぶ中、窓ガラスを蹴破って踊り込んできた影が「先生」を押し倒す。 「ぐあっ!」 マフィアの一人が手元を押さえながらうずくまる。次々と放たれた弾丸は、正確に銃を持つ手を撃ち抜いていた。 「どういう事だ……!」 「そういう事だってな」 一番奥に鎮座していたマフィアのボスの言葉に答えてやりながら、部屋に現れた進は相手の背後を指差した。無数のナイフがブランド物のスーツのみを器用に貫き、コンクリートの壁に縫いつけている。 「敢えて殺さなかったのは理解して貰えたと思う。彼の取り引きに応じて貰おうか」 「先生」を助け起こしながら、鴉刃がマフィア達を厳しく見据えた。タイミングを合わせるようにして、グレイズが虚空に拳大の氷塊を出現させる。 「ま、嫌なら嫌で、ちょっと涼しくなって貰うだけだけどな」 と、次に現れたのは火の玉だ。 「ご安心を。すぐに温めて差し上げますので。どうにも不器用ですので、少々大火傷するくらいになってしまうかもしれませんが。――に、睨まないで下さいよ。怖いじゃないですか……」 強気なのか弱気なのかよく分からない灰人に抱かれたセクタンの綻がキューン、と一声。 「決めるのはお前達だ」 「ま、悪い事は言わないから折れちゃいなよ。この人達、怖いぞ~?」 ハクアが迫ったかと思った途端に茶化すB・Bにロストナンバー達は気が抜けるが、マフィア達にとっては逆に恐怖を催すものだったらしい。話の通じない相手と見られたか。 ボスは勢い良く首を縦に振りながら懇願した。 「わ、分かった」 ●虚無の畔 かくして、館長の捜索に赴いたはずのロストナンバー達は思わぬ結末を迎えて帰還する事となる。 その中には「先生」の姿もあった。 「結局、私はあそこでも不幸を振り撒いただけだった。離れるのが彼等の為だろう」 だが、彼は気がついているだろうか? インヤンガイに留まれば喪失の運命を免れなかった彼が生存の手段を取り、世界への帰属を復活できる可能性のある道を選んだ事を。 ここから先は、彼の能力を目の当たりにした人間の推測でしかないが。 他人と潜在意識を共有し、自分の為に利用する力だと彼は言った。だが、その思念の流れは本当に一方通行だったのだろうか? 自分の思想に取り込んでいるつもりで、その実は彼自身が他人の思考に呑まれ、変質していったのかもしれない。利用しているはずが利用されていたなんて、よくある話だ。 そんな中、はたして彼を単一の存在として定義できるのか。 それは哲学者達の仕事として。確かな事実は、彼がそこに居るという事だけである。 布ずれの音がする。 小さく息を吐く気配と共に、フード付きの外套が床に脱ぎ捨てられれば―― そこには、誰もいない部屋の風景しかなかった。 (了)
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