古城に灯が入っていく。それに誘われるように、仮装の人々が城門に吸い込まれていく。ある者はとんがり帽子と黒マントを纏い、ある者は蝙蝠のモチーフをあしらった杖を振り、ある者はゴーストの仮面を被っている。 ヴォロスの辺境、『栄華の破片』ダスティンクル。古い王国の跡地に建つ、微細な竜刻を多数内包する都市である。入城した人々を出迎えたのはこの土地の特産品であるお化けカボチャだった。カボチャをくり抜いて作られたランタンがそこかしこに飾られ、大広間にもカボチャを用いた料理や甘味がずらりと並んでいる。「ようこそ、皆様」 という声と共に、黒のロングドレスと仮面で装った老婦人が現れた。領主メリンダ・ミスティである。先代の領主の妻で、数年前に謎の死を遂げた夫に代わってこの地を治める人物だ。「今宵は烙聖節……この地に埋まる竜刻と死者たちが蠢き出す日ですわ」 冗談めかしたメリンダの言い回しに来客達は顔を引き攣らせた。「共にこの夜を楽しみましょう。けれど、お気をつけあそばせ? あたくし一人では手に負えない出来事が起こるかも知れません――」 未亡人探偵。領民たちはメリンダをそう呼んでいる。面白い事が大好きで、不可思議な事件に首を突っ込みたがるのだと。 時間は少し遡る。「要はハロウィンみたいなモノ? はいはーい、エミリエがやる!」 元ロストナンバーであるメリンダから依頼が届き、エミリエ・ミイがそれに飛び付いたのは数日前のことだった。 烙聖節。かつての王国が亡んだとされる日で、死者達が蘇って現世を彷徨うと言われている。そのため火――生者の象徴である――を夜通し焚き続け、竜刻の欠片を用いた仮面や仮装で身を守るのだ。今日では一晩中仮装パーティーを催す行事として息づいているらしい。 王国は巨大な竜刻を保有し、『聖なる祝福を受けた血』と呼ばれる王族が支配していたが、度重なる戦禍で亡んだ。王族は焼き殺され、竜刻も粉微塵に砕けて各地に飛散したという。ダスティンクルから出土する竜刻の大半はこの時の名残だ。「昔のお城は領主のお屋敷になってて、そこにみんなを集めてパーティーするんだよ。楽しそうでしょ? でもね……烙聖節の夜は不思議な事が沢山起こるんだって。竜刻のせいなのかな?」 エミリエは悪戯っぽく笑った。彼の地には調査の手が殆ど入っていないため、メリンダと繋ぎをつけておけば今後の任務がやりやすくなると付け加えながら。「依頼って言っても、難しく考えなくていいと思うな。あ、ちゃんと仮面と仮装で行ってね!」 + + + 妙にはしゃいだ調子で説明を終えたエミリエの後を引き継ぎ、世界司書シド・ビスタークはその頬に鷹揚な笑みを浮かべた。「今回、お前たちに行ってほしいのはメリンダの城じゃない。ダスティンクルの東だ」 ダスティンクルの東のはずれ、森の奥に澄んだ水を湛えた小さな湖が広がっている。辺境らしく美しい景色を臨めるそのほとりに、シドの語る場所はあるのだと言う。「エフィンジャー家……数年前に没落した貴族だな、その屋敷が建っていた」 過去形で締め括ったその語尾に、ロストナンバーの訝しげな視線が送られる。それも想定の内だったのか、シドは大仰に肩を竦めてみせた。「実際には、今も建っている。――ただな、焼け跡なんだ」 若く美しい女当主と共に、巨大な屋敷が突如として炎上し焼失した――エフィンジャーの没落、その最大の要因となった事件であり、未だに火事の原因などは判明していない。 火事から数年がたった今も、肉の削げた躯を曝すように、屋敷は焼け落ちたままの姿を湖のほとりに曝している。「で、だ。烙聖節の晩に、廃墟であるはずのその屋敷でパーティが行われるらしくてな。それに顔を出してほしいわけだ」 毎年烙聖節の時期になると、無差別に各家へ送られる一通の招待状。紅い蝋で封の為された繊細な筆跡のそれは、烙聖節を祝う仮面の宴へのいざないだ。 差出人はジラ・エフィンジャー。――死したはずの、女当主の名前だ。「初めこそ誰かの悪戯じゃないかと思われていた。……だが、エフィンジャー家と親交のあった奴に言わせれば、招待状は確かに女当主の筆跡らしいんだ」 もちろん、怪異はそれだけでは収まらない。招待状が届くのと同時期に、無残な焼け跡を曝していた屋敷の骸が、エフィンジャー家の存在していた当時の姿を取り戻すのだと言う。 シドは一旦語る言葉を止め、溜め息と共に首を横に振る。「招待状を受け、興味本位だとか、調査のために向かった奴が何人も居る。そして、そのほとんどが帰ってきていない」 死者に引き摺りこまれたか、屋敷に喰らわれたか。生還した者は恐怖に震えとても事情を訊ける体ではなく、帰ってこなかった者の末路は定かではない。「焼けた屋敷に棲む、死者からの招待状。……どうだ、気になるだろう?」 導きの書をひとつ捲り、シドは口許に皮肉にも似た笑みを浮かべた。「では、俺が視た情報を語るとしよう」 今や白紙に返った導きの書をめくり、シドは集まったロストナンバーをそれぞれ見やる。「エフィンジャー家のパーティに参加するのは、ほとんどが死者だ。死者たちは、生者の肉を求めて宴に姿を見せる。……毎年何人かの家に招待状が送られる理由もそれだろう」 めいめいに仮面と仮装で己を着飾り、烙聖節の生者を気取った死霊たちは宴を楽しむ。迷い込んでしまった人間の血肉を、何よりの慈味として。「その多くは、ゾンビではなくゴーストにより近い、実体のない霊だ。ダスティンクルに散らばっていた奴らを当主が集めたのかもしれんな」 烙聖節の晩にのみ現れることのできる、虚ろな存在。人の血肉を求めるのは、確かな肉体を得たいと言う願望の表れなのかもしれない。独白にも似た憶測を語り、斃すのはそれほど難しいことではない、とシドは付け加える。「火や光の強い場所なら、簡単に祓うことが出来る。烙聖節の炎にはその力があるからな」 邪霊は闇の中に於いて猛威を振るう。光はそれを祓い、死を退け、魔を弱める。それゆえ、烙聖節には闇を拭うように炎を燈し、素顔を隠すように仮面を着ける風習があるのだ。「数は多いが、苦労することはないだろう。……だが、主催者の女当主、ジラ・エフィンジャーだけは他の霊とは違う」 事件当時、エフィンジャー邸の焼け跡からジラの遺体は発見されなかったと言う。遺族は詮索されることを畏れるかのように捜査を打ち切り、屋敷を取り壊すことさえせずに放置した。「どんな執念がそうさせるのか……屋敷を当時の姿に塗り変えて、死霊達を呼び寄せ、生者を喰らう。この怪異の元凶である彼女は他の霊よりも強力で、光の中でも全く劣らぬ力を揮うことができる」 己が死したことにすら気づかず、幾度となく烙聖節を繰り返すだけの女。生に囚われ、死を受け入れられぬ、哀れな女。それを解き放ってほしいのだと、何処か感傷を滲ませた言葉でシドは言った。「具体的にはどうするか、って? 生前、彼女が大切にしていた或る品に、小粒の竜刻が嵌められていると言う。……それを使えば、当主を止めることができるかもしれんと思ってな」 彼女の纏う虚飾を引き剥がし、その姿を光の下に曝し、彼女自身に見せることが出来れば、あるいは――そこまで語って、ふとシドは口を噤む。仕切り直すかのように、ロストナンバーへと視線を向けた。「竜刻の探索には別チームが赴く。お前たちにやってほしいのは陽動だ。女当主の招待に応えて、パーティに出席してくれ」 何という事のない説明の隙間に見え隠れする、不穏な言葉の響きに気付いて、ロストナンバーの眉が顰められる。「霊たちがホールから出ないよう、引きつけておいてほしい。……最初は普通にパーティに参加して、喰われそうになったら派手に抵抗する。そこまで難しい話じゃないだろう?」 濃い色の眼鏡の奥に隠れた瞳に飄々とした色を浮かべて、シドはいともたやすく言ってのけた。「別に殲滅しろと言ってるわけじゃない。明かりの下ではただの雑魚だが、大量に湧いて出るからな。別のチームが竜刻を手にして戻ってくるまで、粘ればいい」 豪快とも大雑把とも取れる説明に呆気にとられるロストナンバーを尻目に、語るだけ語った男は導きの書を片手で閉じて、ああ、それと、とさもついでのように最後の注意を付け加えた。「女当主には手を出さないのが賢明だ。あれの力は大きすぎる。何が起きたとしても、竜刻を待て」 シドはそこで説明を止め、ヴォロスの名が記されたチケットをそれぞれへ手渡す。「くだんの招待状はメリンダから受け取る手筈になっている。ダスティンクルへついたら、一度彼女の城へ立ち寄ってくれ」 武運を祈る、と、先に見せない真摯な声で世界司書は語った。 メリンダ・ミスティは招待状の封を開き、その裏に記された名前を読み上げた。この世界の文字を、異世界の旅人達に読んで聞かせるように。 黒き水鳥を模した仮面が、文字を追う視線ごと顔の半分を覆い隠す。「ジラ・エフィンジャー……ええ、存じております。ちょうど、十年前のこの日だったかしら。烙聖節の宴の最中、突如として燃え上がった炎に巻かれ、屋敷と共に亡くなられた方ですわ。当時、エフィンジャー家には後継者の問題が紛糾していたようです。……結局、事件は蝋燭の不始末であったと片付けられましたが、果たして――」 暗紅色の唇に艶やかな笑みを刷き、黒鳥の女領主はかつての同胞へ、招待状を差し出した。 + + + 焔は燃え、生者、それそのものの象徴として煌めき揺らぐ。 光が射せば、そこに影が生まれる。 大きな姿見が映し出すのは空疎なホールと煌めくシャンデリアの灯り。仮面を被り、めいめいに装った人々が奏でられる音楽にその身を委ね、語らっている。 外気に冷えた硝子窓は鏡のように磨き込まれ、しかし跳ね返すのはただ揺らぐ灯火ばかりだ。 シャンデリアから降り注ぐ灯りは誰をも平等に照らし出し、ホールに鮮やかな彩りを添える。 ヴェルヴェットに伸びる影はなく、姿見や硝子に映る姿はない。そして、それが異質であると、踊り語らう全ての者は気が付かない。 ふと、音楽が途切れる。 指揮者は台から降り、代わりに弦楽器を携えた首席奏者が立ち上がって皆を率いた。八拍のソロから始まり、徐々に重なり合う音が厳かな曲を形作る。 流れる曲の変化に、ざわめいていた聴衆も波紋を描くように静まり返った。 吹き抜けの二階に通ずる階段を、鮮烈な焔が降りる。艶やかな真紅の帽子を深く被り、長い金の髪が一歩一歩降りる動作に合わせて背で跳ねる。足元で蟠り躍る紅のドレスが、焔の如くに揺すれる。 参加者と同じように仮面と仮装でその身を隠した、しかしホールに集まる者たちとは何かが違う女。仮面に隠れていない唇にはたおやかな笑みが浮かび、焼け爛れた頬が引きつるその様もどこか美しい。 仮面の死者たちは、女が降りるのをただ静かに待った。 紅焔のドレスが翻る。その裾を摘み、若き女当主は集まった者達へ笑顔を投げかけた。優雅な仕種に、女の足許で花のように広がる影が揺らめく。「皆様、ようこそお越しくださいました」 影持たぬ列席者が、空疎な響きを伴った拍手を女へと返す。 ――まるで、その場に人が居ないかのように。 虚ろな宴が、鮮やかな炎の下で催されている。!注意!イベントシナリオ群『烙聖節の宴』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『烙聖節の宴』シナリオへの複数参加・抽選エントリーは通常シナリオ・パーティシナリオ含めご遠慮下さい(※複数エントリーされた場合、抽選に当選された場合も、後にエントリーしたほうの参加を取り消させていただきますので、ご了承下さい)。
シャンデリアの燈す輝きと、烙聖節の火とが、巨大な姿見にその光を映し出して煌めく。虚ろな宴を、虚ろな燈が満たしていく。 「こんばんは、子猫さん」 「! こんばんは」 列席者の一人に声を掛けられて、コレット・ネロは歩みを止めた。口許だけで微笑みを返して、会釈を送る。背中に負う蝙蝠の羽が、動作に合わせて揺れた。 彼女の足元では銀色の毛並みを持った仔狼が大人しく、しかし揺らぎない瞳で持って傍に侍り、ただ目の前を見据えている。 猫を模した仮面で目元を隠し、金の長い髪を遊ばせ、裾の長い黒と橙のワンピースで着飾った少女はまるで、宴の夜にはしゃぐ幼い悪魔だ。 コレットに声をかけた男は、笑みを象った仮面でその貌の全てを覆い隠している。青い髪を後ろに撫で付けて、優雅な所作で彼女に手を差し出した。 「よければ一曲如何ですか、小さなレディ?」 仮面と同じ朗らかな口調でそう問いかけて、コレットの答えを待つ。 「でも私、ダンスはやったことない……」 「とりあえず音楽に合わせて。身体を揺らすだけでも立派なダンスだよ」 道化の仮面を被った男は微笑み、砕けた態度で、おずおずと手を伸べた少女をいざなった。手本を示す様に、ステップを踏んでみせる。 その動きに注視していたコレットは、ある事に気が付いた。 「あ、影が」 「やっと気が付いたかい、お嬢さん?」 目の前に立つ男の足許に、伸びる影がある。影を持たぬ死者の跋扈するこの部屋において、それが在る事実は、紛う事なき生者の証だ。 男が軽やかに笑って仮面を僅かにずらし、コレットの前に素顔を曝す。 「クージョンさん!」 そこでようやく、目の前の男が共にやってきたロストナンバーであると気付いて、コレットは安堵に声を上げた。クージョン・アルパークは仮面を戻して、人差し指を己の唇の前で立てる。 「静かに。気づかれないようにね」 「あ、うん、わかった。……ありがとう」 ほのかに胸の内に安堵の火が燈る。 見よう見まねでクージョンの踏む足取りをなぞり、なるべく音楽に耳を傾けて身体のリズムを合わせる。 「上手上手。で、慣れてきたら他人に合わせて揺れるんだ」 「みんなに合わせるのね」 「そう。要は楽しむ事が大切だよ」 一通りダンスの作法を教えた後、クージョンは片腕を広げ、己の後ろに広がるホールを指し示した。また次の相手を探しに行くのだと、その動作だけで悟る。 「それでは猫の小悪魔さん、私はこれで」 「うん、ありがとう」 おどけた仕種でコレットに一礼を送り、ひらりと身を翻した男は、また違う女性へダンスの相手を申し出る。次々と相手を変えていくその様さえも鮮やかで、全てが彼のダンスなのだと思わせるほどだ。 その背を見送って、コレットは軽くなった足取りで死者達の間を歩いて行った。 一陣の風が、青年の姿を取って歩を進める。 腰に佩いた細剣が、彼の歩に合わせて控え目に音を立てる。黒の正装に身を包んだジュリアン・H・コラルヴェントは、一人の列席者に声をかけられ、振り返った。 黒い髪に、黒いドレス。漆黒のヴェールと仮面で貌を隠した女が彼に気付き、淑やかに裾をつまんで礼を送る。ジュリアンもそれに応え、一歩距離を取ると恭しく頭を垂れた。しなやかな金の髪が、動作に合わせて揺すれる。 「何か、気になるものでも?」 「いえ……美しい方だな、と」 さり気なさを装い、掌を上に向けた右手で焔の如きドレスを纏った女――ジラ・エフィンジャーを指し示すと、淑女はああと頷き、すぐに物言いたげな、拗ねた様な視線を彼へと送った。 「騎士様はエフィンジャー様に興味が御有りなのね」 「そんな事はありませんよ。もちろん、貴女にも」 仮面の下に優雅な笑みを浮かべ、虚ろな淑女の片手を取ると口づけを落とす。紳士的なその所作を、淑女がうっとりと見つめる。 「このパーティには、エフィンジャー家の使用人などは居ないのでしょうか?」 頃合いを見計らってそう問いかければ、淑女は何かを思い出す様に虚空を見上げた。 「私は、あまりこのお邸には詳しくないのですけれど……今の当主様は人嫌いだと聞きます。使用人の数もお邸の規模に比べて少ないみたい」 「人嫌い――それは、以前から?」 「いつくらいだったかしら……一、二年くらい前から、使用人達を解雇していったようですわ」 死者の時間軸は、女当主が死した十年前から止まっているらしい。 「今も残っている使用人は?」 「そうね……あれだけ立派な御庭ですもの、庭師のひとりでも居るのではないかしら」 庭師。 邸の門を潜り、玄関の扉に辿り着くまでの広大な敷地を脳裏に思い描く。あれほどの広さだ、確かに庭師が居なければ維持は難しいだろうが、居たとしても、この宴に参加できる身分ではない。 思考に浸り貌を俯けるジュリアンの眼前に、影を纏わない白い手が差し出される。 「さあ、踊りましょう、騎士様?」 蠱惑的に唇を歪め、仮面の死者は微笑んだ。 「ええ、もちろん」 仮面の生者もまた、鮮やかな笑みを刷いてその誘いに応じる。 烙聖節の焔が、ゆらりと揺らめいた。 穏やかに閃く光の内に踏み込まぬよう、慎重に足を向ける先を選んで、篠宮紗弓は踊る死者達の合間を縫う。ひとつに纏めた黒い髪がしなやかに、影の様に揺らいだ。 漆黒の燕尾服に身を包み、仮面で穏やかな容貌を隠せば、その姿はホールを舞う死者達と変りない。足許の影に注視し、静かに風景に融け込んで、男装の魔術師は目当ての人物を探した。 周囲を窺いながら歩く彼女の前に、軽やかに青い影が躍り出る。 「お嬢さん、一曲どうぞ――っと、」 滑らかな身のこなしで紗弓へと手を差し伸べ、青い髪の男は途中で何かに気が付いて手を退いた。仮面の向こうで、からりと笑う気配。 「“紳士”にダンスの誘いは、失礼だったね」 おどけた仕種で、恭しく頭を垂れる。差し伸べなかった方の手が、大きな旅行鞄を提げているのに気付き、紗弓もまた微笑みで答えた。 「すまないね。この方が動きやすくて」 後々暴れる事になるのならば、ドレスでは動きを阻害される恐れがある。礼装の袖に仕込まれた銀の刃が目に入ったのか、クージョンも頷いて「頼もしい事だね」と笑った。 「それで、私に何の用だい?」 「ああ、そうそう。白陽――私の使い魔を連れていてくれない?」 掲げた手をひらりと翻せば、紗弓の言葉に応じて純白の大鷹がその姿を現す。しかし、ホールの死者達はそれにすら気づかない。 南瓜猫の少女には、既に己が使い魔の片割れを渡している。戦う為の力を持ったジュリアンはともかく、特殊能力を持たない二人に、護衛として己が力を預けておきたいと思ったのだ。 「ご心配には及ばない……と言いたいところだけど、ご厚意はありがたく受け取っておくとしようか」 銀の瞳に籠められた真摯な想いを汲み取り、クージョンは肩を竦め、しかし穏やかな笑みと共に謝意を告げた。 ◆ 渦巻く憎悪、媚びた視線、猫撫で声。私を私で無くさせる物。 その全てが煩わしく、その全てが怖ろしかった。 ◆ いつ其処に現れたのか、それさえも判らない。 ダンスに興じながら彼女の視界を遮る死者達が、滑る様に左右に開いて、その間から紅焔の裾が閃いて見えた――その時には既に、コレットは女当主の瞳に囚われていた。 真紅の帽子で頭の右側を隠し、仮面で焼けた肌を隠した女は、その口許に夢見る様な笑みを浮かべる。 「はじめまして、お嬢さん。お名前は?」 こうして対峙していると、本当に死んでいる事すらも忘れてしまいそうだ。 「……コレットです」 名を偽る意味はない。ワンピースの裾をつまみ、たどたどしく会釈すれば、女当主もまた同じ仕種で返した。足許の仔狼が、警戒に身を強張らせる。 「金の髪の綺麗な子猫さんが居ると聞きましたの。一度お逢いしたくて」 仮面の奥の青い瞳が、少女の足許へとゆっくりと向けられる。 「――まあ。あなた、影をお持ちなのね!」 ざらり、と獣の舌に舐め上げられる様な不快感。背筋を覆う悪寒にも似たそれに、ジュリアンは仮面の下で苦々しく目を眇めた。 ホールを覆う全ての“感情”が掌を返す。 それに気付いたのは、ジュリアンだけではなかっただろう。コレットは無邪気な笑みを浮かべる女当主から距離を取り、紗弓は腰に佩いた愛刀の柄に手をかけ――焔の気配を纏わせて待ち構えている。 潮時か、と行動を起こすよりも早く、彼の視界の端で青い影が動いた。 「無粋だなあ、君達」 殺気だったホールにそぐわぬ、呑気な声が響く。 女当主と少女を遠巻きにしてできた空間に、ひらり、とひとりの男が躍り出る。さりげなくコレットを庇う様に立った彼は、右手に抱えた旅行鞄を足許に置いた。 青い髪、派手に飾られた旅行鞄。 笑みの面の青年――クージョンは女当主へと語りかけた。 「さっきまでの品性は何処行っちゃったんだい?」 その手に携えるのは、首席奏者から借り受けたバイオリン。 厳かに弓を弦に乗せ、一曲奏で始める。 いきなりの行動に呆気にとられたのは死者ばかりではない。刃を抜こうとしていたジュリアンも、焔を呼び寄せようとしていた紗弓も、それぞれに毒気を抜かれた顔で彼を見ていた。 「まあ、まずは楽しもうじゃないか」 仮面と同じ貌で笑い、クージョンは仲間達へとウインクを送った。 ◆ 烙聖節の灯火が倒れる。 不自然な速さで邸を呑み込んでいく焔を、どこか褪めた目で彼女は見つめていた。 ◆ 一度は収まったはずの殺気、生者を妬むそれが、じわじわと広がっていくのが痛いほどに感ぜられる。――だが、これ以上誤魔化す必要もない。 情報は手に入れた。 これ以上死者と言葉を交わしては、余計な思いが芽生えるだけだ。 「さあ」 仮面の奥に隠れた、青い瞳が表情を変える。優雅な微笑みを絶やす事なく、淑女の手を取る様に流麗な細剣を抜き放つ。 クージョンの奏でる弦の音が、ジュリアンの口上を彩った。 「鮮やかに、華やかに――本当の宴を始めようか」 刃の一振りで、数多の風を呼ぶ。 それ自体が鋭利な刃と化した疾風が、ホールの壁に飾られた姿見を全て叩き割る。甲高い轟音が部屋に響き渡る。無数の鏡の破片へと変じたそれを己の周囲に纏えば、煌めく燈を跳ね返し、光の破片が舞い踊る。 死者達の視線が、一斉にジュリアンへと向けられる。 そうだ、それでいい。 仮面の下で、黒衣の剣士は唇を歪めて呟いた。 襲いくる死者から身を退き、壁際へと追い込まれたコレットの前に、銀の狼が進み出た。牙と爪とを以って襲い来る死霊を引き裂き、咆哮を以って氷刃を招き寄せては周囲に叩きつける。冷徹な気配を纏い、狼はコレットの傍から離れぬようしかと脚を踏み締めた。 「ありがとう、狼さん」 その誇り高き姿に、0世界で出逢った義兄の金の毛並みを重ね合わせ、コレットは緑の瞳を柔らかく緩めた。 「……ジラさん、どうして死んじゃったのかな」 痛ましさを籠めた声音で、小さく呟く。傍らの銀狼は答えを返す事もなく、また新たな氷柱を呼び寄せた。 「私にもできる事、しておかなきゃね」 自身のトラベルギアである羽ペンとノートを取り出し、開いた紙面に丸を書き入れる。そうして小さく念じれば、描かれた丸が紙面を飛び出し、球体となって虚空に漂った。 「太陽さん、お願いします」 具現化されたそれに、名を与える。役割を与える。 コレットの言葉を受け、球体は鮮やかな焔を纏って煌めき始めた。小さな小さな太陽が、ホールを燦々と照らし出す。 砕けて飛散した姿見の欠片が、ジュリアンの揮う刃に合わせて起こる風と共に宙を舞う。シャンデリアの傍に浮かぶ小さな太陽が照らし出す光が、その破片の全てに跳ね返り、あたかも光の洪水が巻き起こっているかのようだ。 「これはまた、随分と派手だねえ」 銀の瞳が破片の中で躍る黒衣の剣士を追い、紗弓はのんびりとそう呟いた。剣を揮い、風を惹いて戦う青年に、同族意識にも似たどこか奇妙な感覚を得る。 「けど、そうだね……目の付け所は同じみたい」 光を絶やすな。 彼らをこの場にいざなった世界司書の言葉を思い返し、手袋を嵌めた手を静かに掲げた。 ばちり、と、シャンデリアの光が強く爆ぜる。刹那、青白い雷火が虚空に現れ、稲妻と化してヴェルヴェットへと降り注いだ。 邸の全てに轟いたのではないかと思わせるほどの、雷鳴。 詠唱さえも必要とせず、“嵐姫”が雷を呼ぶ。 稲妻の落ちた場所に居た死霊の全てが、強すぎる光に駆逐される。――だが、次々とホールの壁をすり抜けて、新たな死霊が集まり始めた。 轟音を立てて、邸の霊をこの場に集める。囮としての計略は成功したようだ。 「可哀想だとは思うけど、人を巻き込むのは感心しない。――遠慮なくいかせてもらうよ」 抜き放つ愛刀の刃が、それと同じ色の瞳が、雷光を映して鮮やかに閃いた。 風を纏い、鮮やかに繰って死者達を己の間合いに引き込む。 舞踏会が今も続いているかの様な優雅な所作に見惚れる霊の首筋に剣を突き立て、姿見の破片で跳ね返す雷光によってその存在を焼き屠る。 不意に、苛烈に噴き上がる焔が鏡片の壁を切り裂いた。 「!」 風と念力とを駆使してその焔の軌道を曲げ、辛うじて身を躱せば、裂かれた鏡片の合間からひとりの女が踊る様にして彼の間合いへと飛び込む。 真紅の帽子。靡く金の髪。紅焔のドレス。 ――ジラ・エフィンジャーだ。 「一曲、いかがかしら。騎士様?」 「……ええ、もちろん」 夢見る瞳が、優雅な笑みと共に彼を誘う。美しい女性からの誘いとあれば、ジュリアンに断る理由はない。 誘いの手の代わりに差し伸べられた焔を螺旋の風で掻き消す。足を踏みこみ、刃を突き入れる。手の届く位置にあった女の姿は掻き消えて、後には立ち昇る焔だけが残る。――幻影か、と思うよりも早く、身を翻して襲い来る焔刃を避けた。ふわりと着地した女が、振り返ってその指先に焔を躍らせる。 焔の女と、風の男が、ホールを無尽に舞い踊る。 舞踏会は、まだ続いている。 己の最大の武器である鞄と、返すタイミングを見失ったバイオリンを提げて、クージョンは殺気立った霊から逃げ続けていた。 ひらりと身を翻し、乱れ飛ぶ全てを軽やかに躱して駆ける。その傍を、純白の大鷹が彼を護る様にして追従する。紗弓から預けられた、彼女の使い魔だ。 勢いで帽子が飛ばぬよう頭に手をやるが、いつも被っているはずのそれは今日はないのだと気が付いて、苦笑と共に氷塊を踏んで高く跳んだ。幾つも風に舞うそれらを渡り、靴音を響かせて氷の上に立ち止まる。 「――上から見ると、中々面白い光景だね」 仮面と同じ表情で笑う。 手早く鞄を地面に置き、バイオリンを仕舞い込む代わりに目当てのものを取り出す。身を翻し、宙を駆けて追ってくる死霊達へとそれを向けた。心の赴くままに、シャッターを切る。 閃光が走る。 強すぎる輝きに、影持たぬ死霊はその姿を留める事さえできない。フィルムの中に焼き付けられる様にして、画面に収められた者達は刹那の内に蒸発して消えた。 「……あれ、消えてしまうのかい?」 カメラから顔を離して、クージョンは笑みの仮面の下できょとんと眼を丸くした。彼としては、この騒ぎを写真に収めようとしただけなのだが。 「まあ、結果オーライ。って感じかな」 肩を竦め、クージョンはひらりと氷を蹴ってホールに降り立った。 ◆ せめて、死ぬならば独りがいい。 誰も要らない。誰も信じられない。 ◆ 纏っていた鏡片さえも焔に巻かれ、溶けて消える。絡め取る焔の手を巧みに切り裂き、風を以て己が身を護るジュリアンの姿を、女の青い瞳が捉える。 「騎士様はずるいわ」 「……?」 「“彼女”には手を差し伸べて、私達は見捨てるのね?」 悪戯に微笑みながらも、哀しみを伴って放たれた言葉。 不意に重なる幻影。 紅のドレスを纏うその姿に漆黒のヴェールが、長く靡く金色にブラウンの髪が、――黒く赤く焼け爛れた肌に、滑らかな人形の白が、重なった。 「何故、それを……」 狼狽の色を隠しきれないジュリアンを、女が拗ねた童子の貌で嘲笑う。 「だって、あなたは私を見てくださらないもの」 二人の死した女。 似ている、と思っていた。 容姿の差異、色彩の差異は関係がない。爛れた躯を曝す女と、少女人形の中に逃げ込んだ女――彼女達はどちらも、生前の姿を留めていないのだとも言えるから。 鈍色の街、灰色の雨が、記憶を掠める。 『君はどうして僕についてくるんだ』 何故生に囚われるのか。 なにを畏れているのか。 それを知りたいと思った。 「貴女は――どうして、此処にいるんだ」 仮面の男女が対峙する。ふたつの青い瞳が、交叉する。螺旋の風を纏う刃と、躍る焔を纏う指先が、光の破片に映し出されながら交錯した。 「なら、あなたはどうなのかしら」 擦れ違う一瞬、焼け爛れた頬に笑みを乗せた女は男へ問い返す。 「あなたはどうして此処にいるの?」 無垢にして、残虐な、愉しげな声音。 風を纏う男の瞳が、大きく見開かれるのを、間近に迫った女だけが見ていた。 「――僕、は」 男の青い瞳が揺らぐ。女の青い瞳が細められる。 それは何処かで、常に抱き続けてきた恐怖。そして、投げかけられる事を最も畏れてきた問い。 自覚した瞬間に壊れる何かを、彼は恐れている。 「ジュリアンくん!」 凛と鋭い女――紗弓の声が、力強い響きを以てジュリアンの意識を引きずり戻す。同時に獣を模した目映い焔が彼とジラとの合間を駆け抜け、引き離す様に牽制した。 焔を纏う女が、己の物ではない熱に怯えて一歩身を退く。 その様子を目に留めて、紗弓は唇に弧を描いた。どうやら焔を操るのも効果的であるらしい。 焔に護られて、ジュリアンはたたらを踏んで後退した。念動力の名残が鏡の破片を躍らせる。身を退いた彼に代わって、紗弓が朱姫とともに前に進み出た。 「すまない、面倒をかけた」 「気に病む事じゃないよ。けど、彼女は貴方の知る“誰か”じゃない。それを忘れないで」 「……ああ」 指先だけで焔を繰り、紅の女を焔の檻の中に閉じ込める。竜刻が到着するまで、彼女に手を出すのは避けるべきだと、紗弓はそう考えている。 爛れた美女が纏う虚飾、それを取り除かない限り、その奥の霊魂を祓う事はできないのだろう。 じり、と女から一歩距離を取り、朱姫を構え直す。 「篠宮殿!」 圧倒的な声量が、紗弓の名を呼ぶ。振り返る。三人のロストナンバーと、ジラを見つけ立ち竦む巨躯の亡霊。 軍装の男が、紅の瞳を閃かせ、その手に握る銀の輝きを紗弓へと放り投げた。弧を描くそれを、反射的に引っ掴む。 太陽の落とす輝きを跳ね返し、美しく煌めく銀の手鏡。 その柄をしかと握り締めて、紗弓の銀の瞳が女当主を睨み据えた。 「仮面を!」 短い叫びに応えて、いち早く動いたのはコレットの太陽だった。鮮やかな焔を纏いながら紅の女へと突進し、下から掬いあげる様にしてその仮面と帽子とを奪う。焔に包まれながら再び焔に焼かれ、女は人とも思えぬ叫び声をあげた。 両手に覆い隠される貌。 それが離される瞬間を待って、紗弓は駆け寄った。 手鏡を女の前に向ける。燃え盛る太陽の光が、鏡面に反射する。 「――ああァァアア!!」 絶叫。 身に纏った全ての虚飾を削ぎ落とされる様な、魂からの痛み。 煌めく銀の瞳を微かに眇めながらも、紗弓は構えた鏡を手放すまいと歯を噛み締める。襲い来る熱風に衣裳の裾が揺すれ、襲い来る呪詛に長い黒髪が乱される。それら全てを跳ね返さんと、真実のみを暴き出さんと、傷もなく美しい鏡面は輝きを増した。 「……貴方達は、もう生きていないんだよ」 真摯で痛ましさを伴った、しかし冷徹な呟きを落とす。 己の死に気付かず、生に囚われ続ける哀れな亡霊。 その過ちが今、『陽』の下に曝される。 ぼろり、 身悶える女の肌が、音を立てて欠けた。 見る見る内に紅く黒く変色していくそれは、生々しい肉塊へと姿を変え、すぐに煤と化していく。 その変化を見届けながら、ああ、と紗弓は唐突に理解した。 「発見されなかった遺体……身体があるから、貴方は影を持っていたのか」 茫然と呟く彼女の眼前で、ジラを覆っていた全ての虚飾が削ぎ落とされていく。 ◆ 燃え盛る焔の中、剥がそうとした仮面は既に、爛れて皮膚に貼り付いていた。 ――ああ、私は、死してからも『私』では居られないらしい。 ◆ 燃えた手袋、曝される煤と化した肌。零れ落ち、砂と消える青い瞳。残された虚ろな眼窩。――そこに在るのは、醜い身体を曝して生き続ける哀れな骸だ。 『……! !』 唐突な変化に怯え、骸の女は己の身を覆い隠す様に丸くなって屈みこむ。何事かを呟いたようだが、声帯さえも燃え落ちたのか、声になる事はない。己の死を知り、骸の曝す醜さに気付き、見ないでくれ、と懇願したのかも知れない。 しかし、ロストナンバーがそれに怯む事はない。それを蔑視する事もない。 異形の死者。しかし、美しい人だと思ったのは事実だ。 ジュリアンの過ごしてきた世界では、外面に美醜を求めるのは意味がない。――女の奥深くに在る気高さ、それを美しいと思った。 そしてそれは、容姿が崩れた今も揺るがない。 青い髪の男が進み出て、丸くなる骸の女へと静かに歩み寄った。 「お手を、レディ」 差し出していない方の手で仮面を外し、微笑みを浮かべてクージョンは言う。 「一曲、踊りませんか?」 眼球を喪った虚ろな眼窩が彷徨い、差し伸べる手へと向けられる。焼かれた喉を震わせて、声にもならない声が零れた。 どうして、と。 そう聴こえた気がして、クージョンはただ笑みを深くした。 「生き死になんて関係ない」 目の前に佇むのが死者だろうが生者だろうが、さして違いのない事の様に、彼には思える。むしろ、身体を失くしたのであればもっと自由で在れるのではないかと。 「生者の浅ましさを憎んでいるようで、結局はあなた自身も世間のしがらみや格式に囚われているだけなのでは?」 怯える彼女を安堵させる様に、微笑みかける。 「人間は素晴らしい。それを羨む必要もないでしょう?」 不意に、その手に抱えた旅行鞄が、独りでに開いた。中から一台のバイオリンが転がり出て、また独りでに鞄が閉じる。 「あれ」 鞄の中から逃げ出したバイオリンは虚空に浮き上がり、ほつれた弓が弦の上を走る。 奏でられる旋律。それは、先程クージョンの奏でたものと同じ音楽だ。誰も居ない虚空に留まって音を紡ぎ続ける楽器の傍に、燕尾服の楽士の姿が浮かび上がっては掻き消える。 光に駆逐されて消えるその前に、最後の一曲を。 そう解釈して、クージョンは再び女当主の骸へと手を差し伸べた。 「さあ、彼が捧げてくれる最後の一曲です」 骸の女は瞬間戸惑う素振りを見せ、しかしおずおずとその手を取った。クージョンは頷き、ゆっくりと、彼女をリードしながら音楽に合わせてステップを踏む。 轟音は止み、戦いも終わった。 今はただ、音楽のみが、広いホールに響き渡る。 「ひとりで淋しかったのかな、ジラさん……」 ぽつりと呟くコレットの言葉さえも、心地好い音の隙間にほどけて消える。 たどたどしい足取りで彼を追う様に踊り、骸の死者は煤となった貌を傾け、窺う様に男を見上げた。 『――また、パーティを開いたら』 焼け落ちた声帯に変わり、どこからともなく声が降る。砕け落ちた鏡に跳ねかえり、小さな太陽に照らされて、美しい声が降る。 『来ていただけますか?』 「もちろん」 クージョンは躊躇なく頷いた。骸の手を取り、颯爽とステップを踏みながら、仲間達へと目を向ける。 「私も、ロストナンバーの皆も、必ず応じますよ」 音楽が終わる。 独りでに浮き上がったバイオリンは独りでにホールに降りて、美しい余韻を残したままその動きを止めた。クージョンもジラの手を離し、ダンスの礼を恭しく送る。 『デール』 美しさを保ったままの醜い骸が、扉の近くで縮こまっていた巨躯の亡霊の名を呼んだ。彼女の視線から逃げる様に扉の影に隠れて、刈り込み鋏を抱き締めた亡霊は不明瞭な言葉で応えを返す。 親に叱られた子供にも似た態度に、ジラは声だけで笑った。 『ゆきましょう、デール』 亡霊――庭師のデールは帽子の陰りの下で、小首を傾げるジラを呆然と見た。ロストナンバーと彼女とを順に見遣り、ようやく言葉の意味を解したのか、ちぎれんばかりに何度も首を振る。 巨躯を不安定に揺らせて駆け寄ったデールを見上げ、ジラはひとつ頷くと、次いで四人へとその貌を向けた。 『私達は、在るべき場所へと還ります。御機嫌よう、皆様』 落とされた穏やかな声。 それに呼応するかの様に、苛烈な焔が二人を覆う。 「ジラさん!」 叫び声を呑み込んで、突如立ち昇った焔はホール中に広がっていく。器用にロストナンバーを避けながら。 「もう一度邸を燃やして、全部終わりにする……か」 「烙聖節の焔は浄化の意味もあるらしいからね。……暫くは私達を避けてくれるだろうけど、道が塞がれる前に逃げなければいけない」 呟くクージョンに、冷徹さを喪わない紗弓が焔の走り方を分析しながらもそう答えた。詠唱を破棄した紗弓の風と、ジュリアンの繰る風とが四人を護る様に展開する。 焔が一際強く走って、二人とロストナンバーとを焔の壁が隔てた。 「あの、最後にひとつ聞かせてください!」 焔の壁の向こう側、女当主へとコレットは呼びかける。醜い肌を曝した骸が、優美な仕種で彼女を視た。 金の髪が揺すれる錯覚。 朽ち果てた死者は、それでもやはり美しかった。 少女の次の言葉を待つ様に、焔の奥の死者は首を傾げる。 「ちゃんとみんなに真実を伝えるから、あなたの言葉を伝えるから――教えて! 外の人に伝えたい言葉!」 焔の立てる轟音にかき消されぬよう、声を振り絞る。 美しい骸は、やはり首を傾げたままだった。伝える言葉などないと、そう言った意志表示なのだろうかと捉えてコレットは肩を落とす。だが、それでも尚緑の瞳は焔の奥へと据え続けた。 やがて、亡霊の手に促された女は彼らに背を向ける。――しかし、一度だけ振り返り、落ち窪んだ眼窩がコレットを捉えた。 『ありがとう』 骸の口許がそう動いたのを、彼女は確かに視た。 鋭く大きな音を轟かせて、少女の眼前で硝子が弾け飛ぶ。 頭上で煌めいていたシャンデリアが焔に耐えきれず、速度を纏って落ちてきたのだと気づいた時には、コレットは狼の背の上に乗せられていた。 銀の風となって獣が駆ける。少女を乗せた銀月が、主とその仲間達とを先導する様に、操った風で焔の壁を切り裂いては疾駆する。 烙聖節の焔、浄化の焔は膨れ上がり、生者を現世へと送り届ける様にして燃え続ける。その身の内にふたつの骸と、幾多の霊魂を孕んで。 骸が、死者が、邸(やしき)が還る。 在るべき所に。在るべき姿に。
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