太鼓の音が樹海に響く。 鳥たちがぎゃあぎゃあと鳴きながら飛び立ってゆく。 木陰の動物たちもどこか落ち着かない。「森が慄いている」 ドラグレットのまじない師たちが厳かに告げるなか、戦士たるドラグレットたちは武器を携え、その時に備えた。「勇敢なる戦士たち」 樹海の奥深く、ひっそりと隠れるように存在していたドラグレット族の集落は、その日、熱く沸き立っていた。 《翡翠の姫》エメルタが、戦士へと呼びかける。「悪しき魂が、森を侵すのを許してはなりません。この地はわれわれの聖地にして、この大地そのものの源につながる場所なのですから。……客人エドマンドの友人たちが、このたびの戦に力を貸してくれます。かつて、エドマンドがそう約束してくれたとおりに」 ドラグレットたちの瞳が、ロストナンバーたちに向けられた。 館長の足取りを追って、前人未到の樹海を旅してきたヴォロス特命派遣隊、そしてその援軍要請にともない、急ぎターミナルから駆けつけたもの。かれらは今、ヴォロスの古き種族ドラグレットとともに、かれらの領域へ侵略を企てる軍と、斬り結ぼうとしているのだ。 太古の時代、ヴォロスを支配したとされるドラゴンの末裔、それがドラグレットだ。かれらはワイバーンなる小型の飛竜を駆り、空を征く勇猛な戦士だった。樹海を開拓し、おのれの領土拡張を目指す人間の国、ザムド公国は、竜刻使いの一団の結び、魔力で空に浮く船を手に入れた。その力をもってすれば、ドラグレットをも退けられると考えているようだ。 なるほど、いかにワイバーンに騎乗し、空中戦も挑めるとはいえ、ドラグレットの原始的な武器だけでは心許なかっただろう。だが今は、ロストナンバーたちがいる。 戦いは、ドラグレット精鋭による小隊が、飛空船を襲撃するという形で行われる。 ロストナンバーも小班に分かれ、ドラグレットの部隊に加わることになる。 戦意を高揚させる打楽器のリズム。燃え盛るかがり火。 やがて、見張りのドラグレットが、空の彼方にその影をみとめた。 ザムド公国の飛空船が、再び侵攻を挑んできたのだ。「よし、いくぞ!」 荒々しい雄叫びとともに、竜の末裔は、愛騎とともに空へ。 これこそのちに、ヴォロス辺境の歴史書にひそやかに記された「ドラグレット戦争」の始まりであった。 * * * * * 飛空船が近づきつつある空へ、ドラグレットの精鋭たる戦士とロストナンバーを乗せたワイバーンが飛び立ってゆく。 かれらを見送った集落は、騒然とした空気はそのままに、万一に備えて守備のための兵が護りを固め、戦に加わらない女・子どもや老人はその背後で出陣したものたちの武運を祈った。まじない師たちの、呪歌が朗々と響く。 そのときだった。1匹のワイバーンが引き返してきたのは。「大変だ!」 それは飛空船へと向かった中のひとりだった。「樹海の中を……やつらの軍はあの船だけじゃない」 地上部隊。 ザムド公国は辺境の小国だ。あの飛空船を調達するだけでも相当な資力を要したはずだが、そのうえまだ、別な戦力を投入してくるとは。 飛空船が影を落とす地上を、樹海を切り開きながら進軍してくる部隊があるというしらせに、集落の防衛のために残っていた戦士たちも出陣を与儀なくされた。ドラグレットの精鋭たちは飛空船へと向かってしまっていたのだ。ロストナンバーたちがいてくれたのはさいわいだったが……地上で戦うとなれば、文字通り地を這うような熾烈な消耗戦になりかねない。 押し寄せる軍靴の響きに、樹海が震えるようであった。 * * * * *「状況を説明する」 静かな声を発したのは神楽・プリギエーラだった。 今回の派遣隊には無関係だったはずの人物が何故、と皆が首を傾げる中、「いや、別件でヴォロスに来ていたんだが、騒ぎが起きていると聞いて立ち寄ってみたらこれだ。まぁ、私はこういう場所とは親和性が高いから、何か手伝えればと思うのも確かだ。とりあえず情報を集めてきたから役立ててくれ」 神楽は大急ぎでこしらえたというこの周辺の地図を広げてみせた。「敵は大まかに三つの部隊に分かれて進軍してくる。兵の数も多い。樹海を切り開くという問答無用の進軍ぶりから判るように、途中の集落や非戦闘員もすべて破壊・鏖殺されかねない」 神楽の提示した地図には、樹海の最奥に位置する聖地を三方から目指すザムド公国軍の進行方向が示されている。「……これでは、非戦闘員たちを逃がすのも難しいな」 ロストナンバーのひとりが呟くと、神楽は頷いた。「やり口も相当えげつないな。慈悲も容赦もない。それと言うのも、彼らの大半は、ザムド公国に雇われた傭兵たちなんだ」「!」「各部隊の指揮を取っているのは騎士たちで、数は一割にも満たないだろうが、正規の訓練を受けた手練ればかりだから、彼らもまた脅威だ」「じゃあ……」「ああ。冷徹なプロフェッショナルと、金で動く荒くれたちが、一斉に押し寄せる……この危険が判るだろう。だが、同時にそれは突破口にもなり得る」「……? ……ああ、そうか、金で動く連中が大半であるなら、指揮系統を寸断した上で雇い主が撤退すれば彼らも?」「そうだ。つまるところ、地上部隊阻止戦は、飛空船襲撃部隊が作戦を成功させるまでの『我慢比べ』ということにもなる。……無論、襲撃部隊が失敗しなければ、だが」 不吉なことを淡々と言いつつ、神楽は三つに分かれた地上部隊の進行方向と状況を指し示してゆく。「こちら側では樹上都市が火攻めに遭っていると聞いた。妙な兵器が出回っているとかで、苦戦は必至だという。こちら側では少数精鋭による、樹海の利点を最大限に利用したゲリラ戦が展開されているそうだ。……そう、もう戦いは始まっている」 すでに、前述の二箇所には、戦えるドラグレットたちとともにロストナンバーたちが向かっており、決死の攻防を繰り広げているのだ。「では、我々は……最後の一箇所を? それは、どんな」 問いに、神楽はどこまでも続くかのように思える樹海の先を指差した。「……彼らの進軍してくる樹海の先に、かなりの規模の平原がある。その平原を越えればまた樹海だが、その中には、避難出来なかった非戦闘員が息を潜めている集落がある」「なら、その平原で食い止めなければならない、ということか」「ああ。今から避難させようにも、追い詰められて嬲り殺しにされる可能性の方が高い」「そうか……あちらさんの数は?」「――……およそ、千強」「!!」 今度こそ衝撃が走った。 ざっと周囲を見渡しても、そこにいるロストナンバーは十人かそこら。 彼らとともに戦うドラグレットも、百人にも満たない。 更に言うなら、ここにいるドラグレットたちは皆、ようやく見習いから脱却したばかりの新米戦士だ。腕力も体力もあるが、戦場でもっとも大切なもの、つまり経験と技巧が圧倒的に足りない。「百対千か……冗談キツいぜ」 誰かが自嘲気味な、少々引き攣った笑みを浮かべる。 否、嘴の黄色いひよっこたちを率いて、もしくは護り導きながら、と考えれば、それはむしろ百対千どころか十対千にすらなりかねない。 ――しかし、なすべきこと、やらねばならぬことに変わりはない。 逃げ場所がないという以前に――そもそも逃げるつもりのあるものが、この作戦に参加するはずもないのだが――、彼らが戦わねば喪われる無数の、無辜の命がある。 それは、様々な運命を経てここへ辿り着いたロストナンバーたちの記憶をしたたかに刺激した。 あの時、なすすべもなく滑り落ちていった儚い命。 押し留められなかった自分への苦い思い。 それらを思い出して、拳を握り締めたものも、少なくはなかった。「幸いというかなんというか、ここに集ったロストナンバーたちは皆、個体としての戦闘能力が高いものばかりのようだ。一対多数の戦いに慣れているものも少なくないだろう。傭兵たちは確かに手練れだが普通の人間ばかりだ、戦って斃せぬ者はいない。ただ……凄まじい混戦になるだろうから、遠距離からの攻撃は難しいかもしれない」 それは、つまり。 濁流の如き殺意の中に身を投じ、すべてを斬って捨てよ、と。 要するに、彼らの『なすべきこと』とは、それだった。「ドラグレットは十人前後のチームに分かれてきみたちの配下につく。足りないものは多いが、聖地を、故郷を護るという気概はある。必ず力になるはずだ。彼らを指揮するもよし、自由に戦えと叱咤するもよし、最善と思う方法を取ってくれ」 その言葉とともに、少々硬い表情のドラグレットたちが数人ずつに分かれ、それぞれのロストナンバーたちのもとへ歩み寄る。「それと、私は身体能力の底上げや治癒力増幅、あとは敵の動きを一定時間封じる結界を創ることが出来る。他にも何かあれば言ってくれ、出来る限りのことはする」 そして、「生きとし生けるものは誰もが闘わねばならない。理由は様々だろうが、そのどれもが、掌の中で護られる白蓮花なのではないかと私は思う。どうか、きみたちが、その白蓮によって律せられ、強さを得、護られるように。……皆の、武運を祈る」 静かな鼓舞の言葉。 シビアな、重苦しい状況に一瞬の沈黙が落ちた後、「まァ、要するに」 誰かがかすかに笑い、樹海の彼方を見遣った。「連中の思惑に乗ってやるのなんざ、真っ平ごめんってことさ」 切り倒される木々、上がる土煙、絶叫のような鳴き声を上げながら飛び立ってゆく鳥たち、近づいて来る濃厚な殺意。――多分に残虐な興奮を含んだそれ。 敵は多く、味方は少なく、敗北は即ち罪なき民の死を意味し、――状況はとてもではないが有利とは言えず、しかし護らねばならぬものははっきりと指し示されている。 ならば、征(ゆ)くしかないだろう。 自分自身が掌にいただく、誰にも汚すことのできない白き花のために。「さぁて……始めようか」 誰かの言葉を合図に、ひとりまたひとりと歩き出す。 無数の死が待つ戦場へと。!注意!イベントシナリオ群『ドラグレット戦争』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『ドラグレット戦争』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。また、「ブルーインブルー特命派遣隊」に参加中のキャラクターはこのシナリオには参加できません。※「ヴォロス特命派遣隊」に参加していなくても、参加は可能です。
1.大地、轟鳴 雷鳴のような地響きが聞こえてくる。 ――向こうのことは、他の旅人たちが何とかするだろう。 ディガーはほんの少しだけ視線を空にやってから、また、作業を開始した。 ザムド軍はまだ平原に踏み込んではいない。 仕掛けをするなら、今のうちだ。 「深さは脛くらいで大丈夫だよ」 自分が率いることになった九名のドラグレットに声をかけ、ディガーは横に細長い溝を何本も掘っていた。 掘り終わったそこを、草で隠し、傍目には草むらにしか見えないようにする。 「罠があるって判れば、進みは遅くなるから。もうちょっと時間があれば、もっと色々出来たんだけど……」 言いつつ、溝を掘っていく。 無言で掘るうち、ディガーの心は、己が内へ内へと向かってゆく。 (死ぬかもしれないのに、怖くない……なんでだろ?) 彼の中には、自分では抑え切れない掘削欲と、死への絶大な恐怖がある。 何故それらがあるのか、ディガーは普段、意識すらしていないし、理由も彼自身には判らない。 判らないが、今は、それが遠い。 (諦めて、もういいやって思っちゃったんだ……諦めちゃ駄目だった。帰らなきゃいけなかったのに) 自分が掘った穴が、少し滲んで見えた。 ――涙が出る。 もう『あそこ』には戻れないことを理解している。 戻っても意味がないことも。 しかし、彼は、実を言うと『来たくはなかった』のだ。 どんなに美しい、どんなに素晴らしい、どんなにディガーに優しい場所であっても、来たくはなかった。恐らく、『あそこ』にいたかった、という積極的な心の動きではない。ただ、来たくなかった。 (ここを、護ろう) 帰る場所を失おうとしているドラグレットと、もう帰れない自分が重なる。口にも、顔にも出さないけれど、それは、とてつもない哀しみで、苦痛すら伴う喪失感だと、ディガーは知っている。 だからこそ、ここを、誰かの帰る場所を護ることで、失った何かを取り戻せるような気がして、ディガーはただ、ひたすらに溝を掘る。 「……だって、帰る場所がなくなっちゃうんでしょ?」 それに、ここはいい土だしね、めちゃくちゃにされるのは勿体ないよ、そんな風に言いながら。 ヴェロニカ・アクロイドは、自分が預かることになった十名のドラグレットたちに、今回組む陣形の説明をしていた。 「私が先頭に立つ。お前たちは長槍に盾、それと片手で扱いやすい軽い武器を持ってくれ」 言いつつヴェロニカが木切れで地面に描く図を、ドラグレットたちは熱心に見つめている。 ◇◇◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇◇◇ ↓ ↓ ↓ ↓ 自 ↑ ↑ ↑ ↑ ◆◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆ ◆ ◆ 「まあ、要するに、自慢じゃないが私はとても丈夫だ。私が囮になって敵を引き寄せるから、お前たちはそいつらを槍で狙え。……ああ、本意じゃないのは重々承知だ。しかし、少数で多勢を迎え撃ち、かつ、被害を最小限に食い止めるための最善だと私は思っている。私の指揮下に入るからには、従ってくれ」 ヴェロニカの言葉に、ドラグレットたちは初め顔を見合わせていたが、ややあって頷いた。 ヴェロニカは満足げに頷き返し、 「よし……では、本番を待つとしよう。お前たちは強い、何も問題はないよ」 そう言って、平原の彼方、徐々に近づいて来る大軍を、鋭い視線で見遣るのだった。 「護るための戦いこそが篠宮が本分。絶対に護りきってみせるよ」 篠宮 紗弓にとって、ドラグレッドの現状というのは、元の世界での、理不尽に迫害される妖魔の姿と重なるものだった。 篠宮は、妖魔とも友好を結び、弱い立場のものを保護して来た家だ。それゆえ紗弓は、私利私欲で他者を蹂躙しようとする者には嫌悪を感じる。 「私は、生かすために戦おう」 準備においてまず紗弓が行ったのは、乱戦中でも敵味方の区別がつくようにと、仲間たちに自分の魔力を纏わせたものや、魔術によって作製したものを渡すことだった。 これがあれば、紗弓は、味方がどこにいるかを常に把握することが出来る。乱戦の上、トラベルギアで力を抑制されている現状でどこまで可能かは判らないが、隙あらば広範囲に作用する魔術を放つ心算だった。 「大丈夫、心配は要らない」 己にも言い聞かせるように、力強く呟く。 ――自分が護られてきたことを知っているからこそ、護らなければと思うのだ。 それはすでに、彼女の生き方そのものだったから。 雪峰 時光は、自分が率いることになったドラグレットたちに囲まれたまま、黙って平原の向こう側を見ていた。 どうどうと音を立てて近づいて来る、殺意と滅びの塊。 ――自身が覚醒するきっかけとなった、あの負け戦が脳裏に蘇る。 「もう、あの時のような思いはご免でござる」 彼の小さな呟きに、ドラグレットたちが小首を傾げた。 時光は俄か部下たちに笑ってみせ、 「拙者は昔、護るべき人々を護れず、絶望だけを残してすべてを喪ってしまったのでござる。殿、姫、ともに戦った侍たち、握り飯を分けてくれた女中たち、気遣ってくれた同心……皆が、拙者を頼りにしていると言って下さった。それにも関わらず、拙者は何も出来なかった」 ぽつりぽつりと言葉をこぼす。 年若いドラグレットの目に、困惑と気遣いが揺れるのへ、今度は力強く頷いて、 「……しかし、今は護れるだけの力がある。力を持つ同志もいる。そう信じるでござる。もう二度とあんな思いをしないよう、今はただ進むだけでござるよ」 腰の刀をぽんと叩いてみせた。 「皆、どうかよろしく頼むでござる。作戦は簡単でござるよ」 時光は、自身の持つ特殊能力を最大限活用するつもりだった。 「皆は拙者とともに、あそこにいる兵士たちの前まで走る。さすれば、兵士たちの動きが一瞬止まるでござるから、そこを斬り捨てて欲しいのでござるよ。……動きを止めた敵を倒せばよいのでござる、躊躇してはいけないでござるよ」 それは戦士の誇りに悖ると言われても仕方がないと思う。 しかし、今一番大切なのは、この年若い、未熟な、言い換えれば幾らでも可能性を持つドラグレットたちを生かして帰すことだと時光は思うのだ。 「さあ、では、参ろうか。仲間も、背後にいる者たちもむざと死なせはしないでござる……不肖雪峰時光、視力を尽くすでござるよ!」 時光の鼓舞に、ドラグレットたちが自分の剣を空に掲げて力強く声を上げる。 ――ふつふつと湧きあがる力を、時光は感じていた。 「向かうのは死地じゃない。必ず生きて帰る、それだけを考えていればいい」 時光チームの喊声を思考の片隅に聞きながら、歪は、刃鐘を解放し、今回同行することになったドラグレットたちにそれぞれ三、四片ずつを預けていた。 しゃん、りぃん。 涼やかな音を立て、破片がドラグレットたちの周囲を舞う。 それは、彼らに近づく敵を斬り裂き、彼らを護る力の一片となるだろう。 「……大丈夫だ。俺が、護る」 歪に指揮などというものは向かない。 どうにも、苦手意識が勝る。 だから、率先して前線へ出るつもりだった。 「誰も……死なせない」 非戦闘員が残る集落、襲い来る無数の敵、それを阻むための進軍。 それらが、故郷である世界の光景と重なって視える。 歪は、彼らを護れなかったのだ。 掌を擦り抜けてゆく水滴のように、すべてをこぼしてしまった。 その罪の意識が、今でも歪にはある。 だからこそ、もう二度とあの悲劇を繰り返すまいと、歪は決意を固める。 ――罪悪感に縛られるあまり、護りたかった人たちが、歪にどんな思いを抱いていたか、彼にどんなことを望んでいたか、ついぞ知るすべもなく。 ロウ ユエとファーヴニールはすでにすべての準備を終えているようだった。 ともに戦うドラグレットたちへの指示も済ませ、今は、鋭い、それでいて何かを思う目で、少しずつ姿を現し始めたザムド軍の全容を見つめ、観察している。 「……覚悟は、決めました」 冷泉 律は、両親を事故で喪った過去から、もう誰にも大切な存在を突然に奪われる痛み、悼みを経験して欲しくないと思っていた。目の前で、手の届く範囲で、誰かが死んで行くのは見たくない、と。 「俺は普通の人間ですが、負けません。ドラグレット族の明日のためにも、全身全霊で戦い抜きます」 不殺の覚悟、生かして帰す、生きて帰る覚悟。 誰にも強要はしないが、決して譲らない覚悟が、今の律を衝き動かしている。 律の言葉に、ナウラが頷いた。 「私も、律さんと同じだ。ドラグレットの皆に、家族や仲間といっしょに、昨日と同じ明日を迎えてほしい……って」 平和で、穏やかで、他愛ない明日。 それは、本当に、ごくごく普通のことだけれど、失ったものにとっては切ないほど愛しい幸福だ。 家族と想う探偵社の人々と引き離されて、寂しさと懐かしさ、慕わしさを痛感するからこそ、ドラグレット族を護りたい。そのためには人と戦うことも迷わない。――痛みを覚えても、戦い抜く。 ナウラは、切に思う。 これは甘さだと自覚もするが、祈りながら待っている誰かがいる人々に、未来の――慎ましくも幸せな明日のために、皆に生還してほしいのだ。 だから、ナウラもまた、覚悟を抱いて戦う。 敵ならば喪わせてもいいのか、彼らの家族を哀しませてもいいのかという、繊細な苦悩を抱きつつも。 「では、神楽、お願いします」 律が声をかけると、神楽は小さく頷いて“パラディーゾ”の弦に弓を当てた。 静かな音楽が流れ、律とナウラ、そして無言のまま敵軍を見ている墨染 ぬれ羽の率いる――といってもぬれ羽は『好きにやれ』という雰囲気を醸し出すだけだったが――チーム、三十数名に、身体能力・治癒力増幅の効果が付与される。 「効果は最長で半日ほど持つ。ちょっとした切り傷や打撲、疲労はすぐに回復するだろう」 武運を。 そう言って、神楽もまた、律の要望に応えるべく、『仕事』のしやすい位置に陣取る。 と、平原の向こう側で猛々しい喊声が上がり、ザムド軍一千の部隊が、少しずつ速度を上げながらこちらへと進んでくるのが見えた。 「――……来る」 ファーヴニールが鋭く声を発し、それを合図に、皆がめいめいに動き出した。 得物を手に、それぞれの位置へ、それぞれの思いを抱きながら走る彼らの元へ、敵兵たちは徐々に近づき――…… そして、戦いが始まる。 2.戦場の表情 「……接敵前にやることと言えば」 殺到する敵兵を前に、ユエは平静だった。 実を言うと、こういう圧倒的不利な、絶望が黒々とわだかまるような戦いは、初めてではない。むしろ、そんな、負け戦とでも言うべき――しかし負けるわけには行かないという――どん底の戦いを繰り返して、今のユエはここにいるのだ。 そのためユエは、どんなにシビアな、絶望的な戦いであっても、自分のやるべきことに変わりはないと、なすべき『仕事』を果たすだけだと思っている。 ユエのその呟きを拾ったらしく、近くにいた紗弓がかすかに笑ってこちらをちらりと見た。 「勿論、向こうの戦意や戦力を少しでも削ぐこと、だろうね」 紗弓の言葉に得たりと頷き、ユエは手を宙に掲げる。 紗弓は胸の前で滑らかに印を結んだ。 と、次の瞬間、ザムド軍前方に燃え盛る雲が湧き立ち、 ごぉおおおぉううううぅう。 獣の唸り声のような音を立てて、灼熱の驟雨を彼らの頭上に降らせた。 猛火の雨に巻き込まれ、数十名が火に包まれる。 断末魔の、耳に残る絶叫。 「……思ったより小規模になったな」 「世界が違うとは、そういうことなのかもしれないね。だけど……ないよりは」 「マシ、か」 笑みをかわし、頷きあった後、ユエと紗弓は、めいめいにドラグレットを連れて動き出す。 ザムド側は無論、怯んだようだったが、金で命を売り買いする傭兵が大半であるからかすぐに立ち直ったらしく、焼け焦げた骸を恐れ気もなく踏み超え、怒号とともにこちらへ向かってくる。 ドラグレットたちが全身を緊張させるのが、誰の目にも判った。 ディガーが、そんなにガチガチになっちゃかえって危ないよ、と声をかけようとするより一瞬早く、怒涛の如くに殺到するザムド軍の最前列が派手にバランスを崩し、勢いよく前のめりに転倒した。 当然、それを予測できるはずのない後列は彼らにつまずき、互いにぶつかったり鎧や武器の端で傷つけあったりしている。 無防備に足を突っ込んでしまった人々の中には、骨を折ったものもいるようで、そこを更に踏みつけられたりしたものだから、数十の兵が意識や戦意を失ってその場に転がることとなった。 ――それを引き起こしたのは、ディガーたちが仕掛けた、例の溝である。 「罠だ、罠があるぞ!」 そのことに気づいたザムド兵が大声を上げ、声はすぐに伝播して行き、結果、彼らの歩みは目に見えて遅くなった。 これ以上の、別の罠を警戒してのことだろう。 「……よし」 ディガーは少し笑って、ドラグレットたちを促した。 「行こう、ぼくが言ったとおりにやれば、負けない」 わずかに緊張の解れた顔で、ドラグレットたちが頷き、三人一組で固まる。 「そうそう、組同士も離れないようにね」 群になった兵士がこちらへ向かってくる。 武装に小さく印された意匠が、彼らが同じ傭兵団に所属する傭兵だということを教えてくれる。 「いつも仲間の背中を守るように、自分の背中に仲間がいるように。そうすると、囲まれても一度にひとりずつしかかかってこられないから。一対一なら負けないよ」 互いの背中を護りながら、斬りかかって来る兵と渡り合う。 基礎的な身体能力の高いドラグレットたちなら、難しいことではない。 「そうそう、上手」 ドラグレットのひとりが傭兵を斬り倒し、そこへ斬りかかってきた兵の剣をチームの片割れが受け止めて、もうひとりがとどめを刺す。そのころには体勢を整えた最初のひとりが復帰して、彼らの背後を護っている。 ひとつのチームの傍らにはもうひとつのチームがあって、更にその背後には別のチームがあって、互いに補い、護ったり守られたりしながら、一対一で戦うやりかたを死守する中、ディガーはそれぞれのチーム間を飛び回っていた。 「大蟻の大群と戦ったことはあるんだけどね。人間と、っていうのは初めてだけど……」 それが倒すべき相手なら、戦うことを躊躇わないし、厭わない。 銀に輝く大きなシャベルを揮い、チームの死角から襲いかかろうとした傭兵を横殴りに一撃して吹き飛ばし、昏倒させる。 人間ひとりを軽々と持ち上げられるディガーの『一撃』であるから、吹っ飛ばされた傭兵はたまったものではなく、白目を剥いて泡を吹きながら痙攣していた。 それを顧みることもなく、ディガーはざっと敵軍の状況を観察する。 「なるほど、幾つかの傭兵団が丸ごと参戦してる、っていうのもあるんだね。揃ってる足音と揃ってない足音があるのはそういうことか。なら、やっぱり、傭兵団同士をつないでいる指揮官を何とかすればいいんだ。そしたらばらばらになるんじゃないかな……仲、あんまりよくなさそうだし」 傭兵たちが、一番手柄を立ててたんまり報酬を頂こうと思っているのなら、それは傭兵団同士での牽制にもつながるだろうし、何よりも、命を落とすまで戦うことが彼らの大義ではないという事実にも通ずる。 「指揮官はザムド公国の騎士って言ってたっけ。……ん、あれかな」 寄せ集めと言うべきか混合軍と言うべきか、共通の武装がないザムド軍の中で、同じデザインの甲冑に身を包み、傭兵たちの荒々しい動きとは一線を画した滑らかな立ち居振る舞いの人々が、傭兵たちの合間合間に見て取れる。手にした剣も、傭兵たちの持つ武骨な大剣とは違い、よく手入れされた流麗な長剣だ。 彼らが『つなぎ』で間違いないだろう。 「皆、聞いて」 ディガーはドラグレットたちに声をかけ、少しずつ移動を始める。 紗弓はほぼ単身でザムド軍と渡り合っていた。 大きな銀狼と純白の大鷲――紗弓の使い魔たちが、彼女の死角を護る。 「もう少しばらけてくれていれば、魔術も使えたんだろうけど……」 千という数の物々しさ、重さを思い知らされる。 濁流の如きこの戦場において、仲間たちはあちこちに散っており、たとえ彼らの居場所が判る仕掛けがあるといっても、今の状態で魔術を放てば味方の誰かは必ず巻き込むような状況だった。 「無理は出来ない、か」 妖刀『朱姫』を揮い、魔力のこもった一閃で兵士の首を落としたところへ、横合いからツヴァイハンダーとでも呼ぶべき大剣を手にした男が突っ込んで来て、 「……ん、流石に強い、な」 刀で受け止めると、びりりと腕が痺れた。 銀狼が男に飛び掛り、首筋を食い破ってとどめを刺す。 「厳しい戦いになりそうだ」 ドラグレットたちには、特に指示はしていない。 ただ、自分の思うように戦い、生き残れとだけ言ってあった。 それが正しかったのかは、紗弓には判らないが、この戦いを生き抜いて、家族の元へ帰って欲しいと思う。 そこへ、 「おや……お仲間だね」 どこか楽しげな声に見遣れば、そこには、金髪の女が剣を手に立っていた。 「……貴方も傭兵を?」 紗弓が言うと、女は肩を竦め、剣を構えた。 「それ以外に、こんなむさ苦しい場所に来る理由があるかい?」 「何故、この戦いに」 「何故? 不思議なことを訊くお人だね。金が要るからだよ。傭兵なんざ、そんなものだろう?」 紗弓自身、生まれながら強大な力を持ち、女性の身で常に最前線で戦って来たから、女が戦争なんて、とは思わない。むしろ、女だと甘く見て、相対し易いと勘違いして集中的に狙ってくれば、そういう輩を一網打尽にしてやろうと思っていたほどだ。 「金銭のために無辜の民を蹂躙するというのかい」 『朱姫』を構えつつ、紗弓が問うと、女はからりと悪びれずに笑った。 「あたしが稼がなきゃ、家族が飢えちまうんだよ」 罪を乗り越えた、ある種の透徹とともに、女が地面を蹴る。 紗弓は唇を引き結び、身構えた。 「貴方の家族に飢えろとは言えない、けれど……」 そう、自分だけが正しいのではない。 恐らく、この戦場で見据えるべきは、正しさではない。 「私は、私の護るべきものを護る。それだけだ」 「ああ、そういうもんだろうさ。ならば、生きるも死ぬも、剣(こいつ)次第、ってね」 紗弓の刀と、女の剣がぶつかり合い、甲高い音を立てる。 腕力は――互角。 技量も経験も、互いに申し分ない。 「戦いとは、そういうものか」 たとえ紗弓の想像が及ばない位置にあろうとも、それぞれに、戦う理由、負けられない理由がある。 たぶん、それは、魂の領域なのだ。 そのぶつかり合いが、この戦いをつくっている。 そんな気がした。 「篠宮が魔術師、七剣星が一柱“貪狼”嵐姫──参る!」 だから、紗弓は、『朱姫』とともに舞う。 長い戦いになりそうだ、と胸中に思いながら。 時光は『居竦』を駆使してザムド軍と渡り合っていた。 『居竦』は、目を合わせた相手を威圧して一定時間金縛りにする特殊能力だ。 ほんの一瞬、目が合いさえすればいいこの能力は、『敵を見ずに正面から攻撃を仕掛ける』ことが不可能な人間同士の戦いにおいて、大いに効果を発揮するものだった。 先頭に立つ時光を、こいつが指揮官かと狙って来る兵士たちの大半は、視線が合うや否や身動きが出来なくなり、次の瞬間にはドラグレットに斬り斃されてその場に崩れ落ちることとなった。 背後に回り込もうとする者を、ドラグレットたちが防いでくれ、仲間とともに戦う昂揚と、こんな時なのにくすぐったいような感覚に、時光はますます力が湧いてくるのを感じていた。 「なんだ、あいつ……妙な術を使うぞ!」 傭兵のひとりが警戒の声を発すると、包囲網が広がった。 何人かが背に負った小型の弓を構え、矢を放つ。 びょう、という空気を斬る音。 しかし、 「笑止!」 時光は鋭く言い放ち、飛来した矢のすべてを神速の抜刀術で撃ち落とした。 「心配は要らぬでござる、存分に戦うでござる!」 鼓舞とともにまた『居竦』で敵兵の動きを止め、ドラグレットたちとともに敵陣へ斬り込んでゆく。その繰り返しによって、時光のチームは、かなりの敵兵を戦闘不能に陥れていた。 要するに、これが、己の取れる手段の中で、もっとも犠牲が少なく戦闘を行える手段だという時光の判断なのだ。 「そうとも……」 無論、疲労を感じぬわけではない。 『居竦』には精神力を使うし、何より、死と隣り合わせの激烈な緊張感は、時光からどんどん体力を奪ってゆく。 しかし、彼は誓ったのだ。 「味方も背後にいる者も……死なせはせぬ!」 彼を最期まで信じた人たちが、背を押してくれる。 護るために戦えと、悔いを残すなと。 「雪峰時光、参るでござる!」 猛々しくも凛々しい名乗りとともに、時光は戦場を駆け巡る。 戦いが始まって、数十分が経っただろうか。 ファーヴニールはドラグレットを率いて戦いながら、戦局を冷静に見極めていた。 ディガー隊は指揮を担う騎士たちを狙って斃しているようだったし、紗弓は金髪の大柄な女傭兵と終わりなき戦いを繰り広げつつ、どさくさに紛れて周囲の敵兵を巻き込み斃すという器用さを発揮している。 時光隊は『居竦』なる金縛りの能力を最大限に利用し、互いに補い合いながら的確に敵を斃していく。時光から滲む疲労感が気になるところだ……とファーヴニールが思ったところで、補助と遊撃を買って出た律隊が現れ、律隊のドラグレットたちが敵兵を抑える間に、律がトラベルギアで時光隊の『疲労を斬』り、彼らを回復させた。 歪隊、ヴェロニカ隊、ナウラ隊、ユエ隊も戦意は上々。 ぬれ羽は風のような素早さで駆け巡り、敵兵の利き手の腱を切るなど必要最小限の動きで相手を無力化している。 まだ始まったばかりではあるものの、死者は出ておらず、大きな怪我をしたものもいない。 ファーヴニールは仲間の位置と状況を頭に叩き込みつつ、自分を前衛に置き、ドラグレットたちに後衛と補助を任せ、一塊になった傭兵たちの側面を狙うように移動する。 バヨネット即ち銃剣の形状をしたギアや、自らの肉体を竜に変化させた竜の爪、竜の尾などで、ひとりひとりを的確に倒してゆく。 「さあ……来いよ、死を怖れない強さがあんたにあるんなら!」 どこか芝居がかった、ケレン味たっぷりの派手な動作で敵兵を挑発し、なるべく自分に意識が向くように心がけながら――怒号とともに突っ込んで来る傭兵と組み合い、力比べをして打ち倒しながら、ファーヴニールはずっと考えていた。 無駄な思考が死を招く戦場にあって、彼の視界は、意識は、常にクリアだ。 (――……もう少しで) 竜変化させた腕で傭兵を数名、一時に殴り飛ばして昏倒させ、射出されたボウガンの矢を竜の爪で弾き飛ばす。背後は、長剣を装備したドラグレットたちが護ってくれる。 (何かが、判りそうなんだ……何かが) 覚醒してからたくさんのことがあった。 戦い、和解し、喜び、苦しみ、笑って、涙し、怒った。 再度飛ばされた異世界で孤独を味わい、試練を経験して更に多くを考えた。 ファーヴニールの前には、たくさんの萌芽が示されている。 今もなお。 (それを見つけた時、俺は……) 手の届きそうな『それ』の傍らで、ファーヴニールは力を揮う。 3.危機、理由なら誰にも 戦いが始まってどのくらい経ったのか、もう時間の感覚は摩滅して久しい。 時折見上げる空の向こう側で、飛竜に乗った同胞たちが、飛空船を相手に獅子奮迅の働きを見せているのが――その、刻一刻とした変化が――判るくらいで、あとは、何の変哲もない激しい戦いが続いているだけだ。 耳の痛くなるようなどよもしが、辺りに満ちているだけだ。 「……勝手に他人の住処に押し入って我が物顔、ってのは気に入らない」 ヴェロニカは口元の血を拭い、敵兵が取り落とした槍を拾い上げると、それを力いっぱい投擲した。 隼のように飛んだ槍が、後方で声を涸らして指揮をしていた騎士の胸を貫き、吹き飛ばして絶命させる。 「まあ……でも、勝って当然、蹂躙して当たり前。そんな奴らの横顔を殴り飛ばすのは嫌いじゃない」 ヴェロニカが取った戦法は、そこそこの成功を見せていた。 ヴェロニカと長槍に阻まれて、敵兵は容易には近づけず、また、彼女らの脇を抜けてゆくことも出来ずにいる。 「しかし……キリがないな」 『そこそこ』というのは、要するに、数が多すぎるからだ。 百対千というのは、一対十とも、十対百とも違う。 そこでの戦いは、圧倒的な激流の中に身を投じるのと同じだった。 ヴェロニカ自身、すでにダメージを受け始めている。 彼女の戦い方が、殴り潰したり蹴り砕いたりする接近戦のみ、というのも影響していて、危険、負傷の度合いは、二メートルを超える長い槍や投げ槍、弓、ボウガンを装備した傭兵団が現れるようになると跳ね上がった。 「……ちっ」 矢がぶつぶつと肩や腕、脚に突き立つ。 先ほど自分がやったのと同じ要領で飛来した槍が、彼女の脇腹をかすめてゆく。 槍で貫かれた腹部からは、今も絶え間なく出血している。 「ヴェロニカ!」 配下のドラグレットが声を上げる。 「ッ、平気だ、私のことは気にするな、守備を維持しろ!」 ヴェロニカは咳き込みつつも鋭く言い放ち、前方から突っ込んで来た傭兵を怪力で引っ掴むや否や、その首筋に食いついた。 「……ッ!?」 驚愕の気配が伝わって来る中、あまり美味いものでもないけど、などと思いながら彼の血液をいただく。それだけで、ヴェロニカの身体は凄まじい再生力を見せ、あっという間に傷が塞がってゆく。 「よし、次」 絶命した敵兵の身体を投げ捨て、口元を拭ってヴェロニカが言うと、ドラグレットたちはホッとした表情で再度身構えた。 無論、ドラグレットたちもすでに傷を負っている。 十対多数の戦いでは、脇から背後へ抜けて後ろから襲ってくる兵をいなすことが難しく、何度もヒヤリとさせられた。この戦いで飛躍的に気迫と技量の増したドラグレットたちが、その都度機転を利かせてことなきを得ているものの、誰もが無傷とは行かないのが現状だった。 「だけど、これなら……」 行ける。 そう、ヴェロニカが確信しようとした、その時。 びゅうっ。 何か大きなものが鋭く空を斬る音がして、 「――――ッッ!?」 ドラグレットのひとりが悲鳴ひとつ上げぬまま『何か』に貫かれ、吹っ飛んだ。 「!?」 ヴェロニカは彼の名を呼ぼうとして、そして気づいた。 鈍く光る『それ』が、次々と宙を舞い、こちらを目指していることに。 「くそッ!」 ――彼女が取るべき行動など、たったひとつだった。 その時ユエは、預かったドラグレットたちとともに行動していた。 彼らには、なるべく敵を分断して少数対少数、出来れば一対一に持ち込むよう、自分たちが分断・包囲されないように注意して互いの死角を補い合い、フォローしあうように指示してある。 ユエは、彼らをサポートしながら指揮系統の沈黙を目指していた。 剣型トラベルギアを相棒に、首か利き腕、もしくは腱を的確に狙い、あちこちに一撃死か戦闘不能をばら撒く。 (胴体は剣を抜くときに隙が出来る……) よって、彼の攻撃は、突きよりも斬ることが圧倒的に多い。 そのほかにも、斬り結びながら風で足元を掬ったり、足を瞬時に凍らせて行動阻害したり、組み合ったところで蹴りつけて弾き飛ばし、敵の連携行動を妨害したりと、ひたすら、少しでも自軍が有利になるよう、ユエはあちこちを駆け回った。 もちろん、ドラグレットたちへの補助も怠ってはいない。 ユエの『面倒見のよさ』は、長いレジスタンス活動で培われたものだ。それは、こういう場面において、もっとも発揮されるといっていい。 (死ぬなよ) 戦いが始まる前、ドラグレットたちに言った言葉を思い出しながら、ユエは近場にいた騎士のひとりを斬り倒した。 (君たちを待っている者がいるだろう。だから、死ぬな) 今のユエに、待つものはいない。 故郷に戻ったところで、『彼ら』に会えるかどうかも判らない。 そんな、臓腑の冷えるような思いがユエにはある。 (……例え力があったとしても、護れるものなんてたかが知れている) だから、手の届く範囲は、多少無理をしてでも、放さない。 ユエがそう、強く思い、剣の柄を握り直した時、 「やってくれるじゃねぇか」 一際大柄な男、身体中に傷があり、手にはロウの身の丈ほどもありそうな大剣を携えた傭兵が、獰猛に笑って彼の前に立った。 「馬鹿強ェ連中が助っ人に入ったってのぁ聞いたが……まさかここまでとはな」 ユエは微笑し、身構える。 「残念ながら、これで傭兵廃業だな」 「はッ、言うじゃねぇか」 男の身体から、物理的な圧力さえ伴った戦意が吹き上がり、彼を更に一回り大きく見せる。 巨漢だからというだけではなく、この男は恐らく強い。 しかし、だからと言って、ユエに負けるつもりはなかった。 否、ここで敗北するわけにはいかないのだった。 「……数で囲んで蹂躙する、楽な仕事だと思ったか?」 冷ややかな怒りを込めて言うと、男はにやりと笑った。 そして、 「思っちゃいねぇさ」 言葉とともに、踏み込み。 ――速い。 ぎぢっ、と、刃物と刃物が合わさる鈍い音が響いた。 「なら、お前さんは、傭兵が皆、遊び惚けて暮らすためにこうして戦場で命を削ってると思ったか?」 組み合いながら見詰め合った男の目は、強靭で真っ直ぐだ。 彼は、自分の『仕事』を卑怯だとは思っていない。 それが判った。 「なら、何故? 何のために、君は力尽くで他者を蹂躙しようと?」 「人様に不幸せを撒いたって護らなきゃいけねぇもんがある、戦いってのはそういうもんじゃねぇのかい」 「君の護るべきものとは何だ」 「家族だ」 「時分の家族を護るために、他の家族を不幸にすることは構わないと――……いや、違うな」 そういうことではないのだと、ユエは唐突に悟った。 誰にも戦う理由がある。 誰でも、掌の中に白蓮を戴いている。 それは、言い換えれば、結局のところ『自分』が織り成すエゴイズムなのだ。 そこに絶対的な正しさなどと言うものは存在せず、すべての理由は、自分を中心に成り立っている。 だとすれば、ユエに、傭兵たちを罵る権利などありはしない。 誰もが、自分の白蓮、自分の理由のために、ただ血を流し命を賭ける、それだけのことなのだから。 「なら……存分に、やりあうとしようか。勝利することだけが、理由を意義に変えてくれるというのなら」 互いに弾き合い、後方へ跳んで体勢を立て直しつつ、ユエは剣を構える。 男も、精悍な笑みとともに倣った。 そして、ふたりが互いに向けて駆け出した、その時だった。 ――槍のような鉄の矢と、石の塊が、彼らの頭上へと降り注いだのは。 それらが、平原の向こう側から放たれたものだと理解するよりも、衝撃が全身を襲う方が、早かった。 戦場の一区画に弩砲と投石機が投入され、大量の矢や石塊が降り注ぎ、双方に少なくない被害を出していた頃、ナウラは別の一角で堅実に戦いを進めていた。 「……業を煮やした別の傭兵団が強硬手段を取った、というところか」 そのやり方に嫌悪を感じるものの、正しさや間違いを断ずる立場にナウラはない。 戦場では、勝って生き残ったものが正義なのだから。 「今は、自分の戦いをするだけだ」 あの区画にいた仲間たちのことは気になるが、まずは背後の集落を護りきり、自分のチームを生きて帰らせることが先だ。 「あの人たちなら、大丈夫」 皆が皆、それぞれに強い思いを抱いて戦っている。 ナウラもまた、それをまっとうするだけだ。 (ドラグレットの皆を、家族のところに帰すんだ) ナウラに難しいことは判らない。 でも、家族がいなくなったら哀しいことは、誰よりよく判っている。 会えないことがどれだけ寂しいか、一番知っている。 「戦えなくなった敵は放っておいていい、向かってくる奴だけを相手にするんだ!」 ドラグレットたちには、経験の差や兵力差に対抗するため、敵ひとりに対して最低ふたりで組んで死角を補い合い、協力して戦うように言ってある。 戦士の誇りに反するかもしれないというのは判っていて、申し訳ないとも思ったが、ナウラが何故そうさせるのかを理解してか、年若いドラグレットたちは文句を言わず、従った。 そのお陰で、今のところ、ナウラ隊に死者は出ていない。神楽が施した、身体能力・治癒力増幅の効力もあって、隊全体の錬度は上がっているし傷も気にならない。 「行こう……明日のために」 ナウラは全身を硬化させてチームの支援に全力を尽くしていた。 鈍い銀色になったナウラの中で、双眸だけが、明るくまぶしく、そして強く輝いている。 (敵は、なるべく戦えない状態に……) ドラグレットの故郷を護るために、人間と戦うことも躊躇わないと決めた。 けれど、『敵ならばいいのか』という苦悩は常にナウラの中にあって、真っ直ぐで繊細な、やわらかい心に痛みを落とし続けている。 傭兵と言うのは人を殺してお金をもらう仕事だ。 そういう仕事をしている人々が、自分が死ぬ覚悟、自分が殺される予測を持っていないとは思えない。 しかし、同時に、彼らがそういう方法でお金を稼ぐ理由が、自分の快楽のためだけだとも思えない。 怒涛のように襲い来る敵兵の足元の土を固めて拘束し、動きの止まったところで首筋などの急所を一撃、昏倒させて次々に脱落者をつくりながら、――ドラグレットたちの同行に常に気を配りながら、ナウラはずっと考えている。 (私はきっと、子どもで、甘い。だけど……やっぱり) ナウラは飛空船の攻略成功を疑っていない。 あの人たちならやるだろう、と信じている。 だからこそ、無意味な殺戮はしたくないと思うのかもしれなかった。 戦う理由がなくなれば、傭兵たちは次なる戦場を求めて去ってゆくだろうから。 「よし……行ける」 敵兵が密集したところで土を操作し、土壁で彼らを足止めして、高い土柱を立てて合図を送ると、ここぞとばかりに紗弓が魔術を撃ち込んでくれ――ナウラの気持ちを知ってか、空気の塊を撃ち落として圧迫し、昏倒させる類いのものだった――数十名の兵士がその場でばたばたと倒れた。 「生かせるものは生かそう。私は、そうしよう」 生きることは貴いと、ナウラの中の白蓮が叫んでいる。 エゴでも、綺麗ごとでもいい。 敵であれ味方であれ、生きられるなら生きて欲しいと、そう強く思いながら、ナウラは、特殊能力の使いすぎで徐々に疲労を訴え始めた身体に鞭打って、戦場のあちこちを駆け巡る。 4.死と覚悟 咳き込んだら血の塊が咽喉を塞いだ。 それには頓着することなく、歪は抜き放った腰の二剣を揮い、戦い続けていた。 背後では、刃鐘に護られたドラグレットたちが、補い合いながら戦っているのが判る。歪が鬼神の如き働きで常に前方を護っているため、彼らの元へ到達する敵兵はそれほど多くなく、決して不利な戦いではないはずだ。 そのドラグレットたちが、時折歪を呼ぶのが聴こえるが、歪は大丈夫だと合図を送るだけで、ひたすらに前方を護り続けた。 戦いながら、護りながら、歪はずっと考えていたのだ。 (何故……) 数人の傭兵が一時に撃ちかかって来たのを、ひとりの剣は敢えて身に受け、一瞬動きが止まったのへ剣の柄を撃ち込んで昏倒させ、二剣でふたりの剣を受け止めて、見かけによらぬ怪力で弾き飛ばしてバランスを崩させたところへ剣の切っ先を急所に突き入れて沈黙させる。 流れるように滑らかで正確な動きで敵兵を斃しながら、歪の思考は内へ内へと向かった。 (何故、俺ひとりにすべてを押し付けなかったんだろう。何故、彼らはともに闘って死んでいったんだろう。――何故、『贄』である俺を、彼らは見捨てなかったんだろう) 不落の門番にひとりで闘わせることをよしとせず、村人たちは剣を取った。 闘って戦って闘って、『星』との相討ちとなり、死んでいった。 死を知らない歪を、たったひとり残して。 「何故だ……何故」 思わず漏れた言葉を拾って、ドラグレットたちが歪を見る。 真摯で純粋な、まっすぐな目だと、見えずとも判る。 ――ああ、護らなくては。 血を吐きながら、それだけを思う。 剣を揮い、何かのために闘う時、 (闘わなくては。――彼らに報いるためにも) 歪の苦悩、罪悪感は、ほんの少しだけ和らぐ。 自分を受け入れてくれた人々を、力及ばず護りきれなかった、喪ってしまった、滅びを防げなかった、どうしようもない自責の念は、護るために闘うことでようやくわずかに昇華される。 何故、の答えが見つからず、ずっとその問いを引き摺っている所為で、歪は常に無茶な行動を取った。否、自分では無茶とは思っていないが、ドラグレットたちを庇って身を乗り出し、敵を引き付けて、彼らの刃を一手に引き受けて闘った。 まるで、ひとりで何もかもを背負い込むような戦い方に、ドラグレットたちが辛そうな顔をすることには気づいていなかったし、顔を覆う包帯がいつの間にか外れて、どこか幼さの残る、凛とした素顔があらわになっても気に留めなかった。 今、ここで闘うことだけが、歪を律するすべてだった。 「護る……何があっても」 我が身の惜しみ方など、疾うに忘れた。 否、初めから知りはしなかったのかもしれない。 歪にとって『自分』とは、削って初めて価値の出るものだった。 それ以外の生き方を、彼は知らなかったのだ。 彼を見てきた人々が、そんな彼に心を痛めていたなどということも。 知らぬまま――気づかぬまま、鋼の守り人は愚直に戦場を舞う。 不退転の覚悟だけを胸に。 ぬれ羽の傍らで、槍に貫かれたドラグレットのひとりがゆっくりと地面に倒れて行き、動かなくなった。 その重々しい音が、妙に大きく聞こえる。 しかしぬれ羽は表情ひとつ変えず、槍兵の懐へするりと入り込み、彼の首筋を薙ぎ斬った。 噴き出す血と断末魔の絶叫を背に、身体のあちこちに固定したナイフを用い、驚異的な瞬発力を駆使して手近な位置にいた騎士を急襲、両手の腱を斬り裂いて無力化する。 そうやって、ぬれ羽が戦場を無言のまま、無音のまま駆け巡る間にも、ドラグレットたちは数を減らして行った。 ある者は敵兵と相打ちになって。ある者は多数の敵兵に取り囲まれて。 ある者は仲間を庇い、盾になって。 屈強な、しかしどこか若さしなやかさを残した彼らの身体が地面に横たわるのを、ぬれ羽はもう七度も見た。 残るドラグレットは、あと三人だ。 彼らは、同胞の死に哀しみ慄きつつも、戦いを放棄はしなかった。 そこにあるのは、故郷を、同胞を、家族を護るのだという、愚直で真摯な意志ばかりだ。 (……) ぬれ羽はナイフからトラベルギアに得物を持ち替え、拾い上げた石ころを詰めては次々に撃った。 咽喉や眼窩を狙って放たれたそれは、敵兵をほんの一瞬怯ませ、致命的な隙に転ずる。 それを見逃さず、ぬれ羽は頚動脈や手足の腱を掻き切っていった。 残った三人のドラグレットたちも、必死に、懸命に戦っている。 (……) 故郷を護りたいという彼らの気持ちは判る。 けれど、解らない。 否、解ってはいけないのだ。 理解すれば、ぬれ羽はきっと、今のぬれ羽ではいられなくなってしまう。 だから、ぬれ羽は、何も感じていないと思い込んだままで、ただ殺すためだけに戦場を疾駆する。 「はは……さすがに、厳しい、かな……」 律の疲労はピークに達していた。 否、薙刀型のトラベルギアで『疲労を斬って』いるのだから、肉体はまだ動けるはずなのだが、全身の倦怠感、重さはごまかしようがない。 「でも、戦場って……こういうもの、か」 顎を伝って滴り落ちていく汗を拭いつつ、呟く。 家族の幸せを護りたい。 けれど、人の命を奪うことはしない。 そう決めて、この戦いに参加した。 ギアの能力で、斬る対象を選別し、敵兵の防具を透過して意識だけを斬り、戦闘不能に陥らせることで数多くの敵と相対し、さらには自分や自チーム、果ては他チームの疲労も可能な限り斬り続けてきた。 自チームのドラグレットたちには、最期の瞬間まで生きようと足掻くことを厳命し、遊撃部隊として他チームの援護に当たるように指示していた。 今も、律隊は、ひどい被害を被ったヴェロニカ隊とユエ隊の救助及びサポートに勤しんでいる。 「大丈夫ですか、ヴェロニカさんユエさん」 人間の頭ほどもある石塊が無数に散らばる一角で、急襲に備えつつも下敷きになった人々を救い出す。 「ああ……まったく、酷い目に遭った」 「同意見だ」 咄嗟に仲間を庇ったらしく、ヴェロニカもユエも相当な深手を負っていたが、ユエの治癒能力で事なきを得た。重傷を負ったドラグレットたちも、次々に戦列へ復帰する。 「……彼は、駄目だったか」 バリスタの巨矢に貫かれ、こと切れた自チームのドラグレットを見つめ、ヴェロニカがそっと目を伏せる。他にも、ヴェロニカ隊ユエ隊合わせて三名の犠牲者が出ていた。 死を悼む思いはあるが、まだ、その時ではない。 「今は、出来ることをやりましょう」 合流した三チーム目がけて、敵兵が殺到してくる。 未だ戦いに終わりは見えないが、前方にわだかまるのは絶望ばかりではない。 「向こうももう半分程度に減っています。あとひとふんばり、ですよ」 総勢三十弱のチームで、より堅固に互いを補い合いつつ、次なる猛攻に備える。 「律、君は大丈夫なのか。すごい汗だぞ」 「そういえば、そうだ。私たちのことより、自分をもっと心配しろ」 「いえ、大丈夫です、まだ行けます。それより、紗弓さんとナウラの部隊が孤立しているようです」 「……ふむ、では、やつらを相手取りつつ、じりじり移動するか。先導を頼んでも?」 「はい」 因みに、律がこうやって正確かつ機敏に、仲間たちの動向を素早く察知して動けるのは、神楽に遠方から戦況や各チームの居場所などをトラベラーズノートで逐一報告してもらっているからだ。 神楽には、もうひとつ大きな仕掛けを頼んでいるが、それには、もう少し他部隊と合流した方がいいかもしれない。 そんなことを考えつつ、怒号とともに撃ちかかって来た男の剣をトラベルギアで受け止めようとした時、凄まじい眩暈が律を襲った。 「……ッ!?」 ほぼ反射で剣を弾き、意識を斬って昏倒させたものの、それが限界で、ついに立っていられなくなって律は地面に膝をついた。 「こ、これは……」 恐ろしい吐き気がして、世界が回る。 立ち上がろうにも、膝が笑って、果たせない。 ――律は、気づいていただろうか。 自分がまだ、発達の途中にある、普通の人間であることを。 まだつくりあげられていない身体と精神を持つ、ひとりの少年であることを。 そして、戦場の緊張と、殺さないために自分を削ることを選んだやり方が、思いのほか彼を消耗させていたということに、律は気づいていただろうか。 「駄目だ、い……行かないと」 それでも、ここで倒れるわけには行かない。 護りたいのだ。 ある日唐突に大切な人を喪って泣く誰かを、ひとりでも減らしたいのだ。 だから、律は、戦わなくてはならないのだ。 「律!」 ユエの、鋭い警告。 ぐらぐら揺れる視界で前方を見遣れば、三人の傭兵が律目がけて突っ込んでくるところだった。 「!!」 しかし、 「ウルド、ヴィフィ、ジーモ、何故……!」 凶刃は律を貫きはしなかった。 何故なら、律部隊のドラグレットたちが、咄嗟に、身体でそれを止めてくれたから。 血が、真っ赤な血が、あふれる。 「リツだけが苦しむ必要はない、そう思ったんだ……」 他チームの面々が傭兵たちを斬り斃し、剣に貫かれた三名を救出する。 「……大丈夫だ、何とかなる」 ユエが、彼らの傷口に手をかざしながら言って、律を見遣った。 安堵とともに、 「ああ……」 律の中で、何かが弾けた。 「そうだった。そうだった……!」 護りたいという思いと同じくらい、自分は護られているのだ。 心と、肉体、双方において。 「俺は護られてる。だから……護る。もう、誰も死なないように。誰も、哀しまなくていいように!」 身体が、意志が、力を取り戻す。 ギアを握り締める手に、今まで以上の力が篭もった。 「行きましょう……あと、少しです」 戦いが終わった瞬間倒れてもいい、だから今は力を。 誰とも知れぬものに祈り、律は前へ前へと進む。 5.白き華はかく開けり 飛空船の側面を、二十メートルもあろうかという漆黒の竜が飛んでいる。 飛空船付近では、焔や雷、雹が巻き起こり、断続的に攻撃を加えている。 唐突に船が揺れ、何か大きなものが空から投げ出されたかと思うと、投げ出されたそれは、ゲリラ部隊が必死の抗戦を続けている森の中へと落下して行く。ばさばさと木々が揺れ、煙が上がる。 空を舞い飛び、飛空船にまとわりつくかの如き飛竜たちの姿は、親鳥にじゃれつく若鳥のようにも見えた。 ――戦況がどうかなど、平原の誰にも判らない。 森のゲリラ部隊に参加したひとりが巨大化した――ような気がしただけかもしれない――のがいつだったのかも、もう判別がつかない。 戦いが始まってどれだけが経ったのか、時間の感覚はすでに麻痺して久しく、ただ、目の前にいる敵を打ち倒して進むことだけが、彼らの仕事だった。 無傷なものなど、誰ひとりとしていない。 疲労していないものも、ひとりとしていない。 騎士の半数を倒し、指揮系統はかなり分断したものの、まだ戦いに終わりは感じられない。空で飛空船が踏ん張っているからだ。 時光も紗弓もヴェロニカも、ディガーもぬれ羽もロウも律も、それぞれの率いるドラグレットたちも、まさに死力を尽くして戦い続けていた。 部隊にまだひとりの犠牲も出していない時光隊、ディガー隊、律隊、歪隊の連携は見事と言うほかなかった。 ナウラ隊もまた、まだ犠牲者が出ていない。 それは、ナウラの、まさに我が身を削るが如き奮闘のおかげでもあった。 「負けない……まだ、倒れない!」 シビアな状況下における長時間の戦闘、土の精密操作の連発により消耗したナウラの、銀色の身体には、あちこちに痛々しいひびが入っている。 しかし、ナウラの黄金の双眸は、まだ輝きと意志を失ってはいない。 「皆が頑張ってるんだ、皆が闘ってるんだ! 倒れるもんか……負けるもんかあああああぁッ!!」 雄叫びとともに近場にいた傭兵を担ぎ上げ、投げ飛ばして複数を巻き込み、沈黙させた。それですらもうとてつもない負担で、ゼェゼェと咽喉が鳴ったが、今更頓着するつもりもなく、ナウラは戦いを続行する。 ナウラの思いに衝き動かされ、ドラグレットたちも意気軒昂、ナウラをサポートしながら、諦めることなく、折れることなく剣を揮う。 絶対に負けない、思いはただひとつだ。 極寒の夜に、たったひとりで出口のないトンネルを歩き続けているようだった。 魂が凍えているのが判って、ひどくせつない。 このまま、これからも、たったひとりで歩くしかないのだろうか。 「歪!」 そんな思考を、ドラグレットのひとりの声が打ち破った。 「……イヴァ」 まだ少年のような瑞々しさを持つそのドラグレットは、歪の前に飛び出して、彼が身に受けるはずだった剣の一撃を、己が得物で受け止めていた。 「何て無茶を」 「無茶はあんただ、馬鹿!」 兵を蹴り倒して昏倒させ、少年ドラグレットが歪を罵る。 「あんたひとりが戦ってるんじゃねーぞ! あんたと同じくらい、俺たちだって護りてーんだからな! あんたのことだって、同じだ! ひとりでそんな風に背負い込まれて、俺たちが嬉しいとでも思ってんのかよ!」 ぽんぽんと飛び出す悪態は、しかし歪への気遣いに満ちていた。 彼らは言うのだ。 歪のことも護りたいのだと。 歪だけに戦わせようとは思っていないのだと。 「……!」 全身を殴られたような衝撃が走った。 ――そうだ。 ドラグレットも、故郷の村人たちも、帰る場所を、故郷を護るために覚悟を持って闘っている、戦っていたのだ。ひとりでとか、自分がやらなければとか、そういう思いは、彼らの意志を踏みつけにするのと同じことだった。 彼らにとって歪は、ともに戦うに不足のない仲間だった。 彼らはそれを認めてくれていたのだ。 (俺は……思われていた、のか。大切な、存在だと……) だとすれば、歪は、罪悪感よりもまず、親愛と喜びを感じるべきだった。 そう思い至り、歪は、己の不明を恥じた。 「ああ……そうだ」 義弟に御守りとして渡された自宅の鍵を、生きて帰る、という意味を籠めて握り締める。 「なら、頼んでもいいだろうか。ともに闘ってくれ、と」 ドラグレットたちから返ったのは、精悍な笑みと力強い頷き。 歪の胸を、言葉では表現し難い、しかし熱いものが満たす。 疲労した身体に、また、力が戻ってくる。 「なら……行こう。戦いを終わらせに」 剣戟の音は未だ絶えず、空には飛空船が偉容を見せ付ける。 それでも、負ける気はしない。 戦場のあちこちで、命と意志のドラマが繰り広げられている。 「……俺は……ッ!」 敵味方の誰もが、己が白蓮に従って闘っている。 それが、ファーヴニールには判った。 (逃げたら、あかんよ……?) 不意に、懐かしい愛しい声が聞こえた気がして、ファーヴニールは拳を握り締めた。 「百合華……!」 あれは、彼女だ。 ファーヴニールが昔、竜変化の暴走で殺めてしまった最愛の人。 暴走し猛り狂う竜を優しく撫で、すべてを受け止めて犠牲となり、ファーヴニールを止めてくれた人だ。 (怖い) 今でも、ファーヴニールの心の中には、その恐れがわだかまっている。 (竜の力で誰かを傷つけるのは、怖い) (だけど) (この力で守れるものもある) (でも) (もし、また、いつか……) 何人ものファーヴニールが、交互に思いを吐露して消える。 (逃げたら、あかんよ) 再度、泣きたいくらい優しい、やわらかい声が耳をくすぐる。 自分の弱さを、ファーヴニールは切実に思った。 けれど。 (そんな俺を、あの人たちは助けに来てくれた……異世界まで) (滅びに瀕して尚、ドラグレットたちは高潔で、美しい) (俺は、彼らを見るたびに自分の弱さを突きつけられる) (どうして、そんなことが出来るんだ) (どうして) 自分だけでは答えの見えない問いだった。 「ニル、危ない!」 横からの斬撃を防いでくれたのは、ドラグレットのひとり。 「……ありがとう」 ドラグレットはニッと笑った。 「お礼を言うのって、俺たちの方が先だと思うけど? 俺たちのために怒ってくれて、一緒に闘ってくれてありがとう」 てらいのない、真っ直ぐな言葉に胸が熱くなる。 (ああ、もしかして) 少し、身体が軽くなった。 大切な人を喪わないため、竜の力を御するには自分が強くなるしかないと思っていた。あんなに恐ろしいものなのだから、肉体と精神を鍛え上げ、力尽くで制御するしかない、と。 しかし、今、ファーヴニールが、仲間たちに見たのは、調和だった。 何かひとつが秀でればいいというのではない。 肉体と精神と、力と思い。 それらが過不足なく整い、つりあって、その調和は生まれる。 同胞たる旅人たちが、友となったドラグレットたちが、ファーヴニールにも向ける思いの中に、それは確かに存在した。 「……そうか」 強くなることだけが力ではない。 「そうだ、俺は……護りたい」 呟くと同時に、ざわざわと彼の『表面』がざわめいた。 すべてに調和を。 意志に、心に、力に。 あの時、彼女が遺した言葉すら、その萌芽の一端だった。 「護りたい……護ろう」 静かに凪いだ心の中で、怖れは、遠かった。 そして――ファーヴニールの中で白蓮が花開き、ついに、『竜の心』が覚醒する。 ざわざわざわッ! 銀と青のグラデーションが彼を彩り、全身がまぶしく輝く鱗で覆われてゆく。 肉体が変化し、身の丈が五メートルを超えるころには、翼と角、尾を持つ二足歩行の竜が、その威容を見せ付けるように佇んでいた。 ――折しも、律が神楽に頼んだ仕掛けが発動されたのも、今。 巫子の守護である影竜が、七つの目を真紅に輝かせながら平原の真ん中に立ち上がり、半分に数を減らした兵士たちを威嚇し、撹乱する。20mにもなる影竜が周囲を旋回すると、兵士たちは自然、平原の中央へと追い込まれることとなった。 今だ、と、誰に言われたわけでもないのに、仲間たちの視線が自分を見ているのが判り、ファーヴニールはクリアすぎる思考の中、微笑んだ。 『竜の心』は技ではない。 調和の意思に根差した精神力がつくりだす、いわば静寂の境地だ。 完全に竜変化しても、自我を失うことはない。 それを可能にしてくれたのが仲間たちだと思うと、少し、面映い。 「さあ……終わりにしよう」 今の彼が持つ力は、イオン制御の雷撃だ。狙った相手の体表面に落雷級の電撃を発生させるそれは、相手が視界に入るだけでいい。 竜の首がツイと平原を――兵士たちを見遣った、その途端、 ばぢん! 激烈な音がして、二百近い兵士たち、竜の視界に入った敵兵が、全身を焼け焦げさせてその場に崩れ落ちた。絶命したかしないかは、当人の運に左右されるものだろう。 青銀の竜の脅威に、ザムド軍は目に見えて崩れた。 兵士の残りが二百を切り、しかも指揮を執る騎士の大半が戦闘不能に陥っていたのも大きかった。 「……ッ」 驚愕と畏怖が伝播してゆくのを視界の端に見つつ、人間の姿を取り戻したファーヴニールは、その場にがくりと膝をつく。 人の身で――その意志で、強大な力を御するのは、やはり難しい。 完全な竜形態になったのも、時間で言えばわずかに十秒程度のことだった。 「ニル、大丈夫!?」 ドラグレットたちが――仲間たちが、彼の元へ走り寄ってくる。 流れ落ちる汗もそのままに、大丈夫だ、とファーヴニールが答えようとした時、上空の飛空船が一際派手な黒煙を噴き上げ、樹海の半ばで進路を変更した。 「!」 飛空船は、ふらふらとよろめきながら、海のある方向へと飛んでいく。 それを見て、ザムド軍は戦意を完全に喪失したようだった。 とるものもとりあえず、三々五々、撤退してゆく。 傭兵たちの中には、前金しかもらえなかったなーなどと言いつつ、負傷した仲間を担ぎ上げ、それほどめげていない様子で撤退してゆくものもいる。金髪の女傭兵も、ユエと斬り合った巨漢もそこにいた。 飛空船は煙を噴き上げながら、途中まで漆黒の巨竜に見送られるようなかたちで飛び、樹海の更に向こう側、海のある方角に姿を消した。 そして、次の瞬間、ずずうううぅん、という重い音が響き、びりびりとした振動が辺りを揺るがす。 「あ……潮と、水の匂い」 ディガーが血と砂埃で汚れた頬を拭い、空を見上げて空気の匂いを嗅いだ。 「海に不時着した、ってこと?」 「だろうね」 ぼろぼろのナウラに答えてから、ディガーはその場に座り込んだ。 ほかの面子も、盛大な溜め息とともに、ディガーに倣う。 律やぬれ羽などは、すでに殆ど意識を失っているようだ。 「終わったね」 「ああ。すべてが無事とは言えないけど……何とか」 「……お墓、つくらないとね。みんなが許してくれればだけど。ここに埋めるの嫌がるかなぁ?」 「さあ……どうだろう。何にせよ、少し休ませてほしいな」 そうディガーに返してから、紗弓がその場にゴロリと寝転がる。 「……ああ、綺麗な光だ」 見上げた空の向こう側には、虹がかかっていた。 先ほどまで上がっていた黒煙は、潮風が払い除けたようだった。 「ああ……生きてるんだ、な」 誰かの呟きに、皆、無言で空を、虹を見つめた。
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