太鼓の音が樹海に響く。 鳥たちがぎゃあぎゃあと鳴きながら飛び立ってゆく。 木陰の動物たちもどこか落ち着かない。「森が慄いている」 ドラグレットのまじない師たちが厳かに告げるなか、戦士たるドラグレットたちは武器を携え、その時に備えた。「勇敢なる戦士たち」 樹海の奥深く、ひっそりと隠れるように存在していたドラグレット族の集落は、その日、熱く沸き立っていた。 《翡翠の姫》エメルタが、戦士へと呼びかける。「悪しき魂が、森を侵すのを許してはなりません。この地はわれわれの聖地にして、この大地そのものの源につながる場所なのですから。……客人エドマンドの友人たちが、このたびの戦に力を貸してくれます。かつて、エドマンドがそう約束してくれたとおりに」 ドラグレットたちの瞳が、ロストナンバーたちに向けられた。 館長の足取りを追って、前人未到の樹海を旅してきたヴォロス特命派遣隊、そしてその援軍要請にともない、急ぎターミナルから駆けつけたもの。かれらは今、ヴォロスの古き種族ドラグレットとともに、かれらの領域へ侵略を企てる軍と、斬り結ぼうとしているのだ。 太古の時代、ヴォロスを支配したとされるドラゴンの末裔、それがドラグレットだ。かれらはワイバーンなる小型の飛竜を駆り、空を征く勇猛な戦士だった。樹海を開拓し、おのれの領土拡張を目指す人間の国、ザムド公国は、竜刻使いの一団の結び、魔力で空に浮く船を手に入れた。その力をもってすれば、ドラグレットをも退けられると考えているようだ。 なるほど、いかにワイバーンに騎乗し、空中戦も挑めるとはいえ、ドラグレットの原始的な武器だけでは心許なかっただろう。だが今は、ロストナンバーたちがいる。 戦いは、ドラグレット精鋭による小隊が、飛空船を襲撃するという形で行われる。 ロストナンバーも小班に分かれ、ドラグレットの部隊に加わることになる。 戦意を高揚させる打楽器のリズム。燃え盛るかがり火。 やがて、見張りのドラグレットが、空の彼方にその影をみとめた。 ザムド公国の飛空船が、再び侵攻を挑んできたのだ。「よし、いくぞ!」 荒々しい雄叫びとともに、竜の末裔は、愛騎とともに空へ。 これこそのちに、ヴォロス辺境の歴史書にひそやかに記された「ドラグレット戦争」の始まりであった。 飛空船が近づきつつある空へ、ドラグレットの精鋭たる戦士とロストナンバーを乗せたワイバーンが飛び立ってゆく。 かれらを見送った集落は、騒然とした空気はそのままに、万一に備えて守備のための兵が護りを固め、戦に加わらない女・子どもや老人はその背後で出陣したものたちの武運を祈った。まじない師たちの、呪歌が朗々と響く。 そのときだった。1匹のワイバーンが引き返してきたのは。「大変だ!」 それは飛空船へと向かった中のひとりだった。「樹海の中を……やつらの軍はあの船だけじゃない」 地上部隊。 ザムド公国は辺境の小国だ。あの飛空船を調達するだけでも相当な資力を要したはずだが、そのうえまだ、別な戦力を投入してくるとは。 飛空船が影を落とす地上を、樹海を切り開きながら進軍してくる部隊があるというしらせに、集落の防衛のために残っていた戦士たちも出陣を与儀なくされた。ドラグレットの精鋭たちは飛空船へと向かってしまっていたのだ。ロストナンバーたちがいてくれたのはさいわいだったが……地上で戦うとなれば、文字通り地を這うような熾烈な消耗戦になりかねない。 押し寄せる軍靴の響きに、樹海が震えるようであった。「任務は防衛だ」 真剣な表情で導きの書とロストナンバーを見比べる。 そんなシドの服装はその場で一人だけ南国だった。「ドラグレットの非戦闘員ほぼ全員、主戦場になりえる地域からは避難してる」 机に広げた紙にいくつもの印、守備陣形、戦力配置図が事細かに記載されていた。 これが持ち出されれば戦況は全く異なるだろうが、0世界の図書館である。 万が一にも0世界の世界図書館から戦略図を盗み出し、ヴォロスに降ろうとする者はいないはずだ。 と、シドは言い訳がましく説明し、改めて紙面を開いた。「地上部隊は三方面から攻撃を受ける。こちらはそれに対応して三方向に部隊を向ける。……こちらの、樹上都市防衛は既に部隊が向かっている」 指し示した地域には樹上都市。 すでに向かった迎撃部隊が凸マークで標されていた。 そのすぐ近くには大平原。シドの指がそちらを指した。「ここが決戦の要となる。この平原を突破されりゃ、避難出来なかった非戦闘員が息を潜めている集落がある。こっちを逃がすのは困難だ。食い止めるしかねぇ。ドラグレッドの防衛戦力はほぼこちらに集結させているし、ロストナンバーも精鋭を向けるつもりだが、余裕があれば、援護に向かってくれ……、おっとそれよりも、主任務だな」 地形図の上、灰色に覆われた一角がある。 そこは大樹海を示しているようだ。「こっちは樹海だ。平原突破されねぇように完全に食い止めるつもりじゃいるが、樹海を突破されても結果は同じだ。非戦闘員に敵の戦力を近づけちゃいけねぇが、戦力に余剰がねぇ分……」 そこまで言ってシドは顔をあげた。「隠密行動に長けた少数のゲリラ部隊を設ける。地の利を活かして少数で多数を相手に戦えるやつら。つまり、おまえらだ。正面から見て左翼の樹海に潜み、空へ向かったロストナンバーが飛空船を攻略するまで、一兵たりともこの樹海を抜かせるな。怖いなら帰っても構わん、平原部隊へ行ってもいい。それくらいには、この部隊、シビアだぜ」 そして、と言ってシドは額に汗を浮かべつつにやりと笑った。 やぶれかぶれの笑みである。「なんせ、敵兵は二百の騎士団・傭兵の混成部隊。こっちは四人だ。どうだ、わくわくするだろう?」 大いなる大森林。 古来から神秘の森とされてきた樹海には様々な生命が息づいていた。 決して踏み越えられることのない木々の世界に、無慈悲な一歩目が踏み出される。 傭兵を中心にした騎士団・傭兵の混成部隊。 統一された装飾馬に誂えた武具防具の騎士団と、思い思いの装備に身を固めた傭兵の奇妙な集団は木々を切り開き、侵攻を開始した。「さぁて……始めようか」 誰かの言葉を合図に、ひとりまたひとりと歩き出す。 無数の死が待つ戦場へと。イベントシナリオ群『ドラグレット戦争』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『ドラグレット戦争』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。また、「ブルーインブルー特命派遣隊」に参加中のキャラクターはこのシナリオには参加できません。※「ヴォロス特命派遣隊」に参加していなくても、参加は可能です。
ずしり、と立ち上がる。 森林に君臨し続けた巨木の王達をはるかに凌駕する背丈を伴い、人型の何かが大地から伸びた。 巨大な人影は他を圧倒する質量を持て余すかのように腰を曲げて屈みこんだ。 おもむろに差し出された手が土を掘り返す。 ざくり。 ざくり。 土壌を削り取り、抉れた土を堤防のように積み上げ、斜面を造り、土砂の山を築き上げ、河川の底を抉ることで小さな沼まで作り上げる。 巨大化したシーアルシーゼロは、自らを工兵だ、一人ゼネコンだと称し、その自称に違わぬ働きぶりを見せ付けた。 いまや彼らの受け持った樹海のどこにも平坦な道などはなく、野生の獣すら迂闊に走ることのできない入り組んだ地形を持った緑の迷宮となった。 特に上下の振り幅が大きいため、単独での進行にも時間を必要とする。 かくて。 ほんの数十分で平坦な森林は難攻不落の要塞となった。 自然破壊という単語が他のロストナンバーの脳裏をよぎった頃、ゼロの身体は1メートル半ほどの大きさまで縮小し、ふぅと息をついてみせた。 「工兵は戦場の神なのです……。あれ? なにか違うのです」 自分の言葉に何の疑問を持ったのか、彼女は腕組みをして小首をかしげる。 その彼女の肩をばしばしと叩き、ハギノがにかっと微笑んだ。 「いやー、すごいじゃん! なに今の。巨大化の術? どーやんの?」 「ゼロ、すごいのです」 えへん、という咳払い音まで自分で口に出し、胸を張ってみせる。 「後でドラグレットの皆に怒られないといーけどな」 ハギノは、あははと額に汗を浮かべつつ、変わり果てた地形を眺め続けた。 軍馬が更新する。 正装の騎士団と、寄せ集めの傭兵部隊が並んで進軍する様はある種の滑稽感をも生じさせていた。 「ちっ、ここもかよ」 道が寸断されている。 それどころか不自然な山が築かれていたり、沼や落とし穴により、騎士達は乗馬による進行を諦め、徒歩で馬の手綱を引く形での進行に切り替わっていた。 木々がなぎ倒されている様などは、嵐でも起きたのかと思うほどだ。 騎士の花形とも言える行軍を地形によって邪魔され、騎士団内部からは不満の声があがる。 不満はさらなる不満を呼び、些細な噂すら聞き流せる精神状態を生んだ。 この状態では疑心が暗鬼を見せ、鬱蒼と茂った木々が妄念に拍車を掛ける。 結果として、そこここで不穏な噂が沸き立った。 「おい、あの話は聞いたか? 傭兵の……」 「なんだ、そりゃ」 「傭兵の中にドラグレットと内通してるやつらがいるらしい」 「はァ? なんでトカゲと内通してんだよ」 「それがな、ドラグレットがお宝持ってんだろ? ドラグレットの仲間になるフリをして、そのお宝を掠め取っちまえばしばらくは遊んで暮らせるってわけだ。その信用のために俺達、騎士団を利用しようとしてるんだとさ」 「おいおい。ヘンな噂を真に受けるなよ」 「噂だと……、いいんだけどな。火のない所に煙は立たないぜ。注意をすることは悪いことじゃないんじゃないか?」 「ふむ……」 同時に、そんな騎士団と共に従軍せねばならない傭兵からも不満は漏れる。 こちらは歯に衣着せぬ性分である以上、発言に遠慮や躊躇がない。 「なぁ、騎士団が俺ら傭兵を盾にして、ドラグレットごとでっけぇ魔法をぶっ放す作戦を取るってホントかねぇ」 「ああ? なんでそんな事する必要があるんだよ」 「いやな? 戦っても戦利品の少なさそうだろ? 人間を攻めるのと違って、戦っても財宝は知れてるし、土地を奪ってもこんな樹海だろ? しかも相手は厄介なトカゲどもだ。そりゃ傭兵も欲しいだろうが、傭兵に支払う金がヒネり出せるモンかね? なぁ、周りに騎士がいなくなってるのはなんでだ? なんで俺らだけ先行させられているんだ? 馬が進めないから? ホントかよ、それ」 「…………」 樹海に到達した頃から、だっただろうか。 明らかに傭兵と騎士団の仲は険悪となっている。 正面から攻め寄せる部隊はすでにドラグレットの本体と決戦間近らしい。 火炎系の魔術師を集めた特殊部隊はとっくの昔にターゲットの都市に攻撃をかけているという。 ドラグレットの本体と戦う際に、真横あるいは後ろから相手を討つための秘密部隊が、この樹海突破部隊であった。 そのために騎士団と傭兵の混成部隊を組織し、300という数を持って樹海を突破し、ドラグレットの本体を叩くのが役目だった。 いつからだろう。 騎士団と傭兵の間に不信がうまれたのは。 何があったのだろう。 お世辞にも全幅の信頼とは言えないまでも、共に命をかけて戦うと誓った仲間を疑うにいたった原因は? 樹海の森を進軍する。 ふふんと笑ったのは、忍者、ハギノだった。 彼が行ったのはもっともらしい噂を用意しただけ。 ちょこっと不穏な印象の紙切れや、目印のような色の紐を目立つところに結んだだけ。 ついでに、変身の能力を駆使し、騎士団と傭兵の不仲を誘発する噂を直接的に吹き込んだ。 「戦ってこその戦でしょ? ドラグレットが人間じゃないなんて言い訳してもさ。だからって女子供襲ってどーすんの」 少年はくるくると手裏剣を回し、己の諜報戦術に満足の笑みを浮かべた。 ささいな事だが、共に歩む仲間が信頼に値しないという状況は非常につらい。 「しょーがないよねー。通す訳にいかないもんねー」 にひひ、と笑顔を浮かべた忍者は音もなく樹海の緑に一度、姿を隠した。 かくて。 ドラグレット戦争の幕があがる。 天摯 (アトリ) それが彼の名前。 少年の姿をしているものの、身にまとう気迫は並大抵のものではなかった。 この樹海の勝負は彼から始まる。 木々の間で、天を仰ぐように棒立ちになっていた彼に、傭兵の一人が声をかけた。 誰何の問いに、天摯は答えない。 再び、傭兵が「誰だ」と声をあらげると天摯は傭兵の顔を見据えた。 「己が欲望のために他者を蹂躙して恥じぬ輩と言うのは醜悪なものだの」 小さく呟いたその言葉に傭兵は反応できない。 とにもかくにも。 天摯の持つ刃が傭兵へと突きつけられる。 と、同時。 傭兵は己の腰から剣を引き抜くと、天摯目掛けて切りかかってきた。 敵対するものは排除する。 戦時に於いて、それは至極まともな理屈である。 だがしかし、と天摯は思う。 敵対する人々にも大切なものがあり、幸いが在ると言うことを失念した連中には怒りと憐れみを覚えてしまう。 きっと彼らにも大切なもの、ひと、幸福があるのだろう。 ならば、それをも断つ自分と何が違うのか。自問は止まない。 しかし、天摯は哲学者ではない。なさねばならない事がある。 「責を真に負うべきがぬしらではないにせよ、わしはそれを捨て置けぬ」 挑みかかってくる傭兵の刀を、鎧を、身をも切り裂き、その勢いのまま傭兵隊の一角へと切りかかる。 エメラルドの光沢を思わせる刃が、木々の葉の一枚一枚や地の雑草などの、いたるところから栄え、天摯の武器として傭兵隊に襲い掛かった。 数瞬をまたずして、血祭りにあげられた躯が朱の滴を大地に散らせ森の木々への供物と化す。 「ぬしらにもまた護るべきものがあり還りたい場所があるのだろうが、な。今のぬしらが取るべき最良の道は敗北することだけだ」 祈りもせず、返り血をもぬぐわず、天摯は次の標的を探して歩きだした。 だが。 その言葉を聞く事もできぬ躯と化した傭兵の屍から、がさりと音がして天摯は振り返る。 振り返った勢いで、木の葉から精製した刃を投擲しようとして、その手ごと蔓に捕らえられた。 「………ほう」 腕を蔓に掴ませたままで、天摯は感心したような声をあげた。 視線の先、アコナイト・アルカロイドが姿を現す。 「あらぁ、いきなりソレ、投げられるかと思ったわー」 「ぬしがその気ならもう刺されておるじゃろう」 「ええ、その通りよ」 「わしの仕事は同士討ちではないのでな。それより良いのか? こやつらはわしが始末した。ぬしも受け持ちの場所があるじゃろう」 「つれないわねー。ここの樹海、人食い植物が出る危険な森よーって教えにきてあげたのに」 「世界司書からそのような話は聞いておらぬが?」 「ええ。だって、わたしがさっきからそうしたんだもの」 天摯が視線を巡らせると、なるほど、風に寄らぬ不穏な動きを重ねている植物がそこかしこ。 味方の方が面妖じゃの、と呟いた天摯は、そのままため息をついた。 うふふ、と笑顔を見せるとアコナイトの姿は樹海へと消え去る。 彼女の去り際の視線に、天摯は味方の方が面妖じゃの、と呟き、そのままため息をつく。 意識を集中すれば、そこかしこで足音が聞こえてきた。 まだ、戦いは始まったばかりなのだ。 雲をつく威容だった。 工兵として樹海を掘り起こしていた時と同様に。 シーアルシーゼロの巨大な姿は樹海に君臨する木々の王の身長をはるかに超え、頭上を雲に触れようかという巨大な空から、木々を、そしてその下にいる小さな騎士団達を見下ろしている。 「ゼロはドラグレットとの盟約により、この界に参上したのです!」 樹海の一角に少女の声が響く。 通りの良い声だが巨大な姿の彼女が言い放っては、決して可憐という印象にはならない。 しかし、質量の持つ巨大なインパクトにも関わらず、透明感のある少女の姿と、瞼を閉じると存在を忘れ去るほどの印象の薄さに、騎士の中には森林の女神と表現するものまで現れる。 もちろん、足元でざわつく彼らの言葉はゼロまでは届かない。 彼女は事前に考えておいたセリフを、やや棒読みまがいに口にする。 「この森は今や大地の力に満ち、ここで死したものは地の界へと招かれるのです」 大きく手を広げる。 地面でこちらを指差してざわついている様も、あるいは逆に討伐を鼓舞する姿も。 果てはゼロを指差して「殺せ」とわめきたてる指揮官の姿も目に入る。 「ドラグレットの要望はザムド軍撤退への助力、貴方方の血ではないのです。故に撤退するものは追わないのです」 樹海のみならず、なるべく多くの敵兵への通達になれば、とゼロは声を張る。 本当に追わないのかというと、ちょっと自信はないので、そこは多めに見ていただきたい所だ。 「今です。派手なところを見せて、敵を動揺させるのです」 ゼロの合図に合わせたわけではないだろうが、平原の向こう、巨大な七つ目の竜の影が聳え立っている。 巨大なゼロの姿に、あの凶悪ような竜の幻影を見れば精神ダメージは計り知れない。 「よし、これでゼロの作戦は完璧なのです」 彼女は地面を見下ろす。 次に樹海の木々の下でちょろちょろと動いている人間を見下ろし。 「……もしかして、樹海の中にいると、あの竜、見えないですか」 うーんと小首をかしげ。 「まぁ、大丈夫なのです。根拠はないのです」 なんとなく、自分ひとりで納得したようだった。 からんからん、と乾いた木々がぶつかる音がした。 鳴子のついた紐が引っ張られた証である。 傭兵と騎士団の仲たがいを誘発させた後、ハギノはトラップを仕掛けながら後退を続けていた。 撤退ではない。 ハギノの通った道はそのままトラップの山へと変貌を遂げる。 そして、鳴子の音はハギノの領域に敵が侵入したことを示すものだった。 木陰に隠れて様子を伺う。 どうやら騎士のようだ。 馬を連れていないところを見ると、あまりの地勢に馬は置いていかざると得なかったのだろうか。 ともあれ、ハギノは大きく深呼吸を行った。 「いやー……。懐かしいね、戦場の匂い。防衛戦はやったことないんだけどさ」 あそこだ、と誰かがハギノを指差して怒鳴る。 その声に従者か、新米の騎士か。 数名がハギノの方へと歩を進めてきた。 「あーあ……」 口元をにやりと歪ませ、このニンジャは呟く。 それと同時に地上では最初の悲鳴。 樹上のハギノを目指して進んできた最初の人間は足元に張られたロープに気付かなかった。 そのロープに足を引っ掛ける。 引っ掛けたロープは、ほどけやすく結んだ別のロープの結び目を引っ張り解く。 戒めの緩んだ大木は重力に任せて転げ落ち、騎士の向こう脛を強かに叩いた。 それを皮切りに騎士隊の中央で混乱が始まった。 細い獣道を外れれば、あちこちにロープが張られており、迂闊な事をすればロープをキッカケにトラップが発動する。 木に手をつけば足元からネットが持ち上がって体が捕らえられるし、後退すれば棒手裏剣が顔を掠める。 動くまいと立ち尽くせば、それはそれでハギノの手裏剣が容赦なく飛び掛ってくるし、様子を見ようと天を仰げた巨大な少女がこちらを見下ろしている。 せめて前進しようと歩を進めれば、落とし穴に落ちてしまい、這い出るタイミングで蟲の山が振ってくる。 「集めるの大変だったから、楽しんでね?」 くくくとイタズラっぽく笑うハギノに騎士団は呆気に取られる。 もちろん、怒り心頭に飛び掛ってくるものもいるが、蟲の次は油を浴びせられ、今度こそ呆然とする。 「樹海を焼き払おうとしたら自分も燃えるから、気をつけなよ。他の人も、もし樹海に火をつけたら、油塗れにしちゃうからね!」 その言葉に火を放つことで樹海を焼き払おうとしていた騎士も動きを止める。 放火するまでは良いとしても、油塗れにされては自分の放った炎のせいで己の命が危なくなってしまう。 空から、木々の影から、落とし穴の下から。 とんでもないものが一斉に小隊へと襲いかかった。 棒手裏剣、毒虫、油壺に蔓、網、刃に、大砲。 ひと際大きな音をたてて落下してきた砲台に「あれ、あんなの仕掛けたっけ?」と腕組みするハギノの前で、騎士の小隊は呆然と立ち尽くすのだった。 ちくり。 その傭兵が感じたのはそんな小さな痛みだった。 さては虫にでも刺されたかと手の甲を見ると、僅かに紫に変色している。 タチの悪い毒虫でないといいが、と思う。 それから十分もしないうちに、彼は最初の転倒を迎えた。 わずかな窪みに足を取られ、地面に口付けをするように顔面を土にぶつけ、己の平衡感覚が失われていることを自覚させられる。 ぞくぞくぞくっと背筋に寒気が走った。 頭がぼうっとするが、手のひらで触る己の首や額は異様な熱を持っている。 (風邪でも引いたか? それにしては……) 考えるにも己の思考回路に靄がかかったかのように思考が散漫になる。 ついでに、ずりっ、ずりゅっ、と、引っ張られている感覚が拭えない。 まるで足を引っ張られているような、とその傭兵は己の足を見る。 それは植物のツタのように見えた。 細いツタが己の足に絡まり、細くも強靭な植物は己を道の脇へと引きずっている。 食・わ・れ・る!? そんな思考に囚われ、必死に手足をばたつかせるが、その程度でツタが切れる気配はない。 仲間に助けを求めるが、伝わっているのかいないのか。 あまりの高熱の上に、死への興奮は弱った脳にトドメを指すために十分な刺激となる。 彼に駆け寄る仲間の姿を最後に、傭兵の意識は失われた。 その手の噂の伝播は、準戦闘中のこの状況では異様に早い。 さらに荒唐無稽な噂の増幅は止まらない。 「傭兵が森の植物に刺されたそうだ」 「聞いたか? 一個小隊が森の妖怪に襲われたそうだぞ」 「おい、騎士団がこの樹海の悪魔に全滅させられたらしいぞ!」 恐怖が噂に尾ヒレをつけ、森の中に人を食う化け物植物がいるという噂は瞬時に広まった。 先ほど、アコナイトの前で天摯が否定したように、この森に詳しい数人はその噂を否定する。 だが、実際に被害者が出始めると、そんなバカなとも一蹴してはいられない。 そんな折に、樹海に悲鳴が響いた。 驚いて駆けつけたのはまだ若い傭兵だった。 彼の眼前で若い女性が全身をツタで絡め取られているではないか。 ツタを引っ張ってみるがすぐに切れるようなシロモノではないらしい。 「助けてーーーっ!!!」 「ごめんなさい。すぐに人を呼んできますから!」 「お願い、早く。早く助けてー!!!!」 「誰かー! こっちに怪奇植物が出たぞー!」 あれ? 襲われている女性ことアコナイトは首をかしげる。 今の違和感はなんだろう、と考え込む。 そして、理解する。 「誰が怪奇植物よ、失礼ねー」 ばたばたばた。 おっと、そろそろ戻ってきたようだ。 襲われているふり、襲われているふり。 そして若い騎士は10人ほどの小隊を引き連れて戻ってきた。 「騎士様ー、助けてー!」 絹を裂くような女性の救援要請に、数人の騎士が力任せにツタをアコナイトの体から引き剥がそうと試みるもうまくいかない。 もちろん、彼女の『本体』なのだから当然だ。 10人すべてがアコナイトの「体」に触れた瞬間を見計らい、アコナイトは薄く微笑んだ。 ちくり。 ちくちくちく。 ちくりちくり。 アコナイトの「肌を刺す毒」が一斉に騎士達に襲い掛かった。 一時間ほどすれば、この騎士の小隊は動けなくなるだろう。 助けて、助けて、と騒いでいた女性が一転して妖艶に微笑んでいる理由を、この騎士達は理解できるだろうか? 殺してはいないから、いつの日か理解される日が来るのだろう。 襲われていた女性ことアコナイトの本体は、絡み付いていた植物の方だったのだと。 おっと、熱が冷めるまで待つ必要があるのかも知れない。 もしそうならば、数日してからでないと気付かないだろう。 「どちらにしても、この戦争は終わっているわよ」 アコナイトはツタを揺らして静かに笑った。 阿鼻叫喚の地獄に。 周辺で起き続ける戦闘の絶叫に。 なぎ倒されるものの断末魔に。 ゼロはぼぅっと立ち続けていた。 時折、人数の多そうな小隊をじっと見つめて威圧することは忘れない。 ゼロは己の言動を思い返し、うん、と頷いた。 「ここまでゼロは事実しか述べていないのです。演技力に関わらず問題ないはずなのです」 木々のはるか頭上から樹海を見下ろしつつ、それでも撤退しない騎士団や傭兵達を見て、ゼロは首をかしげていた。 何かの使命感に燃えているのが原因だろうか、あるいは他の何かがあるのだろうか。 ゼロの視界からは、燃えている樹上都市や飛行船の進路も気になった。 だが、やはり彼女の任務はこの樹海の死守にあると肝に銘ずる。 ゼロの視線の先では、天摯が傭兵の部隊を相手に一人で立ち回っていた。 アコナイトはあちこちで散発的に罠を張っているようだ。 そして、その二人が討ちもらした相手がいればゼロが頭上からハギノに合図を送る。 後はハギノの分身が各自を完全にしとめていくという戦法となっていた。 報告では何の特徴もない森だったはずの戦場は、いまや人食い植物の出る妖しい森である。 巨大な少女が不気味に見下ろし、とてつもなく強い少年が刃の森の戦陣を張っている。 また、何とか突破してもそこは罠の嵐である。 いくらなんでも戦えるか!? という分析が先にできたのは騎士団ではなく、傭兵だった。 各個撃破の成果と、己のうちから湧き出る恐怖に二百の部隊は足を止める。 程なくして、引き返していくだろう。 「これが、ゼロ達の実力なのです」 言葉の意味はよくわからないが、とにかく凄く相手にしてはいけない連中だというのは理解できたのだろう。 司令官が撤退の命令を下すまで、そうそうに時間はかからなかった。 病人を抱えて引き返していく騎士団に対しての追撃はない。 ゼロが「撤退するものは追わない」と宣言を行っていたため、ここで約束を破って追撃を行えば、今後、投降するものは激減してしまう。 そのため、引き返すものを攻撃しないでほしいのです、と樹海のはるか上から少女が告げる、それに異を挟むものはいない。 無駄な殺戮を好まないとハギノが呟いた。 「平原の方も、樹上都市も大詰めなのです」 ゼロが満足げに呟く。 彼女が足元を見渡す限り、樹海を進軍してくる部隊はいない。 一兵たりとも、とまでは行かないだろうが、この森を抜けた部隊が平原でロストナンバーを苦しめることもない。 傷病の騎士や傭兵が点在して休憩している様子をゼロが伝えると「いいんじゃないかしら? 病人は下手な死人より足手纏いになるって何かの本で読んだし」とアコナイトから返答が返ってきた。 「それにしても、ちょっと張り合いがないわねー。平原の方も見に行こうかしら?」 「ぬしの言いたい事もわかるが、わしらの役目は樹海の守護じゃ」 「あら、つまんないわー」 アコナイトがくすくすと笑う。 ところで、と彼女が木を見上げ、手からツタを伸ばすと、長いつたが無造作に絡みつき、枝の一本がくるくると巻き取られる。 やがて、ぽとりと落ちてくると、蔦の中には太い枝、ならぬハギノの姿があった。 「ところで君? あちこちに罠を仕掛けたみたいねー。森の機嫌が悪くならないように、ちゃんと後始末するのよー?」 「わかってるよー。手伝ってくんないのー?」 ハギノがぼやくと、いつのまにか頭上から大きな顔が見下ろしていた。 「ゼロが手伝うのです」 「わー。待った! 待った! お嬢さんが手伝うと、また自然破壊だって怒られる」 「……難しいのです」 ごうごうと船体から唸りをあげ、上空を巨大な船が通過する。 巨大な竜の影を見送りつつ、あそこに乗っている仲間は無事だろうかと天摯が呟いた。 平原もまだ終息を迎えてはいない。 樹海に逃げ込んだザムド公国の兵士の確保や、ドラグレットの戦士の保護を行う。 負傷者の手当てに、戦況の把握。 最初に片付くということは、他の戦場を有利に運ぶ作戦へと切り替えねばならない。 「やれやれ」 「なぁなぁ、そこのお兄さん。僕と同じ年ごろ、だよな? なんでそんな喋り方してんの?」 「さて、の?」 「えー、隠すなよー」 ハギノと天摯のやり取りの間にもどこかで血で血を洗う戦闘は続いているだろう。 後にドラグレット戦争と呼ばれる戦禍は、まだ収束を知らなかった。
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