「壱番世界はハロウィンの時期よね」 それは壱番世界の暦で10月のある日、午後のお茶の時間に、アリッサが言った。「そうですね。ジャック・オ・ランタンでも用意させますか」 紅茶のお代わりを注ぎながら、執事のウィリアムが応える。「んー、でも、ターミナルだと今いちハロウィンって気分にならないわ」「そうですか?」「だってこの青空じゃ。ハロウィンって夜の行事っていうイメージだし。どこかにおあつらえ向きのチェンバーでもあればいいんだけど」「お嬢様。先日のビーチのようなことは、どうかお慎みを」「しーっ! 内緒よ、内緒!」 アリッサはくちびるの前でひとさし指を立てた。「あ――、でも待って。チェンバーじゃなくても、ターミナルに夜をつくることだってできるわよね」「それは……原理的には可能ですが、0世界の秩序を乱すことになります。ターミナル全体となりますと、ナレッジキューブも相当要すると思われますし」「でも、ウィリアム。私、前から思ってたんだけど、ターミナルに暮らす人の中には、夜しかない世界から来た人だってきっといるでしょう? 昼しかないって不公平じゃないかしら。ねえ、試しに、ちょっとの間でもいいから、『ターミナルにも夜がくる』ようにしてみない?」「……」 ウィリアムの表情は変わらない。だが賛成していないことは明らかだった。 しかしその一方で、アリッサが言い出したら聞かないことも、彼はよく承知している。 それから数日後――。 世界図書館内ではかなり議論が紛糾し、実施にあたって各方面の調整は困難を極め、一部の事務方職員は瀕死になったというが、ともあれ、正式に、ターミナルの住人にその告知が下った。『10月下旬の一定期間、試験的に「夜」を行ないます。「夜」の間、空が暗くなりますので、外出の際は十分にお気をつけ下さい』 ¶ ¶ ¶駅前広場の一角ーーーあなたは初めての体験となる、ターミナルの夜を全身に感じてみようと、ふらりと出歩いていた。ふと、怪しい気配に気づき、あなたは立ち止まる。視線の先に、夜陰に乗じて、怪しい動きをするひとつの人影があった。何やらせっせと重たげな荷物を運んでいたかと思うと、やがて人影は物陰にささっとかくれ、やけにみやびやかな、壱番世界のジャパンにおいて遠い昔、「狩衣(かりぎぬ)」と呼ばれていたような衣装に着替えてくると、しずしずとさらに怪しい動きをし始めた。低い声で何やら口ずさみながら。よく見れば、その人物の周りには、壱番世界でいわゆるところの秋の花、「菊」が大小さまざま色とりどりに置かれており。美しい花々はしっとりと夜露を含み、夜のつめたい光を受けて、あなたを誘うように静かに花びらをひろげている。 さらに近づいて見れば、怪しい舞を舞っているのはまだ少年。 露草色と白の着物は濃紺の夜空の一部だとでも言うように、足元に置かれた古風な形の灯火の光を受け止めている。 ーー世界図書館の司書の一人、蘭陵(らん・りょう)である。壱番世界のジャパンに造詣が深く、何かとその知識を持ち込みたがるというが、この怪しい行動もそのひとつなのだろうか。 蘭は切れ長の瞳でちらりと横目にあなたを見ると、歌と舞をやめ、くるりとあなたに向き直った。「これ、何を見ておる。さても無粋な輩よの」 何を見ておるといわれましても。 夜の駅前広場で一人パフォーマンスしてるアンタは何者だとあなたは思ったが、目の前の少年は答えを待たずに言葉を続けた。「これは壱番世界のジャパンに古来より伝わる『重陽の宴』じゃ。『たーみなる』に夜が来ると聞きおよび、夜の愛で方も知らぬ下々のものどもに、宴を楽しませてやらんと思い、菊など並べてみたまでじゃ。これも風流を知らぬ下々の教養を深めてやらんとする私の慈悲。私みずから舞いなど奉らんとしておるに、歌詠みのひとつもせず、素通りとは情けなや。近う寄って菊酒でもたしなまぬのか」 無礼な物言いにあなたは一瞬むっとしたが、目の前にいる人物は、世界図書館の司書・蘭陵である。 世界図書館のほかの司書や、彼に会ったことのある旅行者達から聞き及ぶところによると、蘭はどうも素直に心のうちを言葉に出来ない体質であるようで、その言動にはツンデレ翻訳が必要なのだとか。 という予備知識のもと、あなたは彼の言葉を脳内翻訳してみた。『さても無粋な輩よの』=そんなに見られたら恥ずかしいじゃん! どうせなら一緒に踊ろうよ、レッツジョイナス!『下々のものども~うんぬん』=ボク、こんなキャラだし友達いないじゃん? にぎやかしてたら誰か来てくれるかなーと思ってイベント立ち上げてみたワケ。『情けなや』=てゆーか、お酒とかお菓子とかあるからさー、YOU寄り道しちゃいなYO! ってか一人にしちゃやん! そういうわけかとあなたは思う。 ‥‥友達いないから一人で荷物運びから買いだしから音楽までプロデュースしちゃってるわけだし。 一抹の涙ぐましさを感じつつ、あなたは蘭が足元に並べた腰掛に座った。 待っていましたといわぬばかりに蘭があなたの手に杯を持たせ、菊酒を注ぐ。 とろりと濁った白い靄のような酒の中、香りを移すために浮かべられた黄色い菊の花がゆらゆらと舞っている。 蜂蜜に似た甘い香りが鼻をかすめた。「いけぬ口ではあるまい。まずは一献」 すすめられて口にしてみれば、花の香りと冷酒の芳しさが同時にのどを通り過ぎた。 あなたがそうして菊酒を口にする間に、蘭陵は通りすがりのコンダクターやツーリストたちに次々に声をかけ、あなたがそうされたのと同じように腰掛にすわらせ、菊酒を飲ませている。「どうぞ」「や、すみませんな」 そんな声がそこここで聞こえる。甘い菊の香りも、先ほどよりも濃くなって。 ほんのり酔いの色を浮かべたそんな面々を見ていると、普段は口に出せない胸のうちも、なんだか今日だけは明かせそうな気がしてきた。
●菊香夜 「いささか怪(け)やしき顔ぶれなれど、音に聞く頼もしき奴ばら。ま、飲むがよい」 蘭陵は、集まった面々を満足げに見渡し、それぞれに菊酒を注いで回った。茣蓙を敷いた即席の宴席は菊でぐるりと三方を囲まれ、一方にはみやびな几帳が立てられている。 「わあ、いい香り~」嬉しそうに受けたディーナ・ティモネンはさっそくくいっと杯を干した。 続いてたくましい巨漢がずいと杯を差し出した。 「それでは一献いただくとしよう。それにしても‥‥夜に祭りが出来るとは、な。平穏無事で喜ばしいことだ。俺の居た魍魎夜界では‥‥夜に人が騒ぐなぞ、嘗ては自殺行為も甚だしいことだった」 百田十三。旅人達の間では、孤高の退魔師として知られている男だ。 「そっか、私のいた世界ではずーーっと夜だったから、夜が特別怖いものだとは思ってなかったわ」ディーナが感慨にふける。 「夜のみの世界の住人か‥‥それでそのような眼鏡をかけておるのか?」 夜空の下だというのにサングラスをかけているディーナに百田は尋ね、ディーナは頷いた。闇が支配する世界で育った彼女にとっては、夜を照らすわずかな人工の灯りですら眩しすぎるのだという。 「なんだその奇天烈なナリ」 リエ・フーは蘭をじろじろ観察し、ストレートに一言。 「奇天烈とはなんぞ。これは壱番世界において、今も宮廷行事などに着用されるかたちの衣服ぞ。つまり永遠の定番、由緒正しきとらでぃしょなるな正装じゃ」 「‥‥お前、キャラと言葉合ってなくね?」 蘭の趣味を正当化する詭弁にあきれつつ、そんなリエは徳利ごと酒を受け取り、どぼどぼっと注ぐ。 まだ元服もしておらぬ年頃の癖に無茶ではないかと蘭が咎めると、リエはふふんと笑い飛ばした。 「かてぇこと言うなって、見た目はガキだけど九十こえてんだぜ?」 どうやらこの二人はボケとツッコミで会話が成立する組み合わせであるらしい。 「ゼロにも夜の愛で方をご教授ねがうのです」 銀髪の美少女、シーアールシーゼロはきちんと正座して、真面目に菊の花を観察している。が、花びらを「いちまい、にーまい‥‥」と数えて、十枚目を数えるごとに皿を一枚割るのだとなぜか信じているようで、蘭から全力でそれは違うと諌められている。 だが見たところ8歳ばかりのゼロはいくらなんでも酒は受け付けまいと、KYで有名な蘭もさすがに茶菓子を勧める。が、ゼロはふるふると首を振る。 「ゼロはお菓子もいただけないのです。飲むことも食べることも出来ない体ですから」 「かまわぬぞ。後ほど私の舞で酔わせてみしょうほどに」 と蘭が強気発言。その発言でチェキータ・シメールが噴出しそうなのを必死でこらえているが、気づいていない。そんなチェキータは、きちんと正座して杯を受けると、 「‥‥」 すんすんと鼻を鳴らして香りを確かめ、ちょろっと舌を出し、ぺろりと味見。「うん。悪くない」ぺろぺろぺろと平らげる。ネコまっしぐら。 「では、舞を。まずは『青海波』‥‥」蘭が立ち上がる。こっそり足元の機械にスイッチを入れたようなしぐさが見えたが、誰もつっこまなかった。同時に雅楽が流れ始めた。 「ゼロも蘭陵さんみたいに踊るのです」 ゼロが立ち上がり、銀髪の美少女が、水干姿の少年とゆるゆると舞う。足元には菊の花が並び。 美しいがシュールな光景である。順調に酔っ払いつつあるディーナやチェキータが「イェ~~イ」「GO!GO!」などと微妙にずれた掛け声を投げるのもシュール度を上げている。 なんだかカオスな状況になりつつある主席を見渡して、やれやれどうやら一人二人は酔いつぶれて俺が面倒見ることになりそうだなと、リエは予想した。 ーーあの花に惹かれて、つい座ってしまったのが運のつきというわけか。 リエ・フーは主席を囲むように配された菊の鉢植えを見て苦笑する。杯の底でゆらめく黄菊の花を見ていると、 秋菊有佳色 衷露採其英 汎此忘憂物 遠我遺世情 いつか聞いた、誰かが酔って吟じていた詩が心に浮かぶ。 顔も知らぬ父親だったかもしれない。 「ふきゅっ」 ほろ酔いになっていたチェキータが声をあげた。どうやらゼロにしっぽを踏まれたようだ。 「あっ‥‥ごめんなさいです」 「これ、そちの舞いはまるで武術じゃな。そもそも舞いの心というものを分かっておるのか?」蘭がゼロの外見年齢相応の舞いに説教を試みる。 「はい、ジャパンの舞いは超能力ゲイシャが不死身のタンチョーヅルを召還する儀式です」 「???」 「そしてゲイシャパワーでスモーレスラーを倒すのです」 「えっ?」 美少女の謎見解に、蘭はどう誤解を解いたものかと首をひねっている。 「もとい、今宵は菊をめでる宴じゃ。菊の花の露は長命になれる妙薬という言い伝えがあるゆえ、そちも肌につけるが良かろう」 菊の花にかぶせていた綿を、蘭が皆に手渡して言った。 「ふーん?」 チェキータがぴたぴたと花の露を塗って見る。なぜか自分の体にではなく、ディーナに。 「なんで私に塗ってくれるの?」 「長生きの薬だそうだから」 「ありがと。でもなんで自分の体に塗らないの?」 「カラダを濡らすのは嫌いなんだ」 ネコ属性の本音を明かしてチェキータは瞳を光らせる。 「長生きか‥‥長く生きることを祈ってもらえるって、なんか嬉しいな。‥‥死ぬことを怖がらないのがいいことだって、ずっと信じてたけど、それって何か違うよね。自分を大切にして、他人も大切にして、長生きするほうがずっと偉いよね。ね、ランラン」 「私はランランではない。蘭陵だ」 「はっくちゅ」 いいせりふの後にカワイイくしゃみをして、周囲を和ませるディーナであった。ためらいもなく杯を飲み干して、物足りなさそうな表情。 「甘くて、美味しかった。でも‥‥どーせなら‥‥顔が隠れるくらい、大っきな杯!憧れてたの‥‥図書館で、そういう飲み方、読んでから」 上目遣いにダメ? ねぇダメ? と宴主に訴えてみる。 「いや。菊酒は手のひらに隠れるぐらいがちょうどよろしい。あっ! そんな一気に飲み干さずとも、ゆっくりと花びらをめでつつ飲むのが作法というもので」 蘭が婉曲にお断りしているのは、ディーナが果てしなく酔っ払いそうな予感がしたためかもしれない。 ●夜想宴 「そちのセクタンは『楊貴妃』と申すか。確か壱番世界の傾城の美姫であったな」 リエの膝で丸くなっているセクタンを指して、蘭が問いかける。 「こいつの由来は、一顧すれば人の国を傾くってヤツじゃなくて、傾城に誠無しの方だけどな」 リエが遠くを見ながら言葉を返した。 「暑~い、暑いよぉ~」 二人の傍らで、ディーナが上着を脱ぎすて、ずばっとシャツのボタンをはずし始める。蘭があわわわと几帳に掛かっていた萌葱色の布をひっかぶる(自分が)。 「おいおい、すきっ腹にぐいぐい飲むからだろ。合間に食い物入れなきゃ、胃袋が大暴れだぜ」 年下に見えるリエの方が冷静に、ディーナをなだめてお菓子を差し出した。 「そっか、脱ぐと捕まるもんね。ハイ、暑いけどオトナなんで、ガマンしますっ」 ディーナがなぜかしゅびっと頭右の敬礼をして脱ぐのをやめるが、すでに少しはだけた肌が夜空の下とはいえ目にまぶしい。 「そうそう、脱ぐのは我慢な。てなわけで、ほら、お裾分け。インヤンガイ土産の月餅。買ったはいいが一人じゃ食いきれなくってさ」 「ありがと‥‥キミ、良い人だね‥‥おねーさんは嬉しいよぉ」 傍にあった菊の花にガシッと抱きつき、よしよしと撫でているディーナは相当酔っ払っている。 何かの折に役立つかもしれんと呟きつつ、蘭が手元に小さな箱を持ち、彼女の傍にかざしている。何やらシャッター音ににた音が響いたが詳細は不明である。 ゼロがチェキータのしっぽにくすぐられて悶絶している。 日ごろ、ここにいる旅人達が目にする地獄絵図の如き戦いの場と比べれば、実に平和なひとときである。 まるで夢うつつのように穏やかで。 「ええい、チェキータとやら! 私をくすぐるのはいい加減にせぬと世界図書館から厳重注意が」 こちらもいい具合に出来上がってきたネコ娘とたわむれている蘭に、百田が杯を差し出した。 「あー、お前、と言っては申し訳ないな。ご亭主、ご亭主は飲まんのか。わざわざご亭主が設けた宴だろう? 他人に注ぐばかりではつまらなかろう。俺が一献進ぜよう」 「相すまぬな」 受ける蘭も、注ぐ百田も和んだ表情を浮かべている。 「いい夜だ…生きているうちにそんな台詞が言える日が来るとは、思いもしなかったが」 「では、酒もほどよき加減に回ったことゆえ、皆みな恋の話でも聞かせてたも」突然、蘭が言った。 「「「「プーーーッ」」」」 飲んでいた菊酒を噴出したのは、見た目からして堅物そうな百田だ。 「男があれば女子があるのが生命あるもののさだめ。心許した女性はおらなんだのか?」ぶしつけとも思える蘭の質問にも、 「残念だが俺は期待には添えんな‥‥恋などという余裕は‥‥俺のいた世界では、人間が生きていくだけで必死だったからな‥‥」 百田が無骨にぽつりぽつりと語る。百田がいたのは昼間は人間が闊歩できるが、夜ともなれば魑魅魍魎がヒトを襲う世界。まして妖精眼をもつ百田には、昼でも道の隅にわだかまる行き倒れ者の魂や、美しい品物にも妙な念が宿るのが見えてしまうので、心休まる時は少ない。 「では、共に戦った仲間としての女子ならばおったのでは?」 「‥‥仲間ならばおらぬことも、なかったが‥‥それだけだ」 「戦ううちに互いの背中を預け、心許せる相手となった‥‥と。しかし戦いに明け暮れる日々の中では胸のうちを確かめ合うことも出来ず、寄り添えぬままに時が過ぎたというぱたーんじゃな」 勝手に話を作られて百田が憮然としていると、 ふにゃふにゃと几帳の裾にくるまって転寝しかけていたディーナがしゃきーんと起き上がり、 「その人何歳? 今どこにいるの? 次いつ会うの?」 仲人好きの団地妻のごとく質問を連発する。 「さあ、いつであろうか‥‥」 百田は視線を夜空に投げる。そういえば、百田の世界では五年ほど前、魍魎とヒトとの壮絶な戦いがあったらしいと蘭が説明するともなく呟いた。結果はヒトの勝利に終わったが、それも多大な犠牲の上に辛くも得た勝利であったとか。もしかしたら、百田にも彼の世界において、その犠牲となった女戦士がいたのかもしれぬ。その誰かが、百田がかつて互いに背中を預けて戦った女性であったかもしれぬ。 「すまん。あまりそういった話は得意ではなくてな。‥‥化け物退治の話なら、少しは面白く話せるかもしれんが」百田はがりがりと頭をかいた。 「いや、菊を愛でる宴に血なまぐさい話よりも恋の思い出の方がふさわしかろうと思うたまでじゃ。気に障ったならば詫びを申す」 「そういうものか。人ごとに世界があり、常識も違う‥‥うっかり忘れそうになるからな。良い経験をさせて貰った。礼を言う」 百田がこれぞ大人の対応という言葉を返したので、まかり間違えば居心地の悪い宴となりそうだった場の空気が元に戻った。 百田とは形こそ違えど、生き延びることが至上命題であったリエ・フーが何かを察したのか、たくみに話題をスライドした。 「ま、蘭も百田のオッサンへの質問攻めはそれくらいにして、オッサンにも花をゆっくり眺めさせてやれよ。こん中にいる誰も、普段はゆっくり花なんて見る余裕ねえヤツばっかだぜ?」 「ふうむ? そちこそ何やら深き思い出話のありそうな様子。先ほどから 私 の 舞 いには目もくれず菊の花に見とれておる様子が尋常に思えぬが」 恨めしげに『舞い』を強調しつつ、蘭が問いかけた。 「あぁ、悪りぃ悪りぃ‥‥あの小菊の花にはちょっと、引っかかりがあるっつーか‥‥」リエがくぴっと菊酒を飲む。 「ほう? この小さき花に私 の 舞 いよりも心惹かれるとな。いざいざ話してたも」 ぐいぐいと杯を勧める蘭を受け流しつつ、リエは思い起こす。 ---リエが生まれ育った壱番世界の歓楽街。その町にある娼館がリエの生家。館の住人は誰も快楽と引き換えに命の糧を得る美形たち。リエも多分に洩れず、幼い頃から男を篭絡する術に馴れ、水揚げから数年も立ったその頃には、娼館の稼ぎ頭の一人になっていた。 ある日の夜明け前だった。しつこい客をようやく部屋から追っ払い、外の空気を吸いに娼館を出た時。物陰に隠れるようにして、一人の少女がすすり泣いているのをリエは見つけた。 --色白の少女だった。うずくまっている姿が、白い花がひっそり咲いているのかと一瞬錯覚したほどに。 『おい、そんな薄着じゃ、風邪引‥‥』 声をかけると、黙って少女は逃げてしまった。娼婦達の噂で、最近売られて来たばかりのその少女の名を知った。 『ああ、雪静(シュエジン)? ゆうべ、水揚げされたんだってさあ』 自分でも、なぜそんなにあの少女が気に掛かるのかわからないまま、リエは少女を見かけるたび、声をかけるようになった。 少女がようやく心のうちをリエに打ち明けるようになったのは、冬の日に並んで暖炉に当たっていたときのこと。あまりにも寒い雪の日で、客足が遠のいて、二人ともが珍しくお茶を挽いていた夜だった。 『どうしてリエは平気なの?』それが唯一の生きる道とわかっていても、肌を売るのが辛いと少女は横顔で語った。 『平気じゃねーけど‥‥そう悪くもないって感じかな』 自分はただ発見しただけだ。馬鹿で賢くて、強くて弱くて、酷くて優しいのが人間だと。 少女の笑顔が見たくて、リエは自分の暮らしの中で、悪くないと思った事柄を話して聞かせた。 いつかお金をためてここから出てゆこうなんて夢物語は、耐えることを知っているこの少女にはふさわしくないと思ったから。 勲章をたんまりぶら下げたえらそうな軍人からは襟の金飾りをちゃっかり盗み取ったりするが、爆撃で片足を吹っ飛ばされ、体はもう男ではなくなっているのに人肌のぬくもりが恋しくてやってくる退役兵には、ちょっぴり寝酒をおまけしてやったりする、そんな話を。 『リエは強いのね。それに賢いわ』少女が初めて、少しだけ明るい瞳をした。 数日後、少女の身請け話が決まったと、娼館の主から聞かされた。大きな造船所の社長が少女を気に入り引き取るのだと。喜んでやらなくてはとリエは思った。少なくとも、不特定多数の男達に弄ばれるよりは‥‥ 『元気でね。私、リエのおかげで少し強くなれたわ』 綺麗に化粧された顔に泣き笑いを浮かべて、少女は、迎えの車に乗り込む前、リエに大事にしていた鼈甲のブローチをくれた。小菊の彫りが施された、古風な形のそれを、当時のリエはただ握り締めながら、少女を見送ることしかできなくて、‥‥ 「それが、唯一の形見の品となったというわけじゃな」 菊はリエの出身国では、誇り高き美の象徴であると同時に、延命に効く薬草とされている。少女は元は由緒正しい家の生まれだったらしいから、親は売られていく少女に身を切られる思いで、心だけは穢れずに気高くあれ、病に倒れず生き抜いてくれと祈りつつ櫛を与えたのかもしれない。 「官憲から逃げる途中でおっことしてなくしちまったけどな‥‥物好きに拾われて質に流れちまったんじゃねえか」 リエが笑い飛ばすように言ったが、杯を口に運ぶ手が止まっていた。 「でも、その娘さん、リエ君の言葉を心の支えにして、しっかり人生を送れたのよね。二人には形じゃない絆が、あったわけよ!」 夜の涼気で酔いが少し醒めたディーナが慰める。が、まだ酔いが残っているので変な方向にひらめいた。 「そうだ、私、合コンセッティングするからっ! 絶対する! そこでまた新しい恋、見つけようよ!? 女子4:男子4ね。ゼロちゃんとチェキータさんも予定空けといてね。えーとあと女子二人か。そっちは男子あと二人、声かけといて。百田さんも来るよね?」 「ま、気長にやってくさ。旅人の身分じゃ、いつどんな辺境世界にふっとばされるか、はたまた消えるか、わからねえしな」リエが少年の姿に似つかわしくない寂びた苦笑を浮かべつつ言った。 「待て、私は数に入っておらぬのか?」と蘭。 「うん、じゃ来週末、ターミナル前の『黒木屋』で7時半からでいい?」 「待て、私は数に(ry」 少ししんみりとした空気を励まそうとしてか、百田が徳利を差し出した。 「お互いに平和な夜の過ごしはじめというわけか‥‥記念に飲み明かそう」 「はいっ! 飲ませていただきますっ!」ディーナがしゅびっと杯を指しだした。受ける。 「こんなのもあるぞ。振る舞い酒を飲んでるだけじゃ、芸がないからな」どこからか蒸留酒を手に入れてきたチェキータがどんっと酒ビンを座の中央に置く。 「お前たちは良く呑むのだな? 大丈夫か? 呑みすぎて歩けなくなっても知らんぞ」 百田の心配と、 「これこれ、このおなごにこれ以上飲ませるとっ!」 蘭の制止をよそにディーナは「これもっ! 美味しいね~」ぷはあと飲み干し、数分後には出来上がってるのだった。 「え~と、この中でオトナは誰っ?!殴り合おっ!酔って殴りあうの、楽しいよ?本当だよ?」 ねっ☆ と几帳に拳一発。 「「「がっっっ」」」 几帳の支柱が真っ二つに折れて、倒れた。 「わーーーっ!?」 「危ない、危ない‥‥もう酒は禁止じゃ」 ゼロがぽんと手を打った。 「ジャパンのお酒はバイオサムライやサイバーニンジャの回復に使われるほど強力だからですね? ゼロは聞いたことがあるのです。ジャパンには単体で正規軍と互角以上の巨大な戦闘力を持った生物がしばしば来襲するのだと。 ザイバツを治めるダイミョーがサイバーニンジャやバイオサムライ、超能力ゲイシャ、超人スモーレスラーを従え群雄割拠しているのだと」 そこで納得しちゃ駄目だ。しかし蘭はどうやってゼロの誤解を解いたらいいのか四苦八苦している。 「酒は禁物か‥‥なら、団子でも食うか?」百田が背の荷物から、団子を取り出す。甘い香りがチェキータがくすくす笑いをしながら百田を尻尾でくすぐった。 「意外だな。指一本で熊でも倒しそうな顔して、甘いものを持ち歩いているなんて」 「俺は甘いものでも辛いものでも呑めるクチだ。ゆえに団子は良く喰うし、持ち歩きもする」 「いただくよ」 酔いにほんのり染まった頬でチェキータが団子をぱくり、唇についた餡をぺろりと舌でなめとる。 「え~、でわでわ‥‥コホン。ワタクシ、無芸ですので‥‥団子五本、一気食べさせていただきマスッ!」 ディーナがはぐっと団子を口に放り込む。 「喰べるのもすごいのう、この女子は」 「もう何があっても驚かないぜ、このカオス酒宴じゃな」 リエは開き直った表情で百田と月餅と団子を交換している。 「ふわあぁ~」 チェキータが大きくのびをしながらあくびをし、ふにゃふにゃと百田の大きな背中にもたれて眠りはじめた。 「おい、風邪を引くではないか。しょうがない、これを飲め。心配要らん、酔い覚ましだ」 百田が竹筒を取り出し、中に入っていた香ばしい薬草茶らしきものをチェキータとディーナに飲ませてやる。 「色々とよく気が付く男だのう」 その光景を目にした人々は、そんな気配りの人百田に、色々道具を出してくれるなんとかえもんを想像したかもしれない。 まだ眠そうなチェキータに、リエが上着を脱いで着せ掛けた。 「それではお前が、寒くないのか?」 百田が温石らしきものを入れた布袋をリエに渡してくれた。 「ちびちび酒をなめてりゃ、そこそこあったかいさ。お袋も酒癖悪かったし‥‥尻拭いにゃ慣れてんだ」 リエと百田は自分だけの杯と徳利を確保し、マイペースで飲んでいる。 「ハロウィン カボチャの明かり オレンジに 行き交う人の 浮かぶ街並み」 「ゼロとやら。歌詠みの際には『カボチャ』ではなく、『唐茄子』と言い換えた方が風情があるものじゃ。はろうぃんも『万鬼節』がよいな」 ゼロは蘭に、歌詠みを教わっているらしい。 ジャパンの風習か。そういえば、リエのいた娼館には時折日本人が来て、戦争成金だかなんだか知らないが、やたら威張っていたのであまりいい気持ちはしなかった。 だが、少しは日本も好きになってやっていいかも、とリエは思った。 「なあ。そういや日本にゃ投扇興ってのがあるらしいぜ、いっちょ勝負してみねえか?」 「‥‥無謀な申し出じゃな。私の扇投げの腕前を知らぬと見える」くっくっと蘭が笑ったが、リエはかまわずに続けた。 「賞品は‥‥そうだな、俺が勝ったらあの菊を一本くれ」 指差したのは、細い花びらが翼を広げたように白い、凛とした一輪。そのまっすぐに天を向いた細い首筋があの少女に似ている気がして。 懐紙で折った蝶を狙い定めて、二人が交互に扇を投げる。 蝶はぱたりと蘭の投げた扇で落ちた。残念ながら賞品は渡せぬぞと、宣言した蘭だが、菊の枝を一本、根元を濡らした綿でくるんでリエに渡した。 「菊一本はやれぬが、この枝いっぽん、育ててみるがよい。菊という花は、意外に生命力が強うての、この小さな枝から根が伸び枝が伸び、やがて花を咲かせるのじゃ」 「出来るかなぁ。‥‥けちなこと言わねぇでまるごとくれりゃいいのに。育てるなんてやったことねぇし」 「そうかな? 水か空気か土か、花が何を求めているのか、そちならば声を聞くことが出来ようぞ」 やがて、もう菊酒が尽きそうだから宴はお開きにすると蘭が告げた。 百田の薬草茶で酔いが醒めたらしいチェキータは、きちんと正座して最後の菊酒を受けた。 「ごちそうさま。大勢で飲むのもたまにはいいもんだな。‥‥キミみたいな人となら、ふたり差し向かいで飲んでも楽しいかもしれないがな」 言葉の後半はからかうような言葉で、蘭はさっと顔を扇で隠し、「またいずれ」といった。顔が赤かったのかもしれない。 ディーナが半醒め半酔い状態で蘭に礼を言っている。 「凄く楽しかった、よ?ねぇ‥‥またやって?今度はちゃんと、準備する前から手伝うからぁ」 ディーナががしっと蘭をハグしたので、勢いを受け止めかねた蘭は後ろの菊の鉢に頭をぶつけたとか。 「ごっ!」 後頭部を痛打したとはいえ、抱きつかれるほど感動されて、蘭も喜んでいた。と思うよ。多分。 「夜を楽しむ、とは思ってもみなかった‥‥。そうか、魑魅魍魎がおらぬのであれば、夜はこのように静かで、心地よい風が吹くものなのか‥‥」 百田が呟き、しみじみと夜空を見上げた。長く平和というものを知らなかったこの男に、いつのまにか甘い菊の香が移り香となりしばし残っていた。 なお、現在、世界図書館の掲示板に、ディーナさんのほろ酔いお宝写真が数枚掲示貼り出されておりますので、まだ見ていない方はお早めに。
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