オープニング

 世間ではよく、教師とは「聖職」だと言われる。
 未来ある若人を教え導き「立派な大人」として社会に送り出す。故に人々の尊敬と信頼を得るに相応しい、清廉潔白にして公正明大な人格者でなければならないと。
 僕自身、その理想と使命に燃え、この十年というもの己の職務を忠実に全うし、周囲の期待に応えてきたつもりだ。
 だが、この現実はどうだ。
 やれ親が悪い、学校が悪い、世間が悪いと、全てを他人のせいにする。
 心の病を免罪符に、己の弱さを盾にする。
 口では自由と権利を主張しながら、実際は誰かを頼り、庇護され、ただ流されて生きるだけ。
 責任を放棄し、支配を甘んじて受け入れながら、それを自覚することすらない、愚かな家畜の群れ。
 それが、今の彼らの姿だ。

 愚かしい。
 嘆かわしい。
 こんな連中が、明日の日本を、世界を背負って立つというのか。

 今の日本には、愚鈍で、脆弱で、何の役にも立たない人間が増えすぎた。
 やせ細った苗は間引かければならない。
 増えすぎた害獣は駆逐せねばならない。
 それこそが、より強靭で、優秀な種を存続させるための方法なのだから……。



「あの女、最近女王様気取りってやつ? こないだなんかも男数人と連れだってさあ。人の彼氏略奪しといて、何様のつもり?」

「あのダサくてキモイ女、なんだって俺につきまとうんだよ。迷惑だっての」

「最近の委員長、何か先生に媚びててさあ、調子こいてない?」

「もしかして、陰で援交したりしててな」

「あの暗くてオタクっぽい奴、あいつがいると何か教室の雰囲気まで陰気になっちゃうんだよねー。あーやだやだ、早いとこ追い出してえ」

「俺見たぜ。B組のあいつ、この前駅前のスーパーで万引きしてたの」



 あいつ、チョームカツクんだけど。

 ウザイ。キモイ。こっちくんな。

 あー、いっそ死ねばいいのに。


 シネバイイノニ。




「井神先生! 一体どういうことなんですか!?」
 夕焼けに染まる廊下で、僕は一人の女生徒に呼び止められた。
 小佐田依子(おさだ・よりこ)。成績は中の上だが、それ以外には取りたてて特徴のない生徒だ。性格的には気弱でおとなしく、影ではクラスメートのいじめにあっているらしいとの噂も聞く。僕自身、そのことで何度か相談を受けていたこともあった。
 その小佐田が、今まで見たことのない怒りと悲しみに満ちた眼差しを、僕に向けている。
「……いきなりどうした? 小佐田」
「とぼけないで下さい。この前先生に、卒業後の進路の件で相談したこと、ありましたよね? 私その時、父がリストラされて収入がなくなったこと、そのことが原因で母と離婚の危機にあるってこと、話しました。このことは、先生以外の誰にも言ってない。なのに……私、聞いてしまったんです。クラスのみんなが、その話をしていたのを。みんなには秘密にしてって言ったのに……私の家族以外に知りえないことを知ってて、それを口外出来るとしたら、先生以外ありえない。教えてください。本当にあのことをばらしたんですか!?」

 瞳を潤ませながら、彼女は僕の方を真剣な表情で見つめていた。
 ああそうだ、この目に宿るものは「絶望」だ。
 誰かを憎み、それでいて誰かにすがろうとする目だ。

 僕が今までに何度も見てきた、忌々しい「弱者の目」だ。

 僕は静かに彼女に近づいた。いつの頃からか、口に出さずとも、ただ相手の目を見るだけで、僕は自分の意志を伝えることが出来るようになっていた。



 ……小佐田。君は「自分の身の程」を知っているのか。

 少し勉強が出来るぐらいで、他には何のとりえもない。
 運動も駄目。容姿も人並み以下。友達もいない。金もない。自力で困難を乗り越えようという努力もしない。
 その上、最近では成績まで落ちているというじゃないか。

 いいか。この世の中は、君のような「何も持たない人間」を受け入れてくれるほど、優しく出来てはいない。


 君に生きる価値なんか、ないんだ。



「あ……あ、あ……」
 呻き声と共に小佐田は頭を抱え、そのまま走り去って行った。目尻のあたりに小さな光が見えたような気がしたが、そんなことは僕の知ったことではない。

 数分後には、彼女は校舎の屋上から飛び降りて死ぬだろう。
 これでまた一段階、世界の淘汰は進む。



「……以上が、今回あなた方にお願いする、壱番世界で進行中の事件の概要よ」
 世界司書のオリガ・アヴァローナは、沈痛そうな面持ちでそう告げた。
 彼女の持ちこむ依頼は、時として旅人たちに苦い思いを、胸の痛みを伴うものも少なくない。此度の依頼も、恐らくはそういうものであろうということは、その辛そうな表情から見て取れた。
「井神勝利(いがみ・かつとし)。32歳。東京都武蔵野市にある、私立七津見高校の教師。本来の彼は、教育熱心で周囲からの信望も厚く、生徒たちの悩み相談にも積極的に乗っていた、理想的な教師だったらしいわ。だけど、何時の頃からか彼は『ディラックの落とし子』に寄生されてしまった……」
 ディラックの落とし子。虚無より飛来して世界を侵食し、滅びをもたらす災厄。世界の敵。その中でも、侵入先の生物に寄生し異形化させるタイプのものを「ファージ型」と呼ぶ。
 これまでは動植物への寄生例しか報告されていなかったが、数ヶ月前に福岡市で地下鉄運転手がファージに寄生され、異形化するという事件が発生した。
 現地に赴いたロストナンバーたちは死闘の末これを討伐したものの、これまでより格段に高い知性を持つファージが現れたこと、そして同じ「人間」をこの手にかけねばならなくなったことに、彼らは少なからぬ苦悩と葛藤を抱えることになった。
 その恐るべき事態が、今再び起きたというのだ。
「表面上は、彼の行動はこれまでと何ら変化していない。だけど裏では……今話したように『同族を操る』というファージの特性を悪用し、生徒からの相談で得た『極めて個人的な情報』を、別の生徒を操ることで『噂』として流布させるようになったの。それがファージに操られての行動なのか、それとも元々彼自身にそうした人格形成に至る素養があったのかどうかは、分からない。ただいずれにせよ、井神の行動によって生徒たちは疑心暗鬼に陥り、心の重圧に耐えきれなくなった者から、自ら命を絶ったり、憎しみにかられて旧友を殺そうとするようになってしまった……この2ヶ月の間に、同校で起きた自殺は5件。殺人未遂と思われる傷害事件が8件。それ以前は特に荒廃していたわけでもない、ごく普通の高校だったのに。この急激な変化はあまりにも異常だと、今やニュースでも報じられ始めている程よ」
 そこでオリガは一旦言葉を切り、改めてロストナンバーたちに向き直った。その瞳に宿る思いは普段以上に悲痛で、それでいて尚、強い意志を秘めていた。たとえ罪の意識に苛まれても、自分の心を引き裂かれても、無辜の人々を守るために非情な決断を下す。それが自分の役目だと、今の自分にできる最大限のことだと自覚しているから。
「そして、今回あなた方にお願いしたいのは、ディラックの落とし子に寄生されファージ化した人間『マンファージ』の討伐……これが何を意味するのか、もうあなた方にもわかるでしょう?」
 つまり、オリガはこう言っているのだ。
 井神勝利を殺せ、と。
「分かっているわ。自分がどれほど酷いことを言っているのかも、あなた方に酷なお願いをしていることも。だけど、今彼が進めている謀略を止めなければ、あのような惨劇が止むことはないでしょう。そして、もし下手に逃がすようなことにでもなれば、彼は別の場所に潜伏し、同じ『儀式』を進めることでしょう。新たな儀式、そしてそれが完遂した時に出る被害は計り知れないわ。比喩ではなく、文字どおりの意味で壱番世界そのものが『別の何かに』作りかえられてしまう。それは『世界の崩壊』に限りなく等しい事態よ。だから……」
 ファージ変異種となった人間を元に戻す方法は、現時点で確認されていない。
 つまり、これ以上被害を拡大させないためには、そして何より、今や完全な「化け物」になってしまった井神自身を救うには、その命を断つしかないのだ。
 元は同じ人間だった者を、この手で殺す。
 自分たちに、本当にそんな資格があるのか。
 この手を血と罪に染める覚悟はあるのか。

 彼らは皆黙して語らず、それぞれの決意を胸に、チケットを手に取った。

品目シナリオ 管理番号977
クリエイター石動 佳苗(wucx5183)
クリエイターコメントお久しぶりです。石動です。

今回の依頼は「壱番世界に侵入したファージ型落とし子の討伐」です。
そしてそこには「宿主である壱番世界の人間・井神勝利の討伐(=殺害)」も含まれます。
ファージを宿主から引き離す方法は現時点では確立されておらず、彼を生かしたまま救うことは、今回のシナリオでは出来ません。もし下手に仏心を出して逃がせば、彼は別の場所に潜伏し、同じ惨劇を繰り返すことでしょう。
エントリーされる方はその点をご留意の上、PC的にもPL的にも「覚悟を持って」お越しください。

ファージの寄生により、井神は異形の怪物に変身する能力を獲得しています。
普段は人間の姿のまま行動していますが、戦闘となれば「全身に鋼鉄の鋭利な針(突起物)を生やした、ハリネズミ怪人のような姿」に変身して戦います。この針は自身への攻撃から身を守る鎧の役目を果たすと同時に、体当たりによって敵に大ダメージを与えます。接近戦を挑むと針によるダメージを食らう可能性がありますので注意してください。

また、人間に対する洞察力、そして虚言により人心を惑わす能力も格段に高まっています(これはテレパシーの様に「心そのものを読み取り操る」ものではなく、あくまで「会話や行動パターンから相手の思考を推察する」ものに近いです)。PCに対しても「心の迷いや弱さ」を刺激し、動揺を誘ってくる可能性があります。
その意味でも、「確固たる意志と覚悟」が求められるでしょう。

更に井神はファージ寄生体の特性として「周囲にいる他の人間を操る」能力を持っており、操った人々を自らの手駒、或いは盾として惜しげもなく利用してきます。
彼自身も己の能力を心得ており、また「より多くの人間に疑心暗鬼を起こさせる」という儀式を効率よく行うためにも、極力一人きりの状況を作らないようにしています(自宅には帰らずネットカフェに寝泊まりするなど)。何とかして彼を一人きりにする工夫、もしくは操られた人々への対処は必要でしょう。
この能力によりPCが操られることはありませんが、操られた一般人を犠牲にすることは避けて下さい。「自らの手を汚すことなく、一人でも多くの無能な人間を間引く」こと自体が井神の目的ですので、一般人の犠牲は更に彼の儀式を進行させてしまいます。
また「操られている間の記憶」は残らないようなので、井神との戦闘中においては、特に自分の姿を隠したりする必要はありません。ただし、建造物を破壊するなどの「あまりにも目立つ行為」は控えて下さい。

OP本文に登場した女生徒、小佐田依子は既に自殺しています。
彼女をいじめていたり、噂をばらまいていた生徒たちも「自分が誰かに操られていることと、その間にさせられていたこと」には全く気付いていません。

それでは、ご参加お待ちしております。

参加者
西 光太郎(cmrv7412)コンダクター 男 25歳 冒険者
夢天 聡美(ctcm6671)ツーリスト 女 18歳 学生
ルーズーイイラ(cctv4934)ツーリスト その他 24歳 謎
龍臥峰 縁(crup9554)ツーリスト 男 36歳 エンキリ
ルゼ・ハーベルソン(cxcy7217)ツーリスト 男 28歳 船医

ノベル

「井神先生? けっこう良い先生だよ」
 放課後の校門前。ルーズーイイラの問いかけに、男子生徒は屈託のない表情でそう答えた。
「面倒見もいいし、優しいし、生徒指導にも熱心だけど、クソジジイの教頭みたいに口うるさくないし。それに、うちの学校の教師陣ではそこそこイケメンな方だから、結構女子にも人気あったりするんだぜ。ただ……」
「ただ?」
「最近先生、家に帰ってないみたいなんだ。この間も塾の帰りにさ、深夜の駅前通りをうろついてるのを見かけたんだよ。前に友人から話を聞いた時は、多分見回りでもしてるんだろうと思ってたんだけど、それにしては目が虚ろだったし、俺たちが挨拶しても無視してどこかに行っちゃうし……何というかこう、ちょっと様子が変だった」
「そうそう。実は俺ん家、井神先生のマンションの近所なんだけどさ、以前は部活の朝練に行く時、出勤中の先生と会うことが多くて、お互いによく挨拶とかしてたんだ。それが最近ではめっきり見なくなっちゃって。かと思うと、やたら大きな荷物を持って早朝のネカフェから出てくるのを見たって話も聞いたし」
 幾人かの生徒たちも、井神の『小さな変化』に気づいてはいるようだが、ここ数ヶ月の間に校内で頻発する自殺や傷害事件に比べれば、それは『些細なこと』としか認識できないのかもしれない。

 平穏な日常を脅かす、陰惨なる『死』の行列。
 しかし、その裏で深く静かに進行する『恐るべき真実』を、彼らはまだ知らない。



「まずいな。奴は俺たちが思っていたより手強い相手だ」
 ルーズーイイラからの報告を聞いて、西光太郎は渋面を浮かべた。彼は前夜、自らのセクタン・空に、放課後の井神の動きを偵察させていたのだ。
「井神は昨晩の18時頃、つまり仕事や買い物を終えた付近住民の姿が見える時間帯に一旦帰宅した後、荷物を纏めて再び自宅を出、そのまま翌朝まで駅前通りのネットカフェから出てこなかった。入店前には居酒屋やファミレス、スーパー銭湯といった24時間営業の店を物色していたところをみると、奴は最初から外泊を前提に行動していたんだろう。それも『常に誰かがいる』場所を選んで」
 生徒たちが言っていた『大きな荷物』は、恐らく着替えや翌日の仕事で使うテキスト類だろう。
「ああいう場所には、必ず夜勤のスタッフがいる。移動時にも極力狭い道を避け、人や車の往来が多い大通りを『意識して』利用していた。奴が『完全に』一人になる時間があるとすれば風呂かトイレの時ぐらいだろうが、それも施設備付のものを使われれば同じことだ」
「つまり『一切の隙無し』ってことやな……」
 予想以上に周到な井神の手管に、龍臥峰縁は嘆息する。
 逆に言えば、それは井神が既に「人としては壊れている」ことの証左でもあろう。常に他人の存在を肌で感じ、静寂の中で落ち着きと安らぎを覚える暇も一切ない状況で、平気でストレスを溜めずにいられる人間などいないのだから。
「こうして手をこまねいている間にも、また新たな犠牲者が出るかもしれない。向こうの出方を待つより、いっそ『こちらから状況を作る』方が良いのかもしれないな。例えばこう……相談するふりをしておびき寄せるとか」
 ルゼ・ハーベルソンの提案を聞いて、それまで俯いて黙っていた夢天聡美は顔を上げ、おずおずと呟いた。
「あの……井神さんを一人にしたほうがいいんですよね? なら……私が囮になるというのはどうでしょうか? 見るからに気弱な私は絶好のカモだと思うんです」
 突然の申し出に、一同は顔を見合わせた。確かに、外見は壱番世界の住人と殆ど変わらない。年齢的な面からも、彼女ほど囮役に適した者はいないだろう。しかし、ロストナンバーとして覚醒する前の彼女は、出身世界で同級生たちから酷いいじめを受けていたという。
「……本当にいいのか? 今回は巧妙に精神的な揺さぶりをかけてくる奴が相手だ。ひょっとしたら君にとって、辛い役目になるかもしれないぞ」
 誰もが少なからず、光太郎と同じ不安を感じていた。しかし聡美は、あくまでも真っ直ぐな瞳で彼らを見つめ、答えた。
「皆さんの心配していらっしゃることは分かります。でも、だからこそ、こんな酷いことは終わらせなくてはいけない……そうでしょう?」
「そうだな。ここは彼女を信じて任せよう。だが、同じ学校の生徒を名乗るのは無理がある。少しでも疑われて、生徒名簿を調べられたらそれで終わりだ。念のため、先日自殺した小佐田依子という女生徒の友人を名乗るのがいいだろう。他校の生徒で、生前の彼女と塾かどこかで知り合って、その際に井神の評判を聞いた、ということにしておけば、身元を改められる危険も減ると思う」
 小佐田依子――ルゼの発したその名前に、聡美は自らの過去を重ね合わせ、決意を新たにする。
(依子さん……あなたの無念と悲しみは、私たちが必ず……)
「呼び出す場所は、校舎の屋上が良いだろう。それも出来れば、他の生徒や教職員が完全に帰宅した夜中に。そこなら奴との戦いも周囲に見つかりにくいし、たまたま近くにいた人間が操られても、校舎の階段を登り切るまでの時間は稼げるはずだ。地上や教室内に比べれば、かなりリスクは低いと思うよ」
 逆にこちらも追いつめられれば逃げ場はない、ということになるが、どのみち自分たちには井神を生かしたまま逃げ帰る選択肢などない。『刺し違えてでも奴を倒す』つもりで向かうしかないと、誰もが覚悟を決めていた。
 殺さずに済む方法があるなら、生かしたまま救う手立てがあるなら、誰もがそうしたかった。特に、自らの強大な力故に出来ることなら安易に死を与えることは避けたいと考えるルーズーイイラの心には、複雑な思いが去来する。
 しかし、その彼をしても、頭の隅に予感はあった。
 恐らく、井神に説得は通じないだろう。その強すぎる意志故に。そして強大な力を手に入れた全能感故に。
 今や『新世界の偽創造主(デミウルゴス)』となった井神が顧みるものなど、無いのだ。



「あの……井神先生ですか? 小佐田依子さんの件で、お話が……」
 七津見高校前の電話ボックス。既に日は落ち、辺りは夜の闇に包まれ始める。
 そこで聡美は、ルゼが調べてきた井神の携帯番号に電話をかけていた。
「ありがとうございます……では、お待ちしています……」
 そう言って聡美は電話を切り、ボックスを出た。
「首尾の方はどうだい?」
「……はい、手筈通り、今夜9時に屋上に来ると、確かに……」
 光太郎の問いに、聡美は言葉少なに答えた。
 始める前には不安もあった。年頃の女の子が夜中に、しかも他校の校舎の屋上で会いたいなど、いかにも怪しすぎる。
 だけど、だからこそ、奴はこの誘いに乗るのではないかという思いもあった。か弱い少女が屋上で一人でいれば、そのまま精神を壊して自殺へ追い込むことはたやすいだろう。もし妙なことを企むなら「邪魔者」として返り討ちにしてやろうとまで考えるかもしれない。
 部活中の生徒たちに見つからないよう一行はそっと校舎に忍び込み、光太郎の『百の職の一つ』で屋上のドアの鍵を開けると、そのまま約束の時間まで、井神が訪れるのを待った。

 そして、約束の夜9時。
 既に生徒たちは部活を終えて帰路につき、校舎にもグラウンドにも、既に一切の人影はない。
 すっかり静寂に包まれた校舎。その屋上に、果たして井神は姿を現した。
 そこでは見知らぬ少女が、一人きりで佇んでいる。着ている制服は、この七津見高校のものではない。
「はじめまして……私、夢天聡美といいます」
 表面上は冷静に、しかしどこか値踏みするように、井神はその少女――聡美の姿を見つめた。
「うちの学校の生徒ではないようだが……君は、小佐田の知り合いなのかい?」
「はい……同じ塾に通ってて……お互いの学校のこととか、将来の進路とか、色々と話したことがあるんですが……最近塾に来てないと思ったら、自殺したって聞いて……生前彼女はよく『井神先生は色々と相談に乗ってくれる優しい先生』だと話してたから……もしかしたら先生なら、彼女の自殺について何か知ってるかもしれないと思ったんです……」
 ただでさえ気弱な性格の上に、今相手にしているのは、恐るべきマンファージだ。いやが上にも、恐れと緊張が聡美の声と体を震わせる。その様子を、井神の鋭い瞳は見逃さなかった。
「……それを知って、君はどうするつもりなんだい?」
「えっ……?」
「そうやって、死んだ人間のプライバシーを嗅ぎまわって、好奇心を満たすつもりかい? 残酷なんだね、君は。数少ない友達の死をも、そんな風に利用するなんて。そうやって空気の読めないことをすれば、人に嫌がられるのは当然のことだろう?」
「そ、そんな……私、そんなつもりじゃ……」
 聡美は動揺した。頭では「これは井神の精神攻撃」だと分かっていた。そうやって人のトラウマや罪悪感を煽りたて、ゆさぶりをかけて絶望の淵へと突き落とす。これこそが井神の手口。彼の「ルール」なのだと。しかし、覚醒前の彼女の暗い過去が、自分をいじめていた者たちの蔑むような残酷な瞳が甦って、心がぐらつきそうになる。
 体が震え、双眸の端に涙の雫が浮かび始めるのを、聡美は感じ始めていた。
(駄目……私はまた……ここでも……)
「……そこまでだ、井神勝利」
 その時、貯水タンクの陰に潜んで様子を伺っていた、4人の男達が現れた。
「とうとう尻尾を出したな、下郎」
「何者だ、君達は」
「通りすがりの正義の味方……って言っても信じねえよな」
 冗談めいた言葉と共に微苦笑を浮かべる光太郎だが、その瞳は決して笑っていない。お前のような外道に名乗る名前など無い。それが彼の意志表示であった。
「これまでの所業は既に知っている。これ以上の凶行は許さない。全力で阻止させてもらう」
「ふん、まあ良い。君達が何者であろうと、僕の邪魔をする愚者は、この世界には必要のない存在だ」
 憮然とした顔で、井神は一行に向き直った。見た目はごく普通の人間と変わらない。武器らしきものも持たず、悠然とした態度で立つ姿は、一見無防備にも見える。
 最初に動いたのはルゼだった。彼は井神を拘束すべく、自身のトラベルギアである包帯を放った。自由自在に動き、いくら使っても無限に伸びて尽きることのない包帯は、たちまちのうちに井神を絡め取る。
 それに呼応して、縁も井神に斬りかからんと、日本刀型ギアの珠結≪タマユラ≫を構えた。
「……この程度か」
 呟きと共に、井神の体から、何やら鋭利な突起物が飛び出し、ルゼの包帯を切り裂いた。
 血のように赤黒い色をした『針』。それは次々と井神の腕から、胴から、足から、頭から、無数に生えてくる。
 極限まで研ぎ澄まされた針の切っ先は、瞬く間にルゼが拘束した包帯をボロボロの布くずに変えていく。
 そして……自ら戒めを解いた井神は、巨大なハリネズミ、或いは人の形をした海胆(ウニ)にも似た、異形の姿と化していた。
「どうした? もう怖気づいたか?」
 あまりにも禍々しい井神の姿に、一同は絶句した。特に直前まで斬りかかろうとしていた縁は、ギラギラと光る針の鋭さを目の当たりにして、反射的に動きを止める。もしあのまま斬りかかっていたら、間違いなく自分自身があの針の餌食になっていたことだろう。
「最強の矛と最強の盾。矛盾するこの命題を克服するには、盾と矛が一つになればいい。君達がいくら僕に襲いかかろうと、逆にこの僕の針で返り討ちにされるだけだ。君達も何やら『特別な力』を持っているようだが、見たところ力押ししか手段がないようだな」
 井神の言う通りだった。今の彼らは、銃や魔法といった遠距離攻撃の手段を持たない。つまり、井神の針が届かない範囲から有効打を与えることが出来ないのだ。
「つまり、君達には決して、僕を倒すことは出来ない。だが僕は、近づくだけで君達を串刺しにすることが出来る。己の愚を地獄で後悔するがいい!」
 高らかに宣言し、井神は一行に躍りかかった。ファージの寄生により常人より遙かに高められた身体能力にものを言わせ、猛スピードで突進をしかけようとする。この速さでは、とても避けきれない!
「くっ……!」
 しかしあわやというところで、彼らはその体当たり攻撃をことごとくかわしてゆく。光太郎も、ルゼも、縁も、ルーズーイイラも、自らの内に温かな力を感じ、ほんの少し体が軽くなったような、或いは何か見えない空気の鎧に守られているような、そんな不思議な感覚を覚えていた。
「何故だ? 何故当たらない?」
 動揺する井神の視界に、まるで己の秘めたる力を放出するように、両手を突き出す聡美の姿が映った。
「まさか……貴様の仕業か!」
「……私には皆さんのように、直接戦う力はありません……でも、皆さんの能力を高めることで、ほんの少しでも役に立つことが出来る……『目に見える能力』が無いからと周囲からいじめられていた私に、生きる希望を与えてくれた皆さんを……決して殺させたりなんかしません!!」
 小さな勇気を振り絞るように、井神に向かって宣言する聡美の言葉を受け、ルーズーイイラも静かに語る。
「そういうことだよ。価値というのは、所詮人間の思い込みなんだ。君の思う価値が、他の人からすれば全く違うなんてことは、ざらにあることさ……私の主観で言えば、己の手を汚さないで偉業を為した所で、それは誰からみても、あまり価値のあることじゃないとは思うけどな……人ははいずってでも何かをやるからこそ美しいんだ、弱くったって、何もできなくたって、必死で生きることこそに、美しさがある……その美しさは、決して否定できたものじゃないよ。そう……今の彼女のように」
「……何も分かっていないくせに」
 あからさまな侮蔑の色を込め、吐き捨てるように井神は呟く。
「僕は昔から、常に努力を続けてきた。弱音を吐けば見捨てられる。他人に負ければ見下される。だから、誰にも負けないように、何も文句を言わせないように、常に自分を磨き、仕事をこなし、辛いことにも耐えて今日まで生きてきた。泣きごとを言う暇があるなら、その時間を有効に使えばいいだけの話だ。なのに何故、皆僕と同じように出来ない? 自分に力がないことを、何故認めて克服しない? 自分の心が弱いことを、何故人のせいにする?」
「おまえも一緒や。ド阿呆が」
 今度は縁が、井神に向かって一喝した。
「責任転嫁する生徒が悪いて、そう言うおまえも、今の世の中が悪いのを生徒のせいにしとるやないかい。おまえがどんだけ、辛いこと苦しいことを自力で克服してきたかは知らん。だが今の戯言を聞いて、よォく分かった。おまえは結局、自分が『根性無し』っちゅうて見下されるんが怖いだけや。ちぃっとへこたれただけの奴を叩いて、『自分はあんな奴とは違う』と優越感に浸りたいだけや」
 二人と井神の舌戦が続く中、光太郎はバックパック――トラベルギア『クラインの壺』を探り始めた。確かに「最強の矛にして盾」となった井神に対して、接近戦を挑むのは危険だ。しかし井神の言う通り、今の自分たちは遠隔攻撃の手段を持たない。何でもいい。遠くからダメージを与えることが出来るものが……
「……何だ?」
 それは高さ50センチ程の、大きな金属製の缶だった。表面に何やら英数字や記号が書かれており、牧場で使われる牛乳缶に似た形状をしている。重そうには見えるが、少なくとも『武器』の類ではなさそうだ。
「こんなものが一体……そうか!」
 表面に書かれた注意書きらしき文字を見て、光太郎は得心した。そして一同を集め、井神に聞こえないよう何やら囁く。皆は頷き、そして再び井神に対峙した。
「これで!」
 再びルゼが、井神を拘束せんと包帯を投げつける。
「愚かな。何度やっても無駄なことだ!」
「果たしてそうかな?」
 同じ手を二度も食らうほどルゼも愚かではない。今度は既に突き出た井神の体の刺に引っかけるように、包帯を巻きつけたのだ。枝状に突き出た無数の堅牢な刺は、長い紐状の物を絡みつけるには絶好の形状をしている。途中で切っ先に接触しても構わず、針に刺さってもそのまま突き抜け付け根に張り付く。使っても使っても尽きることなく無限に伸びる包帯は、刺と刺の間の狭い空間をかいくぐり、時には自ら針に刺さって縫い付けられながら、複雑に絡みあってゆく。
「よし、今だ!」
 今度こそ井神の体が包帯に覆われたのを確認するや、光太郎は金属缶を頭上高く掲げた。縁も再び、己のギアの珠結を構え直す。
「どりゃあああああああああ!!」
 渾身の力を込めて、光太郎は井神に向けて缶を投げつけた。同時に縁がルゼの包帯を切断する。そしてすかさず、5人は井神から離れるべく後方に退いた。
「……ぐはっ!?」
 いきなり重い缶をぶつけられた衝撃で、さすがに井神もバランスを崩して一瞬よろけた。同時に、鋭い針の先端に貫かれ破損した缶から、何やら湯気のような白い気体が溢れだし、その異形の身体を包みこむ。
 しかし、ファージの力により常識を超えた強度の表皮を得た井神には、光太郎の一撃も大したダメージにはならないように見えた。視界を奪う白煙も、ただの目くらまし程度にしか思っていないだろう。
「小賢しい真似を……なっ!?」
 その時突然、井神の表情が一変した。それまでの余裕が一瞬にして消え失せたかと思うと、急速に全身を巡る苦痛にその身をわななかせる。
「うぐっ……貴様……一体何を……!」
「……液体窒素だ」
 液体窒素。マイナス196度の極低温で沸点に達し、周囲の温度を急速に低下させるそれは、科学実験や医療などの様々な場面で、瞬間冷却剤として用いられている。草花をガラスのように、バナナを鋼鉄のように硬化させる程の冷気だ。人体に直接触れれば、重度の凍傷を引き起こす危険性もある。今の井神の異変と苦痛は、正にその凍傷に違いなかった。
 もっとも、体温により気化し始める数秒間でその場から逃げ出すことが出来れば、大した影響を受けずに済んだかもしれない。だが破損と同時に溢れだした液体窒素は、瞬く間にルゼが巻きつけた包帯にもしみ込み、井神の皮膚組織を確実に凍らせ壊死させていった。
 更に、気化した窒素を一度に大量に吸った井神は、酸欠状態をも引き起こしていた。外側と内側の両方から大量の窒素に身体を蝕まれ、苦痛に呻きながらガクリと膝をつく。
「馬鹿な……このまま堕落し……腐り果ててゆくだけの世界を……こんなことをして……世界を……滅ぼすつもり……か……」
 尚もあがく井神に、光太郎は一切の慈悲も憐憫も見せず言い放つ。
「お前が死に追いやった生徒たちも、同じ気持ちだっただろうな。お前の言う『腐った世界』の中で、それでも自分なりの人生を見つけようと死に物狂いであがいていた、その最後の希望を、お前は踏みにじったんだ」
「あ…が……は……」
 凍りついた刺はバラバラに砕け、割れたガラスの破片のように井神の皮膚を滑り落ち、切り裂いてゆく。その傷跡と、壊死した皮膚の剥がれ落ちた跡から、真っ赤な肉の色が覗く。血とケロイドにまみれ、元の人相も分からない程の姿になり果てながら、井神は後方で立ちすくむ聡美の瞳を見た。
 繊細な硝子細工のような儚げな姿。哀しみを湛えた瞳。
 しかし、その奥に宿る意志の光は、何者にも曇らせることなど出来ないと悟るほどに眩しかった。
 眩しすぎて、直視できなかった。
「これで……終わりにしよう」
 白い窒素の霧が晴れたと同時に、ルーズーイイラは井神の『死のイメージ』から生み出された武器を掲げた。それは人の希望を、命を打ち砕く、巨大な鉄槌。
 もし井神が、今の自分の顔を見ることが出来たなら、彼はそこに、かつて己が死に追いやった若人たちと同じ瞳を見ただろう。夢も野望も、僅かに残った自尊心も打ち砕かれ、世界から見捨てられた『絶望』の瞳。
 死神が下す裁きの鉄槌は、血塗れの異形の頭上に落ち……次の瞬間、床には挽肉のように潰れた、人間大の赤い染みが残された。

「終わったな……」
 死闘の終焉と共に、誰からともなく安堵の溜息が漏れた。
 だがその表情は、決して晴れやかなものではない。覚悟していたこととは言え、彼らは一人の人間の命を、この手で奪ったのだ。しかも、既に人の形すら残さぬほどに。事実、聡美は変わり果てた井神の、もはや亡骸とも呼べぬ『残骸』を直視できず、なお一層悲しみに満ちた瞳を逸らし俯くばかりであった。
 マンファージという異形と化し、文字通り「悪魔の所業」に手を染めたとはいえ、死の直前まで井神はこの学園の教師として、確かに『この世界』に存在していた。慕っていた生徒も多いだろう。血縁者もいるだろう。恐らくもう会うことはないとは言え、残された人々の心中を思うと胸が痛む。
 せめて遺族のためにだけでも、弔ってやった方が良いのだろうか。そんな思いがふと頭をよぎるが。
「……あらかじめ戦闘中に、この《縁斬》でこいつの全ての『縁』を切っといた。ここにあンのは、この世界の誰とも繋がりを持たん、ただの身元不明の死体や」
 一行の思いを察するように、縁が言う。表面だけを見れば非情とも取れる言葉だが、それが何も知らない人々を傷つけ悲しませないために、今の彼がしてやれる精一杯のことなのも事実だ。

 晩秋の夜風が、肌を刺すように冷たく吹き抜ける。
 これ以上長居をして、自分たちの身を危険に晒すわけにもいかない。
 誰にも気取られぬように、一行は音もなく、その場を後にした。



 帰りのロストレイル車内。
 強大な力の反動で既に夢うつつのルーズーイイラに毛布をかけてやった後、残りの4人は隣のボックス席に腰を下ろす。
「……複雑だね、人の心というものは」
 ふとルゼが呟く。確かに井神は、世間の評判が示すように、勤勉で、努力家で、有能な人物だったのだろう。
「もしファージに寄生されることさえなければ、彼は善良な、理想的な教師のままでいられただろうか?」
 それは、ここにいる誰もが感じる疑問であった。しかし井神本人が死んだ今、その疑問に答える術はない。
「さあな……今となっては知る由もなし。ただ、これだけは言える。ファージに憑かれる前か後かは知らんが、己の生徒を信じられんよぉになった時から、奴の『歪み』は既に始まってたんや」
 縁の言葉もまた、一つの真理だろう。美徳と悪徳は常に紙一重の関係にある。世界レベルで見ても、平和や正義、神の慈悲の名の下に行われる戦争や差別など、枚挙にいとまがない。
 人の心も、世界の有様も、善の光の側には常に、悪の影が寄り添う。
 たとえファージの影響がなくても、井神の中にそうした闇が芽生える可能性は、無いとは言えない。
「でも人間、そんなに捨てたものでもないさ。地獄に落ちる奴もいれば、その地獄から這いあがった奴だっている」
 光太郎は言う。永久戦場カンダータに関する依頼をいくつか経験していた彼は、元は平凡な一市民が徴兵され、やがて悪魔の所業に手を染めてゆく『現実』を、そしてその中にあってもなお善良な心を失わない者もいるという『事実』を知っている。
「……私たちはまだ、ファージについて知らないことが多すぎる……これからも、今回のような悲劇は起きるかもしれません……それでも私は、このような悲劇を繰り返したくない。人々の笑顔を守りたい……そのためにこそ、私たちはこうして旅を続けるのかもしれません。みんなが幸せになる未来を、希望を探すために……」
 そう言って聡美は静かに目を伏せる。その瞼の裏に映るのは、故郷に残した両親の面影か、それとも此度の事件で非業の死を遂げた少年少女達の無念か、それとも……

 引き裂かれた心が癒え、いつか心から笑える日が来ますように。

 少女の、そして仲間たち皆の祈りを乗せ、ディラックの空に汽笛は鳴り響いた。


<了>

クリエイターコメント大変お待たせいたしました。ノベル本文をお送りいたします。
当初の予定から大幅に遅れての完成、大変申し訳ありませんでした。

今回は非常に重い内容のシナリオでしたが、皆様がプレイングに込められた想いが、覚悟が、意志の強さが、時にくじけそうになる私自身の心の支えになりました。
私事に伴う精神的スランプと、二度の遅刻による罪悪感。それらによる重圧に押し潰されかけた心を奮い立たせてくださったのは、間違いなく皆様です。

完成したノベルが、その想いとご期待に少しでも沿えていれば幸いです。

今回はご参加いただき、本当にありがとうございました。
公開日時2010-12-03(金) 23:20

 

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