古城に灯が入っていく。それに誘われるように、仮装の人々が城門に吸い込まれていく。ある者はとんがり帽子と黒マントを纏い、ある者は蝙蝠のモチーフをあしらった杖を振り、ある者はゴーストの仮面を被っている。 ヴォロスの辺境、『栄華の破片』ダスティンクル。古い王国の跡地に建つ、微細な竜刻を多数内包する都市である。入城した人々を出迎えたのはこの土地の特産品であるお化けカボチャだった。カボチャをくり抜いて作られたランタンがそこかしこに飾られ、大広間にもカボチャを用いた料理や甘味がずらりと並んでいる。「ようこそ、皆様」 という声と共に、黒のロングドレスと仮面で装った老婦人が現れた。領主メリンダ・ミスティである。先代の領主の妻で、数年前に謎の死を遂げた夫に代わってこの地を治める人物だ。「今宵は烙聖節……この地に埋まる竜刻と死者たちが蠢き出す日ですわ」 冗談めかしたメリンダの言い回しに来客達は顔を引き攣らせた。「共にこの夜を楽しみましょう。けれど、お気をつけあそばせ? あたくし一人では手に負えない出来事が起こるかも知れません――」 未亡人探偵。領民たちはメリンダをそう呼んでいる。面白い事が大好きで、不可思議な事件に首を突っ込みたがるのだと。 時間は少し遡る。「要はハロウィンみたいなモノ? はいはーい、エミリエがやる!」 元ロストナンバーであるメリンダから依頼が届き、エミリエ・ミイがそれに飛び付いたのは数日前のことだった。 烙聖節。かつての王国が亡んだとされる日で、死者達が蘇って現世を彷徨うと言われている。そのため火――生者の象徴である――を夜通し焚き続け、竜刻の欠片を用いた仮面や仮装で身を守るのだ。今日では一晩中仮装パーティーを催す行事として息づいているらしい。 王国は巨大な竜刻を保有し、『聖なる祝福を受けた血』と呼ばれる王族が支配していたが、度重なる戦禍で亡んだ。王族は焼き殺され、竜刻も粉微塵に砕けて各地に飛散したという。ダスティンクルから出土する竜刻の大半はこの時の名残だ。「昔のお城は領主のお屋敷になってて、そこにみんなを集めてパーティーするんだよ。楽しそうでしょ? でもね……烙聖節の夜は不思議な事が沢山起こるんだって。竜刻のせいなのかな?」 エミリエは悪戯っぽく笑った。彼の地には調査の手が殆ど入っていないため、メリンダと繋ぎをつけておけば今後の任務がやりやすくなると付け加えながら。「依頼って言っても、難しく考えなくていいと思うな。あ、ちゃんと仮面と仮装で行ってね!」 * 窓辺に燃え盛る炎のような色彩が広がっている。深紅の獣がごうごうと黄金色の息吹を吐き出しながら天空を蹂躙し、その背後からは、星粒を内包する藍色の夜が、静かに支配の翼を広げている。夕暮れの混沌の中で、太陽はゆっくりと力を失い、まるで時が過ぎ去るのをじっと耐えているかのようだ。 赤く焼け爛れるような空だったが、窓辺に流れ込む風はひやりと冷たく、雲は遥か遠い場所にあった。「さて、黄昏のお時間がやって参りますわ」 夕焼けの光を背に受けながら、黒衣の老淑女は唇を笑みの形に歪めた。「皆様にお願いしたいのは、ある方々の『おもてなし』ですの」 未亡人探偵と渾名される淑女――メリンダ・ミスティは、優雅な微笑みのまま依頼の内容を旅人達へ告げた。傾けた陶製のポットから、少し冷めた琥珀色の紅茶が注がれる。「宴にお越し頂いているのに、野暮用だなんて申し訳ございませんこと。それで、足を運んで頂きたい場所というのは――墓地ですわ」 聞く者の表情など気にも止めず、ゆったりとした手付きで紅茶のカップを取り、そっと口を付けた。「この古城の周辺には、かつての争いで命を失った人々の眠る、十数箇所にも及ぶ幾つもの墓地が存在します。彼らはこの烙聖節の夜が来る度に地中から蠢き出してしまう……亡くなった事すら忘れて」 烙聖節――炎の名を冠する宴は、焼き堕とされた王国の無念の名残でもある。争いに巻き込まれた者達の哀しみや痛みの記憶は、計り知れないものだろう。 女領主は告げる、今宵はあらゆるものが蠢き出すのだと。夜通し行われる楽しい宴の裏側で、眠るべく負の感情までもが蘇ってしまうのだ。「死して忘我した存在は、ご来賓の皆様にも危険が及んでしまいますわ。ですから、毎年この夜には、彼らを再び眠りへ誘う為の『明かり』を灯しますの」 メリンダは手を伸ばし、傍らに用意された一本の瓶を取り上げた。比較的小さめのワインボトルの内側で、葡萄酒よりも赤みのある液体がとろりと波打つ。「墓地に設置された外灯にこのアンティールを注ぎ、火を入れて下さいませ。この地方に伝わる清酒(すみさけ)ですの」 様々な香草を用い、伝統的な製法で醸造されたその血色の酒には、魔除けの力が備わるのだと言う。「……勿論、飲む事もできますのよ。お仕事が終わりましたら、どうぞお召し上がり下さいませ? 他にも様々な地酒をご用意してありますわ」 ただし、未成年の方はジュースですからね。メリンダは小さく苦笑し、一言付け足した。「眠れる者も、眠らざる者も、今宵は誰もがダンスを踊る事でしょう――どうぞお楽しみ遊ばせ。もうすぐ、宴の始まりですわね」 * やがて夜の蚊帳が全てのものを閉じ込める牢獄のように世界を覆い尽くし、ダスティンクルも例外なく黒塗りの闇に支配された。地上に星粒のような頼りない明かりが灯されると、そこかしこの建物に暖かい光が灯され、賑やかな宴の雑音が聞こえ始めた。 人々の集う地から少し外れた、ひっそりと静まり返った場所で、ガシャン、と何かが地面に叩き付けられる音が鳴り響く。 蔓薔薇に覆われた墓所の石畳をひょろひょろと歩みながら、鈍器を振り下ろし、外灯を破壊する影があった。その片手にはぼんやりと青白い火の灯る、萎びた表皮の『提灯』が握られている。 哀しみを抱えた、哀れでちっぽけな彷徨い人と、やがて旅人達は出会う事となるだろう。 おはよう めざめろ 宴のじかん 同志よ おきろ 楽しいじかん 不気味な歌声は、目覚めの号令なのだろうか――朽ちた十字架がぼこぼこと持ち上がり、地中から崩れた姿の亡骸達が、這い蹲るようにして地上に還り始める。 おはよう ふたたび めざめのじかん ぼくのなまえは ? 生まれ落ちたのは23番目 七つの思い出をあしめぐり 死に落ちたのは13番目 名無しは天にも底にもきらわれる ぼくは名無しの蕪男 忘れたものをがむしゃらに探し求めるように、或いは、苦しみを訴え泣き喚く幼子のように――黒い影の男は、ゆらゆらと独り歩み続けていた。!注意!イベントシナリオ群『烙聖節の宴』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『烙聖節の宴』シナリオへの複数参加・抽選エントリーは通常シナリオ・パーティシナリオ含めご遠慮下さい(※複数エントリーされた場合、抽選に当選された場合も、後にエントリーしたほうの参加を取り消させていただきますので、ご了承下さい)。
暗い夜闇の中で、朱い灯火がぼうと輝き、ぼんやりと石造りの城壁を浮かび上がらせる。人の顔、或いは人ならざるもののおどろおどろしい表情を象った鉄製のランプが、夕焼け色の炎と油煙の焦げる微かな匂いを内包して、城壁の周囲をぐるりと囲うように幾つも設置されていた。くり抜かれた瞳の奥で、光がゆらゆらと揺らめき、壁や砂利の上に歪んだシルエットを落とす。 まるで、暖かい城の中へ踏み入る事の叶わない影の者達が、冷たい暗闇から羨ましげにじっと見つめ――物言わず佇んでいるかのように。 それでも古城からは、古き日の哀しみなど忘れ去ってしまったかのような楽しげな宴の音が、都市中に響き渡っていた。 不安そうに周囲にちらちらと目を遣りながら、闇に閉ざされた道を足早に突き進む者が居る。時折、外灯に照らされた己の影や、ざわざわとさざめく木の葉の音にびくりと肩を震わせては、足を止めたり、一層歩みを早めたりしていた。 『烙聖節』と呼ばれるヴォロスの祭事に興味を持ち、ふらりと足を運んでみれば、その賑わいは予想以上のものだった――岩髭正志は眼鏡の奥で眉を潜め、弱々しい溜め息を零した。 ダスティンクルに到着して間もなく、彼が案内された宴の席は、かぼちゃのランプや彩り豊かな御馳走がテーブルに並べられ、煌びやかな衣装で着飾った人々が集うパーティー会場だった。高い天井から吊されたシャンデリアの宝石のような瞬きが、上等な石造りの床に反射する。何処もかしこもきらきらと輝き、目が眩みそうである。 ――場違いだったのではないか。 立襟のシャツに平素変わらぬ袴姿の正志は、何となく居心地の悪さを覚えてそわそわと壁際に避難した。せめて下駄履きを、質の良い鞣革(なめしがわ)の紐靴に履き替えてみたりしたが、これで良かったのかはよく分からない。渡された仮面を着ける気にもなれず、冷や汗と共に掌に握り込んだ。 すっかり尻込みした正志は、ドレス姿の人混みから逃れるようにして、女領主からの依頼に食いついたのだった。救われたような気持ちで受けたのだが、 「………はあ…」 依頼の内容が『お墓参り』をするというものだった。 しかも、埋葬された死人が目覚めるとか言う。 俄かに後悔の念が過ぎり、灰色髪の青年は再び老いたような溜め息を吐く。『踵を返す』などという選択肢が脳裏をちらついたが、一度受けた依頼を投げ出すほどの無責任でもなく、いや、依頼を突っぱねるほどの度胸も無かったというか……結局彼の足は、目的地へと向かっていた。 頼りないランプの明かりを一つ携え、不気味な樹々に囲まれた暗い石畳の道を進む。暫く歩くと、視界の先に小さな人影が見えた。 白い衣装と人魂のような灯りが、暗闇でぼんやりと浮かび上がって見える。正志はごくりと生唾を飲んだ。 「トリック・オア・トリート? やあ、正志ちゃん」 ランプを顔の位置まで掲げた茶髪の少女が、大きな瞳を瞬かせてくすりと笑みを零した。その顔には見覚えがある。正志は安堵の息を零しながら会釈した。 「ミトサアさん」 白い着物に身を包んだミトサア・フラーケンは、からかうように片眉を上げて見せた。細やかな花の刺繍が施された雪色の着物地に、真紅の帯がよく映える。彼女の仮装は座敷童子だろうか。ちなみにトレードマークの紅いマフラーは、この日もきちんと首に巻かれていた。 「依頼を受けたのは、僕達だけでしょうか」 「いや、実は此処に来たのは君が最後なんだ」 ミトサアはランプを掲げ、背後に振り返った。石畳の遥か先には、黒塗りの闇に包まれたダスティンクルの領土が広がっている――夜の世界の中で、城や民家の明かりがぽつりぽつりと灯っているのが見えた。 「皆は先に行ったよ。ボク達も城の周りから廻って行こう」 からんと軽やかな下駄の音を鳴らし、ミトサアが歩き出した。正志もランプを握り締め、周囲を気にしながら後に続く。 * 冷たい石の壁面に硬い枝葉を走らせ、蔓薔薇がふくよかな花を咲かせている。ランプの灯りが近付くと、花弁はふわりと柔らかな薄紅色の色彩を見せ、離れてしまうと、再び闇の中に青白く沈んでしまう。 かつり、かつりと靴音が響き、微かな衣擦れの音がする。ランプを手にした二人の影が、静かに夜道を進んでいた。 はらりと金色の髪が揺れ、つややかな純白の翼がはためいた。深い緑色のゆったりとした衣装に、鼠色の外套を羽織った者――神話に登場するヴァンシー(泣き女)という、死を告げる妖精の仮装をしたオペラ=E・レアードは、紅玉のような瞳を細めてランプを掲げた。その容貌は整っていたが中性的で、一見すると女性だと判り難い。 「目覚めてしまわれたようですね」 燕尾服に仮面を着けた初老の男、博昭・クレイオー・細谷が、オペラより少し高い位置から顔を覗かせた。彼の表情は静かに憂いを帯びている。 二人の眼前にあるのは、古びた小さな墓地である。石の門が風化したように砂埃にまみれ、停滞した永い時の流れを感じさせる。墓地の敷地内で、朽ちた十字の墓標がぼこぼこと捲れ上がり、地面に転がった。地中から土を掻き分け、ボロボロに砕けた骨の者や、腐敗したかつて人間だった亡き者達が、ずるずると這い蹲るようにして、地上へと姿を現していた。 あぁ、あぁ、と低く鈍い空気の掠れるような音色が鳴っている。それは痛ましい慟哭だ――喉を焼かれてなお、行き場の無い苦しみを訴える叫び声だった。 「……惨いものです」 博昭は飛び掛かってくる死者をかわし、周囲を見渡した。 ぞろぞろと数体の眠れる者達が蘇ってしまっている。この墓地は小さい為に、数人程度しか安置されていないが、争いで命を落とした本来の死者は、相当数にのぼる事だろう。 「………」 闇のものを祓い落とす力を秘めた彼の刃ならば、恐らくは簡単に死者の群れを鎮める事が可能だろう。だが彼はそれをしなかった。 彼らは争いに巻き込まれた被害者なのだと。誠意を持って尊び弔われるべき者達に、どうしてそのような仕打ちが出来ようかと。 亡国。自国を愛し、忠誠を誓った政治家である彼にとって、何よりも恐れている言葉が脳裏を過ぎった。 彼の故郷は今、亡国の危機に瀕している。世界群から見れば血を分けた兄弟とも呼べる隣国の策によって、彼の国は傾きかけているのだ。 屈してしまえば。国の誇りの全てが毟り盗られてしまうのだ。何よりも罪無き国民が、彼らと同じ末路を辿ってしまう事だろう。 刀を鞘に納めたまま、襲い掛かる死者を牽制する。防御に徹し、あくまで手に掛けるつもりはない。 博昭の作り出した隙をついて、オペラがするりと墓地へ細い身を滑り入れた。一本のボトルを取り出すと、埃にまみれた外灯へと白磁のような手を伸ばし――器の中へたっぷりと、血色のアンティールを注ぎ込んだ。 薬草の混ざった、不思議なアルコールの香りが鼻孔を擽(くすぐ)る。オペラは手にしていたランプを傾け、外灯へと火を分けた。 ほう、と赤い酒を吸った芯に火が移り、あっという間に暖かいオレンジ色の炎が灯る。その瞬間――蠢いていた死者達の動きが止まった。地中から半身だけ出ていた者は再び土の中へずぶずぶと埋まり、博昭に襲い掛かっていた者達は、その場にどさどさと力無く崩れ落ちた。 「哀しいな。哀しい声で泣いていた」 囁くように告げ、オペラが身を屈めた。蛆に喰われて原型を失った、醜い亡骸の顔に触れ、そっと目を伏せる。 「争いの爪痕を癒やし、人の住まう土地へと復興させるまでに、永い時を費やしたのでございましょう。……巻き込まれたと言えども、この方々は、戦火を潜り抜けた英霊でおられる筈」 朽ちた墓地の有り様を再度見渡し、博昭は小さく眉根を寄せた。可能ならば、彼らの血を受け継ぐ者や、この地で生活を営む者の手によって、末代に渡って丁重に弔われ続けるべきだろう。出身世界に根付いた、死者を慈しみ、先祖を尊ぶ慣習を継ぐ彼から見れば、信じ難い光景でもあった。 博昭は亡骸達の手を組ませ、敬意ある合掌と黙祷を捧げる。オペラも仕草を真似て博昭の礼節に則り、同じように哀悼の意を捧げた。 きちんとした埋葬を行うのは、全ての亡骸達を鎮めた後だ。礼を終えると、二人は先を急いだ。 * ああ、あぁぁ。からからに掠れた不気味な慟哭が響き渡る。 飄々とした笑みを崩さないミトサアの背後の方で、正志は動き出す死体から数歩後ずさりした。 「う、うわあぁ」 若干情けない悲鳴を漏らし、今にも転びそうになりながら逃げ回る。丸腰ではないが、トラベルギアを使用するのは躊躇われたので、自分の逃げ足を武器に頼る事にした。 骨と皮だけになった死体が、倒れ込むように飛びついてきた。ランプを盾にして回避したが、鍔迫り合いにも運動能力が必須である。十秒くらいで理解・納得し、腕力の足りない非力な書生は、やはり逃げの一手を選択した。 「じゃあ弔い、済ませちゃおっか」 ミトサアがくすりと笑い、からん、と下駄を鳴らした。地面を蹴り、跳躍したのだ――亡骸達が掴み掛かろうと一歩を踏み出すよりも早く、素早い速さで墓地の門の上へと軽やかに跳び乗っていた。ふわりとはためいた紅いマフラーが、夜の闇の中で鮮やかに浮かび上がる。 「ちょっと、下から見上げるのはやめてよね。着物って結構着崩れしやすいんだから」 死体の群れに言ったのか、ミトサアが頬を膨らませて小さく呟いた。着物の裾をさっと直し、滑るように門の上を走り出す。彼女の足元から、ざわざわと死体達が手を伸ばしてくる。 ミトサアは錆びた外灯の傍らに到達すると、懐からボトル入りのアンティールを取り出し、受け皿にたっぷりと注ぎ込んだ。 わああ、と正志の悲鳴。ミトサアは左手を振るって炎を放ち、正志を追い掛ける亡骸の眼前に一時的な壁を作った。牽制の為に放った炎だ。焼き払うつもりはない。眩しい光が苦手なのか、死者達は恐れるように呻き声を上げ、背後に後退りした。 「早く眠らせてあげなくちゃね……死んだ後も、苦しみを抱えたまま彷徨うなんて、虚しい事だよ」 ミトサアは左手の装甲から弱めに調整した火を出し、アンティールへと点火した。外灯に柔らかな明かりが灯る。死体達が茫然と佇むように動きを止め、その場に次々と倒れ込んでいく。 「ふ、ふう……これで何とか」 正志は額を流れる冷や汗を拭い、安堵の溜め息を零した。ミトサアも軽く息を吐き、門の上からひょいと飛び降りた――その時。 「何か――音がする」 ミトサアが目を細め、聴覚に意識を集中させた。正志は顔を上げてきょろきょろと辺りを見回していたが、音は次第に大きくなり、やがて彼の耳にも聞こえるようになった。 おはよう めざめろ 宴のじかん 「歌……?」 正志が訝しげに眉を寄せる。低く地を這うようで甲高く、囁くようでせせら笑っているようにも聞こえた。この不気味な歌声は、一体誰のものだというのか。 歌はどうやら、彼らが向かうべき道の先から聞こえてくるようだった。 「行ってみようか。どちらにせよ、ボクらは立ち止まってはいられないんだし」 ミトサアがにっと笑みを見せ、正志がこくりと頷いた。 烙聖節であるこの日の為に用意されたのだろう、樹木に取り付けられた黄色や紫色の小さな明かりが、不思議な色合いで石畳の道を照らしている。からんからんと下駄の音が響き、背の低い少女と、年若い青年が通り過ぎた。 墓地へと辿り着き、二人は立ち止まる。錆びた鉄製の柵の内側で、すでに死者達が目覚め、荒れ狂っていた。 ふと何かに気が付き、正志がランプを掲げ、眼鏡の位置を直しながら目を凝らした。ミトサアがふん、と小さく鼻を鳴らす。 「外灯が、無い……?」 暗闇だからよく見えないのかもしれない。正志は門に少し近付き、内部をじっと見ようとしたが――墓地の柵から死者が素早い動きで手を伸ばし、正志の腕を掴もうとした。ミトサアがぐいっと背後に引き戻す。彼が驚いて声を上げる間もなく、柵の上によじ登った死者が、どさどさと二人の前に落ちてきた。狼狽える正志を背後から掴み上げ、ミトサアが軽やかに跳躍する。不安定な細い柵の上を走り、外灯が設置されている筈の、黒ずんだ柱の前に移動した。 「壊されています。どういう事なのでしょうか」 乾いた芯が一つ入れられただけのガラスの容れ物は、そこには無かった。あるのはただ、粉々に砕けた鋭利な破片のみである。 「一体誰が?」 眉根を寄せた正志の呟きに、ミトサアがさあね、と簡素な一言を返した。足元からは亡骸達が、稲穂のようにわらわらと腐敗した手を伸ばしてくる。避けようとしてバランスを崩しそうになった正志を支えながら、ミトサアが足元に牽制の炎を放った。死者はあまり乱暴にすべきではないと感じながらも、着物の裾を引っ張られた時は、さすがにしたたかに蹴り払った。 炎で一時的に壁を作る事は出来ても、それだけでは死者の動きは止まらない。しかし此処には外灯が無い。 ならばどうするべきか。正志は暫し思考に耽っていたが、ふと単純な事に気が付いて、あっと顔を上げた。 手にしていたランプの蓋を開けると、ふうと息を吹きかけて火を消した。光源を一つ失い、周囲はより薄暗くなる。 ミトサアが首を傾げる。正志はランプの受け皿を取り出し、中に詰まっていた油を捨てた。代わりにそこへ――真っ赤なアンティールを注ぎ込んだ。 ミトサアが成程ね、と笑みを零し、正志のランプに火を与えた。 血の色をした、それでも清酒と呼ばわるアルコールに、暖かな赤い炎が灯る。魔除けの光に照らされた死者達は、瞬く間に深い眠りの中へと落ちていった。 柱の上へランプを置き、正志とミトサアが墓地の外へと足を降ろす。かつん、と足音が聞こえ、正志はびくりと肩を震わせた。 かつん、かつん。 まさか、他の墓地から死者が飛び出してきたのではないだろうか。何も出てこないでほしい――彼の切実な思いとは裏腹に、闇の中から現れたのは、ぼんやりと鬼火のように浮かび上がる、仮面を被った男の頭部だった――。 「皆様、今晩和。依頼を受けられた方々でございますね」 燕尾服を着た博昭・クレイオー・細谷が、夜道の向こうから姿を現した。靴音を響かせて立ち止まり、丁寧なお辞儀をする。彼の少し後からは、天使のような姿のオペラがやってきた。ミトサアは無邪気な笑みを浮かべ、可愛らしく手を振った。背後で何かどさりと落下するような音がして、一同は振り向いたが、そこには慌てて腰を上げる、袴姿の若者の姿があるのみだった。 「そういえば、何か歌声が聞こえたのですが。こう、少し奇妙な」 正志の言葉にミトサアがこくりと相槌を打つ。博昭は顎に手をやり、ふむと小さく唸った。 今宵は宴の夜だ。歌くらい可笑しなものでも無いだろう。ただ、此処は夜道だ。それも死者が蘇る、古びた墓所を繋ぐ為の。何も知らずに酔っ払いが歌って歩くにしても、命知らずな事である。 「唄……か」 オペラは一人、その言葉を呟き、反芻している。 丁度、その時だった。 おはよう ふたたび めざめのじかん ぼくは 名無しの 「………」 例の歌声が聞こえた。正志とミトサアが耳にした、先程と同じ不気味な声で――いや、それ以上にはっきりと大きく、歌声が周囲に響き渡る。 「泣いているのだろうか」 背筋がぞっとするような音色を、オペラはそんな風に捉えている。 答えは分からない。歌声の主が伝えたい事も、その意図も。 それでも彼らは、向かわなければならないのだ。主に出会う為ではない。眠るべき者達を鎮めるべく、回廊のように続く長い石畳の奥へと進む為に、だ。 歌声は遥か先、彼らが向かう道の先から聞こえてくる。一同は顔を見合わせ、ランプを手に、石畳の奥へと歩み出した。 * 同志よ おきろ たのしいじかん ふたたび おちろ たのしいじかん 振り上げられた棒状の鉄の塊が、設置された外灯を破壊した。派手な破砕音を響かせ、ガラスの破片が散り散りに宙を舞う。 ぼくのなまえは ? ぼくは名無しの蕪男 地中から土を掻き分け、腐り果てた死人達がぞろぞろと這い出てきた。 かつり、と靴音が響き、歌声がぴたりと止む。 「………」 博昭達はついに、その男と対峙した。 全身が黒い影の色をしている。萎びた蕪のランプを片手に持った男は、ゆっくりとこちらに振り返った。その顔には――目が無い。鼻も無い。ただ、ぽっかりと裂けるように開いた口から、青白い炎を吐き出していた。 『それ』がこの世の者ではない事は、誰の目にも明らかだった。 生まれ落ちたのは23番目 七つの思い出をあしめぐり 死に落ちたのは13番目 影の男が再び歌い出し、博昭へと鉄の棒を振るった。重量ある凶器が、ぶんと空気を切り裂く音を立てて振り下ろされる。博昭は首を捻って避け、得物を奪い取ろうと手を伸ばした――が、猫のような素早い動きで、男が背後へ飛び退いた。 「何かの暗号でしょうか」 這い出てきた死者から逃げ回りながら、正志が首を捻る。指を折って、い、ろ、はと数えていたが、這い出てきた死者に足を掴まれ、うぐっと変な音を立てて派手に転倒した。 「大丈夫?」 死者の腕を払い、ミトサアが正志に手を差し伸べる。 「もしや、名を探して彷徨っておられるのかもしれませんね。ご自分の、失ってしまった名を」 「正しいかは分かりませんが――最初はwで、最後はMではないかと。もう少しヒントがあっても良いと思うんですけどね」 博昭の言葉に、正志は顔の泥を拭って立ち上がり、諦めたようにぼりぼりと頭を掻く仕草をした。 「ならば……名を失ってしまったのなら、或いは、与えられなかったのだとしたら――相応しい名をその身に刻む事が叶えば、安らかに浄土へ渡る事ができるのではないでしょうか」 博昭はふむ、と顎に手をやり、暫し黙考する。やがて墓地の周りをよたよたと歩き回っている蕪の男へ目を向け、 「あなたの名は――Willahelm(ヴィルヘルム)と。如何でございましょう」 willaは『意志』、そしてhelmは『兜』を意味する。壱番世界の古高地ドイツに由来する名前だ。揺るぎない意志と、誇り高き魂の意味が籠められている。 男の動きが止まった。かくかく、と小刻みに震えながら、自らの頭を抱えている。ふざけているようにも、首を傾げて考えているようにも思えた。 違ったのだろうか。真実の程は判らない。もしかすると、男自身にも分かっていないのかもしれない。 「もう、泣かなくていい」 凛と、深みのある美しい声が響き渡った。純白の翼を背負った、天使のような姿のオペラが――影の者を見つめ、流れるように言葉を紡ぎ出す。 「貴方はずっと彷徨っていたのだな。孤独だったのだろう」 よたよたとぎこちない足取りで、蕪の男はオペラへと歩み寄る。その手に握られているのは、黒ずんだ醜い凶器だ。ミトサアが死者の群れをあしらいながら、はっとしたように顔を上げた。 「もう、哀しい唄は歌わないでほしい。苦しかったのだろう。けれど、憎まないでほしい。何も傷付けないでほしい」 緑色に腐り落ちた女の死体が、骨と皮になった子供の死体が、その場を動かないオペラへと掴み掛かった。 けれど彼女は動かない。ただ真っ直ぐに、凛と声を響かせて男を見据える。 「憎しみは哀しみしか生み出さない。貴方が声を振り絞り、慟哭を望むのなら――せめて、祈りの唄を」 その瞬間、周囲を包む漆黒の闇の中から、光を帯びた美しいベルが現れた。オペラは振り返り、博昭達に柔らかい微笑みを見せる。 「一夜だけの宴だ、生者も死者も手を取り合って、共に楽しみたいとは思わないか?」 「それ、いいね! 賛成だよ!」 ミトサアがくくっと破顔し、楽しそうな笑みを浮かべた。正志はふむ、と唸り、「いいんじゃないでしょうか」とどっちつかずの相槌を打った。仮面を被った博昭も、静かに頷きを返す。 オペラは小さく微笑み、一同へと仰々しくお辞儀をして見せる。背に担った一対の白い翼が、ばさりとはためいた。 穢れを知らない光のような彼女を、誰が闇から生まれたなどと信じるだろうか。 『奏でなさいませ、想いのままに。人の世に散りばめられた、私は一介の楽器に御座います。意志有りし皆様方が、祈りの音色を望みますならば』 空中に展開されたベルの涼やかな音色に合わせて、赤、青、黄色、緑、様々な色をしたガラスの破片のような幻が、きらきらと周囲に散っていく。それは雪の結晶のようにも、春を告げる花弁のようにも思えた。 蕪男がくるくると踊り出し、導かれるようにして、死者達も楽しそうに踊り出す。ミトサアは懐からハーモニカを取り出し、楽しそうに演奏を始めた。 「ボクの演奏、気に入ってくれるといいな」 烙聖節の夜に、ぼろぼろの亡骸達と仮装をした人々の、奇妙なパレードが出現した。 「……おや」 メロディを聴きながら、指先が無意識に演奏する仕草をしている事に気付いて、博昭は思わず苦笑を零した。 『御神へ慈悲を乞いましょう。その唇から穢れを拭い去り、再び温かな光の下へ、導いて下さいますよう』 蕪男が歌う。オペラも共に歌いながら、男を見据え――その名を告げた。 「貴方の名を知っている。懐かしい、私の国の伝承にもある。貴方の名前は……ウィル・オ・ウィスプ。松明持ちのWilliam(ウィリアム)だ」 その瞬間、彼の口や本来目がある筈の場所から、青白い光が漏れだし……上空へと溶け出すようにして、その場から消滅した。後にはただ、古びた蕪が一つと、男が振り回していた黒ずんだ墓碑が、地面に転がっていた。 * 「お帰りなさいませ、皆様方。お待ちしておりましたわ」 水鳥の仮面を被った女領主が、古城に辿り着いた彼らを出迎える。正志は疲れ切ったように肩で大きく息を吐き、博昭は領主へ恭しく頭を垂れた。 「ふふふ。お疲れで御座いましょう?」 「ほんと、全くだよ」 ミトサアが悪戯っぽい笑顔を送り、老淑女はくすりと優雅に笑みを浮かべた。 「宴はまだ始まったばかりですわ。さあ、あちらにお飲み物をご用意しております」 ゆるりとお寛ぎ遊ばせ――領主はそっとしなやかな手を差し出し、依頼を完了させた、旅人達を迎え入れた。 がやがやとした宴の雑音や、音楽が響き渡っている。 吟醸酒入りのグラスを片手に持った博昭が、人混みから離れるようにして、中庭を歩いていた。 鮮やかに飾り付けられた広場の中央に、大きな噴水があった。流れる水は真っ赤な色をしている。アンティールだ。血色の清酒が、泉を模したオブジェの中を流れていた。 とろりと濃密な液体は、まさに血液のようにしか思えない。 「………」 これは見た事のある色彩だ――博昭の脳裏に、痛ましくも懐かしい記憶が蘇る。 かつて友が居た。勇敢な男だった。護るべきものの為ならば、己の命をも賭せる程に、勇敢な。 これは、罪の記憶なのだ。胸中に幻の痛みを覚え、博昭は僅かに眉根を寄せる。蘇るのはどうしようもない歯痒さと、至らなかった己への呵責の念だ。 ぽたぽたと滴り落ちる雫から始まり、やがて泉のように溜まる鮮血の映像を思い出し、博昭は静かに頭を振った。 この色は、あまり見つめたいとは思えない。中庭から違う場所へ移動しようと歩み出した博昭の元へ、女領主が近付いてきた。 「こちらのお酒を、貴方様へ」 「……? 私にでございますか?」 目を細め、グラスを受け取る。中に注がれていたのは、オレンジ色と紫色の入り混じった、不思議な色合いの酒だ。カクテルだろうか。 「ジャックス・スペシャルといいますわ。ある方から預かって参りましたの。『意志』の名を持つ方から、貴方様へ」 領主がくすりと笑った。その手には、見た事のある萎びた蕪が握られている。割れ目からちらりと覗いていたのは――青白く光る、小さな小さな竜刻だった。博昭ははじめ、不思議そうに目を丸くしていたが、やがて普段の穏やかな笑みで返した。 パーティー会場のバーでは、疲れたように椅子に凭れながら、ちびちびと酒を啜る正志の姿があった。 「ふう……」 頼りなさげな後ろ姿が、如何にも酒に呑まれそうな雰囲気を醸し出していたが、いつもと変わらぬ表情で、既に何杯かのグラスを空にしている。 「なかなか美味しいですね。楽しみにしていた甲斐がありました」 言いつつ、ゾンビーや、チョコレート・ソルジャーなど、ハロウィンにぴったりの名前が付けられたカクテルを、一人楽しそうに飲んでいた。 「酒は、あるじがよく好んでいた。……私は、苦手だ」 正志の隣に座ったオペラが、グラスを見つめてぽつりと呟く。バーテンダーに注文を尋ねられ、同じような言葉で断ったのだが、「貴女にぴったりです」とこの飲み物を差し出された。ノンアルコールのドリンクだ。エンジェル・スペシャルと名付けられているらしい。オペラには『ぴったり』の意味が、いまいちよく分からなかった。 「お客様、ですが貴女は……」 「ボクを見た目通りの子供と思わない方がいいよ?」 何やら不穏な会話が聞こえ、正志が振り返る。オペラもつられて後ろを見た。グラスを持ったミトサアが、朗らかな笑みを零しながら手を振っている。 「ミトサアさん、それはまさか」 彼女のグラスに目を遣りながら、正志が訝しげに尋ねる。ミトサアは小首を傾げ、「此処にはジュースも置かれているんだよ」と一言告げた。 「何だ、てっきり……勘違いでした。すみません」 「どうだろうね?」 さらりと返し、少女が片眉を上げて見せた。真実は闇の中である。 少し離れた席に腰掛け、ミトサアが「疲れたな」と呟いた。窓の外には漆黒の闇夜が広がっている。黒い世界の中に、ぽつりぽつりと小さな明かりが灯っていた。先程彼女らが灯した墓地の外灯も、その中に含まれているのだろう。 「キミ達は、幸せなのかもしれない」 それは一体、誰に向けて放たれた言葉だったのか。 「ボク達が駆け抜けてきた跡地も、こうだったのかな」 目を閉じれば瞼の裏側に、凄惨な光景が蘇る。紅い色彩を翻しながら、彼らや彼女らが奔走する。全ての者が生き伸びる為に闘ったのだ。そこに本当の意味で、善悪など存在しなかった。あるのはただ、築かれた屍の山と、生きる意志を秘めた若者達の眼差しだった。 けれど。ふとした拍子に、胸の中に息づく痛みの記憶が、彼女の弱い部分を悪戯に掻き回す。 「ボクもあの時――キミと一緒に、死にたかった」 何故、どうして。ボクが。ボクだけが。 叫んだ所でどうしようもないのだ。もはや過去は過去に過ぎない。肉体が幼く造り変えられようが、世界の節理から外れようが、壊れたガラス細工は二度と元には戻らないのだ。 少女の唇は静かに、愛しい者の名を反芻する。彼女の胎内を占める冷たく精密な機械が、ぎしりと疼いたような気がした。いっそ意識や感情ですら、機械の中に沈めてくれたら良かったのに、と。 『貴方が声を振り絞り、慟哭を望むのなら――せめて、祈りの唄を』 ふと、先程聞いた彼女の言葉を思い出した。 「そうだよね……うん、そうしよう!」 誰にともなく呟くと、少女はにっと笑みを浮かべ、宴の演奏をしている者達の元へと、ハーモニカを掲げて走って行くのだった。
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