世界図書館内には、今日に限って妙な緊張感というか緊迫感めいたものが漂っているようだった。 どこがおかしいということもないはずなのに、どこかがおかしい。 落ち着かない空気に引っ掛かりを覚えながらホールを歩くと、世界計の傍でタキシードを着た赤いクマのぬいぐるみを発見した。「ああ、良い所にいらしてくださいました」 首の後ろにファスナーを持つクマこと《世界司書》ヴァン・A・ルルーは、いつにも増して困惑気味にこちらを振り仰ぐ。 そこにはさらに珍しく、焦燥めいたモノまでわずかに滲んでいるようだった。「早急に対処していただきたい案件があるんです」 そうしてルルーは、そっと《導きの書》を開き、視線を落とす。「マンファージの出現を感知しました」 切り出されたその台詞に、厄介なニオイを嗅ぎつける。 マンファージ――ディラックの落とし子、ファージに取りつかれた人間、とりつかれた人間の記憶をそのままに、人間を操り、侵略のための世界を作りかえる《儀式》を遂行する存在。 過去にも壱番世界で、そんな事件が報告されていたはずだ。 決して後味のいい終わりは迎えられない、そんな予感が胸をよぎる。 こちらの胸中を知ってか知らずか、彼は次の台詞に移った。「記録のない建築家、ヘンリー・ベイフルック……彼がアリッサさんの父親だというのはもうご存知で?」 一瞬、その文脈に不穏な想像が掻きたてられる。「彼の手がけた建築物でこの《儀式》が完成する、かもしれません」 来るとは思っていたが、そう繋げられて更に不安は増して行く。 ターミナルの幽霊屋敷、モフトピアのお菓子の館、ブルーインブルーでの白亜の館に続き、今度はどの異世界の名が出てくるのか。 そう身構えたところで、ルルーが口にしたのは、ある意味予想外の、そしてある意味必然とも取れる世界の名だった。「壱番世界のイングランド、アリッサさんの生家《ベイフルック邸》に向かってください……かつてヘンリー・ベイフルック氏が建て、アリッサさんが過ごしたその館に、惨劇のニオイが充満しています」 彼はなぞる。 彼の愛するミステリ小説のペーパーバッグを模した《導きの書》に浮かぶ事象を、そうして読みあげて行く。 イングランドのある地方で、古い建築物ばかりを狙い、赤く汚されたぬいぐるみが置かれる事件が続いていたらしい。 郷土資料館や博物館、廃墟となったかつての民家などが標的となっており、性質の悪いいたずらとしか捕えられなかったその事件は次第にエスカレートしているのだとも。「マンファージの行動は理解しがたい。けれど目的だけは明確です。世界を作りかえること、その一点のみで動いているにすぎないのですから……」 他者の目にどれほど奇妙かつ奇矯に映ろうとも、ソレらの行動の辿りつく先は同じ。 ならばやることはひとつだ。 いかにしてマンファージを突き止め、いかにして《儀式》の完成を防ぐのか。 いかにして、被害を最小に食い止め、いかにしてマンファージの侵略を阻止するのか。 方法だけならば、思いつく限り挙げていける。 しかし――「《侵略》を喰いとめるためには、取りつかれた人間を倒す必要があります……その相手は人間を操り、儀式を妨害するものを排除しようと動くことでしょう。無辜の存在を生命の危機に晒す可能性もある。それを覚悟の上で行動を起こしていただけますか?」 マンファージと呼ばれる存在に対する以上はどこまででもついて回る痛みを、彼は静かに示唆する。「……そしてもうひとつ」 ひそりと、世界司書は告げる。「これは非常に個人的な感触ではありますが……不可解なことがあります。ごくごく小さな、そうですね、細かいことであり、私が気にし過ぎるだけなのかもしれませんが」 鋭い爪を口元に当て、黒いつぶらな瞳がまっすぐにこちらを見上げてきた。「ヘンリー・ベイフルック氏、彼の記録がどこにもありません。彼を知る者はいる。アリッサ嬢、エドマンド館長、レディ・カリス、リリイさんも、彼を知っていました……しかし《記録》はない。館長の件もあり、上層部に問い合わせてはみましたが、そんな人物は知らないの一点張りです」 まるで初めからそんな人物などいなかったかのように、問い合わせはあしらわれて終わった。 ロストナンバーであれば、パスフォルダーが存在する。 コンダクターであれば、セクタンがついている。 なのに、かの建築家は誰にも己の居場所を察知されることなく、自身にまつわる記録すらも失われて旅を続けている。 百年を超える年月を、彼は誰にも己の居場所を知られずに姿を消し続けている。 誰とも関係せず、誰にも探されることなく、彼は消えている。「彼は《使命》を持って動いていた。ヘンリー氏は館長の行動とも関連した何かを追いかけていたのかもしれませんし、あるいは我々の知らない《過去》の何がしかに起因して行動しているのかもしれません……もし可能なのでしたら、彼の活動の詳細、彼の動向の断片、彼の行方の手掛かり、彼が残しているだろう記録を探してみてもらえませんか?」 ベイフルック邸にならば残されているかもしれない《何か》を、ルルーは気に掛けている。 ヘンリーの断片は、これまでの調査からいくつか見つかってはいる。 妻子の為に、同胞のために、異世界の至る所を旅しては館を建てているのだという《彼》の行動原理から、一体何を救い上げようと言うのか。 それはただの探究心なのか。 ルルーはパタリと導きの書を閉じ、そうしてまるで決まり文句のように、あるいはこちらの覚悟を確認するかのように、問いかける。「よろしければ、この謎、解いてみませんか?」 * 生臭く赤黒い液体がどろりと床に広がる。「もうすぐだ、もうすぐ夢が叶う……」 ひとつの部屋にひとつの《死》を置く。 上の階から順に、壱部屋壱部屋、人形を、赤く染まった存在を、彼らは無言のままにひとつひとつ置いて行く。 ウサギを置いて、涙型のクッションを置いて、レースで巻かれたドードー鳥とトカゲを置いて、そこに赤い液体をぶちまける。「ようやく、ここまできた」 白髪の老紳士は歪な笑みを浮かべ、壁に蔦の這う風情ある館のその内部で、叫ぶ。「ようやく、この日が来た……!」 どうしようもなく湧き上がる歓喜に酔いしれたその目に閃くのは、どうしようのないくらいに狂おしい暗い光だ。「ようやく、辿りついた」 何百年という時の流れの中で暗澹たる物語を紡ぎ続け、この心を引き付け続ける存在。 郷土史に刻まれたこのふたつの名にまつわる血にまみれた逸話は多い。 行方不明者、不慮の事故、年若くして絶えて行く命、そして、いま尚その裏で囁かれるおぞましく不可解な《魔術師》の家系―― 呪われし一族。 エルトダウン。 ベイフルック。 ふたつの交わる血脈が内包する謎に触れて、そうして、「コレで出来る、コレでこの世界は変えられる……っ」 楽しくて愉しくてタノシクテ、たまらなくなる。「もっと、もっと連れて来い、連れて来て、そうしてはべらして行こう、ここに赤い色を――赤を赤を赤の色彩を――!」 * ロストレイルがターミナルから壱番世界へと向けて出発する。 それを見送るヴァン・A・ルルーは、ふと、思いがけない人物が別の列車に乗り込む姿を見た。 麗しいヴィクトリアン風シルエットの赤いドレスに、結い上げた金褐色の髪、内面からにじみ出る威圧と威厳の佇まいはただひとりを示す記号だ。「……レディ…カリス……?」 何故彼女が。 しかし、その疑問はすぐに別の疑問に取って代わられる。 全身黒づくめの同僚、無名の司書もまた見慣れない者たちと共にロストレイルに乗り込んでいくのが見えたせいだ。 彼女は無言のまま、女王にかしずく従者の列に並び、連れられて行く。 何故、レディ・カリスと同じ列車に乗り込むのか。 何故、無名の司書はレディ・カリスと共に旅立とうとしているのか。 この奇妙で不可解で不穏な状況を前に、ルルーは長い爪でそっと口元をなぞり、しばらくの間ホームにじっと佇んでいた。===!注意!============このシナリオに参加した人は後日公開の特定のシナリオに参加できません。===================
煉瓦色の壁を持った3階建てのその館は、ローズガーデンに囲まれ、森を背景に持った美しい佇まいを見せていた。 数百年という時をその身に刻みながらなお、壮麗なカオを崩さない。 けれど、美しい外観からは程遠く果てしなく暗い秘密を抱いたその内部では今、どろりとした赤黒い液体が広がりつつあった。 《ベイフルック邸》へと足を踏み入れたロストナンバー、ロディ・オブライエン、ヴィヴァーシュ・ソレイユ、流鏑馬明日の3名は、共に1階のホールから順に探索を始めていた。 「かなり装飾にこだわっているようね」 明日の隣で、ヴィヴァーシュは微かな頭痛を覚えながらも閃く片眼で観察していく。 高い天井からシャンデリアが見下ろすエントランス、敷き詰められた絨毯、腰板が巡らされた壁に、右手側から上階へと続く大階段と前後左右へ広がる廊下。 刺繍が施された壁紙の質感はなめらかで、少し視点を変えれば、その模様が幾分色褪せてはいても美しいパターンを描き続けていることに気づくだろう。 廊下のアーチや天井に凝った彫刻が為され、ホールの飾り柱も含めて、時を越えてなお壮麗な雰囲気を持ち続けていのだ。 報告書から拾い上げた事実だが、これまで調査の対象となってきた館はどれも長く人が訪れた気配のないモノばかりだった。 しかし、ここにだけは定期的にヒトの手が入っているのが分かる。アリッサの生家となれば当然かもしれないが、あまり出入りの多い場所とも思えなかった。 「マンファージがここを儀式の場にと選んだことに、何か意味はあるのでしょうか」 「儀式に選ばれた意味はまだ分からないわ。でも――ウサギ、涙の形、レースで巻いたドードー鳥にトカゲ……それらが指し示す《作品》と繋がるモノが見つかるかもしれない」 明日の呟きに、ロディは軽く頷きで返し、応える。 「この儀式のパターンが《血みどろのアリス》とは、ブラックユーモアにあふれた解釈と言えるだろうな」 「ブラックユーモア、ですか」 「ぬいぐるみを《人》と置き換えれば、死をモチーフにしていると考えられなくもない。赤い汚れは血をイメージしているんだろう」 「生贄……アリスに見立てた儀式、そのために必要な手順をいま相手は踏んでいるということですね」 「特定を急がなくちゃ。もしたくさんの人々を操っているとしたら、……こちらの目をかいくぐって儀式を完成させてしまう可能性も出てくるわ」 「ええ、確かに」 交わされる会話の最中にも、ヴィヴァーシュはゆるりと視線を巡らせていく。 繊細な装飾を基本とし、広い廊下の左右に並ぶ扉はすべて開け放たれており、その向こうにはいくつもの部屋が連なり繋がっている様子が窺える。 しかし、物音らしい物音が一切してこない。 儀式の最中であるならば、これ以上ないくらいに派手な物音が立っても不思議ではないのだが、多数のヒトの気配はあるのに音がないという不自然さが気になった。 「……妙に静かすぎます。マンファージがここに居ることも、そして多数の人間がいることも確かなのですが」 「そうね、確かにそう……」 明日が手の中に自身の携帯電話を握り込む。薔薇の指輪のチャームがついたストラップがちらりと揺れた。 「今回の《犯人》――マンファージの執着が透けて見えるわ……ウサギの穴に落ちた少女の物語を綴るのに、おそらく邪魔するモノへ強烈な攻撃を仕掛けてくるんじゃないかしら」 現時点において1階には探索の痕跡はあっても儀式をしている気配がない。では上から順に下へ降りて行くことにこだわりがあるのかもしれない。 広い屋敷に役割を与えられた者たちが、自分たちの出番を待っているのかもしれない。 「潜んでいるのなら、舞台に無理やり上がってもらうしかありませんね」 「引きずり出すのに多少手間は掛かるだろうが……とりあえず上を目指すか?」 「手分けする必要もあるでしょう。例えばこの儀式がアリスをなぞるのなら、《アリスの物語》に対応する部屋を探している最中ということもあり得ます」 「部屋を探していた、だから扉がほとんど開け放たれているということね?」 「……おそらくは。マンファージの拘る様式美に沿う場所が別に存在しているのでは」 「上から順に儀式が進行しているんだとしたら、ここまで降りてこられないようにするべきね」 「では1階をまずは封鎖してしまいましょう……屋敷そのものもタイミングを見て封じておきます」 ヴィヴァーシュは天井を見上げる。 精霊たちがざわめていた。 耳元で繰り返される精霊たちの囁きの内容と、風によって運ばれてくる血液の生臭さへ、わずかに眉根を寄せる。 「我々には見つけなければならないものもあります。ですが、まずは儀式の阻止……できる限り彼らの動きを止めなくてはいけません」 あまり多くを語ることのないヴィヴァーシュの、その台詞にはどこか痛みめいたものが閃いていた。 手遅れになる前に。 3人は、本来ならば来訪者を唸らせるだろう豪奢な大階段を無言のままに駆け上がった。 * 『私は知りたいの。おじさまが旅に出た理由。おじさまが探し求めた『世界を救う方法』……その方法で救わなくてはならない『世界の危機』って何なのか』 * ――ベイフルック家とエルトダウン家について? それならあそこが一番だ ――館長は大学でちょっと変わった歴史も教えてる。詳しい話が聞けるとは思うがね 悪戯のターゲットにされたアンティークショップの店主が、恰幅のいい腹を撫でながら告げた場所。 ソレがいまふたりのいる郷土資料館だった。 「ここが“悪戯”の被害を受けた最初の建物なのね」 ひんやりと冷たい薄暗い石壁を見つめ、東野楽園は黒いレース手袋に包まれた指先を伸ばして、白くざらついた柱をそっと撫でる。 「美術館と呼んでも差し支えないほどに、実に整然とした芸術性を感じさせるが、同時にかなりの偏執性を感じさせもする」 シヴァ=ライラ・ゾンネンディーヴァもまた、興味深げに展示された古い書物や書簡、由緒の書かれた工芸品や美術品を眺めていく。 見た目は一部灰色がかった白い石の壁が印象的な、至極小さな建物だ。けれど、一歩踏み込めば、その内部がいかに凝られているかが分かる。 天井近くの柱部分に施されたレリーフは薔薇をモチーフとし、所々にハートやスペードといったアクセントが絡みついている。 どこか迷宮めいていて、あちらこちらに広い通路が折れ曲がったそんな場所を、漆黒のゴシックドレスをまとう少女と三つ揃えのスーツを品よく着こなした壮年の紳士は、歩き、検証する。 「ここに転がっていたのは、ウサギのぬいぐるみだったのよね。物語の始まりとして大切な一節ね」 ぬいぐるみがただ放り込まれるだけならきっと、不思議な出来事のひとつとして二日後には忘れ去られる。 けれど真っ赤に染まったぬいぐるみがあちらこちらに放り込まれたとしたら、それは何かを暗示させ、小さな不安を広めていくことになる。 「でもこの世界の人たちは、その不安が最終的にどこへ行きつくのか知らないでいるの。知らないままに不安を抱えて日常に埋没していくんだわ」 「儀式を妨害すれば《侵略》も阻止できるだろう。そうすれば彼らにとって《性質の悪いイタズラ》で終わらせることができるんだ」 シヴァは、気分で選んだ眼鏡のブリッジを押し上げ、その視線を窓の外へと投げる。まるでその向こうに、かのベイフルック邸が見えているかのように。 「あの屋敷でいま仲間達が頑張ってくれているのだし」 「マンファージが描くストーリーはとても単純だわ。だからこそ阻止もきっと単純」 「なるほど。きみはその“ストーリー”を既に? 私はようやくいま自分の記憶と照らし合わせて答えを導き出したところなんだがね」 「……有名だわ、この壱番世界ではとても有名」 世界図書館にとっても、それはとても馴染み深い物語であるのかもしれない。 ディラックの落とし子への名付け方を見てもソレは明白であり、ある種のこだわりのようなものを感じさせた。 そしてこの資料館も、強いこだわりが見える。 「家系図が存在しているのか……ベイフルックとエルトダウン両家の婚姻関係が随分と複雑なようだが」 初めはイングランドのこの地方に強く残る《伝承めいた逸話》に目を引かれたが、ある一角から、ここは特定の一族のみを語る場所へと変貌を遂げていた。 両家にまつわる品物ばかりがガラスケースに並び、細かな資料と論文のパネルが壁を埋めていた。 「どこまでこれが正確かは分からないわ。でも、読みとれるものは多いんじゃないかしら?」 「例えば享年の数字かね? ベイフルック家の場合、40歳を迎える前に亡くなったモノや、行方不明者とされるモノの記述がかなり見受けられる」 「このうちの何割が、ロストナンバーとして覚醒したのかは不明だけれど、零落していく貴族の逸話としては目を引く記述」 長い長い歴史を記録するように、イングランド史と対応して、ベイフルック家とエルトダウン家が見舞われたのだろう事件の解説などが細々と書きこまれている。 「……ベイフルック家の系譜は《呪われた血筋》として君たちの言葉を借りるなら『オカルト』的な逸話が多いようだが、エルトダウン家はむしろとても現実的だ」 エドマンドの名に冠されるのは《錬金術師》という単語だが、エルトダウン家そのものに掛かる肩書きは商人と呼ばれるものが随分多い。 「ベイフルック家には気が触れ、幽閉された者も出ているのか」 「……どこも同じね……どんなに隠し、守り、、誰の目にも触れないようにしたって、こうして《秘密》を暴く人がいるんだわ」 チリリと灼けつくほどに凍えた呟きが楽園の唇からこぼれ落ちる。 だが、シヴァは彼女の《傷》に痛ましげな視線を一瞬送るがあえて言葉で触れず、両家を読み解く作業を続けた。 「おや、これは……」 空っぽの小さなショーケースの手前で、シヴァはようやくひとつの名前を見つけた。 「“ヘンリー・ラッチェンス”……これが彼の結婚する前のファミリーネームなのね」 凍えていた楽園の声がほんの少し弾みだす。 「彼が壱番世界で仕事をしていたのは、1800年代のごく短期間だけみたい。それも10年になるかならないかと言ったところね」 「彼は両家のどちらの血も引いていないようだ。なるほど、彼は名家の子息ではあるが出自として直接の関わりはないらしい」 「だからかしら? 彼に関する資料はひどく少ないのね。他の人たちに比べて凄く中途半端ですもの」 「ここだけじゃない。世界図書館はおろか、上層に問い合わせても記録がないといわれる。そのわりに、彼の署名は今もこうして存在しているがね」 「そうね。それに彼の仕事――気づいていて? 彼が手がけた建築物の一覧、これは」 「ああ、まさしく今回の《儀式》のターゲットになったモノばかりだ」 「それでも、それを取り沙汰するヒトはいないの」 「誰も共通点に気づかない、誰も気に留めていない……彼の存在の希薄さがそうさせるのか」 「記録はないけれど、記憶はされている。けれど、記憶はされていてもそれ以上に注目を集めることはない……ずいぶんと作為的じゃなくって?」 「なるほど、君はそのように読みとるのだね」 「マンファージはヘンリーの崇拝者である可能性も考えたわ。でも、考え方を改めるべきね」 「予想に対する柔軟な変更はよいことだ。して、その理由としてきみは他に何を挙げるのかな?」 「アリッサの言動、だわ」 アリッサは父親に会いたいはずだ、とは思う。 けれど、行方不明の館長をひそかに探したがっていた少女は、行方不明の父親の不在をどこか意識の外に置いていたように感じていた。 一度気にし出したら追わずにはいられないのに、どこかで無関心さを誘われているような感触。 「意識にのぼることを阻止する《上位の存在》が関与していると?」 「ヘンリーという存在そのものが、もしかすると禁忌に触れるものなのかも」 「なるほど」 実に興味深い、と、そう眼を細めて頷きながら、 「……さて。ところで、少々《ベイフルック邸》付近で問題が生じているらしい」 いつの間にかトラベラーズノートを開いていたシヴァが、わずかに途切れた会話の合間にふつりと言葉を落としてきた。 「問題? マンファージ以上の?」 「トレインウォーが始まりかねないというものだ。もちろん、儀式に関する不穏な動きも察知されている。戻るかね、楽園君?」 「ええ」 頷きとともにシヴァへと返すその微笑みには、普段他者に向ける突き放した鋭利なモノではなく、むしろ少女らしい年相応の可憐さがあった。 「では手を」 穏やかでやわらかな物腰の紳士は、《親子ほどに年の離れた》少女の手を恭しく取り、消えた。 一瞬で。 存在そのものが空間から掻き消され、そしてあとにはもう、何も残らない。 * 『これは、お茶会の体裁を取った、トレインウォーです』 『世界図書館の許可をいっさい得ずに行われた一連の行為を、レディ・カリスは反逆とみなしました』 * 大階段の踊り場で更なる階へ上がるヴィヴァーシュと別れ、ロディは明日と共に入り組み折れ曲がる2階の廊下を慎重に進む。 広めに取られた通路の先、突き当たりに、窓から差し込む光に照らし出された両開きの扉を見つけた。 食堂かホールを予想して手に掛け、押し開いたそこに広がるのは、シャンデリアに照らされた集会室のようだった。 天井に届く大きな窓はそのままガラス扉の機能を持ち、薔薇園が見下ろせるベランダと繋がっている。 飾りの円柱が並ぶそこには、アンティークのひじ掛け椅子がふたつ、ローテーブルをはさんで外へ向けて置かれていた。 「庭もここも手入れが行き届いているな……まるで、いつ誰が来てもいいと言わんばかりだ」 ガラス越しの景色を確認し、改めて室内へ視線を巡らせる。 滑らかな床のタイルが描き出すのは、ハートのジャックが走っているものだった。ほんの少しずつポーズが変えてあり、静止画でありながら彼の動きが見て取れる。 明らかに彼はどこかから逃げていた。 どこまでもどこまでも逃げている。 そんな彼が右手に掴んでいるのは、何かのタルトだろうか。 「このモチーフはマザーグースのひとつでいいのだろう?」 「ええ……とても有名な詩のひとつね」 ロディの問いに応えるように、明日は頷き、そっと膝をついて床のタイルひとつひとつに指を這わせていった。 「設計者が同じであれば、その特徴もおのずと出てくるものよ。この屋敷にだってマザーグースは存在している」 「隠し部屋も当然あるだろうな。そして、この部屋はおそらく標的になりやすい」 逃げるジャックのタイル画を目で追いかけ、彼が目指していた場所が、扉の左手側の暖炉だと気づく。 「ほう。ジャックはここに逃げ込むらしい」 煉瓦調のマントルピースには、陶器でできた赤と白の薔薇が花籠に入れられ、飾られていた。 籠の縁についている左右の人形はトランプの兵隊を模しているらしく、彼らが警備する籠の側面には『親愛なる、赤の女王と白の女王へ』と綴られたプレートが付いていた。 「ここにも《アリス》があるのね」 言いながら、明日は指先でそろりと撫で、陶器の花に埃が付いていないことを確かめる。 「……あら?」 「どうした?」 「籠の中に何か隠されている……光を反射したわ」 精緻な細工は下手に扱えば容易く壊れる。自身が自覚している以上に不器用な明日に、花たちの間から目的の物をつまみ上げるのは至難の業だ。 「貸してみろ」 「ええ」 花籠を手にし、ロディはひどく慎重に、けれどいとも容易く細くしなやかな指を差し入れ、明日が見つけたモノを取り出して見せた。 「小瓶?」 「香水瓶というにはシンプルにも思えるがな」 ワインレッドのガラスの小瓶の中には僅かな陰影が見て取れる。 フタを開け、明日に向けて逆さにしてみれば、涼やかな音を立てて何かが彼女の掌に滑り落ちてきた。 「……鍵、だわ」 古く、小さく、扉を開けるにはいささかシンプルすぎる鍵は鈍い金色をしていた。チェーンもタグもない、ただそれだけで存在する小さな鍵。 ブルーインブルーで見つかった小瓶の中には、ヘンリー・ベイフルックの手紙らしきモノが入っていたという。 だとしたらここにわざわざ詰められていたこの鍵もまた、彼の紙片と同等か、あるいはそれ以上の何かを訴えている気がしてならない。 「こうして《得られた》ということは、この館が我々に何かを知らせたいという意思表示だろうな」 「そうね、そう考えてもいいかもしれない」 「いずれコレを使う機会も来るだろう。それまではこうして探索と儀式の阻止を続けるしかない」 「……ええ。でも、その前に」 「ああ」 視線を交わし、頷き、呼吸を合わせ、2人は同時に後ろを振り返る。 振り返り、床を蹴り、開け放たれていたこの部屋の、扉の前に立つ青年ふたりの腕をそれぞれに掴みあげた。 「――う、ぐ、あ、わぁ……っ……」 子豚のぬいぐるみが右手から、アーミーナイフが左手から、それぞれ2人に奪い取られて、腕を捻り上げられ、床に屈伏させられた彼らは、ただひらすらに低い唸りをあげる。 「はな、せ……」「はな、せ……」「はなせ」「赤いお茶会を、ひらかねぇと」「世界を」「世界を変える鍵を」 世界を変えるために血を流さなくちゃいけないと、彼らは虚ろな目で繰り返し訴える。 「悪いが、儀式は片端から阻止させてもらう」 「あなたはアリスに隠されたエピソードがあることを知っているかしら? 残念ながら、それを見つけない限り儀式は成功しないのよ?」 「はな、せ……仔豚を、生贄に――お茶会まで、時間が……お茶会の準備を、はじめなきゃ……世界を変えるために、赤いお茶会を」 会話が成立しない。 身をよじり、抵抗はするが、どれほどに抗おうとも、その肉体が醜く変異することはない。 「少しの間、眠っていることだ。目が覚めた時には、おまえは自分を取り戻しているだろうからな」 哀れなぬいぐるみは天使の雷に焼かれ、消えた。 「あなたたちは悪い夢を見ているんだわ。その夢は、私達が終わらせる」 明日の手刀で、男の意識は容易く落ちた。 そのままヒップバッグの中に用意していたロープで2人を後ろ手に拘束し、暖炉の鉄柵へ括りつけた。 「次だ」 「ええ」 そうしてマザーグースとアリスが共存する部屋を閉ざされ、ジャックが逃げ回る集会場には、気を失った青年2人だけが取り残される。 * 世界を変えなくてはいけない。 呪われた一族が残したあの屋敷で、私達は永遠の少女《アリス》を見つけ、世界を変える。 * 精霊の囁きとともに、ヴィヴァーシュは最上階へと到達していた。 婦人用の客間として用意されていたのだろうこの部屋では、森をイメージした壁紙の装飾が目を引く。 繊細な彫刻を施されたテーブルセットは森の中の茶会をイメージしているようにも見える。 そして、その椅子にはひとりの若い女性がイスにもたれかかる様にして腰掛けていた。 彼女は虚ろな視線を宙にさまよわせ、その腕に赤く染まったウサギのぬいぐるみを力なく抱いていた。 テーブルに置かれた小瓶とクッキーの乗った皿、そして汚れた小さなナイフが不穏なきらめきを宿す。 「儀式に使う《赤い塗料》は、すでに動物の血液ですらなくなっているということですか」 生贄を捧げているようだと、そう評したのは自分だ。 「……あなたはここではじめの儀式を遂行しようとしている……ですが、阻止させていただきます。あなたは別の誰かの夢に踊らされているだけなのだから」 切なげに呟いて、彼女の手首にそっと指を這わせる。 べったりとした赤い液体がヴィヴァーシュの白い指先を染めるけれど、構わず両手で包みこむ。 その唇がやわらかい旋律を紡げば、彼女の血は消える。彼女の傷は消える。彼女から流れ続ける赤が途切れて、そうして彼女の虚ろな視線は自信を癒すモノへと向けられた。 「やめ、て」 「その願いを聞くわけにはいきません」 手を離し、同時に彼女からウサギのぬいぐるみを奪い去り、ヴィヴァーシュは茶会の席から距離を取る。 「やめて……赤いお茶会は始まってるの! 皆で、世界を裏返して、不思議の国の扉を開いて、そうして世界を変えなくちゃ、変えなくちゃ、しないで、先生の邪魔をしないで――っ」 「やめて」「なにを」「なにをしてるの」「なにをするの」 彼女の悲鳴に呼応するかのように、わらわらとそこかしこから白い手が伸びてくる。 奥の寝室から、あるいは化粧台の影から、ベランダから、正面の扉から、年若い彼女たちがヴィヴァーシュから赤黒いウサギを奪い返そうと手を伸ばし、群がる。 その手に握られているのはナイフだ。 白刃のきらめきと共に狂気じみた怨嗟と叫びを発しながらすがりつこうとする彼女たちを前にしてなお、ヴィヴァーシュは冷静なままだ。 「……貴方達にひと時の眠りを」 マンファージはいる。 だが、それ以外の人間はみな操られているにすぎない。 風の精霊に命じ、彼女らの呼吸すべき空気を奪い去ろうとしたのとほぼ同時に、青いフクロウが飛び込んできた。 噴霧されたのは、即効性のある睡眠剤――限りなく麻酔と呼んでいい代物だ。 ヴィヴァーシュは咄嗟に指示を変え、ソレを彼女たちへ吸気させる。 「咎無きモノに罰を与えるわけにはいきません」 カタン、ガタタタ――っ 手からナイフが滑り落ち、ゴトンと重い音を立てながら、瞬く間に彼女たちは床に倒れていった。 昏倒した彼女たちの上を舞い、青いフクロウは、ヴィヴァーシュの脇をもすり抜けて、己のあるべき場所――黒いドレスの少女の元へと舞い戻る。 「いいところを邪魔してしまったかしら?」 「……いえ。良いタイミングだったかと」 「そう? ならよかったわ」 言って楽園は、つかつかと小気味よい音を立てて床に投げ出されたウサギのぬいぐるみへ近づき、それを掴みあげ、思い切りよく壁に投げつけた。 「まずはコレを廃棄してしまうわ」 その台詞が終わるか終らないかのタイミングで、突如壁から触手が飛び出し、ぬいぐるみを呑みこみ、壁の中へと消えた。 「……シヴァさんですね?」 「ええ。さあ、悪趣味なイタズラ好きを早く見つけに行きましょう? ……毒姫、行って」 オウルフォームの毒姫を放ち、楽園は再びヴィヴァーシュへと視線を戻す。 「ところで、ご存知かしら? この館にロストレイルが向かっているんですって」 「我々の迎え、ではないのでしょうね?」 「ええ、もちろん」 「では我々の調査との関連は?」 「建築家と関係があるのかは分からないわ。でも、アリッサには関係しているみたい」 「では、こちらはこちらの仕事を速やかに遂行しましょう」 そうしてヴィヴァーシュは、眠りに誘われた彼女たちを部屋に置き、結界によって扉を閉ざし、漆黒の少女と共に次の目的地へ急ぐ。 * ひとつひとつ、置いていこう。 物語を紡ぎ、繋いで、最後の赤い茶会の席で、閉ざされたオルゴールの音色を求めよう。 あの日、あの廃屋で見つけた、閉ざされたアリスのオルゴールに音色を―― * 「……ふむ、これでいい」 小食堂の中央で、シヴァは全神経を巡らせ、この館のすべてを自身の領域に置けたことを確認する。 外観からは分からないが、蜘蛛の巣のように、あるいは網の目のように、今この館は触手に覆われ、文字通りシヴァの目となり手足となってありとあらゆる情報を共有する。 これで、ヴィヴァーシュが各部屋、そして1階に施した結界を強化する役目をも負うことができるだろう。 「間もなく嵐が来るな」 報告書として挙がってきたヘンリーの館はどれも、住む人間の趣味嗜好のほとんどがうかがえなかった。 しかし、ここにはまさに生活感と呼ぶにふさわしい《家の気配》が存在している。 1階にも大食堂があったが、こちらは規模が小さく、少人数で集うサロンとしての役割が大きいことが伺え、直接彫刻したのだろうと思える天井の梁や柱には無数の星がモチーフとしてちりばめられている。 「さて」 シヴァは優雅に踵を返し、首を傾げて、視線を正面に向けた。 「きみ達がそこで何をしているのか聞いてもいいかな?」 窓際の清潔なクロスの掛かったテーブルに並べられているのは、空っぽの白いティーポット、ティーカップ、それからケーキスタンドにデザート用プレート。 そのテーブルについているのは、3人の青年たちだった。 彼らがそれぞれの腕に抱いているのは、帽子をかぶった男の人形、ネムリネズミとウサギのぬいぐるみ――それもまた《物語》に沿っている。 「お茶会へようこそ」 「あんたはウサギの穴に落っこちてみたくないかい?」 「貴方もおいでよ、お茶会をしよう、お茶会だ、お茶会、狂ったお茶会を楽しもう」 虚ろな笑みでニコニコと、笑い、同じセリフを繰り返す彼らの手元には、ヒトの皮膚や肉だけではない、扱い方さえうまければ骨すらも断てそうなナイフが置かれている。 彼らがそれで何を為そうとしているのか、十二分に理解できる。 だからこそシヴァは、ゆるやかに哀しげに微笑みかけた。 「言いたいことは分かるのだがね、残念ながら私はきみ達がしようとしていることを止めねばならない」 シュタン、と何かが空を薙ぎ払う。 シュタン――と、何かに払われて、ぬいぐるみとナイフだけが彼らの目の前で跳ねて、浮いて、呑まれて、消えた。 「な、なに」「なにを」「消えた」「消えた、大事なアレが」「アレが」「やり直しだ」「先生に言わなきゃ」「先生に、なんて――」 目的を見失って戸惑うように右往左往と蠢く彼らに、シヴァは微かに首を傾げて問いかける。 「本当にそれが必要だとでも? 世界を変えてどうしようというんだ?」 「先生に言わなくちゃ」「先生」「茶会を進めるんだ」「先生、先生、邪魔されたよ、先生」「どうしたら」 どうしたらいいと繰り返した彼らの困惑は、怒りとなってシヴァに向かう。 「どうしてくれるんだ」「どうするんだ」「アリスが見つからなくなる」「アリスじゃないくせに、なんてことを」 テーブルを蹴飛ばし、イスをなぎ倒し、幼児じみた悲鳴を挙げながら一斉に飛びかかってきたその3人を、シヴァは己の指一本動かさずに拘束する。 縦横無尽にこの屋敷を支配する、自身の放った触手の力のみで。 「きみ達は《アリス》を見つけなくても何の問題もなく過ごしてゆけるだろう。むしろ、アリスを見つけてはいけないのかもしれないな」 かつて魔族の大公として一統治者を担ってきた存在は、その圧倒的な力によって対象を殺すのではなく穏やかに眠らせることに腐心する。 「……すべてが終わるまで、しばしの安息を」 「先程、触手らしきものが何人かを拘束している部屋を見つけたわ。目の前でぬいぐるみが壁に呑まれるのも見た。あなただったのね」 「おや、明日くん」 大理石でつくられた暖炉の中から、何の予告もなく姿を現した彼女に、シヴァは穏やかな笑みを向ける。 「片端から消して回るのもまたひとつの妨害だろう?」 この小食堂だけではない。大小様々な客間に、集会室に、厨房に、寝室に、書斎に入り込んだ触手がいまぬいぐるみたちを呑みこんでいる。 「この屋敷で起こるすべてを今ならば把握できる。しかし、これなどささやかなものだ。きみ達の役に立てるなら良いのだけどね。楽園君の毒姫やヴィヴァーシュくんの精霊たちも奮闘してくれているようだから、どれほど有益かは不明だが」 「いえ、とても助かるわ……ありがとう」 「礼を言ってもらえるほどの活躍ができるよう、頑張るとしよう。彼らも早く解放してあげたいんだ」 言って、シヴァは床に倒れ伏した青年たちを痛ましげに見下ろす。 「この人たち、『先生』って言っていたわ。私が見つけたのは学生と思しき人たちばかり」 「……我々が追うべき対象がようやく絞れてきたということだ。楽園君と得た情報も合わせれば、犯人はほぼ確定といっていいだろう」 これで、いまだ隠れたままのマンファージが出てこざるを得なくなれば、《解決》はすぐ目の前ということになる。 「だが、その前に」 赤い血が僅かに滲むその腕へ、シヴァはそっと己の手をあてる。 「格闘したようだ。大丈夫かね?」 「ええ、平気。かすり傷よ。それより」 「気になる場所があるのだろう? きみはその暖炉の中で別のどこかにつながる通路を発見した。しかし、そこへ踏み入るより先に、こちらの物音を聞きつけて見に来てくれたようだがね」 「……そこまで分かるのね」 「では、行こうか」 2人はほんの微かに笑みを交わし合い、そして大理石に小さな少女が彫り込まれたマントルピースから暖炉の奥へと入り込む。 明日の腕の傷は、いつの間にかキレイに癒えていた。 * あの子たちの声が、聞こえない。 アリスを呼ばなければならないのに、何故、どうして―― * 「これ以上ここに入ることはできないでしょう」 ヴィヴァーシュは精霊を操り、ウィンターガーデンとして開放されていた部屋に結界を張り終え、溜息を落とす。 ガラス戸の向こう、外はいつの間にか嵐となっていた。 水の膜が張り、風が唸り、不穏な気配を振りまいているけれど、この温室には一滴の血も流れることもなく、青年をひとり内側に取り込んで閉ざされた。 彼が抱いていた芋虫のぬいぐるみもまた壁の内側に取り込まれて消えている。 「これで3階は探索し終えたのかしら? 入ることができる部屋、行き来できる階、それがどんどん限局されていくのね。まるでネズミを追いこんでいるかのようだわ」 「……この場合はウサギ追いとしておくべきでは?」 「ネズミで十分よ。だって、ネコが追うのはネズミでしょう?」 楽園は閃く金の瞳を細め、くつりと喉の奥を鳴らして笑う。 「さて、と。老ネズミが3階には居ないのはよくわかったわ。2階に降りましょう? この屋敷は外側からじゃ分からないくらいに入り組んでいるんだもの。特定の通路からしか行けない場所だってあるんじゃなくって?」 「ええ……設計図を手に入れられたらよかったのですが、それも叶いませんでしたから」 「この家がアリッサのお家としての役目をきちんと果たしていたのは、ほんの十数年よ。ヘンリー・ベイフルックに至っては、たぶん5年も住んでいたかどうかね」 なのに、この屋敷は美しく保たれている。 誰も住んでいないはずなのに、ずっと誰かが住んでいるかのような気配が漂い、そうして今はマンファージの儀式の舞台にまでなっている。 「200年前にほんの少しだけ誰かが棲んでいたこの屋敷に、一体何が隠されているのかしら?」 いくつかのアーチをくぐり、扉を越え、狭いけれど薔薇の意匠が凝らされた階段を下へと降りながら、ヴィヴァーシュと楽園の会話は続く。 「ヘンリー・ベイフルックはロストナンバーのために数多の館を異世界に作り続けた。そこに本当はもっと別の意味が隠されているのかもしれません」 人ひとりがようやくすれ違える程度の階段を経て、壁を正面にして踵を返した先には、行き止まりとしての扉が自分たちを出迎える。 この扉の前後に通路らしきものはなく、階段も2階と思しきこの場所で途切れ、さらに下へは続いていない。 「扉にトランプの兵士が描かれていますね」 「それじゃあ入ってみなくちゃいけないわ」 「では」 言って、ヴィヴァーシュのしなやかな手が掛かり。 扉を開け放った途端、ふたりを迎えたのは古い書物が持つ懐かしくも愛おしい知識の香りと、眩しいほどの蒼の色彩だった。 「かつて図書館を《海底》だと評した方がいらっしゃいますが……ここは、実に詩的な空間ですね」 不思議な色の空を思わせる天井に、そこへ届く背の高い本棚が整然と美しく立ち並び、側面には波のモチーフが彫刻されている。 隙間なく詰め込まれた背表紙たちの青や緑、時に茶や灰といった色彩が、ここに立つモノへ、まるで自身が海辺に佇んでいるかのような錯覚を与えた。 「ステキな場所。海亀モドキたちが生贄に捧げられる前に阻止できてよかったわ」 楽園は微笑み、後ろへ一瞥を投げ掛ける。 階段の脇には互いに寄りかかる様にして床で眠りこける3人の青年の姿があった。ナイフもぬいぐるみもないけれど、彼らが描こうとしていたストーリーは分かる。 だからこそ、いまこうして図書室が一滴の血も受けることなく冴え冴えとした深い青を湛えていることに楽園は満足する。 「“赤いお茶会”はストーリーを紡げず、ズタズタだわ。マンファージが分かりやすく暴れ出してくれるまで、少し探し物ができるかしら」 「……願わくば、彼の建築家の痕跡を」 まるでいまにも潮騒が聞こえてきそうな青の世界を、ふたりはゆっくりと歩きはじめる。 ゆっくりと、ゆったりと、ひとつひとつに隈なく視線を巡らせて。 近く、遠く、窓から差し込む光のためか、ゆらゆらと蒼が揺れている。 「おや?」 ふ…、と、本と本の隙間に置かれた卵型のブックエンドのいくつかに、何か文字が綴られているらしいことにヴィヴァーシュは気づく。 目を凝らし、指でなぞり。 そして理解する。 ソレは途切れ途切れの英文であり、途切れ途切れの呟きでもあった。 『ジェーン、君と出会えたことを、僕はエディに感謝しなくちゃな』 『あいつが君たち姉妹と出会わなければ、僕もまた君と恋に落ちることもなかった』 『僕はいつだって、君の幸せを望んでいる。君とこれから生まれてくる子供の幸せを……』 『……君の傍に居られなくても、僕の魂は常に君とともにある』 『そうだ、手紙を書こう。たとえ君に届かなくても……君に手紙を』 「……これは」 「まるで恋文のようだわ。でも、そうじゃないのかもしれない」 離れていたはずの楽園が、するりと本棚の隙間から笑みと言葉を投げ掛けてくる。 「あなたも見つけましたか?」 「ええ。筆跡が同じ、だから書いた人物はひとり」 「おそらく、ヘンリー・ベイフルックのもので間違いないでしょう」 ヴィヴァーシュは再び歩きはじめる。 考えをまとめ、紡ぎあげるように、少女との会話という形で思考を進めて行く。 「自由に、何物にも縛られずに旅をしている……しかし、自由というのは良い様に思えますが、責任が伴います。何かの危険に晒された時、己を護るのは己のみなのですから」 「その危険が自分の背にのみ負えるものかどうかはまた別の話じゃないかしら?」 「それでもなお館を建て続けた。建築物は自分がここに在ったという存在を示す物の様な気がしてなりません……彼の愛するモノという表現は、ただ妻子にのみ向けられているものではなかった、とも」 帰る場所が無いというのは随分と足下が不安定なのだから、と、そうヴィヴァーシュは小さく呟く。 ロストナンバーたちは帰属する世界から放逐された迷子だ。迷子の帰る家を、彼はあらゆる場所に建てたということになる。 それに、モフトピアやブルーインブルーでの立地を考えると、彼はおそらく、転移したばかりのロストナンバーが万が一能力を暴走させても周囲に被害が及ばないよう、あえてその世界の僻地を選んだとも言える。 「ヘンリー・ベイフルックは……おそらくとても《優しい人》だったのではないでしょうか?」 ソレはささやかな感想。 あるいは、ささやかな願いなのかもしれない。 「でも、彼は記録を持たない。消されてしまっていてよ? 彼は“愛するモノのために”旅をしていたと言うわ。でも、本来、滅びを止める方法を探すだけなら、彼の記録が消されることはないはずね」 「何者でもない彼でも、壱番世界出身であればコンダクターの旅の目的――滅びを止める方法の模索と使命は理解していたはずです。例えば、その過程で記録を抹消されるほどの罪を犯したということになるのでしょうか」 「私は、彼が何かの禁忌…例えばチャイ=ブレに関する何かに触れて、追われているのかもしれないと考えてみたの。アリッサが何も知らないのは、知ることそのものが罪になるから」 「知ることそのものが罪、ですか。では、その知ってしまった何かが世界図書館にとっては不都合なモノであり、例えば彼がソレを公表しようとしていたら」 「ヘンリー・ベイフルックは、間違いなく世界図書館にとって《反逆者》になるだろうな」 反響しあう2人の合間に、不意に別の方向から言葉が差し込まれる。 「あら、ずいぶんとおかしなところから出てくるのね」 本の海の奥深く、ローテーブルとアンティークチェアを配した大理石の暖炉の中から、3つ揃いのスーツをまとった彼の守護天使は姿を現した。 「この屋敷は妙な所に隠し通路を作っている。まあ、今更どんな隠し扉がどこに繋がっていようと驚きはしないがな」 そうして彼は優雅にさりげなく、肩の埃を軽く払う。 「あちこちで眠っている者たちを見た。2人の仕業か?」 「ええ。シヴァさんの協力も得ていますが」 「動かす駒がなくなれば、頭が動かざるを得ないでしょう?」 「なるほど、ネズミをあぶり出すには有効だな。……さて、ここに来る途中でこんなものを見つけたんだが?」 そう言ってロディが2人の前に掲げたのは、1冊の赤い本。そこに綴られたタイトルは、『Alice's Adventures in Wonderland』――不思議の国のアリスだ。 「暗い穴の中に隠されていた本の名前がアリスだなんて、なんて意味深なのかしらね」 くすくすと楽しげに笑う少女はその指で、古い本のページをさらりと撫で、繰る。 そうして彼女の指は止まった。 「……女王が白い薔薇を赤い薔薇に変えろというシーン、私はついこの間、同じ場面に居合わせていてよ?」 それならば、ヴィヴァーシュとロディも聞き及んでいる。 レディ・カリスの茶会。 そこで行われた《館長代理》奪還のための一幕は、まだ記憶に新しい。 「そのシーンにこの写真が挟まっていた。とても古い写真だが、“過去”の物語の登場人物を知るには十分だろう」 「そうね、これですっきりしたわ」 「すべての始まりは、とても小さな輪の中で起きていたということですね」 彼らはたった1枚の写真から、もつれた人間関係の背景を正確に理解する。 「相関図が紐解かれたところで、……さあ、ようやくマンファージが動いてくれたわ。そろそろネズミ狩りに戻りましょ?」 少女の瞳が仔猫のようにきゅっと細くなった。 毒姫と共有する視界が、惑う男の姿を彼女に告げるのだ。 「悪趣味は嫌いじゃないけど、今回は少しばかり度を越していてよ」 * 何故、茶会が始まらない? 何故、ここから先に進めない? 何故、あの子らは私に応えない? * 「難解な構造設計は、誰にも見つけられたくないモノがあったのだとしても不思議じゃないわ。あるいは、親愛なるモノにしか見つけられない様にしているんじゃないかしら」 シヴァが明日と共に暖炉の中の隠し通路から煉瓦色の扉をスライド出せて辿りついたのは、それまで見てきた部屋とは格段に質感の違う場所だった。 狭い空間にまるでパズルのように棚と机を配置され、大きな製図板が君臨し、そして至る所に積み上げられ並べ垂れた資料らしき紙の束と専門書で占められていた。 膨大な設計図。 あふれかえる建築物のラフスケッチの数々。 書斎というよりも資料室と呼ぶべきかもしれないが、無数の紙の束であふれかえったこの部屋で何かを探して見つかるモノなのか。 壁に下がるランプのささやかな明かりが、一層秘密めいた空気を生み出していた。 「ヘンリー・ベイフルックが逃げているのは、内部に裏切り者がいるからか、図書館の動きが監視されているせいかとも思ったんだがね」 「追われているのか、それとも追っているのか……視点を変えれば、見え方も違ってくるとは思うの」 けれど、と明日は言葉を選ぶように一度口をつぐみ、 「少し考えたのだけれど……彼は本当に今も旅をしているのかしら? 本当に、今も……」 「異世界に彼の建物は存在している。しかし、いつ建てられたのかまでは、調べ切れていないんだったね」 「彼が異世界を渡れるということは、チケットが発行されているということだわ。あるいはロストレイルを自由に扱える立場になくちゃいけない。……でも、彼の記録はどこにもない」 「記録にない彼がいかにして世界を渡るのか、ということか」 「異世界を渡っていた彼と記録を消された彼の時間軸が知りたいわ……彼はいつから“行方不明”なのかしら」 何らかの方法を経てセクタンを封印し、ヘンリーもまた館長と同じように自らの意思で消息を絶っているのか。 あるいは彼自身の意志ではなく、姿を消されてしまっているのか。 明日はどうしてもその答えを掴みたかった。 ソレはもしかすると、物心つく前に両親の不在を突き付けられ、生死すらも不明のままに過ごしてきた自分と、アリッサの境遇を重ねているせいかのかもしれないが。 「何故、消えてしまったの……?」 口の中だけで作られた小さな彼女の呟きには、この事件に対するものではない感傷が滲む。だがシヴァは聞かない。聞こえない、ふりをする。 代わりに彼は、指先で地層と化した紙たちに触れ、目につく文字を口にした。 「“君は間違っている”……この走り書きは誰に向けたモノなのだろう」 それを受けて、ハッとしたように明日の視線が動き出す。 「こちらには、“審議会”という単語が書き止められているわ」 「……ふむ」 ぶつ切りの文章が、目を凝らせばそこらじゅうに溢れている。 『滅びを前にして、なぜ手を差し伸べられないんだ』 『僕の言葉が届かない。エディ、何故君はエヴァも巻き込んで、こんな』 『おかしいということに気づかないことが“おかしい”んだ』 『これは罪なのか、罪とは何をさすんだ。愛するものを守ることが罪か?』 読みあげて行くシヴァの声に、明日の表情が僅かずつ険しくなっていく。 「まるで彼自身がアリスになってしまったみたい。裁判に掛けられたアリスが叫んでいるようにしか思えないわ」 「彼はベイフルック家でもエルトダウン家でもない身だ。自分の言葉の何ひとつとして相手に届かないという《現実》は、あまりに辛いだろう」 至る所に散らばる設計図は、おそらく、彼がこれから建てるつもりのものも含まれているのだろう。 郷土資料館で見た経歴に収まる数ではなく、これまで発見されてきた異世界の建物だけでもまだ足りない。 同胞のために、ロストナンバーのために、世界から放り出された迷い子たちのために、彼は家を建て、そして自身の言葉を受け止めてくれる存在を待っていたのかもしれない。 モフトピアやブルーインブルーの館にも、彼は自身の作業場を隠し、家族の肖像と共に自身の足跡をも残していた。 誰かが自分の存在を消し去ろうとしていることを察知していたのかもしれない。 「ヘンリー・ベイフルックは何を為そうとしていたのか、この命題に答えを見つける時が来たようだ」 「……彼は……もしかすると世界図書館を敵に回そうとしていた?」 「しかし、まだ見えない。彼は何をそんなにも許せないと感じていたのか、その本質が分からなければ、彼を罪人と判断することもできない」 では、ここに捜し求める解答が用意されているのだろうか。 「君は誰にも見つからないようにモノを隠す時、どうするかね?」 「……木を隠すなら森の中、だったかしら」 かつて読んだ古典名作の中で探偵が披露した推理を明日もまたなぞる。 「手紙を隠すなら手紙の中、本を隠すなら本の中、でも……ヘンリー・ベイフルックは隠し部屋を作るような人」 彼が本棚に本をしまうように、彼は彼の机に何かを隠していないだろうか。 資料の束が乗ったままの机には、天板に沿って1列、右側に3段の引き出しが付いていた。指を掛け、鍵が掛かっていないことを確かめてから、かつて映画で見たように、カチャカチャと引き出しを動かし始める。 数度目の実験で、カチンと手ごたえが生まれた。 何かが引き出しと連動し、開く音がする。 「君の慧眼はまさしく称賛に値する。明日くん、君の推理は興味深い」 机の天板が持ち上がり、その中にふたりは1冊の日記らしきものを発見した。 赤い革の表紙にハンプティ・ダンプティを思わせるエンボス処理を施された古い体裁は、日記帳と呼ぶにはいささか豪華すぎるかもしれない。 しかも表示を閉ざすための金属の小さな鍵が、他者にこれを読まれることを拒絶している。けれど同時に、その重みこそが綴られた文字に『真実』の価値を付加しているとも言えた。 「この鍵では開かないようね」 ロディと発見した小瓶の中の鍵は、この日記帳のものではなかったようだ。 「貸してごらん」 「あ」 シヴァが日記の鍵に触れた途端、ソレは解かれることを待っていたかのように容易く開いた。 「どうやら日記と言うほどには詳細ではないようだが」 そこに綴られているのは、もはや見慣れたと言っていい建築家の文字ではない。繊細で可憐な女性の文字だ。 日記の中で彼女は、病弱な己を嘆くのではなく冷静に受け止め、そうして、華やかで活動的な妹について称賛の言葉を送り、話術の巧みな青年の来訪を喜んでいた。 日記らしい日記。 日常への愛おしさに溢れた優しい過去の記憶が綴られていくのを目で追いかけて行く。 「……ヘンリーの名前があるわ」 この日記は、どうやらアリッサの母親ジェーン・ベイフルックの手によるものらしい。 彼女がエドマンドやヘンリーと出会い、求婚されるまでが綴られているのだが、その中でひとつだけ奇妙な出来事が記されている。 『 ヘンリーがエヴァと出かけたまま、ひとり帰ってこない。 もしかすると森の中にあるウサギの穴に落ちてしまったのかもしれない。 エヴァの顔色もとても悪いわ。 あの子は自分の気持ちを表に出すのがとても苦手から、心配。 ヘンリー、早く帰って来て……あなたはいま、どこにいるの? 』 そして、日記は翌日に事態の好転を告げる。 『 あの人が帰ってきた。 まさか本当にウサギの穴に落ちるなんて、アリスみたいなヒト。 でも、よかった。怪我もしていない。 これでエヴァもきっと元気になってくれるわ…… 』 彼女の不安と安堵が手に取るように分かる。 同時に、明日はふとした可能性に思い至る。 2人が出かけそのうちの1人が帰ってこないという《事象》に、刑事としての勘が囁く。 ウサギの穴に落ちた彼は、果たして本当に自分で足を滑らせたのだろうか。 罪のニオイを感じながら日記を閉じて、そうして明日はこの部屋の主の思考を辿ることへ意識を向けた。 しかし、その思考をシヴァの一言が断ち切る。 「我々にはこれとは別に片付けねばならない案件があったはずだ、明日くん」 「……見つけたのかしら?」 「楽園君たちも既に追いかけ始めている。ひとりだけ毛色の違う羊がようやく事態の異常さに気づいてくれたようだ」 穏やかな光を湛えていた瞳が、一瞬閃く。 切なげに、遣る瀬無く、けれど確固たる信念を以て。 「羊狩り……いや、楽園君の言葉を借りてネズミ狩りと言うべきか。《病》を振りまく存在を取り除かねばならんからな」 「わかったわ」 明日は胸にしまった携帯電話に触れ、そして2丁の銃を構えて、豪雨の向こう、稲光に照らし出された石造りの離れに視線を投げた。 * 何故、何故、何故《赤》が消えて行く――? * 上に行く道も下へ降りる道も外へ出る道すらも閉ざされて、逃げ込むべき部屋の扉は開かず、ソレはひたすらに己が追いこまれていくことを理解する。 理解していたが、対処はしなかった。 対処のしようがないままに、見えない何かに追いつめられるようにして、ただひとつ開かれた道、1階のサンルームから地下を通じて繋がる《撞球室》へと走る。 そこは他のどの部屋とも繋がらない、赤いお茶会を開催しようとしていたモノたちを閉じ込めたありとあらゆる部屋と繋がらない、それだけで独立した一個の建物。 そして―― 「ようやく出会えたみたいね」 オルゴールを抱えた白髪の老紳士は、階段を上り、辿りつき、扉を開いたその瞬間に、豪奢な部屋の中、己の額にふたつの銃口が向けられているのを知る。 「羊狩りならぬネズミ狩りだそうけど……ところで、アリスには失われた隠しエピソードがあることを知っている?」 明日の問いに男は答えない。 「あなたの儀式は完成しないわ。気づいているかしら? 儀式にひとつ足りない点が有る……此処に来る前に色々と調べさせて貰ったの…4章と5章の間に、隠された章が有った事を知らなかったみたいね。残念だわ、あなたの計画は穴だらけなんだもの」 見開かれた目はすぐに細められ、にひゃりと歪なカタチに唇が吊りあがった。 「ハッタリかね、お嬢さん? ハッタリだろう、生半可な知識を私相手に晒してどうするつもりだ、お嬢さん?」 ガラス玉を嵌めこんだかのようなその瞳に、狂気の暗い光が揺れている。 「赤で満たすぞ、物語はこの館でこそ完成する、呪われし血族を美しい赤の色彩に塗り替えて、我々は世界を作りかえるのだ――」 ゆらゆらと立ち上ってくるその情念、執念、妄執と言える何かをまとって、男は身体を揺すり、仰け反るように笑い声をあげた。 銃声が鳴り響く。 男は眉間を撃ち抜かれた。 けれど、ソレはのけぞりはしても、めきりと身体を軋ませ態勢を立て直し、 「――っ!!」 可聴域を越えた奇声を発し、明日に背を向けて元来た道を目指し、駆け出すが、 「そっちへ行ったわ!」 明日の声が、空気を震わせ、風に乗る。 ヴィヴァーシュの願いと共にある風の精霊たちが彼女の声を運んで伝える。 声を乗せた風が男の足を掬い上げ、男の身体が無様に床に転ぶ。 転んだ男の目先でふわりとドレスの裾を翻し、そこに立つのは巨大な美しい銀のハサミを手にした楽園だ。 「ごめんあそばせ」 一瞬のためらいもなく、冷笑を浮かべた少女はとりだした小瓶の中身を相手にぶちまけた。 至近距離で浴びせたその液体の名は、硫酸。 じりじりと焼け焦げ溶ける蛋白質の不吉な匂いが辺りに散らばる。 「お伽の時間はおしまい。夢は必ず覚めるもの。どんな素敵な夢だって、ニワトリが鳴けば消えてしまう」 シャキン、と軽やかにハサミが鳴る。 「さあ、チェシャ猫がお相手してあげる」 鋭く閃く光が少女の手の中で更なる不穏な光と変わり、毒姫を肩に乗せた楽園は、歌うように愛らしい声で冷やかに傲慢に言葉を紡ぐ。 「ねえ、頭の壊れた郷土史家さん? 貴方はここに何を見ているのかしら? 貴方の言うアリスはだあれ? 貴方がここを選ぶ理由はなあに?」 シャキンシャキンシャキン――振り回された刃の凄まじいまでの切れ味を、男は身をもって知ることとなる。 しかし、腕から、脇から、足から、噴き出るのは、鮮血ではなくどす黒い《影》だ。 「さあさあ、野ネズミさん、答えてちょうだい。ベイフルック家に何を見つけたの、何を見たの、もつれた彼らの歴史に何を見出してしまったの?」 まるで一瞬たりとも痛みを感じていないのか、仰け反り、かと思えば体を折り曲げ、転がるように笑い続ける。 「知らんのか?」 だが、男は――郷土史家として、郷土資料館館長として、これまで活動してきた《マンファージ》は、蹲りながらも悲鳴の代わりに哄笑を浴びせる。 「ああ、知らんのか、知らんのだな、そうか、ならば調べてから来ることだ。何ひとつ知らぬ者に何ひとつ応えることなどできん! ベイフルックのコレクションを、狂気を、知らん者に語るは無意味!」 ぐつぐつと煮え立つような嗤いで喉を震わせ、 「探した、50年を費やした、アリスを追ってここまできた、それを無知なる者共に語れるものか!」 男は再びその身をひるがえした。 「ディラックだ、ディラックの詩篇だ、気狂い国王に献上されたあの詩篇を探して、赤だ、赤、真っ赤な赤を赤を赤を、そこらじゅうに赤を」 「悪いが、そういうことはご遠慮願っているんだ」 「――グ、ガ……、っ!」 男の手を足を胴を首を、天井、壁、床から伸びた無数の触手が瞬時に絡め取る。 「この建物を汚されたくはないんですよ、貴方のような存在に」 そして男の周囲にだけ見えない風の結界が張り巡らされ、カハリと、苦しげに吐いた息すらも奪い取る。 シヴァの、そしてヴィヴァーシュの、整い過ぎるほどに整った容姿と声が男の行く手を遮った。 「ステキな恰好ね」 楽園がまたくつりと笑う。凍りつくほどに愉悦で満ちた笑みは、獲物を前にした捕食者に似ている。 「美しさとは程遠いけれど貴方にはお似合いみたい」 「我々は我々の為すべきことを為さねばなりません……貴方が貴方の望みを叶えることはけしてない」 どうしようもないほど穏やかに冷やかにヴィヴァーシュは告げる。贄を捧げるという行為そのものが自身の癒えぬ傷を苛むのだと自覚しながら、言葉を紡ぎ、落とす。 「あるのはただ、眠ることだけ」 「心残りがあれば聴くくらいはするけれど……君にその意思はあるのだろうか?」 「世界を、変えなくては……呪われし一族を、呪われた血族を、アリスを召喚し、作り替えなければ、後悔するぞ、後悔する、おまえたちは後悔するんだ、世界を作り変えなかったことを心の底から後悔し続け――」 「懺悔を他者に強いるのは感心しない」 ロディの台詞に重なり、雷が落ちた。 外で縦横無尽に空を駆ける稲妻ではない、壮麗なる守護天使によって放たれた《裁き》の光だ。 熱から逃れるかのようにマンファージの全身から放たれた肉塊色の触手はその瞬間、分断され、焼け焦げ。 空気の刃と巨大鋏の刃が喉を切り裂き、2発の銃弾が眉間と胸を貫き、青フクロウの羽根が舞い。 断末魔がほとばしる。 ヒトとしての原形を留めることのできなかった郷土史家の、26に砕けたカケラは、振り撒かれた赤い液体ごと《灰》となって消えた。 跡形もなく。 ベイフルック邸を不思議の国に見立てた男は、一握の砂ほども残さず消失してしまった。 「安らかに、眠れ」 「……あなたの50年に追悼を」 黙祷を捧げるように明日は視線を伏せる。 どれほどの執着と業績があろうとも、マンファージとして死に至った彼に与えられるのは行方不明という《現実》と他者の忘却だけなのだ。 後には、微かな沈黙と守護天使の祈りだけが落とされる。 だが、それも長くは続かない。 楽園が床に転がるオルゴールに手を伸ばしたから。 ダイヤモンドが一粒嵌めこまれた、薔薇と少女のレリーフを施された木製のソレには見覚えがあった。 「これって」 「ふむ。郷土資料館に保管されていたはずのものだろう」 空だったガラスのショーケース、そこには写真と説明書きだけが残されていたのを思い出す。 「鍵が掛かっているようですね……とても古いタイプのようですが」 「これでもしも開いたとしたら、なんて符号かしら」 アンティークの鍵を、明日は楽園の手にあるゴールの鍵穴に差し込んだ。 途端―― 中から溢れ出したのは、やわらかな音色と重なるひとりの男の声だった。 『エディ、この世界にもどうやら本当に《ウサギの穴》が存在している!』 ソレは、ヘンリー・ベイフルックの断片。 『ベイフルック家の“呪い”が解明されるかもしれない。世界はひとつじゃないんだ』 『チャイ=ブレと契約? どういうことだい?』 『あの存在に協力したモノだけが生き残れるようにするって……エディ、そんなの、絶対に許されない』 『世界が滅びようとしているのに、間違ってる……ファミリーの、そして世界図書館を立ち上げようという君の考えは間違っている!』 『君は、契約したモノだけが助かればそれでいいのか!』 『いつか滅びを回避する術を得て、僕は同胞と共にこの真実のすべてを白日のもとに晒す』 『愛するものを守りたい、ただそれだけなのに、それを罪だと君は言うのか……』 ネジが切れ、オルゴールの音色と共に男の声もそこで途切れた。 誰もが、たった今自分が耳にした《糾弾と告発》の解釈を求め、視線を交わしあう。 これまで、0世界を発見したのはエドマンドだと言われてきた。だがその前提が覆され、更に提示されたのは不穏に過ぎる契約の内容。 だが、いま一度聞きたいと望んでも、誰かの能力で残したのだろうヘンリーの断片は解き放たれてしまった後にはもう繰り返し聴くことができないのだ。 幾度フタを開閉し、ネジを巻きなおそうとも、オルゴールはただ曲だけを奏でるに留まっていた。 ヴィヴァーシュはそっと目を閉じ、 「……彼はまるで革命家のようです」 己の唇をなぞり告げる言葉にロディも頷きを返した。 「ロストナンバーが惹かれ、訪れる、彼らのための館。その館に集った者の中に、ヘンリーは賛同者を求めたのかもしれん」 ファミリーの意志、世界図書館の意図、それを許されないものとし、彼は友を糾弾したのだ。 「だから、彼は審議会に掛けられ、記録も抹消されたのね」 「……なるほど。明日くんと見つけた設計図の走り書きがここに繋がるのか」 「ファミリーとしてはきっと、彼を始めから“いない”人間にしたかったんじゃなくって?」 「しかし、建築物を消すことも、アリッサの父親だという事実も消すことはできなかったのでしょう」 「だからこうして我々はヘンリーの断片に辿りついた。誰かが仕組んだ『筋書』に乗せられたかのようにな」 ロディの台詞に別の誰かが答えようとした時、 「《物語》は、いつだって誰かが描くからこそ紡がれるのよ」 背後から差し込まれたのは、それまでそこに居なかった登場人物からの言葉だった。 激しい雨に打たれてなお美しく咲き誇る赤い薔薇のような彼女は、ひとりの男を伴って扉の前に佇んでいた。 「すべてをここで収めようというのだね、レディ・カリス」 トレインウォーの成り行きすらも把握していたらしいシヴァの問いに、彼女は優雅に頷き、 「ええ、すべてを。あるいは、これから始めるための終わりを見届ける為に」 彼女の視線を受け、同じくずぶぬれのまま佇んでいた男――エドマンドは無言のままに撞球室の中央に置かれたビリヤード台に手を触れた。 ガコリと、台が動く。 そして、床にぽっかりと口が開く。 「アリスの最初の物語のタイトルは《Alice's Adventures Under Ground》――さあ、地底の国へ降りましょう」 地底の国へと続くというその穴の中に、赤の女王とロストナンバーたちは、エドマンドに連れられ、降りて行く。 冷たく暗い闇の底。物語の終焉の場所へ。 * 契約は絶対でなければならない。 だから、ヘンリー・ベイフルック、君を―― * 石段を降りた先に待つ、そこはひそやかなる石の牢獄。 そこは閉ざされた秘密の部屋。 閉ざされた扉の向こうに閉じ込められていた秘密を解き放つのは、7人のロストナンバーの14の瞳だ。 「……ヘンリー」 そこに、彼はいた。 冷たい霧に満たされているかのような石の部屋で、ただひとつ置かれた肘掛椅子にもたれ、眠る彼の胸を染めるのはひどく鮮やかな赤の色彩。 ほのかに赤みの残る白い肌とごくわずかに上下する胸だけが、彼の《生》を示していた。 最初に動いたのは明日だった。 「彼はここに幽閉されていたのね。探しても見つからない、その答えがこれなんだわ」 身に沁みついた刑事としての意識が『現場検証』という名の作業に移らせる。 「外傷は胸部の一箇所だけのようね……創部は止血されつつあるけれど、まだ新しい」 習性ゆえに白い手袋をはめて検証する彼女の隣に、ヴィヴァーシュもまた膝をつく。 「彼は……《意識》を閉じ込められています。彼の中に流れる時間そのものが、不可解で……」 「特殊な力に拘束されているようだ。さしずめ眠れる森の乙女のように」 続くシヴァは、そのままそっとヘンリーを抱き起こし、その冷たい頬に触れて溜息を落とす。 ロストナンバーとなった瞬間から自分たちの時間は止まる。だが、ヘンリーの時間はソレとは異なるもので縛られているとしか思えなかった。 「彼の足取りは追えない理由も見えたわ。でも、ねえ、それじゃあ彼を刺したのはだあれ?」 マザーグースを歌うように問いかける楽園に、レディ・カリスは答えない。 答えない代わりに、告げる。 「ここは限られたもの以外には見つけることのない場所、他者が侵入した痕跡が長く存在していない場所――そんなこの部屋でこんなことができるのは」 赤の女王カリスの滔々とした喋りが、凍りついた部屋に響く。 「エドマンド・エルトダウン――犯人は、あなたね」 「エヴァ……」 「あなたのトラベルギアは仕込杖。次元を越えて対象を害することができる能力だということも加味されるわ。状況はあなたの犯行を示している。動機も充分すぎるほどね。それら全てを今ここで覆すことができて?」 滔々と語りかけるレディ・カリスの問いに。 エドマンドはそっとかぶりを振った。 「……できない、だろうな。しかし」 交わされる言葉には、ある種の色が仄見える。 その空気を、他の者たちもまた敏感に察知した。 これは戯曲。 これはひとつの舞台劇。 館長は犯人ではない、けれど今この瞬間は犯人として扱われなければならないから。 今レディ・カリスが為そうとしていることのすべてを察し、彼らは共に演者となる覚悟を決める。 「そうね、館長以外にはあり得ない」 楽園がくすくすと愉しげに笑い、 「この傷はまだ新しい。それにこの部屋には他の誰もいないし、自殺と考えるには凶器がどこにも見当たらないわ」 明日が刑事の眼差しで以て受け、 「口を封じるつもりだったのだろうな。しかし、眠りの呪ゆえに殺害には至れなかったと、そういうことか」 ロディがソレに頷きで返し、 「革命を恐れ、真実を告げられることを恐れ、このような犯行に及んだこと、残念に思います」 「傷つけることでしか、きみがきみの責を全うできなかったのだとしたら、ソレはとても悲しいことだ、館長」 ヴィヴァーシュとシヴァが、エドマンドへと視線を向ける。 どこかで聞いているかもしれない『誰か』に聞かせるための芝居じみた会話は、カリスのこの台詞に集約されるための布石、伏線となる。 「エドマンド・エルトダウン、あなたの身柄はわたくしの監視下に置きます。ホワイトタワーへの収監は実質無意味であることも証明されてしまったわ。分かっていて?」 エドマンドは無言のままに頷く。 「さあ、館長代理が待っているわ。あなた方もロストレイルへ。それからヘンリーも。ここが他人の目に触れてしまった以上、幽閉する意味もなくなってしまったもの」 「では俺が連れて行こう」 ロディは眠り続ける冷たいヘンリーの身体を抱いて立ちあがる。 シヴァにエスコートされる形で先頭をいくレディ・カリスに続き、彼らは地底の国から地上へと石段を登り始めた。 粛々と、まるで何かの儀式のように。 「彼は見つかったのよ……見つかったの」 ふと、自分のすぐ前を歩く明日の安堵を含んだ呟きが、楽園の耳に届いた。 その背を眺めながら、楽園もまたひっそりと口の中で小さく呟く。 「アリッサ……あなたはお父さんに会えるんだわ」 叶うならもう一度自分だって父に会いたい。 だから楽園はアリッサのために、この屋敷で見つけたヘンリーの痕跡を彼女に渡そうと決めていた。 けれど、でも、それはもう必要ない。 ヘンリー・ベイフルックはここにいた。 彼は眠りに落ちているけれど、その眠りを解く方法さえ見つけられたら、本当の再会が待っているから。 「……眩しいな」 ロディの声に釣られ、顔をあげた。 いつの間にか嵐が去っていたらしい。 濡れた薔薇園と、遠くにあるロストレイルを照らすように、重たい雲の合間から天使の梯子が幾筋も降りていた。 お伽噺は、ウサギの穴に落ちた男を地上に連れ戻すことで終焉を迎えた。 今はまだ屋敷で眠る青年たちもやがて目覚めるだろう。 そうして、石の部屋で眠る《建築家の視る夢》に触れた者たちへ、ひとつの旅の終わりを告げようとしている。 「And that's all …?」 ヴィヴァーシュの唇からこぼれた問いに、楽園が、明日が、シヴァが、ロディが視線を向ける。 ソレは予感。 あるいは、予言。 後日。 不思議の国の冒険を終えたアリスが今度は『鏡の国』へ誘われるように、彼らもまた自身の関わる物語が新たに紡がれ始めているのだと知ることになるのだが。 それはまた、別のお話。 END
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