あの、静かなる都から数日のところ。 この乾いた土地には貴重な、常緑の山林があった。 外界を隔絶する木々を抜けて半日登れば、やがて小さな谷に出る。 細い川の走る谷底には、ひっそりと佇む集落を見出すことだろう。 初めてここに立った時は、人々の営みを知ることができた。 青々とした畑の中に点在する家々からは煙が昇る。 ある者は野良稼ぎに精を出す。 また、ある者は籠を背負って、忙しく小屋と畑を行き来している。 川遊びに興じる子供達の様子など、ここまで笑い声が聞こえるようだ。 彼らの、素朴で屈託の無い温もりが、遠目にも伝わってきた。 美しい景観も相俟って、なんと心が洗われたことか。 だが、今。 眼下に広がる世界は、すっかり変わり果てていた。 緩やかに均されていたであろう地面は隆起と陥没を繰り返し、歪。 それに巻き込まれた家屋は無残にも倒壊し、見る影も無い。 小川は泡立ち、瘴気を立ち上らせる様は地獄さながら。 そして何より、一面を埋め尽くす白が、ひしめき、蠢いていた。 このおぞましい惨状を招いたのは、他でもない――。●かいこ。 それは『導きの書』をめくるなり、ガラが旅人達に向けて放った第一声。「君達、かいこですよう」「俺達はクビか」「じゃなくて」「ならお前かそうかおめでとうございます」「じゃーなーくーてー。もう、この不景気に何言ってるんですか」 この女は自分の言い方が不景気だとは微塵も考えないのか。 まあそれはさておき、ガラはなんだかぷりぷりしながら説明を続けた。「ヴォロスでファージが確認されました。討伐を、お願いします」 場所は神託の都メイム近くの山中。養蚕を主な生業としていた集落だ。 この地の蚕は、人の背丈の半分ほどの大きさで、その分取れる絹も多い。 普遍的な需要の品を安定供給できる為、皆の暮らしは豊かだった。 だが、それも既に過去の話。 蚕のうち一頭にファージが宿り、たったそれだけで集落は壊滅した。「……生きてる人は、もう殆ど居ませんよう。その代わり」 今は、巨大な蚕やその成虫が暮らしている。否、蹂躙している。 ファージの宿主が侵蝕がてら同族を操り、住民を駆逐したのだ。 かつて桑の葉を食んでいた幼虫は、人を食むようになった。 蛹達は繭を作る為の糸を、人にも向けるようになった。 成虫は、内側から繭を破る為の毒液を、人に吐き飛ばすようになった。「幾ら大きいと言っても、一頭一頭は君達なら楽勝です。ただね、数が多いの」 汚染の影響か否かは不明だが、短期間で卵が一斉に孵化したらしい。 その為、集落には足の踏み場も無いほど、蚕で溢れているという。「でね。どの個体が宿主かは、ちょっと判らないんです。幼虫かも知れないし成虫なのかも知れない。蛹だってありえるし、未だ繭の中に入ったままかも」 ファージ寄生体は案の定擬態しており、外見で他の蚕と見分けるのは困難だ。 集落中に点在する繭も視野に入れ、特定の為の方策を考えねばなるまい。「やり方は君達にお任せです。でも、まとめて焼き払うとかは駄目。山火事にでもなったらおおごとですし。今は汚染されてても、ファージを倒せば元通りです。人以外は――あ。ああああ人っ!?」 話を纏めようとしていたガラが書のページをめくるなり、大声をあげた。「生存者、確認しました!」 少なくともひとり。年のころ十二、三の娘が、何処かに隠れて震えている。「普通の家より大きな建物の中。梯子を落として、身動きが取れないみたい」「他には居ないのか?」「ん、んー?」 旅人が問えば、ガラはページをぴらりぴらりと進めたり戻したりしながら、大袈裟に首を傾げてみせた。 導きの書が示した、集落の生存者は、紛れも無く件の少女ひとりだけだ。 だが、はじめ、書を通じてガラが垣間見た、眼下に集落を望む光景。 あれは、ひどく主観的だった。「誰が…………」「何?」 いつにも増して挙動不審、上の空の世界司書に、皆訝しむ。「……や、いえいえ。ひとりだけですよう。きっと、助けてあげてね」 一同の視線に気付いたガラは(当人の中では)不覚にも神妙な面持ちのまま、改めて旅人達に助力を請うた。 導きの書の千里眼など、視え方が違うのは毎度のこと。 気にし過ぎても仕方がない。 最近の図書館に蔓延した、張り詰めた空気にあてられたのだろうか。 こんな時こそ普段通りであるべきなのに。「柄じゃない、ですね」 ガラは皆を送り出してから、ひとり気の毒な笑みを浮かべた。
● 小振りな片翼を持つ乙女が、眼下の景色に眉をひそめる。 その傍では、幽体となり生存者の捜索に向かった女の抜け殻が、ぐったりと横たわっている。当人から捨て置けば良いと言われはしたが、そうもゆかぬ。 ホワイトガーデンは、ほのかの青ざめた顔と、里への注視を繰り返していた。 「ひとつずれただけで、こんなにも大きく歪んでしまうのね」 まさに言葉通りだ。 大地は地中から外に向けて掻き回したようにねじれ、膨らんでは落ち窪み。 家屋らしき木材と桑の畑、農具、籠といった日々の営みの名残と、他の得体の知れない何もかもが、でたらめに入り乱れていた。 そして、全てを蹂躙する、真珠にも似た白い群れ。 小刻みに揺れるものが散見されるのは、成虫が飛べずとも羽ばたく様か。 おびただしい数の、蚕。そして、遠目にも方々で巨大な繭がみとめられる。 聞きしに勝る地獄を前に、グランディアも虎の容貌に相応しい唸り声をあげた。 「それにしても滅茶苦茶だぜ。このまま放ってはおけん」 今、彼らが見る光景は、先に世界司書のガラが視た望景に等しい。 これは、ガラの不審な様子を察知したジャック・ハートが精神感応を発動し、ほぼ正確な位置情報を得たことによるものだ。残念ながら、千里眼の大元までは掴めなかったが。その時のざらついた感覚を思い出し、故郷の仇敵と目の前の惨状を、ジャックはつい重ねてしまう。 「俺サマは全滅コース希望だゼ? どうせアイツラ、人肉の味を覚えちまったろーからヨ」 「……放っておいても、いずれ死んでしまうのではないの……?」 ジャックが言い終えるかどうかのところで、いつの間にか還ったほのかが、身を起こしがてら口を挟む。蚕は繊細な生き物と聞くがゆえ、と。 ホワイトガーデンが支えんと気遣うのをそっと制し、溜息を吐く。 「でも……それを待っていては、あの子が衰弱してしまうわね」 「生存者は?」 豹の姿をした女――レオナが、皆の疑問を代弁してみじかく訪ねた。 ほのかは皆の前にゆっくり進み、辛うじて原形を留めている建物を差し示す。 そこは養蚕場だった。 巨大蚕を扱う施設なのだから当然大きいが、今やこの地の支配者となった彼らは屋内をも蹂躙していた。更に、中には糸が張られ、繭まであるので随分手狭な印象を受けた、とほのかは語る。 その奥の、絹糸が積み込まれた倉庫の上。 天井付近の高台で、少女は逃げることも叶わず、縮こまっている。 内壁を登る蚕は自重に負けて落下するので、捕食される危険は当面無い。 少女の側から恐慌をきたして降りたりしない限りは。 「窓のひとつもあれば、ジャックさんにお願いできたのだけれど……」 窓はおろか、人が通れそうな場所は入り口以外に見当たらない。 また、温度調整の為か丸太組みの上から板張りにした建物なので、たとえば外から穴を開けるような無茶をすれば、崩壊に繋がる恐れもある。 「それだけ判れば上等だ。行こうぜ」 説明が終わるかというところで、沈黙を保っていたリエ・フーが身を翻した。 「あ、おい!」 「聞いてたろ。時間が無え」 呼び止めるグランディアに振り向きもせず、リエは応じた。 そのそっけない言葉と行動に、今為すべきことと、想いが秘められている。 単なる同情か。あるいは、生存者の年頃と境遇に自身を重ねているのか。 それとも、ほんの気まぐれだろうか。傍目には判らない。 だが、少なくともリエは己に対して、たったの一言で片を付けていた。 (乗りかかった船さ) その心を知ってか知らずか。虎は慌てて虎の名を持つ少年の背を追った。 皆も、ふたりに続く。ジャックとほのかを除いて。 ほのかは初動が遅れただけだが、ジャックがいつまでも谷底を眺めているので気にかかり、声をかけた。 「……どうしたの? リエさんといいあなたといい……少し変よ」 ほのかの感想は、この地に至るまでの最中との比較でしかない。 ただ、軽口ひとつ無いリエと、陽気さをみせぬジャックに違和感を覚えた。 依頼を受けた者として今の状況を重く見ているだけなのか。それとも。 「――へっ」 ジャックは「ナンでもねェヨ」とシニカルに笑い、振り向いた。 そして、ほのかが相槌する間もなく、仲間達に追い付くべく、文字通り飛んで行った。彼らしい、少々品の無い大きな笑い声を伴って。 「…………そう」 ほのかは果たして気が付いただろうか。 蚕の群れを見ていたジャックの眼差しが、敵意で満ちていたことに。 彼の故郷では、虫は人に仇なす忌まわしい存在でしかなかったのだ。 ● 「ギャハハハハ! 俺サマは半径50メートル最強の魔術師だッてェの!」 ジャックが手をかざすと、轟音と共に放射状に稲光が迸る。 その方角で蠢く蚕たちは弾け飛び、瞬く間に消し炭と化してゆく。 リエは勾玉を掲げながら、油断無く周囲に目をやる。 時に撃ち漏らされたものが旅人達に近付くと、宙に顕れた大極図より鎌鼬が八方に飛び出し、また業火が溢れ、切り裂き焼き尽くす。 更にその向こうから迫る蚕に、グランディアとレオナが襲い掛かる。 ふたりは両翼と後ろを交互に駆け巡り、爪で薙ぎ払い、牙をむく。 そして、旅人達の攻め手のことごとくは、効率的且つ効果的に発揮されていた。 ――我らが矛は、仇なす者を遍く穿つ―― ――穂先定むれば逃るることあたわず―― ホワイトガーデンが未来日記に記した内容が顕在化しているのだ。 そうして養蚕場へ向かい進撃する一行の中央では、ほのかがしずしずと歩く。 彼女とて何の支度も無いではないが、なにせ此度は皆あまりに頼もしい。 突破力と結界、布陣、それに高い確実性が伴っている。 今のところ、彼我の距離が維持される為、毒液や糸に当たることも無い。 だが、それでも未だ見渡す限り、養蚕場に近付くにつれ全方位からざわざわと押し寄せてくる。 「流石にきりがないわね」 手近なものを蹴散らし、たん、と軽やかに仲間の傍へ着地したレオナは、少し息があがっていた。 同じく戻ったグランディアも頷き、道程の長さに舌打ちをする。 敵の数の他にも、起伏の多い地形が歩みを遅らせる一因となっていた。 「養蚕場は――くそ、まだ遠いな」 「……皆、平気?」 ホワイトガーデンの問いに、即答する者は居ない。 戦いが長期化すると、肉体的な疲労以上に集中力の維持が難しくなってくる。 ある程度は未来日記で緩和できるものの、常に不確定要素をはらむのが戦場。 未だファージの所在も判らぬ手前、ここで手間取るようでは後に響く。 どうする。 誰もがそう思った時、おもむろにリエが口を開いた。 「なあ、ジャックさんよ。一口乗らねえか?」 「アァン? ナンだか知らねェガ、オレサマは構わねェヨ?」 「決まりだな」 不敵に笑うリエを、皆、怪訝そうに見る。 「――っ!? ヒャッハッハッハ! ナルホドなァ!」 次の瞬間、ジャックもまた仰け反って笑うので、益々不審に思った。 数秒後。 一行の前方では先程よりも激しく荒々しい雷光と炎が乱れ飛び、瞬く間に道が切り開かれていった。そこへ、すかさず残りのメンバーが追従し、群れが押し寄せる前に、また、前のふたりが道を作る。 そうして繰り返すうち、旅人達は、ついに養蚕場へと辿り着いた。 薄暗い建物に雪崩れ込んだ一同の視界にまず入ったのは、これまで幾つか目にしたのと同じ、巨大な繭。それに、落ちた梯子や、用途は不明だが養蚕に必要と思しき器具の数々。どれも腐食し、噛み砕かれ、原型を留めてはいない。 そして、建屋中に糸が不規則に張られていた。 情報通りだ。 直後、出迎えたのは――八方からの糸だった。 「チィっ!」 ジャックは念動力で辛うじて防ぐが、急な為、後続を守るには至らない。 他は、真ん中に居たほのか以外の全員が、腕なり足なり絡めとられてしまう。 リエですら、場を慮り派手に力を行使できぬと判じた、その一瞬を打たれた。 「……!」 (どこに居る? まさか降りてきちゃいないだろうな) せめて状況確認を急ごうと生存者を求めて見回すも、辺りはこちらを包囲する二十頭ほどの蚕のみ。 うち十頭の幼虫がにじり寄り、そして――三頭の蛾が毒液を吐き飛ばす。 二発はジャックが異能で弾いたが、残る一発がホワイトガーデンを襲った! 「!」 「いかん!」 あわやというところ、絡まる糸に逆らいながらグランディアが跳ね上がって身を挺し、少女を庇った。じゅう、と虎の脇腹が焼かれ、嫌な匂いがたつ。 「グランディアさん!」 「ぬぅ……貴様ぁ、やりやがったなぁ!」 激痛に苦悶の声を漏らしたかと思えば、しかしグランディアは尚も力任せに突進する。その膂力は太い絹糸もろとも蛹を振り回す勢いだ。今にも噛みつかんとしていた幼虫を踏みしだき、一足飛びで憎き蛾に突撃した。 同時にジャックも真空刃を二頭の蛾に放ち、共に両断する。 この間に、ほのかが袖に隠し持っていた鋏とリエの小さな鎌鼬で、皆次々と束縛から解き放たれつつあった。 如何に狭くとも身動きが取れれば、たかが二十頭などとるに足らない。 旅人達は、ほどなく養蚕場を制圧した。 ● レオナがすん、と鼻を動かし、首を仰ぐ。 「生きた少女の匂いがするわ」 ひとまず、最悪の事態は免れたらしい。 一同もそちらを向けば、建屋の奥で、間仕切りは無いが上下二階層に隔てられた場所を見出すことができた。と言っても、一階部分が広く取ってあり、収穫済みの巻き取られた絹糸が大量に積み上げられている。 ほのかが丁度「あそこ……」と二階部分を示したのとほぼ同時に、その足場から誰かがこちらを覗き込んでいた。 「あら……?」 「おおい! 無事か!?」 「こ、こ、こここないでええ!!」 確かに少女の声。しかし、ひどく怯えている。 グランディアやレオナの姿が原因、というのでもなさそうだが。 「参ったな。どうする」 「決まってンダロ!」 ジャックが意地の悪い笑みを浮かべて浮揚し、二階と同じ高さのところで止まる。 少女が驚き、慌てて壁際まで後ずさりした。 人間が宙を飛んで、見る間に迫ってきたのだから、無理もない。 「いヨォ嬢チャン」 「ひっ! い、い、ひ、やだ……やだあ、もうやだあぁ……」 終いには座り込み、とうとう泣き出す始末である。 ジャックはばつが悪そうに頬を掻きつつ、自身が抱いていたある疑念を払拭する為に精神感応を試みた。 寂しさ、悲しみ、恐怖がないまぜになって、ジャックの頭に流れ込む。 穏やかな里で健やかに育ったこれまでと、その最中で起きた凄惨な事件。 優しきも温もりも、全て、豊かさをもたらしてきた蚕によって壊された。 「おいコラてめぇ! 助けに来た奴がびびらせてどうすんだ!」 「ギャハハハ、ワリィワリィ」 (ファージじゃアなさそうダナ) 少なくとも、少女には邪な敵意のこもる濁った感覚は無い。 下から響くリエの苦言を適当に流しながら、ジャックは僅かに気を緩めた。 「私達も上へ行きましょう。――ジャックさん、これをお願い」 ホワイトガーデンはジャックを呼び戻し、用意していた縄梯子を手渡した。 やがて上から吊り下げられたところで、グランディアとレオナが入り口を睨む。 「見張りが必要だ。俺達は残ろう」 「ええ。気になることもあるしね」 これに対し、ホワイトガーデンは申し訳無さそうに虎の脇腹を見遣った。 「……グランディアさん。さっきの傷、大丈夫?」 「どうってことはない。すぐによくなる」 「ありがとう。無理はしないで。レオナさんも気をつけて」 「任せてちょうだい」 「何かあれば知らせる」 「お願いします」 ホワイトガーデンは、ふわりと頭を下げてから振り向き、慎重に上り始めた。 「……気になることってのは?」 「おかしいと思わない? 他の建物は潰れてるのに、この養蚕場は無事。そりゃ原形留めてる家は他にもあるけど。でも、ここが一番まともだわ。――それに」 相棒の思わせぶりな口調に、グランディアが「何だ?」と、広く開け放たれた入り口からは目を離さず、先を促す。 「外であれほど襲ってきた蚕の群れが、なぜここには近寄ろうともしないの?」 「よく頑張ったな。もう大丈夫」 リエは少女の頭をぽんぽんと叩き、優しく言った。 彼女としても心細かったのだろう。リエの姿を見るなり胸に飛び込んできて、以来、ずっとしがみ付き、泣きじゃくっている。 「どうも気に入らねェナァ」 「どうしたの?」 未だ少女の泣き声が止まぬ最中、腕組みするジャックの言葉にホワイトガーデンがきょとんとした。 「例の主観ダヨ」 「主観って、ガラさんが視た景色のこと?」 「…………そういえば」 ふたりの遣り取りに、ほのかが口を挟む。 「まだ、人が居そうな素振りを……」 「それヨ。あの調子デ『集落の生存者は一人』ってのガ引っかからねェカ?」 ジャックは当初、それがファージ寄生体の目を共有していたのだと考えていた。 ガラに精神感応した折の歪みとしこりに、人間離れした意識を感じたからだ。 「ま、ミュータントのオレサマが言えた義理じゃねェケドなア!」 ヒャハハと笑うジャックに、少女がびくりとして、おさまりかけた涙がまた溢れ出してきたようだった。 「ジャックさん……!」 ホワイトガーデンが「め」と言わんばかりにジャックをたしなめる。 その向こうでは、リエがちょっぴり恨みがましい目をこちらに向けていた。 ジャックは、どうどうと両掌を向けて誤魔化す。 「その子が落ち着くまで、動けそうにないわね。…………少し、見て来るわ」 ほのかは再度幽体離脱すべく、壁にもたれかかろうとして、はたと気付き、小さな包みと竹筒をホワイトガーデンに差し出す。 「泣き止んだら……食べさせてあげて。……じゃ……あ………………」 「あ……!」 ホワイトガーデンは呼び止めようとしたが、既に意識が明滅していたほのかは、一度激しく痙攣し、それからすぐにぐったりして、動かなくなった。 ● ほのかの意識体は、まず己の肉体の所在を確かめ、次いで先刻同様それを気遣うホワイトガーデンを認識した。 ――放っておいてくれてもいいのに。優しい子。 届かぬ声をその場に残して、ほのかは屋外に抜け出した。 どこから捜したものだろう、と暫しぼんやり漂ってみる。 相変わらず地面は真っ白に蠢く中、戦いの跡もないのにみとめられる、そして、ところどころで動かなくなった個体。寿命か、飢えによるものか。 ――いずれにせよ儚いものね。……羨ましい。 束の間、蚕に淡い憧憬を覚えて、ふと、ある考えが連想された。 傷ついたまま外へ逃げて、動けなくなった人が居るかもしれない。 思い至ったほのかは、里が一望できるあの場所の近辺から捜すことにした。 風さえ素通りする生霊は、波間を潜るより遥かに容易く飛び、別段急がなくとも僅かな時間で目的地が見えてくる。 ――? 遠目に、断崖の淵に立つ、複数の人影が窺えた。 近付くにつれ、その姿かたちもはっきり判る。 黒ずくめのスーツ姿で、白髪まじりの壮年男性。帯刀している。 隣には、全身が金属質の青銅色で、ところどころ接合部の筋がある、女性の人形が並んでいた。こちらは素手だが、よく見ると呪印のような禍々しい文字があちこちに刻まれている。 ――……誰。 ほのかが疑問を意識した瞬間、女性人形の呪印が鈍く光った。 「霊体を検知しました。今のところ攻撃意思はみとめられません」 「この辺りに竜刻でもあるのか? だったら何が湧いても不思議じゃあない。里の者の魂ならば放っておけ」 「集落の元構成員ではありません。ロストナンバーです」 「馬鹿、先に言え! どの方角だ!?」 柄に手を伸ばす男の剣幕に臆す様子もなく、人形は無表情のまま、首だけをスムーズに上へ横へと動かし、正確にほのかの腹を直線に捉えた。 ――これは……まずい、かしら。 「捕捉しました。方位、私の顔の向きからほとんど真っ直ぐ。距離、だいたい26フィートぐらい」 「どっちつかずな表現はやめろ! ――破っ!」 男が抜いた居合いは、横一文字に空間をひずませながらほのかに向かう。 しかし、幽体はすんでのところで霧散した。 「反応、急速に遠ざかりました」 「……外したか」 「距離28。44。70。150。いっぱい。もう見えない」 「読み上げるのが面倒なら最初から数字なんか使うな」 「大きなお世話です。追撃しますか?」 「いいや。下手な深追いは怪我の元だ。他にも居るようだしな」 「了解しました。この根性無し」 「黙れ。一旦戻るぞ」 同じ頃、養蚕場では事態が急変していた。 それまでは無目的に方々へ動き回っていただけの蚕たちが、突然入り口に押し寄せてきたのである。 「おい! きやがったぞ!」 グランディアはすぐに叫んだが、二階の面子が下を見る頃には、既に虎と豹が侵入してくる虫を相手に大立ち回りを繰り広げていた。 しかし、数に圧され、全てを食い止めることは適わない。 「クックックッ、イイぜェ虫ドモ! 売られた喧嘩は利子付きで買ってやらァ!」 獣達の足元を抜けた蚕に真空刃を放ちながら、ジャックは飛び降りた。 一方、平静さを取り戻しかけていた少女は、全身全霊の恐慌を以ってこの災禍を拒絶した。里の者が喰われていく様を思い出したのだろうか。 「いやあああああああああああ!」 リエが、咄嗟に少女を引き寄せて諌めた。 少女を抱き締めたその手に対の勾玉を握り締め、リエは来るべき時に備える。 ホワイトガーデンも、未だ戻らぬほのかの身体を保つ為この場を動かず、その代わり皆の健闘を未来日記に記し、見守った。その能力は『然るべき事柄』であるほどあらたかなる効果を発揮する。 ゆえに今、階下で戦う仲間達は危うくも息の合った戦いぶりをみせていた。 しかし、妙だ。 「なぜ、急に襲ってくるようになったのかしら」 ふと、ホワイトガーデンが呟いた。 先にレオナが示した疑問と通ずる問いであり、誰もが腑に落ちない点だ。 「……さっきよりも本格的にファージが絡んできてるのかもな」 リエがひとつの仮定を投げかける。思惑までは読めないが、不可解ながら統制の取れた蚕たちの行動は、ファージ寄生体の意図したものに違いない。 「じゃあ、今また私達を狙うのは」 「ああ。まだ外に居る奴らに混ざってるのか、とっくに建屋に紛れ込んでおすまし気取ってやがるのか知らねえが」 「近くまで来ている……ということね」 糸の切れた人形のようにしていたほのかが僅かに身じろいで、リエの台詞を補完した。 「ほのかさん!」 「…………悲鳴が聞こえたから」 「収穫は、と聞きてえところだが」 「ええ……それは後。まずは…………」 この場を治めなくてはならない。 ● 一階では引き続き、グランディアとレオナ、そしてジャックが手当たり次第に撃退している。これをホワイトガーデンの未来日記が援護し、ほのかが一頭の蛾に取り憑いて、周囲の虫を毒液で溶かして回っていた。 それでも養蚕場の中は、じわじわと蚕が増えていく。 屋内ゆえに広範囲に及ぶ力を出し難いのも災いしているようだ。 (このままじゃジリ貧だな) リエは、腕の中の少女を見た。 (そろそろいけるか?) まだ震えてはいるものの、先刻のように泣き喚く様子はない。 「おい、少しは落ち着いたか。……話せるか?」 少女は胸に顔をうずめたまま、無言で頷いた。 「俺達は、蚕を操る親玉を退治する為に来た。ここまではいいな?」 また、頷く。 「ただ、俺達には他の蚕と見分けがつかねえ。だから――力を貸して欲しい」 「ちから……?」 「ああ、そうさ。親兄弟の仇、討ちてえだろ」 「う、うん」 「いい子だ。じゃ、まずは下を見てみろ」 少女がリエに支えられるようにして一階を覗き込む。 蚕たちが床という床を駆け巡り、全方位から旅人達に登り噛み付こうと集う。 今のところレオナとグランディアは常に駆け、ジャックなどは浮いている。 また、当然ながら誰もが絶え間なく攻め続けており、捕らわれてはいない。 だが、それもいつまで保つか。 「何千、何万って蚕を見てきた目と勘を信じる。他と様子の違った個体、怪しい動きをしてるヤツ……なんでもいい。教えてくれ」 「……うん」 「頼りにしてるぜ」 ホワイトガーデンはふたりの会話の流れから閃きを得ていた。 彼女もまた、未来日記の力でファージを見つけられないかと思案していたのだが、どうにも不自然さが拭えず、頭を悩ませていたのだ。 読み手を納得させられない演出は、書いても効果を示さない。 だが、ほんの少しの違いを出すだけならば、発動率は高められる。 ――偽り、侵す者は、自らが残した僅かな綻びに気付かない―― ――人は、やがて真理を以って、歪んだ糸の端を掴むだろう―― ――例えば数多の蚕を識る少女が、絹のほつれを除くように―― 少女が、あっと声をあげたのは、ホワイトガーデンが書き終えて間もなくだった。 「あの繭、少し大きい気がする。それに、なんだかでこぼこしてるよ」 「でこぼこ?」 ホワイトガーデンは目を凝らしてみるが、やはり素人目には判然としない。 「普通はもっと綺麗な形だもの。でも……あれ、少し窪んでる」 「間違いねえのか?」 「うん。うん……そう。まるで穴の上から糸を巻いたみたい」 「成虫がかえった時の穴が塞がれている、ということかしら?」 「うん」 「よし。――――おい、繭だ! 繭を潰せ!」 階下で忙しなく立ち回る仲間達に、リエが大声で伝えた。 レオナとグランディアは周囲からの毒液や糸を巧みに避けながら、互いに交差するように飛び交っては、爪で繭を引き裂いた。 その度に、繭を繭たらしめている絹糸がぶちぶちと千切れ、削がれていく。 次第に層は薄くなり、そろそろ中身が見えるかという頃。 じわりと、内側から中央に穴があいた。 穴は徐々に広がり、潜んでいた何者かが見え隠れする。 「ヘッヘッヘッヘッ、会いたかったゼェ?」 その真正面を、ジャックが獰猛な笑みを浮かべながら漂う。 これまでは拡散していた刃を、傍らの宙、一点に集束させて。 対して、ほぼ全身が窺えるようになったその生物は、やはり白かった。 一言で形容するなら、骨格の備わった蚕蛾。 しかし、毛も生え揃わず生々しい地肌が露出している。 ぶるぶると震えながら身をよじる動作は、生まれたての赤子のよう。 「ナンダヨ、ズイブン調子ワルそうじゃねェか。えェ? オイ」 悪態をつくジャックに向け、それは形容し難い奇声を放ち、威嚇した。 だが、次の瞬間には、ジャックによって真っ二つにされていた。 「ハン、雑魚が」 一行が養蚕場を出たところで、グランディアの耳がぴくぴくと動く。 すぐに他の者にも聞こえた。遠くで、風が鳴っている。 「あれは……?」 レオナは、あの丘を見ていた。皆、それに倣う。 里を望んだ地点に程近い場所だ。木々の狭間から上昇する――円盤。 「そう……よね。身ひとつで来れるはずがないもの……」 ほのかが呟いている間、円盤は唐突に右へ左へと急速に行き来し、その都度高度が上がっていき――ついには空の彼方へと、消えた。 後に、ほのかは語った。 妙なふたり組との遭遇。それぞれの容姿。幽体でありながらそのうちひとりに見つかり、また、もうひとりに攻撃されたこと。 そして、ふたりには、真理数が無かったということを。 ● ファージの宿主が討たれて、蚕たちから明らかに攻撃意思が消えた。 時折、糸をあらぬ方へ吐き飛ばす蛹も見受けられたが、そういうものなのだと、少女が教えてくれた。また、遠からず皆、逝くだろうとも。 いずれ土地が元に戻ったところで、そこには桑の葉も人の姿も無いのだから。 素性の知れぬロストナンバーのことも気に懸かる。 決して晴れない冬の曇り空のような、薄ら寒くて落ち着かない心地。 ならばせめてと、ホワイトガーデンは祈りを込めて筆を執る。 ――降り積もる雪を。汚れを覆い、浄化するように――
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