「どうして! なぜ、おじさまが『ホワイトタワー』に入れられなきゃならないの!」「館長自身のご希望ですので」 アリッサの必死の訴えにも、ウィリアムはいつも鉄面皮を崩そうとはしなかった。 救出以来、体調がすぐれず、静養を続けていた館長エドマンド・エルトダウンであったが、先日から、ターミナルのはずれにその入り口をもつチェンバー『ホワイトタワー』に、起居することとなっていた。 この事実は、人々の間にさまざまな憶測を呼んでいる。 なにせ『ホワイトタワー』は、堅牢な城砦のチェンバーで、習慣的には、「ターミナルにとって不都合な存在」を収監する場所として使われてきた場所だったのだ。 長年、使われることはなかったが、せんに、かのカンダータ軍の捕虜がこの建物に収容されていたことは記憶に新しかった。かれらを解放した後、霧の海に浮かぶ白亜の城は、ふたたび、眠りについたかと思われていたのだが……。「でも……おじさまは、そのう……病気なんでしょう?」「わかりません」 沈痛な面持ちで、リベル・セヴァンが応えた。「あの《人狼化》の原因は不明です。館長自身は何もお話になっていただけませんし……司書たちで記録を調べているのですが、めぼしいものが見つからないのです。あくまで対処として――館長のご希望どおりにですね――今回の『隔離措置』とさせていただきました」「……」「しかしこのことを逆手にとって」 ぐっと唇を噛んだアリッサに、ウィリアムが語りかける。「館長の容態の悪化を口実に、あらゆる面会は謝絶としています。……ファミリーの方であっても、です」「意味がないわ」 しかしアリッサは言うのだ。「クリスマスのお茶会でおじさまは言ったの。“不用意に口に出してはならないことがある。今ここで簡単に言えるようなことなら、私はそもそもこんな方法はとらなかっただろう”って――。私が馬鹿だったわ。おじさまをターミナルに連れ戻したのが失敗だったの」「それは、どういう……?」 ウィリアムとリベルは疑問符を浮かべたが、アリッサはもうそれ以上、口を開くつもりはないようだった。 † † †「お願いがあるの」 アリッサ・ベイフルックは言う。「今まで、何度、無茶なお願いをしてきたかしら。今度という今度は、最高に無茶なお願い。私は知りたいの。おじさまが旅に出た理由。おじさまが探し求めた『世界を救う方法』……その方法で救わなくてはならない『世界の危機』って何なのか。でもその答えは、ここではだめなの。おじさまは約束してくれたわ。あの場所でなら、すべてを話す、と。だから私はあの場所で、おじさまとお茶会を開きます」(あの古木戸の向こう側。ふたりでいつもサンドイッチを食べた場所) 館長の言葉を、アリッサは思い出している。「……あの場所っていうのはね、私が生まれ育ったところ。壱番世界のイングランドという土地にある、私がもと住んでいた家よ。私のパパ……建築家だったパパが建てたお家。パパは家にいろいろな仕掛けをするのが好きだった。そこに、私と、パパと、そしておじさましか知らない秘密の場所があるの。そこでおじさまにすべてを話してもらうわ」 ターミナルには、再び、『夜』がきていた。 常ならぬ闇の帳の下で、0世界の街は、静けさに包まれている。 目前には、荘厳な彫刻で飾られた石造りの門。その向こうが、『ホワイトタワー』であった。「そのために、みんなにお願いしたいの。まずひとつめは、『ホワイトタワー』からおじさまを連れ出すこと。私が館長代理として命令を執行すればすぐにできることだけど、それをしたらウィリアムや……もっと他の人にも知れてしまう。だからこっそり。……といっても、誰にも知られないようにというのはムリね。許可なく『ホワイトタワー』から収監者を連れだそうとすれば、あのチェンバーの番人が黙っていないから。かれら――『レイヴン』たちと戦って、おじさまを連れてきてもらう必要があるの」 『ホワイトタワー』の、いわば獄卒であるところの、『レイヴン』なる一団がいるのだという。 アリッサの話では、普段は眠りについていて、脱走者がいるときだけ動き出すそうだ。人というよりは、自動の防衛機構のようなものであり、容赦なく攻撃を仕掛けてくるだろうが、逆にこちらも遠慮なく応戦すればよいと、館長代理は勇ましく言った。「そして次。無事、脱出できたら、私が案内するから、道中、おじさまを護ってほしいの。行き先は壱番世界だけど、ロストレイルは使えないわ。ファミリーの誰かならロストレイルの帰還命令を出すことができるから、すぐに連れ戻されてしまう。だから別の方法を使います」 さらりと告げられたことに、聞くものは驚く。ロストレイルを使わずに、壱番世界へ移動するとは……?「壱番世界の人間が、0世界を発見したってことを忘れた? そうよ。壱番世界だけが、0世界と『直接、繋がっている』の。アーカイヴ遺跡の中にある、『ラビットホール』を通じてね」 それがアリッサの計画だった。「よく考えてね。これは館長代理ではなく、私個人からのお願い。もちろん『ルール違反』よ。場合によっては、私も、みんなも世界図書館から離反したとみなされるわ。そのことをよく考えてね。それでも……引き受けてくれるという人だけ、私と一緒に来てほしいの」===!注意!============以下の4つのシナリオ(長編シナリオ)は同じ時系列で起きた出来事を扱っています。・『【建築家の視る夢】シークレット・ルーム』・『【彷徨う咆哮】ホワイトタワーの脱獄者』・『【彷徨う咆哮】アーカイヴの逃亡者』・後日公開予定のある特定のシナリオ従いまして、『【建築家の視る夢】シークレット・ルーム』にご参加の決定している以下の方、東野 楽園(cwbw1545)様、シヴァ=ライラ・ゾンネンディーヴァ(crns9928)様、ヴィヴァーシュ・ソレイユ(cndy5127)様、ロディ・オブライエン(czvh5923)様、流鏑馬 明日(cepb3731)様は、このシナリオへの参加・抽選エントリーをご遠慮下さい。また、『【彷徨う咆哮】ホワイトタワーの脱獄者』『【彷徨う咆哮】アーカイヴの逃亡者』への両方の参加・抽選エントリーもご遠慮いただきます。重複参加があった場合、重複参加者の方の参加は取り消されたうえ、参加者枠がそのぶん減った状態でシナリオに挑んでいただくこととさせていただきます。このシナリオの参加者は、状況やプレイングによっては重傷や拘束などのステイタス異常に陥る可能性があります。あらかじめご了承下さい。===================
1 「あとは任せて」 ティリクティアは言った。 館長は、李飛龍とリリイ・ハムレットをともなって、約束の場所――限られたものしかその存在を知らないターミナルの地下にあらわれた。 アリッサとともに館長を迎えたのは、ティリクティアのほか、コレット・ネロ、ベルダ、そして三ツ屋緑郎。 「これから、どうするんだ?」 飛龍が訊いた。 「予定通り、アーカイヴを抜けて壱番世界へ行くわ。本当に、ありがとう。じゃ」 アリッサの声には焦りが感じられた。 当然だろう。ルーレットは回り始め、後戻りは許されない。ホワイトタワーから館長が脱獄してしまった以上、一刻も早くターミナルからも脱出しなければならないのだ。 合わせて6人となった一団は、アリッサに先導されて闇の中へ踏み行ってゆく。 「ねえ、アリッサさん」 コレットが訊ねた。 「壱番世界に繋がっているっていう『ラビットホール』は、ひとつしかないの?」 「そうよ。どうして?」 「いえ……もしいくつかあるのなら、あまり知られていないほうを使ったらどうかと思って」 「誰かがラビットホールの前で待ち構えているかも、って?」 言ったのは緑郎だった。 「ええ、ちょっと嫌な予感がするの」 「どうだろう。館長を捕らえようとしている人たちは、よくラビットホールを使うの?」 「いいえ。ほとんど使われることはないわ」 「それなら、いいんだけど……」 コレットは不安げだった。 「で、あんた、大丈夫なのかい。その……『狼』は」 と、ベルダ。これは館長へ向けた言葉だ。 「ああ、不思議なほど今は安定している」 ここまでの道すがら、館長からは『狼』にまつわる話を聞かされた。 館長の居所を見つけるため、『ファミリー』と呼ばれる図書館上層部の面々が考えたのが、チャイ=ブレの力を借りることだった。アーカイヴに保存されているエドマンドの情報から生み出された『狼』はおのれの欠けた半身をもとめるかのようにブルーインブルーで彼を見つけ、ディラックの空を駆けるロストレイルの車内にまで入り込んだ。エドマンドは自らの肉体に『狼』を融合させることで難を逃れたが、その混乱により破損したロストレイルはカンダータへ不時着することとなる……。 「まったく、あんたのオジサマは、失踪したり狼に変身したり……忙しい人だよ。ま、危険な事は昔っから慣れっこだけどね」 ベルダはアリッサへウィンクしてみせた。 アリッサは微笑で応えた。 「ね、おじさま。先にひとつだけ、聞いておきたいの」 「なんだ」 一団は、手にしたランプの灯りを頼りに、地下の道を歩む。 ターミナルの地下にこんな空間があり、縦横無尽に地下通路が続いていることを知っているものがいただろうか。そしてこの道は、そのまま、ターミナルの礎である『アーカイヴ遺跡』に繋がっているのだという。 「『ファミリー』の中で、誰が敵で、誰が味方なのか」 「そういうことを言うものじゃない。みな、きみと私の実の親族なのだぞ」 「もう100年以上、顔さえ見たこともない人だっているのに? 自分のチェンバーに引きこもって、図書館のことも、ロストナンバーのことも、異世界のことも関心を持たない人たちばかりだわ」 ティリクティアは、館長がなんと答えるか、期待をこめた瞳でアリッサとエドマンドを見比べた。 緑郎は、どこか引いたような目でなりゆきを見守っていた。 ベルダは、思考を巡らせる。 (世界図書館の人間の中に謀反を起こそうとしてる奴がいるんじゃないかい?) あのクリスマスのお茶会で、会ったとき、彼女は館長にそう言ったのだ。 彼はこう答えた。 (そうとも言える。きみの想像したのとは違う意味でだろうがね) その意味が、今はわかる気がする。 謀反を起こそうしているのは館長のほうだ。 200年にわたり、『ファミリー』がつくりあげ、維持してきた体制を壊そうとしている。 「レディ・カリスに、私は憎まれてる」 アリッサは言った。 「それは違う」 「違わないわ!」 アリッサは強く言い返した。 コレットは、二度ほどまみえたことのあるあの美しい貴婦人のことを思い出す。そして、彼女の薔薇園で、裸足で正座させられ、詰問されていたアリッサの姿。それを思い出すと、コレットは自分のことのように辛く感じた気持ちが甦ってくるようで、そっと唇を噛んだ。 「レディ・カリスが私を嫌っているなら、ヴァネッサおばさまも私を良く思っていないのかしら。ふたりは友達よね? じゃあ……ロバートおじさまはどうなの?」 「アリッサ。私の行動が理解されなかったのは、何も個人的な人間関係が理由じゃない。チャイ=ブレとファミリーの契約の解釈をめぐって意見の対立があっただけだ。その詳細はここでは話せない。……そろそろアーカイヴに至る」 エドマンドがランプを掲げた。 石造りのアーチ状の門――重々しいかんぬきをかけられた、鉄扉が、灯りの中に浮かび上がった。 2 入り組んだ石の通路は、どこまでも続いているようだった。 「アリッサさんは……アーカイヴ遺跡には何度も行ったことがあるのよ、ね……?」 緊張した面持ちで、コレットが尋ねる。 「ふふふ、コレットさんが歩いているここがもうアーカイブだよ」 「え!」 「そうなのかい?」 「気付かなかったわ。どこからがそうだったの? さっきの扉から?」 「どこからがどう、とはっきり区別するのは難しい」 驚く面々に、館長は答えた。 「少しずつ、アーカイヴは拡張され、それがいつしかターミナルになったのだから。今まで通ってきた地下部分も、かつては地上にあって、町だったところだ。ターミナルが増築に増築を重ねたため、あのような多層構造ができあがった」 「あの……館長――エドマンドさんは、ラビットホールを通ってこの0世界に来られたんですよね」 「いかにも」 「おじさまのあとを追いかけて、私が来たのよ。そのおかげで、私もロストナンバーになった。そうでなかったら、きっと私は200年も前に、普通の人間のまま一生を終えていたはずだわ。私のママがそうだったように」 アリッサの話を、エドマンドは厳しい表情で聞いている。その様子を、緑郎が盗み見る。 「でもアリッサのお父さんはロストナンバーだったのじゃなかった?」 とティリクティア。 「そうよ」 「モフトピアでお父さんの建てた家を見たわ。ロストナンバーの皆の為の館、いい家だったと思う」 「これから行く家もそうだよ」 「そう……。でもアリッサのお父さんは、変わり者なのかもね」 「あたり。あのね、いろんなところに、メモを書いちゃうの。家中、いろんなとこによ」 アリッサはくすくすと笑った。 「あ、そうそう。アリッサはちゃんと、お茶会の道具、持ってきた?」 「え?」 「だってお茶会をするんでしょ?」 「ええと、それは」 半分は言葉の綾だ。 「そんなことだろうと思って、持ってきてあるよ」 ティリクティアは自分の荷物――ピクニック・トランクを見せた。 「ありがとう。……楽しいお茶会にしたいと思うわ」 アリッサの反応に、ティリクティアはにっこりと笑う。 そんな話のあいだ、ベルダはときおり、トラベラーズノートを開いている。 「何を?」 「ちょっとね。ささやかな撹乱」 緑郎の質問にそう答えた。 彼女は自分たちの居場所をまったく違うところと偽って、誰かれ構わずエアメールを送っていたのだった。 「……ずいぶん落ち着いているじゃないか」 ベルダは緑郎に聞き返す。 「そう? これでも緊張しているよ。立ったことのない舞台だからね。ベルダさんこそ」 「私は――言ったろ、危険にゃ慣れてる。大きな賭けをするのも」 そして、館長へと紫の瞳を向けた。 「それにしても、あんたも罪な男だよ。あんな可愛い娘に、こんな思い切ったことをさせて」 「私は誰も巻き込みたくないつもりでいて、結果的に大勢を巻き込んでしまっている。アリッサは、レディ・カリスが自分を憎んでいると言ったがそれは違う。彼女が本当に憎んでいるのはこの私だ」 「へえ、そうなのかい」 「それで逃げまわってたなんて言わないでしょうね」 緑郎がぼそりと言ったのへ、エドマンドは苦笑するしかない。 「手厳しいな。さすがにそういうわけでは……いや、どうだろう」 「あなたたちの反目の理由がなんだか知らないけど、もしファミリーの私的な事情があるっていうんなら、いったい何人のロストナンバーがそれに付き合わされてるんですかって話でしょ」 「きみの言う通りだな。しかし……200年にわたってこじれてしまった感情の糸を解くのも、そう容易いことではないのだと、私は言うほかはない。……と、この先、少しのあいだは静かにしたほうがよさそうだ」 ふいに、視界が開けた。 「……わあ」 思わず、コレットは声をあげる。 通路の片側が開けて、巨大な吹き抜けの空間をのぞむテラス状になっていたのだ。 「気をつけてね」 アリッサが注意する。そおっと、コレットは下をのぞきこんでみるが、とても高い。おそらくビルにすれば10皆ほどはあるのではないか。ランプの灯りなどとうてい届かないはずだが、ところどころ、壁や、底のほうの地面の各所にぼんやりした光があって、広々とした空間の全容を視界に収めることができた。 「底に水があるみたい」 「そうね。地下水が流れ込んでいるのかも」 「あの光は何なの?」 「苔みたいなものよ。アーカイヴの中だけに生えるの」 「そうなんだ……」 周囲は耳が痛いほどの静寂だ。 その静謐の中に、声をひそめて囁き交わすふたりの会話さえ、大音声で響き渡るように思えた。 「この場所は、ずっと昔からあるんでしょう?」 「そうよ。私たちが見つけたのが200年前。でもそれよりもはるか昔から存在していたの。もしかしたら、壱番世界ができる前からね」 にわかには、信じられない話だった。 テラスを通り過ぎると、再び、通路は四方を石壁に囲まれたものになったが、だんだん天井が高くなってきているようだった。 そして。 「もうすぐよ。この先が――『ラビットホール』だわ」 3 「これが――そうなのか」 ベルダがうたれたように言った。 不思議な光景である。 ぐるりと石壁にとり囲まれた円形の部屋だ。天井は高く、闇に沈んでいる。 部屋には何もない。 だがその空間に、忽然と、穴が開いているのだ。 ぽっかりと、空中に開いた、直径3メートルほどの穴は、たしかに奥行きを感じさせるものの、その向こうを見通すことはかなわない漆黒の奈落であった。 コレットはそおっと、回りこみ、『ラビットホール』を横から観察してみた。それには「厚み」がないようで、まったく真横から見ると見えなくなった。 「この穴に入るの?」 「そうよ。あっという間に壱番世界だわ」 「へえ、便利じゃないか。こう言うの何て言うんだっけ? 裏口入学だったかい?」 ベルダの軽口に、アリッサは微笑む。そして彼女は同行者たちに向き直った。 「みんな、一緒に来てくれて本当にありがとう。心配していたけど、無事にここまでたどりつくことができたわ。私とおじさまは壱番世界へ向かいます。みんなは……」 「私も一緒に行きたい」 ティリクティアが言った。 「……私も」 と、コレット。 「ま、当然、そうなるだろうさ。こんな機会、またとないっていうのに」 ベルダが笑う。 「……そうよね」 アリッサは頷いた。 「そう言うと思ってた。いいわ。でも、今ならまだごまかしがきくけど、私と一緒に向こうへ行ったら、そのときはもう申開きができなくなるのよ。みんなはルールを破って私に協力したことに――」 「いや、それは違うね」 誰も予測していなかった。 だから、緑郎がアリッサの隙を突くことは充分に可能だったのだ。 ランプの灯りを鈍く反射した細い金属の鎖――緑郎とアリッサの手首とが、ひとつの手錠によって繋がれていた。 「え……っ」 「あんた!」 反射的に、ベルダがトラベルギアのコインケースに手を伸ばした。 「聞いて! レディ・カリスがロストレイルで壱番世界に先回りしようとしている」 緑郎は言った。 「しかもそれをトレインウォーだと言って、無名の司書さんを指揮官に任命して連れ出したんだ」 「どういうことなの? アリッサさんを放してあげて!」 コレットはただ緑郎の行動に驚き、アリッサを案じる。 「だから、司書さんがレディ・カリスの人質にされてるんだって。レディ・カリスは13人もロストナンバーを連れて、あちら側で僕たちを待ち受けるつもりだ。司書さんを握られてる以上、乗車した人たちはカリスに逆らえない」 「そんな」 アリッサが言葉を失う。 「レディ・カリスのほうが上手だったよ。だから」 緑郎はエドマンドに向かって言った。 「貴方は先に行って。シナリオはこう。僕は貴方と取引をした。そして貴方を連れ出し、アリッサを脅して『ラビットホール』へ案内させた」 「きみは自分が罪をかぶるつもりなのか」 エドマンドはすべて察したようだった。 「うそ! どうしてそんな……」 ぱん、と乾いた音がアーカイヴの暗くよどんだ空気を震わせる。 緑郎の平手がアリッサの頬を打ったのだ。 「なぜこうなったかは自分で考えて。今、楽な方に逃げる事は許さない。押付けがましいとは思うけど他に方法がない」 「……」 「緑郎さん、でも、アリッサさんの気持ちも考えてあげて。やっと会えた館長さんと話をするためには壱番世界に行く必要があったのよ」 黙り込んだアリッサに代わって、コレットが言った。 「だからって、こんなことをして、結果的にレディ・カリスにトレインウォーまで起こさせる口実になっただけじゃないか」 「つまりあんたが言いたいのはアリッサの立場を温存しないとまずいってことなんだな」 と、ベルダ。 「館長はセクタンを封印してまで逃げ続けたり、『人狼化』の症状まであって、立場が危うい。それでなくてももともとファミリーと対立していた――だよな?――、そのうえ、アリッサまでもが掟に反して万一、館長代理の権限を失うことにでもなれば誰もレディ・カリスに逆らえなくなる。そういうことだな?」 「悪いけど、みんなにも選んでもらうよ」 緑郎は告げた。 「ひとつは僕の共犯を演じてもらう役。もうひとつは、アリッサ同様、人質にされたという役。申し訳ないけど、この脚本に他の配役は用意してない」 「そんな。せめて、それは、アリッサさんと館長さんが、向こうで話ができてからにできない? そうじゃなくちゃ、アリッサさんがせっかく勇気を出して」 「だからもうロストレイルが出発してるんだって! 僕に協力してくれる人たちが何人か乗ってるけど、中にはレディ・カリスに従うつもりのものもいる。このままじゃ、それこそ勇気を出してホワイトタワーから館長を連れ出すのに協力してくれたみんなの努力だって無駄になってしまうんだ」 あくまでもアリッサの目的を果たさせたいとするコレットへ、緑郎は厳しく言い返した。 そのときだ。 なりゆきに口出ししないかに見えていたいたティリクティアが口を開いたのは。 「何かくるわ!」 はっ、と一同は顔を見合わせる。 「三ツ屋くん」 エドマンドが言った。 「私が言えた義理ではないが、今はきみに甘えるしかないのかもしれない」 「おじさま!」 アリッサが鋭い声をあげたのは彼の次の行動を予測したからだ。無情な手錠の鎖が彼女の動きを阻む。 「今ここで私から言えることは、ファミリーは哀れな老人に過ぎないということだ。……アリッサを頼む!」 その言語を最後に、彼は空間に口を開いた漆黒の穴――『ラビットホール』へと身を躍らせる。 4 「おじさま……っ!」 「さあ、アリッサ、くるんだ。僕たちはここで捕まる。館長代理の強制連行は未遂に終わるんだよ」 緑郎がアリッサの手を引く。このまま追っ手におのれの身柄を差し出すつもりだ。 しかし。 「バカーーー!!」 「っ!」 左耳から右耳へ突き抜ける大声。そしてげんこつ! 「ちょ、アリッサ!」 「バカバカバカ! おじさまを逃がしてどうするのよーーー!」 ぽかぽかと、アリッサの拳が緑郎を打った。 「やっとおじさまに、すべてを話すって言質がとれたのよ!? おじさまを一人で逃がしたらまた勝手に抱え込んだままどこかに行っちゃうじゃない! 緑郎さんの言いたいことはわかったわ。でもでも、私は賭けたんだもの。おじさまが隠しているカードは、レディ・カリスたちの手札より強いってことに。壱番世界でカードオープンしたら、きっと勝てたわ!」 「もし勝てなかったら!? きみは世界図書館の責任者だろ、そんな賭けなんかできるような立場じゃないじゃないか!」 負けずに緑郎も言い返す。 「う~」 アリッサは唸った。 「ここにいちゃだめだわ」 混沌とした場に、ティリクティアの言葉が不思議な威厳を持って沁み渡った。 彼女は妙に落ち着いて、静かに言っただけだったが、あるいはそれこそが彼女の《巫女姫》としての力なのかもしれなかった。 「時間もないし、今、きちんとした予知はしてられないから、はっきりしたことは言えないけど、ここにいて捕まるのは良くないことなの。緑郎の考えは正しいかもしれないけど、私の力も信じて。捕まるとしても、ここではだめ」 ティリクティアは断言する。 「じゃあどうする?」 ベルダが皆を見る。 アーカイヴの闇の向こうから、なにか異様な音が近づいてくるのが聞こえた。人間の足音ではないようだが、なにかが来るのは間違いない。 一瞬の隙を突いたのは、今度はアリッサだった。 「えーーーーい!」 「!?」 繋がれた手を引き、一本背負投が決まった。 一同があっけにとられる中、緑郎の身体が『ラビットホール』に呑み込まれ――そしてそのままアリッサも、また。 「……ったく、なんだって、こんなことに!」 ベルダが後を追った。 ならば是非もない。コレット、そしてティリクティアも続く。 『ラビットホール』の闇に視界が閉ざされる寸前、彼女たちは、部屋になだれこんできたものを刹那に垣間見たが、ほんの一瞬目にしたそれはなにかの見間違いではなかったかと、その後、悩むことになる。 それは、色とりどりのセクタンの洪水だったのだ――。 漆黒の中を、どこまでも。 落ちてゆく、落ちてゆく。 なにも見えず、なにも聞こえない。 そして。 耳をつんざいた、雷鳴――! ごう、と冷たい雨風がかれらを出迎えたものだった。 「なに……ここは」 びゅうびゅうと唸る風に、枝葉が震えている。 5人は、大きな樹の根本にいる。そして周囲は大嵐だった。 「壱番世界――なの?」 コレットが周囲を見廻すが、豪雨のベールの向こうには、ただ木立の影がぼんやりと見えるばかりだ。ヴォロスの辺境だと言われても見分けはつかないが、アリッサは、 「間違いないわ」 と断言する。 「きみって娘は!」 ひややかに憤る緑郎。 「待って。私、あなたのシナリオに乗るわ」 「……」 「あー、信用してないって目ね! 大丈夫よ。私、お芝居も好きよ。おじさまとロンドンの舞台に見に行ったことだって何度もあるわ」 「見て!」 ふいに、ティリクティアが声をあげ、空を指した。 嵐の空を裂いて、列車が天をかけてゆく。 ベルダがそれを睨んだ。今まで……彼女たちを幾多の異世界へ送り届け、あるいは迎えてくれたそれを、こんな複雑な気持ちで目にするとは思わなかった。あの列車は、彼女たちを捕らえるためにディラックの空を駆けてきたのだ。 「アリッサさん。帽子とケープ、貸してもらうわ」 コレットが言った。 いつのまにか、彼女は荷物から取り出したブルネットのウィッグをつけている。そのうえにアリッサの帽子をかぶり、ケープを肩から羽織る。 「アリッサさん、今は無理だったとしても、いつか必ず、アリッサさんの願いがかないますように」 「コレットさん」 にこり、と微笑むと、コレットは雨の中へ駆け出していった。 遠目には、コレットはアリッサに見えるだろう。それが彼女の狙いだ。 アリッサはその意図を理解する。そして緑郎をひきずるようにして反対方向へと駆け出す。 「こら、アリッサ! 乗るっていっただろ!」 「おじさまと会ってからね!」 ティリクティアとベルダもやむなくふたりを追う。 しかし――。 「あ!」 ティリクティアが声をあげ、立ち止まった。 雷鳴と、稲光。 いつのまにか、かれらの前方――地面より数メートルのところに浮かぶ大柄なシルエットがあった。 漆黒のコートが風雨を孕む。 ボルツォーニ・アウグストの冷酷な瞳が、かれらを睥睨していた。 「あ、あの」 眼力に気圧されながら、それでもティリクティアは気丈になにか言おうとした。 だが彼女が言葉を発することはできなかった。どのみち発せられようとしたのがいかなる弁明であったにせよ、不死の君主が聞き入れるはずもない。 ティリクティアの手から、トラベルギアのハリセンが濡れた離れ、腐葉土の上にポトリと落ちる。 「……っ!」 つま先が宙を掻いた。 ティリクティアの細い首を、ボルツォーニは片手で掴み、やすやすと持ち上げている。 「ちょっと待ちなよ、あんた!」 ベルダがコインを投げる。 それはボルツォーニの頬をかすめるも、牽制の役にさえ立ちはしなかった。彼は片手でティリクティアを放り投げ、その身体を受け止めたベルダが姿勢を崩す。 瞬間、ボルツォーニの姿は残像だけをのこして消え、ベルダの背後に立っていた。 黒いコートの裾がコウモリの翼のように広がる。 ベルダは異様な殺気に背筋を凍らせながら、はじかれたように振り向き、手刀をたたきこむが、中空に呪術的な文様となって浮かび上がる魔法の障壁がそれを阻む。 本気だ。 ベルダは悟る。この男には一片の慈悲もない。 その考えが正しいことを示すように、コウモリの翼は収縮して黒皮の鞭となり、ベルダを打つ。彼女の身体が地面に投げ出された。 「ベルダ……!」 ティリクティアが叫ぶも、しなやかな鞭はそのまま鋭い刃となって、ティリクティアの喉元をぴたりと指した。 「なにかに抗うものはおのれの力量を見定めておくべきだ。そうでないのは愚か者のすること」 ボルツォーニが告げる。 「ひどい。こんなのって……」 「私たちの言い分は聞く耳持たないって顔だな」 ベルダがボルツォーニを睨みつけた。 「弁明を聞くのはレディ・カリスのすること。私は召集されたトレインウォーに応じたまでだ。ゆえにもとより私は諸君と対話はしない。戦争をしているのだから。……だが逆に。戦争である以上、降伏するなら捕虜として扱う。戦争は虐殺ではないからな」 淡々と。紡がれる言葉は整然としていて、しかし、いかなる意味でも、それに抗うことができないことを、ティリクティアとベルダは理解する。 「すみやかに決めてもらおう。私は次にあのポーンを追わねばならない」 ボルツォーニの青い目がアリッサの消えた方向へ向けられた。 5 「アリッサ!」 緑郎がアリッサを引き止めようとする。 「館長に合流するなんてだめだ、ここで捕まらなきゃ」 雷光が、閃いた。 天を這いうねる、竜のような稲妻。 そのしたで、荘重にして典雅な洋館が嵐を背景に浮かび上がる。 ベイフルック邸――。緑郎たちは、暴風雨のなか、思いのほかその近くまで迫っていたのだ。 そして、その屋敷を背に、ひとりの女性が風雨もいとわず、立っていた。 厳しくも美しいおもてが青ざめているのは、雨に打たれているせいか。 レディ・カリス。 その手の中に、精緻な装飾が施された古めかしい盃のようなものがある。 「本当に愚かな娘ね。愚かで……なんて純粋なのかしら。本当に憎らしい娘」 賓客に乾杯を促すような優雅なしぐさで、彼女は盃をかかげ、だが次の瞬間、盃と見えたそれは、一振りの細身の剣に姿を変えていた。 彼女は、フェンシングの剣礼(サリュー)のように剣を顔の前に掲げると、斜めに刀身をふるい、そして返した剣先をぴたりとアリッサと緑郎へ向けた。 動いたのは緑郎だ。 アリッサの首に腕を回して引寄せる。 「おっと、それ以上近づいたら、館長代理は無傷じゃすまないよ!」 「……なんですって?」 レディ・カリスは眉をひそめた。 「僕の計画は邪魔させないってことさ」 「計画。あなたの計画だと?」 「イイ子のアリッサがこんな事すると思うの? おばさんもう年なんじゃない?」 緑郎は嘲るように笑う。 しかし、その時すでに周囲はロストレイルでやってきたロストナンバーたちが取り囲んでいた。 緑郎の姿は、追い詰められた犯人の最後の悪あがき……舞台の観客にはそう見えたことだろう。 再び、雷鳴が響いたとき、レディ・カリスの手の中から、剣は消えていた。 雨を含んで重くなったドレスの裾をつかみ、捌きながら、彼女は告げる。 「館長代理と、あとのものたちをロストレイルへ」 ロストナンバーたちによっておのれの命令がすみやかに遂行されるのを見届けるでもなく、彼女は背を向けると、独りでベイフルック邸へと足を向けた。 その門前では、ひとりの紳士――エドマンド・エルトダウンが、レオンハルト=ウルリッヒ・ナーゲルにともなわれて彼女を待っている。 「この期に及んでまだ逃げようとするなんて」 レディ・カリスは彼を睨んだ。 「わたしは、ずっと、怒っていた。愛するものを守りたいと言いながら、なにひとつ守れなかったヘンリーとあなたに。そして、親代わりのあなたに甘やかされて……、いいえ、あなたに放置されるままに空回りしていたアリッサに対しても。……あまり、怒らせないで。わたしは、やさしい女でいることもできたのに」 「……」 「さあ、行きましょう。きっとここには、あなたとわたしを待っているひとがいるはずよ」 ふたりはベイフルック邸の中へ。 呪われた屋敷は、200年の時を経て、その本来の《家族》の帰還を、受け入れたのである。 * 「あんたが捕まってどうするのにゃ?」 「おまえが上手くやらないからだろ!」 ロストレイルの客車で、緑郎とフォッカーは「犯行が失敗に終わった犯人の醜い仲間割れ」を演じている。 その様子を、見守っているベルダ、ティリクティア、そしてコレット。 「このものたちは、レディ・カリスの沙汰あるまで、コンパートメントに閉じ込めておくように」 カエルの従卒が、女主人の居丈高さを借りたような傲岸な声音で命じた。 離れた席に座らされていたアリッサは、さっきまでの威勢の良さから一転、消沈した様子だったが、ついに、しくしくと泣きはじめた。 コレットが駆け寄ろうとしたが、むろんそれはかなわない。 ベルダが彼女の肩にふれる。 緑郎は何も言わず、じっと、アリッサを見つめていた。しゃくりあげるアリッサと、ふと目が合う。その一瞬、すべてを瞳で伝えるかのように、緑郎はアリッサを見ていた。 ティリクティアはぼんやりと宙を見つめ、心ここにあらずといったふうであったが、ふいに、はっと息を呑んだ。 連れて行かれる寸前、彼女の声が客車に響く。 「大丈夫よ、アリッサ! 希望はあるわ。信じて!」 ティリクティアはそう言った。 それは巫女姫の予知だったのか。それとも。 真意を語る暇はなく、扉はぴしゃりと閉じられてしまったが、アリッサはすがるように、何度も頷くのだった。 (了)
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