両脇からざわざわと竹葉が覆いかぶさるその坂には送り犬が住み着いているのだと、土地の老婆は語った。 送り犬の伝承は全国にあるが、I県X地方の送り犬は、坂を通る旅人が転んだり振り返ったりすると襲いかかり、無事に通過したとしても、守ってやった駄賃を寄越せ、寄越さねば食うてやると言いがかりをつけてくるという。 老婆の足腰がまだ頑健で、その坂を通らなければならない用事の時は、いつもひしゃげたビール栓をジャラジャラさせては坂の上や下で後ろにポーンと放り投げて帰っていったということだ。「でもね、不思議なんです。用事を済ませて帰る時どんなに目を凝らしても、私は一度も自分の投げたビール栓を見つけられなかったんです」 送り犬の坂の噂の真偽は、是非読者諸氏自身の目で確かめてほしい。 ――『月刊拾遺オカルト 二月号』 ※オカルト事件の目撃情報・記事持込大歓迎!! *******『一番世界にファージが出たんだよねぇぇぇぇっ!』 ボソボソに割れたスピーカーから飛び出すE・Jの声は、相変わらず間延びした調子だった。『寄生されたのは犬。首輪がねぇってこたぁ野良かねぇ? 俊敏で頑健、知能も高い。ついでにファージの影響で熊みてぇにでっけぇぇぇぞぉぉぉぉ』 ファージは他に三匹、大型の犬を従えているという。ただしそれは現場の周辺住人の飼い犬であり、何ら特殊な力を持つものではない。場数を踏んだたロストナンバーであればそう大した怪我もなく殺せるし、ファージが倒されれば元通りただの犬になる。『お優しいロストナンバーさまはぁ、うっかり殺しちゃわねぇようお頑張りになってみたらぁぁぁ?』 ラジカセはキシキシと錆びた歯車の擦れ合う笑声を立てた。 その傍には、壱番世界のものらしいゴシップ雑誌が広げられている。ラジカセが読んだ訳ではなさそうだし、司書の誰かがあらかじめ用意してくれたのだろうか。「送り犬の坂」と題されたインタビュー風の記事が、写真付きで掲載されている。他のページもめくってみれば、顔のない女にUFOといった一貫性を欠いた話題が、おどろおどろしい語調でデコレーションされ恐ろしげな顔を並べている。 どこをとっても根も葉もない、三流ゴシップ記事の見本のような本だった。『真偽のほどはどーだっていいが、そこにゃ昔っから妖怪? っつーの? そういう伝承自体はあったみてぇでねぇぇぇぇ。それが最近雑誌になんて載っちゃったもんだから、物見遊山のバカが何人か「噂を確かめようとしたせい」で食い殺されてやがる』「どういうこと?」『そのまんまさ』 便宜上、このファージを送り犬と呼ぼうかと、ラジカセは言葉を切る。『「送り犬」は坂で転んだ人間しか襲わねぇし姿も見せねぇ。理由なんざ知らねぇよぉぉぉぉ! 確実なのはお前ぇらの内誰か一人がわざとスッ転んで、「送り犬」をおびき出さなきゃならねぇってことだけさぁぁぁぁ』 場所は手入れのされていない竹藪が坂の両側に続いている坂。見通しは悪く、「送り犬」と三匹の飼い犬たちがどの方角からくるかまではわからない。坂は小石と砂で舗装されているが、場所によっては曲がりくねった急勾配になっており、戦闘中ならさらにすべりやすくなるだろう。『滑って転んで頭を打って、気づけばワンワンのお腹の中……なぁぁぁんてゾッとしねぇなぁ? 考えようによっちゃあ敵を一ヵ所に引き寄せられる便利ワザだが、先に噛み殺されちゃあただの供儀でしかねぇ』 精々気を付けるこったなぁ。言い捨てて、ラジカセのスイッチがブツッと途切れる。『あ、その雑誌は別に僕様いらないからあげる。読んだら廃品回収出しといて?』 どうでもいい情報を投げて、今度こそ本当にE・Jは沈黙した。
1.三者三様 ざわざわざわり、ざわざざざ。 竹葉の園は歯ぎしりのような音でもってロストナンバーを出迎えた。夕暮れに染まった竹林からは生ぬるい風が吹きおろし、ほのかの小袖と日和坂綾のスカートの裾を揺らす。 ほのかの肩に引っかけられた緋の小袖は、茜色の光の中にあってなお一層赤い。物憂げな横顔と相まって、妖しく蠢く彼岸の香りを匂い立たせていた。 この風の終着点には一体幾つの骸が眠っているのだろう。たまらないものがこみ上げて、風呂敷包みをきつく握りしめる。 (……化け物が出たと聞けば、それを倒し……武勇を上げんと挑む方がいるのは……どの世界も同じなのかしら) 能面のように白い面にさざ波が如く感情を沸き立たせ、ほのかはそっと目を伏せた。 ほのかの生まれた世界にとって、怪異とは脅威であった。恐れ敬うことこそあれ、安易に手を触れてよいものではない。そのような世界観で育ち、またそれを理由に迫害に近い扱いを受けてきたほのかにとって、化け物の物見遊山で命を落とすというのは今一つ受け入れがたい思想であり、それ故の勘違いは致し方ない。 「……地元の方が倒せなかったのなら、わたし達で何とかしないと……」 「そりゃあもちろんっ!」 重たく沈むほのかの声に、明るいそれが重なる。乱れた前髪をくしゃっとかきやって、綾は人懐っこい笑みを浮かべた。 「……綾さん」 「えへへ、お久しぶり……って訳でもないか。坂上さんも今日はヨロッ!」 「おーぅ、日和坂。今日も一発ドカンと頼むぜ」 軽く片手をあげて坂上健が応える。重量級の音を立てて、肩に担いでいたトランクが下された。衝撃に小石が飛ぶ。 「うっへー、相変わらず重たそうだあ。今回は何を詰めてきたの?」 「ま、色々な。ところで、作戦会議しようぜ、会議。誰が転ぶかとか、決めておかなきゃだろ」 「賛成!」 「…………」 ほのかが静かに顎を引く。健の周りに二人が集まり、即席会議場の完成だ。 「議題はもちろん『誰が転ぶか』についてだが……」 「ハイハ~イ先生! 私にアイディアがありますっ! あのさ……三人で一緒に転ぶ、ってどうかな?」 「……どういうことかしら?」 「……できれば飼い犬さんたち、殺したくないなぁって思って。三人で転んだら、もしかしたらね? もしかしたら送り犬は三頭出てくることになるかもだけど、一人頭の飼い犬さんは三分の一になるでしょ? その方が手加減できる気がするんだよね。……どう、かな?」 ぞう、と風が走る。枯れ落ちた細い葉がからからと転がり、三人を避けて押し流されていく。ほのかと健が揃って小首を傾げた。 「……そういうことになるの、かしら?」 「……ど、どうだろうな? でも、失敗したらファージ増殖ってのは……ちっとばっかし危険な賭けだと思うぜ、俺はよ。それにE・Jは『送り犬は転んだ奴を襲う』とは言ってたけど、飼い犬たちもそうだとは言ってなかった気がするし。あと初めの内は数的に乱戦になるだろうから、んな時に次、誰がファージに襲われるか分かんねー状況ってかなり怖くね?」 健の容赦ない、だが真実を抉る言葉の刃が誕生日ケーキのローソクみたいに綾の心にぐさぐさ突き立つ。ぐはっと呻いて数歩後退。 「ううっ、ボッコボコだ! 私、切ない! じゃあじゃあ、坂上さんは何か良いアイディアあるんですか~っ!?」 「そ、そういう言い方はアレだぞ! 俺はまあ、防護がっちり固めて送り犬を引き付けて、その間に飼い犬を無力化しようかなーとか」 「……無力化? ……どうやって?」 「ファージ以外は普通の動物ってことだったからな、色々用意してきたんだ」 にやっと男臭く笑って、トランクの留め金をはじく。転がり出てきたのは、大ぶりのスプレー缶だった。冷たく夕闇を照り返すそれを軽く振り、 「熊用の唐辛子スプレーだ。ファージはわかんねーけど、普通の犬なら効果抜群だろうぜ。これを浴びせて、ひるんでる隙にガムテープでぐるぐる巻きにして身動きを封じておけば……」 「飼い犬さんたちを傷つけずに送り犬だけを倒せる! さっすが坂上さん、準備いい!」 良かったあ、と綾が心の底からの安堵のため息をつく。 「良かった?」 「うん。私、飼い犬に襲われても、戦って戦闘不能にすることしかできないから。だから坂上さんが便利グッズ用意してくれて、本当に嬉しかったんだよね! 犬好きだもん、私。……あれ、でも、転んだ時に襲い掛かってくるのは送り犬なんだよね? 必ず飼い犬に襲われるかどうかはわからないのに、ガムテープぐるぐる巻きってできるの?」 「それなんだよなあ……」 健が頭を抱える。 「スプレーもガムテープも人数分用意してあるけど、こういうものの扱いに一番慣れてるのは、やっぱ俺だと思うんだよ。でも防御力を考えると転ぶなら俺しかいねーし……」 「……わたし、」 「え?」 ほのかが幽霊の足取りですっと進みである。 「……わたし、お二人のように戦うことはできないから……囮役を担いたいのだけど、よろしい?」 綾と健の視線が、白足袋に包まれたほのかのつま先から、滲み一つない無垢な白装束、風にあおられてなびく黒髪のつむじまで往復する。顔を見合わせ、綾がおそるおそるといった様子で問いかけた。 「……あのさ、ごめん、本当に今更で本っ当にごめんなんだけど」 「はい」 「……ほのかさん、戦えたっけ?」 「鮮魚相手なら負けませんわ」 「惜しい、今日の相手は犬だよっ!」 「いくらなんでもその恰好じゃ無理だろ! 無理無理! 俺の防具貸してやろうか?」 二人揃ってほのかに詰め寄っても、茫洋とした面は崩れない。内心、二人の態度から伝わってくる気遣いに心をぬくめているのだが、生憎ほのかの表情は彼女の内心ほど雄弁ではなかった。 「心配には及ばないわ。……一つだけ、お願いがあるとすれば。……悲鳴が上がっても驚かないでね、ということだけ……」 うっそりとした微笑みに、健と綾の背筋をぞくっとしたものが流れ落ちる。 「足場が悪いトコで転ぶと後がタイヘンだから、できるだけしっかりしたトコですっ転ぶべき!」と綾が主張し、三人は坂の中腹の、比較的砂がちな場所を戦場に選んだ。 「しっかし、転ばなきゃあ出てこないっつーのも不自由な話だよな、ファージの癖に」 手甲足甲をはめ、鉄板入りブーツのひもを固く結び、最後にガスマスクをかぶる健。 「不意打ちされないのは助かるけどさ、緊張感とか? それがイマイチ欠けてるんだよね~」 入念にストレッチをする綾の右手にはスプレー缶、左手の手首には端っこを折り返したガムテープが腕輪のようにかけられている。 作戦はこうだ。 ほのかがファージを引き付け、その間に健と綾がスプレーとガムテープを用いて飼い犬たちを無力化。送り犬が坂で転んだ人間しか襲えないのは、世界司書のお墨付きの事実である。予定外の転倒にさえ注意していれば、気を付けるのは飼い犬たちだけでいい。その後飼い犬の捕縛が完了し次第、三人がかりで囲んでファージを倒す。 ファージさえ倒してしまえ飼い犬たちは元通りになる。その後はしかるべき機関に届けるか、あるいは脱走していたところを捕まえたとでも言い張ってそれぞれの家に戻してあげたい……とは犬好きである綾の談。 送り犬たちがどの方角からくるかわからないため、健が坂の下方、綾が坂の上を見張り、真ん中にほのかを挟み込む陣形を作る。二人が周囲を警戒する体制になったのを確認して、ほのかは数歩後ずさり、前進。足首に足首をわざとひっかけ、予定通りの転倒が始まる。 ほのかの身体は重力に逆らうことなく落下していき、片手が座布団に伸ばされる。もう片方の手は人形をしっかりと抱き締めて離さない。苦鳴とも奇声ともつかない音。砂利に摩擦を殺された座布団は慣性に従って坂を滑り、脇腹がぐっと伸びる。黒髪が散り乱れ、坂にいくつもの筋を描いた。さめ肌のすれ合うような擦過音。 ――ぞわり 背骨に氷柱を差し込まれる感覚に、うなじの産毛が逆立つ。反射的に閉じていたまぶたを思わず見開く。 (……さあ、いらっしゃい……ひと息に、喉笛を噛み切りに) 横倒しになった視界の中、獣毛に覆われた四肢が風となって距離を詰めてきた。 2.逢魔が時の闘い・前 黒い影が健の脇を駆け、一拍遅れて風が舞う。 それが犬でありファージであり怪異現象と呼ばれるものだと健が気付いたのは、健の背丈を優に超える巨体が、ほのかにのしかかった瞬間だった。 E・Jの言っていた通りファージは巨大だった。筋肉をそのまま束ねたような肉厚の体躯をしていると、毛皮の上からでも見て取れる。送り犬の全身は女の髪のような長い黒毛で覆われていて、そのぞろりと垂れた毛の間から、ほのかの手首から先だけが突き出ていた。送り犬の背が上下するたびにひくひくと動く指先は、まるで――…… 「手前ぇぇっ、よくもっ!」 「坂上さん落ち着いてっ! まずは……っほら、来たぁっ!」 綾の焦りを含んだ絶叫がが飛ぶ。落ち葉の蹴立てられる音。右手下方の藪から白い毛並みが一頭、左手上方からは金茶の毛並みと黒の短毛種。二頭が綾と送り犬の間に割り込むのが視界の端に映る。スプレーの噴射される音。 白犬は低く身を伏せ、健に向かって吠えたてる。ここは通さないとでも言うつもりか? 「上等っ! だったらあんたを倒して押し通るだけだっ!」 トンファーの柄が軋むほど力を込めて振り下す。白犬は鋭敏な動きで必殺の一撃の軌道から逃れる。たたらを踏む健を尻目に力強く地面を蹴り、脇腹めがけて体当たりをぶちかまされたっ! 衝撃に身体が浮き、骨が軋む。――やばい、転ぶ。今更になって冷静さを取り戻した頭が警報を発するが、揺さぶられる脳が身体のコントロールを許さない。やたらとスローモーに世界が流れる。このまま背中から叩きつけられる? そんなもの、冗談じゃねえ! 「……だらっしゃああああっ!!!」 缶とトンファーを投げ捨てる。のけぞる背中はそのままに、フリーになった両手を地面にばしっと叩きつけて背骨を支える。俗に言うブリッジの態勢だ。 要は転ばなきゃいいんだろ!? ブリッジの態勢から腹筋の力で上体を持ち上げる。立ち上がりがてらスプレーとトンファーを拾い、元通りの構えへ。 「……へっへっ、どーだ見たかっ!? 肉体派舐めてんじゃねーぞ、ああっ!? ほのか、待ってろ! すぐ助けにいくからなっ!」 『あぎゃぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ!!!』 「ひっ!?」 送り犬の長毛の間から、異常極まる奇声が響く。健と送り犬がそろいの動きで身をすくませ、白犬の耳がピクリと音源に向かって傾く。健の位置から見えるのは、送り犬の長い毛と広大な背中、ふさふさとした尻尾のみ。その下で一体何が起きているのか、覆い隠されて想像ばかりが先走る。 「何だ今の、何があったんだほのか!? ……ま、まさか痛みでははは、発狂!?」 「……違うわ……」 どす黒い紗幕の隙間から、か細い声が地面を這う。白犬から目を離さぬまま叫んだ。 「ほのかっ!? 無事だったのか!?」 「……ええ、大丈夫……」 再びの奇声。この世ならざる狂った音程が三半規管を撫でまわし、寒気と吐き気が湧き上がるが無理やり抑え込む。 「くそ、何なんだよっこの、薄っ気味悪ぃ……ほのかの声なのか!?」 「……いいえ、この子は私の武器。名前はカタシロ」 『ぐるっぐぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!!』 「……私が受けるはずだった痛みを、代わりに受けてくれる存在」 『ごばばばばっ! ばばばばばばばっばば!!!』 「……その分だけ、少し騒がしいけれど……私は平気だから、心配しないで?」 「どぅるどぅるどぅるどぅるるっ!!」 「聞こえづらっ! 人形とダブルサウンドで聞こえづらっ!」 「……ごめんなさい、これは、わたしにはどうにも……」 とりあえずの生存報告に安堵するが、身代りになるトラベルギアがあれだけ激しく叫んでいるということは、本来ならばそれ相応に深い傷を負わされていたということ、になるのだろうか。 これは早急に片付けなければなるまい。健はスプレー缶を構え、腰を落とした姿勢のままじりじりと距離をとる。健のまとう雰囲気の変化を感じたのか、白犬の唸り声が一層激しくなる。低くかがめられる背中。 どうする。できるか。考えられた時間は一瞬、猛る咆哮に思考がブチ飛び、その場の判断だけが残る。 激突と転倒だけは何としても阻止する。押し倒されたらその時点で健の負けだ。 身体は低く、片足を引いて衝撃に備える。右手は前へ、トンファーを腕に沿わせる形で掲げる。スプレー缶を握ったままの手を右拳に添えた瞬間、重い一撃が骨を軋ませる。肌にがっぷり食い込む犬の牙と爪。だが手甲とトンファーに阻まれて思ったより深くは進まない。 「襲われるのがわかってんならなあっ! 別にお前なんかに転ばされやしねーんだよっ!」 スイッチにかけた指を強く押しこみ、泣きたくなるほど赤い煙が犬めがけて射出された。 猛烈な刺激煙は犬の顔面でぐるりと向きを変え健の方にまで流れてくるが、ガスマスクのお蔭で視界が悪くなるだけだ。 哀れっぽい悲鳴を上げて牙が腕から抜ける。身悶える様には憐れみを誘われたが、感慨に浸っている場合ではない。止血もそこそこに缶とガスマスクを投げ捨て、ガムテープを引き延ばす。犬は痛みに激しくのたうち、そのたびにガムテープがべたべたとあらぬ方向にくっついて舌打ちしたくなる。 悪戦苦闘していると、竹林に揺すぶられ笛のような音を立てる風に乗って、犬の悲鳴が聞こえてくる。 自分の闘いに夢中で意識の外に追いやられていたがそういえば、綾の方はどうなっているのだろう。 3.逢魔が時の闘い・後 綾の行く手を遮って「いた」のは、ほっそりとした後ろ足に金茶の巻き毛の大型犬と、こちらも細身の、だが貧弱さなどみじんも感じさせない凛々しい黒犬だった。 だが黒犬は飛びかかりざま浴びせられたスプレーによって、綾の足元でぴくぴくと震えている。そのため実質綾の相手は残りのもう一頭――金茶の巻き毛の大型犬のみである。 「こんな時じゃなかったら、思いっきり撫でまわしたいんだけどなあ」 きっと気持ちいいんだろうなあ、悲しいよと呟いて、綾は戦闘態勢をとる。犬の体高に合わせて身は低く、急な攻撃にも対応できるよう踵は浮かし気味に。本当ならさっさと黒犬を捕縛したかったけれど、今しゃがみこむのはまずいと綾のもっと本能的な部分が警鐘を鳴らす。 スプレーのボタンを何度か押し、中身が空であることを確かめてから道の端に投げ捨てる。ポイ捨てだとか、ちょっと無計画に使いすぎたかなと反省するのは後だ。奇声は絶えることなく続いている。「きこえづらっ!」これは健の声。今は目の前の敵を倒すことに集中、余分な情報をシャットアウトし、感覚を尖らせる。 「……なるべく手加減はするけど、」一歩、踏み出す。犬の唸りが止む。「怪我したらごめん」 発達した前足が砂利を巻き上げ突進。綾は避けない。そのまま歩く。 綾がしなければならないのは、技を決めること。屈服させること。そして彼らが家に帰れるようにすることであって、逃げることではないのだから。 「ふっ!」 タイミングを合わせ、巻き毛犬の鼻づらに踵をねじ込む。突っ込んできた勢いがそのまま犬へのダメージとして跳ね返り、無様な泣き声が上がる。反動で綾も少しばかりたたらを踏むが、すぐに立て直して突進。そして跳躍。手心を加えた踵落としが首筋に埋まる。肉と骨を痛めつける感覚に一瞬血液が沸騰したけれど、舌を突き出してあえぐ犬を見下ろして湧き上がるのは、それと真反対の憐れみだった。自分がしたことだというのに。感慨を振り切るように手早く手足にガムテープを巻きつけ、万が一にも戦いの最中に踏みつけてしまわぬよう、道の端に引きずっていく。 「……すぐに助けてあげるから、それまで大人しくしていてね?」 自らに言い聞かせるように囁き、しゃがんだままつま先でくるりと向きを変える。もう一匹の黒犬を捕縛しなければならない。しかし犬の倒れていた場所には何もなかった。 え、と思う間もなく、聞こえたのは切れ切れの嘶き。背中に何かがぶつかる感触。その、普段なら何でもないはずの衝撃は、不安定な支点と坂道の重力を味方につけ、綾の重心を揺さぶる。 ――……あ、 無理やり後ろに向けた目が、力尽きて崩れ落ちる黒犬の姿を捕える。唐辛子スプレーは効いていたはずなのに。 ――……ああ、大変だ 効果が薄れていたのか。ファージに操られているせいなのか。どちらかなのか、どちらもなのか。綾にはわからない。理解したのは、己が送り犬の標的となりえたのだという、それだけだ。 小石で切ったらしい腕が痛い。奇声が止んだ。 ほのかは己の首筋をねっとりと舐めあげる犬を見上げていた。見上げていると、思う。既に日は落ち、藻のように黒く長い毛がばさばさと垂れて光を拒んでいるせいで、視界はあまり良好ではない。代わりに感じるのは湿った吐息と明確な殺意だ。 喉笛に脇腹に、最初こそ噛みつかれたものの、それらの痛みも怪我も全てはカタシロが引き受けてくれたおかげで、ほのかの肌には傷一つない。だが繰り返されるカタシロの声に辟易したのか、送り犬はほのかの肉体を傷つけずにいたぶることを覚えて始めていた。 腐敗した千匹の魚のような口臭に頭の芯がくらくらする。か細く口で呼吸を繰り返し、くっと唇を噛んで耐える。痛みを与えられることはないとはいえ、滓のこびりついた舌で顔や咽喉を嘗め回されるのは不愉快だし、前足を乗せられた右腕は重みに痺れきって感覚はとうに失せている。 (……味見のつもりなのかしら……わたしを殺す時の……) 爪に引っかけられた白装束が断末魔の悲鳴を上げて縦に裂かれる。もちろんその下の柔肌までは傷つけること叶わず、代わりにカタシロが金切声をあげるが、帰る時はどうしようとほのかは思わずにいられない。 ねばついた愛撫は唐突に終了した。送り犬の首が持ち上げられ、毛の間から差し込む光が量を増す。 (何を、見ているの……) ほのかが頭を巡らすのと綾が坂を滑り落ちるように転ぶのは同時だった。「日和坂!」健が悲鳴に近い絶叫を上げる。送り犬の前足がどけられる。太い尻尾がほのかの身体をひと撫でし、まるで血を流す様子のないほのかを見限って倒れ伏した綾の元へ駆け出す。 「ああ、いけない……!」 感覚の失せた手足を引きずってなんとか足止めを試みるが、ほのかのトラベルギアでは己に降りかかる脅威は防げても、仲間のそれにはどうしようもない。 (お願い、綾さん、健さん、誰か…………!) 送り犬が迫る。大きな口が深淵のように開かれ、今まさに綾をひとのみにしようと小柄な影に覆いかぶさった。 「食われて、たまっかああああっ!!」 裂帛の気合いが夜を震わせる。ぐらりと送り犬が傾ぐ。たなびく毛の向こう、腕立て伏せの姿勢を無理やり前へ持ってきたような格好で、綾は送り犬の前足を蹴りつけていた。 「無事か! 綾!」 「誰に言ってんのさ!」 駆け付けた健がトンファーを送り犬の後ろ足に打ち下ろしさらに数秒の時間を稼ぐ。獣そのものの咆哮がびりびりと鼓膜を揺すぶり、辺り一面に濁った唾がまき散らされた。 「行くよエンエン、火炎属性ぷりーず!」 綾の掛け声とともに、パスホルダーから炎をまとった子ぎつねが現れる。きゅっと一声、靴は紅蓮の炎がまといつけ、ねばついた夜を払拭する。 「くらえっ、狐火繰り火炎乱舞!」 一陣の熱風となった綾が駆ける。一直線に突っ込んだ先は送り犬の真正面。送り犬の瞳が嘲りの色に染まり、大顎を開く。危険な賭けかもしれない。だが虎穴に入らずんば何とやらだ。冷静に間合いを計った綾の膝蹴りが下顎に炸裂。がくんと閉じられ牙ががちんと打ち鳴る。 「これ以上他の奴らに怪我させてたまるか!」 そこをトンファーがさらに打ちのめす。連打されるは首、延髄損傷を狙って繰り出される一撃一撃が必殺の重さ。 夜の闇が駆逐される。エンエンと呼ばれたセクタンが、ファージの身体のあちこちに放火をしていた。痛みと熱さに送り犬は巨躯を震わせるが炎は消えない。その隙をついて健は口腔にトンファーを突っ込み内側からの粉砕を狙うが、上半身ごと呑み込まれそうになって慌てて引き抜く。 送り犬の目が凶悪に光る。宿っているのは烈火の如き怒り。太い前足が猛然と動き、健を押しつぶした。加えられる重みに健の肋骨がみしりと音を立て、呼吸ができない。視界がちかちかと黒くなる。送り犬はその体の大きさ自体が既に一つの武器なのだ。 黒い毛の間に覗く、殺意にぎらついた丸い目。その中に映し出されていたのは――綾。彼女を捕食するべく首が伸ばされる。開かれる口腔。匂い立つ悪臭に一瞬だけ綾の身体がふらつくが、二本の足はしっかりと踏みとどまっていた。 「おしまいにしようっ!」 低く伸ばされた首を跳んで回避、さらに鼻づらを足場にして再びの跳躍。重力加速度を乗せた足が大きく振りかぶられ、眉間に着弾。鉄板入りの重量級シューズは送り犬の眉間を貫通し、脳をすりつぶされる新鮮な痛みに送り犬の身体が跳ねた。 るまだまだああっ!」 連打、連打、連打。 眉間に空いた穴を狙っての足踏みはとどまるところを知らない。そのたびに送り犬の身体は打ち上げられた魚のように硬直していたが、やがてそれさえもなくなり、送り犬はもうぴくりとも動かなくなった。 完全に日の落ちた坂の真ん中。ロストナンバー三人が互いの傷を治療し合っていた。 「ボロボロだね、私」 擦り切れた制服に顔をしかめて、どこかすっきりした顔の綾が笑う。 「俺もな」 かすれ声で答える健は、ほのかに包帯を巻かれている真っ最中だ。全身打撲に擦り傷、おそらくアバラも何本かひびが入っている。 「……でも、生きてるわ」 消毒液を含ませた脱脂綿で盛大に健の顔をしかめさせながら、ほのかはそっと囁いた。 「ああ、生きてる」 「それで十分なのかな」 顔を見合わせて笑いあう。 「さて、最後にこいつを埋めてやんなきゃな」 健が親指で指し示すのは、息絶えた送り犬の死骸。 「どんだけでかい墓穴掘ればいいんだか……最後まで手こずらせてくれるぜ、全く」
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