日を追う毎、春は近付きつつも、未だ宵の口から冷え込む季節。 偶に曇れば案の定、性質の悪い牡丹雪が振り出した。 夜半も過ぎた時分には、軒も道もすっかり白く染め上げて。 それでいて、なにせ解け易いものだから、歩けばたちまち濡れ鼠。 そんな夜。 異様な一団が列を成し、市中をゆったりと歩いていた。 時折、誰かが無造作に撥(ばち)を振り下ろす。 べん。 太い絃が揺れる度、何処からともなく影が群がり、集い。 そうして、また、列はのびていく。その顔ぶれは、実に様々だ。 骨と皮ばかりの女。自らのものと思しき首を抱える男。 頭頂が潰れ、片目をぶら下げた鎧武者。全身焼け爛れた町火消。 役人、商家、遊女に農夫。侍。幼子から翁までが連なる。 ただ、誰もが蒼白で、塵芥ほどの生気も窺えず、姿かたちが透けている。 それだけが共通していた。 べん。 ただひとり、列を率いる娘だけは様子が違う。 他の者に負けぬ生っ白い柔肌は、けれども存在感がある。 目元こそ、ぼさぼさの前髪に隠れて判然としないが。 丈の短い着物から伸びた踏み足。三味線を持つ手。雪に落とす影。 何れも、生きた人間のそれに相違ない。 娘は、やがて、古く少し傾いた屋敷へと、一団をいざなう。 立派な囲いの方々には札が貼られ、注連縄が張られているというのに。 意にも介さず、彼らは門の向こうへと吸い込まれていった。 庭を抜ければ、玄関口にはひとりの青年が待ち構えている。 鮮やかな朱い羽織にうぐいす色の着物姿。 綺麗に分けた黒髪は、後ろで開花を思わせる形状に結ってある。 上背と肩幅はあるが、女性的な身形に似合いの美麗な面立ちだ。 ただ、高貴な風体に反して、妙にそわそわと落ち着きがない。 寒さを堪えているというのとも、違うようだが。「ただいま」 雪の向こうから来る可憐な娘の姿に、男は歓喜し、擦り寄るように近付く。「おお、おお……きくえ、菊絵。良くぞ戻った」「きょうはたくさんつれてきたよ」「ほ、ほ、ほ。賑やかになりそうじゃのう?」「そう」 娘――菊絵のそっけない相槌を気にした風も無く、男は一団に向き直る。「ようこそ、こなたへ。今宵限りの宴の席。楽しみ、楽しませておくれ」 べべん。 菊絵が弾いた音を合図に、皆ぞろぞろと敷居を跨ぐ。 そうして、彼らは屋敷の中へと消えていった。 翌朝、屋敷の傾斜が、少しだけ正されている気がした。● 旅人達は、今、骨董品店『白騙』の前座敷に通されていた。 図書館で世界司書から偶々声を掛けられ、連れて来られたのである。 朱昏の調査依頼があるから、と。「皆さんは『百鬼夜行』というのを、ご存知でしょうか」 共に囲炉裏を囲む旅人達に向け、槐が問うた。 傍らでは、そばかす顔の世界司書、ガラが団子を嬉しそうに頬張っている。 それはともかく。 百鬼夜行とは文字通り、この世ならざる者の列。壱番世界に伝わる怪異だ。 妖怪達の行進や、非業の死を遂げた者達が怨敵の前に列を成す話。 諸説あるが、何れも凶事であるという点で一貫している。「その百鬼夜行とも呼ぶべき死者の行列が、実際に目撃されているそうです」 事案は西国の都、花京(かきょう)で起きている。 現れるようになったのは、ここ半年のこと。決まって新月の夜。 目撃者は少数だが、噂が伝播し、町民達に不安と混乱が広まりつつある。 対処すべく動いた同心達も中々出遭えず、手をこまねいている有様だ。 死人達は、何故集うのか。何処へ行くのか。「彼らを引き寄せ、率いる存在と、受け入れる場所があるのでしょう。そして……その背景には、付喪神が関与している可能性が高いかと」 率いているのは、菊絵と名乗る瞽女(ごぜ)。 受け入れているのは、とある打ち捨てられた古屋敷。 槐曰く、この建物こそが付喪神であり、向かうべき場所となる。「花京では、怪異の名所として、古くから知られています」 元は名門旧家の邸宅だったが、ある代から凶事が続き、その家は滅んだ。 後に移り住んだ武家役人も皆憂き目に遭い、ことごとく落ちぶれていく。 終には、誰も寄り付かなくなった。 ほどなく、旧家の呪いだ疫病神憑きだと、噂ばかりが一人歩きし始める。 一方、不思議なことに屋敷の正確な所在を知る者は、居なくなった。「実は、随分昔に、僕も探してみたことがあります。残念ながら見つけることは叶いませんでしたが……ガラさんの話を聞いて、その理由は見当がつきました」 怪異常なる朱昏なれば、抗する術もまた、培われている。 この場合は、屋敷の囲いを更に囲う注連縄と、札。 それらは、厄を見かねた何者かが施した結界ではないかと、槐はいう。 たとえば、人の意識を逸らすような類いの。 しかし、もし見立て通りならば、如何にして所在を掴むのか。 これに対する槐の提案は、妥当であり、ぞっとしないものだった。「幸い――菊絵さんといいましたか――彼女の行く先は、常に屋敷のようです。そこで……如何でしょう。皆さんも百鬼夜行に加わってみる、というのは」「楽しそうですねえ」 団子を完食したガラが間の抜けた声で口を挟んだ。 それはともかく。 百鬼夜行に加わるのなら、それに遭わなければ始まらない。 先ずは、方法を考え、導き出さねばならないだろう。「さて。首尾良く屋敷に辿り着けたとして、其処には人に化身した付喪神が居ることでしょう。……『彼』は来訪者を酒宴に招くといいます。そうしてもてなす代わり、『客』に芸や歌、珍しい話を所望してくるのだそうです」 奇妙なことだが、この付喪神は娯楽に飢えているようだ。「思うに、『彼』を楽しませることで、厄を払えるのではないかと」 その結果、付喪神との対話さえ可能になり得ると、槐は考える。 巷を騒がす百鬼夜行を収めて貰うよう頼むのも良いだろう。 あるいは、今後に有益な情報を引き出すべく問いかけるか。 巧く取り入れば、土産のひとつぐらいあるかも知れない。「何か持ち帰ることができたなら、僕のところへ。流石に屋敷丸ごととは、いかないでしょうけれど」 槐は冗談に伴い笑ったが、すぐに口元を引き締めた。「ただ、相手は幾星霜も永らえた、おそらくは強大な存在です。『その中』に踏み込むわけですから……くれぐれも機嫌を損ねたりせぬよう、お気をつけて」 それは、かつて朱昏を旅していた者の経験則でもあるのだろう。 重い、忠告だった。「最後に、菊絵さんについて。如何にして死人を率いているのか。そもそも、何者なのか。……余裕があればで結構です。探ってみて下さい」 槐の言葉の後、ガラは一方的な人物評を添えて、締め括った。「少し、ひねくれてそう。でも、悪い娘じゃないですよう。たぶん」
瓦葺に土壁の建屋群が所狭し犇き合うように見えるのは、整然と並びながらもひとつひとつが狭く、階層に関わらず背が低い為か。どちらを向いても威勢良く活気に満ちた往来の忙しなさが、そう思わせるのか。 その光景は、生粋の現代日本人たる鹿毛ヒナタをして『リアル時代村』と言わしめたが、同時にどこか異質であることもまた、肌に感じられた。 似通ろうとも所詮、彼我は異邦に過ぎぬゆえか。さもなくば合わせ鏡の違和感。 あるいは、その両方か。 昼前に到着した旅人達を迎えたのは、ともあれそんな不思議な街だ。 壱番世界になぞらえるなら、地理は東京、古くは江戸。 されどその名は花の京。 出発前聞かされた西国の都は、名に恥じぬ賑わいぶりを見せていた。 ● 「イーよ」 行き交う町人とすれ違い、また追い越されながら、おもむろに、ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは、澄んだ瞳を隣の派手な男に向けた。 「わたくしは日本を知るために古物語を読むことがあるが」 「へい」 「彼の地における付喪神は、敬意を払えば良き神となり、粗末に扱えば悪しき神となると聞く」 「なるほど。まるで幼子のようでございますねぇ」 「その通りじゃ。この朱昏でも同じとは限らぬ。が――此度の騒ぎなど、いかにも子供の悪戯そのものではないか?」 百鬼夜行など顕現せしめながら、やることはただ巷を驚かせているだけというところに真意が垣間見える――ジュリエッタは、そう考えていた。 「ひゃっきやこーだかひややっこだか知らないけど、普通に楽しめば良いんじゃない?」 そこに蜘蛛の魔女があっけらかんとした調子で口を挟む。 「ははっ、こりゃ一本取られやした! 百鬼夜行を捕まえてひややっことは、お天道様でも思いつくめぇ」 イーの賞賛に蜘蛛の魔女がキキキと笑う。 「……面妖じゃのう」 「ま。やっこさんはさて置くとしても、蜘蛛のお嬢の仰るとおりでさ」 「そうか?」 「そうですよ。ヒナタの旦那をご覧なせぇ」 言われるまま、ジュリエッタは雑踏の中でデジタルカメラを構える青年、鹿毛ヒナタに目を向ける。彼は花京に着いてからというもの、町並を、道行く町人達を、隙あらば撮影していた。 ヒナタもまたジュリエッタ同様コンダクターであり、かつての日本に酷似したこの地に並々ならぬ興味を示していた。また、いささか軽くはあるものの、その想いに純粋というか、忠実だ。 「ね。あんな調子で今から目一杯楽しみゃ、今宵も盛り上がるってもんですよ」 「かくいうそなたも随分と愉しげじゃが」 「そりゃあもう!」と芸人は己の頭をはたく。 「百鬼夜行を経験できる人間が世の中に何人おります? ぞっとするどころか、実に楽しそうじゃあございませんか!」 大抵のことには動じないジュリエッタも、これには呆れた。 「やれやれ」 しかし、付喪神を楽しませるのが仕事なら、こちらも楽しむぐらいで良いのかも知れない。少しは肩の力を抜くべきだろうか。 少女が息を吐く傍で、蜘蛛の魔女がなにやら思案げに指をくわえていた。 「ええと、こういうの壱番世界のことわざでなんて言ったっけ?」 蜘蛛の魔女の言わんとするところを掴みかねて、ふたりは怪訝な顔をした。 「諺、でやすか?」 「はて」 「なに、なんの話?」 撮影に満足したのか、そこに丁度戻って来たヒナタも耳を傾ける。 「あ」 やがて魔女は閃いたらしく、改心の笑みを浮かべた。 「『据え膳食ったら桶屋が儲かる』だったか。キキキキキ!」 「……なにそれこわい」 「色々違う気がするのう」 ただひとり、イーだけは大いにこれを喜んだという。 東野楽園がドレス姿で花京市中を歩く様は、見る者が見ればまるで東国からの来訪者であり、そのことを名で示しているようでさえある。 楽園は、早々に仲間の元を離れた。 百鬼夜行も付喪屋敷も全ては夜。 ならば、昼の間に少しでも情報を集めたい。 楽園が特に注視すべきと考えたのは、屋敷そのものの謂れについて。 如何なる因縁がはたらき、如何にして闇と歴史にまぎれたか。 誰もが知り、誰も知らない存在。 その哀しい矛盾は、彼女達ロストナンバーにも通ずる。 「確かに人騒がせだけれど、別段害がないなら放っておいていいと思うわ」 朱昏行きの列車の中で、楽園は仲間にそうこぼしたものだ。 だが、知りたいこともある。だからここに居るのだ、と。 今、楽園は表通りから外れ、平民の居住区と思しきところに来ていた。 この辺りでは茅葺屋根も混ざり、長屋などが散見される。 既に三軒翁を訪ね、得た話は何れも断片に過ぎない。 文献もあたるべきかと楽園が次の目的地を決めかけていたところ、見覚えのある背広の男が視界の隅をかすめた。 あらと声をあげれば、男――ヴィヴァーシュ・ソレイユはどうもと述べる。 「調べものかしら」 「ええ。過去に百鬼夜行が現れた道を、聞いて回っています」 「順調なの?」 「それなり、ですね。この後は、符術に精通した方を捜すつもりです」 「そう」 ヴィヴァーシュは楽園の問いかけに、ただ淡々と答える。 自分からは語らず、また訊ねもしない辺り、実にこの男らしい。 それにしても身体が資本のタイプでもなかろうに、と楽園は思う。 「フィールドワークだなんて、似合わないことしてるのね」 「自覚はあります」 楽園の率直な感想も、変わらぬ調子でヴィヴァーシュは肯定する。 「馬鹿にしたわけではないわ。お互い様だもの」 事実、楽園に悪気はないが、気分を害しても不思議はない。 しかし、気難しそうな美丈夫の顔色は普段と変わらぬままだった。 「気にしていません。お互いに」 「ありがとう」 そうしてニ、三遣り取りしてから、ふたりはまた別々に歩き始めた。 「じゃ、通り道になったのはこんなもん?」 「聞く限りでは」 程無くヴィヴァーシュが合流してから、旅人達は桟橋の下にたむろしていた。 今は、ヒナタが調達した花京の地図を広げ、これまで百鬼夜行が目撃された通りに印をつけているところ。そして、皆それを覗き込んでいる。 「なにやらあちこちに散らばってやすねぇ」 「私も、そこが気にかかります」 イーの言葉にヴィヴァーシュが頷く。 ヴィヴァーシュは何度も通った場所に現れ易いのではと見立てたが、ただのひとつも重複しない。この結果は逆に不自然ともいえる。 同じ道では駄目なのだろうか。だとすれば、その理由は。 「この中に墓地か霊廟はあるか?」 そこにジュリエッタが、一石を投じた。 「墓地ってと、いち、に、三箇所――……って、あー。そゆこと」 ヒナタは指差し数える最中、その意図するところに合点がいった。 「ははぁ。槐の旦那が仰るに『百鬼夜行は死人の列』でしたっけね」 イーも切れ長の目を片方つむり、もっともらしく首を傾げる。 ヴィヴァーシュにも思い当たる節があった。 今にしてみれば、百鬼夜行の噂には、火事や入水、刃傷沙汰に不治の病――不幸な出来事ばかりが付きまとっていたように思う。 亡くなった現場か縁あるところか、埋葬先か。 何れにせよ、霊魂とは普通、人が死んで生じるのだから、集めたければ未踏の区画を巡った方が効率的だろう。 「つまり……次に現れる可能性があるのは」 「まだマル付けてないこの辺てわけね」 ヒナタが、そのどちらでもない墓地の一箇所をぽんと指で叩いた。 「しかし、自分で言うておいて何じゃが、必ず墓所に出るとは限らぬよなあ」 「テキトーに歩いてればその内見つかるんじゃないの? ……って言いたいところだけど、それじゃ確実とは言えないのよねぇ~」 ジュリエッタの不安はもっともだと、蜘蛛の魔女が節足の先で頬を掻く。 「ならオウル三体で空から行列をサーチすりゃ何とかならん? 流石に花京全部は無理でも、今回は目星ついてんだし」 「なるほど。それなら、見つけがてらで先回りもできるってもんです。ええと、ヒナタの旦那とジュリエッタのお嬢。それに……」 はて、と顎を掻くイーだが、やがてこちらに近付く人影に気付き、「や。これはこれはお帰りなさいまし」と恭しい礼をした。 皆釣られてそちらを向けば、涼しい眼をした少女がうすく笑みを浮かべて、夕日を背に土手沿いを歩いてきた。 「話は纏まったのかしら?」 オウルセクタン『毒姫』を従えた、楽園である。 ● 旅人達が墓地の前に張り込んでから、どれほどの時が過ぎただろう。 今は、楽園、ヒナタ、ジュリエッタのセクタンが闇夜の空にまぎれて、周辺一帯を注視している最中だ。 夜の帳が引かれれば、人気もまた引いてゆく。その様は、海にも似ていた。 風は柔らかく、空は晴れていたが、新月なれば闇は深い。 街灯など無い都は、あたかもそれ自体が寝静まったかのようだ。 あるいは、人ならざる者をやり過ごす為に息を潜めているのか。 その気持ちは解らなくもないが、どちらかといえばヴィヴァーシュが苦手とするのは怪異よりも闇そのものだった。 「平気か? そなた。顔色が優れぬようじゃが」 浴衣姿に番傘といった町人風の眼帯男を気遣うのは、華奢な体躯を白装束で包んだ、ともすれば大妖怪への供物の如き扮装の少女。 「問題ありません。……私よりは、彼を」 ジュリエッタに答えたヴィヴァーシュは、先程から明らかに挙動不審なヒナタをちらりと見た。 「何が? 得意だけど?」 「得意?」 比較的小声で話していた二人に過敏なまでの反応。声もやや大きい。 おぼろげに窺える墓石は不揃いながら整然と並んでいる。 虫が鳴くには未だ早く、柳に似た枝垂れ木の葉に饐えた匂いと、静けさも相俟っていかにもな雰囲気が醸し出されており、たとえば草葉の陰から何が涌いてもおかしくない。 「確かにただごとではなさそうじゃ」 「――そうね、ただごとではなくてよ」 しょうがないのうと溜息を漏らすジュリエッタに、楽園が声をかけた。 「近くまで来ているもの」 皆、振り向く。 「お、ひややっこ?」 「おいでなさいました?」 ジュリエッタとヒナタも、それぞれ『マルゲリータ』と『舟』を『毒姫』の傍へ移動させる。眼下には、一行の現在位置から二つ離れた細い路地。 三羽のフクロウが望む深い闇の底には、三味線を構えた少女が、ひた、ひた、と危うげに歩いているのが視えた。 そして、その後ろ。 「聞いていた通りじゃな……」 五名ほどの歩幅も歩調も異なる町人達が、けれどもなぜだか先頭の少女と全く同じ速度で、列を成して追従している。その姿は暗がりだというのにはっきり視認でき、一方で見る者に希薄な印象を与える、矛盾した存在。 「で、どうすんの行くの?」 「そうですね。こちらに来るとも限りませんし……」 ヒナタとヴィヴァーシュの遣り取りに他の三人も加わろうとした矢先、ひとり、蜘蛛の魔女だけは百鬼夜行の居るであろう方角に向かい、雨乞いの踊りのような妙なステップを踏み始めた。 「ほ~ら、じゃろーぐもだよぉ~。素敵なモノノケがここにいるよ~。早くひややっこおいで~」 「もしかして……呼び寄せるつもりなの?」 楽園の問いに蜘蛛の魔女はにっこり頷く。 「だって、ひややっこって化け物とかが並ぶやつなんでしょ。じゃあ、私のこの風貌なら迷わず誘いに来るんじゃない?」 「そりゃ面白そうです。どれ、俺っちもひとつ」 蜘蛛の魔女の発想に感じる体で、イーは自前の三味線を構えた。 やけに準備が良いあたり、端からその気でいたのかも知れないが。 ともかく、イーは撥で数度絃を撫でるように弾いてから、にやけた口元を引き締めて、息を大きく吸い込む。 どこからともなく流れる、激しくも悲しい調べは、異界の唄。 けれど、そんなことさえ知る由もない瞽女の耳に、ひどく馴染む。 決して定まることのない眼を見開いて、菊絵は遠い旋律を振り返った。 巧みな演奏に乗っているのは男声。 だが、これは……瞽女唄。 「だれ……?」 菊絵の問いに応ずる生者は、ない。 死人は、ただついて来るのみ。音が近付く気配もない。 ならば――。 べべん。 イーの朗々とした歌声に、重厚で大きな、恐らくは太い絃を叩く音が重なる。 実際はさほど離れていないのは、コンダクター三人が既に確かめていたが、月明かりもない中、旅人全員がその正体を視認するには暫しの時を要した。 人数は、共に六名。 だが、あらゆる意味で対照的な二者は、やがて邂逅を果たした。 亡者の列がいよいよ近付くと、日傘を差して待ち構えていた楽園が、まずは前に進み出る。 「素敵な夜ね。私も混ぜてくださらない?」 幼い奏者、菊絵が、楽園の前で立ち止まる。 そしてぎこちなく、微かに首を回して、言った。 「すきにすればいい。でも……どうなったってしらないよ」 その言葉に、楽園はくすりと笑みを返した。 「……上等だ」 代わりに(百鬼夜行からもっとも離れた場所から)応じたのはヒナタだ。 後に、菊絵は少しだけイーが鳴らす三味の音の方を向いたが、すぐにまた前をみて、一度べんと鳴らすと、再びよたよたと歩き出す。 ぞろりぞろりと目の前を過ぎていく透けた姿の一団。 その最後尾に楽園は旅行鞄を鳴らし、躊躇なく加わる。 これに蜘蛛の魔女、イー、ジュリエッタと続き、ヴィヴァーシュも倣おうと足を踏み出すが、前にヒナタが居ないので、後ろを見た。 「……? 行かないんですか?」 ヒナタは仁王立ちのまま、身を強張らせている。 「往くさ! 俺はゾンビや幽霊と渡り合った歴戦の猛者だぜ……? 廃墟好きが高じてホラーゲームに興じた耐性舐めんな!」 「…………そうですか。では」 後半部分はヴィヴァーシュにはひまひとつ判らなかったが、ともあれヒナタは気合充分な様子だ。力んでいるのは武者震いなのかもしれない。 「相手はよく出来たポリゴン今をときめく3D。怖い事は無え……!」 意気(という名の自己暗示)を抱いて、鹿毛ヒナタ、いざ参る! ヒナタは黒眼鏡越しに見開き、第一歩を踏み出した。刹那。 彼の両脇を、幾人かが次々と追い抜いていった。 既に仲間達は皆百鬼に紛れている。 つまり、今ヒナタを抜いていったのは――。 「まあ何てリアル!」 出鼻をくじかれたヒナタは悲鳴に似た声をあげ、どうにか自分を信じ込ませた。 生死入り乱れた百鬼夜行の図。 存在と不在の狭間で、ある者は闇を、ある者は末期の苦痛を、ある者は傘を、またある者は三味線を携えて、明かりのない道を選んで、そぞろ歩く。 目指すは幽幻の屋敷。 いつからか、一行は大きな邸宅ばかりが軒を連ねる区画に来ていた。 三軒ほど過ぎたところ、ある屋敷の白い塀が注連縄で囲われていた。 梵字のようなものが記された札も散見されるが、風雨によるものか、ところどころに破損箇所がみられる。 そして、その先には、薄ぼんやりと朱い光の滲む門。 花京の民の誰もが知らぬその場所に、旅人達はとうとう辿り着いたのだ。 楽園は、葬儀の最中に似た息苦しさを感じ、微かに眉根を寄せた。 閉じられていた門は、菊絵が押すとあっけなく開き、死人の群れは庭先へ流れるように入っていく。 ヴィヴァーシュはヒナタを先に行かせてから、中に入らず注連縄を注視していた。 「…………」 ヴィヴァーシュが昼間聞いた話によると、こうした術は如何に霊験あらたかでも物理的には道具の機能そのままであり、たとえば縄ならば断ち切ってしまえば無効にできるという。 仮にこれが中の存在を出さぬ為のものならば、今のうちに外した方が有事の際は逃れ易いだろうか。それとも、無辜の民を危険にさらさぬ為に施されているのか。 幾つか考えながら、ヴィヴァーシュが縄に触れようとすると後ろから「だめ!」ときつい声で制止された。菊絵だった。 真っ先に中に入ったと思ったが、どうやら皆の様子を窺っていたらしい。 「さわらないで」 「すみません」 ヴィヴァーシュは番傘を畳みながら謝罪し、奥へ向かうべく踵を返す。 擦れ違い際、菊絵は「まだひつようなの」と言った。 ● 「呪われた家ねえ」 ヒナタはサンバイザーのつばをやや持ち上げつつ、屋敷を見上げた。 家とは人が住まねば瞬く間に痛み、荒れ放題となるという。 今、眼前に広がる邸宅は、なるほど見目にも傾き、外壁はところどころ剥げ落ち、。草木が伸びるままに荒れ放題の庭のそこかしこで建具やら屋根瓦やらが飛散し、砕けている。 ヒナタにとっては趣深くもある一方で、こんなところに閉じ込められ住まねばならぬ存在の心は如何ばかりかと思わずにはいられない。 (結界のせいで孤独死寸前だから、座興で癒されたいんかね?) 「ほら、置いてかれますよ旦那」 既に玄関へと集いつつある皆とヒナタの間で、イーが声をかけた。 それは困ると慌てて駆けて来るヒナタを待っている間、イーはこれほど草が茂る中、花は元より葉も見当たらぬ、一本の巨木を眺めて何事か考えていた。 「どしたん?」 「やあ、なんでもありませんよ。さあさ皆さんお待ち兼ねです。参りやしょう」 眼鏡を下げて上目遣いに窺うヒナタを促して、イーは奥へと歩き出した。 ヒナタは今しがたイーが見ていた方を向く。 まだ春になりきらぬ、色あせた庭。そこに佇む、一本の枯れた樹。 それは、この屋敷と瓜二つに思えた。 傾いた家の閉じそうもない玄関戸は、半開きのまま邸内からの薄明かりを漏らしている。その前に、イーにも劣らぬ派手ないでたちの、女形のような化粧をした若い男が、そわそわしながら立っていた。 「ほ。揃ったようじゃの」 甲高くも柔らかな声の男は、煌びやかな扇子を広げ、口元を隠した。 睫毛の濃い二重瞼を細めて、なんとも楽しげな様子だ。 「今宵はまた遠路はるばるようこそこなたへ。……はて、なにやら珍客が」 旅人達の姿に気付いてか、けれど落ち着きのない素振りをしていた割にはそのことで微動だにせず、ただ菊絵に視線を送る。 菊絵は「そう?」とそ知らぬ風で、ただ首をかくんと傾けた。 「こなたの気のせいか……まあ良い。さ、疲れたであろう皆の衆。ささやかながら酒宴の席を設けておる。存分に楽しみ――楽しませておくれ」 べべん。 男が言い終えた直後、菊絵が絃を叩く。 すると、死人達は一斉に、男の脇を通り抜けて邸内へと入っていった。 終始、無言のまま。 僅かな間を空け、ロストナンバー達も後を追う。 菊絵がそれに続き、菊絵に男がしずしずと寄り添って、庭先は無人となった。 暫くして、閉じるはずのない戸が、ぱたんと閉じた。 「飯が足りんぞ~。お腹空いた~。もっと食わせろ~」 蜘蛛の魔女は、亡者達のへたくそな踊りや歌に目もくれず、はじめから暴飲暴食の限りを尽くしているが、その要求は自動的に満たされていた。 なにしろ目を離せばいつの間にやら手元の皿に料理が乗り、湯も酒も決して尽きることがない。 そこは付喪神たる屋敷なればと片付けてしまいそうになるが、ヴィヴァーシュはいつか世界図書館で読んだ、壱番世界の逸話を思い出していた。もっともあれは山中の出来事だが。 少し前、百鬼夜行であった者達は、広い座敷に通されていた。 丁度出入り口の襖の向かい一面が障子戸で仕切られており、そちらは庭へ通じる縁側のようである。 邸内は外の荒れようとは真逆で小奇麗に保たれており、まるで奉公人が常日頃から怠りなく手入れしているかのようだ。 また、玄関から長い廊下とこの間に至るまで、外観にみられた歪みは一切ない。 それは並み外れた空間把握能力を持つヒナタでなくとも訝しむに足るほど明らかだ。 「てかありえなくね? 物理法則超越してるし」 「しっ……! 滅多なことを言うものではないぞ」 「そうですよ旦那。言ってみればここはもう、あちらさんの腹の中です」 むしろ荒廃ぶりを期待していたヒナタのぼやきを、ジュリエッタとイーが小声で嗜める。 「……どんな一寸法師?」 そうした遣り取りを経て、程無く宴が始まるが、これがどうにも暗い。 死人の芸の大方は歌や踊り。だが達者な者は居らず、正直観聴きするに耐えないほどだ。他に、話などもあるが暗鬱なものばかりで、少なくとも命ある者にとっては格別に居心地が悪かった。 ただ、付喪神の化身と思しき男だけは、普通に楽しみ、終えるごとに惜しみない拍手と賞賛を送っていた。 加えてイーが幇間役に徹し、ことあるごとにやいのやいのと声をかけるので、今のところ辛うじて通夜にはならず済んでいる。 その向かいの席で、ひたすら付喪神の様子を観察していた楽園は、滑稽で悲しい酒宴に小さな溜息を漏らした。 じき、亡者達の演目は全て終わる。 楽園が傍らの鞄を指でなぞり、機を窺っていると、最後の歌に拍手喝采を浴びせながらイーが立ち上がった。 「いやはや素晴らしいですな。こちらも負けてはいられません」 「お? お? お? 何をする気じゃ」 付喪神が幼子のように目を輝かせてイーに擦り寄る。 「宴には花が必要と、そうは思いませんか?」 「花、とな?」 「いかにも花でございます。と、いうわけで」 付喪神が目をぱちくりさせながら、大人しく見守っていると、イーは障子を開け放った。そこは丁度、あの巨木と背比べにも飽いた草の茂みに面した縁側。 「枯れ木に花を咲かせやしょう!」 イーがふわりと手をかざせば、たちまち庭は大小さまざまな花が咲き乱れた。 続け様、今度はひらりと手を払い、枯れたかに思われた樹から、薄紅の大輪が次々咲いていく。 終には、まるで森の奥深くで偶然見つけた秘密の園。 根元に程近い辺りには、あの朱(あけ)の姿もある。 季節さえもなく、ありとあらゆる花が、和気藹々と話しているようだった。 イーは座敷へ向き直り、ゆらりと礼で締め括った。 「見事! 思えば庭に花をみぬまま幾年過ぎたことやら……あな美しや」 付喪神はイーを労い、うっとりと庭を見つめた。 「それはそれは。おぼえめでたい花達も恐悦至極でございましょう」 「うまいことをいう」 「せっかくのお言葉恐縮ではございますが、俺っちの芸はこれにてお仕舞いです。でも、ここに集った者達が、きっと盛り上げてご覧にいれます」 イーは自分如き前座に過ぎぬとばかり、仲間達を手で示した。 これを受けて、付喪神は俄然期待に胸を膨らませたようだ。 「なんとも、なんとも楽しみなことじゃ。のう菊絵よ」 付喪神に振られても、やはり菊絵は「そう」とそっけなく答えるだけだった。 ● 次は誰ぞと付喪神が問えば、名乗り出たのは楽園である。 楽園は旅行鞄を開けると、黄金色の朝顔が生えたような不思議な箱を取り出した。 「これは……蓄音機かのう?」 「すげ……」 「数十年ぶりに、故郷の島を訪ねたの。すっかり廃墟になっていたけど、これだけは無事だった」 真っ先に目を見張ったのはジュリエッタとヒナタである。 ついでに廃墟という言葉でヒナタは更にときめいたが、それはともかく。 「して、その箱は如何様にするものじゃ」 「すぐわかるわ」 付喪神は促すが、楽園はあえてもったいつける。 開かれた鞄の蓋越しに何事か操作をし、手が止まったと思えば、やがて朝顔からゆったりと優雅な調べが流れ、座敷に染み渡らせた。 「祝詞? 否。しかし何であれ、実に美しき調べよな……」 付喪神が感嘆するのは想定内。むしろ注目すべきは片隅に座した菊絵の様子。 自身も三味を繰るからか、半ば口を開けて耳慣れぬ楽奏の妙に心奪われていたようだった。 僅かの間、その姿に微笑んだ楽園は、再び視線を付喪神に向ける。 そしてスカートを摘み上げると一礼をした。 「? なんぞ?」 「淑女をエスコートするのは殿方の勉めよ?」 「……? えす、こおと……? ???」 当然ながらさっぱり判っていない付喪神を可笑しそうに笑って、楽園はダンスの指導を始めようと片腕を差し出す。 「いいわ、教えてあげる。まずは私の手をとって」 「手を……」 付喪神が袖から細くも存外大きな手をあらわにして、目の前の手を掴もうとするが、あろうことか、重なり合ったかと思えばすり抜けてしまう。 朱の着物の美丈夫はやはり駄目かと寂しげに笑った。 人の姿を真似てはみても、その在り様が判らぬゆえか。 「……駄目?」 楽園は確かめたが、付喪神は答えず、振り向くとしゃがみ込んでしまった。 途端、庭の方から肌寒い風が吹き込み、室内の灯火が一斉に消えた。 丁度アナログ盤の再生も終わり、俄かに静寂が支配した。 耳鳴りを誘う空気が、ぞろりとしたものに移ろう様が伝わってくる。 このままでは――そう、誰もが思いかけた瞬間、威勢の良い声が響き渡った。 「さあてお次はこちらの御仁! どちらも花もご覧なすって!」 イーがまくしたてた直後、低いところでじわりと丸い明かりが点く。 手毬のようにゆっくりと弾み、また膨らんで。 大きくなるにつれ光は鮮明となり、周囲を照らすようになる。 それがヴィヴァーシュによるものだとようやく見て取た、その時。 光る鞠は宙に舞い、弾けて部屋中に散った。 「なんと趣深い……まるできら星のようではないか! のう菊絵よ!」 「そうね」 その光景に心奪われた付喪神は、はしゃぐ子供そのものだ。 気遣っているのか、菊絵も幾分穏やかな口調で相槌をうつ。 「恐れ入ります。灯り代わりにでもなればと」 ヴィヴァーシュは淡々と述べたが、言葉通り光はいつまでも消えず、部屋中を満天の輝きで照らしていた。 星見の高台さながらの光景、そして。 「はいはいは~い! 次は私!」 その余韻を打ち破りし者――蜘蛛の魔女は元気一杯に両手と八本の足をばたつかせて、己が出番と主張する。 「いよっ、待ってました!」 すかさずイーが景気良く声をかけて盛り上げにかかった。 が、屋敷の化身は先刻までのように手放しで喜ぶわけではなかった。 「ほう? 風変わりな客ばかりとは思うていたが……よもや菊絵の『ぶん』以外にもあやかしが紛れておるとは。妙なる邂逅とみるべきか、さて……」 その威風に先刻みせた惰弱さなど微塵もなく、いっそ妖怪じみた妖しい笑みで、何やら謎めいたことを言う。薄ら寒く、迫力のある口調で。 やはり、この存在は人ではないのだと、旅人達は思い知る。 (それにしても) 楽園は今の言葉の意味を考えていた。 (付喪神は彼だけではないの? 菊絵の『ぶん』? まさか……) 「? なんだかわかんないけど、ちょっと菊絵ちゃん借りるよ。それに楽園ちゃんジュリエッタちゃんも、こっち来て~」 楽園とは対照的に、蜘蛛の魔女はさほど気にするでもなく、それより芸と言わんばかり小柄な娘子ばかりを手招きする。 「きくえも?」 「なにかしら」 「また藪から棒じゃのう」 何をする気なのかと訝しみつつも、呼ばれた三人はとりあえず従った。 「それじゃ……キキキキキキ」 にやあとあどけなくも妖しい笑みを浮かべ、背に生える足をわきわきさせた蜘蛛の魔女は、次の瞬間、底抜けに明るい声で演目を宣言した。 「蜘蛛の魔女、お手玉ならぬ『お手人間』やりま~す」 「おて……って!?」 菊絵が聞き返す間もなく、黒毛に覆われた節足の一本が、その小さな身体をひょいと宙に放る。 対の脚に菊絵が天井すれすれまで浮いた頃、今度は楽園が、 「……っ」 次いでジュリエッタが、 「待てっ」 放りあげられ、テンポの良い回転に巻き込まれてしまう。 文字通りの力技だが、それだけに見応えのある演目足り得た。 二分ほど『お手人間』は続き、さしもの三人娘も目を回し始めた頃、蜘蛛の魔女は突然皆を宙に放り投げ――背の足三本を用いて、一人一人受け止めた。 最後にべんと一度鳴らし、演奏も終わる。 「はい!」 両腕を広げて蜘蛛の魔女が仕上げる。 「蜘蛛の眷属の膂力、かねてより聞き及んではいたが大したものじゃ」 賞賛の言葉とは裏腹に付喪神は寂しげであったが、それは深く沈みこむようなものではなく、いっそ清々しくさえある。 「そなたが羨ましくあるぞ。強き力を持ちながら、友にも恵まれておるなど」 やはり、この付喪神は孤独に苛んでいる。 (そういえば) 屋敷に来て暫くは重苦しかった空気が、今は幾分ながら軽やかだ。 そのことに気付いた楽園は、ふと周囲を見た。 「…………」 百鬼夜行を共にした亡霊達が、ひとりも居ない。 楽園は問いかけるかのように菊絵を振り向いた。 菊絵は、何も見ていない目を開けたまま、とぼけた顔で首を傾げていた。 ● 「では、わたくしの番かのう」 座の中央より女性陣が退散して間もなく。 ひとり居残ったジュリエッタが、イーに目配せしながら姿勢を整えた。 「と言っても、わたくしは皆のような異能を具えておらぬゆえ……ひとつ、昔話をしようと思う」 「聞きたい! 聞きたいぞ!」 「慌てるでない。逃げはせぬでな」 付喪神の子犬の如き反応は最早鬱陶しくさえあるが、これが必ずしも悪しき者ではないことの証にも思える。 いっそ完全に厄を払ってしまいたいものだ。 ジュリエッタは決意も新たに、語り始めた。 勿論イーの三味線による伴奏つきである。 それは中国に数多ある怪奇譚の一節。 呉の時代、ある農夫が家畜に引かせた車で出かけた折、琵琶鬼と呼ばれる妖怪に二度おどかされてしまう話。 琵琶鬼は日暮れの頃、少年の姿で便乗を求めてくる。 これを認め乗せてやると、少年は車中で琵の音を披露。 農夫は心地良く聴いていたが、少年は弾き終えるや否や、たちまち鬼の形相となった。 鬼は農夫を散々おどしてから、どこかへ立ち去っていった。 それからまた暫くして、今度はひとりの老人が現れ、やはり便乗を申し出た。 前の少年のことで懲りていたが、このお人好しの農夫はその老いたるを憐れんで、結局乗せてしまうのだ。 「男は車中で老人に話しかけた。『先程酷い目に遭いました』。老人が『どうしたのですか』と訊ねるので、農夫は鬼と同道した一部始終を話した」 ジュリエッタの語りは合気の体捌きを交えて、大袈裟な身振りで脚色されている。 「『それにしても鬼の琵琶を初めて聴きましたが、実に哀しいものですよ』。しみじみと語る農夫に、老人はこう言った。『私も琵琶をよく弾きます』と。そして――」 ジュリエッタが区切ったところで、伴奏も一拍置かれた。 直後、ジュリエッタは彼女なりのしかめっ面で、付喪神に飛び掛る仕草をしてみせる。 「よもや二度も琵琶鬼に出くわすとは思わなんだろう。農夫は『あっ!』と叫び、気絶してしまったということじゃ……」 ジュリエッタは目を見開いて卒倒する真似てみせた。 「その後、農夫はどうなったのじゃ? 大事ないのかえ?」 「さてな。最初と同じにただおどかされたのか、さもなくば……いや、ここから先は言わぬ方が良かろうて」 付喪神がわなわなと手を震わせながら問うても、ジュリエッタは腕を組んでもったいぶるばかりだ。 「……うらめしや。だが、良い話じゃ。どこかで聞いた出来事にも思えてくる。なんだったかのう、菊絵」 菊絵は返事の代わりに強く絃を鳴らした。 「おお、そうかそうか。そうじゃな」 付喪神も合点がいったか、うむうむと頷く。 ジュリエッタと入れ替わり、ヒナタが気だるげに進み出た。 「ん。つぎ俺ね。あーっとごめん明かり消せる? 無理?」 ヒナタの要請を受け、ヴィヴァーシュが掌を仰ぐと座敷は再び闇に染まる。 「ありがと」 短い礼と共にヒナタはマグライトを点し、白壁一面を丸く照らした。 「ま、なに。前のがちょっと歌舞伎ぽかったし? 狂言でもやるかって」 「狂言?」 「まあ観てて」 はてと悩める付喪神を軽く流し、ヒナタは落ち着く姿勢を忙しなく探っていたが、程無く片膝を立てて、トラベルギアでもある黒眼鏡に手をかざした。 すぐにヒナタの足元から、光めがけてじわじわと影が伸びていく。 それは途中で幾筋かに分たれ、各々が袴姿の人を象り、ついには丸い画面にひょっこりと躍り出た。 「じゃ。鹿毛ヒナタ、影絵で『附子(ぶす)』やりまーす」 附子といえばもっとも有名な狂言のひとつであり、ヒナタが演目に選んだ理由も、つい先日テレビ放映されていたものを、趣味でたまたま観ていたからだったりする。のだが。 (ってやべ。台詞とか覚えてねえ。……ま、大筋合ってりゃいいや) と言うわけで、純然たる狂言よりは脚色された人形劇に近そうだ。 物語は、主が外出するところから始まる。 留守を使用人の太郎冠者と次郎冠者に預けるにあたり、主は「附子という名の毒が入った桶には決して近付くな」と言いつけるのである。 しかしふたりは好奇心を抑えきれず、主の影が外へ出てからとうとう桶を開けてしまい――毒と言われたその中身は、しかしとても美味そうだった。 「太郎冠者と次郎冠者が意を決して舐めてみると、甘くて頬っぺたが落ちそうになりました。それもそのはず。それは附子などではなく、砂糖だったのです」 つまり、主は貴重な砂糖を隠す為、嘘をついていたのだ。 そう看破した直後、ふたりの影は我先にと奪い合い、時に互いを殴り飛ばしたりしながら、瞬く間に桶の中身を全て平らげてしまう。 「やがてふたりは事の重大さに気付きます。主が帰ったら、どう言い訳したものか」 ここでふたりは一計を案じる。 太郎冠者は主の茶碗を回し蹴りで叩き割り、一方の次郎冠者は掛け軸をびりびりと花占いが如く千切ってばら撒いた。 そして戻るだろう頃合をみて、わんわんと泣き喚いた。 「そこに主が帰ってきました。主は破片や紙片の散らばる惨状に目を覆わんばかりですが、まず使用人に事情を聞いてみます」 太郎冠者曰く、主秘蔵の茶碗と掛け軸を壊してしまい、せめて死んで詫びようと附子を舐めた。次郎冠者曰く、死ねぬので困り果てて泣いている。 使用人達は、それだけ言うとまた大泣きし、壁に頭を打ち付けたかと思えば畳に伏せって嗚咽を漏らすなど、主が取り付く島もない。 「今更嘘と言うに言えず、主はただ途方にくれるしかありませんでした、とさ。これにていっかんの終わりでございまーす」 がっくりと肩を落とした主と悲嘆にくれるふりの太郎冠者次郎冠者に、上から幕代わりの影が降りる。 しかし、完全な闇にならない。 縁側から見える空は、白味を帯びた藍色をしていた。 「天晴れじゃ。精緻にしてよく練られた動き、影真似とは思えぬ。……しかし、あさましく滑稽な話じゃのう。人とはかくも醜きものか……」 「ま、ね。でもよっぽど欲しいと目の色変わるってやっぱり。……あんたもさ。ひとりが嫌でこんなことしてんでしょ」 「…………そなたの申す通りじゃ」 ヒナタの何気ない一言は、屋敷に来たばかりであれば命に関わったに違いない。 だが、今、あの居心地の悪さはどこにもない。 付喪神は目を伏せる。薄暗い中、その威容は出会った時の煌びやかさはなく、化粧気も失せて、朱の着物はくすんで見えた。 「聞いたわ。この家の――いいえ、貴方のこと」 楽園が、優しい声をかけた。 彼女が下町の古老から聞いた話によれば、この屋敷に関わることで凶事が起きるようになったのは、当時の主がそもそもの原因らしい。 その家主は金に汚く、裏であくどいことを相当やっていた。 神事は軽んじるどころか、むしろ唾棄する始末。 「あやつのことなど思い出しとうない。代々護ってやった恩を忘れ、挙句の果てに我が寄り代をどこぞの札屋に売り飛ばしおった」 「だから、祟ったのじゃな……」 ジュリエッタが確かめると、付喪神は微かに頷いた。 災いは留まるところを知らず、とうとう周囲の家にまで飛び火するようになった。 これを重くみた、おそらくは偶々居合わせた力の強い術士が、結界と封印を施したのだ。 「あれから幾年過ぎたのか。菊絵が門を叩くまで、ただ朽ちるのを待つだけの日々じゃった。……寂しかったなあ」 付喪神は懐かしんで、弱々しく笑う。 「私達だって同じだわ。時に人に忘れ去られ、いずれ消え逝くさだめ」 楽園の言葉は慈しみでもあり、真実そのものだ。 「同じ、か。不思議な者達よな。しかし、そなた達のお陰で、まこと楽しかった。名残惜しいが……そろそろいかねばならぬ」 「いく?」 「うむ――菊絵。頼むぞ」 菊絵は目を瞑り、無言のまま三味線を叩く。 ゆっくり力強い、可愛らしく、哀しい曲。 調べに合わせ、付喪神の姿はあの亡霊達のように透けていき、輪郭も徐々に曖昧なものとなっていく。 そうして殆ど見えなくなった頃、付喪神は満足そうに笑っていた。 「目が見えないのに達者ね」 付喪神の化身が完全に消えてから、楽園は菊絵の腕前を素直に感心した。 「きくえなんかまだまだだ」 「そうかしら……まあいいわ。それより、貴女の目的を教えてくれない?」 「もくてき?」 楽園の率直な問いに、皆も耳を傾ける。 次第に空が白んでいく中、菊絵は眼を伏せたまま「うん?」と考え込んでいる。 「よもや、伊達や酔狂で霊魂を率いていたのではあるまい」 ジュリエッタに言われ、やっと考えがまとまったようだ。 「みたまをきれいにするの。ひとも、ものも、けものも」 菊絵からは随分と言葉足らずな答えが返ってきた。 「これから、どうするの?」 「さあ」 菊絵は、縁側に腰掛けて、退屈そうに足をぶらぶらさせていた。 親を待ち惚ける、子供の姿だった。 その後、花京で百鬼夜行を見かけることは、なくなったという。
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