その日、世界司書たちは図書館ホールに集められていた。なんでも館長アリッサからなにかお達しがあるというのである。彼女が新館長に就任してから初めての、正式な館長通達。一体、何が発せられるのかと、緊張する司書もいた。「みんな、こんにちはー。いつもお仕事ご苦労様です」 やがて、壇上にあらわれたアリッサが口を開いた。「私が館長になるにあたっては、いろいろとみなさんにご迷惑をおかけしました。だからってわけじゃないんだけど、世界司書のみんなの『慰安旅行』を計画しました!」 慰安旅行……だと……? ほとんどの司書たちが言葉を失う。「行き先はブルーインブルーです。実はこの時期、ジャンクヘヴン近海で、『海神祭』っていうお祭りをやってるの」「あ、あの……」 おずおずと、リベルが発言の許可を求めた。「はい、リベル。バナナはおやつに含みます」「そうではなくて……われわれが、ロストレイルに乗車して現地に向かうのですか?」「あたりまえじゃない。慰安旅行なんだもの。年越し特別便の時に発行される、ロストメモリー用の特別チケットを全員分用意してあります。あ、念のため言っておくけど、レディ・カリスの許可もとってあるからね!」「……」 そうであるなら是非もない。 時ならぬ休暇に、司書たちは顔を見合わせるばかりだったが、やがて、旅への期待が、その顔に笑みとなって浮かび始めるのを、アリッサは満足そうに眺めていた。「コンダクターやツーリストのみんなのぶんもチケットは発行できます。一緒に行きたい人がいたら誘ってあげてね♪」 さて。 この時期、ジャンクヘヴン近海で祝われているという「海神祭」とは何か。 それは、以下のような伝承に由来するという。 むかしむかし、世界にまだ陸地が多かった頃。 ある日、空から太陽が消え、月が消え、星が消えてしまった。 人々が困っていると、海から神様の使いがやってきて、 神の力が宿った鈴をくれた。 その鈴を鳴らすと、空が晴れ渡って、星が輝き始めた。 ……以来、ジャンクヘヴン近海の海上都市では、この時期に、ちいさな土鈴をつくる習慣がある。そしてそれを街のあちこちに隠し、それを探し出すという遊びで楽しむのだ。夜は星を見ながら、その鈴を鳴らすのが習いである。今年もまた、ジャンクヘヴンの夜空に鈴の音が鳴り響くことだろう。「……大勢の司書たちが降り立てば、ブルーインブルーの情報はいやがうえに集まります。今後、ブルーインブルーに関する予言の精度を高めることが、お嬢様――いえ、館長の狙いですか」「あら、慰安旅行というのだって、あながち名目だけじゃないわよ」 執事ウィリアムの紅茶を味わいながら、アリッサは言った。「かの世界は、前館長が特に執心していた世界です」「そうね。おじさまが解こうとした、ブルーインブルーの謎を解くキッカケになればいいわね。でも本当に、今回はみんなが旅を楽しんでくれたらいいの。それはホントよ」 いかなる思惑があったにせよ。 アリッサの発案による「ブルーインブルーへの世界司書の慰安旅行」は執り行なわれることとなったのだった。 ジャンクヘブンの片隅に、小さな広場がある。白い壁の家々にぐるりを囲まれた広場の真ん中には、人の背丈ほどの石造りの女神像が立っている。 路地から流れ込んだ暖かな潮風が広場で舞い踊る。家の壁に飾られた色鮮やかな花々や、女神像に冠せられた花冠や足元飾る花束の香りが、潮風と混ざり合う。「こっち!」 ランプの置かれた卓や折り畳みの簡易椅子が並ぶ広場の端で、赤茶色の犬の姿した世界司書は尻尾を振り回す。「ここ、夜、皆で鈴鳴らすところ!」 ランプの明りは最小限、皆で集めた土鈴を持ち寄り、静かに静かに鳴らすのだと言う。 世界司書のクロハナは、明るい空を見仰ぎ、青空から降る潮風の匂いを黒い鼻先で嗅ぎ、「こっちこっち!」 不意に広場から伸びる白い石畳の路地の一本へと駆け出す。道行く街の住人や観光客の足元を跳ねるように縫うて走る。軒から軒に渡され、潮風と陽を集めて白く光る洗濯物の匂いに黒い鼻先と黒い髭がひくひく動く。たくさんの人と旅先の街の祭りの空気に、くるりと巻いた尻尾をご機嫌にぱたぱた振り回す。 路地の先には、白い石を積み上げた岬が青い海へと伸びている。岬の突端には、白い灯台。灯台を飾る色とりどりの旗が海風にはためく。灯台に至るまでの道に、街の商店街から出張ってきた商人達が各々小さな天幕を広げている。魚介の炭火焼に果汁氷、真珠飾りに貝殻装飾、焼きたてパンに甘い焼き菓子。 人々の賑わいと食べ物の誘惑に時々惹かれながら(おやつのバナナは行きのロストレイルで食べてしまった)、クロハナは岬の先を目指す。「海!」 桃色の舌を牙の覗く口元からぱたぱた揺らし、「ジャーンクヘブーンっ!」 石積の道を黒い爪と肉球の足で力いっぱい蹴って、「旅たび旅ー!」 岬の先から思いっきり海へと飛び込む。腹を水面にぶつける。ぱあん、と派手な音が鳴る。「がぼがぼがぼ」 前肢でばっしゃんばっしゃん、泳いでいるのか溺れているのかわからない動作でしょっぱい波を叩く。「遠浅! 海底の砂地! あちこち、鈴。鈴沈めてある!」 半ば溺れながら、旅人達を海へと誘う。「探そう! 探して夜に皆で鳴らそう!」====!お願い!イベントシナリオ群『海神祭』に、なるべく大勢の方がご参加いただけるよう、同一のキャラクターによる『海神祭』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。====
太陽の熱と潮の香を抱いた風が、神埼玲菜の柔らかな栗色の髪を跳ね上げる。強い風に巻き上げられた髪を抑え、玲菜は伏せていた睫毛を瞬かせた。ふうわりとした優しげな茶の眼は、けれど僅かばかり寂しい色を帯びている。一途な瞳が見つめるのは、白い石が積まれただけの素朴な堤防と船着場の片隅の、小さな小さな女神の祠。 漁船が何隻か波に揺れるだけの船着場に、人気は少ない。付近の住人は路地を抜けた先の灯台岬に行っているのだろうか。 祭の会場のひとつであるらしい灯台岬は、幾つかの路地と家々を挟んでいるが、賑やかな声が風に乗ってここまで響いてきている。 小さな祠の女神は、幾つもの花束と色とりどりの貝殻に囲まれ、優しく笑むばかり。祭だからだろうか、以前参った時よりも、女神の祠は花に溢れている。地元の子供達が飾り付けたのか、華やかなリボンで飾り立てられている。潮風に舞う蝶の羽のような鮮やかなリボンに、玲奈は眼を優しく細める。 祠の前に膝をついたまま、もう一度、静かに祈る。女神の足元に幾つか捧げられたコインのひとつに視線を落とす。以前ここを訪れたときに見つけた、あの人がくれたものと同じ、異国のコイン。潮風に錆びもせず、以前と変わらない位置で、同じように光っている。 今度こそ、と思う。もしかしたら、と思う。 知らず知らず、跳ねるように立ち上がる。岬の灯台に行ってみよう、と頭をめぐらせる。確か、他の旅人達も何人かそちらに向かっていた。 (もしかしたら) 人波の中。迷い込んだ路地の果て。雨に追われて駆け込んだ樹の下。――何処に居ても、探してしまう。想ってしまう。一度きり会っただけの、名前さえ知らないあの人。 また今度も出会えないだろうけれど、と沈みかける眼を上げる。背筋を伸ばす。石畳の路を歩き出して、玲菜はふと足を緩める。 陽の射す路地の向こうから、何人かの子供達と共に、黒衣の少女が歩いて来ている。 「待って、」 少女は戸惑ったように声を上げる。手を、スカートの裾を、きゃあきゃあと賑やかに笑いながら引く子供達に向け、自慢じゃないけど体力ないの、と小さく言う声音は、けれどほんの少し、楽しげだ。 冷たい絹糸のような、艶やかな黒髪が海風に翻る。 華奢な少女の姿に見覚えがある。行きのロストレイルで、犬の世界司書の傍の客席で一緒になった。一言二言、言葉を交わし、名を伝え合った。 「楽園さん」 呼ばわれば、白い頬が細い肩越しに振り返る。陽の光を集めたような黄金の瞳が、思いがけず真直ぐに玲菜を射抜く。 ――例えば、気紛れな猫がしなやかな尻尾を悪戯っぽく揺らすように。 楽園は黄金の瞳と桜色の唇の端を微かに和らげ、淡く笑んだ。 微笑んで、その次には笑み浮かべたことなどなかったかのように玲菜から視線を逸らす。少女の背中は子供達に手を引かれ、白い壁に挟まれた別の狭い路地へ、迷い込むように行ってしまう。 楽園の背中を追うか追うまいか、迷っている間に見失ってしまった。玲菜はちょっと息を吐く。きっと灯台の岬で会えるだろう、と海辺の町へ靴を踏み出す。賑やかな祭りの音を辿る。波の音をお供に、堤防に沿って歩く。潮風に緑を揺らす樹の下を潜り、白珊瑚の石を積んだ階段を登る。緋色の屋根瓦の狭いトンネルを潜り抜ければ、その先に白い灯台の岬。 花と旗で賑やかに飾り立てられた白い灯台の内部は、今日ばかりは開放されているらしい。低い柵で囲われただけの上部から、その眺望を楽しむ人々が遠目にも見てとれる。 眩しい光に埋められた空を見仰ぎ、玲菜は眼を細める。灯台の天辺で笑いさざめく人達の中、静かに佇む一人に眼が奪われる。青空に映える、柔らかな銀の髪。あの人と、同じ色の髪。息の止まる思いで、必死に眼を凝らす。 少し疲れたように柵に置いた腕を、細身のしなやかな体躯を、仕立ての良さそうな衣服が包んでいる。 (風が) 気紛れに吹く海風が、あの人の周囲だけどこか優しげに見えるのは何故だろう。玲菜は目を瞬かせる。分かっている、違う人だ。あの人は右半面を眼帯で覆ったりはしていない。あの人はもっと酷く鋭い雰囲気を纏っていた。あの人は、―― あの人は、こちらの視線に気付いても、きっとあんな風に手を挙げてくれたりは、しない。 (……ヴィヴァーシュ・ソレイユさん) ロストレイルで近い席に乗り合わせて、このブルーインブルーまでの旅路を同じくした。『呼び難ければ、ヴィーとでも』。どこか近寄りがたそうな玲瓏な雰囲気とは違った、柔らかな言葉と声でそう言ってくれた人。 灯台岬の入り口で、玲菜が高く片手を挙げる。抱えた思いを振り払うかのように大きく手を振る。そうして、屋台が並び、人が溢れる祭りの賑わいに惹かれるように、楽しげな足取りで岬へと向かってくる。 海風に銀の髪を遊ばせながら、ヴィヴァーシュは挙げていた手を下ろす。こちらに真直ぐに向けて来ていた視線は、何処か酷く切ないもののように感じたけれど。まるで、見つけられない誰かを探しているかのような。 (見つけられない、誰か) もしくは失ってしまった、誰か。 銀色の睫毛が白い頬に陰を落とす。沈みそうになる気持ちと視線は、けれど、ふわりと吹き寄せた暖かな潮風のお蔭で浮き上がる。頬を撫で、髪にじゃれつく風は、まるでジャンクヘブンの街を覆う海神祭の賑わいにはしゃいでいるかのよう。 ヴィヴァーシュは感情を映し難い翡翠色の眼を晴れた空へと向ける。灯台の高い位置から、どこまでも澄み渡る青空と遠く輝く水平線を見渡す。肌を焦がし、眼を射る陽射しの鋭さに思わず瞼を閉ざす。風にさらわれそうになって一度手に取った帽子を被り直す。 眼下の岬に集う人々が、わっと歓声を上げる。地元の子供達が揃って海へと飛び込んだらしい。透明な飛沫が高々とあがる。きゃあきゃあと子供達が声をあげる。子供達に紛れて、世界司書のクロハナも海の中。水を跳ね上げ、必死な様子で泳いでいるあれは、犬かきなのだろうか。楽しげではあるけれど、海から上がった時、自前の毛皮はべたつかないのだろうか。 そんなことを思いながら、視線を巡らせる。岬の突端に立ち、クロハナや子供達を眺める黒髪の女性の背中が目に留まる。 片手には白い兎のパペット。耳の下で切り揃えた髪と共に風に揺れる、先端の青い白羽の耳飾り。確か、とヴィヴァーシュは思う。ブルーインブルーの陽の下の海と同じ、鮮やかに青い眼をしていた。地声では喋らず、エレクと名を持つ兎のパペットを通した腹話術で話をした。 「エレニアさん」 よく通る割りに柔らかな声に呼ばれ、エレニア・アンデルセンは振り返る。ジャンクヘブンの街と灯台を背に、優しく笑う玲菜が立っている。エレニアは左手にはめたエレクを顔の高さに持ち上げる。 「クロハナちゃん、楽しそうだよね。キラキラしてる」 ちょっとばかりぶさいくなエレクを通して喋るエレニアの言葉は、ちょっとばかり、お茶目で子供っぽい。 エレクの言葉に託して、エレニアは優しい感情を声にする。 「僕も楽しい」 零世界で他の世界のことを話すクロハナちゃんはいつもキラキラしていた。私たちを送り出しながら、いつも一緒に行きたそうにしていた。そのクロハナちゃんが今日は一緒に、異世界に居る。 「エレニアも嬉しい」 エレクの声の後に、波音に紛れそうな小さな小さな声が『です』と付け加えられる。風にさらわれそうなそのエレニアの声を追うように、魅入られたように、玲菜はエレニアの顔を見詰め、 「はい、」 自分の発した声にはたと気付いて不思議そうに瞬く。夢から覚めたように、微笑む。 「そうですね、楽しいです」 エレニアの声に僅かの間魅入られたことに、本人である玲菜は幸いにも気付かなかった。にこにことエレニアの隣に立ってくれる。 ふたりで並んで穏かな海を眺めながら、どうして、とエレニアは眼を伏せる。どうして、この声はこんななのだろう。どうして私は人の心を縛る声なんか持っているのだろう。 ごめんね、とエレクの声で呟いても、玲菜は不思議そうにその優しい眼を微笑ませるばかり。 その二人の間に、ぬ、と陽に焼けた腕が割り込む。人懐っこい青年が間に立つ。 「……あの?」 困ったように見仰ぐ玲菜に、 「一緒に海神祭、見て回ろう」 きらりと真白な歯を見せて笑う。玲菜は困ったように眼を丸める。エレニアの手を取り、その場を離れようとする玲菜の背中に、青年は手を回す。 「あの、困ります、ごめんなさい、」 丁寧な口調で困惑を伝えようとする玲菜もきょとんとしたままのエレニアも、二人とも逃すまいと、青年は明るい声をあげる。 「な、一緒に――」 しつこく言い寄る男の肩を、 「だめだよ」 軽い口調と共に叩く手がある。邪魔すんな、と振り返る青年の眼に、鮮やかなオレンジ色の髪が映る。風に揺れる髪と優しげな顔は、一瞬女性のものにも思えたが、声はしっかりと男性のもの。肩を叩く手は大きく、指は長い。異国の衣装に包まれた背は高いが、ほっそりとした印象が強い。 押せば退く優男と見て、青年は強気に出る。男の肩を掴み、勢い任せに押し退けようとして、出来なかった。男は氷の彫像ように動かない。 「お祭りだしね」 肩を掴む青年の手を、ヴァンス・メイフィールドは笑んだ灰色の眼でちらりと見下ろす。眼を上げる。うってかわって冷たい眼で、青年の日焼けした顔を真直ぐに見据える。 「はしゃいじゃうのは分かるけど、困らせちゃだめだよ」 ね、と凍り付いた眼のまま、唇を穏かに笑ませる。青年は気まずそうに眼を逸らす。ヴァンスの肩を掴む手を離す。頬を擦り、頭を掻き、憮然とした面持ちでその場を足早に離れる。 「ありがと」 「ありがとうございます」 エレクと玲菜の言葉に、ヴァンスはなんでもないよと明るく笑う。 「それにしても、何だかロマンチックなお祭りだよねぇ」 隠された土鈴を探し、見つけた鈴を夜に皆で空へと鳴り響かせる。この時期にはこういう習慣があるんだね、と言いながら、スーツの腕を捲り上げる。悪戯っぽく、笑う。 「土鈴を探すのは楽しそうだ」 ひらひらと白い手を振り、堤防の下の狭い砂浜へと降りる石階段に靴を向ける。 「派手に濡れない様に気を付けないと」 膝の辺りまで裾を丁寧に折り返し、靴と靴下を脱いで手に持つ。錆び付いた手摺に触れないようにして階段を降り、 「クロハナさん!」 堤防の上からの玲菜の悲鳴に首を傾げる。クロハナは、遠浅の海で相変わらずばしゃばしゃと海水を跳ね上げて泳いでいるようだが―― 「今、助けます!」 やっぱり溺れてる、と玲菜は顔色を変えている。止めようとするエレニアが伸ばした手に素早く脱いだジャケットを渡し、躊躇うことなく堤防から飛び降りる。砂浜に膝を突いても構わず、靴を投げ捨てる。海に分け入る。打ち寄せる波を爪先で蹴る。飛沫が潮風に舞う。 堤防の上や波打ち際で走り回って遊んでいた子供達が、つられるように歓声をあげた。着の身着のまま、玲菜に続いて海へと飛び込む。 「クロハナさん!」 「はい!」 腿の辺りまで波に濡らし、玲菜は懸命に手を伸ばす。その手に、クロハナはびしょ濡れの両前肢でぺたんとお手をする。牙の間から桃色の舌を出して何だか得意そうに笑う。波間にぷかんと浮いた尻尾がばたばたと揺れる。尻尾に跳ね上げられた波が水玉になって跳ねる。 玲菜は瞬きする。クロハナと手と手を取りあったまま、思わず頬を赤らめる。 「……溺れて、ませんでしたか……?」 「うううん、平気! 泳ぐの楽しい!」 玲菜も鈴を探しに来た?、と尻尾を振り回しながら問われてしまえば、 「はい、探しに来ました」 照れ隠しの明るい笑顔で、大きく頷くしかない。背後で、ヴァンスがくすくすと笑いながら波打ち際に足を踏み入れている。わっ、と一際大きな歓声と共、堤防を全速力で走ってきた何人もの子供達が砂浜を飛び越え、一気に海へと飛び込んでいく。地元の若いのや若いのに負けてられない爺さん達もつられて海に走りこむ。子供も大人も入り混じり、あちこちで乱闘もどきの大騒ぎが始まる。 「大変たいへん、鈴、なくなる!」 喚くクロハナの手を離してやる。やっぱり溺れているような泳ぎ方で遠浅の海を右往左往するクロハナを見守りつつも、玲菜は暖かな海に手を差し入れる。ここまで濡れてしまってはもう仕方がない。 そのまま鈴を探そうとする水も滴る美女に、同じくずぶ濡れの子供達がわらわらと集まってくる。 「おねえさんどこから来たのー?」 「いっしょにお菓子食おー!」 「鈴いっぱいあるとっておきの場所教えてやるぜ!」 「あんたそれアタシにも教えなさいよ!」 大騒ぎする子供らに囲まれる玲菜をくすくすと眺めながら、ヴァンスは波打ち際の砂を掘り起こす。幾つ穴を掘っても、絶え間なく打ち寄せる波が次々と穴を海水と砂で埋めていく。指先や爪先が白砂に汚れても、波が何度でも洗い流す。背中を陽に焼かれながら、指先に触れる砂の感覚に気を配りながら、飽きず倦まず波打ち際を探せば、程なく白砂の中に素焼きの土鈴を見つけることが出来た。緋色に近い土の鈴には、鮮やかな蒼の紐が結いつけられている。波で砂を洗い落とし、ヴァンスは腰を伸ばす。かろかろとまだ湿気た音しか立てられない土鈴を振り、堤防へと眼を向ける。 「探さないのかい?」 堤防の陰となる砂浜に静かに立ち、大騒ぎの海を眺めているのは、いつの間にか灯台から降りて来ていたヴィヴァーシュ。行きのロストレイルで客席が近かった者同士、お互いの顔と名は知っている。 「海のある世界の生まれではないので」 泳ぐこと自体想像がつきません、とヴィヴァーシュは首を横に振る。熱を大量に孕んだ陽射しに、眩しげに眼を細める。日陰に避難していても、太陽の熱を吸収した砂浜は靴底を通してこんなにも熱い。 「もう少し陽が落ちてから探します」 「そうだね、暑いよねえ」 ヴァンスは青空の天辺で輝く太陽を見仰ぐ。見つけた鈴を陽にかざす。絶えず流れる海風に、かろん、と鈴が震える。乾ききらない土鈴の音に、ちりん、ともう一つ、別の鈴の軽やかな音が重なった。誰かも鈴を見つけたのかな、と視線を巡らせれば、堤防の上、黒いスカートの裾を揺らして立つ楽園の姿が眼に入る。脇に下ろした細い手には地元の子供が一人、きゅっとしがみついている。潮風に暴れる黒髪を押さえるもう片手に、海と同じ色に彩色された鮮やかな青の鈴。風に小さく鳴いているのは、あの鈴らしい。 「いいね、何処で見つけたの」 ヴァンスが人懐っこく笑いかけるのに応え、楽園は手にした鈴を微かに揺らす。楽園の手を握る子供が、鈴とよく似た声で笑う。 「路地の奥に転がってたわよ」 かくれんぼはおしまい、と子供の手をするりと解く。小さな背中を掌でそっと押す。 「楽しかったわ」 子供は楽園に手を振り、堤防を飛び降りる。明るい海へ駆け込む。その背中を見送って、楽園は小さく息を吐く。耳をくすぐる鈴の音を掌の中に閉ざす。歓声に溢れる海を、屋台の呼び込みと食べ物の匂いで賑わう灯台岬を、何処か切ない瞳で見渡す。堤防の端に、スカートの膝を折ってしゃがみこむ。遠く光る水平線から暖かな風が流れてきて、楽園の長い黒髪を弄ぶ。 「さすがお祭り、賑わってるわね」 呟く。賑わう祭に背を向ける。黄昏の色した黄金の瞳に、黒い睫毛の影が落ちる。 潮風に、光る海に、楽園は思い出す。生まれ育ったあの島の情景を。遠い昔、愛しい父母と共に喪ってしまったあの場所を。あの島から見た海は、病室の鉄格子の向こうに見た空は、こんな風にどこまでも明るくはなかったけれど。 透明な波が寄せる白い砂浜を、赤茶色の犬が全速力で駆けて行く。口にくわえた小魚の形した土鈴がかろかろかろん、湿った音で暴れている。 「エレニア! 鈴、あげる!」 エレニアがのんびりと腰掛ける堤防に両前肢を掛け、クロハナは尻尾を振り回す。 「いいの?」 「あげる!」 白兎パペットのエレクの言葉に大きく頷き、エレニアの伸ばした指先に土鈴を渡す。また探す、と再び砂浜を駆け出す。日陰に避難中のヴィヴァーシュの傍でふと立ち止まり、 「わたし、身体ぜんぶしょっぱい!」 波に濡れた全身をぶるぶると震わせる。冷たい飛沫を浴びそうになったヴィヴァーシュが、然程驚いた様子も見せずに軽く身を引く。戦利品の鈴を手に、岬の屋台に向かおうとしていたヴァンスが明るい笑い声を上げる。 「鈴の音色、一緒に聞こう!」 エレニアの片手にはめた白兎のパペットのエレクが、少年のような声でクロハナに呼びかける。布製の小さな両手を挙げる。 傾きかけた陽の光は、柔らかな蜂蜜色になる。灯台も石畳も、海さえも淡い黄金の色に照らされる。 ヴィヴァーシュは、波の届かない乾いた砂の上に靴を置く。昼間は眼を射るようだった太陽の光も熱も、今は優しい。爪先に触れる波はひんやりと冷たく、身体に籠もった熱をさらう。 捲り上げた袖の手を、足跡の少ない浅瀬の波に触れさせる。まだ陽の暖かさの残る濡れた砂を指先で掬い上げるようにして、鈴を探す。指先に掴まるぬくもりごと、冷たい波が砂を掴んで連れ去る。掌を透明な波が流れ落ちる。 (宝探しの遊びのような、) きらきらと黄金の色に染まる波を見下ろしたまま、ヴィヴァーシュはそっと頬を和らげる。冷たい海に触れて幾度目か、砂に埋めた指先が貝殻よりも柔らかな丸いものに触れる。白い貝の形した土鈴を掌に掬い上げる。翡翠色の隻眼がほんの僅か、笑みに細くなる。 昼の間、大騒ぎしていた地元の住人や子供達のほとんどは目当ての鈴を見つけたり、暴れて満足したりで海から上がっている。皆の冷えた身体を暖めようと、屋台の商人達が岬の突端に幾つもの焚火を作った。人々の賑わいはそちらへと移っている。 焚火の傍に、地元の漁師や奥様方の持ち込んだ串刺しの魚や貝、濡れ紙に包まれた芋や果実が次々に置かれる。魚介の焼ける香ばしい匂いを潮風の中に嗅ぎながら、ヴァンスはあちこちの焚火の輪を泳ぐように歩き回る。片手には屋台のお姉さんオススメの柑橘果汁氷、もう片手には焚火の傍で子供に分けてもらった白身魚の串焼き。 岬をのんびりと歩きながら、ふと我に返る。あんまりお行儀が良いとは言えないけど、と小さく苦笑い。 (こう言うのもお祭りならではだしね) 思い直して、香ばしく焼けた魚に齧りつく。新鮮な魚の味が口の中でほろほろと崩れて溶ける。思わぬ美味しさに笑み崩れた灰色の眼が、幾つも焚かれた火のひとつ、子供達に囲まれて座る玲菜の背中を見つける。 濡れた服を乾かしながら、玲菜は子供達に何か宝物を見せているらしい。見つけた土鈴か、別の何かか。 (現地の人達と仲良くなれるのも、お祭りならではだよね) 暮れていく陽と同じオレンジ色の髪を潮風になびかせて、ヴァンスは頬を笑みで彩る。子供達の隙間から見えた玲菜の白い掌には、焚火の光をきらきらと煌かせて、小さなコインがあった。 「姉ちゃんの宝物?」 「大事な宝物です」 首を傾げる子供に、玲菜は頷いてみせる。見せて見せて、と他の子供達が玲菜の腕や膝にしがみつく。そのうちの一人が、ふと不思議そうに首を傾げた。何か言いたげに唇を噛む子供を、別の子供が玲菜の前に押し出す。 「それ」 「はい?」 小さな子供の小さな声でも、真剣に耳を傾けようとする玲菜の仕種に、子供は勇気を得て口を開く。 「あの兄ちゃんも持ってた」 レイフの兄ちゃん、と子供は玲菜を見仰ぐ。眼を見開く玲菜にちょっと戸惑いながらも、子供はいつか会った異国の旅人の話をする。 見たことのない長い車みたいな船に乗っていること。 「レッシャ、って言うんだって。姉ちゃんも、レッシャ、乗ったことある?」 銀の髪と冷たい蒼の眼をしていること。 「眼も髪も姉ちゃんとは違う色だけど、姉ちゃんもレイフ兄ちゃんと同じ国の人?」 色んな異国を巡っていること、ずっとずっと旅をしていること。夕陽の中でちょっと話をしただけだけど、 「何か探してるみたいだった。何か? 誰か? わかんないけど、」 何だか寂しそうだったこと。 「……姉ちゃん?」 ずっとずっと探し続けて来た人の話を、――自らの世界さえ飛び越えて探し続けている人の話を、あの人がちゃんと存在している証を、やっと耳にすることが出来た。 あの人に貰ったコインを握り締めた手で、玲菜は涙の溢れる顔を隠す。震える唇に、探し続けていたあの人の名前を乗せてみる。レイフ、と囁いた途端、また涙が溢れた。 子供達が心配そうに肩を撫でてくれる。頭を撫でてくれる。 「ありがとう」 子供の手に混じって、白兎のパペットの柔らかな手が背中に触れる。エレクの兎のぬいぐるみの顔が覗き込んでくる。 「大丈夫です、……嬉しいの」 玲菜の頬を伝う涙をエレクの布の手で拭ってやりながら、エレニアは焚火の向こうに見える夕暮れの海へと視線を投げる。黄金だった海と空は、いつか燃えるような紅に染まっている。 以前に潜った海がふと脳裏を過ぎる。日暮れのあの海も、こんな朱紅の色に染まっていた。あの怪異の海の冷たい水の中で覚えた息苦しさを思い出す。思わず自らの喉を掌で押さえる。 どんなに親しくなりたい人がいても、その人に聞かせるわけにいかない、人を魅了して縛ってしまう、恨めしいこの声。 この『声』は、けれど水の中では無力だ。水の中でも、例えば喉を絞められても、声はあっけなく奪われてしまう。恨めしく思うはずの声を、でも、失いたくないとも思う。声の持ち主であるはずの自分自身でさえ、どうしようもなくこの声に縛られている。 苦しい思いを、深い息と共に吐き出す。お姉ちゃんもどうかしたの、と覗き込んで来る子供に、エレニアは兎のエレクの口を動かす。 「なんでもないよ」 エレクの声で、笑う。 陽の熱を失い、海の底の冷たさを帯びた潮風が夕空から降る。涼しい風が岬に集う人々の頬を撫でて過ぎる毎、空に残る太陽の赤い光が夜の藍色に溶けて消える。朱の海が闇の色に沈んでいく。 堤防の突端、珊瑚岩を積んだ防波堤の上に立ち、楽園は静かな眼で宵の海を見渡す。ほんの一歩か二歩、たったそれだけ踏み出せば、吸い込まれそうな闇の色してたゆたう海がある。 背後の喧騒に背を押されるように、不安定な珊瑚岩の上、一歩、踏み出す。白い頬が悲しく引き攣る。 (……いっそのこと) この身を海に投げてしまえば、と思う。そうすれば、この身に渦巻く寂しさも消えるかしら。あの嵐の夜に、故郷の島で喪った二人の元へいけるのかしら。 死へと誘う寂しさを、首を横に振って振り払う。自らの肩を抱き締める。生きろと肩を抱いてくれた父母のぬくもりの思い出を、自らの手で掻き集める。 自らの身に代えて、吐息を闇の海へと投げる。 スカートの奥に仕舞いこんでいた小瓶を取り出す。蓋を開ける。傾けた瓶からブルーインブルーの海に零れ落ちるのは、白い、――故郷のあの島で死んだ、両親の遺骨。 (お父さん、お母さん) 二人の欠片は、瓶からほろほろと零れ落ちる。風に流れ、遥かな海に沈んでいく。 ――あの惨劇の島に、二人の亡骸を見つけることは出来なかった。 だから本当は、二人の遺灰に見立てたこれは、あの日訪れた故郷の浜で瓶に詰めて来たただの砂。 「さようなら」 潮風に黒髪を翻弄されながら、楽園はしっかりと足を踏みしめる。朝陽の色持つ眼を闇色の波へ真直ぐに向ける。 これがけじめ。私の手で二人を海に還す。あの灰色の寂しい海の島に縛られた二人の魂を、二人に縛りつけたこの心の寂しさを、この海に解き放つ。夜が明ければ青く綺麗に透き通るこの海でなら、二人ともきっと安らげる。 「お父さん、お母さん」 女神の広場から夜空を見仰げば、祭りの灯に圧された星々が滲んで見える。ぼうやりと優しい星に届けとばかり、広場に設置されたあちこちの席に陣取った人々が様々の形と色した土鈴を鳴らす。 魚や貝の浜焼きの皿と酒瓶に囲まれた酔っ払いの若いのや赤い顔の爺さん方も、花篭抱えた花屋の女の子や果汁氷の屋台の姐さんも、今日ばかりは夜遊び解禁な子供達も、みんなでどこか神妙な顔でそれぞれが手にした鈴を振り鳴らす。軽やかな、涼やかな鈴の音が広場に溢れる。 広場の隅の長椅子にゆったりと腰を下ろし、ヴァンスは鈴の音に耳を澄ませる。広場だけでなく、ジャンクヘブンの街のあちこちから、ちりちりころん、様々の鈴の音が聞こえてくる。鈴の音の底で静かに響いているのは、寄せては返す波の音。 (ただ単に幼馴染を探していただけ、だったのにね) 見つけた鈴を掌の中で転がしながら、ヴァンスは小さな吐息を零す。 自分の世界がただひとつの世界だと思っていた。少なくとも、幼馴染を探していたあの頃は、自らの世界を見失うだなんて、 (此処でこうしているだなんて思わなかったな) 色々な異世界を巡り歩くことも、元居た世界に何時戻れるか分からないことも、あの頃の自分には想像もつかなかった。 (こう言うことになるなんて、……ねぇ) きっと僕と同じように思ってもみなかったよね、とこの場に居ない幼馴染に語りかける。 帰るべき場所を見失った旅人となったことを不安に思ってはいない。色々の世界を見て回れるようになったことに不満などない。 (今日が楽しければそれでいい) 鈴の音鳴り渡る空の星を仰いで、ヴァンスは飄々と笑ってみせる。 (僕にはそれで充分かな) 掌で転がされた緋色の土鈴がころりと鳴る。近くの石畳に伏せていたクロハナの三角耳がひょこりと動く。うつらうつらしかけていた黒の眼が瞬きする。持ち上げようとした頭を、優しい掌が撫でる。ゆっくりのんびり、あやすような掌に撫でられ、クロハナは大あくびをする。 「エレニア」 寝惚けた声で呼ばれ、敷物の上に腰を下ろしたエレニアはクロハナを撫でる手を止める。もっと撫でて、と頭を押し付けられ、ちょっと笑ってまたクロハナの頭を撫でる。鈴の音に耳を澄ませ、もう片手のエレクの手に持たせた小魚の形の鈴を鳴らす。 鈴の音はどこまでも優しく、周囲の空気を震わせる。耳にした人の心を和らげ、安らげる。女神の広場に集い、鈴を鳴らし鈴の音に聞き入る人々の顔は皆穏かだ。 (この土鈴のように) 私の声が優しいものだったら、とエレニアは眼を伏せる。 そうすれば、自分の声で笑うことが出来る。親しい人や親しくなりたい人と、きちんと自分の声で自分の思いを伝えることが出来る。 (優しくなくても、いい) せめて、誰かを縛るものでなかったら。 (……でも、) 片手に嵌めたエレクを顔の前に持ち上げる。 (この声しか私に残るものなんてないのよね、エレク) 「そうだよ、エレニア」 エレクの口をぱくぱくさせて、自分自身に言い聞かせる。寝惚け眼のクロハナが、不思議そうに頭をもたげる。 「そうなの、エレニア?」 首を傾げて真剣な顔で問われ、エレニアは息を詰まらせる。寝言に近い言葉だと解っていても、惑う。本当に、私にはこの声だけ? 「そうだよ、クロハナ」 エレニアに代わって、エレクが力いっぱい頷いて応える。そうなの、とクロハナは言葉にならない寝言を口の中でわふわふと呟いて瞼を閉ざす。エレニアは息を吐くように微笑む。エレクの手から鈴を取り、自分の手で鈴を振る。優しい音色を奏でながら、もう一度、小さな息を吐き出す。 鈴の音に、子供達の歌声が重なる。でたらめな節をつけて唄われているのは、海神祭の謂れとなる伝承。神の力が宿った鈴で雲を払い、空に太陽を、星を月を取り戻すお話。 「月……」 でたらめな歌を唄って聞かせてくれる子供達の輪の真ん中で、玲菜は広場の空を見仰ぐ。建物の屋根に隠れて姿は見えないけれど、どこかに確かに昇る月の光の流れは、見仰ぐ夜空にはっきりと見て取れる。 あの人も、どこかで確かに存在している。 (逢いたい) レイフ、と心の中で呼びかける。名前が知ることが出来た。彼に会った人に会うことが出来た。自らの世界を飛び出してまで、存在するかどうかも分からないと思いながら、それでもあの人を探し続けたのは、間違いなんかじゃなかった。 彼の名を呼ぶように、蒼の海で見つけた土鈴をそっと揺らす。小さな、けれど確かな音で鈴は鳴る。 (側にいきたい) 銀色の月の光に、彼を想う。想い続ける。 月と星の下、微笑みたたえて祈り続ける女神の像がある。花束や花冠に飾られ、ランプの揺れる灯に照らされた女神の石像にそっともたれて、楽園は鈴を鳴らす。女神の白い頬を見上げる。 優しい笑顔の女神像は、ほんの少し、お母さんに似ている気がする。こうして肩を預けてもたれていると、寂しさに冷えた心が暖かな手に包まれる気がする。まるでお母さんに抱かれているように、強張った心から力が抜けていく。 (お母さん) 母を求める幼子のように女神像を見仰げば、その向こうにどこまでも高い空が見えた。届きそうで届かない、数多の星々が見えた。 (本当なら、あそこで終わっていたはずなのに) あの嵐の中で、お父さんとお母さんと一緒に、私の命は海に呑まれるはずだった。死を目前にして覚醒したことに、何か意味はあるのか。この人生が続いている意味は何なのだろうか。 もしも意味があるのだとしたら、 (私は、それを知りたい) 女神像の傍らで鈴を震わせれば、どこからか応じるように、誰かが鈴を鳴らす。その誰かにも応えて、鈴の音が幾重にも重なり、街中に広がっていく。 耳をくすぐる鈴の音に、唇がほころぶ。くすり、鈴の音にも似た微笑みを零す。重なり広がる鈴の音は、まるでお節介にも励ましてくれているよう。独りじゃないよ、と。 誰かの鈴の音に答えて、楽園も鈴を震わせる。この鈴の音も、誰かを励ますことが出来るのかしら。私も、お父さんやお母さんみたいに誰かの支えになれるのかしら。 祈るように鈴を振る楽園を掠めて、小さな兄弟が一つの鈴を取り合い、じゃれあうように駆け抜ける。兄が掴んだ鈴目掛け、弟が飛びかかる。一緒になって石畳に転がる。兄の手を離れた鈴がころころと地面を転がり、ころん、とヴィヴァーシュの靴先にぶつかって止まる。白い指先で拾い上げ、遠近感の狂う隻眼で兄弟を見遣る。 感情を映し難い翡翠の眼も、人酔いのために知らず僅かに顰めた銀の眉も、子供達に対するには不向きだ。弟が顔を引き攣らせる。弟を背に庇い、兄が恐る恐るといった体でヴィヴァーシュを窺う。 「どうぞ」 鈴を乗せた掌を伸ばす。兄が小さな手を伸ばし、鈴を受け取る。ありがとう、と弟が緊張した声で礼を言う。 「いえ」 背中を並べて走り去り、父母にしがみつく兄弟に向け、小さく手を振ってみせながら、 (……兄さん) ヴィヴァーシュは家族を想う。見失った元の世界で、城主の末息子として過ごして来た年月を思う。父を母を、兄を姉を。 家族の距離は、あの家族よりも離れていたように思う。両親について回った記憶は少ないけれど、愛されていた実感はある。家族の形など、それぞれだ。 あの浮島の城塞で、一人で過ごすことが多かった。一人で居ることに慣れていた。一人で本を読んで過ごすことに疑問はなかった。 そんな中で、兄はよく構ってくれた。頭を撫でてくれた掌の優しさを覚えている。名を呼ぶ声のぬくもりを覚えている。おやすみと笑んで額に落としてくれたキスの感覚を覚えている。お茶の淹れ方を磨いたのも、今思えば多分、半分以上は兄のためだ。 思い出の半分は、兄に占められている。 その兄は、もうどこにも居ない。 白革の眼帯に覆われた顔の半面を、掌で覆う。空気に触れれば刺すように痛む傷が、そこにはある。兄を喪ったその時に、兄を奪った闇精霊につけられた爪痕。 (兄さんが生きていけるなら、) そう思っていたのに、兄は死に、弟は生き延びた。 空気に触れてはいないはずの傷跡が痛む気がして、ヴィヴァーシュは震える息を吐き出す。翡翠の眼が深く沈む。 幾千の鈴がさざなみのように鳴る。静かに静かに、誰も彼もが誰も彼もを慰めるように、街中に響き渡る。満天の星々に届けとばかり、祈りの鈴が鳴らされる。 終
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