オープニング

 その日、世界司書たちは図書館ホールに集められていた。なんでも館長アリッサからなにかお達しがあるというのである。彼女が新館長に就任してから初めての、正式な館長通達。一体、何が発せられるのかと、緊張する司書もいた。
「みんな、こんにちはー。いつもお仕事ご苦労様です」
 やがて、壇上にあらわれたアリッサが口を開いた。
「私が館長になるにあたっては、いろいろとみなさんにご迷惑をおかけしました。だからってわけじゃないんだけど、世界司書のみんなの『慰安旅行』を計画しました!」
 慰安旅行……だと……?
 ほとんどの司書たちが言葉を失う。
「行き先はブルーインブルーです。実はこの時期、ジャンクヘヴン近海で、『海神祭』っていうお祭りをやってるの」
「あ、あの……」
 おずおずと、リベルが発言の許可を求めた。
「はい、リベル。バナナはおやつに含みます」
「そうではなくて……われわれが、ロストレイルに乗車して現地に向かうのですか?」
「あたりまえじゃない。慰安旅行なんだもの。年越し特別便の時に発行される、ロストメモリー用の特別チケットを全員分用意してあります。あ、念のため言っておくけど、レディ・カリスの許可もとってあるからね!」
「……」
 そうであるなら是非もない。
 時ならぬ休暇に、司書たちは顔を見合わせるばかりだったが、やがて、旅への期待が、その顔に笑みとなって浮かび始めるのを、アリッサは満足そうに眺めていた。
「コンダクターやツーリストのみんなのぶんもチケットは発行できます。一緒に行きたい人がいたら誘ってあげてね♪」

 さて。
 この時期、ジャンクヘヴン近海で祝われているという「海神祭」とは何か。
 それは、以下のような伝承に由来するという。

  むかしむかし、世界にまだ陸地が多かった頃。
  ある日、空から太陽が消え、月が消え、星が消えてしまった。
  人々が困っていると、海から神様の使いがやってきて、
  神の力が宿った鈴をくれた。
  その鈴を鳴らすと、空が晴れ渡って、星が輝き始めた。

 ……以来、ジャンクヘヴン近海の海上都市では、この時期に、ちいさな土鈴をつくる習慣がある。そしてそれを街のあちこちに隠し、それを探し出すという遊びで楽しむのだ。夜は星を見ながら、その鈴を鳴らすのが習いである。今年もまた、ジャンクヘヴンの夜空に鈴の音が鳴り響くことだろう。
「……大勢の司書たちが降り立てば、ブルーインブルーの情報はいやがうえに集まります。今後、ブルーインブルーに関する予言の精度を高めることが、お嬢様――いえ、館長の狙いですか」
「あら、慰安旅行というのだって、あながち名目だけじゃないわよ」
 執事ウィリアムの紅茶を味わいながら、アリッサは言った。
「かの世界は、前館長が特に執心していた世界です」
「そうね。おじさまが解こうとした、ブルーインブルーの謎を解くキッカケになればいいわね。でも本当に、今回はみんなが旅を楽しんでくれたらいいの。それはホントよ」
 いかなる思惑があったにせよ。
 アリッサの発案による「ブルーインブルーへの世界司書の慰安旅行」は執り行なわれることとなったのだった。

  ◆ ◆ ◆

 潮の香りを乗せた南風に、モリーオ・ノルドは目を細める。
 この壮年の世界司書もまた、慰安旅行のロストレイルでジャンクヘヴンに降り立ったひとりだ。
 強い日差しに映える白いシャツに、パナマ帽。小ぶりのトランクひとつを持って、彼は海上都市の複雑な路をたどった。

 ――ちょっといいホテルがあると聞いてね。

 慰安旅行が決まったあと、モリーオはどこかから集めたジャンクヘヴンの情報をもとに、人を介してその小さな宿をとった。
 部屋数は多くはないが、どの部屋も海に面して眺望は素晴らしく、よく仕付けられたボーイやメイドは大変口が堅いので、上流階級の客がお忍びで泊まりにくるのだという。
 坂道を登り切ったところに、古びた鉄柵の門扉。ごく控えめに掲げられた銘板を見落とせば、そこが宿屋だと気づかないかもしれない、白亜の瀟洒な建物だ。
 木の扉を開ければドアベルが鳴り、ボーイが出迎えてくれるだろう。

「そこを拠点に、まあ、のんびりと休暇を楽しもうと思うよ。……一緒に行くかい?」
 幾人かのロストナンバーが、同じホテルに宿泊することになった。
 モリーオは遊覧船で近海を巡る予定を立てているそうだが、あとはホテルでゆっくりするつもりのようだ。
 近くには露店の市もたつし、旅の一座による小屋掛けもあると聞く。『海神祭』を楽しむための過ごし方は思い思いに可能だろう。

 いざ、祝祭の海上都市へ……。
 潮騒と、鈴の音が、ロストナンバーたちを待っている。


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!お願い!
イベントシナリオ群『海神祭』に、なるべく大勢の方がご参加いただけるよう、同一のキャラクターによる『海神祭』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
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品目シナリオ 管理番号1317
クリエイターリッキー2号(wsum2300)
クリエイターコメントOPをご覧いただき、ありがとうございます。
今回、ご提案させていただく旅は、ジャンクヘヴンの隠れ家的プチホテルへの宿泊です。
ご参加のみなさんとモリーオは、件のホテルに宿泊したことになります。
この旅の予定は次の通りです。

<旅程(ノベルの流れ)>
・昼の自由行動(選択肢A)&昼食
・ホテルのダイニングで夕食
・夜の自由行動(選択肢B)

ノベルでは昼・夜の自由行動を中心に描写します。昼と夜の自由行動はオプショナルツアー形式で、やりたいことを選んで下さい。原則として昼・夜とも同じ選択肢を選んだ方同士は連れ立って行動したものとしますが、「独りでいたい」方はその旨お知らせ下さい。

■昼の自由行動&昼食
昼の自由行動については、下記の1~3の中からひとつを選択して下さい。

【A1】遊覧船で近海をクルーズ
小型の帆船で、ジャンクヘヴンを海側から眺めながら近海をクルーズします。料理人が乗り込んでいて、サンドイッチなどの軽食を昼食としてご提供します。潮風に吹かれながら、甲板のデッキチェアで昼寝としゃれこむのも良いでしょう。※モリーオはこの選択肢を選びます。

【A2】露店と屋台を散策
ジャンクヘヴン市街の賑やかな地域を歩き、海神祭を堪能します。露店では土鈴のほか、工芸品を中心とした土産物が売られています。昼食は屋台では歩きながら食べられる魚介の揚げものやフルーツなどが手に入るでしょう。祭りの雰囲気を楽しみたい、確実に土鈴を手に入れたい方はこちらへ。

【A3】下町を歩く
庶民の暮らす家並みの中へそっと迷い込みます。海上都市の人々の暮らしを間近で感じられるはずです。習慣に従い、どこかに土鈴が隠されているかも? 住人と交流できるチャンスもあるかもしれません。小さな町の食堂を見つけたら、お昼にしましょう。新鮮な海の幸が味わえるはずです。

■ホテルのダイニングで夕食

全員でいったん集合し、食事をします。ホテルの夕食はちょっと豪華な、壱番世界でいうところの地中海料理のような内容です。大人の方にはワインやサングリアもありますよ。
(※全体のバランスを見て、このパートは描写としてはカットする可能性がありますので、プレイングは省略するかほどほどをおすすめします)

■夜の自由行動
夜の自由行動については、下記の1~3の中からひとつを選択して下さい。

【B1】カフェテラスのキャンドルナイト
ホテルのカフェテラスでは灯りをキャンドルだけにして、満天の星空の下のナイトカフェタイムが催されています。鈴の音に耳を傾けながら、カフェ、スイーツのほか、大人の方にはお酒とチーズ、ナッツなども。葉巻もご用意しています。※モリーオはこの選択肢を選びます。

【B2】夜市の喧騒へ
海神祭の夜は街も夜更かしです。夜に立つ露店・屋台は昼間とはまた違った雰囲気です。昼間、鈴を入手できなかった人のための鈴も売っています。気楽な酒場に立ち寄るのもいいでしょうが、酔客の喧嘩に巻き込まれたり、雑踏に悪事を働く物盗りにはご注意下さいね。

【B3】野外劇場の舞踏劇を鑑賞
広場に小屋掛けをして興行している一座があるようです。海神祭の伝説を題材に、かがり火の灯りの中、仮面の舞い手たちによる舞踏と楽曲が演じられます。はるかなブルーインブルーの太古に思いを馳せてみれば、ちょっとミステリアスな一夜となることでしょう。

<注意事項>
選択肢が書かれていない場合は、WRがプレイングから判断します。
今回のシナリオでは、選択肢をまたいでの登場を前提とするものや、常識的に選択肢内の収まらない行動はお控え下さい。ツアーは団体行動です。お互い気持ちよく参加しましょう。

それでは、楽しい旅にいたしましょう。いってらっしゃい!

参加者
サシャ・エルガシャ(chsz4170)ロストメモリー 女 20歳 メイド/仕立て屋
ハルカ・ロータス(cvmu4394)ツーリスト 男 26歳 強化兵士
幸せの魔女(cyxm2318)ツーリスト 女 17歳 魔女
ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノ(cppx6659)コンダクター 女 16歳 女子大生
七夏(cdst7984)ツーリスト 女 23歳 手芸屋店長
ロディ・オブライエン(czvh5923)ツーリスト 男 26歳 守護天使

ノベル

「へぇ~、立派とは言い難いけど趣のある面白いホテルじゃない。気に入ったわ」
 幸せの魔女――、そんな名を持つ少女は白亜の建物を見上げて、言った
「でも――この古びた扉は気に入らないけど」
「そう?」
 モリーオが問い返すのへ、
「古い扉を潜ると不幸を招きやすくなると言うわ。……大丈夫なんでしょうね? このホテル」
 と続ける。モリーオの答えは、ドアを開けて、彼女を先を促すレディーファーストのしぐさ。
「どうぞ」
 ふふふ、と笑って、幸せの魔女は――そうされるのが当然といった様子で――ロビーへと足を踏み入れた。
「ありがとうございますっ」
 サシャ・エルガシャがちょっと恐縮した様子で、足早に戸口を潜った。
 それからジュリエッタ・凛・アヴェルリーノに、七夏……彼女ら3人の娘たちは行きのロストレイルの中で、すっかり親しくなった様子で、はしゃぎながらあとに続く。
 あとには2人の男性――ロディ・オブライエンと、ハルカ・ロータスが残った。
「荷物はそれだけ?」
 ロディは、ハルカを見て、そう言った。
「えっ。あ……、俺、なにか」
「いや、少ないなと、思って」
 特段に深い意味はなく、ロディは尋ねただけのようだった。モリーオに礼を言って、中へ。
 ハルカは、助けを求めるようにモリーオを見た。
「必要なものが……あったのだったら」
「別に。くつろぎに来たのだから、荷物は少ないほうがいいだろう」
「くつろぎ……ですか。あの、それで、今回の任務を内容を、自分はまだ――」
「えっ」
「えっ」

 よくしつけられたボーイたちに案内され、異世界の旅人たちは部屋をとる。
 客室は広くはないし、簡素だが、清潔だった。
 外壁同様、白い壁に、小さな額に入った絵と、ドライフラワーのリースとがささやかな飾りとして、ある。ベッドは部屋に比して大きめで、ふんわりとしたピローと、クッションが客の訪れを待っていた。家具は木製の小さなクローゼットとライティングデスクだけ。
 サシャは反射的に、真っ白なシーツがぴんと張ってメイクされていること、板張りの床や木製の家具がきちんとポリッシュで磨き上げられていること、すみずみまで掃除の行き届いていることを見てとり、まるでなにかに挑戦を受けたような気分になった。
 部屋はいずれも海に面してテラスを持ち、ホテルは高台にあったから、ジャンクヘヴンの家々の屋根を見越して、真っ青な海と入道雲を見ることができた。
 ジュリエッタと七夏が、テラスに出て歓声をあげているのを聞きながら、幸せの魔女は脚のついたホーローのバスタブに腰掛け、いくつも種類が用意されている入浴剤の瓶を見比べていた。

 ロディがロビーに降りてくると、モリーオとハルカがいる。
「船に乗ると言っていたか」
「そうだよ。ロディくんは」
「決めてなかったが……休暇に慣れていなくて、どうも手持ち無沙汰になってしまう」
「女の子たちは露店を見に行くみたいだよ」
「そうだな。せっかくだし町は見てみたい」
「ハルカくんは?」
「はっ。指示に従います。自分は何をすればいいですか」
「……手持ち無沙汰度は彼のほうが上手だ」
 モリーオとロディは笑い合うが、ハルカは戸惑った表情を見せるだけだ。
「一緒に船に乗るかい?」
「はい、従います」
 こうして、ジャンクヘヴンの休日が始まった。

■ 祝祭の海上都市 ■

 もともとブルーインブルーでも最大級の海上都市であるジャンクヘヴンだが、この時期はよその都市からの観光客も迎え、華やかに賑わっている。
「この活気ある町が海に浮かんでいるなんて不思議な気もしますね」
 七夏がそんな感想を口にした。
「そうじゃのぅ……しかしブルーインブルーの人々はみな海の上に町を築いて暮らしておるのじゃ。ジャンクヘヴンだけではないぞ。以前、立ち寄ったメイリウムという町では――」
 ジュリエッタはそこまで言って、なにかを思い出したように、くすっと微笑った。
「?」
「いや、なに。メイリウムでもこんなふうに店を見て歩いたなと思い出してな」
「そうなんですか。どなたと行かれたんです?」
「!? だ、誰ってそれは……まあ、大したことのない相手じゃ。あんなのはデートと言っても……」
「デートだったんですか?」
「う。じゃから、相手が相手ゆえ、あんなものはだな――」
 七夏の無邪気な問いかけに、語るに落ちたふうのジュリエッタだ。
「あ!」
 サシャがふと足をとめたのは、香ばしい匂いを感じたからだ。
 どこか懐かしいような、揚げ物の油の匂い。
「ひとつください」
「俺ももらおうか」
 注文するサシャの頭越しに、ロディも続けた。
 かれらが買い求めたのは、魚の切り身を油で揚げたものだった。紙の包みに入れてもらいそれを持ったまま歩いているものたちをよく見かける。
「歩きながら食べるって、ちょっとお行儀が悪いですけど」
「なに、それを気にする状況でもないだろう」
 ロディは手渡されたものをさっそく味わう。
 揚げたては熱々で、さっくりとした薄い衣ごと、やわらかい白身を噛み締めれば、旨みがじわりと広がる。油は香油を使っているようで、独特の香りが、味付けの香辛料とともに広がるのだった。
「これは旨いな。発泡酒に合いそうだ」
「フィッシュ&チップスみたい! うーん、最高、ほっぺた落ちちゃいそう! ねえねえ、ジュリエッタ! 七夏ちゃん!」
 サシャは友人たちにも分けてやろうと、小走りに追いつく。
 ロディは酒を売っている屋台を探しかけて――ふっ、と頬をゆるめた。日が傾いてからにしよう。今は……あの少女たちの保護者をきどらねばならないかもしれないから。
「こってりしすぎてなくて美味しいわ。いいもの見つけましたね、サシャちゃん……!」
「でしょ? ところで、さっき、何の話、してたの? 楽しそうだったけど」
「ああ、それはジュリエッタちゃんが――」
「そんな面白い話ではないのじゃ! おっ、あれはドライフルーツではないのか?」
 ジュリエッタの作戦(?)は功を奏して、サシャたちの視線は、露店に並ぶ色とりどりの干し果物へ。
 はしゃぐ女の子たちの姿を横目に、ロディは、こちらは生の果物を売る屋台へ。
「おすすめは?」
「そうだねぇ。やっぱりスイカかな」
 その露店で商われているブルーインブルー産のスイカは、大きさは小ぶりで楕円に近い形のものだった。
 冷やした実を食べやすく小さく切り分けたものを売っている。
「わっ、ロディさん、それなんですか!」
「おお、これは美味しそうな果物じゃ。乾燥させたものも味が凝縮されているが、みずみずしい生のものにも惹かれるのう」
 後方からロディを突き飛ばさんばかりに、スイカに気づいた女の子たちがのぞきこんでくる。
 その様子に、七夏がくすくすと笑った。
 誰がどう見ても――外国旅行を楽しむごく普通の女の子(とその保護者?)に見えたことだろう。いや、それは何も間違ってはいない。ただ、彼女たちはひとたびこの地を離れれば、おそらくこの雑踏ですれ違った人々の記憶からは消え、世界群を行き交うあの列車で、また違う世界を旅する運命にあるというだけ……。

 一同は、その後も、屋台や露店の並ぶ町を散策し、うまそうなものを見つけては買い食いし、珍しいものを見つけては立ち止まって見聞して過ごした。
 ロディは、お守りになるという飾り物を買った。
「その青い石のと……それからそこの、羽がついたものを」
 それは、きれいな石や、動物の骨、鳥の羽、鋳物の飾りなどを一本の紐に通した飾りで、部屋に吊るしておいてもいいし、輪っかにしてなにかに結びつけておいてもいいそうだ。
「お、ここでは土鈴を売っているのか」
 そして、目を留めたのは海神祭の主役とも言うべき、土鈴である。
 布のうえに大小の、さまざまな形・意匠の土鈴を並べた露店が続いていた。
「どこかに隠してあるのを探すのが作法なんだと聞きましたよ」
 と言う七夏へ、
「そうらしいが、それをして喜ぶ歳でもないしな。もう少し若ければ兎も角、だろうが」
 と応える。
「まあ、ロディさんは十分にお若いじゃありませんか」
 七夏は言ったが、ロディは苦笑いだ。
 一般的にはそうだろうが、サシャやジュリエッタに比べればどうしたって年嵩である。もっとも、ロストナンバーになってからの年数はまた違うのだろうが。
 そのジュリエッタはサシャを相手にひとしきりトマトに関する講釈をしていたが(「以前にジャンクヘヴンに立ち寄った際、様々なトマトを堪能したのじゃが、乾燥したものはまた味が凝縮されて格別じゃ。アルコールのつまみとしても合うらしいのじゃが、未成年のわたくしはまだ想像できぬ。いつかは伴侶とともにゆっくり――」「ジュリエッタの伴侶ってどんな人なのかしら。メイリウムでデートしたっていう人?」「なにを言っておるのじゃ! というか、いつその話を!」「さっき七夏ちゃんがこっそり……」)、露店のひとつにさまざまな動物をかたどった土鈴を見つけて歓声をあげた。
「これは面白い」
「わあ、かわいい! これ、ウサギ? こっちは……ネコかな」
「む、これは……」

 ジュリエッタが手にとったのはフクロウ型の鈴だった。
 肩のうえのセクタン、マルゲリータがきょとりと首を傾げる。
「オウルフォームそっくり!」
「これは気に入った! ひとついただこう」
「青いのだけでいいの? 色違い、いろいろあるよ」
「む……」
 店主はなかなか商売上手だった。色違いをずらりと並べられると、まるで虹のようなその並びに、ひとつひとつがいっそう愛くるしく見えてくるのだった。
「かわいい! 絶対、セットのほうがいいよ!」
「……まあ、フクロウは福を招くともいうからのう。お爺様の土産として買っていこうかのう……」
 結局、買うことになってしまった。
「ワタシはこれにしようかな」
 サシャは、淡いパステルグリーンの、小鳥に似せた土鈴を手にとった。カナリアだろうか。そっと振ってみると、ころころと優しい音で、小鳥は鳴いた。

■ 紺碧の世界をたゆたう ■

「もっとくつろいでいいんだよ」
「くつろぐということがわかりません」
「ううん、そうか。そうだなあ……」
 頭上で、うみねこが鳴く。
 ジャンクヘヴン沖をゆく、遊覧船の甲板では、デッキチェアで冷えた飲み物を飲んだり、潮風に吹かれながらのんびりと水平線を眺めたりと、人々が思い思いのひとときを過ごしている。
 モリーオも、麻の開襟シャツと、ハーフパンツというリラックスした服装に着替え、デッキチェアに身をよこたえると、サンダルさえ脱いで素足を投げ出す。果汁を炭酸水で割った飲み物をストローで吸いながら、ふと傍らに目をやれば、直立不動のハルカ・ロータスがそこに居た。
 なにせ、何かの冒険依頼だと思ってチケットを掴みとったら、慰安旅行の同行でまったくあてが外れたというハルカである。この兵士は、命じられて戦う以外のことを知らないらしい。ホテルのロビーで、モリーオが一緒に来るかと言ったのは単なる「お誘い」だったわけだが、ハルカは指揮官に付き従ったつもりのようだった。
「とにかく、坐ったら」
「はい」
 言われて、ようやく椅子に腰を落としたが、背筋はぴんと伸びていた。
「あら、坐ったの」
 ハルカが着席するや否や、幸せの魔女がそんなことを言うので、
「あ、はい、何か――」
 と思わず腰を浮かせてしまう。
「別に。そこに電信柱みたいにつったってたら、影が日時計みたいね、って思っていただけよ」
「……はい?」
 それ以上は何も説明する気はなさそうに、幸せの魔女は船縁の手すりに身を預ける。
「本物の海というものを初めて見たわ」
 そして、ぽつり、と言った。
「そうなの?」
 モリーオが彼女を振り返る。
「思ったよりも綺麗じゃないのね。波立っていて、落ち着きがないこと。この潮風も……、これじゃ髪やお肌が痛んでしまうわ。べたべたするし、それに、へんな匂い」
 遊覧船に乗っておいてそれはなかろう、と言うようなことを並べ立てる。
 しかし、その表情はやわらいでいる。
 風が吹けば、船の帆は大きく弧を描いて張り、陽光を照り返してキラキラと輝く海面を滑るように走った。
 海風は幸せの魔女の白いドレスの裾と、金の髪をそよがせ、彼女が髪をおさえて、頬をなでる風の感触に目を閉じるさまは、避暑地の令嬢めいて見えた。
 ハルカはそんな魔女の姿と、風景とのあいだで、どこか落ち着かなげに視線をさまよわせている。
「ハルカくん」
「は、はいッ」
 モリーオに呼ばれて、固まる。
「……海を見て来たら?」
「あ――……その……」
「くつろぐってそういうことだよ。自分がしたいようにする。自分が何をしたいのか、自分に聞いてごらん」
「自分に……」
 しかし。
 ハルカにとって自分自身とは何か。考えればむしろわからなくなる。作戦行動の合間の小休止というならまだしも、世界の摂理を離れ、結果、戦線を外れた自分は、この長い長い休暇をどう過ごせばよいのだろう。
 だが一方で、燦々と注ぐ太陽のあたたかさ、頬をなでる風の心地よさに、心の、今まで使ったことのない場所が、氷が溶けるように動き始めているのも、また事実なのだった。
「海を見てきても……よろしいでしょうか?」
「だからそう言ってるじゃない」
 モリーオは笑った。
 ハルカはおずおずと、船縁から海をのぞく。船体にあたって砕ける白波と、潮騒の音。
「あっ」
 彼がちいさく声をあげたので、幸せの魔女は瞳を向ける。
「今、魚が」
「そう?」
 魔女は気のない返事をしたわりには、熱心に海を見つめた。
「どこよ」
「え、ああ……もう、行ってしまった」
「なにそれ。今度見つけたらまた教えなさいよ」
 顔には出さないが、どうやら彼女も見たいらしかった。
 しばし、ならんで、海を眺めた。
 まっすぐに、視線を投げれば、見渡す限りの水平線。
 どこまでも、どこまでも続く紺碧に吸い込まれそうになる。
「そう言えば」
 ふいに、幸せの魔女は言った。
「海水が塩っ辛いのは誰かが大量の塩を入れてるからなのよね?」
「えっ」

 しばらくして、モリーオがふたりを招いた。
 パラソルがつくる陰のした、デッキチェアが3台と、湯気を立てる木の桶が置かれていた。
「なにこれ?」
「いいかい、こうしてね」
 モリーオが桶に半分ほど入っている湯に、持参したらしい草のようなものを落とすと、ふんわりと良い香りが立ち上った。
「ハーブのフットバスの出来上がり」
 湯の中に、素足をつけてみせる。
「この暑いなか、湯に足を浸けろっていうの?」
「これが案外、疲れがとれるんだよ。今日、けっこう、歩いたろ」
「列車からホテルまで歩いただけじゃない。あとは船に乗ってたんだから」
「まあ、まあ。やってみて。それと、お昼にしよう」
 フットバスに足をひたしながら、サンドイッチの昼食になった。
「こ、これは……こんな食事ははじめてです」
 ハルカが目を輝かせて言った。
 茹でた小エビと野菜、玉子をソースであえてこんがり焼いたパンで挟んだだけの簡単なものだったが、彼にはなじみのないものだったようだ。
 風をはらんだ帆が張って、綱が軋む。
 遊覧船はゆっくりと向きを変えているようだ。さきほどは水平線が見えていた側に、ジャンクヘヴンの町並みが見えてくる。
「こうして遠くから見ると小さい町に見えるわ」
 と、幸せの魔女。
「小さいのだろうね。最大の海上都市だというけれど、壱番世界の都市に比べれば、ずっと小さい」
「四方を海に囲まれて、足の下にも海があって。きっとここでは幸せも不幸せも海からしかやってこない。そういう世界なのだわ」
 うたうように、彼女は言った。
「いろんな世界があるんだよ」
 モリーオは言う。
 隣では、食事を終えたハルカが、うとうとと眠りかけていた。

  *

 決めていたとおり、夕食の時間に、ホテルのテラスに集合した。
 海は夕焼けの色に染まり、空がゆっくりとたそがれてゆく中、食卓を囲んで、それぞれの昼間の様子を報告し合う。
「えっ、貰っていいの? かわいい!」
「ほう、これは……大きさもちょうどじゃ」
 サシャとジュリエッタが声を上げたのは、七夏からのプレゼントがあったからである。
 彼女は町でこっそりと布地を買って夕食前に自室に戻ったときに手早くそれを縫いあげた。
 彼女たちが町で買った土鈴を入れるためのちいさな巾着袋である。
 生地は魚の柄が染め抜かれたものでお揃いだったが、巾着を絞るリボンが異なり、サシャのは黄色、ジュリエッタには水色、そして自身には紫であった。
「せっかくだから今日の記念に」
「うん、大事にするぞ!」
「七夏ちゃん、ありがとう!」
 夕食が終わる頃には、すっかり夜になり、空には星が瞬き始めている。
「どうした、ハルカくん。酔ったのかい」
「いえ」
 ワインのグラスを開けて、ぼうっとした様子のハルカに、モリーオが声をかけたが、彼はかぶりを振った。
「こんなに美味しいものは、初めてだと思って」
「初めてばかりだな」
「本当に……」
 ワインではなく、デザートに出たチョコレートケーキに、彼は酔っているようだった。

■ 夜市に鈴はさざめいて ■

「やっぱり祭りは夜に限るわ。太陽の下でお祭りだなんて、気味が悪いだけじゃない」
 日が暮れても、祭のジャンクヘヴンの賑わいは引かず――むしろいっそう喧しくなるようだった。
 夜市が立つと聞いて、幸せの魔女は夜の町の散策を提案。町の酒場をのぞいてみたいというロディと、自由に行動してよいのだとようやく理解したハルカがそれに挙手した。
「なるほど。昼間とは雰囲気が違う」
 と、ロディ。
 露店や屋台が並ぶのは同じでも、ランプの灯りに誘われて歩く通りは、やはり別の顔つきだ。
 子どもらの姿はなく、かわりに男女の連れがぐっと増える。
 赤ら顔の酔客たちはもっと多い。
 屋台でも、酒を売っているようだ。とりあえず、ガラス瓶に入った発泡酒を買って、喉を潤しながら、ロディたちは夜のジャンクヘヴンを歩いた。
「そう言えば、ふたりは、もう鈴は手に入れたのか?」
「まだよ。だからそれを集めに来たのじゃない」
 幸せの魔女は、串に刺して売られている謎の爬虫類の黒焼きをかじりながら、露店の鈴をのぞきこんだ。
「みんな……あの土鈴――?を持っている、けど」
 ハルカがあたりを見回して言った。
「そういうお祭りらしいからな」
 ロディが、昼間、買った土鈴を鳴らしてみせた。
「要は、沢山集めればそれだけ幸せって事でしょ? 簡単な話だわ」
 幸せの魔女が鈴をひとつ、つまみあげる。
「おや、それはちょっと形がいびつだね。少し安くしておくよ」
「じゃあいただくわ。歪んだものは嫌いではないから」
 にっこり笑ってお買い上げ。
 その後も、さまざまな幸運により、幸せの魔女はひとよりも安く、数多くの土鈴を集めてゆくのだ。
「……」
「ハルカもどれか買ったらどうだ?」
 ハルカがうらやましそうに魔女を見ているので、ロディが促したが、ハルカは戸惑った様子だ。それをどう解したのか、
「両替してこなかったのか?」
 と、訊く。
 つまりナレッジキューブを、ブルーインブルーの通貨に替え忘れて持ち合わせがないのか?ということだ。そうではなかったのだが、単に買い物の要領がよくわかっていない――というよりもなにかを買うという発想のないハルカだったのだ。
 そのときである。
 幸せの魔女が小さく声をあげた。
「おい!」
 ロディがすばやくそれに気づいて、踏み出す。
 ひったくりだ。
 いかにも柄の悪そうな男の二人組が、幸せの魔女がブルーインブルーの貨幣の入った袋を出した瞬間、彼女をを突き飛ばし、袋を奪ったのである。
 むやみやたらと鈴を買っていく魔女は、かれらの目に、世間知らずの令嬢かなにかに映ったのだろうか。
「面倒なことにはしたくない。それをかえしてやってくれ」
 ロディがあくまで落ち着いた声で言ったが、ひったくりたちは、うるさい、と声を荒らげてロディを押しのけようとする。
 仕方ない、と小さく呟いて、ロディは男の体当たりを避けつつ、その肩を掴んだ。
 ほんのすこし、生命力を吸収してやると、たちまち男は意識を手放して崩れる。
 だが、そのとき、手のなかの袋も投げ出されてしまった。
 もうひとりが素早くそれを引っつかみ、駆け出す。進路にいたのはハルカである。彼は、肉体的にひったくりに劣っていることはなかった。むしろ、厳しい訓練を受けた強化兵士の彼と、町のごろつきとでは段違いと言ってよく、戦えば一瞬で決着はついたはずである。
 だがいかんせん、ハルカは命令がないと相手を攻撃することができないのだ。
 まっすぐ向かってくる男。周囲は雑踏。反撃する以外で彼にできることは、瞬間移動でその場を逃れることだけであった。
 消え失せたハルカに驚き、つんのめりながらも、男は昏倒した相棒を捨ておいて雑踏にまぎれ、逃げようとする。
「莫迦ねぇ。この私から幸せを盗もうだなんて」
 ひくい声で、幸せの魔女は言った。
 そしてゆっくりと歩き出す。逃げる相手を追いかけようというのに、彼女に急ぐそぶりはまったくなかった。その必要がないのだ。なぜなから、彼女は幸せの魔女だから。
「私は幸せの魔女。幸せを追い求め、決してそれを逃がさない残酷な魔女。どんな手を使ってでも奪われた幸せは奪い返し、そして奪い尽くす」
 なにかを察した群衆が、気圧されたように路を開けるなか、魔女はあくまで優雅に歩く。
 ロディは小さくため息をついた。
 面倒ごとは避けたいつもりが、この有様だ。
 件のひったくりがその後どうなったかは、世界図書館の報告書には記載されていない。
 ただ言えることは、幸せの魔女は言葉どおり鈴をすべて取り返したし、この夜以来、ジャンクヘヴンには、海神祭の夜に狼藉を働いたもののもとにあらわれる恐ろしい魔女の伝説が、あらたな海神祭の言い伝えとして加わったということだ――。

 さて、一方。
 攻撃を回避するために転移してしまったハルカだ。ほんのすこし離れた場所に移動して、すぐ戻ればよいと思っていたのだが、彼にとって不幸なことに、ジャンクヘヴンはきわめて狭い場所に建物や路地の密集する複雑な都市であったということだ。
 彼が降り立ったのは裏路地で、どこか近くからは露店のざわめきは聞こえるし、路地の隙間から灯りは漏れてくるものの、すぐにそこへと続く路はない、という場所であった。
 周辺はすでに閉店した店か、はたまた住人が寝静まった家屋なのか、しんと静まり、灯りもついていない。
「……」
 これは困った。
 仕方なく、とりあえず、道なりに歩き出す。
 すこし歩くと、灯りのついている家々もあっていくぶん安堵する。
 住宅街のようだ。
 それも……一見して裕福な家々ではないとわかる。
 窓の隙間ちらりと垣間見える家の中には、うす暗いランプのした、簡素な家具だけの部屋に大人数の家族がぎゅうぎゅう詰めになって暮らしているのが見えた。
 どこかで赤ん坊が泣いている。犬が吠えている声もする。
 誰かの怒号。対照的な、笑い声。
 生活の音だ。
「……」
 自分が育ったのも、こういう町だった。
 ハルカは思った。
 残してきた家族は今ごろどうして……
「……」
 ふと、たちどまる。
 家族。自分の、家族は――
 突然、火がついたような子どもの泣き声が、ハルカの耳を突いた。
 すぐそばの細い路地で、灯りの漏れる木戸のまえでまだ十には満たないだろう男の子が泣きじゃくっている。
「泣いたって、どうしようもないんだからねッ!」
 母親だろうか。家の中から女の声がした。
「だって、だって、『海神祭』だよぉ、鈴が欲しいよぉ」
「そんなもん買うお金はないって言ってるだろ!」
「……」
 吸い寄せられるように、ハルカは子どもに近づいた。
「お金は」
 そして、来るときにナレッジキューブを両替して得た貨幣を握らせる。
「これで足りるか」
「……」
 子どもは、しばし、ぽかんとして、涙と鼻水で汚れた顔でハルカを見上げた。
 それから、ぱあっと顔を輝かせ、家の中に飛び込んでいく。
「母ちゃーーーん! お金もらったよー!」
「なんだって!? ちょっと、あんた、どうしたの、これッ――」
 母子が飛び出してきたとき、すでにそこには、誰の姿もなかった。

「……彼は無事なようだな。今、やっとノートで連絡がついた」
 ロディは、町の酒場に腰を落ち着けていた。
「彼って?」
「ハルカに決まってるだろう」
「ああ、日時計ね」
 幸せの魔女は集めた土鈴をテーブルのうえに並べて、悦に入っている。
 ようやく心配事は解決して、ゆっくり飲めそうだ。ロディは胸をなでおろす。休暇に来たのに、結局、人の世話をしたり、気を使ったりだったな、と苦笑を浮かべた。
 グラスの中では琥珀色の蒸留酒が氷をなめらかに溶かしていた。
 飛び込みで入ったが、なかなか良い店である。
 肴に出された燻製肉の料理も旨い。
 夜はまだこれからだ。ゆっくりと、過ごすことにしよう。
 強い酒が喉を灼く感触を、ロディは楽しむことにした。

■ 星空の下の灯火 ■

 夜の町へ繰り出した面々をのぞいて、3人娘とモリーオは、ホテルのテラスに残った。 
 ボーイたちが、テーブルのうえに火を灯したろうそくを置いてゆく。テラス全体を照らしていた篝火やランプは消され、ガラスの中で揺れる小さな灯火だけが、灯りとなった。
「みんなの鈴を聞かせて」
 モリーオのもとめに、彼女たちは昼間の露店で買った土鈴を鳴らしてみた。
 ころころと、素朴な音だ。
「土鈴だから、そんなに音が響かないんだな」
「やさしい音……」
 七夏はそっと目を閉じて、耳元で鈴を振ってみる。
「この音が天に届くのかのう」
「人々が鈴を鳴らすと、消えた星がまた輝き始めた……そんな言い伝えだったっけ?」
 今日の夜空は、鈴の音を待つまでもなく、銀砂を撒いたような満点の星空だ。壱番世界のように空気が汚れていないブルーインブルーの夜は静謐に澄み渡っていた。
「あ、いけない」
 紅茶のカップを置いて、サシャが言った。
「素敵なホテルを教えて頂きありがとうございます」
「私からも。こんな素敵な場所へのお誘い、ありがとうございました。皆の楽しそうな顔を見れて私も幸せです」
 七夏や、ジュリエッタからも口々に礼の言葉が出た。
「いやいや。わたしはいつも皆を送り出すばかりで旅には慣れていないからね。一人ではなにかとさわりがあって」
「わたくしたちも日頃のロストレイルの旅はなんというか……波瀾万丈すぎるゆえ、このようなところでゆっくりできるのはなかなかないからのぅ」
「本当に。……昔、旦那様が贔屓にしてらした香港のホテルがちょうどこんな感じだったの」
 サシャが言った。
「旦那様というと、サシャがロストナンバーになるまえの……」
「ええ。旦那様はお優しくご立派な人格者で現地の方々にも慕われてた……」
 彼女が、200年ものまえに覚醒したロストナンバーであることをジュリエッタも聞いている。一見、世代の近いように見えて……昼間、露店巡りをしているあいだは、そんなは差は感じなかったのに、実はふたりのあいだにある途方もない時間の隔たりに、ジュリエッタは思わず絶句するのだ。
 ろうそくの揺れる炎が照らす彼女の横顔は、懐かしい人を思う穏やかさだけでなく、もう戻らない、時の彼方に行ってしまった人々を悼む祈りにも似た厳粛さと、その列に自分は加わることがないという寂しさのようなものを、同時に備えているように見えた。
 そしてまた、ロストナンバーも不死ではない。
 今こうして、同じ時間を共有していても、いつかはそれぞれの旅の終着へ向けて、別れるときがくるのかもしれない。
 そう思った瞬間、押し寄せてくる感情を払うように、ジュリエッタは土鈴を鳴らした。
(考えても、詮ないことじゃ)
 ジュリエッタは思う。
(とにかく今は今を楽しく生きる。そしていずれは、良き伴侶を……)
 楽しい方向に想像を広げれば、自然と笑顔がこぼれた。
 そんなジュリエッタの内心の変化をすべて読みとったとでも言うように、サシャも穏やかにほほえみ、鈴の音を合わせた。
「この鈴の音が、旦那様にも届きますように」
 今は寂しくない。
 素敵なお友達もできたし……ですから心配しないでくださいね、旦那様。
「……故郷の私の家からも、海が見えたんです」
 次は七夏が問わず語りに口を開く番。
 揺れるちいさな灯火は、胸に秘めた思いを、知らず引き出して語らせる力があるかのようだった。
「夜は今みたいに真っ暗でしたけれど、そこには親友が住んでいて、それを思うと暗い海も怖くありませんでした」
 それっきり、彼女は黙った。
 ツーリストは皆そうであるように、突然に真理数を失った彼女は、その友人とも突然に別れなければならなかったはずだ。
(あの子は無事……でしょうか……)
 言外に飲み込む。
 そしてーー。
「あ! しんみりしちゃ、いけませんね!」
「そうじゃの。なにか食べるか? トマトを使ったケーキがあると聞いたのじゃが……」
「ジュリエッタ、本当にトマトが好きなのね」
 笑い声がさざめいた。
「モリーオさん、ワタシ、紅茶のレシピ集めが趣味なんです。モリーオさんはハーブティーを淹れるのがとても上手だとか……。ハーブティーの淹れ方のコツとか薔薇の育て方の秘訣とか色々教えて頂けませんか?」
「いいとも。季節のないターミナルで植物を育てるのはちょっとコツがいるからね……」
「モリーオさん、これ、美味しそうな香りですね。すこしいただいてもいいですか?」
「え……? あっーー」
 七夏が自分のグラスに注いだのは、夕食時にハルカが頼んでいたワインの残りだった。
 いわゆる貴腐ワインの一種らしい、甘い香りが深々と香るそれを、七夏はくいっ、と呷ってーー。
 笑顔のまま、スローモーションのように倒れた。
「た、たいへん!」
「おーい、だいじょうぶか~」
「むぅ……アルコールとはおそろしいものじゃの……」
「あ……なんか、ふわふわして……」
「七夏ちゃん、しっかり!」

  *

 かれらだけでなく、ブルーインブルーの慰安旅行は、多くの司書や、ロストナンバーたちを楽しませるものになったようだ。
 報告書に書き記されたことだけがすべてでなく、大小さまざまの物語がうまれただろう。
 それらはすべて、ブルーインブルーの空と海とが知っている。

 ターミナルに帰還したとき、モリーオ・ノルドは、すこし日焼けしていた。
 0世界の時のない空のしたでも、温室の椅子でうたたねするとき、この日の海の風景を、彼はまどろみの夢に見ることがあるという――。

(了)

クリエイターコメントお待たせしました。
『【海神祭】空と海とが知っている』をお届けします。

ブルーインブルーの休日、いかがでしたでしょうか?

今回は、実験的に、「パックツアー」をイメージして、選択肢で旅程をつくるという形式で組み立ててみました。もしかすると、漠然としたOPよりはこのほうがみなさんもプレイングしやすいのかな?と思ったからです。もし好評だったら、同形式のお遊び系シナリオをまたやれたらいいな、なんて思っておりますよ。

ではまた、どこかの世界でお会い致しましょう。
公開日時2011-06-25(土) 23:00

 

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