オープニング

 その日、世界司書たちは図書館ホールに集められていた。なんでも館長アリッサからなにかお達しがあるというのである。彼女が新館長に就任してから初めての、正式な館長通達。一体、何が発せられるのかと、緊張する司書もいた。
「みんな、こんにちはー。いつもお仕事ご苦労様です」
 やがて、壇上にあらわれたアリッサが口を開いた。
「私が館長になるにあたっては、いろいろとみなさんにご迷惑をおかけしました。だからってわけじゃないんだけど、世界司書のみんなの『慰安旅行』を計画しました!」
 慰安旅行……だと……?
 ほとんどの司書たちが言葉を失う。
「行き先はブルーインブルーです。実はこの時期、ジャンクヘヴン近海で、『海神祭』っていうお祭りをやってるの」
「あ、あの……」
 おずおずと、リベルが発言の許可を求めた。
「はい、リベル。バナナはおやつに含みます」
「そうではなくて……われわれが、ロストレイルに乗車して現地に向かうのですか?」
「あたりまえじゃない。慰安旅行なんだもの。年越し特別便の時に発行される、ロストメモリー用の特別チケットを全員分用意してあります。あ、念のため言っておくけど、レディ・カリスの許可もとってあるからね!」
「……」
 そうであるなら是非もない。
 時ならぬ休暇に、司書たちは顔を見合わせるばかりだったが、やがて、旅への期待が、その顔に笑みとなって浮かび始めるのを、アリッサは満足そうに眺めていた。
「コンダクターやツーリストのみんなのぶんもチケットは発行できます。一緒に行きたい人がいたら誘ってあげてね♪」

 さて。
 この時期、ジャンクヘヴン近海で祝われているという「海神祭」とは何か。
 それは、以下のような伝承に由来するという。

  むかしむかし、世界にまだ陸地が多かった頃。
  ある日、空から太陽が消え、月が消え、星が消えてしまった。
  人々が困っていると、海から神様の使いがやってきて、
  神の力が宿った鈴をくれた。
  その鈴を鳴らすと、空が晴れ渡って、星が輝き始めた。

 ……以来、ジャンクヘヴン近海の海上都市では、この時期に、ちいさな土鈴をつくる習慣がある。そしてそれを街のあちこちに隠し、それを探し出すという遊びで楽しむのだ。夜は星を見ながら、その鈴を鳴らすのが習いである。今年もまた、ジャンクヘヴンの夜空に鈴の音が鳴り響くことだろう。
「……大勢の司書たちが降り立てば、ブルーインブルーの情報はいやがうえに集まります。今後、ブルーインブルーに関する予言の精度を高めることが、お嬢様――いえ、館長の狙いですか」
「あら、慰安旅行というのだって、あながち名目だけじゃないわよ」
 執事ウィリアムの紅茶を味わいながら、アリッサは言った。
「かの世界は、前館長が特に執心していた世界です」
「そうね。おじさまが解こうとした、ブルーインブルーの謎を解くキッカケになればいいわね。でも本当に、今回はみんなが旅を楽しんでくれたらいいの。それはホントよ」
 いかなる思惑があったにせよ。
 アリッサの発案による「ブルーインブルーへの世界司書の慰安旅行」は執り行なわれることとなったのだった。

――――――

 ターミナルには幾つもの不思議な喫茶店がある。その1つ、彩音茶房『エル・エウレカ』ここは世界司書である贖ノ森火城が料理番を務める事のある喫茶店だ。
 店内の片隅、外の通りが見える窓の傍には小さな食器と赤い熊のぬいぐるみがちょこんと座っている。ぬいぐるみとその向かい、空席の前には空のカップが置かれ、真っ白なシュガーポット、僅かに湯気を出すティーポット、そして砂時計がさらさらと小さな砂を落とし時を刻んでいる。
 ただの店内ディスプレイかと思えるが、そのテーブルの下でぐずぐずと鼻をすする音を立てた黒い塊、床にべったりと座り込む無名の司書がいる事でぬいぐるみが彼女の同僚、ヴァン・A・ルルーであると伝えている。
 砂時計の砂が全て落ちるとルルーはティーポットを手に取り、客人のカップにお茶を注ぐ。それが合図だったかのように空席だった席には真っ白いフェレット、アドがするりと着席した。テーブルの横に荷物を置くと、入れ立ての紅茶を一口飲み、ふーと息を漏らす。
『あっちこっちで調整入って書類が全然ねぇや』
「ブルーインブルーへの世界司書の慰安旅行ですね。アドは行くんですか?」
『まだ決めてねぇ』
 ぐずず、ずびずび。音が聞こえアドとルルーはちらりとそちらを見るが何も言わず、直ぐに会話を戻す。
『そういや、ヴァンの書類ブルーインブルーだったな』
 言いながら、アドはごそごそと籠を漁り、1つの書類をテーブルに広げた。
「えぇ、丁度いいので行ってみようかと。どうです? 一緒に」
『……イカ?』
「イカ、ですね」
 海神祭の行われるジャンクヘヴン近郊で大型海魔が出現、それを捕獲もしくは討伐せよ、という依頼なのだが、その姿形や攻撃方法等、どうみてもイカだった。
 再度ぐしぐし、ずず、と音が聞こえ二人は音の発信源を見るが、やっぱり何も言わないままだ。そんな、微妙な空気漂うテーブルに一組のカップと2種類のケーキが置かれる。
「推理合戦でタルトの話題があったのを思い出し、デザートもタルトにしてみた。赤はイチゴのタルト青はブルーベリー、ブラックベリー、カシスのタルトだ」
 デザートをまるっとお任せされた火城がケーキについて説明し取り分ける。
『そういや、あの推理合戦も結局ギャンブルに落ち着いたよな』
「えぇ、アドの推理も大活躍でしたよ。そうそう、次はこ……」
『だーかーらー、オレはミステリだ推理だギャンブルだは苦手なんだって言ってるだろうがよ』
「そうだ、次のお茶会のデザート、火城さんにお願いしてもいいですか?」
「都合があえば。ところで……そろそろ許してあげてはどうだ」
 三人分取り分けた火城がそう言い、足下に視線を落すと、目も鼻頭も真っ赤にした無名の司書が天の助けを受けたかのように見上げている。
『ぷんすこ』
「例え無害であっても、軟膏を飲むなんてどうかしています」
「もう何回も謝ってるじゃないですかぁぁぁぁ。ずずず、これでも一応退院したばっかりなのにぃぃぃ」
『自業自得じゃねぇか。なんでもかんでも食べるからだ』
「お薬は処方箋に従って、用法用量を守ってですね」
「うえぇぇぇん、ごめんなさいぃぃ。ずびび。そのもふもふで癒してくださいぃぃぃ、ちょっと触るだけでいいですからぁぁぁ」
 先日の一件を無名の司書はずっと謝り倒しているがアドとルルーは一向にもふらせてくれる気配はない。勿論、二人は本気で激怒し、無名の司書を嫌っているわけではないのだが、簡単に無名の司書を許してしまうのも違うよな、という二人なりの思いやりと愛情らしく、火城を始め他の客は成り行きを微笑ましく見守っている。
 とはいえ、何時までもソレを引き摺っている訳にもいかないだろう。火城が何か良い話題換えはないものかと思案していると、テーブルの上に書類を見つける。
「お、ブルーインブルーの依頼じゃないか。慰安旅行と丁度重なってるな。一緒に行くのか?」
「えぇ、イカ退治。どうです? ご一緒に」
「イカか……良い食材になりそうだな」
『……食えんの?』
「ジャンクヘヴン近郊の大型海魔はよく食材として取引されてます。これも立派な食材です」
「俺の導きの書に依頼が無かったら、同行させてもらおう。一度、ブルーインブルーの新鮮な魚介類を調理してみたかったんだ」
「はいはいはいはい! はいはい! あたしも! あたしも大型海魔討伐出てます! 行きます! 一緒に行くー!!」
『そんな書類あったか?』
「今見ました! すぐ書類書きます!」
 ぱんっと導きの書を叩き、無名の司書が鼻息荒く言う。火城は腕を組み、既にイカレシピの考察に入っている。
「アドは? 何か出てます?」
『……えび』
「えび」
『えび』

――――――

「というわけで、ブルーインブルーでイカ漁をしませんか?」
 赤いクマはさらっとしれっと、導きの書に現れた《海魔討伐》を食材ハントに言い換えていた。
「この《獲物》は肉厚で、特に足の部分が非常に美味とのことです。体長が10メートルを超えているようですし、たいそう食べ応えがあるかと」
 他にもアドによるエビ狩りや無名の司書によるカニ討伐ツアーも出るというし、調理は料理の腕に定評がある火城が担当するともいう。
 いやがおうにも、こちらの食欲は刺激される。
「ただ、ひとつ注意点が……」
 そう言ってルルーは、もっふりとした手を口元に当てた。
「どうやらこのイカ…もとい海魔は、吐き出す墨などに幻覚作用の強い毒を持っているようです。うかつに喰らうと、自分のアレな秘密やコレな思い出があることないこと目の前に展開されるそうで。しかも周りと共有されるという有様です。船上、もしくは半径数十メートル圏内での阿鼻叫喚が予想されますね」
 この海域周辺では、海魔のメンタルブロウに撃沈し、羞恥のあまりしばらく家から出られなくなるといった被害も出ているという。
 この瞬間、何かものすごくイヤな予感がした。
 もしくは、何らかの不吉なフラグが立った、気がした。
 そんなこちらの不安を知ってか知らずか、クマ司書はほんのりと微笑んだ。
「いかがです? この戦いの果てに美食の幸せが待っていると信じて、シーフードハントに参加してみませんか?」
 つぶらな瞳は好奇心でキラキラしている

 さて、この海魔討伐後に夜の海神祭を楽しむだけの余力は残っているのだろうか?



!お願い!
イベントシナリオ群『海神祭』に、なるべく大勢の方がご参加いただけるよう、同一のキャラクターによる『海神祭』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。

品目シナリオ 管理番号1306
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
クリエイターコメントはじめまして、こんにちは、高槻ひかるです。
今回は桐原WR、神無月WR、黒洲WRとご一緒させていただき、ブルーインブルーでシーフードゲットツアーに参戦いたしました!

今回の獲物は10メートルを超す巨大イカ…もとい海魔です。
戦闘力はさほどではありませんが、いやぁな精神攻撃を仕掛けて参ります。
巨大触手を操る海魔をどのように捕獲するかに終始するもよし(ただし幻覚に巻き込まれる可能性あり)、精神攻撃への対応策を考えるもよし、ばれたらアレな秘密や過去などを思い浮かべ悶えるもよし、でございます。
そのほか、お好きにアプローチしていただければv

なお、ルルーも海魔討伐の船に同乗いたします。
が、なんの役にも立たないかと思われます。むしろ応援しかしてくれません。

それでは、メンタルブロウの危機に晒されたりもいたしますが、もしよろしければ食材ゲットにご協力くださいませv
笑って海神祭の夜を迎えましょう。

参加者
水鏡 晶介(cxsa9541)ツーリスト 男 20歳 魔道研究者
相沢 優(ctcn6216)コンダクター 男 17歳 大学生
木乃咲 進(cmsm7059)ツーリスト 男 16歳 元学生
鹿毛 ヒナタ(chuw8442)コンダクター 男 20歳 美術系専門学生

ノベル

 抜けるような青空、心地よい潮風、そして目の前に広がる大海原――灼けるような熱を持って照りつける太陽の下、はたと相沢優は我に返った。
「あれ、なんでオレこんなとこに居るんだろ」
 赤いクマ司書を存分にもっふもふしている間に、気づけば他のロストナンバーとともに船上のヒトとなっていた。
「魅惑の癒やしを堪能していたはずじゃ……」
「“なんで”って、めいっぱい不吉なフラグが立ってる依頼受けたからだろ、優? 海鮮に釣られたんじゃないわけ?」
 半ば呆れるように笑うのは、木乃咲進だ。
 指出しの黒手袋を嵌めた右手には数本のナイフが握られており、海面を反射して、手入れの行き届いた刃先がキラキラと閃いていた。
 揺らぎを映す彼の表情は明るい。
「進……」
「だよな! やっぱ海鮮食い放題って魅力じゃん。獲れたらただ食い、サイコー! 装甲やわそうなところ狙い撃ちじゃね?」
 すぐ傍では、全身無彩色コーディネイトの鹿毛ヒナタが、ふわっふわと好奇心と食欲を隠すことなく、大きく伸びをする。
「俺は幻覚作用があるという《墨》を少しでも入手できるといいんだけどな。実に興味深い……一体どんな代物なのか、研究のし甲斐もあるだろうし」
 優雅な髪をなびかせて、ヒナタの隣に立つ獣人――水鏡晶介も目を細め、海の向こうに好奇心を向ける。
 狐である彼の毛並みもまた、日の光にキラキラと眩しく輝く。
「ヒナタくんも絵の具として興味があるんだったね?」
「墨絵の面白さに目覚めたとこだし、あわよくばとは思ってる、けど……あーでもやっぱ、食欲優先かも」
「な、こういうことだぜ、優?」
「……そっか、イカか」
「イカですよ、優さん。頑張ってくださいね。応援していますし、楽しみにしてます」
 今の今までモフモフされていたルルーも、微かに笑って見上げくる。黒いつぶらな瞳の期待には是非とも応えたい。
「分かった。ヴァンさんにうまいものを食べさせるためにも、頑張るよ」
 両手をぎゅっと握りしめて、まるで恋人に誓うように力強く頷いてみせる優の言葉に被さるようにして、
「来た……っ!」
 ヒナタの声が飛んだ。
 船が揺れる。
 不自然に大きく海面がうねり、決して小さくはない船が木の葉のように弄ばれ、まともに立っていることさえ難しくなる。
 そして。
 大量の水しぶきを上げて、海が割れた。
 視界に入りきらないほどに凄まじい純白の巨体が、海と空を分かち、立ちはだかる。
 眼前に現れた海魔の巨体を捉えた全員が、一瞬で臨戦態勢にスイッチした。
「さあ、出番だ!」
 水しぶきを払いながら、晶介が指をはじく。
 巨大な海魔と対峙するための――巨大な暗黒物質《魔塊》が何もない空間に生まれ出る。
 自在にうごめき形を変えるソレを放ち、同時に、チカラある視線と共にただ空に指を滑らせるだけで絶対零度の氷が海面を走る。
「オレが行くよ」
 空に描き出される氷の道に、優が颯爽と古ぼけた剣を携え、飛び乗った。
「どうせ手に入れるなら、美味しい足からいただかないとさっ!」
 鮮やかなバランス感覚で、スケーターのごとく、滑走。
 トラベルギアたる剣は燐光をまとい、勢いに乗せて、動きを止められた触手の一本へと刃を振り下ろす。
 次いで、晶介に『指揮』された無数の氷柱が、優の援護射撃となって海魔へ降り注いでいった。
 瞬速の、連係プレイ。
 身をよじって暴れる海魔から、大木よりなお太いと思える純白の触手が一本切り離された。
「……え、うっ、わぁ…っ!?」
 しかし、喜んだのも束の間、電光石火としか評しようのないその攻撃を受けながらも、巨大な触手は切り離されてなお、躍動し、拘束の《氷》を薙ぎ払い、砕き、踏みつけ、襲いかかってくる。
「優君!」
 咄嗟に晶介が伸ばした水の《手》が、はじき飛ばされた優の体を掬い上げ、船上に戻す。
 と同時に、投げつけた鍵型のトラベルギア《エラダ》で海魔本体を一時的に停止、触手を氷漬けにするという、その一覧の流れを優雅にこなしてみせた。
「ありがとうございます!」
「礼には及ばないさ。……でも、長くは保たないよ。確実に封じないとね」
 目を細め、挑戦的に呟く晶介の視線と指先が次に描き出すのは、圧倒的質量によって生み出される氷壁だ。
 照りつける太陽の元に聳え立つアイスブルーからは無数の刃が尽きだし、《魔塊》から飛び出す暗色の棘とともに海魔を串刺しに掛かる。
「二本目も、いただくから!」
 足場の悪さ、不安定さをものともせずに、優は再びトラベルギアを振りかざして向かっていった。
「人外魔境…だよなぁ」
 オモチャのように揺れて揺れて揺れ続ける船上で、ヒナタはがっちりとマストに括られたロープを握りしめ、必死にバランスを保つ。
「なぁに言ってんだ。こんなもん、うまい飯を食うためのほんの軽い運動みたいなもんだろ?」
 両手、指の間に計13本のナイフを器用に構え、涼しげな進の口元が愉悦に吊り上がる。
「んじゃ、俺も負けずに準備運動と行くか。優たちにイイトコ全部持ってかれんのも、なっ!」
 笑みを深めて放たれた進のナイフ《虚刻》は、空間を超え、数十メートルの距離をゼロにして海魔へ届く。
 届き、切り裂き、そして再び空間をループしては同じ攻撃を繰り返し、小さな刃で巨大を刻んでいった。
「ま、これでもまだ運動にもなんねぇけど。腹が減れば、飯もうまくなるぜ?」
「まあ、そうっちゃそうだけど、さすがにガチ戦闘は無理じゃねぇかなって」
 芸術家のタマゴは己の非力さを十分すぎるくらい理解している。やりこんだ暗黒神話なホラーゲームよろしく立ち向かう《主人公》に自分はなれない。
「うん、やっぱオレ、あんたみたいにはやれねぇや。安全第一!」
 言って、ヒナタはトラベルギアの能力を解放。
 途端、己の影が大きく有形から無形に溶けて広がり、無彩色、黒色、実体ある影の、無限に広がり絡みつく捕獲網と化す。
 晶介の氷壁とヒナタの影網で、海と空の間に貼り付けられた標本のごとく、海魔の動きが、触手一本一本に至るまで拘束される。
「そんじゃ、あとは先生方、よろしくお願いしまーす!」
「へえ、君のトラベルギアも面白いね、。アイデアが興味深い」
 晶介が感心したようにヒナタを見やる。
「ってかさ、あんた、徹底してんのな」
「万が一にも腕怪我したら、絵が描けなくなるじゃん? 課題の締切、一週間後なもんで」
「なるほど。そりゃ問題だ」
 ナイフを操る進からのコメントにも、さらっと笑って返す。
 彼らの間に和やかな空気が流れるが、しかし、戦いはまだ終わっていない。
「ヴァンさん、もうすぐでカタがつくから、耐えててくださいね!」
 優が再び氷の道を走る。
「さあ、ラストスパートだ!」
「終わらせてあげよう、我々のチカラでね」
「自分の終わりを想像してみろよ」
 優の剣、空間転移された進のナイフ、晶介の氷柱と《エラダ》が海魔を襲う。
 砕かれた氷片がダイヤモン出すとのごとく、飛び散り、きらめいていた。
 氷と影の網に絡め取られ、暗黒物質で空間に張り付けにされ、本体どころか残された触手の先すらも停止させられた海魔に、もう反撃の術はなかった。
「この分じゃ、あっけなく勝負がつきそうじゃん」
 ヒナタは眩しげに目を細め、演舞のような戦闘を脳内に焼き付けるべく視線で追い続ける。
 だが。
 ふ、と。
 空気の質感が変わった。
 動きようのない海魔の、左右に大きく離れた胡乱な瞳が、ギョロリと一回転し、確かにこちらを見たのだ。
「……へ?」
「あ、なんか俺の中の“フラグセンサー”が、まずいことになると告げているっ」
「え、なにそれ!? 」
 思わず突っ込んでしまった優に対し、進は真顔で、これから起こるだろう怒濤の展開をまくし立てる。
「これまでのパターンでいけば、俺はヤツの《イカスミ》でとんでもなく不幸な記憶を暴露され、羞恥に悶え苦しみ、地獄のような恥を抱えて、七転八倒するがごとくのひでえ目に遭う!  だが、そう何度も同じ轍は踏まないぜ! 俺には秘策中の秘策があるからな!」
 まるで運命を紡ぐ神への宣戦布告をするがごとく、天へ向けて指を突きつけたかと思うと、
「ヴァン!」
 進は踵を返し、猛スピードで船室へと飛び込んでいった。
「おや、進さん」
 そこには、戦闘を回避した赤いクマのぬいぐるみが呑気に茶でも啜りそうな雰囲気で腰掛けている。
「物理攻撃からは死ぬ気で守ってやるから、あんたもオレを守れ!」
「はい?」
「安心しろ、命の保証は意地でもしてやっから!」
 有無を言わさず、体長1メートルの赤いクマのぬいぐるみを掻っ攫い、甲板に舞い戻る。
「神に対抗すべく編み出した、この技――ヴァンが俺を護り、俺がヴァンを護る、その名も、“ヴァン・ガード”…!」
「進、ソレ、ひどすぎじゃないか!?」
 なんてことをするんだと言わんばかりの優の抗議を、進はさらっとしれっとスルーする。
「ほら、喋ってないで手ぇ動かした方がいいんじゃないか? 突破されるぜ!?」
 進の声に、海魔の咆吼が重なった。
「来るぞ」
 網の隙間からもがき、氷壁を突き破り、その巨体を大きく身悶えさせて、這い出してきた触手が、こちら目がけて一直線に襲いかかる。
「た、単調な攻撃なら、これくらい――っ」
 ヒナタを背に庇い、優は降りかかる海水をものともせずに剣を振りかざし、一閃。
 淡い燐光をまとう刀身が、一瞬で獲物を捕らえ、断つ。
 だが、
「ふ、防ぎきれない!?」
 続けざまに吹き付けられた墨からは逃れることができなかった。
 優が発動したトラベルギアの防御壁も間に合わず、ふたり揃って墨の餌食となり果てる。
 視界が、一瞬で墨色に染め上げられた。
 そして――


『きみのえがおがボクらのゆうき! スパイラルレッド、けんざん……っ!』
 張り切って名乗りを上げる幼い子供の声が辺りに響いた。
『みにくいあくは、このもえるほのおでやきつくす!』
 太陽を背に立つ少年が、ジャングルジムの一番上から友達を見下ろし、高らかに宣言する。
『いざ、じんじょうにしょうぶ……!』
『ゆうちゃん、あぶないよー?』
『あぶないよ、あぶないってば、落ちちゃうってば…!!』
『へいきさ、へい……ぃっ!?』
 マントを翻し、友人の忠告に笑顔で応えた少年は、モノの見事に足を滑らせ、地面へと――


「うーわーーーっっ」
 墨に染まった優が、真っ赤になった顔を隠すように頭を抱えた。
「ずいぶんと微笑ましいエピソードだね、優」
 自らの氷で、間一髪、被害を免れた晶介が、ふふっと笑う。
「ちびっ子のころからヒーロー体質だったんだな、あんた」
 ルルーを盾にした進もまた、ニヤニヤ笑いを隠そうともしない。
「壱番世界ではヒーローごっこは誰もが通る道なんですっ!」
「まあ、やったな、うん、やったやった」
「ほら、ヒナタだってそう言ってる!」
「でもオレ、ジャングルジムから転落とかはなかったけどな」
「うっ」
「壱番世界では、そんな遊び方が基本なのかい?」
「なりきって楽しんだもん勝ちだからさ、それはそれでアリじゃねーかなって思、う…っ」
 優をフォローするつもりで応えたヒナタの台詞が、不自然に途切れた。

『ねえ、ヒナタ、軍服着てみない? 完全オーダーメイドのフル装備! 私の友達が作るんだけど、すんごいクオリティだから期待してて。あ、採寸はさせてね? 似合うと思うんだよねぇ! 髪も少し伸ばそっか? できれば日焼けはしないでいて。体型はいまを維持かな。ちょっと腹筋ついてくれるとモアベター! それから、はい、コレ原作。18冊くらい余裕だよね? キャラ掴んどいてね。完コス目指して、ポーズと台詞もマスターしてね。一人称はコダワリの“ボク”だから、そこもしっかり押さえてて』

 すごくキラキラと輝く笑顔で迫る、彼女のその幻覚は、間違いなくあの時のモノだ。
「……あ、なんか……これは、こーれーは……」
 墨を浴びたのは、ヒナタも同じ。
 だとすれば、過去を暴露されるのもまた、同じ。

『うん、やっぱり似合う!』
『あ、ありがと、う?』
 異様な熱気に包まれた会場の広場で、かつてないほどの黄色い悲鳴に取り囲まれ、握手を求められ、写真を求められ、この『モテ』包囲網は一体何事かと真剣に戸惑う。
 その輪の中心で、彼女が常にはないほどの密着度でべったりと頬を寄せ、腕を絡め取り、抱きつき、とびきりの笑顔をはじけさせる。
『写真いいですか』『こっちに目線お願いしまーす』『次、こっちで』『ステキステキステキ!』
 ――カメラ目線だけど。
『あれ、オレにもその笑顔をくれないのかな?』
『へ?』
 いきなり、男装した別の女の子に横から絡まれた。肩を抱き寄せられ、顎に手を添えられて、鼻先が触れそうな距離で顔を近づけられて。
 これは浮気じゃないが浮気のようなもので、せっかくの彼女の上機嫌が吹き飛ぶと、蒼くなって振り返れば、
『大丈夫! 私、リバもいけるクチだから!』
 さらなる上機嫌で、サムズアップを返された。

「……微妙すぎる灰色メモリアルがダダ漏れ……」
 周囲に目一杯開示されてしまった微妙すぎる思い出に、がっくりと脱力するヒナタに対し、
「……灰色、メモリアル……」
 優の表情がこわばった。
 ヒナタの『過去』に重ねて展開されていくのは、そこに見えるのは、アレは高校入ってすぐの、初めて『彼女』と呼べる存在ができた時の記憶だった。
 見間違いようがない、あのツインテール。自分よりずっと背の低い、華奢な後ろ姿は何度も目で追いかけた。
 隣を歩いていた時には不思議と甘い香りがして、ひどく緊張したのを覚えている。

『優君……あのね』
 彼女の大きな目が、自分をきゅっと見上げる。そして続く台詞は、
『あたしのこと、ホントは好きじゃない、よね?』
 予想とは全く別方向の、思いがけないモノだった。
 そんなことないと告げてみても、彼女は頭を振って、こちらを否定する。
『だって、全然あたしのこと、見てないもん……優はやさしいけど、全然やさしくない……ねえ、誰を見てるの? 優が本当に気に懸けてるのって、あたしじゃないよね?』
 何もかも見透かすような瞳が、自分を覗き込んでいた。
『別れよ、優? だって、あたし、自分以外の誰かを思ってるヒトをずっと好きでなんかいられないもん』

「うーわーー……あぁぁああぁ……っ」
 カラン…と、優の手からトラベルギアが床に落ちる。
 青い春が全力で突きつけてくる羞恥心に身悶え、今度こそ頭を抱えて蹲った。
 幼なじみの少女との過去が、共依存の関係に陥り、恋と勘違いし、最終的に深く傷つけた過去が、自分に他者へ踏み込むことをためらわせていたのも事実だ。
 好きという感情や感覚に何かモヤのようなモノが掛かってしまっていて、確かに彼女のことを本当に好きだったのかと聞かれたら、応えられなかっただろう。
 あの子の言葉は、優があえて目を逸らしていた心を真っ正面から突いたのだ。
 その痛みが、胸を直撃していた。
「いやあ、すげえな、うん、すげえわ、マジ」
 思わず傍観者になりきってしまった進は、同情的でありながらも、船上で繰り広げられる《めくるめく青春の1ページ》を不思議な感覚で捉える。
「彼らの分も頑張らないといけないな」
 晶介は、『彼女』をキーワードとした暴露映像にのたうち回る優たちへそっと同情的な視線を向け、きゅっと眉を寄せた。
 その目はすぐに、氷漬けとなりつつある海魔へと移る。
「俺は、幻覚ごときで取り乱したりしないさ」
「すっげぇ自信だな」
「精神を鍛えることは、魔道士にとっては嗜みのようなモノだからね。いや……それにつけても、幻覚が本人の主観だけでなく、他者と共有されるというのが実に興味深いよ」
「相乗効果というところでしょうかね。他者の記憶により、自身の記憶も刺激され、連鎖反応的に蘇ってしまう、と……」
 進に抱えられたルルーは、ぽたぽたと墨を垂らしながらも至極冷静に分析していた。
「……で、あんたは?」
 赤いクマから一分の隙も無く墨色クマへと変貌を遂げた残念な世界司書は、こんな状況に陥ってなお、期待するような変化がさっぱり訪れていなかった。
「なんで無事なわけ?」
「さあ? 効果が出ないのは喜ばしいことですが、しかし洗濯が少々面倒ですよ、進さん」
「……洗、濯?」
 微妙に引っかかる言い回しをどう判断すべきか悩む進の眼差しからスイッとルルーが視線をそらし、
「あ、来ました」
 海魔の予備動作を察知したらしい。
「うおっ」
 その声で、反射的に進はクマで身を護る。
 晶介もまた氷の壁を生み出し、相手の攻撃に構えかけたのだが、しかし。
 力の限りめいっぱい振り回されたルルーから飛び散る墨が、防御する隙も与えず、目の中に入ってしまうというアクシデントに見舞われる。

『逃げろ、スマンが逃げてくれ、電動バリカンが、暴走しちまった、すーまーんーーっ!!』 

「は!?」
 忘れもしない、ソレは故郷の友人の聞き慣れた声。
「バ、バリカン……!」
 アレは、魔法研究サークルの合宿での出来事だ。
 魔法科学者を志す者たちが集うあのサークルで、互いの生み出した理論を実践し、見せ合うという時間に起きた悲劇――

『うわあ、俺の髪が、髪がぁっ!』
『悪気はねぇんだ、だから許せ、逃げろ、追っかけてくーるーぞーっ』
 不穏な作動音がこだまする。
 金色の髪が空に舞うのを見た、と思う余裕もない。
 ソレは次第に腕を、背を、足を、何もかもを刈り取り、丸裸にしようと執拗に追いかけてくる。
『止めろ、止めろ、止めてくれェ……!』

「お、俺にそんな幻覚を見せるなァ~!」
「うおっ!?」
 錯乱した晶介の腕が、進の腕を掴みあげる。
「お、落ち着け、落ち着けって! “魔道士の嗜み”はどうした!」
「落ち着いていられるか、毛が、髪が、俺の髪が刈られる、その巨大バリカンをどこかにしまえっ」
「いや、無理だから、ホント無理だから、持ってねぇし! つか、無事だろ、あんた刈られてねえだろ!?」
「……はっ……! ぶ、無事なの、か……?」
 はっと我に返り、晶介は自慢の毛並みをその手で確かめる。
 しかし、安堵してもすぐに蘇るのだ。何度でも何度でも、幻覚は繰り返し、バリカンのうなりをその耳に伝えてくる。
「いや、やはり駄目だ! 今は無事だろうが、いつまで無事かはわからないだろう!」
「何、そのわけわかんねぇ正論めいた台詞!?」
「そっちがその気なら、俺にだって考えがある」
「ちょ、ま、ホント待て!」
「……次の攻撃が来ますが」
「なっ……!」
 三度吐き出された海魔の墨を防ぎきれなかったのは、進の身体能力が未熟なせいでは断じてない。
 ただ、錯乱してしまった晶介の、常にはありえない馬鹿力が、進を捉え、引き寄せ、盾になっていたはずのルルーをも引き剥がして。
 そう、ソレは不幸な事故だった。
 紛れもなく、ソレはとても不幸な――タイミングで再び拘束されたままの海魔から墨が放たれた。

『待て、待て、待て、なんだよお前ら、なんなんだよ!?』
 取り囲まれた。
 安宿は壁も天井も床も何もかもが薄っぺらい。
 ありとあらゆる音がダイレクトに伝わってくる、ソレは危険を身近に置くニンゲンにとって非常に有利な警戒音だ。
 だから、気づけた。
 浅い眠りから即座に臨戦態勢を取り、暗闇の中、ぎしぎしと複数の足音が近づくのに備えた。
 しかし。
『わかってるわかってる』『なぁに、こわがることはないぞ』『俺たちは仲間だ』『君も同じさ』
 血の気が引いた。
『待て待て待て待て待て待て待て、ほんっきで待て、こら! カンベンしてくれ、オレにそっちの気はないって』
 幼い自分ににじり寄ってくる、訳知り顔のカオ、カオ、カオ。
『隠さずともいいぞ』『さあ、解き放たれよう』『さあ』『さあ』『さあさあ』
 伸ばされる手は、明らかに開けちゃいけない扉をこじ開けて攻めって来る。
『寄るな、触るな、近づくな、声を掛けるな、息すんな、お前らみんな遠い世界に飛んでけバカ野郎……っ!!』

「ぐあ、あ! 消えろ、俺のトラウマーっ!」
 進の絶叫が、碧い空の下に響き渡った。
 蘇る、悪夢の一夜。一晩中ひたすらに逃げ続けた、夜明けまでがあまりにも長すぎた、あの出来事が与える破壊力は絶大だった。
「……進」
「リアルだ、すっげぇリアルだ……」
 悲鳴をあげて逃げ惑い、のたうち回る姿に、優もヒナタも自分たちのことを棚上げして同情的な視線を送る。
「あいつに比べれば、灰色メモリアルだってまだましじゃねぇか……」
 腐りきった自分の彼女がこの光景を見たら、なんて言うだろうか。
 いや、彼女の愛は二次元限定だ。
 三次元には用がないと切って捨てられるだけだろう。切って捨てるはずだ。切って捨てて欲しい。切って捨て置いてくれ、ホントに、頼むから。
 しかし、そんな切なるヒナタの願いが届くはずもなく、幻覚は幻覚と絡まり合い、織り交ぜ、記憶の中の彼女たちが揃ってこちらに笑いかける。悪魔のように黒くて、そして清々しい笑顔だ。

『え、三次元は別腹だけど?』
『私、優とヒナタ君でもありだよ』
『ヒナタ、全力カワイコちゃん仕様のあの美少年は間違いなく受けね』
『あの獣人さん、モフモフしてるもん。優はああいうのが好きなんだよね?』
『丸裸になっても心配すんなよ。お前の毛皮は無駄にしねぇから』
『みんなで幸せになろうじゃないか! さあ、扉は今開かれる……!』

 溢れる。
 混ざる。
 解け合って、起きた化学反応を止めることはもうできない。
「見事な連鎖反応……、見事なまでの“あることないこと”ですねぇ」
「ヴァンさん!」
「おや、優さん?」
「……っ」
 優はひとまず癒やしを求め、墨まみれではあってもモフモフ感は変わらないルルーをぎゅっと抱きしめる。
「ああ……大丈夫、いける……! 回復してきた。有難うございます、ヴァンさん」
「お役に立てて何よりです」
 にこやかなクマに励まされるままに、優は再びトラベルギアを構え、立ち上がる。
「ようし、ここまで来れば完全フィクション! ダメージなんてくらわねぇからな!」
「借りは万倍にして返させてもらうよ」
 続き、悪夢を振り切った進が《虚刻》を構え、晶介が髪を掻き上げたその手の中に闇と氷を生み出していく。
「壱番世界にも、10メートル超えだって夢じゃないダイオウイカってのがいてなぁ、そいつにだってちゃあんと天敵がいるんだぜ?」
 そしてヒナタが、不敵に笑って、指を突きつける。
「マッコウクジラ、君にまかせた……っ!」
 海魔を拘束する影の網が、ほどけ、うねり、大きく形を変える。
 描き出される、ソレは空を覆うほどに巨大なマッコウクジラの勇姿であり、ぱっくりと割れた墨色鯨の墨色の歯が、厚壁を破戒して墨を撒き散らそうと動き出した純白の海魔を咥え込み、捉えた。
「「「「消え失せろ――」」」」
 四重奏の声は、死刑宣告と同義となる。
 氷の刃が降り注ぎ、黒い文様が刻まれたナイフが踊り、それらすべてをかいくぐって優が剣による一刀両断を狙い、振りかざされて。

 突き抜ける紺碧の空と海の狭間に、海魔の断末魔が響き渡る。
 純白の悪魔が、十本の触手すべてを切り離され、胴を引き裂かれ、影に絡め取られたままに凍り付いた海の上に横たわった。
 ズドン…という重い振動が船をも揺らすが、それは勝利を告げる鐘の音となって船上に伝わる。
「依頼完了、っと」
 氷を渡って船上に戻ってきた優が、にっこりと笑った。
「お疲れ様でした、皆さん。すばらしい連係ですね」
 墨色に染まったクマがポフポフと拍手し、彼らの健闘を称える。
「ヴァンさん、一緒に美味しいもの食べよう」
「ええ、是非に、優さん」
「幻覚もしっかりきっちり消えちまったようだしな。さあ、あとは美味いもんを食うだけだ! 全力で楽しむぞ!」
 進も、うんっと伸びをして、清々しく笑う。
「体も疲れたけれど、それ以上に精神が疲れたよ。これは確かに美味しいもので癒やしてもらうしかないね。でも、その前に」
 飽くなき探求心を持つ晶介は、氷たちを操って、海魔の身体から滴る《墨》を持参した小瓶の中へと丁寧に採取する。
「へえ、日の光にかざすと、黒でありながら、虹色のきらめきを放つのか……悪夢を蘇らせるとはな。実に興味深い」
 密閉されたガラス瓶の中で揺らめく、おぞましき悪魔の液体。
 晶介と同じモノをじっと見つめていたヒナタがふと、本当にふと、呟いた。
「……このイカスミ、パスタに使ったら面白いんじゃね? ……お仲間拡大的な意味で」
 この思いつきとも、悪巧みともつかないモノを、止める声は上がらなかった。
 仲間たちに異議を唱えられるほどの精神力が残されていなかったのか、それとも悪魔のささやきに誰もが乗ってしまったのか、あるいは同じ事を同じタイミングで考えついていたからなのか。
 その答えは神のみぞ知る。
「さあ、それじゃあ海神祭を楽しもう!」
 気持ちを切り替えるように明るく笑う優につられ、晶介や進、ヒナタもまた拳をあげて賛同する。



 星々がきらめくなか、できあがった料理を抱え、火城が祭り会場の一角へと歩み寄った。
 大テーブルには、海鮮パエリアに蟹の甲羅を使ったグラタン、海老の大蒜揚げ、海鮮お好み焼き、揚げ物……そして、件のイカ墨パスタなどが所狭しと並んでいる。
「ところでイカと言えばイカフライだと思うんだけど、あるかな?」
 晶介のリクエストに、火城は笑顔で、確かに賜ったと笑って返した。
 頬を紅く染める無名の司書は空になったジョッキを高々と持ち上げ、ぷはーっと気持ちよい声を上げる。
「無名の司書さん、いい飲みっぷりだなぁ……あ、アッチに灯緒さんとアドさんもいる」
 友人たちに囲まれながら祭りを半ばやけ気味に楽しんでいた優の視線が、和やかなモノに変わっていく。
 空になった積荷箱の前では、灯緒とアドがえびや蟹の殻を一心不乱にぢゅーぢゅーと吸っていた。
「絵にしたら、課題いけそうじゃね……?」
 そんな彼らを眺め、豪勢な食事に囲まれて、ヒナタの思考は、締切の近い課題のテーマをどう表現するかにシフトしていく。
 そんな彼らの、少し後ろ。
 積荷箱と箱の間に渡されたロープには、洗濯ばさみで干されている赤いクマが、水滴を滴らせながら風にたなびいていた。
「え?」
 祭りの会場を、料理を大量に持った皿を手にして練り歩いていた進の足が、止まった。
 二度見、三度見してもまだ、目の前の光景に変わりは無い。
 干してある、のだ。
 赤いクマが。
 見慣れたはずのクマなのに、ただし、ソレには本来あるはずの厚みがほぼ皆無だった。
「はいはーい、洗ったのはあたしでーす!」
 無名の司書が空になったビールジョッキを振り上げて笑いかけてきて、ついに、進の長年の疑問にひとつの回答がもたらされた。
「……やっぱ、中のヒトいたのか……」



 その後、『ルルーの中身を探せ! 土鈴が響く海神祭の夜に隠されたクマ司書の謎!』などという二時間サスペンスめいたドタバタが有志たちによって繰り広げられるのだが、ソレはまた別のお話。
 そして。
 ヒナタ提案、火城手製による『イカ墨パスタ』を食した者たちによる、局地的阿鼻叫喚地獄絵図が展開されるのだが、ソレもまた別のお話、である。

 そうして。
 至る所で共鳴し合う鈴の音に耳を傾け、それぞれがそれぞれの想いに浸りながら、海神祭の夜は更けていく。



END

クリエイターコメント水鏡 晶介さま
相沢 優さま
木乃咲 進さま
鹿毛 ヒナタさま

初めまして、あるいは二度目、三度目まして、こんにちは。
このたびは海神祭の執り行われるブルーインブルーにて、司書付シーフードハントツアー(イカ編)にご参加くださり、誠に有難うございました!

強大な敵(イカ)を前に、様々な攻略方法を提示してくださり、攻撃パターンの組み合わせを考えるだけでも楽しかったです。
そして、涙なしには語れない《過去》の暴露に、そっとハンカチを目頭に押し当てていました(…ほろり)
全力コメディな空気感でお送りいたしましたが、皆様にとってこのツアーが海神祭での思い出の一端となりましたら幸いです。

それではまた、いずこかの列車の旅にて皆様とお会いできるのを楽しみにしております。
公開日時2011-06-29(水) 21:30

 

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