インヤンガイに奇妙な噂が広がった。 どんな難病も、また、心に抱えた悲しみも――拭い去ってくる者がいるという。 その男――青年はどこからともなくあらわれ、絶望の人々の手をとるという。昼間はどこからともなく貧しい人々の住むところへと現れて、無償で食事を提供している。そして青年は一つの白い薬を残して去っていく。『夢の上』――その薬はそう呼ばれた。心を落ち着け、肉体がそれを飲むと調子が良くなるというのだ。「なんと優しい人だろう」「彼がいたおかげで俺は体がよくなった」「俺は心が落ち着くようにもなった」 その白い薬――『夢の上』は麻薬だという者もいて、インヤンガイの人々の間で流れ出した。 そして不吉なことが起きはじめた。 貧民階級の者たちが忽然と消える……貧民階級は路上に住む、それこそいてもいなくてもいいような存在。姿を消しても心配する者も、ましてや探そうとするものもいない だが女探偵キサは気になって調べ始め、昼間にその青年とも会った。 昼間、その青年――細い肉体は黒い学生服、頭には学帽。インバネスを着こんで、右目は怪我でもしたのか眼帯をしていた。 彼は百足兵衛と名乗り、飯焚きをして貧しい人々に配り、そのときに薬も与えていた。キサはそのなかに混じって粥だけいただき、薬は飲まなかった。 そして、兵衛が立ち去るのにあとをつけた。 キサは廃墟ビルのなかに忍び込み、うめき声が聞こえたのにそこへと足を向けた。そっと壁から伺い見ると、広い空間に集まった人々はぐるりっと円にななり中央に倒れている人間を見ている。 そして、その前に転がっているのは貧民階級の人々。と、倒れている一人が叫び、口から血しぶきをあげて赤い、ミミズのような蟲を吐き出した。 めきめきめきめききめ。 血肉を破って、蟲は生まれていく。 ぞっとするのは、それを見る人々の顔はうっとりとして、蟲を生み出して死ぬ人間の顔すら喜びに満ちていたことだ。「これは粋がいいのが生まれましたな。さて、誰がこの蟲を得ますか」 ――兵衛だ。 彼は地面にのたうつ蟲を素手でとると、集まった人々に見せた。「私が」「いや、俺が」「私よ、私にちょうだい」「ぼ、ぼくに」「わたくしにっ」…… 叫ぶ人々のなかで一人の少年を選ぶと、なんとその子供の口へと蟲を飲ませた。 恐ろしい光景にキサの我慢の限界は超えた。「なにしてるんだ!」 怒声をあげて、キサは出ていくと人々はぎょっとしたように振り返った。兵衛は半月の笑みを浮かべて振り返った。「治療ですよ。知りませんか? 人の病んだところを蟲たちは食らい、治してくれる」「治療? 人を殺しておいて……」「これは器。蟲たちはデリケートなのであります。生まれ、成長するためにはそれ相当の器がなくては。とくにこの世界の霊力を得る改良した蟲は、この土地の器がなくては……どうせゴミのような存在、最後の最期くらい役立たなくは」 キサは怒りに形相を歪め、鞭を片手に持つ。――あの渡された薬に蟲がはいっていたのか。 鞭が放たれると、兵衛の前に黒い壁がキサの攻撃を塞いだ。ぎょっとして目を開くと、それは蠅だ。 ぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん。ぶんぶんぶんぶんぶん。ぶんぶんぶんぶんぶんぶん。 耳障りな音と、ともに蠅は塊となって、襲いかかる。キサは地面に叩きつけられ、血反吐を吐いて顔をあげる。――おかしい。ただの蟲師は癒すだけの存在、こんな力の使い方は……「この世界の霊力を使うというのは実に興味深い。小生の蟲にもうまく応用し、必ずやこの子たちに新たな進化を!」キサは一つの結論に達すると顔を歪めて、否定を求めて尋ねる。「……まさか、あんた、旅人なの?」「いかにも。ここはずいぶんと根を降ろしやすそうだが、まずは小生の実験をさせてもらった」 キサは言葉を喪った。脳裏に考えるのは、自分が知り合い、助けられてきた旅人たちのこと、彼らはこいつの仲間なのか? こんな非道なことをする? 違う。そんなはずない。 とたんに、激しい痛みを腹部に感じた。――めきめきめきめきめきめきめ。 蟲だ。それがキサの腹を破って出てきた。きぃいいいいいいいいいいいいいいその叫びは誕生の喜び。血肉に汚れたその幼蟲は母の乳を吸うように、キサの血と肉をずるずると啜っていく。なすすべもなくキサは喰われる。喰われていく。「な、ん、で? 薬、のんでない、のに」「薬? ああ、『夢の上』のことか! あれは、蟲たちの体液から作った肉体能力を飛躍的に解放する。蟲たちの卵は食事に混ぜてある。……そうだ。貴殿も薬を飲み、その肉体、血、魂も、この仔に与えるといい」 兵衛がキサの髪の毛を掴んで、無造作に白い薬を飲ませる。 薬によって強制的に肉体は目覚め、キサは再び悲鳴をあげる。あああああああああああああああああああああああああああああああ。蟲たちが活気づく。めきめきめめきめきめき。ぶんぶんぶんぶんぶん。きぃいいいいいいいいいいいいいいい!「ほぉ、これは……! 霊力、いや暴霊にはこういう使い方もあるのか。面白い! 小生の巻いた蟲たちが、霊力という繋がりによって集まってゆくとは……!」 魂を食らった蟲の、新たな力に兵衛は興奮に叫ぶ。「――キサ! これは……キサ? お前は、何者だ。なぜ、どうして、こんなっ、こんなっ、キサ!」 最悪のタイミングで、キサを心配し、駆けつけた仮面探偵フェイはこの狂った光景を見て悲鳴をあげる。「嘘だ。こんなの嘘だ! こんな現実、いらない! 夢だ、こんなもの!」 咆哮が轟いた。それに死に逝く魂も叫ぶ。――そうだ、これは夢だ。辛すぎる現実などいらぬ。まどろみよ、優しい夢を見よう。悲しみも、恐怖も、怒りもない。ただただ幸せである夢を。 無念の魂の囁きに、蟲は歓喜の声をあげて放つ。 甘い、甘い香りが世界を包む。絶望した人々に、甘い夢を、永久に見させるために。★ ★ ★ 世界司書・黒猫にゃんこは――三十代の姿に化け、渋い顔をして旅人たちを出迎えると、何度が言葉を飲み込んだのちに切り出した。「今回はインヤンガイで奇妙なことが起こった始末をお前たちに頼みたい。……事件というのは、インヤンガイの人間たちが眠りについて目覚めない者が多く出ているんだ。彼らに共通しているのは目覚めないやつらの寝顔は笑顔をたたえ、幸せそうだということ。そして、少し前にインヤンガイで、どんな苦しみからも解放してくれるという青年がいたそうだ。そいつは慈善活動として人々に飯を配ってやっていた。貧民階級で目覚めないのは、そういう施しを受けた連中。金持ち連中は、その青年の奇跡の治癒を受けて回復した患者らしい……」言葉を一度きったのち、黒猫にゃんこはため息をついた。「その原因だが、廃墟ビルにある。ただし、そこは特殊な空間になっていて中に一歩入ると、驚いたことに霧に包まれ、気が付くと花畑にいることになるらしい。そしてそこには目覚めない人々が笑い踊り、それは幸せな……極楽のようなところのようだ。ただし、その奥には白い繭に包まれたさなぎがいる、そいつがこの空間の元凶だ。大きさとしては人間の大人くらいのもんだ。さなぎだからその蟲そのものが襲ってくることはないが、そいつは人の魂や、霊力を喰って成長しているらしい。それも甘い匂いで、人の夢を見せるんだ。切望する夢を……そして心をとろけさせ、この空間に閉じ込めちまう。眠り続ければ魂を喰われちまう。囚われたやつらはそのうち死んじまうだろう。それも困るが、このさなぎが孵化すれば大きな災害をばらまくだろうよ。だから必ず、ここで潰さなくちゃいけない」 黒猫にゃんこは厳しい顔で言い放つ。「この空間の夢に囚われず、集められた魂をなんとしてもここから引き離し、さなぎを破壊しろ。むろん、蟲だってお前らが敵だと認知されれば、集めた人の魂を操り襲ってくるだろうから、注意しろよ?」 それから、と黒猫にゃんこは少しだけ迷う顔をしてつけくわえた。「この蟲、インヤンガイでは見ない種類のようなんだ。それも、どうもこの事件で見かけられている青年はかなり派手に行動していたのに、ほとんどのやつはその顔を忘れた、といった具合であまり覚えられてないんだ……これだと、まるで……旅人の足跡効果のようだ……あと、これは言うべきか迷ったが、この蟲の膨大な霊力の核となっているのは、このインヤンガイで探偵をしていたキサという女のものだ。探偵だからな、キサはこの謎の青年となにかあったんだろう、その挙句にそいつの陰謀に巻き込まれて、殺されて魂すら利用されている……蟲を殺すということは、キサの魂も破壊するということになる」★ ★ ★ 甘い香り。 白い霧に包まれ、花咲く中。 人々はまどろみ、幸せに笑う。ここは満たされる。辛いことなどなにもない。ただただ自分の切望が叶うのだ。だから人々は笑う。幸せに。その深い奥でさなぎは大きく脈打つ。あと、すこし、あとすこし――さなぎは目覚めを待つ。 その極楽の果ての暗い影から見守るのは、半月のような笑みを浮かべる青年。!注意! このシナリオは【夢の上】刃のごとき、復讐の眼 と同じ時間軸です。このシナリオに参加されるPL様は、【夢の上】刃のごとき、復讐の眼 への参加は御遠慮ください。もし、参加されても十分な描写は出来かねます。
井戸の底のような夜。 すべての命が死に耐えたような静寂。 そのなかにひっそりと年老いた老人が佇むように黒灰色の廃墟ビルが立っている。 その前に今回の依頼を受けた五人がそれぞれの思いを胸に抱え、ビルの入り口へと向かう。 ギィ…… 五人が入り口までくるとドアは軋み音をたてて勝手に開き、そこから濃厚な甘い香りが漂いだした。 はっと息を飲んだときにはなにもかもが遅かった。 ドアの隙間から白い霧が、五人の足へと這って、まるで蜘蛛の糸のように捕える。 甘い――今にも咲き誇ろうとする花の香り。儚くも、愛しく、そして懐かしい。 ――さぁ、夢を見ましょう。 望むがゆえに見なくなった夢を、焦がれるために踏みつけた夢を、咲くことが叶わなかった夢を。その手にもう一度手に入れましょう。 ――夢を、見ましょう。果ててしまった夢を! 聖母が唄う子守唄のように、女の声が囁き――笑う。 そして五人は夢に囚われた。 ◆ ◆ ◆ 木乃咲進は、意識を覚醒させるとすぐさまに周囲を確認した。見渡す限り真っ白な霧に包まれて何も見えない。 これが夢のなかだとしたら、話に聞いていたものよりもずいぶんと味気ないものだ。と、濃いミルク色の霧が晴れて足元にあらわれる 光沢のリノリウムの床。古びた学生机と椅子、濃い緑色の黒板には落書き。なんの変哲もない教室。 ――俺の通っていた学校かよ。 この依頼を受けると決めたとき、夢の内容はなんとなく予想がついた。 だから彼女を探して周囲を見回す――どこだ。 「なに? きょろきょろしちゃって」 明るい少女の声に進は振り返る。 「もう放課後だよ? 一緒に帰ろうよ」 喉に重石がのしかかり、潰される。同時に、胸のなかで無数の鳥が羽ばたく音がする。 彼女は――猪口郁は小首を傾げて笑う。意思の強そうな瞳は、まるで宝石のようにきらきらきと輝きを放ち、進の姿を映し出す。 進の後悔であり、叶わなかった夢。砕け散ってしまい、もう戻ることのない夢。それが時間の針を巻き戻し、砕け散る前に戻ってゆく。 くらり、と頭の奥で甘い痛みが走る。――さぁ、夢を。 気がついたら進は学生服を着て、片手には鞄をもっていた。 そうだ。早く家へと帰ろう。放課後は言い知れぬ憂鬱さにどこにでもいける自由が混じり合い不思議な切なさを胸に抱かせる。 当たり前の日常を進は思う。――夢を、見よう。 「そうだな。帰るか」 「うん!」 二人は並んで歩き出す。 学校から家までの短い距離を惜しむように、あの番組を見た、漫画が面白い――雑談に花を咲かせる。 そのなかで郁は黒い目を太陽にも負けぬほどに輝かせて熱っぽい口調で語る。 「正義の味方になりたいんだよね。きっとみんなを笑顔にするんだ」 まるでお伽噺のような未来を恥ずかしげもなく口にする。 とたんに進の頭にすぎりっと痛みが走った。 「どうしたの? 大丈夫?」 「……違う」 「えっ?」 「こんなの違う!」 進は、伸ばされた郁の手を乱暴に払って、睨みつけた。郁の言葉、正義の味方になりたかったという彼女が、こんなことを望むはずがない。――誰もが幸せになれる道を模索し続けていた彼女が。胸に鈍い痛みが走る。 郁の目がすっと輝きを喪って、進を捕える。 「ここにいたらずっと幸せだよ? 笑っていたじゃない? 満たされていたじゃない? あなたは救われたいでしょう?」 音がする。ひび割れる音が。耳の奥でやめろと誰かが叫んでいる。それでも、進は息を吸い込み、真正面から夢を睨みつける。 「そいつがそもそも間違いなんだよ。あいつは誰かのために戦っていたわけじゃない。こんな『ある意味幸せ』みたいな中途半端を許すわけがない! 本物なら、俺をここに引き止めたりは絶対にしない」 郁の顔は悲しげに歪み、進は突き飛ばされた。 「!」 後ろへと転がる一瞬はまるでスローモーションのようにじれったいほどに遅い。そのなかで郁だけが鮮やかに進の目に映される。 郁は背筋を伸ばしてふわりと笑顔を浮かべる。 少女の背中を押すような笑顔。それが世界を壊す音となった。 ★ ★ ★ 誰かの呼ぶ声がして、虎部隆は目を覚ました。 頭の奥で危険だと叫ぶ己がいるが体は石のように重い。心と身体がばらばらになったように反応がうまくいかない。頭のなかが白い霧に包まれたように意識が濁って、はっきりしない。 「っ……?」 こめかみにずきずきと鈍い痛みを覚えながら、隆は眉間に皺を寄せて軽く頭を横にふった。 ここは…… 「やっと起きた」 「疲れてるんじゃないの?」 騒がしい声はよく知ったもの。それは覚醒してから知り合い、仲良くなった仲間たちだ。 あまりのことに拍子抜けした。 ――夢? なにか大切なことを忘れていると自覚は小骨が喉にひっかかったような些細な痛みとなって忠告をする。しかし、いつもの面子に囲まれて口ぐちにあれこれと言われるとその痛みは薄らぎ、気にならなくなってゆく。 大切な仲間たちの屈託のない笑顔。 いつものように軽口を叩きながら、なにか面白いことはないかと、悪戯の提案。 その人々の中心は、誰でもない隆。 自分を取り囲む仲間たちと馬鹿なことを考える。 彼らと笑いあって、本当にくだらないことで笑えればいい。 「あ」 囲んできた仲間たちのなかに当たり前のようにいる人物―― 「兄貴」 虎部流が笑っている。 隆の夢は、見ることのない夢。胸の奥底に埋まり、目を逸らしていた。しかし、ずっとくすぶりつづけていた。赤く、それでいて黒く、色づいた夢。 流は何も言わない。いつもならばリーダー的存在を持って、周りを引っ張っていくのに。 流は人を魅了するカリスマを生まれつき持っていた。 たとえ流よりも年上である人でも、彼に何かいわれるとつい頷いてしまう、そんな魅力が彼にはあった。 その流がなにもいわない。黙って隆に従おうとしている。 まるで当たり前のように。 理想だ。 馬鹿をできる大切な仲間たち。 大切な日常。 そして、何事に長けても優れている兄が、自分のことを認めて従おうとしている。 ささやかな、望んだ日常。 隆は自分のなかにある痛みの理由に気がついた。この夢は矛盾している。 「駄目だ!」 血を吐くように叫んだとたんに、まるで薄くはった氷にひびが入る音がどこかでした。 「兄貴は駄目だ!」 確かに兄のことも日常も共に求めていた。決して超えられない壁である兄が自分を認めてくれている。そして大切な仲間たちがいる。 けれどわかっているのだ。兄とはもう二度と会うことはないということを。 暗い目で隆は睨みつける。 周囲を囲んでいた大切な仲間たちの顔が墨でもたらしたように黒く染まって、人形のように立ちつくす中で、兄だけが変わらず、隆を見つめていた。 唇が震えて、皮肉な笑みが浮かぶ。 ここは理想の夢なんかじゃない。叶わない夢を否定して、それを永遠に見ている。――悪夢のなかだ。 「兄貴に自慢できることはまだ何もないから来られても困るんだよ」 幾つもの夢、それを踏みしめて自分はここにいるのだ。 諦めたふりをして、けど、まだ踏みしめた夢が叶う未来も探しているのだから、笑えて来る。 流の姿が、ゆっくりと透けて消えていく。 黒く、深い闇しかない世界が、硝子を乱暴に叩き割ったように、壊れた。 ★ ★ ★ 悲劇が起こって、それで人が、何人犠牲になろうと幸せの魔女には関係のないことだ。 むしろ自分の幸せのための犠牲ならばいくらだって払っていい。しかし、もし他人の死が自分を不幸になることに繋がるならば許すわけにはいかない。 キサが死んだと聞かされたとき、彼女は確かに不幸を味わった。――必ず報いを受けさせる。 白いミルク色の霧のなかを幸せの魔女は獲物を狙う猫のように金色の瞳を輝かせ、こつこつと足音も高く歩いていた。 一度霧がその白を深め、さっと晴れた。 そこは懐かしくも、忌わしい、幸せ魔女の生まれた世界。そして、当たり前のように目の前に現れたのは不幸の魔女。 幸せの魔女とはなにもかもが真逆で、宿敵ともいえる存在。 幸せの魔女は唇をつりあげて微笑んだ。 「会いたかったわ、不幸の魔女。私ね、もう一度貴女に会って話がしかたった。本当はもっとあなたと仲良くなりたかった。本当は貴女を愛したかった」 柔らかな声とともに優しく愛が紡がれてゆく。 幸せの魔女の夢は白い色をしている。幸福を求めることこそが彼女のすべて。生であり、死であり、望みであり、渇望。人生そのもの。 ゆえに彼女は、夢を―― 「そう、貴女の息の根を止めてしまいたい位にね!」 高らかに幸せの魔女は嗤った。 幸せの剣を片手に、躊躇うこともなく不幸の魔女の胸を突き刺す。 「あら、私がはじめて殺したときの貴女は、少しは歯ごたえがあったと思ったけど、これだから偽物はだめね!」 彼女のなかにある幸福は吼えたてる。 幸福がすべてである彼女は夢をみない。何故ならば彼女こそが夢そのものなのだから。 突いて、切り裂き、引き裂いて、叩きつけて、踏みしめて、笑う。嗤う。彼女は哄笑する。 「この程度の幻が幸せですって? 笑わせないで頂戴! こんな養殖物の安っぽい幸せで私が満足するとでも思ったのかしら? 本当に、おばかさん!」 長い髪を優雅にかきあげて、砕け散った夢の残骸をそれでも飽き足らないとばかりに踏みしめる。 「安っぽすぎて……逆に不愉快な気分にさせられたわ」 幸せの魔女は剣を軽く振るい、冷ややかな目で前を見る。 白い、偽りの幸せである夢は砕け散る。粉々に。欠片一つ残さずに。 ★ ★ ★ この依頼を聞かされたとき、エルエム・メールの胸の中に灯ったのは赤い、それは紅色をした怒りだった。 燃える火は激しい怒りの風に吹かれて炎となり、胸を焦がした。 ここにロストナンバーがいる。よー、し。なにが出てきても大丈夫。たぶん。 エルエムは、自分を信じている。だから迷わない。 白い霧のなかで一人ぼっちだったときは、さすがに胸の奥がひんやりとしたが、ここの建物の大きさを思い出せば仲間たちとはそんなにも離れていないだろうと判断出来し、冷静になる。 大丈夫。エルはここにキサを殺したロストナンバーをぶっとばしにきたんだから。 と、不意に視界が開けた。 眩しいと思わず目を閉じたとき、喝采が聞こえてきたのにエルエムは目を大きく開いた。 ――お見事! ――お見事! エルエムが立つのは大理石を研いで作られた丸いリング。それを囲むのは大勢の人がいる観客席。 彼らはみんな、エルエムを注目している。とたんにエルエムの胸に高揚感が広がった。 名誉と報酬、成功を約束された舞台。 大勢の人に注目される喜び。 自分に対しての絶対の自負。 目を閉じると、内側から力が溢れてくる。ここでは自分は最強だとわかる。 エルエム・メールの夢は大輪の花。自分を最も愛し、それゆえに認められたいと思う。単純にして純粋。ゆえに燃えるような強い香りを放つ。それが彼女の見果てぬ夢。 ――エルエム・メール! ――さぁ、私たちにその強さを示して! ――あなたは絶対に負けない! 喝采のなかからの羨望の声。 それに応えるためにエルエムは自分の前に現れた敵――エルエムよりもずっと巨大な男と向きあう。 負けるとは思わない。だってここではエルは最強なんだもん。 傲慢で不遜な自信。だが、それはここでは真実だ。 エルエムが駆けだしたのに男は反応ができなかった。素早い蹴りによって男はあっさりと倒される。 ――お見事! 歓喜の拍手。 ――お見事! 誰もがエルエムを注目し、憧れている。 強い酒を飲んだときのように頭が幸福に満たされ、笑みが浮かべていたが、すぐにエルエムは俯いた。 「……つまんない」 周囲の喝采が止み、誰もが息を飲んでエムエルを見つめる。 「ここは、うん。楽しいよ。褒められて、それが当たり前で……ここでは負けないし、否定されない。自分がすごいやつだって思える、けど」 エルエムはぱっと顔をあげる。挑むように観客席を輝く眸で睨みつける。 「エルはさ! エルが想像できないような相手を吹っ飛ばしてさ、あんなことができるなんてなんてすごいんだってみんな思ってほしいんだよ! 何もかも思い通りになるなんて……ちっとも楽しくない!」 ここは楽しい、居心地がいい。それは失敗しないから、傷つかないから。けれどそれでは大輪の花を咲かせたいと望むエルエムには物足りない。くじけてもいい、泣いてもいい、壁があれば自分で乗り越えたい。 だから、こんな夢はいらない。 シン……静まり返った舞台が足元から崩れさる。 そのなかでエルエムの耳に再び喝采が聞こえた。 ――お見事! ――お見事! エルエル・メール! あなたは夢に勝った! 夢が壊れる音がする。それは鳴りやまない喝采に、とてもよく似ていた。 ★ ★ ★ ベルファルド・ロックテイラーの人生はかなりいいかげんで、ちゃらんぽらんだ。平凡な親を持って、苦労することもなく大学まですすみはしたが、すぐにやめてしまった。 面倒なことは嫌いだし、他人に煩わせるのも嫌い。 ふらふらとなんの目的もなくベルファルドは生きてきた。それで人生はわりとうまくいく。 ボクってツイてるな。 お金に困ってギャンブルに手を出したら大勝利。そのあとすぐにテレビでいつも見ている可愛いアイドルの女の子から声をかけられて恋人になった。 面倒は嫌い、厄介ごとも嫌い。 ラクしてなにも悩まず生きていきたい。 女の子は自分に夢中。 お金はあり余るほどにある。欲しいものは豪邸だろうと、車でも、望みのまま! なにもかもある。 ベルファルドは目を眇めて、自分を取り囲む理想の品々を見て軽く肩を竦めた。 「んー、悪くはないね。こんな世界も、さ。……でも違うな。いくらなんでもうまくすきすぎていてつまらない」 ベルファルドの夢。苦労のない、単純だが誰もが思う成功の連続。彼は運に愛されている。ゆえにこれは現実にしようと思えば叶うだろう。しかし、 手の中で二つのダイスを弄び、ベルファルドは笑う。 「それに、ボクは楽をしたいけど、ボクのいるべき世界に辿りつくのはボク自身の意思で決めなくちゃね……それがなきゃどんな幸せもつまらないでしょ?」 運に愛されたベルファルドは知っている。幸福とは苦労しなくては真っ白な紙を口にいれたようにぱさついて、味のないものだということを。 ダイスだっていつも欲しい目だけ出てくれるわけではない。だから面白いのだ。 ベルファルドはキッと目の前の夢を睨みつける。 「だから……ボクの旅を、みんなの旅を穢すのだけは許さないぞ……!」 夢は色を喪い、ぱさり、ぱさりと真っ白な紙となって散り、視界が開けていく。 「……っ、ん? あ!」 霧が消えて現れたのは灰色の壁に、地面は花畑というなんともおかしな光景だ。 「……うまく退けられた?」 恐る恐る声をあげると、花畑の奥からぬっと黒い影が出てきた。目を凝らすとそれが人であることがわかる。 「え、えーと」 一人、二人、三人……大勢の人々が虚ろな瞳で、じりじりと迫ってくる。 「! こ、これが本番ってこと? ……え、えーと」 慌てて周囲を見回してベルファルドは泣き出しそうになった。誰もいないし、なにもない。 「こ、来なきゃよかった……は、はは」 乾いた笑みを零しながら、ベルファルドは手に持つダイスに目を落とす。この人数を相手に一人一人ダイスをあてていくことは流石に難しい。 だったら白いダイスを自分に当てるのが一番いい。 「……夢を切りぬけた者がいたか」 ベルファルドは顔をあげると、迫りくる亡霊たちの背後に黒い学ランの青年が立っていた。その顔に浮かぶ半月の笑みは人のぬくもりは一切と感じないほどに冷たい。 「……キミがこの事態を引き起こした犯人?」 ベルファルドの問いに青年は――百足兵衛が笑みをますます深くし、片手をあげる。 亡霊たちがぴたりと動きを止めた。 メキッ――音をたてて亡霊の皮膚が裂け、その身体がひとまわり大きくなっていく。それにあわせて肌は黒くくすみ、口も狼のように裂けて、歯が牙のように伸びる。目は殺気にぎらぎらと輝き、よだれをだらだらと流して唸り上げるのは、もはや人ではない、猿の化物だ。 それが一斉に地面を蹴って飛びかかってきた。 「……っ! ボクは、ボクの強運を信じてる!」 ベルファルドが選んだのは赤いダイス。それを百足兵衛に投げつける。 その小さな攻撃は亡霊たちに見咎められることもなく、兵衛自身も小さすぎて避けることはなかった。 ぽんっと兵衛の胸にあたる赤いダイス――三。 「サイコロ? 何の真似でしょうか……?」 「……っ! わ、わっ」 襲いかかる猿の化物にベルファルドは慌てて後ろへと飛びのき、思いっきりこけて転がるが、そのおかげで猿の攻撃は大きく外れた。 しかし、別の猿が倒れたベルファルドに駆けて、手を伸ばしてきた。さすがにこれは避けようがない。 ――ボクの運もここまで……! きゅっとベルファルドが目をかたく閉じたとき、風の裂ける音とともに、低い悲鳴があがった。 「夢に出てきた不幸の魔女よりは可愛い悲鳴をあげるじゃない」 片手に持つ剣で猿を切り裂いたのは――幸せの魔女。その顔は表面上は笑顔だが、目が笑ってはいなかった。 「あら、あなた、いたの?」 「ど、どーも。助かりました」 自分の運もまだまだ捨てたもんじゃない。 ベルファルドはひきつった笑みを浮かべていると、幸せの魔女の金色の瞳がきらりと輝き、いきなり、ベルファルドの胸倉を掴んでたたせると、まじまじと見つめてきた。 「え、あ、なに?」 「幸せがある気配がして、ここにきたのだけども……そう、あなたから……あなたの傍にいると物凄く力が湧いてくるわ」 「幸せ? あー、ボク、たしかにすごくツイてるかも。それにボクの周りにいる人も」 最凶の運の持ち主であるベルファルドは自分もそうだが、その周囲にいる仲間の運を無意識にもあげていく。そして真に恐ろしいのは敵がいればその運を底まで叩き落とすということを無自覚でやってしまうところだ。 ゆえに最凶の運。 幸せの魔女の顔が、まるで甘い飴玉を口に含んだように蕩けた。 「純粋な運気の上昇は最高の幸せの証。凄いわ、まるで私が世界で一番の幸せな者だと証明されたみたい」 こんなにも幸福なときはいつぶりだろう。きっとあの不幸の魔女を殺したとき以来だ。 「今の私なら神でさえ殺せるわ!」 「お、おお~っ!」 とりあえずベルファルドは拍手しておいた。 「て、猿が、猿がきた!」 「ふ、ふふふ……今の私に、この程度の雑魚なんて!」 幸せの魔女はベルファルドを傍らに狂喜に満ちた笑みを浮かべて、向かってくる猿を剣で突き刺し、薙ぎ払っていく。 「え、わ、後ろ、後ろ!」 気がついたら背後から猿が迫っていた。いくら幸せの魔女が今や神すら殺せるといっても取り囲まれては一貫の終わりだ。いや、彼女だけなら切り抜けられるだろうが、その傍らにいるベルファルドは…… 「頭を下げてろ!」 「え? はい!」 鋭い声にベルファルドは素直に従った。とたんに猿の化物がぐらりと揺らぎ倒れる、それを乱暴に蹴って現れたのは進。その顔は憎々しげに歪み、ナイフを構えると、周囲にいた猿に舌うちを漏らした。 「俺は機嫌が悪いんだよ。だからいつもなら気絶程度だが、今日はサービスで半殺しだ!」 「前、前っ!」 四方から猿が飛びかかってくるのを進は一瞥を向けると、ナイフを投げた。 「……てめぇらは咲くこともなく、散れ!」 ナイフが進の特殊能力、空間使いによってナイフが消えた。そして、猿たちの頭上にナイフは現れて、凶暴な雨となって降り注ぐ。 「すごい。すごい」 思わず拍手するとベルファルドの背後でどんっと大きな爆発音のあと白い煙が立ち上り、そこからぬっと黒い影が出てきた。 新しい敵かとベルファルドは身を堅くしたが、幸いにもそれは人の手だった。 「みんな、無事か?」 「あ、いたいた!」 隆が駆けより、その横にはエルエムがいた。 「なにこの化物? あっ、こいつらが敵だね! よーし!」 エルエムの茶色の瞳が敵である猿を見ると輝く。 「コスチューム、ラビットスタイル! ……夢なんかより、お前らを相手にしているほうがよっぽどたのしそうだよね! さぁかかってきなさい!」 「あら、私の獲物よ。奪わないでちょうだい」 幸せの魔女の笑みにエルエムはにやりと笑う。と、鮮やかな衣がひらりと舞い、猿を地面に沈めた。 「こんなにいるんだもん、エルだって暴れてやるんだから!」 「元気だな、あの二人……しかし、このままだと拉致があかないし、さなぎは奥だよな? だったら……おーい、二人ともどいてくれ! ちょっとでかいのいくぞ!」 隆の声に猿を相手にしていた幸せの魔女とエルエムがさっと左右に飛んで道を開ける。それに隆は水先案内人を取り出し、狙いを定めて指でカチっと芯を折った。 小さな芯は猿たちの足元へと落ち――爆竹に火をつけたような弾ける音とともに黒い煙がたちあがる。 「よーし、今だ!」 「この奥……悪いけど、一番のりは私よ?」 炸裂弾で猿を蹴散らして、五人は駆ける。 五人が見つけたのは、建物の天井に、白い繭にくるまったさなぎ。 とくん、とくん、とくん…… さなぎから鼓動が零れ、淡い輝きを放つ。すると倒れていた猿たちがふらり、ふらりと起き上がた。 「どう見てもあいつがさなぎだよな。あの中にキサの魂があるのか……なぁこれは提案だ。一人でも無理だと思ったら俺は諦める」 そこまで言って進は仲間たちを真剣な顔で見つめた。 「……キサの魂を俺の力でこっち側に連れ戻す。成功する可能性は低いが、幸せを見つけられる魔女と、運のいいやつもいるから……もしかしたら、できるかもしれない」 幸せの魔女がふわりっと微笑んだ。 「素敵な提案ね。私ね、珍しく自分の幸せをほんの少しだけキサにあげてもいいと思っていたの。私は幸せの魔女よ? 少しの幸せだって取り残さない。いいわ。私の名に賭けても、キサの魂を見つけてみせるわ」 「ここまで来たらボクもやるよ。救えるなら、救ってあげたい!」 「よしっ、周りの守りは俺らがやるから、頼むぞ」 「うん。守りはエルに任せてよ! 戦うのは得意なんだからねっ!」 隆は頭上のさなぎを見上げた。 「キサ! 必ず助けるからお前も戦え! お前をこんな目に合わせたのは俺らとは違う奴らだ。俺ら以外の旅人もきてるんだ! 俺らはお前の敵じゃない!」 届くかわからなくても、心の底から隆は叫ぶ。 「キサをこんな目にあわせたやつには俺らが引導をわしてやる! だから蟲から離れるためにも戦ってくれ!」 さなぎの全身に包む淡い輝きが一瞬だけ、途絶え、また再び弱弱しく光が灯る。 見ると、周りを囲んでいた猿たちの体が少しだけ小さくなったような、気がした。 キサも戦っているのだろうか。蟲に抗い、出ていこうとしているのだろうか? ここは叶わなかった夢の果て。それを見せ続ける――悪夢の巣。だが一つだけまだ散っていない夢がある。手を伸ばしたら、届くかもしれない。叶うかもしれない夢が。 「じゃあ、二人にサイコロを」 ベルファルドの白いダイスを転がす。 幸せの魔女――五。 進――四。 二人の傍らでベルファルドが、一心に祈る。自分の底なしの運をここで使わなくてどうする。 「行くわよ」 「いつでもいいぜ!」 幸せの魔女の剣がきらりと煌めきを発し、投げられる。小さな可能性という幸せに向けて――さなぎの白い繭を突き刺した。 「キサ! こっちだ! こっちに来い!」 進が力の限り、叫んだ。 幸せの剣が突き刺さった先に開いた小さな穴からきらきらと透明な輝きを放つ魂が零れ落ちる。 キサの、魂だ。 とたんに、さなぎの鼓動は止まり、かわりにきぃいいいいいいいい、悲鳴をあげる。 「猿たちが……」 「消えていく? あ、地面の花もないよ!」 襲いくる猿たちを蹴散らしていた隆とエルエムは、目の前でさらさらと砂のように散り、花もまた消えていく。 そして、最後に、この悪夢の主であるさなぎも、エネルギー源を喪い、塵へと変わった。 「キサ! 魂ならちゃんと返事しなさい!」 幸せの魔女の声に、宙に浮いていた魂――キサは覚醒する。 『え、私? え、やー! いや、ここ、なに。あー落ちる!』 「え、わっ、キサ! おい、まてよ!」 キサは悲鳴をあげ、その透明な身体は重力の法則を思い出したように、落下する。 「おい! キサ、お前、今は魂だけなんだから飛べるだろう!」 隆がつっこむ。 それに魂だけのキサは空中で方向転換して、隆の前に見事に着地した。 『あ、本当だ。死んだら飛べるんだよね。当たり前だけど、まったくわからなかった。ありがとう、虎部』 「お前なぁ……」 呆れる隆のちょっと斜め右では、思わず受け止めようと両手を差し出した進がいた。その横にいる幸せの魔女は微笑んで、ベルファルドは優しさをもってその肩を叩く。 「そういう男気、嫌いじゃないわよ」 「ボクも……」 「頼む、ほっといてくれ」 キサは自分の周囲を見て顔を歪めた。 『そっか、私、死んだのか。……みんな、ぼろぼろになって』 キサは泣き笑いの顔で申し訳なさそうに俯いた。 「お前のせいじゃないから気にするな」 隆の言葉にキサは首を横に振った。 『私、死ぬときにみんなに騙されたと思って、許せなかった。だから……誰かが夢だって言ったのを聞いて、これは夢なんだって、そう思って。……よかった。みんなが信じていた通り、騙されてなかった』 蟲に力を与えていたのはキサの裏切られたという悲しみと怒りに満ちた魂。 それは五人がここにきて己の夢と戦い、自分のことを本当に助けようとしてくれた行動に、かけられた声によって鎮められた。 『ありがとう、迷惑かけて、ひどい目に合わせてごめんね。……私、もう行かなくちゃ。ずっとここにいたら迷子になっちゃう。それに……ちょっと寄り道するとこもあるから』 透け消えるキサの魂はあたたかな白い球となり、五人の上を一度だけ惜しむようにふわりふわりと飛んで感謝の念だけを残して、消えていった。 「……小生の実験が失敗した」 ぽつりと悔しげな声がしたのに五人は視線を向けた。 そこには三日月の笑みを浮かべた――百足兵衛が立っていた。 「あー、こいつ! 猿をけしかけてきた犯人だよ!」 ベルファルドが叫ぶのに兵衛は一つしかない目を細めた。 「本当はここから去るつもりだったが、蟲が言うことを聞かない。貴殿がなにかしたのか」 ベルファルドが投げた赤いサイコロ――その効果よって兵衛はここに足止めされていたのだ。 「お前が……」 隆の目が剣呑に細められる。 真っ先に動いたのはエルエムだ。風よりも早く、彼女は兵衛の懐に入ると、拳を見舞う。兵衛は後ろに下がり避けようとするが、足がもつれた。その隙をついてエルエムの拳は鳩尾を容赦なく突き、兵衛の体は地面に崩れた。 「立ちなさいよ! これで終わりなんていうんじゃないでしようね! エルは怒ってるの! あんたをもっとぶん殴る予定なんだから! キサはもっと痛かったはずなんだからね! それ以上の痛みをあんたは受けるべきなんだから!」 「おい、落ちつけ。……お前、何者だ」 怒り狂うエルエムを制して、隆が冷静な声が尋ねた。 兵衛はかたく口を閉ざしたままなのに、隆は水先案内人を取り出し、芯を折って、兵衛の右肩に落した。 とたんに、ごきっと、骨の砕けるいやな音がした。 「っ!」 「俺だって怒ってるんだ。手加減なんてするつもりはないぜ」 「これで、勝った、つもりか……?」 兵衛がにぃいいいと笑うと、ヒューと口笛を吹いた。灰色のアスファルトからピンク色のミミズのような蟲が顔を出し、隆の足に絡みつく。 「まだ、蟲がいたのかっ!」 蟲を振り払いのけて後ろへと下がる隆。 兵衛はふらふらと立ちあがり、半月の笑みを浮かべた。 「実験が失敗したなら、ここには用はない……あちらの蟲も破壊されたようだしな……しかし、小生の実験を邪魔した貴殿たちの顔は覚えておく。必ず、この報いは受けてもらう」 兵衛の顔が残酷に歪む。その傍らにいる蟲の口から白い霧が発され、周囲を包みこんだ。 「待て!」 進が叫ぶ。 しかし、追いかけようとしても霧が邪魔をする。 そして、 あとには霧が晴れたあとには何も残ってはいなかった。
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