その日、世界司書たちは図書館ホールに集められていた。なんでも館長アリッサからなにかお達しがあるというのである。彼女が新館長に就任してから初めての、正式な館長通達。一体、何が発せられるのかと、緊張する司書もいた。「みんな、こんにちはー。いつもお仕事ご苦労様です」 やがて、壇上にあらわれたアリッサが口を開いた。「私が館長になるにあたっては、いろいろとみなさんにご迷惑をおかけしました。だからってわけじゃないんだけど、世界司書のみんなの『慰安旅行』を計画しました!」 慰安旅行……だと……? ほとんどの司書たちが言葉を失う。「行き先はブルーインブルーです。実はこの時期、ジャンクヘヴン近海で、『海神祭』っていうお祭りをやってるの」「あ、あの……」 おずおずと、リベルが発言の許可を求めた。「はい、リベル。バナナはおやつに含みます」「そうではなくて……われわれが、ロストレイルに乗車して現地に向かうのですか?」「あたりまえじゃない。慰安旅行なんだもの。年越し特別便の時に発行される、ロストメモリー用の特別チケットを全員分用意してあります。あ、念のため言っておくけど、レディ・カリスの許可もとってあるからね!」「……」 そうであるなら是非もない。 時ならぬ休暇に、司書たちは顔を見合わせるばかりだったが、やがて、旅への期待が、その顔に笑みとなって浮かび始めるのを、アリッサは満足そうに眺めていた。「コンダクターやツーリストのみんなのぶんもチケットは発行できます。一緒に行きたい人がいたら誘ってあげてね♪」 さて。 この時期、ジャンクヘヴン近海で祝われているという「海神祭」とは何か。 それは、以下のような伝承に由来するという。 むかしむかし、世界にまだ陸地が多かった頃。 ある日、空から太陽が消え、月が消え、星が消えてしまった。 人々が困っていると、海から神様の使いがやってきて、 神の力が宿った鈴をくれた。 その鈴を鳴らすと、空が晴れ渡って、星が輝き始めた。 ……以来、ジャンクヘヴン近海の海上都市では、この時期に、ちいさな土鈴をつくる習慣がある。そしてそれを街のあちこちに隠し、それを探し出すという遊びで楽しむのだ。夜は星を見ながら、その鈴を鳴らすのが習いである。今年もまた、ジャンクヘヴンの夜空に鈴の音が鳴り響くことだろう。「……大勢の司書たちが降り立てば、ブルーインブルーの情報はいやがうえに集まります。今後、ブルーインブルーに関する予言の精度を高めることが、お嬢様――いえ、館長の狙いですか」「あら、慰安旅行というのだって、あながち名目だけじゃないわよ」 執事ウィリアムの紅茶を味わいながら、アリッサは言った。「かの世界は、前館長が特に執心していた世界です」「そうね。おじさまが解こうとした、ブルーインブルーの謎を解くキッカケになればいいわね。でも本当に、今回はみんなが旅を楽しんでくれたらいいの。それはホントよ」 いかなる思惑があったにせよ。 アリッサの発案による「ブルーインブルーへの世界司書の慰安旅行」は執り行なわれることとなったのだった。***** 鮮烈な青空に茜色が混じり、帆も染まる夕暮れ刻。 『ミルッカ・エメリカ号』の甲板では、風が吹く度、波からの揺動が起こる度、りん――と優しい鈴の音が、幾つも鳴っては消えていった。 この船、普段は近海のみ渡航する三本マストのごくありふれた代物。 ところが、この海神祭の時期だけは、俄かに客船と化すのだ。 仕事などで昼間の土鈴探しに参加できなかった者や観光客の為にと、船体のあちこちに土鈴が取り付けられ、一晩かけてジャンクヘヴン周辺をゆっくり回る。 夜、鈴の音が響く中で星空と街明かりを遊覧するというのが売りだ。 豪華ではないが食事をはじめとした各種サービスはそれなりに行き届いているらしく、天候さえ悪くなければ毎年ぼちぼち賑わっているという。 さて、その『ミルッカ・エメリカ号』には一般の乗客に紛れて、少々風変わりな一団が乗り込んでいた。他ならぬ、0世界の旅人達である。 彼らがここに居るのは、れっきとした理由があった。「いい……ですねえ」 その理由――すなわちジャンクヘヴン市中にて本船の噂を聞きつけるなり乗り込むことを提案した(というか「せっかくブルーインブルーに来たんだから船に乗りたいですよう」とかなんかそんなノリで殆ど一方的に決めてしまった)世界司書のガラは、先程から船縁に寄り掛かり、土鈴の音色が響く度にうっとりと目を閉じていた。「夜が楽しみですねえ」 自分の慰安旅行に付き合わせておいて、いい気なものである。「あ、君達も聞きました? 何年か前、丁度今の時期に海魔が出たってお話。さっき船員の人が教えてくれたんです」 海風に吹き飛ばされぬよう帽子を押さえながら、ガラが語りかけてきた。 よりにもよって不吉な内容を。 瞬間、小振りな波にでも煽られたか、ぐらりと船が傾いた。 また元に戻り、別な角度に寄り、その都度あちこちの土鈴が輪唱する。 船内からはちょっとした悲鳴もあがったが、ともかく乗客一同やり過ごす。 ガラはといえば、手摺りに肘をかけながら、尚も話を続けた。「なんでも土鈴をいっぱい積み込んた船が襲われたばたっふっぁああ!?」 今度は世界司書の頭から、背の高い波が覆いかぶさった。ふさふさ黒毛の帽子は海水でべちゃっと潰れ、その一張羅も同様にずぶ濡れとなった。 しかし、その有様に皆が言葉を失う間もなく、更なる衝撃が船を襲った。 船首側に刺々しい触手のようなものが現れ、甲板に叩きつけられたのだ。 木材が弾け飛び、警鐘の如く土鈴が鳴る。 だが、奇妙なことに船の揺動はさほどでもない。 代わりに、甲板を覆う巨大な影。 その威容は、どう見ても――タツノオトシゴだった。 ということは、船首のあれは触手ではなく、尾だろうか。「なるほど。この子が巻きついたまま浮いてるから船がひっくり返らないんですね。そういえば図鑑で見たことがあります。イバラタツにそっくり」 海魔の姿を凝視しながら、ガラは普段からは想像もつかないほどまともな考えを述べる。海魔の方も脅威と見なしたのか、その頭を旅人達のほうに近づけた。 長い口を、なにやらもぞもぞと動かしながら。 ガラは構わず皆に向き直った。「今こそ君達の出番ですよう。一見堅くて痛そうでもお腹のほおおぉぃっ!」 そして全てを言い終える前に、消えた。 否、正確には吸い込まれたのだ。「…………」 常日頃寝言ばかりのたまう者が、ある時突然論理的思考を展開すると、得てしてろくなことにならないものだ。 旅人達は、今度こそ言葉を失った。!お願い!イベントシナリオ群『海神祭』に、なるべく大勢の方がご参加いただけるよう、同一のキャラクターによる『海神祭』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
●かの『ほおおぉぃっ!』より、指折り五秒。 「……――あっ! ガ、ガラさーん!」 我にかえったディガーが伸ばした手も空しく、とうに世界司書は巨大な海馬のおなかへと旅立っていた。日頃から旅に恋していたのだから本望かもしれないが。 「ど、どうしよう」 「うん。どうしようか」 まごつくディガーにウーヴェ・ギルマンがあっけらかんと頷き返す。 「食べられちゃったけど」 そうとも言う。 「…………大丈夫かしら」 「消化するのにどのくらい時間かかるんだろうねぇ」 心配そうなホワイトガーデンの声を受けて、ウーヴェは尚も気安く笑みさえ浮かべながら、あまり想像したくない事柄に触れる。 「消化……」 作家の性か、不覚にもホワイトガーデンはガラが火をくべられた蝋人形のように溶けていく様をイメージしかけたものの、刹那に起きた大きな波が『ミルッカ・エメリカ号』を揺らしたお陰で、それどころではなくなった。 「きゃっ」 「おっと――」 ホワイトガーデンが倒れるすんでのところを、傍に居た老紳士が支える。 ジョヴァンニ・コルレオーネだ。 「立てるかね、お嬢さん」 「ええ。ありがとう」 「なに、礼には及ばんよ」 ホワイトガーデンも自立し、旅人達はなんとか揺動を凌いでいたが、他の乗客や船員は体勢を崩している者が多く、それを見越してか海馬が活発に動き出す。 それは、癖の悪そうな尾の先を周辺に叩きつけては、身をよじっていた。 「あの人やばいねぇ」 楽しげなウーヴェの声に皆が振り向くと、転んで逃げ遅れながらもろろんと土鈴を震わせて足掻く乗客の一人に、海馬が頭部を近づけている。 「ふむ、いかんな」 「た、助けなくちゃ」 ジョヴァンニとディガーが危急に駆け出すのと時を同じくして、突如、宙に無数の刃が煌いた。 そして、刃の上を転々と飛び移る影。 「あれは……!」 影の正体に気付いたホワイトガーデンは、自身もトラベルギアたる書『未来日記』を開き、この事態を避ける内容をしたためようと試みるが、周囲の状況では『納得のいく出来事』たる要素が不足している。 何か無いかと頭を振れば、その間にも海馬の口先は乗客に迫り来る。 (せめて注意を逸らさないと) ふと揺れる土鈴に目が留まり、はっとしたホワイトガーデンは素早くペンを走らせた。 ――あらたかなるかな彼の調べ、時には夕餉を妨げようと―― ――龍とも馬ともつかぬ魔さえ、俄か聴き手となるだろう―― 今まさに海魔が乗客を吸い込もうとする直前、片翼の少女の小さな手が止まり、帆柱に括り付けられた土鈴が、りぃんと一際大きな音を発した。 海馬は動きを止め、大きな頭をそちらに向ける。 「何処を見ている」 その時、上空から海魔目掛けて飛来する、あの影。 それは落ちるに任せながら、やがて長い口の横面に、対の刃を叩き込む――! 「お前の相手は――俺達だろう?」 更に甲高い音が洋上に木霊し、思わぬ強襲を受けた海魔は奇妙な悲鳴と共に仰け反る頃、それを齎した影――歪は、乗客の目の前に着地した。 「ほ……」 「おお、かっこいー」 胸を撫で下ろすホワイトガーデンの隣で、ひたすら見物を決め込んでいたウーヴェが、ぱちぱちと手を叩く。 歪はそれには応えず、丁度駆けつけたディガーとジョヴァンニが自分の両脇をすり抜けていったのを確かめてから、目の前(と言っても歪には見えないが)の乗客に声をかけた。 「今のうちに船室へ」 「あ、ああありがとうございます!」 船員の気配が遠退くのを確かめてから歪は立ち上がる。 どうやら他の乗客は既に船員達が避難させたらしく、船上には敵と、自分達しかいないようだ。 ならばと海馬に向き直ると、斬撃より持ち直した海魔が上体を振り回し、ふたりの仲間はそれを避けながら好機を窺っている。 歪は戦列に戻るべく、得物を構えた。 主に合わせて、宙空に在る刃の群れも再び揺らぎだした。 「ディガーさん!」 後方にてホワイトガーデンが叫ぶ。というのも、ディガーが突然ぼんやりと立ち止まり、海魔の頭にばしんと弾かれた為だ。 2メートルほど離れたところに吹っ飛ばされた当のディガーは、しかしさほどのダメージも無い様子で、それどころか上体のみ起こしてなにやら考え込んでいた。 (お腹を殴れば吐き出すかな? でも、中にガラさんがいるし……胃を避ければ大丈夫かなぁ。ところで胃ってどの辺だろう……?) うーんと腕組みするディガーの目の前では、仕込み杖を抜いたジョヴァンニが最小限の動作で薙ぎ払われる頭を避け続けている。 「やれやれ。忙しない御仁だ」 海魔が身じろぐ度、船はゆらりゆらりと揺動するが、この老紳士はものともしないらしい。その点はディガーも同様で、実際、直前までは取り立てて不自由なく駆け回っていた。 一方で 歪は先程と同じくトラベルギアの刃に乗り、宙より強襲する間を計っている。しかし、相対する巨大な無賃乗船者も機敏とまではいかずとも、遠心力の効いた正確な打撃を幾度も繰り出しており、無闇に手を出せば一方的に力負けしてしまいかねない。 今少し隙が欲しいところだ。 「……?」 その時、ホワイトガーデンがガラの安否を探ろうとエアメールを確かめて――まさしくそのガラからのメッセージがあることに気付いた。 『旅の醍醐味!:なんだか揺れますねえ。さっきからぷるぷるした壁にぶつかったり転んだりして楽しいです。あと、音が響いて賑やかですよう、ここ』 いつも通りのガラだ。どうやら無事らしい。 「もしかしてガラちゃんから?」 「あ……ええ」 いつの間にか覗き込んでいたウーヴェにやや驚きながら、ホワイトガーデンはその内容を伝えた。 「ぷるぷるした壁……中は柔らかいってことかしら」 「そうなんだろうね――っと」 「!」 徐に腕を振ったウーヴェ。 その鞭が捕らえたのは知らぬ間にこちらを狙っていた、海魔の尾。 細い体躯に似合わぬ膂力を以って尾を縛り上げつつ、ウーヴェは尚もゆるい口調を保っていた。 「あぶないあぶない。で、どうするの?」 にっこりと笑いかけてくるウーヴェに対し、ホワイトガーデンは意を決した眼差しを向ける。 「ウーヴェさんは甲板をお願いします。私は――」 「いいんじゃない? こっちは任せといてー」 即座に意図を汲み取ったウーヴェに背を向け、ホワイトガーデンは少しふらつきながら仲間達の元に向かい駆け出した。 「……じゃ、そろそろ僕もがんばっちゃおうかな」 少女の背を見送り、ウーヴェは相変わらずのんびりした、見ようによっては残忍さを極めた笑みのまま、尾に巻きついた鞭から電流を流し込んだ。 ウーヴェの電流が効いたのか、海魔は身を強張らせた。 それを好機と、歪が宙に散った刃を全てけしかけ、敵の全身を切り刻む。 隙を作る傍ら、弱点を探る腹だ。 刃の大半は反発するか外甲に僅かな傷をつけるに留まったが、一部が腹部を掠めた際、その切り口から体液が飛び出たのを、旅人達は見逃さなかった。 「やはり腹か」 先程はガラを案じてまごついたディガーだが、その戦闘能力は侮れない。 (このまま消化されるよりは……!) 船の揺れも厭わず瞬く間に距離を積め、シャベルで力任せの一撃を打つ! 叩かれた腹に波紋が震え、海魔のあげる悲鳴と共に、マスト以外の何処より無数の鈴の音が鳴った気がした。 あえて言うなら地中で響く音のよう。 そういえば、船員が言っていた海魔がこれだとするのなら。 (土鈴を積んだ船を襲ったって事は、音にひかれて来たのかな? お腹の中一杯に土鈴があったりして……) 「どうかしたのかね?」 「……うん」 続け様、海魔の腹に仕込み杖を突き立てたジョヴァンニに声をかけられて、ディガーはなんでもないと青白い顔で首を振った。 「みんな、聞いて!」 丁度、ホワイトガーデンが戦列に加わった折のことである。 海魔が激しく上体をくねらせて、おそらくは苦痛に耐えている最中。 ホワイトガーデンは仲間達に、ガラのエアメールに着想を得た作戦を伝えた。 「え、え? 内側って……吸い込まれるっていうこと……?」 「同感じゃ。問題は如何にして体内へ踏み込むか、だが」 ディガーがちょっぴり引いている一方、ほぼ同様の作戦を練りつつあったジョヴァンニは頷きつつも新たな問題を提起する。 このまま持ち堪えていれば、いずれは吸い込みに来るかもしれないが、それでは船の損壊が進む一方だろう。 ガラとていつまでも無事とは限らない。 そして、ミルッカ・エメリカ号には数多の土鈴が取り付けられており、常に何れかが鳴っている状態である。ひとつふたつ揺らしたところで、先刻のように一瞬意識を向ける程度にしか機能するまい。 「なら、こんなのはどうだ」 歪の言葉を合図に、宙を舞っていた刃が、一斉に鳴った。 トラベルギア『刃鐘』は、刀剣でありながら楽器としての側面を持つ。 刃は徐々に歪の元へと集いながら涼やかな音をたて、音を立てては集う。 狙い通り、海馬はその度に動きを止め、やがて刃の収束点――旅人達の方へと長い口を寄せつつあった。 そして、刃鐘がついに形を為した時。 「――来るぞ」 海魔の口先は一行の目前まで迫る。 「キミ、ちょっと失礼するよ」 ジョヴァンニは先頭に立ち、口内の上面に杖を支えて持ち上げた。 「なに、手間はかけさせん。少々口の中を覗かせてもらうだけじゃ」 これにホワイトガーデンも続き、仕上げに歪が後ろに着いて、もう一度だけ刃鐘を、より響き渡るように鳴らした。 程無く風の音と共に三名の旅人を空間ごと引っ張る感覚が襲う。 「あ、あの……僕は」 「外からお腹を――」 ディガーの問いは完全な解を得られぬまま、答えかけたホワイトガーデン、そしてジョヴァンニと歪は、その場から消え失せた。 「『外からお腹を』……?」 「『攻撃して』ー、ってことでしょ」 「え……」 残されたディガーの背後から、ウーヴェがのんきに語りかける。 先程まで尻尾から電流攻撃を仕掛けていたウーヴェだが、海魔の方が慣れてしまったのか効果が薄いと判断した、というか飽きたのでこちらに合流したのだ。 「お腹の中と外から一気に攻める。そういうオハナシ…………おっとっ」 「……わ、わっ!?」 海魔がふたりの真上から頭部を振り下ろし、文字通り会話に割る込んで来た。 ウーヴェもディガーもとりあえず二手後方に飛んで避けるが、海魔の口先がしなるように甲板を叩き、船がぐらんぐらんと大きく揺れる。 「あの子が大きく動いたら、一気に攻め込もうか」 「う、うん……」 ふたりはそれぞれ物陰に隠れながら、まずは機をみることにした。 「わ、いらっしゃいませー」 ちりんちりんちりん。 「美しいお嬢さんがお困りと聞いてね。迎えにあがらせてもらったよ」 「怪我はない? 大丈夫?」 ちりんちりん。 「どうやら……無事なようだな」 ちりーん。 「はい。お陰さまで」 ジョヴァンニ、ホワイトガーデン、そして歪を迎えたガラは、足元に無数に堆積した数多の鈴を揺らしながら、楽しそうに物色していた。 「宝の山ですよう」 「…………」 さておき。 ここは、胃か何かの器官にあたる袋の中。 地肌に近いのか、外から明かりが透けて入るので、視界に不自由はない。 内壁はメールでガラが伝えた通り、柔らかい粘膜となっている。 「どうだ?」 「うむ。これならば切り裂くことも容易かろうて」 「よし」 ジョヴァンニと歪の遣り取りにホワイトガーデンも頷き、未来日記を開く。 「始めましょう」 その時、ガラはいそいそと土鈴を鞄に詰め込んでいた。 甲板では異変が起きていた。 海馬が巨体をぐねぐねと震わせて悶え出したのだ。 「あはは、おかしいねぇ」 「これは……?」 「うん」 あれの体内で仲間達が暴れているに違いない。 ディガーとウーヴェは顔を見合わせた。 「おっ」 ぐら、と船体が大きく傾く。 海魔に絡み付かれているミルッカ・エメリカ号も共に揺れる。 このままでは転覆するかも知れない。 「い、急ごう」 「ほいほい」 ふたりは次に船体が海魔の方へ傾いた時に備え、得物を構えた。 ――むかしばなしとおんなじように、龍のおなかに忍び込み―― ――中と外からいっせいに、切って叩いてめでたしめでたし―― 「せ、せーえのっ」 「ていっ」 ディガーとウーヴェは海馬の腹目掛けて半ば滑り落ちながら、トラベルギアを振りかぶって――力いっぱい叩き付けた。 同時に、体内では無数の刃がありとあらゆるところを切り裂いては飛び、また飛んでは切り裂く中、流麗な太刀筋で駆け巡るふたりの剣士の姿が在った。 海魔が抗おうとしたかは定かではないが、何れにせよウーヴェの電流でほぼ身動きがとれず、終始痙攣を繰り返すに留まった。 そして――。 内側から海魔の腹が、ばんと切り開かれ、まずは夥しい数の土鈴と共に歪とホワイトガーデンが顔を見せた。 「あ……おかえり」 「おかえりー」 「ただいま」 ディガーにホワイトガーデンも微笑み返し、歪共々甲板に下りた矢先。 巻きついていた海馬の尾が、ずるりと力無く滑り落ちた。 無論、それまで甲板に半ば乗り上げていた上体も例外ではなく、ジョヴァンニとガラが腹から出るより先に自重で傾き始めた。 「ワシの首にしっかり手を回しておきたまえ」 「ええー? それはちょっとー」 ジョヴァンニは口ごたえしかけたガラをすかさず抱えて甲板へと飛び移る。 すぐに海魔の尾が、次いで上体が着水し、高くも激しい水飛沫を上げた。 「全く、優雅な船旅がどうなることかと思うたわい」 「おーろーしーてー」 恩知らずにも腕の中でじたばた暴れるガラの抗議が、紅と藍の交わる空に響いた。 ● すっかり暗くなり、ほとんど明かりの無い甲板では、夕食を終えた家族連れや恋人達の姿が、あちこちでみられる。海魔の一件は、一般の乗客にしてみればそれなりに危うい出来事だったように思うが、土地柄か、事後にまで取り乱すほどではないらしい。 今は誰もが何事も無かったかのように星や夜景を眺め、また、鈴の音に耳を傾けていた。 そんな中、ディガーはマストにもたれかかりながら、白金のきらめきがいたるところに浮かぶ空を、ぼうっと眺めていた。 「……空、綺麗だなぁ」 ディガーが知る限り彼の世界に空は無く、一方で0世界の空は特別な場合を除いて変化が見られない。だが、世界群の多くでは時間や天候、季節によって移ろう空を見ることができる。たとえばここ、ブルーインブルーのように。 「地上も負けてはおらん。綺麗な夜景じゃ」 老紳士は「君にも見せたかった」と虚空に語りかけているが、どうやらディガーに対しての言葉ではないらしい。 「……ジョヴァンニさん。こんばんは」 「ご機嫌よう。空が好きかね」 「はい……でも、何なんでしょう。空って」 「学術的な問いかけだね」 ジョヴァンニはおどけ気味に肩を竦めながらも、ディガーの話に耳を傾けた。 ディガーとしては、例えば色が極端に変化しても同じ名で呼ぶことさえ不思議なようだ。そして、存在しながら触れ得ない、空気の塊と定義付けるわけにもいかない、あらゆる意味で掴み所の無いもの。 それが、ディガーにとっての『空』だった。 「何だか分からない物が頭の上にあるって、怖くないのかな?」 「なるほど、面白い発想だ。どう思う? ルクレツィア」 ジョヴァンニは、自身の考えを述べる代わり、肩で澄ましているフクロウに問うてみた。かつての愛妻と同じ名を持つセクタンは、ホーウと応じた。 後を追うように、ディガーの手元でりぃんと涼やかな音色が鳴る。 先程ガラから渡された、天球儀のミニチュアのような形の土鈴だ。 「ジョヴァンニさん」 「ん?」 「土鈴って、素敵ですよね……名前からして」 「…………土、かね?」 「はい……」 ホワイトガーデンは 海神祭とこの船とを満喫するべく、場当たりで散策しようと思い立った。 船室から出て、すう、と息を仕込む。 潮の香る風。波と鈴の音。空と、街。 昼の喧騒が嘘のように、静かで気持ちの良い夜だった。 短い段を下りて船首側へ歩いていくと、すぐにガラが目に止まった。 (かなり控えめに言えば)時折、旅人達を振り回す世界司書は、昼間と同じように縁に身を預けて、じっとしている。 少し離れたところでは、歪が腰を下ろして船縁に寄りかかっており、彼を挟んで丁度反対側にはディガーとジョヴァンニの姿があった。 唯一、ウーヴェだけは散策中なのか視界には見当たらない。 「こんばんは」 「や、ホワイトガーデン。お疲れ様です」 「ガラさんこそ、いつもお仕事お疲れ様」 ホワイトガーデンはガラと肩を並べて、司書の仕事を労った。 「今回が、司書になってから初めての旅になるのかしら」 「ですです。年末年始の特別便は、なんだか寝ちゃって」 「だから、とっても楽しそうなのね」 と言っても、この世界司書はあのリベルの説教さえ楽しそうに聞いているのだから、傍目には判り難いかもしれないが。 しかし、続くガラの言葉はいささか珍しい部類のものだった。 「そう、ですね。ちょっと、はしゃぎすぎました」 「え――?」 ホワイトガーデンは聞き間違いかと思い、振り向いた。 「ジョヴァンニにも言われましたよう。『若い娘さんの無茶は感心せんよ』」 ――親御さんへの……否、未来の恋人への不義理だ。 「『自分を大切にしたまえ』って。ガラの恋人は旅なのに」 ジョヴァンニの低い声を真似てから、ガラは頬をぷくっと膨らませた。 「とはいえガラが君達に迷惑をかけたのは、確かですから」 「……そっか。ふふ、でも」 ホワイトガーデンはくすくすと笑いながら言った。 「私だって『若い娘さん』でしょう? なのに、ふふふ」 「あー、本当だー」 えこひいき(?)だなんだと言いつつ、ガラもまた笑う。 そこに何者かが話しかけて来た。 「おねえさん達、一杯どうかなぁ」 「え? ええと」 「いいですよう」 唐突に背後から声をかけられてややたじろいだホワイトガーデンと、肯定とも否定とも取れる応答のガラ。 ふたりが振り向いた瞬間。 「僕のジュースが飲めないのかー!」 そこに居たのは、芝居がかった声音で食って掛かるウーヴェだった。 「なーんて。ふふ、ビックリした?」 「ウーヴェさん……こんばんは」 「ですよう」 ウーヴェは「いい夜だね」と挨拶に応じてから、辺りを見回して可笑しそうに「あとちょっと壊れたら、幽霊船の仲間入りかなぁ」と言った。 確かに、海魔に襲撃されたせいで、方々が壊れている。 マストや帆に被害が無かったのと、その他の損壊は船員達が応急処置を施した為、ひとまず遊覧に支障は無いようだが、闇夜に浮かぶこの船はちょっと怖いのかも知れない。 「それはそれで趣き深いです――あ。お昼のことで思い出しました」 「?」 「なあに?」 「君達は土鈴、お持ちですか?」 ガラが言うところには、せっかくの海神祭の夜なんだから、船の鈴だけで満足してはいけないのだそうだ。しかし、残念ながらふたりとも持ち合わせてはいない。 そもそもガラが乗船してしまったが為に、探す暇も無かったのが実情だ。 「マストに括り付けられていないか、探してみるつもりだったのだけれど」 「どんなのを探してたの?」 ウーヴェがぼんやりと聞いてみれば、龍の形と答えられた。 今日という日の記念といったところだろうか。 「もしあったなら面白い縁だと思わない? ――って、ああ!」 ホワイトガーデンが言い終わらぬうちに、ガラがひょいと摘み上げたのは、まさしく龍が絡みついた土鈴である。 「どうぞよう」 「ありがとう」 ホワイトガーデンが小さな両手にそれを収める横で、ウーヴェは自身の希望を伝えた。 「小さなお花の形とか、ないかなぁ」 「こんなの?」 ウーヴェに差し出されたのは本来のそれよりふた周りも大きい、鈴蘭が幾つか連なる独特の形状をしていた。 「ありがと。いいね、可愛くて」 ウーヴェはくすりと笑んで、目を細めた。 歪は、周囲の音のひとつひとつ、また、仲間達の和やかな様子に微笑んでいた。 ディガーやホワイトガーデンが時折気遣えば、決まって次の答えがある。 「音だけ聞ければ、それでいいんだ」 この慰安旅行に参加したのも音が楽しめそうだというのが何よりの理由だ。 別にやさぐれているのではなく、歪は歪なりに輪に混ざっているのだ。 とは言え、善意を頑なに断り続けるのも申し訳ない気がした。 そこで、歪は仲間達に、頼んだ。 土鈴の形や船上の様子、空の美しさを言葉にしてもらいたい――と。 だから、仲間達はガラに渡された土鈴も、空も、夜景も、海も、人々のことも、全てについて語り合った。 歪は益々楽しくなり、ささやかながら音に花を添えようと思い立った。 昼間の戦いのときと同様、刃鐘が宙を舞い、帆に沿うように並ぶ。 軽い波が寄せて船の土鈴がりんと鳴り、合わせて刃鐘も唱和する。 温かみのある音に、小気味良い音が重なり、旅人達だけではなく、船内に居る全ての人が、いつの間にか話を止めて、それに聴き入っていたという。 無論、もっとも楽しんでいたのは歪だが、一方で、こうもこぼしたものである。 「見えないと言うのは、少し……残念だけどな」 ミルッカ・エメリカ号の海神祭は、こうして更けていく。 天地の星と数多の音色、そして人々に彩られて。
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