その日、世界司書たちは図書館ホールに集められていた。なんでも館長アリッサからなにかお達しがあるというのである。彼女が新館長に就任してから初めての、正式な館長通達。一体、何が発せられるのかと、緊張する司書もいた。「みんな、こんにちはー。いつもお仕事ご苦労様です」 やがて、壇上にあらわれたアリッサが口を開いた。「私が館長になるにあたっては、いろいろとみなさんにご迷惑をおかけしました。だからってわけじゃないんだけど、世界司書のみんなの『慰安旅行』を計画しました!」 慰安旅行……だと……? ほとんどの司書たちが言葉を失う。「行き先はブルーインブルーです。実はこの時期、ジャンクヘヴン近海で、『海神祭』っていうお祭りをやってるの」「あ、あの……」 おずおずと、リベルが発言の許可を求めた。「はい、リベル。バナナはおやつに含みます」「そうではなくて……われわれが、ロストレイルに乗車して現地に向かうのですか?」「あたりまえじゃない。慰安旅行なんだもの。年越し特別便の時に発行される、ロストメモリー用の特別チケットを全員分用意してあります。あ、念のため言っておくけど、レディ・カリスの許可もとってあるからね!」「……」 そうであるなら是非もない。 時ならぬ休暇に、司書たちは顔を見合わせるばかりだったが、やがて、旅への期待が、その顔に笑みとなって浮かび始めるのを、アリッサは満足そうに眺めていた。「コンダクターやツーリストのみんなのぶんもチケットは発行できます。一緒に行きたい人がいたら誘ってあげてね♪」 さて。 この時期、ジャンクヘヴン近海で祝われているという「海神祭」とは何か。 それは、以下のような伝承に由来するという。 むかしむかし、世界にまだ陸地が多かった頃。 ある日、空から太陽が消え、月が消え、星が消えてしまった。 人々が困っていると、海から神様の使いがやってきて、 神の力が宿った鈴をくれた。 その鈴を鳴らすと、空が晴れ渡って、星が輝き始めた。 ……以来、ジャンクヘヴン近海の海上都市では、この時期に、ちいさな土鈴をつくる習慣がある。そしてそれを街のあちこちに隠し、それを探し出すという遊びで楽しむのだ。夜は星を見ながら、その鈴を鳴らすのが習いである。今年もまた、ジャンクヘヴンの夜空に鈴の音が鳴り響くことだろう。「……大勢の司書たちが降り立てば、ブルーインブルーの情報はいやがうえに集まります。今後、ブルーインブルーに関する予言の精度を高めることが、お嬢様――いえ、館長の狙いですか」「あら、慰安旅行というのだって、あながち名目だけじゃないわよ」 執事ウィリアムの紅茶を味わいながら、アリッサは言った。「かの世界は、前館長が特に執心していた世界です」「そうね。おじさまが解こうとした、ブルーインブルーの謎を解くキッカケになればいいわね。でも本当に、今回はみんなが旅を楽しんでくれたらいいの。それはホントよ」 いかなる思惑があったにせよ。 アリッサの発案による「ブルーインブルーへの世界司書の慰安旅行」は執り行なわれることとなったのだった。 * * * * ――ォ、ォォオォォォ、ォォアアアアァアアアアアォォォォォ―― 耳鳴りのように、声は男の耳を貫いていた。波の音も、風の音も、すべてかき消され、ただ、声だけが彼の頭を揺さぶっている。船の揺れとは違う。だが、波にもまれているかのように意識がグラグラと揺れている。 彼の目前に立っていたのは、死んだはずの恋人だった。彼女は、微笑んでいる。ヘたりこむ男の視線にあわせるように膝をついて、彼の顔を覗きこんでいた。 女の手が、男の頬に触れる。その手には、骨がない。触れた部分は水風船にも似た感触だ。冷たく湿った指が、男の顔を捕らえる。 男の顔は、笑っていた。愛しい人を目の前にして、彼の目には彼女以外何も映っていない。ただただ彼女の優しい瞳を見つめる男の目には、うっすらと、涙が浮かんでいた。 女の首が、粘土のようにグニャリと曲がる。頭が彼女自身の左肩に横たわり、ゴロリ、と。振り子が重力に引かれ動くように、首を軸にして転がり、男の目前に垂れ下がった。 男の顔は、笑っていた。男の周囲では、仕事仲間達が多数の半透明な生物により力尽くで解体され、肉片は彼らの触手で無造作に巻きとられては海へと放り込まれている。 男は、笑っていた。ただ、笑っていた。自身の体の震えを忘れようとするように。 ただ、ただ、笑っていた。 海神祭当日、ロストナンバー達はジャンクヘヴンの港を、ある一隻の船を目指して歩いていた。 彼らを先導していた世界司書の湯木は、目的の船に到着するとそれに乗り込むよう一同を促す。「ひどいもんじゃろ」 湯木は特に抑揚もつけず、船の惨状についてロストナンバー達にそう問いかけた。確かに、乗り込む前は何の変哲もないと思われていた船の甲板は、見るも無惨な光景を晒している。 穴だらけの床板、一面に染みた赤黒い色彩、それから人間の皮膚片、あるいは肉片が、随所にこびりついていた。 そして堪えようもないほどに濃い、鉄錆にも似た臭気が甲板全体を覆っている。「こん船がここに漂着したんは、一昨日。予想はついとるかもしれんが……海魔の仕業じゃ」 船はもともと、数週間前にジャンクヘヴンから出港していった商い用のものだったらしい。 漂着したときにはすでにこの有様で、人間は一人たりとも乗ってはいなかった。そのあまりにも悲惨な状態に、発見した人々もすぐに海魔によるものだと分かったそうだ。「導きの書では、今日。祭の日に、その海魔がまた現れるっちゅーことになっとる。それを討伐するんが、今回の依頼じゃ」 祭で賑わう時期だ。海魔にしてみれば、獲物が一ヶ所に集中して絶好の狩日和というわけである。 なんとしても被害が出る前に討伐しなければ、祭どころの話ではなくなってしまうだろう。「海魔は、大きな一つの群で人間を狩っとるらしい。群の出現する時間と場所は分かっとるけェ、一匹残らず倒しや」 そこまで説明すると、今度は依頼のために乗り込む船へロストナンバー達を案内するため、湯木は船を降りていった。 船までの移動の途中、1人のロストナンバーは湯木に尋ねた。今日は何故、食べものではなく刀なんてものを持っているのかと。 いつも食べてばかりのはずの彼が、今日に限ってロストナンバー達と落ちあってから一度も食事をしていない。ただその代わりにずっと、一振りの刀を大事そうに抱え持っていた。「ん、知り合いに借りた。護身用」 知り合いに借りた、というのはおそらくここへ来る前、ターミナルで適当なロストナンバーに借りたということだろう。そこは特に問題はない。引っかかるのは、その次の言葉だ。「護身用?」 言葉の意味を問いただすように復唱すると、湯木は無表情のまま首をこくりと縦に振った。「今回は、わしも同行する」「……は?」 ロストナンバーが驚愕したのも無理はない。皆、先の言葉を聞くまで、自分達を送り出したあと湯木は慰安旅行に戻るものと思い込んでいたのだ。 同行の理由を問うと、湯木はまた眉一つ動かさずあっさりと答える。「仕事。お前らが依頼完遂するんを、見届ける」 世界司書が依頼に同行する機会など、そうそうあるものではない。詳しく事情を聞いていると、どうやら彼は自分からこの仕事を引き受けたようだ。「……必要なことじゃ。自分が送りだしたロストナンバー達がどう依頼こなしてくんか、知らんではおれんじゃろ」 言いながら、湯木はある一隻の船の前で立ち止まり、「これじゃ」と指をさす。どうやら、依頼用の船に到着したようだ。 しかしあまりに急な話に、ロストナンバー達はどうにも不安を拭うことができない。そんな彼らの視線に気づいた湯木は、船の持ち主の元へ向かう前に、もう一度ロストナンバー達の方へ向き直った。「心配いらん。自分の身は、自分で守る」 湯木はこれから依頼に向かうロストナンバー達の不安を和らげようと思ったのだろう。しかし刀を抱える彼の両手は緊張で微かに震えているようで、ロストナンバー達の不安はさらに深まったのだった。!お願い!イベントシナリオ群『海神祭』に、なるべく大勢の方がご参加いただけるよう、同一のキャラクターによる『海神祭』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
波に合わせ揺れる船上を、眩いまでの日差しが照らす。それを遮るような雲の姿はなく、なんとも穏やかな天候だった。 おおらかに波打つ水面を紫雲霞月は懐かしげに眼を細めながら眺めている。 「こうも水に囲まれていると、故郷を思い出すね」 この世界は私の故郷に似ているから好きなんだよ、と続けながら隣に立つ黒づくめの衣装を纏った壮年の男に微笑みかける。海面に背を向けるように船縁にもたれているボルツォーニ・アウグストは、霞月に応える素振りもなくただ不快そうに眉を寄せていた。 「私は、水上は得手ではない」 いくらかの沈黙の後、それだけの言葉を残して彼は船縁から背を離す。その場を去る彼の行き先を特に確認するでもなく、霞月は苦笑いを浮かべつつ視線を再び青々とした海面へと向ける。 「世界が違うと、同族でも特性は違うものなのかな」 独り言ちる霞月の傍らに、先と違う気配が立った。ボルツォーニにも負けず劣らず真黒な装束の少年は船縁に背を預けると、ぐるりと周囲に視線を巡らせる。 船上には仲間のロストナンバーや世界司書以外にも、掃除や見張りや舵取りをする船員達が見えた。ときおり談笑を交えながらも、男達はそれぞれ自分達の役割をこなしているようだ。 一通り周囲を観察し終えたハギノは船縁にもたれるのをやめ、果てしなく続く水平線を見やる。ふっと笑みを浮かべつつ、広げた両手をそれぞれ口の両サイドに添えた。 「男祭り、ばんざーい」 棒読み気味の叫びは虚しく波音に消える。ハギノは両手を口元から外すと、大きな溜息と共にがっくりとうなだれた。 「なにこの男の園。すっげーむさ苦しいんですけど」 「えーと、……大丈夫かい、ハギノ?」 脱力するハギノに霞月はとりあえず肩を軽く叩きつつ声をかけた。 「あー、はは、いやーおかまいなく! ちょっとあまりに花のないこの状況に叫びたくなっただけなんで!」 思わぬリアクションにハギノは若干照れたように頭をかきながら、心配いらないと言うように軽く手を振ってみせる。 「そういうものなのかい?」 「健全な男子としては、まぁそういうものっすかねー」 ハギノと霞月がそんなやりとりをする一方、荊芥は船室に続く扉の傍らに座していた。彼の隣では世界司書の湯木も同様に座り、眼帯の男の顔をじっと見ている。 「主が今日の祭りを楽しみにしとったんじゃ。わしは、主の楽しみを奪う輩は排除する。主のためにの」 眼帯に覆われていない方の眼を伏せ気味に語る荊芥の言葉に耳を傾けていた湯木が問いを投げた。 「主。そがいに大切な人なんか」 荊芥は伏せていた目を開き視線を湯木へ送る。鋭い眼光は言葉で表すまでもなく、湯木の問いに対する答えを宿していた。 「あん人のためなら、わしは何でもする」 「何でもか」 荊芥は当然のように首肯してみせる。湯木がそれにどのような感想を持ったのか、彼の淡泊すぎる表情からは何も読みとれない。 「それがわしの全てじゃ」 「ほうか」 特に頷くでもなく、湯木は淡々と応えた。それで会話に区切りがついたらしく、それきり二人は黙りこむ。風と波の音ばかりの静寂が降りるが、それを破ろうとする様子はどちらにもない。両者共、沈黙に身を任せるようにその場に留まっていた。 荊芥はちらりと湯木を見やる。通常であれば、世界司書が依頼に同行することなどあることではない。慰安旅行の期間中であるのにわざわざ同行してきたというのは、何か思うところがあるのかと少しばかり気になるところではある。 「おーい。二人してぼーっと何してんの? 日光浴?」 しかし静寂を破ったのは船縁から移動してきたハギノだった。やや後方には霞月も立っている。 「湯木に今回依頼受けた理由を尋ねられての、さっきまで話とったんじゃ」 「依頼を受けた理由? 何か気になることでもあるのかい?」 荊芥の説明を受けて、霞月が口元に手を当てて首を傾げた。問いに対し肯定するでも否定するでもなく、湯木はただ一言だけ応える。 「好奇心みとおなもんじゃ」 「ふぅん? 依頼受けた理由……僕はせっかくのお祭りなのになんか物騒だしってとこかな」 にっと笑みを浮かべながらハギノが話すのを、湯木はまたじっと見つめた。その真直ぐな視線から無意識のうちに逃れようとしたのか、ハギノは彼から顔を背ける。 「それにほら、……殴り合うのは得意だからね、僕」 「……ほうか」 揺らがない視線と無感情な反応に、ハギノは何処か内心を見透かされているような心地がした。誤魔化すようにまた表情を笑みの形にし、湯木に歩み寄る。 「ま、司書が現地で仕事とか滅多にあることじゃないし、好きにすればいいと思うけどさ。気をつけてねー?」 自分の刀を手にとり、軽く構えてみせる。 「海魔が出たら、壁を背にして前だけ集中!」 言いながら素早く、刀を構えたまま壁に背をつけた。 「倒す必要はないすよ? それは僕らのお仕事。おーけい?」 「分かった。倒せるとは、わしも思うとらん。そこは、お前らを信じとる」 湯木の返事を待って、ハギノは愛刀をしまう。やりとりを眺めていた霞月がおもむろに進み出、湯木と視線を合わせるように膝を折った。 「言の葉よ、彼の者に身を守る術を与えたまえ」 その口が言を一つ紡ぐごとに、目に見えぬ力が湯木に渡っていく。一通り唱え終わると、霞月は微笑しつつ体勢を元に戻した。 「言霊だよ、身を守るのに多少は役立つはずだ」 ハギノと霞月を軽く交互に眺める仕草をしながら、湯木は立ち上がる。 「すまんの」 一言だけ紡ぎ、頭を下げる。相変わらず顔には出ていないが、おそらくそれが彼なりに精一杯の礼なのだろう。 「……そういえば、ボルツォーニの姿が見えんが?」 ふと思い出したように、荊芥は軽く周囲を見やる。甲板にそれらしい人影はまったくなかった。 「私はてっきり船室に入っていったものだと思っていたのだけど、すれ違わなかったのかい?」 さほど大きくないこの船に、船室へ降りる扉は一ヶ所しかない。それは今彼らが集っている場の傍らであり、荊芥らがずっと居座っていた場の傍らである。 霞月の問いを、荊芥も湯木も否定した。二人共ボルツォーニの姿は見ていないようだ。 「豪華客船でもないのに甲板の上で迷子になるってことはないっすよねーさすがに、っていうかなってたらいろんな意味で腰抜かすけど」 ぼやきながら、ハギノも周辺に視線を巡らしてみる。きょろきょろとする彼の背後を、一通り自分の仕事を終えたらしい船員が二名ほど通過していく。 「あの蝙蝠、船倉になんていつの間に潜り込んだんだろうな」 「出発前はいなかったような気がすんだけど、見逃してたのか」 首を捻りながら船室へ入っていく船員達の背を見ながら、霞月は片手を顎のあたりに軽く添え、ふむ、と考える素振りをする。 「暗がりで休んでいるのかもしれないね」 「暗がり?」 同族故に、察するところがあったのだろう。霞月はちらりと船倉に続くと思われるハッチに視線を送る。 船内でもっとも暗い船倉は、彼にとって比較的居心地がいいのかもしれない。 ――ォォォォォ―― 「声」が聴こえたのは、霞月がそんなことを巡らせていた最中のことだった。といっても、それはまだ微かなもので聞きとれた者はほとんどいない。 しかし荊芥の視線はすでに「声」の響く波間に向けられていた。手に苦無を握りつつ、湯木に尋ねる。 「海魔は「声」と共に現れる、ようなこと言うとったの」 「……ん。導きの書ではそうなっとる」 肯定を受け、荊芥は船縁の方へ体を向けた。ハギノと霞月も釣られるように同方向に注意を向ける。 ――ォオオォォアアアァアアァオォォォォオオオ―― 次の「声」は、船上の多くの者の耳に届く。まだ、間近というほどの音量ではないものの、確かに何者かの「声」が船に接近しつつあった。 ハギノと霞月もそれぞれ身構える。他の船員達は、手はずどおり船室への避難を始めた。慌てた足音が幾つも傍らを過ぎていくのを感じつつ、ロストナンバー達は海から接近しつつある何者かに神経を研ぎすませる。いつのまにか空に雲がかり、甲板は薄暗くなりつつあった。ぬるい風が彼らの頬を撫でては、潮の臭気を残していく。 ――ォオオオォオオオオオオオアアアアァアアア―― 先より圧倒的な大音量で、「声」は船上を覆いつくす。しかし耳を押さえているような暇など、ロストナンバー達にはない。彼らはすでに、獲物として選ばれているのだ。 聴覚を狂わせられるような「声」の中、船縁から這い出す半透明の触手達を彼らは確かに見た。 『ハギノ』 何故この喧しい音の中、その「声」だけがハッキリと聞こえたのか。そんなことを気にするまもなく、「彼女」はすでにハギノの目前に立っていた。 見覚えのある少女だ。最後に見たときと同じ姿で、あの日と同じ冷えた眼差しがハギノを見つめている。 「……せっちゃん?」 彼女が国を去っていったのは、いつのことだっただろうか。覚えている。周囲からの冷たい仕打ちを気丈に受け流していた、凛と美しい彼女の姿を。 『どこでだって生きていけるわ。私も、あんたも』 別れ際に彼女の紡いだ言葉も、覚えている。その言葉を、ハギノが最も欲していると知って言ったのだろう。その言葉を、ハギノが最も恐れていると知って言ったのだろう。 若くして優れた陰陽師だった彼女は、ハギノの記憶に眩しく残っている。向けられる妬みの視線も、ひどい嫌がらせも、彼女の冷やかな瞳を揺るがすことはなかった。 ――無理だよ、僕には あの日そうぼやいた自分に、彼女は悲しげに眼を伏せた。才を持つが故に国を追われた彼女と、忍びに向いていないことを知りつつそれ以外の道を知らない自分が、同じように生きられるはずがない。 それでも違う道に惹かれていると、彼女は知っていたのだ。しかし変わるために過去の全てを捨てる勇気がないことも、彼女は知っていただろう。 現に、今も誰かからの指示がないと動けないのだ。 刹那、暗い影がハギノの視界を遮る。影が去った後に残ったのは、バラバラに刻まれた触手と、ゼリー状の物体だけで、そこにもう彼女の姿はない。 影が過ぎていった方を見ると、そこには似たような残骸が幾つも散らばり、その先にボルツォーニが立っていた。巨大なクラゲのような生物と格闘する仲間達の姿も見える。 「くっそ、なんだよ」 愛刀を抜きつつ、無意識に歯ぎしりをする。幻影に引きずり出された記憶はまだ彼の脳裏に残っていた。それを無理矢理振り払うように、ハギノは叫ぶ。 「ぜんっぜん似てねーし! 騙されるとでも思ったかバーカバーカ!」 叫んだことで気合いを入れ直したところで、ハギノに湧いてきたのは腹立たしさだった。ぐっと脚部に力を入れ、跳躍する。 「なんでよりによってあの場面なんだよ……! ちくしょう許さん刺身にしてやる」 船の柱を蹴り、目前の巨大なクラゲを切り刻む。グチャリと気色の悪い音をたてて崩れる敵を睨み、また別の標的に向かって突進した。 海魔の気配を察したボルツォーニは船倉から飛び出し、そのまま甲板を這う海魔達を切り裂いた。着地すると共に刃のように鋭く変化していたコートの裾が元の布地へと戻り、ひらりと揺れる。 着地した姿勢から、すっと背を伸ばし立つ。船縁に目をやれば、成人に近い大きさを持つクラゲ達がずるりずるりと体を引きずって這いあがってきていた。不愉快さを隠さぬ眼差しでそれらを眺めつつ、魔鋼に手を伸ばす。 『兄様』 立方体のそれに触れる間際で、ボルツォーニの手は止まる。前にその声を聞いたのは、どれほど昔のことだったか。 『兄様』 それは、まだ人間だった頃。今思えば、共に過ごしたのは一瞬というほど短い時間だった。それでも確かに彼の記憶の中、その最期の姿は残っている。震える指先と、縋るような呼び声と、兜の隙間から滲み広がっていった血の色を。 『兄様』 振り返った先に、異母弟は立っていた。最期のときと同じ甲冑を纏い、毒の剣を携えて立っていた。卑屈な感情を鎧で多い隠し、剣先を兄に向ける様は、記憶を取り出してそのまま再生してみせたかのような既視感がある。 繰り返される呼び声と、目前に立つ異母弟。彼を殺したことを、後悔などしていない。領地を守るために、領主としての責務を果たすためにした所業に、悔いることなどあるはずがなかった。 「……まったく、あれから16000年も経つというのに、」 兄様、と幾度も繰り返される言葉。兜に覆われた異母弟の表情は、明確には分からない。 「お前は未だ私の前に現れるのか」 『兄さま』 ボルツォーニの氷のように冷たく碧い瞳に、甲冑の少年の姿が映っている。 「私も死に損ないだが、お前も似たようなものだな」 『にいさま』 声音に、何らかの感情がこもることはない。 「良いだろう、ならば」 手には、小さな鋼の感触。 『にいさ』 「もう一度死ね」 魔鋼は大鎌へと形状を変える。振るわれた刃は、少年の胴体を真二つに寸断した。同時に甲冑姿の異母弟は消え失せ、半透明の肉塊が湿った音をたてて甲板に落下する。 ――兄様―― 幻影が消える瞬間、兜の隙間からそう唇を動かしていたのが見えたような気がした。 ボルツォーニの足元で、影が微かに蠢く。使い魔が見る光景に、幻惑は映らない。ただ真実だけを捉え、使い魔はそれを忠実に主の視覚へと伝達する。最早ボルツォーニに幻想など意味をなさなかった。 大鎌を一つ振る度に、海魔の命は刈りとられていく。ばちゃり、ぼたりと、海魔の残骸が散っていく中、鎌を操るボルツォーニの眉間には深く皺が刻まれている。それが苛立ちか、水がしたたる船上の不快さ故なのか、定かではなかった。 海魔の接近をいち早く察知した荊芥は、船縁に触手が現れたときにはすでに船縁へと接近し、持ち上げられつつあったクラゲの巨体に苦無を放っていた。 海魔が怯んだような動きを見せたところへ、小刀を突き立てる。そのままゼラチンのような体をひき裂き、一度船縁から離脱した。鳴りやまぬ「声」の中、ぐるりと周囲を見回してみると何匹もの海魔達があらゆる方向から船に乗り込もうとしている。荊芥は小刀を持ち直し、また手近な海魔に切りかかった。 飛んでくる触手を薙ぎ、さらに本体に向けて一閃する。海魔達は数こそ多いものの体は柔らかく、攻撃さえ加えられれば容易に倒せるようだ。 一体一体確実に数を減らしていくため、次の標的を定めようと体勢を整える。そしてまた、一体の海魔に向かって突進していく。 小刀の切っ先が標的に届こうというとき、目前にいたはずの海魔が消える。その代わり、次の瞬間には荊芥の知った人物が現れていた。 十にも届かぬような年頃の少女の黒く長い髪が揺れる。それが実年齢とまったく異なる容姿であることを、荊芥はよく知っていた。 荊芥は無意識に己の主の名を呟く。海魔を捉えようとしていた刃先が止まった。 少女の赤いガラスの瞳は、ツヤツヤと輝き荊芥の姿を映す。彼女は仄かに笑み、荊芥の元へ歩み寄ってくる。 一歩、少女が歩を進めた次の瞬間、荊芥は緩みかけていた刀を持つ手に力を込め、彼女を斬りつけた。 「その姿、勝手に騙るな」 少女が一歩足をついたときの水音を、荊芥は聞き逃さなかった。盲目である主が、ここに一人で来られるはずがない。目前の少女が、主であるはずがないのだ。 少女の体は歪み崩れる。形を失うその寸前まで、見開いた眼が黒服の青年の姿を映し込んでいた。その瞳は、荊芥がいつも見ているものと同じ。何かを語りかけているようで、その実、ただ無機質に目前の景色を反射するばかりだった。 刹那、血に塗れた顔面を、両目があったはずの場所を両手で押さえ、悶え叫ぶ主の姿が脳裏に蘇る。苦しむ主をどうしようもなくただ見ていることしかできなかった。 まだ幼かった己に、何ができたというのか。どうすれば彼女を救えたというか。どれほど悔いても納まらぬ後悔を、どう拭えというのか。あの日、彼女の目を繰りぬこうとする現場に跳びだして、彼女を脅かす腕を切り刻んでやれれば、どれほどよかっただろう。 自らの手で抉りだした左目が痛んだような気がした。彼女の苦しみを理解できるなら、自らの両目などいくら捨ててもかまわない。だが今の己の右の目は、彼女のためにある。すべては、彼女のために。 苦無を持った左手を、海魔に叩きつける。ぶるりと体を揺らす敵を、さらに乱暴に殴りつけた。 その表情は、あくまでも冷静さを保っているようである。だが、海魔を殴りとばした拳はきつく、きつく結ばれていた。 霞月に対していたのは、彼の愛した女性。 「……弓泉」 右目から頬にかけての大きな痣と、柔らかな焦げ茶の髪、それはまぎれもなく愛しい妻だった。 自分の姿を見とめ、嬉しそうに微笑む。長らく、会うことの叶わぬ彼女の、見慣れた仕草、挙動、一つ一つが懐かしさをこみ上げさせていく。 「弓泉――!」 彼女が名を呼ぶ声、思わず名を呼び返すと、弓泉はいつかのように駆け寄ってくる。 彼女がここにいるはずがない。彼の理性は確かにそう告げていた。目の前の女性が妻であるはずがない。彼女が覚醒しているはずがないと。しかし、霞月は手にした絵巻を開くことができずにいた。 霞月の間近で立ち止まり、優しげな光を宿した瞳で霞月を覗きこむ。己で決めた禁事を犯してでも喪いたくなかった女性を前にして、霞月はすっかり動きを止めていた。 目前の、在りし日の妻の姿に、あの思い出したくもない光景が重なる。血に塗れ、横たわり息絶えつつあった妻の姿が。 ああする以外に救う術はなかった。あのとき口にした彼女の血の味は、どう記憶から消そうとしても焼けついたように消えることはない。 気がつけば、霞月は彼女に腕を伸ばしていた。彼女を抱きしめようと触れた、その感触は柔らかい。柔らかすぎる程に。そして冷たい。冷たすぎる程に。 ハッと、霞月は身を引いた。妻を模ったソレは、笑みを深めながら首を傾げてみせる。ソレを見る霞月の瞳には怒りの感情が、表情には険しさが滲みだす。 「我を、――弓泉を愚弄するか。海魔」 普段のそれよりずっと低い声色で、妻を騙る怪物を憎々しげに睨む。手にしていた絵巻を開いた。そこに草書で描かれていたのは水の槍。そして、瞬く間に幾本もの水槍が船外より現れ、幻影に向かって打ちこまれる。 水槍が刺さった途端、幻影は水風船のように破裂した。そのままぐちゃりと破片が地に落ちるのを見届けることなく、霞月はさらに水槍を召喚する。 彼の目に映るのは、甲板をのたうつ幾匹もの海魔ども。放たれた水槍は、次々にそれらを穿ち殺していく。 「我も、刀ぐらい持ってくればよかったか」 その手ずから海魔を打ち果たすことのままならぬことに、眉根を寄せる。しかし、それでも彼が攻撃を緩めることはなかった。 ハギノの目前でまたあの少女の姿が映る。先と同じ言葉を紡ぐそれを躊躇いなく斬り倒し、身を翻しては背後の少女を斬る。 「ちょっと、いい加減しつこいんじゃないの! クラゲのクセにうっとうしすぎ!」 叫び、一度後方へ跳ぶ。船縁の上に着地し、甲板を見渡してみると海魔の数は始めより三分の一程度にまでは減っているようだった。 「甲板の上、ぐっちゃぐちゃだな」 ハギノの言うとおり、そこらじゅうにクラゲの死骸が散乱し、足の踏み場はなくなりつつあるようだ。ここからは少しばかり動きづらくなるだろう。気色の悪い光景にげんなりしつつ、また自分の前に現れた少女の幻影を斬り捨てる。 「あーもう、気持ち悪いにもほどがあるっての」 手当たりしだい触手を薙ぎながら帆に向かって跳び、また帆を蹴っては落下すると共に海魔を斬る。そこへさらに霞月の放った風の槍が降り、海魔の数を減らしていく。 霞月は絶えず槍を召喚し続ける。視覚から接近した海魔の触手がからみつけば身体を霧へと変化させて抜け出し、元の姿に戻ると共に雷を襲いかからせた。雷は一度に複数の海魔を飲み込み、その命を奪う。 非情に海魔を仕留めていく霞月の手により、その数は確実に減らされていっているようだった。 そしてまた一匹、苦無で触手を床に繋ぎとめられた海魔が裂けた体を横たえる。その間にも荊芥はまた一匹、一匹と海魔を仕留めていく。その目に映る偽りの主の姿は、彼の殺意をかきたてる以外なんの役割も果たしていない。 甲板をかける荊芥の視界の端に甲板と船室を隔てる壁際を這う海魔が映り、反射的に苦無を投げては小刀の切っ先を向けて突進する。小刀が海魔の命を奪ったことを確認すると、荊芥は次の標的を仕留めるために小刀を抜こうとする。すると倒したはずの海魔がぐにゃりと動き、その下から湯木が這い出してきた。手にした刀がいまだ鞘に収まっているところを見る限り、ここまでずっと戦うよりもひたすら逃げ続けていたらしい。 「やっぱり、中入っとった方がええ」 思わず構えかけていた苦無を下ろし、小刀を抜ききると、荊芥はすぐ間際にある扉を指した。表情こそ変わらぬものの少し青ざめた顔色で、湯木は首を左右に振る。 その間にも、海魔は獲物を求めて彼らに襲いかかる。荊芥はその触手を小刀で防ぎ、本体に苦無を投げた。触手が緩んだ隙に小刀を抜き、海魔を刻む。最後に湯木を一瞥し、また別の海魔に向かい駆けた。 黒い大鎌はあっという間に海魔を寸断していく。ぼとぼとと落ちる破片を気にした風もなく、ボルツォーニはただ冷徹に海魔を狩る。しかしその顔はやはり険しく、どこか彼らしからぬような様子でもあった。 その目にもう異母弟の幻影など映っていない。だが、兄を呼ぶあの声はまだ鳴り続ける「声」に紛れこんでいるようであった。それが、彼の眉間の皺をさらに深くしていく。 『 』 大鎌がまた、大きく振られる。鎌が振られた後に残るのは、無惨に刻まれた触手や海魔の肉体ばかりだ。だがそれすらも、ボルツォーニの機嫌を損ねているようだった。 甲板上の海魔の数は、もはや片手で数えられる程にまでとなった。荊芥やハギノがそれらを仕留め、ボルツォーニは役目は終えたと言わんばかりに大鎌を元の魔鋼へと収める。 だが霞月は再び絵巻を開く。そこへ数秒視線を落とし、また絵巻を開き直す。その目線は船縁の先、「声」が納まり穏やかさを取り戻しつつあった海だった。 「我らが、逃がすとでも?」 苛立ちを隠さず、波間に微かに映る複数の影を睨みつける。風が吹く。槍のように細く、鋭く、風は影達を貫いた。 海面に海魔達の死骸が浮かび漂う。その後、海は完全に静けさを取り戻した。 目的を達した船は、ジャンクヘヴンへの帰路についている。出発した港が水平線の先に見える頃には、日が落ちて海は暗くなっていた。 「あー、やっとジャンクヘヴン! 祭まだやってっかなー」 「鈴の音はまだしているね。これなら、まだ間に合うと思うよ」 港が近付くにつれ、微かな土鈴の音が彼らの船まで届くようになっていた。ハギノと霞月はそれを聞きながら、星のように幾つも並ぶ灯を眺めている。ハギノも、霞月も、自分達が見た幻影のことにはまったく触れることはなかった。 ボルツォーニもまた彼らからいくらか離れた場所で、夜闇に紛れるようにして立っている。少しずつ近づいてくる鈴の音色を聞く彼は、戦闘が終わったにも関わらず不機嫌な様子で、一言も物を語らずただ水平線の方を見つめていた。その目はどこか物憂げな様子でもあり、何かを想い思考に沈んでいるようでもある。「声」は止み、異母弟の呼び声ももう聞こえない。何故、己があの幻影を見たのか――そのことを想うているのかどうかも、何も語らぬ彼からは何も知りようがない。 「そなたは、何か見たんか?」 行きとまったく同じ場所に座り、荊芥は湯木に尋ねた。湯木はというとこれまでの緊張が解けたのか、貰った船の食料を目前に山ほど積んでそれに食らいついていた。 「何故訊く?」 湯木は干し貝を食らう手を止め、顔を荊芥の方へ向ける。 「そなたは戦う力がないじゃろ。それでも来たっちゅうことじゃけぇ、気になっとった」 問う荊芥の表情は淡泊なものだが、そこに他意がないのは湯木にどことなく伝わっていた。 「依頼に行くロストナンバーは、常に危険じゃ。ほれをいつも見送るだけなんは、悲しいと思わんか」 「……ほうか」 「今まで送りだしたロストナンバー達が、沢山見えよった。……怖いの、戦うんは」 本当に怖い、と繰り返しながら湯木は立ちあがり、船縁で港を見ているハギノ達を見やった。 「何処行っても、必ず帰るようにしんさいよ。待ってる奴を悲しませんようにの」 言いながら、湯木は食料の山の中から食パンを手にとり、荊芥に差し出す。それを受け取る荊芥の脳裏には、いつまでも少女の容貌を保ち続ける主の姿が浮かんでいた。 鈴の音は、船上まで穏やかに鳴り渡る。その音を守るため戦ってきた彼らを迎えるように、いつまでも鳴り続けていた。 【完】
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