ディラックの空をロストレイルが走る。 ヴォロスでの竜刻回収の依頼を果たしたロストナンバーの一行は、ターミナルへと帰還しているロストレイルの中で、各々の時間を好きに過ごしていた。 今回の依頼に同行していた上城弘和は、司書へ提出するための報告書をのんびりと作っていた。 そんな時、何の前触れもなく事件が起きた。 耳障りで甲高い音を響かせて、ロストレイルが急ブレーキを掛けたのだ。「うわっ!」 幸い腰掛けていた弘和は、床に倒れ込むようなことはなかった。「何事ですか?!」 ずり下がった眼鏡を押し上げながら、弘和は車外を眺めた。 その目に飛び込んできたのは、ロストレイルへと接近してきている一つの銀色の円盤であった。「UFO?」 弘和の脳裏には、ここ最近よく報告書で見かける世界樹旅団という集団の名前が浮かんだ。「まさか、ね……」 弘和のいたミーティング用の車両に、今回の依頼に参加していたロストナンバー全員が、異変を察知してすぐに集まってきた。 ただ事ではないということだけは分かっている彼らは、いつ何が起きてもすぐに反応できるように体勢を整えていた。 そして、車体が軽く揺れたと感じた瞬間、警告音が鳴り響いた。「緊急放送。緊急放送。ただいま、最後尾車両より侵入者あり。ディラックの落とし子の可能性大。乗車しているロストナンバーは、速やかに侵入者の排除をお願いします。繰り返しますーー」 思わず顔を見合わせたロストナンバーたち、中には車外に浮いている銀色の円盤を見つけたものもいただろう。 彼らは顔を見合わせると無言で頷き、最後尾へと向かった。「待ってください!」 弘和は思わず叫んでいた。 急に叫んだ弘和に、驚いたロストナンバーたちの視線が集まった。普段なら、愛想笑いの一つでもするはずの彼の顔は、緊張で固まっていた。 最後尾へと向かう貫通扉へ、弘和は視線を張り付けていた。その眼は、いつの間にか青く染まっていた。「来ます」 かちゃり、と小さな音がすると、隣の車両へ続く扉がゆっくりと開いた。 現れたのは、たおやかな美女であった。 壱番世界で言うなれば、和風といえるような着物を纏った妙齢の女性。 降ろせば腰まではあろう、長く伸びた艶やかな黒髪を後ろ頭で一つに括ってあり、血に染めたような蠱惑的な唇が人目を引いた。「あら、ようやっと話ができそうな方に会えましたわ」 その女は、鈴を鳴らしたような声で話し出した。「お初にお目にかかります。うちは沙羅と申します」 沙羅と名乗った女は、ロストナンバーたちへと軽く会釈をした。「単刀直入に用件を言わせてもらいます。この乗り物、うちに譲ってはもらえませんか?」 突拍子もない沙羅の申し出を、ロストナンバーたちは一瞬理解できなかった。「……解りました。話し合う時間を少しください」「ええ、構いませんよ」 いち早く立ち直った弘和が、苦し紛れに言い出した言葉を受けて、沙羅は妖しく口元を歪めた。 そうして、ロストナンバーたちが僅かな時間で話し合った後、弘和は再び沙羅へと向き合った。「結論として、そちらの要望は受け入れられません。この車両は私たちの持ち物というわけではないので、私たちの一存で譲る譲らないは決められません」「まあ、そうでしたか。では、責任者の方に聞いてみてもらえないでしょうか?」「それもできません。この車両の所有者と連絡を取る手段を持ち合わせているものが、今誰もいません。さきほど、全員に確認しました」「それは困りましたねぇ」 沙羅は頬を手を当て、ため息をついた。「どうしてもと仰るのでしたら、後日面会の約束を取り付けたうえで、出直してきてください。この車両の所有者は、そうそう自由にできる時間のある方ではないようなので」「それでは、どうしても無理だと言うのですね?」「はい」「それならば仕方ありませんねぇ。話し合いで駄目ということでしたら、力づくで奪うしかありませんわね」 はっきりと拒絶した弘和に、沙羅は残念そうに呟いていたが、その美しい顔はとても嬉しそうに笑っていた。まるで、これで戦う大義名分が手に入ったとでも言うかのように。 沙羅の手には、気が付けば白木の鞘が握られていた。「うちの太刀に斬れないものは、多分ありません。うちを失望させないでくださいましね」「多分?」「ええ、今まで斬れなかったものはありませんから」 誰かが差し挟んだ言葉に、沙羅は艶やかな笑みを返した。「さあ、うちの相手をしてくれるのは、誰かしら?」「皆さん、先ほど話したように、彼女は恐ろしく強いです。十分に気を付けてください」 弘和は青い眼を沙羅へと向けながら、固い声で呟いた。!注意!イベントシナリオ群『ロストレイル襲撃』は、内容の性質上、ひとりのキャラクターは1つのシナリオのみのご参加および抽選エントリーをお願いします。誤ってご参加された場合、参加が取り消されることがあります。また、このシナリオの参加キャラクターは、車両が制圧されるなどの状況により、本人のプレイングなどに落ち度がなくても、重傷・拘束等なんらかのステイタス異常に陥る可能性があります。ステイタス異常となったキャラクターは新たなシナリオ参加や掲示板での発言ができなくなりますので、あらかじめご了承下さい。
張り詰めた空気の中で、まず前へ進み出たのはくすんだ短い金髪に深海色の目をした、筋肉質で背の高い男、アキ・ニエメラであった。 その斜め後ろに影のように立つのは、少し伸びたショートカットの黒髪に黒い瞳をした、どこか影のある男、ヒイラギであった。 その二人の後ろには上城弘和と黒いドレスを身に纏った幼い少女、その背中から8本の蜘蛛の脚を生やした、蜘蛛の魔女が佇み。 さらに最も沙羅から離れた場所に、金色の毛並みの狼獣人であるオルグ・ラルヴァローグ、そして、唯一のコンダクターである坂上健がいる。 コンバットナイフを構えたままのアキと状況を静観しているヒイラギ。相手の出方を伺う無言の時間を打ち破ったのは沙羅であった。 着物の袖から滑り落した小太刀を左手に掴み、沙羅は自分の右肩を突いたが、引き抜いた小太刀には血は付いておらず着物にも傷一つなかった。 それを見ていたヒイラギは、先程の話合いの時に、秘かに仕掛けておいた物質劣化の異能が霧散したのを感じた。 「貴方、先程からうちを見ていますわね?」 沙羅の目が弘和へ向くと、獲物を定めるように細まった。 「ひっ」 悲鳴をこぼした弘和は思わず一歩下がっていた。 「おっと、あんたの相手は俺たちだ」 オルグは、沙羅から隠すように弘和の前へと歩み出た。 「戦士の誓いを立てろ、始めるぜ!」 オルグの闘志に応えるように、ギアである月輪が青白い光を帯びる。 「ふふ、楽しませてくださいましね」 「気に入らねぇな。最初から勝ったような気でいるテメェがよ!」 オルグが魔力を込めて月輪を振うと、青白い軌跡を描いて魔力の刃が飛ぶ。 次々と放たれる刃を沙羅は太刀で斬り伏せてみせる。そして、その隙を狙うようにヒイラギがギアの鋼糸を繰り出す。 火花を散らして多方から迫る鋼の糸を、沙羅は太刀でいなしながら後ろへと飛んだ。 それを追うようにアキが飛び込みざま沙羅にナイフで斬り掛かれば、激しい音を立てて太刀とナイフが噛み合う。 「俺と遊んでくれるかい?」 「ええ、喜んで」 お互いの顔に浮かぶのは獰猛な笑顔であった。 「まずはロストレイルを発車させないと」 弘和と健は、沙羅と対峙せずに先頭車両へと移動していた。 「上城さんに質問だ。後部に他で見かけた予備動力車両があるかどうか確認したい」 「大丈夫です。坂上さんが気にしている車両は先頭に集まっていますから、彼女を先に進ませなければ問題ありません」 弘和はトラベラーズノートに何か書き込みながら足を動かしている。 「俺は今回のヤツらの目的は、ロストナンバーの捕獲だけじゃなくて、大量輸送手段の確保と俺たちの零世界への封じ込めを兼ねた移送手段奪取計画だと思ってる。だから絶対くれてやれないのは先頭車両、作戦車両、予備動力車両だ」 「その意見に賛成です。ロストレイルをターミナルに帰還させることを最優先に考えましょう」 貫通扉を開いて次の車両に移ろうとした時。 「あ、ちょっと待ってくれ」 「はい?」 健は車両と連結部を眺めていた。 「これ外せるか?」 「というと?」 「客車を切り離せば、その分スピードは上がる。それに戦っている車両を切り離せば、あの銀盤は沙羅を回収しに行くはずだ。その間にロストレイルで逃げられるだろ?」 健の言葉を理解した弘和は、青く染まった目で連結部を見つめた。 「どうにかなりそうか?」 「工具がないと素手では無理そうです。となると、破壊するのが一番早いんですけど」 「ほら」 健が何気なく差し出さしたものは破片手榴弾だった。 「あの、つかぬこと伺いますけど、坂上さんって民間の方、ですよね?」 「当たり前だろ。普通の大学生だ」 「……そ、そうですよね」 弘和は指で眼鏡を押し上げながら、爆弾持ってる時点で普通じゃないでしょう、と喉元までせり上がった言葉をぐっと飲み込んだ。 「もう! いい加減に当たりなさいよ!」 癇癪を起こしたように叫びながら、蜘蛛の魔女は固めた糸を蜘蛛の脚から次々と撃ち出している。 流れ弾に当った車内の座席やテーブルが壊れていく。 「美女と斬り合いか、ゾクゾクするな」 飛び散る残骸の中で、アキのナイフと沙羅の太刀が閃く。 その高い身体能力を活かして、アキは狭い車内であることを苦にせず果敢に沙羅へと攻める。 何度となく斬り結んだ時、ナイフで受け止めた沙羅の太刀をアキは左手で掴むと、手が傷つくことも厭わず沙羅へと踏み込んだ。 「沙羅の願いは何だ? 世界樹旅団の真の目的は?」 アキの質問を受けた沙羅は眉を僅かに顰めた。 「まあ、うちの心を覗きましたわね? 断りなく女性の心を覗くなんて破廉恥ですわよ」 沙羅は下げた左手で袖から取り出した小太刀を振ったが、その一撃をアキは素早く手を離して距離を取った。 アキが左手を振ると血が床に飛び散ったが、その手の傷は既に塞がっている。アキの持つ驚異的な再生力であった。 「まあ、覗かれて困ることはありませんけれどね」 沙羅は小太刀を袖へ仕舞うと、太刀を構えなおした。 「うちの願いは、自分が何処まで行けるのか、知りたいだけです。旅団の目的は知りませんわ、興味ありませんもの。うちは利害の一致で力を貸しているだけです」 他の方はどうだか知りませんけどね、そう沙羅は締め括った。 「でも、それは貴方たちも同じでしょう。建前はともかく、この乗り物を作った人が本当にしたいことなんて、知らないし大して興味もありませんでしょう?」 微笑む沙羅に嘘がないということが、真実の瞳を持つオルグには解った。 「特に貴方。うちと同じ目をしていますもの」 沙羅に目を向けられたアキは否定も肯定もしなかった。 「命のやり取りで満たされる渇きを知る目ですわ。うちは今に満足していますけど、貴方はそちらで、よろしいんですの?」 沙羅が太刀を振って、アキへと剣閃を放つ。 「さあな、今の所は不満はないな」 念動力で補強したナイフで、アキは沙羅の剣閃を弾いていく。 「それだと、満足しているわけではない、とも聞こえますわよ」 「訂正しようか? 少なくとも今は満足してるぜ。殺意でギラギラしてるあんたは、本当に綺麗だからな」 「ふふ、お褒めに預かり光栄です」 命のやり取りをしているとは思えないような会話を交わしながら、二人は激しい攻防を重ねる。 一つ間違えば死ぬことになる、その緊張感が二人の心を満たしていく。 「しかし、うちと太刀を交えるには、少し危機感が足りませんわね」 沙羅の一撃でアキのナイフの刃が半ばから断ち斬られる。 「何っ!?」 そして、沙羅は振り降ろした太刀を返して、ナイフを持っていたアキの右腕を半ばから斬り飛ばした。 右腕がロストレイルの床に落ちた瞬間、アキの右腕の傷口から鮮血が噴き出した。 「ぐあああっ!」 焼けるような強烈な痛みがアキの右腕から爆発する。強靭な精神力のおかげで痛みで気絶することはなかったが、すぐに消えるはずの痛みが何時までも続く。 傷口が再生を始めない。本来ならあり得ないはずの激痛がアキの精神を焼き、止まることのない出血がアキの体力を奪う。 「待ってろ、すぐに治してやる!」 床に落ちた右腕を持ってきたオルグは、癒しの白炎でアキの右腕を包み込んだが。 「傷が塞がらない!?」 白炎に包まれた傷は治る素振りは全くなく、血の勢いが僅かに弱くなった程度だった。 アキの右腕から噴き出す血がロストレイルの床に赤く広がって行く。 オルグとアキを庇うように、蜘蛛の魔女は蜘蛛の脚から編み上げた糸を使って、鞭のようにしならせ沙羅へと打ちつけ、ヒイラギは火花を散らしている鋼糸を、沙羅の手足を落さんと操る。 「その傷は塞がりませんわ。そういう風に斬ったんですもの。禊と名付けた斬り方ですのよ」 二人が繰り出してくる攻撃を、悠々と沙羅は防いでいる。 「でも、安心してください。数時間もすれば傷は治るようになりますわ。それまで生きていれば、ですけどね」 「さっさと傷が治るようにしやがれ!」 「無理です。だって、もう斬ってしまいましたもの」 全く悪びれず笑顔を浮かべる沙羅に、オルグの怒りが沸き上がった。 「てめえ!!」 月輪を取り出して魔力を込めて振るいながら、オルグは沙羅へと踊り掛かった。 それを見たヒイラギは、沙羅の相手をオルグと蜘蛛の魔女に任せると、音もなくアキの側へしゃがみ込んだ。 ヒイラギはすぐに千里眼の異能で、アキの腕に走る血管や神経を見極めた。 「歯を食い縛ってください」 ヒイラギが静かに呟くと、アキの体に電撃が走った。 「がぁっ! ……あぁ? 痛み、が?」 「腕の神経を俺のギアで一時的に麻痺させました。これから血止めをします」 加速したヒイラギの両手が、映像の早送りのように素早く精確に動き出す。 物質透過の異能を施した鋼糸を使い、肉体の組織に埋もれている大きな血管だけ縛り、火属性を発動させて焼いて血管を塞いで行く。 通常であれば大手術とも言えるような作業を、ヒイラギは僅か時間で終えていた。 「細かい血管までは処置しきれませんが、これで失血死は防げるはずです」 集中を解いたヒイラギは大きく息を吐きだした。 「あんた医者、か?」 「違います。俺にできるのは、目的を果たすために必要な時間を作るだけの応急処置です」 大量の血を失ったアキの顔は青く、額にはびっしりと冷や汗を浮かべていた。 「もし動くつもりなら、自分の状態を十分把握して動いてください」 「ありがとな」 アキの言葉に軽く頷き、ヒイラギは戦いの場へと足を向けた。 アキは静かに目を閉じて息を整え始めた。動くために少しでも体力を回復させる、それが今のアキの最優先事項であった。 ここは戦場で、戦いはまだ終わっていないのだから。 「おらぁぁー!」 オルグの体重を乗せた一撃を、沙羅は力を逸らしながら受ける。 「血気盛んな方ですわね。そういう方は好きですわね」 「生憎、俺はおまえみたいな女はタイプじゃねぇな!」 沙羅の太刀をへし折る気概でオルグは力強く月輪を押し込むが、上手く沙羅に力を逸らされてしまう。 「あらあら残念。振られてしまいましたわ」 「いちいち腹立つんだよ!」 沙羅の余裕ぶった言動が、オルグの心を苛立たせる。 高ぶる感情を乗せて、オルグが月輪を沙羅に叩きつける、が。 「ふふ、感情で太刀筋が曇ってましてよ」 甲高い音を響かせて、月輪は半ばから沙羅に斬られた。 「ちっ」 舌打ちしたオルグは、斬られた月輪を左手に持ち替え、右手に日輪を出現させた。 二つのギアに魔力を集めながら、沙羅を睨むオルグの視界が、突然に白く煙った。 「斬れるもんなら斬ってみなさいよ!」 蜘蛛の魔女が綿毛のような糸を飛ばす。風に流れる極細の糸は、羽毛のように漂い沙羅へと流れる。 沙羅は袖から取り出した鞘を片手に構え、吹きつける糸を鞘で巻き取っていく。 「子供のお菓子で、こういうのがあったような気がしますわね」 綿菓子のように糸で膨らんだ鞘を沙羅は眺めた。 「斬りなさいよ! 刀を使えなくしようとした意味ないじゃないの!」 蜘蛛の魔女が悔しそうに床を踏み鳴らした。 「闇を焼く金色の炎よ。夜明けを告げる精霊よ。暁の獣王の子たる我に力を!」 オルグの魔法が完成し、鈍い金色の炎が日輪と月輪の二つの刀身に宿る。 煌々と輝く炎の双剣が、車内を黄金の光で満たす。 「まあ綺麗。魔法剣と言ったところですかしら」 「煌剣……この名を覚えておけ。これがテメェに斬れねぇ剣の名だ!」 両手で構えた双剣をたて続けに振えば、金の炎を纏った魔力の刃が次々と唸りを上げて沙羅へと撃ち出される。 次々と迫り来る光の刃を、沙羅は太刀で斬り伏せていく。 「なるほど。魔力も良く練り込まれているようですわね」 光の刃を飛ばしながら斬り掛って来るオルグの双剣を、沙羅は鞘で受け止めた。 纏わり付いていた糸は瞬時に燃えて灰となったが、沙羅の握る白木の鞘は燃えていなかった。 その事実に驚くオルグの目に、沙羅の口元が嬉しそうに歪むのが見えた。 「でも」 鋭い気合いとともに放たれた沙羅の一閃が、金色の炎ごとオルグのギアを再び断ち斬った。 そして、黄金の炎を剣の形に安定させていた刀身が斬られた時、その炎は霧散してしまった。 「なっ!?」 「剣に魔法を纏わせるのでしたら、その剣を斬ってしまえばお終いですわね」 呆然としているオルグの目の前で、沙羅は太刀を床に突き立てた。 「うちは、こういうこともできますわ」 そして、沙羅は何も持たない素手から青白く輝く気の太刀を生み出した。 「これなら得物が無くても、問題ないしょう?」 鮮やかな軌跡を残して、気の太刀がオルグへと振り降ろされる。 「何してんのよ!」 蜘蛛の魔女の声で我に返ったオルグは、両手のギアでその一撃を受け止めた。 が、沙羅は、気の太刀をそのまま振り降ろしていた。 日輪と月輪の刀身が粉々に砕け散る中、オルグの弾き飛ばされる様を見た沙羅は眉を顰めた。 その時、がたんと車体が揺れ、ロストレイルが動き出した。 「くそっ! ギアが」 「これを」 両手に残った二つの柄を眺め呆然とするオルグに、ヒイラギが短刀を差し出した。 「もしかして、貴方ですかしら?」 ひたりと沙羅の目がヒイラギへ定められた。 「何のことでしょう」 「そちらの狼さん、得物ごと真っ二つにするつもりでしたのに。どうもうちの気が上手く練れていないようですわ」 沙羅はヒイラギへ太刀を差し向ける。突き付けられる刃をヒイラギは臆することなく静かに見つめ返している。 袖から出した小太刀で沙羅が己の丹田を一突きにした時、沙羅に仕掛けた異能阻害が消えたのをヒイラギは感じ取った。 小太刀を袖に戻した沙羅は、差し向けた太刀をそのまま動かし、空中に張られた鋼糸に触れた。 「こういう手口を見るに、暗殺者の方ですかしらね?」 沙羅が鋼糸を斬った瞬間、秘かに張り巡らせていた鋼糸が四方から沙羅に一斉に襲い掛ったが、その全てを一瞬で沙羅は斬り捨てていた。 その一瞬、ヒイラギは沙羅の背後へと転移し、沙羅の首へと短刀を突き出した。 しかし、短刀は沙羅の首には届かなかった。 「髪は女の命とも言いますのよ」 ヒイラギの左腕に蛇のように絡み付いた沙羅の黒髪の仕業であった。 「お見事。後一歩でしたわね」 そして、振り向きざまに沙羅はヒイラギの右肩を太刀で貫いた。 噴き出した鮮血がヒイラギの右肩を赤く染め上げた時、勢い良く扉を開けて健と弘和が駆け込んできた。 「あらあら、まだ元気な方がいらっしゃいましたのね」 嬉しそうに口元を歪める沙羅に、弘和がギアの名刺を投げつける。 沙羅の太刀が閃き名刺が両断された瞬間、名刺が爆発して沙羅の注意が逸れた。 その隙に、ヒイラギは貫通扉の側へと転移していた。 「あんた、大丈夫なの?」 「今すぐには死にませんが、右腕は使えないです」 話し掛けてきた蜘蛛の魔女に応えたヒイラギの声には苦痛が滲んでいた。 先に行きます、と言い置いてヒイラギは一人隣の車両へと向かった。 「選手交代ですかしら?」 「おおっと、俺は戦うつもりはない。あんたみたいな美人を見てたら目が潰れちゃいそうだからな」 沙羅から見えないように、さり気なく健は手を動かしている。 「戦うなら、目を瞑って、戦わなきゃいけないもんな!」 そう叫んだ健が閃光手榴弾を放り上げた。緩やかに放物線を描く物体を油断なく見つめていた沙羅の目は、炸裂した白い閃光に焼かれた。 一時的に視力を失った沙羅の目が回復する頃、同じ車両には既に誰もいなかった。 そして、爆音が響いて沙羅のいる車体が揺れた。 全員が隣の車両へと走り込んだのを確認して、健はすぐに連結部を爆破した。 ゆっくりと離れる後部車両を見届けてから、健は負傷者へと視線を向けた。 「どう見ても大丈夫じゃなさそうだけど。その腕、平気なのか?」 「心配するな。かすり傷だ」 「いやいやいや、どう見ても大怪我だろ!?」 斬り落された右腕を左手に持っていたアキの声は掠れて、呼吸は荒く顔色も青かったが、意識ははっきりとしていた。 ヒイラギは動く左手で、貫かれた右肩の処置しているようだったが、片手しか使えず処置に時間が掛っているようであった。 「竜刻を試してみましょう」 オルグから今までの経緯を聞いていた弘和は、竜刻を使えば沙羅による傷も治せるかもしれないと考え付いた。 「それなら、竜刻はどこにあ」 オルグの言葉に被るように、貫通扉に近い場所のロストレイルの窓が叩き割られた。 驚いた一同の目の前で、左右に並ぶいくつもの車窓から毒々しい緑色の触手がうねりながら入り込んできた。 「何よこれ、気持ち悪いわね!」 「ワームです!」 切り離した後部車両の上には、いつの間にかワームが陣取っており、その触手を伸ばしてこちらの車両を絡め取っている。 ギギギギッと耳障りな音を響かせて、じりじりと後部車両が近づいてくる。 「ヤバイ! 車両を引き寄せてるぞ!」 「放しなさいよ!!」 健の叫びを聞いた蜘蛛の魔女がギアの付け爪を伸ばして、近くの窓から入ってきている触手に突き刺した。 刺された触手は力を失くし窓の外へとずるりと落ちて行ったが、すぐにまた別の触手が入り込んでくる。 「ああもう! むかつわね!」 「来ます!」 全員の見ている前で扉に剣閃が走り、崩れる扉の向こう側から沙羅が現われた。 「先程ぶりです。乗り物を切り離して逃げる算段でしたのね」 ガシャンっと車両がぶつかり合った後、沙羅が太刀を構えたまま歩き出す。 「さあ、次はどうするのかしら?」 「おまえが退場して終わりだ!」 沙羅の前に立ったオルグが、翳した手に魔力を集めて蝕みの黒炎を放つ。 「では、これから最後の見せ場が始まるのですかしら」 微笑を浮かべながら沙羅は、一刀のもとに襲い来る黒い波動を斬り捨てた。 「まだまだぁ!」 オルグが次々と黒い波動を浴びせ掛けるが、その悉くを沙羅は斬り伏せてみせた。 「これなら」 オルグの両手から溢れる黒い波動が混ざり合い、一つの大きな塊へと変わる。 「どうだぁ!」 渦巻く黒い波動の塊を、オルグは沙羅へと撃ち出す。 「大きさが違うだけですわね」 動じることなく沙羅が黒い波動の塊を真っ二つにした時。 「混ざれ!」 オルグが両手を胸の前で打ち鳴らすと、二つに斬られた黒い塊が一つになろうと引き寄せられるように動いた。 そして、その動線上には沙羅がいる。 「あら面白い」 しかし、沙羅は素早く後へ飛びながら、黒い波動を横薙ぎの一閃で斬り捨てた。 その太刀を掻い潜り、何かが沙羅の首に飛び付いた。 「ぐっ!?」 沙羅の首に張り付いたそれは万力のような力で、沙羅の細首を絞め上げてきた。 「これぞ奥の手、ってな」 血の気のない顔にアキは壮絶な笑みを浮かべていた。沙羅の首を絞めているのは、斬り落されたアキの右手であった。 右手だけを念動力で操り動かし、沙羅へと襲い掛ったのであった。 沙羅はすぐさま小太刀を袖から取り出して、首を絞める右手に突き刺した。 動かしていたESPが霧散したアキの右手は、力を失って沙羅の首から放れて落ちてしまった。 「これはお返ししますわ!」 沙羅は噎せながらも、落ちたアキの右手を持ち主へと蹴り飛ばした。 「皆、目を閉じろ!」 健が手に持ったものを放り投げる。その声を聞いた沙羅は、すぐに着物の袂で目を隠した。 が、車内を満たしたものは白い閃光ではなく、白い煙であった。 「風の息吹よ!」 弘和の術で車内に風が起こり、勢い良く噴き出す煙が沙羅の方へと押し流される。 そして、煙に包まれた沙羅が目に涙を浮かべ激しく噎せ出した。 「おい、これって!?」 「催涙ガスだ」 「俺にはキツイだろ!」 催涙ガスに最も被害を受けるであろうオルグは、焦ったようにその場から離れた。 それに続いたヒイラギが、血が滴る右腕をそのままに通路の途中で立ち止まった。 「全員、私の後ろに」 有無を言わせぬ雰囲気のヒイラギに、何も聞けずに全員がヒイラギより先へ進んだ時、空気を裂いて車内に赤い線が閃き硬い音が響いた。 ヒイラギが右腕から溢れる血に濡れたギアの鋼糸を操り、車両のワームの触手に取り付かれている部分だけを切断したのだ。 そして、ワームと沙羅を乗せたまま白い煙の充満する車両の一部は、ディラックの空へと放り出された。 車内に漂う血の匂いで、オルグは竜刻の件を思い出した。 「そうだ。竜刻はどこにあるんだ?」 「それなら、あのテーブルの上です。何かに使えるかと持ってきておきました」 「あたし、依頼で竜刻全然見れなかったから、見てみたい」 小さな首飾りの装飾用の宝石として使用されていた竜刻の回収、それがそもそもの依頼であったのだ。 その竜刻を取りに行こうと、オルグ、弘和、蜘蛛の魔女と車両の先頭側へと向っていた時、弘和が足を止めて弾かれたように天井を見上げた。 そして、険しい顔で後部側へと慌てて青く染まった目を向けた。 「そんな!?」 ロストレイルの天井から何かが飛び乗ったような衝撃がして車両が揺れた。 「おい、何だ今のは?」 「ワームです! 触手を伸ばしてこの車両に飛び移ったんです!」 箱から竜刻を取り出したオルグが、緊張した声で弘和に尋ねた。 天井に剣閃が走り、斬り取られた天井の破片がワームの触手によって引き剥がされていく。 その穴から毒々しい緑色のワームを従えた沙羅が車内へと降り立った。 「なかなかに性質の悪いことをしてくれますわね」 目に涙を浮かべながらも掠れた声を出す沙羅の放つ気迫に、空気が一気に緊張を孕む。 半ばで切り落された車両の中、沙羅を挟んで先頭側、後部側でちょうどロストナンバーたちは分断された。 『沙羅の意識を一瞬だけ引き付けてくれ。その隙があれば、俺たちはそっちと合流できる』 アキのテレパシーで、アキの瞬間移動とヒイラギの空間転移で、先頭側と合流するという作戦が瞬時に沙羅以外の全員に伝わった。 それを理解したオルグが手に持った竜刻を掲げた。 「いい加減にしろ! しつこい女は嫌われるぜ!」 オルグが竜刻に己の魔力を通し、蝕みの黒炎を放とうとしたが。 「うぉ!?」 竜刻を通った魔力は、オルグが意識したよりも遥かに強大に膨れ上がった。 黒い波動が激流のように渦を巻き沙羅へと襲い掛る。 しかし、沙羅が斬り捨てようと太刀を構えた目の前で、黒い激流が急に向きを変えロストレイルを突き破って車外へと流れて行った。 「何してんのよ、下手くそ!!」 「なんだこりゃ、コントロールできねぇ!?」 オルグの持つ竜刻から幾筋もの黒い波動が迸っている。 暴走する魔法が猛り狂う竜の如く駆け巡り、あらゆるものを黒い炎で包んでいく。 「うわ、服が焦げた!?」 「あの女だけ燃やしなさいよ!」 「うるせー! できるならやってる!!」 健や蜘蛛の魔女の悲鳴に、オルグも焦った声を出す。 オルグが制御しようと必死になっている間にも、竜刻からどんどんと魔力が湧き上がっている。 「ラルヴァローグさん、こっちです!」 床に伏せている弘和が、誰もいない車両の先頭側を指差した。 「おりゃああ!」 オルグは暴走している蝕みの黒炎を、全身全霊で抑え付けて誰もいない貫通扉の側にどうにか集めて解放した。 強烈な衝撃と轟音が広がり、全員のいる車両の先頭側から隣の車体の一部まで一気に吹き飛んでいた。 そして、一同の耳に何かが引き千切れる音が聞こえ出した。 不吉な音のする方を見た弘和が悲鳴を上げた。 「れ、連結部が外れかかってます!?」 今いる車両と隣の車両を繋ぐ連結部が、さきほどの魔法の暴発に巻き込まれ外れ掛っていたのだった。 その事態に沙羅の注意が逸れた瞬間、サラの意識をテレパシーで監視していたアキが動いた。 『飛ぶぞ!』 アキが側にいる健を引き連れて瞬間移動するのと、ほぼ同時にヒイラギも転移する。 そして、随分と見晴らしの良くなってしまった扉付近に三人は出現する。 『やれ! 狙おうなんてしないで、全て燃やしちまえ!』 アキのテレパシーがオルグの心に響く。 誰も巻き込む心配が無くなったオルグは、竜刻に全力で魔力を注ぎ込んだ。 「アンコールは無しだ!」 狙うも何もないほどの巨大な奔流にまでオルグの魔力は膨れ上がり、竜刻から迸る蝕みの黒炎を荒れ狂わせる。 鋭い気合いを込めて放った沙羅の一撃が、黒い激流を斬り裂こうと迎え撃った。 しかし、圧倒的な黒い波動は、沙羅の放った剣閃に一瞬勢いを弱めただけであった。 次の瞬間には、全てが呑み込まれ黒く塗り潰されていた。そして、黒い業火が逆巻き燃え上がった。 その光景を固唾を飲んで見守る一同の耳に、連結部が弾け飛ぶ音が届いた。 「ヤバイ、置いて行かれる!?」 離れ出した先頭側の車両を見た健が叫ぶと、最初に動いたのは蜘蛛の魔女であった。 「それ貸して!!」 蜘蛛の魔女がオルグの持つ竜刻を奪うと、ぽいっと口に放り込んで飲み込んだ。 驚く面々の前で、彼女の特徴とも言える8本の蜘蛛の脚が、水晶のように輝き出した。 その脚から輝く糸を飛ばし、離れていく車両を捕え、その糸をそのままこちらの車両に貼り付ける。 残りの脚からもすぐさま糸を出して、繋いだ糸を見る見るうちに太くする。そして、それを伝って、蜘蛛の魔女は隣の車両へと素早く辿り着いた。 「感謝しなさいよ! 私がいなかったら、あんたたち全員お陀仏だったんだからね!」 蜘蛛の魔女が輝く糸を飛ばして、立ち上がっていた弘和を絡め取り釣り上げた。 「えぇー!?」 悲鳴を残しながら弘和は、隣の車両へと放り投げ出された。 蜘蛛の魔女が作った車両を繋ぐ糸が、みちみちと音を立てて少しづつだが千切れ出している。 「おいおい、糸がもう千切れ出してるぞ!?」 「解ってるわよ!」 次に釣り上げられたのは健であった。そして、絶叫マシンのような視界の中で、残る三人の後ろにある黒い炎から何かが出てきたのが見えた。 「後ろぉ!!」 急に叫び声を上げた健に、瞬時に三人は振りかえった。 そこに見えたのは、緑色のワームに包まれていた沙羅であった。 「肝を冷やしましたわ。うちだけでは危なかったですもの」 ぴっと線が入ると、ワームは沙羅の足下へと綺麗に流れ落ちた。 『糸を外せ。それに合せて、三人で外へ飛び出す。拾ってくれ』 沙羅を睨みつけているアキからのテレパシーが沙羅以外の全員に伝わる。 「楽しませてもらいましたけれど、そろそろ終わりにしましょうか」 「アンコールはなし、だからな」 『今から3秒だ。3、2、1』 沙羅と話しながらオルグは気付かれないように踵を上げた。 『0!』 蜘蛛の魔女が車両を繋いでいた糸を切った瞬間、大きく揺れた車体に合せてオルグとアキは車外へと飛びだした。 「ヒイラギ!?」 蜘蛛の魔女の糸に絡め取られたオルグは、一人残った人物の名前を叫んでいた。 「一人残って、仲間を逃がす心意気。美しい自己犠牲と言ったところですかしら?」 二人が飛び出すと同時にヒイラギは鋼糸を繰り出し、沙羅の注意を引き付けて二人が飛び出す隙を作っていた。 しかし、それはヒイラギが逃げる機会を失うことを意味していた。 「いいえ。全員の逃走を成功させる可能性が最も高い手段を選んだだけす」 「貴方以外の全員ですかしら?」 「いいえ。私もですよ」 突然、ヒイラギが沙羅から視線を外して、離れて行く車両へと顔を向けた。 無謀とも言えるその行動にヒイラギの思惑に気付いた沙羅が、神速の一撃を振う目の前でヒイラギの姿は掻き消えていた。 「……手応えはありましてよ」 沙羅は悔しげに唇を噛んだ。 「あいつ、何考えて!」 絡み付いた糸を解いて立ち上がったオルグが様子を見ようと後部車両を振り返れば、蜘蛛の魔女とオルグの間にヒイラギが転移してきた。 「やったな、よく無事で!」 「彼女、本当、冗談みたいな強さ、です、ね……」 しかし、喜ぶオルグの目の前で、ヒイラギはうつ伏せに崩れ落ちた。 そして、倒れたヒイラギの体の下からじわじわと鮮血が床に広がり始める。 「大丈夫か?!」 倒れたヒイギラに駆け寄った健が慎重にその体を引っくり返せば、ヒイラギの服はべっとりと血で赤く染まっている。 斬り裂かれた服の隙間から鮮やかな斬り傷が見え、そこから溢れ出るヒイラギの血はどんどん広がり、健の服まで赤く染めていく。 「おい、竜刻貸せ!」 「ちょっと待ってよ!」 自分の腹を何度か軽く叩きながら、蜘蛛の魔女は片手で口を塞いだ。 「ほら!」 蜘蛛の魔女が投げた竜刻をオルグはすぐに受け取った。 「濡れてる。……何か拭くもの持ってないか?」 「ほら、貸せよ。ハンカチはないけど、俺の服で拭くから」 「どういう意味よ! 失礼じゃないの?!」 『何か飛んで来るぞ!』 車体の一部が吹き飛んだせいで見通しの良くなっている車両の床に座り込み、後方を警戒していたアキのテレパシーが全員に響いた。 「ワームです!」 すぐに弘和がその正体を見極めて叫んだ。 「ふん、そんなのあたしの糸で撃ち落としてやるわよ!」 意気込んだ蜘蛛の魔女が車両の端まで進んで、未だに竜刻の影響で水晶のように輝く蜘蛛の脚を掲げた。 それがオルグの目に入ったのは、偶然だった。 爪ほどの大きさにまで離れて行った後部車両で何かが光って見えたのだった。 「危ねぇ!」 それが何か気が付いたオルグは抱き込むようにして蜘蛛の魔女を庇っていた。 「ぐっ!?」 呻き声を上げたオルグは、そのまま蜘蛛の魔女を抱き込んで倒れた。 「ちょ、ちょっと、いきなり何すんのよ!? どきなさいよ!」 押し倒されたとしか思えない蜘蛛の魔女が、自分より二回り以上も大きいオルグを押し退けようと動かしていた手に暖かいものが触れた。 驚いて見つめた彼女の両手は真っ赤な血に染まっていた。 「何これ!?」 『沙羅だ。あの女が飛ばした気に斬られたんだ』 「やだ、私を庇って勝手に死なないでよ!?」 「触手が!」 悲鳴のような弘和の声にアキが顔を上げれば、細い緑の触手がディラックの空を渡り迫って来る。 (やるしかない) アキは覚悟を決めて意識を集中した。 こんな調子の体で、どれだけの時間を止められるか、いや、そもそも時間を止められるのか。 強大なESPを発動させようとするアキの意志に反対して、傷ついた体が悲鳴を上げ出す。 脈打つ心臓に合せて、頭や腕で意識が飛びそうになる激痛が生まれる。ヒイラギに塞いでもらった右腕の傷から血が溢れ出した。 しかし、それでもアキはさらに意識を深く集中させていく。 途切れそうになる意識をどうにか繋ぎ止めながら、強靭な精神で一つのイメージを必死に作り上げる。 「止まれ」 作り上げたESP能力を、アキは薄れる意識を振り絞って無理やり発動させた。 アキの体からESP能力が一気に膨れ上がると、迫り来る触手がまるで時間を止められたかのように停止していた。 しかし、それを見届けることなく、アキは意識を手放していた。 動きが止まっていた時間はほんの数秒であったが、その数秒がロストレイルの命運を分けた。 その数秒間でロストレイルの稼いだ距離が、再び動き出した触手の届く範囲からロストレイルを逃がしていたのだった。 「い、今、まさか時間を止めたんですか?」 呆然としている弘和の見ている前で、アキの体がゆっくりと傾いて床へと転がった。 「ニエメラさん!」 倒れたアキの顔は真っ青であり呼吸も弱かった。そして、右腕の切断面からはまた血がじわじわと流れ出していた。 「お、おい、どうすんだ!?」 「とにかく止血だけでも! 世界図書館にはターミナルに救護スタッフを待機させるようにノートで連絡してあります!」 「あんた、どうにかできないの!」 「無理ですよ!? 多少の傷ならともかく、こんな大怪我!」 「竜刻があるだろ!」 「制御できない力なんて、当てにしたら危険でしょう!?」 「うだうだ言わずにやりなさいよ! 頭から丸かじりにするわよ!」 世界樹旅団の襲撃は退けることに成功した。しかし、その代償は決して軽いものではなかった。 ディラックの空をロストレイルが全速で駆け抜ける。普段なら何とも思わないその速度が、今はとても遅く感じてしまう。
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