リィーン……。鈴の音が聞こえた気がして、囚人はぼんやりと目を開いた。「そうか。海神祭か……」 リィーン……。氷を穿つような音が漂ってくる。 囚人――『海賊王子』ロミオは固い寝台の上で体を起こした。深夜の監獄を照らし上げるのは頼りない燭台ばかりだ。こちら側とあちら側を隔てる鉄格子は硬く、ひんやりとしている。「……ちくしょう」 格子を握り締め、呻く。「傷ならとっくに治ったぜ。処刑するならするで、とっととやりゃあいいだろうに」 海賊は打ち首だ。海で死ねぬのは口惜しいが、牢屋に繋がれたまま生きるよりはましだとすら思い始めていた。 犯罪者として捕縛され、ジャンクへヴンの沖合に位置するこの小島に収監されたのはいつのことだったか。監獄要塞とでも呼ぶべきこの島は自分にはお似合いだと自嘲したものだ。しかし不思議なことに、沙汰が下る気配すらないまま時が流れた。無為な、塩漬けにされたような日々が過ぎていった。「……ま、死ぬ気なんかないけどな」 垢で黒ずんだ顔の中、目だけが静かに光っている。 リィーン……。リィーン……。「…………?」 ロミオはわずかに眉を寄せた。 鈴の音が近付いてくる。こつりこつりと通路を打つのは靴音だろうか。「誰かいるのか」 いらえはない。定期巡回ではないのか。 ゆらり――と、鉄格子の外の壁が揺れた気がした。揺れたのは影であった。燭台によって照らされた影が、魔物のようにたゆたっている。「ご機嫌はいかがかな、囚われの王子」 現れたのは暗闇のような人影だった。その顔を覆う不気味な仮面にロミオは小さく息を呑む。心中を察したのか、訪問者はうっそりと笑った。「左様。私はジャコビニ。『亡霊船長』だ」 リィーン……。ジャコビニの手の中で、小さな土鈴が揺れている。「……何しにきやがった」「おまえを迎えに来たのだ」 ロミオの眉が跳ね上がる。その瞬間を狙い澄ましたようにジャコビニが何かを投げてよこした。鎖のちぎれたコンパス――捕まる前のロミオが愛用していた物だった。「私とともに来るがいい。おまえには水先案内人を務めてもらう。今は亡き、大海賊王の眠る海への……な」 リィーン……。 鈴の音が聞こえた気がしてロミオは目を開いた。 苔の生えた天井。鉄格子。その向こうの壁では燭台の炎が揺れている。(夢でも見たのか?) リィーン……。どこかで鈴が鳴っている。 リィーン……。別の場所で、呼応するように鈴が響く。 やがて、鈴の音は性急な足音に取って代わった。「王子!」 現れたのは土鈴と武器を手にした男たちだった。ロミオは目を疑った。彼らのなりは何だ。襤褸雑巾のような着衣に、垢と埃で汚れた顔。得物はよく磨かれているが、それを握る手つきはあまりに覚束ない。 彼らは口々に、咳込むように言い立てた。「あなたを助けに来た」「ジャンクへヴンは何もしてくれない。俺たちを助けてくれたのはあんただ」「逃げよう。逃げてくれ。こんな所でくすぶってちゃ駄目だ!」「何? おまえら、一体――」 言いかけて、ロミオは目を見開いた。 足下に、鎖のないコンパスが転がっている。 時に静かに、時に賑やかに海神祭の夜は更けていく。そんな中、シド・ビスタークが数人のロストナンバーを呼び集めたことを知る者は少なかった。「慰安旅行中に仕事なんざ……とも言ってられん状況でな」 シドは軽く肩を揺すって導きの書を開いた。「ロミオを覚えてるか? ずっと前に捕まえてもらった、市民から義賊と呼ばれてた海賊だ。捕まった後、ジャンクヘヴン沖の監獄に長いこと入れられたままだったんだが――」 ロミオに心酔する貧民たちが武器を手に蜂起し、彼を逃がそうとしているというのだ。 どうやらジャンクへヴンはロミオの扱いに苦慮していたらしい。処刑するのが筋ではあるが、ロミオを支持する市民も多いためにずるずると日が過ぎてしまっていた。おまけに海賊王の秘宝の手掛かりをロミオが握っていることが判明し、処遇は紛糾した。海賊王の秘宝こそ、ジェロームが追い求め、前館長エドマンドが探していた『沈没大陸』の遺産なのだ。「それはそうと、おかしいと思わないか? 食うや食わずの貧しい連中がどうやって得物を調達したんだ。おまけに、素人がロミオの所まで簡単に辿り着けたというのもな……」 祭りを楽しんでこいという上層部の計らいで兵士の多くが非番とされており、平素より警備が薄かった。だが、その点を差し引いても不自然さは拭えない。「連中、合図の代わりに鈴を使ってるらしい。鈴を鳴らすのが海神祭のならわしだからな、頭の回ることだ。……お前らも見かけたかも知れんが、各都市の要人がジャンクヘヴンにわんさと集まってる。海軍はそっちの警護で手いっぱいだ。それに、騒ぎを大きくして要人たちに恥を晒すわけにもいかないんだろう。よって少数精鋭のお前らに内々に……というわけさ」 リィーン……。リィーン……。 規則的に交わされる鈴の音を背に聞き、船上のジャコビニはジャンクヘヴンを睨み据えていた。空で輝くのが星ならば、海で煌めくのはジャンクヘヴンだ。「……呪われよ」 唾棄するような言葉を聞いたのは潮騒だけであろう。 一方、秘宝を狙う者は他にもいた。「だって、お宝を欲しがらない海賊なんていないでしょう?」 赤毛の魔女・フランチェスカもまたジャンクヘヴン近海へ斥候を派遣していた。「長いこと退屈だったけど……生きてたのね、あの坊や。いい? わたしは面白い事が大好きよ。だけど厄介事は大嫌い。――分かるわね?」 真っ赤な唇を閃かせ、魔女は鮮やかに、艶やかに笑った。
ロストナンバー達が散っていく中、シドの前で野良犬のような目が光った。 「司書サンよ。頼みがあんだけど」 グレイズ・トッドである。浮浪児そのものといった姿の彼はいつにもまして不機嫌だった。 「……そりゃ構わんが」 提案を聞いたシドはわずかに眉を動かした。 「人間嫌いのお前が人に頼みごとか?」 「このナリで相手にしてくれる大人がいるかよ」 「それはそうかも知れんが。まさかどっちかに肩入れしてるってわけでも――」 グレイズの舌打ちがシドを黙らせた。 (誰にも肩入れする気なんかねぇ) この世界やロミオがどうなろうと知ったことではない。ただ、羅針盤がどこを指すのか見てみたいだけだ。 船に乗り込んで監獄島を目指したのは三人だった。 「相変わらずですこと」 船上で、レナ・フォルトゥスは呆れ顔を作った。 「ずいぶん準備がいいんじゃない? 元々、お祭りのために来たっていうのに」 「異世界に行く時は大抵持ち歩いてるぜ」 坂上健が不敵な笑みで応じた。夜風に翻る白衣の下には数個の手榴弾。おまけに催涙や催眠のスプレー、ガスマスクも仕込まれている。軍靴はもちろん鉄板入りだ。 「攻撃力に欠けるんじゃないか」 ムジカ・アンジェロが口を挟む。健は唇を真一文字に引き結んだ。 「……だって怪我させたくないだろ」 押し出すような声音にムジカは軽く瞬きをした。 夜空よりなお暗い海が街の灯を弾いて煌めいている。緩やかにうねりながら沖へと続く様はまるで天の川だ。 だが、光の帯は徐々に先細っていく。船が進む先には暗闇に沈む監獄島が口を開けている。黒々とわだかまるそれは病巣か何かのようですらあった。 「この前捕まえたところなのに」 逃がさないわよ。不急の一言を胸の底に沈め、レナはコンダクター二人を探るように一瞥した。 「ところで、綾は何をするつもりなのかしら」 「さあ……彼女には彼女の考えがあるんじゃないのか? おれにおれの意志があるように――」 珊瑚色の髪を夜風になぶらせるムジカは心地良さそうに目を細めるばかりだ。 リィーン……。リィーン……。鈴の音が重なりながら近付いている。ムジカの耳は、既に一定の音程と間隔を聴き分けていた。 時を同じくして、日和坂綾は別の地点を――恐らく誰もが予想しなかった場所を――目指していた。 (あーっ馬鹿馬鹿馬鹿、私の馬鹿! なんでちゃんと覚えてこなかったのかなあ!?) 唇の端から血が流れた。悔しさのあまり噛み締めた歯が皮を突き破ったのだ。金臭い味に背筋が粟立ち、興奮じみた寒気を押し殺しすようにジャージの袖で口元を拭った。ジャージの色もまた赤だ。 ブルーインブルー、特に海賊絡みの依頼報告書は舐めるように目を通している。とある海賊の首領と会談したロストナンバー達が彼の屋敷の見取り図を報告していたことは記憶に新しい。しかし今回はそもそも海神祭のために訪れており、シドからの依頼はいわば不測の事態である。前もって屋敷の構造をおさらいてきたわけがなかった。 「うー、ぐだぐだ言っててもしょーがない! 何とかするしかないもんね」 己の頬を叩く綾をフォックスフォームのセクタンが見つめている。 相手は商人だ。商人が応じるのはギブアンドテイクの商談だけだ。綾ならば皆にあまり迷惑をかけずに彼に売れる情報を持っている……。 屋敷に入るルートはいくつかある。綾が選んだのは岩場の、洞窟側に口を開けている入口だった。番兵に見つからぬように物陰に息を潜めている自分に気付いて、深呼吸した。忍び込むわけではない。あくまで訪問と交渉が目的なのだ。 しかし相手の認識は違う。予期せぬ来客は侵入者と同義だ。 入口ばかりを気にする綾は背後に近付く人影に気付かなかった。 「誰だ」 「――――――!」 首筋に冷たい刃を押し当てられ、綾の呼吸が止まった。 島の外周をオウルフォームのセクタンが巡回している。健が放ったポッポだ。 「さて……やりますか。ブリンク!」 星杖・グランドクロスが一閃し、レナの姿が残像のように揺れる。と思ったら、あっという間に四体の分身が現れて島の奥へと散って行った。 「首謀者が誰であろうと、思い通りにさせるわけにはいかないわ」 「海賊三巨頭って言ったらジェローム、ガルタンロック、ジャコビニだろ。んでロミオは誰もが欲しそうな情報を持ってる。俺はガルタンロックがお膳立てしたんじゃねえかと思うが……その後のお粗末さがなあ……」 レナと共に上陸した健はしきりに首を傾げていた。ロミオを脱獄させたいのならやり方はいくらでもあった筈だ。これではいたずらに騒ぎを起こしたような印象さえ受ける。 「俺とレナはロミオのツラ知ってるよな。現場百遍、ロミオの独房見に行かねえ?」 「そんな暇はなさそうよ」 レナの真っ赤な瞳は油断なく暗闇を見据えている。別行動を取ったムジカの歌声がどこからともなく漂ってくるのだ。 「迅速に見つけ出しましょう」 「ああ」 健はガスマスクを装着してレナに続いた。 リィーン……。リィーン……。鈴の音が絶えず響いている。時折混じるギターの音色はムジカのトラベルギアだろうか。子守唄のように穏やかな旋律に心が弛緩しそうになる。 「畜生、鈴の音が何個も混じってやがる。どれがどれだか」 健はもどかしげに舌打ちした。恐らく、無関係な一般市民も海神祭のために鈴を鳴らしているのだろう。 その時だ。 「――――――!」 視界を黒い影が掠める。星杖をさっと振り上げたレナははたと動きを止めた。 両手を上げて現れたのはグレイズだった。 「いつの間に着いたの?」 「さっき、別の船で」 グレイズは相変わらず無愛想だった。そのまま、野犬のように走り出す。行き先が分かっているかのような足取りに健は慌てて後を追った。 「分かるのか?」 グレイズは健に一瞥を返しただけだった。ハーモニカとは異なるものの、音程やリズムの違いくらい聞き分けられる。鈴鳴る夜にどうやって鈴で連絡を取り合うのかと訝しがっていたが、耳を澄ませばからくりは簡単だった。 リィーン……。リィーン……。鈴の音が近付く。暗闇が濃くなる。 「下がれ!」 健が雄叫びと共に手榴弾のピンを引き抜いた。 次の瞬間、激しい光が暗闇を焼いた。閃光弾だ。レナが咄嗟に星杖を振るってバリアを張ったが、眼球を刺す気体にグレイズの膝がぐらついた。催涙弾も放たれたらしい。 「健。使いどころを考えて」 レナの言葉尻が厳しくなる。健は「悪い」と詫びながら地面を蹴り、次々とトンファーを振るった。鈍い打撃音が響き、武器を握った貧民たちが突っ伏していく。健は気絶した彼らの手から素早く武器を剥がし、荒縄で最低限の拘束を施した。逃走経路で待機していた人員なのだろうか、ロミオの姿は見当たらない。 「レナ、さっきの分身呼んでくれねえか? こいつら運んでほしいんだけど」 「いいわよ。そろそろ仕掛けも済んだようだし……あら」 分身と視覚を共有するレナは唐突に、鮮やかに笑った。 「早速始まった」 貧民が土蜘蛛の糸に絡め取られる。獏に似た草食獣に眠らされる。地雷を踏み抜き、殺傷力のない爆発に巻き込まれる。 それらの光景全てが、島内に放ったフクロウ型セクタンの視覚を通してムジカの脳裏に流れ込んでくるのだ。 「魔導師の彼女のトラップかな」 ムジカは細いサングラスをずらし、緑色の目で虚空を探った。その間にも別の場所で閃光が炸裂している。 見張りや兵士たちをトラベルギアで眠らせながら進み、やがて小さな市街地へと到達した。監獄職員の居住区だろう。規則的な鈴の音は街の向こう側からも聞こえてくる。珊瑚色の髪を金髪のウィッグに押し込み、薄い外套で着衣を隠したムジカは堂々と街中に踏み込んだ。 ちょっとした歓楽通りなのだろうか、深夜だというのに人通りは絶えない。細いサングラスを時折ずらし、緑色の目で『音』を探る。あちこちで鳴る鈴。人々の他愛ない世間話。着飾った女たちの流し目に肩をすくめてみせ、熱帯魚のような軽やかさで人波を渡っていく。 (王子のことは話題にも上らない……か) ひとしきり人々の会話を探った後で小さく息をついた。ロミオが収監されてからあまりにも時間が経ち過ぎている。 「さて……裏で誰が糸を引いているのか、目的は何なのか」 わざと声に出して呟き、周囲の気配に耳を澄ます。 かすかに肌を打つ空気の揺れ。 「ともあれ、次代の海賊王を見たくはないか。だって、ほら――」 ムジカは得たりとばかりに笑った。 「“楽しそう”だろう?」 視界の端で、人影がさっと身を翻した。 「いきなり訪ねて来て旦那に会わせろって? いくら何でも無理があるってもんだ。無謀というか、非常識というか」 「う~っ」 アンドレイ・ロゥの前で、綾は顔を真っ赤にした。背後には逃げ場を塞ぐように傭兵たちが控えている。 「非常識なんて、海賊に言われたくない!」 「そりゃそうだ」 アンドレイは飄々と肩をすくめたが、次の瞬間には警戒の色を目に浮かべた。 「で? 旦那に伝えるかどうかは用件次第ってことでいいか?」 冷えた視線に、綾の頭からすとんと血の気が下りた。 ガルタンロックの城の、岩場側の入り口。その傍に佇む傭兵小屋に綾は押し込められていた。普段の綾なら蹴り倒してやるところだが、今夜は戦いが目的ではない。城に入らねば意味がないのだ。 「だから――」 綾は気を取り直すように深呼吸した。 「個人的な依頼に来たんだ。私、この前ここにイライザの絵を預けていった傭兵団の仲間なの。あの四人を顧客と見做したなら、私もそうして貰える筈だよ。キミだって私のこと覚えてるでしょ?」 アンドレイとは過去の海上拠点防衛の際に戦っている。 「相変わらずだねえ、お嬢ちゃん。こちとら海賊だ、人を迂闊に信用するほどお人よしじゃないのさ」 「商売するにはお互いの信頼が大事だって言ってたのはガルタンロックじゃん」 「残念。旦那は今夜は不在なんだ」 「う~っ……」 十中八九嘘だと知りつつ、唸るしかなかった。直球型の綾では分が悪い。 この作戦がロミオ捕縛の役には立たないし、邪魔にさえなり得ることは理解している。それでも綾はここに来た。海賊王子に賭けた――否、賭けたかった。 「海賊王子の脱獄は知ってる?」 綾はあくまでも直球勝負だった。アンドレイは「へえ?」と素っ頓狂な声を上げ、傭兵たちがざわついた。演技とも思えぬ反応に綾はわずかに狼狽した。脱獄劇の真の黒幕はガルタンロックではなかったのか。 「と……とにかく、依頼は二つ。一つ目、王子の脱獄に手を貸した貧民たちが罪にならないよう手を回して欲しい。二つ目、これから二十日間、王子の身柄をキミ以外の海賊と官憲が手出しできないようにして欲しい」 「……こっちにうまみはあるのか?」 アンドレイの目つきが変わった。 「商人でしょ? うまみがあるかどうかはそっちで判断すれば良くない? でもさ――」 綾は不敵な笑みと共に手札を切る。 「もちろんタダでなんて言わないよ。ちゃんと対価は用意してあるから」 島の裏口に当たる入り江の影で不審な船を見つけたのは健のセクタン・ポッポだった。貧民たちが使っていた船ではないかと健は読み、そこから先はあっという間に事が運んだ。船内に残っていた見張りをレナの魔法が眠らせ、気絶させて武装解除した貧民たちを皆で素早く運び込んだのだ。 「もうしばらく眠っててくれ」 健はもやい綱を断ち切り、船を沖へ――つまり、安全な場所へと――流した。黒い海面をゆらゆらと滑っていく船をグレイズの金眼が見据えている。彼ら貧民はこれで何かを変えられるだろうか。 「後はロミオと、ロミオと一緒に行動してる連中だけか」 「そうね。黒幕が出張ってこないとも限らないし」 鈴の音は先刻から途絶えている。仲間がやられたことを悟ったのだろうか。 「あの船を使う気だったならここに来る筈だが……」 健はガスマスクを脱ぎ捨て、ポッポからの視覚情報に神経を集中させている。 先に気配を感じたのはレナだった。 「……来たわ」 真っ赤な髪の中から二匹のイタチが踊り出る。 「頼むわよ、フォルテ、ピアノ!」 星杖・グランドクロスが、一閃。二匹のイタチは瞬く間に巨大化し、防砂林の中へと飛び込んでいく。 騒乱が始まった。 怒号、悲鳴。がちゃがちゃと、ぶきっちょな金属音が響き渡る。恐慌を起こしたように鈴が叫ぶ。 そして――暗闇に惑う、くすんだ赤のバンダナ。 「待ってくれ」 更に星杖を振るおうとしたレナの腕を健が掴んだ。 「ロミオに言いたいことがあるんだ。……頼む」 レナの眉が峻烈に跳ね上がった。 「何をするつもり。あたしはロミオを捕まえに来たの」 「分かってる。俺だって同じだ」 健の目は静かに燃えている。 「……状況によっては横槍を入れるわよ」 「ああ。俺ごと魔法で吹っ飛ばしてくれ」 「センスのいい冗談ね」 「だって、ロミオを殺すような魔法をかける気はねえだろ?」 口調はぶっきらぼうだが、健なりの信頼の形だった。 (お出ましか) 少し離れた茂みの中でグレイズの金眼がちかりと瞬く。戦闘に巻き込まれる気はない。 いぶり出されるようにしてロミオ一行が飛び出してきた。彼を守るようにサーベルを握った貧民が四人。レナの魔法が彼らに眠りを与え、王子はあっという間に孤立した。 「よお。帰りの船は流したぜ」 「……おまえは」 「覚えてるか? お前を捕まえたのは俺だ」 健は不敵に、しかし凛と背筋を伸ばした。ロミオが息を呑む気配が伝わる。垢と汗と土埃で真っ黒になったロミオの身なりは今や貧民と変わりない。 「俺は怒ってるんだよ。現実的な力を持たねえで理想だけ垂れ流すお前はただの毒だ。あげく、罪のないこの人たちに危険な橋を渡らせた」 「何だと」 ロミオが声を荒げる。魂までは腐っていないということか。 「何も感じねえのか、<海賊王子>」 健は砂浜に転がる貧民を指した。 「この人たちはお前を助けようと必死だ。過去のお前だって苦しむ人たちを助けたいとか抜かしてたじゃねえか。それが今じゃこのザマだろ。この現実をどう説明する?」 手製の縦笛袋からトンファーを抜き放つ。 「俺が守りたいのはああいう人たちなんだよ。お前があの人たちの毒であり続けるなら、お前の情報なんていらねえ。今ここでぶっ殺す!」 砂を蹴り、ロミオの返答を待たずに躍りかかった。 ぎいいん。不快な金属音が飛び散る。貧民たちから手渡されたのか、ロミオもサーベルを手にしていた。しかし所詮付け焼刃だ。 「借り物の武器か。助けてえ人たちに対しておんぶにだっこかよ」 「な、に」 「牢屋抜け出して、その後はどうするつもりだ。再起のために他の海賊の下につこうってのか!」 健の咆哮は止まらない。憤怒と比例するように、トンファーの唸りがボルテージを上げる。気迫に押され、ロミオの片膝がぐらつく。 「トンファーは近接最強なんだよ!」 がきいいいん! 手首を襲う、骨まで痺れるような衝撃。健は呻いた。飛び散る火花は目を焼くように青白い。 「……ふざけるなよ」 トンファーの下でロミオの目が光っている。砂に片膝をついたロミオは、サーベルを横にしてトンファーをがっちりと受け止めていた。 「オレは誰の下にもつかない」 ぎいいいん。立ち上がる勢いで、サーベルの刃がトンファーを跳ね上げる。気迫の乗った一撃に健は思わず息を呑む。 「オレに理想ばかりで力がなかったのはその通りだ。そのせいで大勢に迷惑をかけたことも。来る日も来る日も牢屋の中で考えた」 サーベルが閃く。今度はロミオが押し始めている。 「だから、これから『力』を手に入れに行くつもりだ。そのためなら秘宝だって何だって手に入れてやらあ。邪魔をするな!」 「そうはいくか! 俺は依頼で――」 「彼を捕まえろと司書は言ったか?」 不意に涼風に似た声が吹き込んだ。 ざざざざざ! 一陣の、不穏な風が吹き抜ける。 「させませんわ」 レナが瞬時に魔法を発動させた。黒雲が起こり、闖入者を追う。麻痺効果のある雲に絡みつかれた数人がばたばたと倒れていく。ほんの一瞬のことだった。だが、隙としては充分だった。 「彼の心は美しい。しがらみに囚われない場所へ――」 歌うような口上。麻痺雲をかいくぐり、金髪の男が健の前に割って入る。咄嗟に伸ばした健の手が男の髪をずり落とす。ウィッグだ。下に隠れていた髪は、珊瑚色。 「さあ、自由な海へ」 風のように現れたムジカが、あっという間にロミオをさらってしまった。 「しがらみに囚われるな、ですって?」 危惧していた通りの事態にレナは舌打ちした。 「感情と綺麗事で秩序を乱すわけにはいかない。追うわよ健!」 魔王が暴れる世界の住人だった彼女にとっては当然の帰結だ。だが、健は「待て」と鋭く声を上げた。 「こいつら、何モンだ?」 健が指した先には麻痺雲で倒れた連中が転がっている。上等な着衣といい、腕の筋肉の張りといい、貧民とは思えぬ姿だ。 グレイズはロミオとムジカを目で追い、砂浜に残された貧民たちに駆け寄った。 「おい。起きろ」 肩を揺さぶり、頬を軽く叩く。魔法の効果か、貧民は虚ろな目を向けてよこしただけだった。 「てめぇら、この武器はどこから手に入れた」 「仲間……が。持って、きた」 「ちっ。そいつはどうやって手に入れてきたんだよ」 「知らない……知らない、男から。仮面の」 「仮面? ……まあいい。この先どうすんだ? さらわれたぜ、てめぇらの王子サマ。王子頼りじゃなくてめぇらで切り開いてく覚悟はあんのか?」 グレイズの視線は刺すように辛辣だった。虐げられ続けたストリートチルドレンだからこそ、厳しかった。 「……き、ぼう」 垢と土埃で真っ黒になった頬を涙が伝う。 「あの人は、俺たちの、希望……なんだ」 その言葉を最後に、貧民は再び昏睡に落ちた。 「……答えになってねえぜ」 グレイズは唇を歪め、ムジカ達の追跡を開始した。 「う~っ。肩がこってきたんだけど……」 「動かないで」 「ご、ごめん」 絵描きから注意が飛び、綾は慌てて姿勢を正す。椅子に座らせた綾の姿をスケッチする絵描きの手元をアンドレイがじっと見守っている。 『キミも見てたでしょ。ジェロームの旗を燃やしたのは私。あの時あそこにいたジェロームの手下、レオニダスって言ったっけ。あのヒトは私の絵姿を言い値で買うと思うよ?』 それが綾の用意した『対価』だった。ブルーインブルーの人間であるレオニダスは綾の姿をつぶさに思い出すことはできない筈だし、アンドレイとて同じことである。 『ハハッ。王子のために自分を売るってか? うちがお嬢ちゃんを買ったらおたくらと敵対してしまうな』 『売るのはあくまで絵だけだよ。私を直接売るんじゃなきゃウチの傭兵団とは敵対しない』 『俺はお嬢ちゃんの姿を覚えてるがね』 『私が帰った後でリアルな人相書きを描ける? ――ウチ絡みの客、欲しかったんでしょ?』 綾の提案を受け、アンドレイは城内の召使の中から絵心のある者を選んで連れてきたのだった。 「……分かんないねえ」 アンドレイはくしゃりと髪を掻いた。 「どうしてそこまでこだわるんだ?」 「海を独占するヤツは嫌い」 綾の答えはどこまでも明快だ。 「海賊王子がただの海賊になるなら討つ。だから見極めたいんだ。本当に、本物の義賊になるのかどうか」 まっすぐにアンドレイを、あるいは、彼の後ろに広がっているであろう景色を見つめていた。 暗闇が墨色から深海色へと変わる。じきに夜が明ける。 「どうしてオレを」 「ん? ああ」 掴んだ腕からロミオの動揺が伝わり、ムジカは微笑さえ浮かべて振り返った。 「遅れて悪かった」 乱れる息の合間に軽やかに言葉を挟んでいく。 「どうにか戦力を確保できないかと思ってな。トンファーの彼と魔導師の彼女相手じゃ分が悪いだろう?」 「さっき横入りしてきた連中は?」 「さて。どこぞの海賊の配下じゃないか?」 「……まさか、おまえ」 「俺は海賊の傘下に入る気はないよ。あんただってそうだろう」 安心させるように、腕を掴む手に力を込めた。 「だが、遅れたおかげでいいものを見せてもらったよ。いや、ほっとしたと言うべきか」 ロミオの目は死んでいない。トンファーに打たれながら、彼の双眸にはまっすぐな意志が変わらずに宿っていた。 「今のその心を手放すな。あんたが生きたいと願う、その理由を貫け。理想ばかりで力がない? いいじゃないか。力を生むのは理想や信念さ。泥の中の種もいつか必ず花開く」 「……どうしてそこまで」 ロミオの声が揺れている。ムジカは足を止め、改めて振り向いた。 「言っただろう。まっすぐなあんたはしがらみに囚われちゃいけない」 「へえ。だったらどうすんだ?」 冷めた声が飛んでくる。ムジカは目をぱちくりさせた。追跡者の気配には気を配っていたというのに。 「そろそろ現実的な話をしようぜ、王子サマ」 鋭い金眼を光らせ、茂みの中から現れたのはグレイズだった。 「どうやってこの島から出るつもりなんだ? 貧民連中が用意した船は沖でプカプカしてる。まさか俺たちが乗ってきた船をあてにしてるわけじゃねえよな?」 ムジカとロミオは顔を見合わせる。グレイズは唇の端をわずかに吊り上げた。 「用意がねえなら紹介してやろうか。――泥船かもしれねえがな」 「何だって?」 語尾を跳ね上げたのはロミオだ。ムジカは黙って彼の横顔を見つめていたが、 「伏せろ」 とロミオの腕を引いてしゃがみ込んだ。 オウルフォームのセクタンが上空を飛んでいく。健のポッポだ。自身のフクロウ型セクタンと視界を同調させたムジカは小さく息をついた。レナの分身たちが近くまで迫っている。 「追手が来てるようだぜ。どうする」 深海のような闇の中でグレイズの眼が細められる。相手の出方を、あるいは隙を探る野犬のように。 「分かってるよな? 逃げおおせたところでこの先ずっと首を狙われ続けるだろうさ。海軍にも、他の海賊にも。それでも進んでくってんだよな?」 「自由にならなければ何も変えられない」 「は」 グレイズは再び唇の端を歪め上げた。笑ったつもりらしい。 「よく言った。行こう」 ムジカがロミオの肩を叩き、グレイズは二人の先に立って走り出した。 到着したのは奥まった場所にある岩場だった。すぐ傍の波止場にはムジカ達が乗りつけた船が繋留されている。 「借りた船だから何が仕込まれてるか分かんねえけど」 とグレイズが告げるまでもなく、ロミオの顔色が変わった。 船室の扉に刻まれたエンブレムは海軍の物だ。 「何が狙いだ?」 ムジカがやんわりとグレイズに尋ねる。グレイズはぶっきらぼうに「さあな」とだけ応じ、ロミオを見据えた。 「どのみち、王子サマは海軍に狙われる身だろ。自由になんなきゃ話にならねえんだろ?」 ロミオの意志を問いたいだけだ。泥船に乗ってでも前に進むのかどうかを。 水平線が白く染まり始めている。 「――行きなさい、フォルテ、ピアノ!」 凛とした声が静寂を引き裂いた。 岩の影から巨大な獣が躍り出る。レナのイタチだ。振り返ったムジカの視界に催涙手榴弾を構える健の姿が飛び込んでくる。咄嗟に、トラベルギアのギターを奏でた。つぶてのような音弾がイタチと手榴弾だけを精確に撃ち落としていく。 「ロミオ。自分で選べ」 歌うように滑らかに、軽やかに決断を促す。 「あんたの羅針盤が指し示すままに」 風が、ロミオのバンダナを揺らした。 グレイズの氷剣がもやい綱を断ち切る。同時に、地を蹴った王子は船の甲板へと飛び移った。 「餞別だ!」 ムジカは真新しいバンダナをロミオに投げ渡した。翻る色は、鮮烈な赤。 「あんたにはその色が似合う。すすけたまま凱旋なんて、らしくないだろう?」 ロミオは答えなかった。代わりに汚れたバンダナをむしり取り、新しい赤をきつく頭に巻き付けた。 「逃がさない、――!?」 魔法を振るおうとしたレナは目を見開いた。星杖・グランドクロスがグレイズの氷で凍てついている。朝凪の中を風と歌声が吹き抜ける。門出を祝うようなそれはムジカの音弾だ。風のつぶてがマストを膨らませ、船が滑るように動き出す。 「海賊王の凱旋だ」 ギターを振り上げ、ムジカは高らかに歌い上げた。 「まったく」 遠ざかる船を見据えながらレナは軽く舌打ちした。 「これからどうするつもりかしら。それに、ジャンクヘヴンとの関係だって……」 群青宮で協力関係が再確認された直後にこの有り様だ。対照的に、グレイズは涼しい顔だ。ペンライトを取り出し、灯台に向かって規則的に点滅させる。ややあって、灯台から同じ波長の光が返った。 「何を」 ムジカの声色が変わる。グレイズは軽く鼻を鳴らした。 「言った筈だぜ、海軍の船だって」 グレイズはシドを通して海軍と交渉したのだ。ロミオを泳がせて宝の在処を判明させれば良い。上手くいけば秘宝目当ての他の海賊どもも捕まえられるかも知れない、と。ロミオを飼い殺すことしかできなかったジャンクヘヴンはそれを了承し、船を貸与した。既に航路沿いに監視網が敷かれている筈だ。船に発信器を取り付けられれば良かったのだが、ブルーインブルーの文明レベルでは精度は期待できなかった。 「泳がせたのね?」 レナの声に力が宿る。グレイズは彼女を一瞥していらえとなした。底辺には底辺の処世術があるのだ。 「はは……」 ムジカはくしゃりと髪を掻き上げた。 「いいさ。海軍の船に乗る以上、織り込み済みだ。彼のコンパスはこんなことでは折れやしない」 健だけが沈黙を保っている。 (このエンブレム……) 彼の手の中には剣の鞘があった。一騎打ちに乱入してきた連中から剥ぎ取ったそれには、剣を持つ人魚の姿が刻印されている。 「畜生。誰がどう関わってるんだ」 ひっそりと落とされた呟きを聞いた者はいない。 ジャンクヘヴンに戻ると、波止場で綾が待っていた。 「みんな、おかえ、り……」 両手をぶんぶんと振り回しながら飛び跳ねる綾の体がぐらりと傾く。桟橋に飛び移ったレナが彼女を支えた。 「大丈夫?」 「う、うん。緊張の糸が緩んじゃっただけ」 白い曙光に目を細め、綾はふにゃりと笑った。 「あと、さすがに眠いかな……あはは」 「ほう。わたくしを指名してのご依頼とは」 芋虫のような指で綾の絵姿を撫で、ガルタンロックはガマガエルのように笑った。 「予想外の事態ですが、対価を受け取ったからには債務は履行いたしましょう。もっとも、あの王子様がわたくしの庇護を受け入れるかどうかは疑問ですが。……あの忌々しい気まぐれ猫もしゃしゃり出てくる頃でしょうかな。奴が好みそうな情勢ではありませんか」 配下に指示を出すガルタンロックの姿をアンドレイがじっと見守っている。 その頃、暗闇の色を纏った亡霊船長は密やかに航路を離れていた。 夜明けに煌めく海をロミオの船が横切っていく。真っ白なマストは海面を切り裂くかのようだ。 仮面の下に全てを押し込め、ジャコビニは葡萄酒の祝杯を掲げた。 「――乾杯」 グラス越しに、王子の帆が血の色に染まる。 (了)
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