銀色の箔押しに彩られた4通の封筒は、赤い封蝋によって閉じられていた。「これを、届けていただきたいのです」 美しい女主人――《赤の城》のあるじにして、館長の後見人、レディ・カリスことエヴァ・ベイフルックは集まったロストナンバーたちに告げた。その美貌に変わりはなかったが、注意深く彼女を観察していたら、いつになく、彼女の困惑を見てとることができたかもしれない。「クリスマスに、この赤の城でパーティーを行うことになったの」 アリッサが、ロストナンバーたちに向かって言った。「大ホールを開放して、ダンスもできるようにするし、盛大なものになると思うわ」 館長はにっこりと笑った。そして、「それで、『ファミリー』の皆様にも、もちろん、出席していただきます。でないと、格好がつかないでしょう?」 と付け加え、ウィンクしてみせる。 アリッサを知っているものなら、そんな格式に必ずしもこだわる少女でないことはわかる。「格好がつかない」と思っているのはレディ・カリスだと、彼女は言外に告げているのだ。「ロバート卿に、ヴァネッサおばさま、エイドリアンおじさまに、リチャード翁と奥様。この4つの招待状を、それぞれにお届けして、出席の約束をとりつけてきてほしいの」 レディ・カリスは、あとの説明はアリッサに任せたとばかりに、彼女が話しはじめてからは視線をよそに投げていた。だからアリッサが話を続ける。 「ヴァネッサおばさまは、出席して下さると思うわ。でもわがままなところもある方だから、ご機嫌を損なわないように。失礼のないようにしてくれればいいと思うの。せっかくだから、『エメラルドキャッスル』を見学させてもらうのもいいと思う」 異世界の宝石のコレクターとして知られるアリッサの大叔母。ヴァネッサ・ベイフルックは、『エメラルドキャッスル』という、豪奢な宮殿のチェンバーで、宝飾品に囲まれた暮らしを送っているという。カリスとは仲が良いというから、招待には応じてくれるだろう。問題は、その他の面々だ。「ロバート卿は、とてもお忙しいようなの。でもそこをなんとか。きちんとお話すればわかって下さる方だと思うけれど」 アリッサは少し含みのある言い方をした。 このところ、とみにロストナンバーたちへの歩み寄りを見せている前館長の従兄弟・ロバート・エルトダウン。《ロード・ペンタクル》の称号で知られるかの青年紳士は、壱番世界に莫大な資産を保有する実業家でもある。礼節を重んじるロバート卿がレディ・カリスの招待を断るとは思えないが、考えられることとしては、「渋る態度」を見せるかもしれない。ロバート卿は此度のパーティの意図を見抜いているに違いないからだ。すなわち、レディ・カリスが、ロバート卿がロストナンバーたちの好感を集めすぎるのを牽制したい、という。「エイドリアンおじさまは、もともとこうした派手な催しは好まれない方よ。でもエドマンドおじさまがいない今、エルトダウン家の年長者としては出席していただきたいの。奥様は無理だろうから、おじさまお一人でいいわ」 ロバート卿の父であるエイドリアン・エルトダウン。生来の人嫌いに加え、息子ロバートと仲が悪いとされているため、彼に出席を承諾させるのは難しいことだと思われた。「そして一番の難関はリチャードおじいさま。春の花宴以来、おじいさまと奥様のダイアナおばあさまは、一切、公の場にいらしていないの。リチャード翁のチェンバー『虹の妖精郷』は翁の許しがなければ立ち入ることさえできない場所。レディ・カリスの招待状があれば入ることはできるけど、お二人が話を聞いてくれるかさえわからない。お二人はロストナンバーとは距離を置きたいようなの。どうにか心を開いてもらえるといいんだけど……」 どうやらこの任務、単なるお使いのように見えて、決して簡単な仕事ではないようだ。 * カリスの招待状を手に訪れた、チェンバー『ネモの湖畔』。 鋭利な針葉樹の森に囲まれ、蓮の花咲く湖は夜空と深緑色を映し、そうしてすべてに彩られるようにして湖畔に佇むのが、かのエイドリアン・エルトダウンの屋敷だ。 まるで、静謐の世界。 触れることすら躊躇わせるほどに、目にする光景に現実感はなく、ガラス一枚隔てた絵画を眺めているような気分に陥る。 それほどに、来るモノを歓迎しない、ひっそりとした美しさに満ちていた。 面会には応じてくれるだろうとアリッサは言ったが、問題はその先だ。 気難しく人嫌いな彼に騒がしいパーティの場へ顔を出してもらうためには、さて、どう話を持って行くべきなのか。 手土産として、『蒐集家』としての側面を持つ主へ『音』の贈りものも考えてはみたが、この逸話を喜んでもらえるかどうかも分からない。 話題はもちろん、立ち振る舞いにもある程度気を遣わなくてはならないかもしれない。 手の中の招待状に視線を落とし、思案に暮れる。 だが、その顔を、ふと上げた。 微かに耳に届くのは、繊細なヴァイオリンの音色だ。 ソレに惹かれるように、静寂のみを愛しているのだろう湖畔に佇む屋敷へ、あるいはエイドリアン・エルトダウンが描く『絵画の世界』へと、ゆっくり足を踏み出した。!注意!『カリスの招待状』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『カリスの招待状』シナリオへの複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。
気づけば、写真家としての性か、由良久秀がカメラを構え、ファインダー越しに【ネモの湖畔】へと魅入っていた。 昼でも夜でもない永遠の停滞を見せる静寂の幻想世界には、確かにどうしようもなく心惹かれるものがある。 しかし、彼は実際にシャッターを切ることはない。 許可なくしてこの光景を切り取ることはできないということなのだろう。ひたすらに景色を見つめるだけだ。 対して、ムジカ・アンジェロは先程からずっと、ヴァイオリンケースを手に、じっと耳を澄ましている。 彼が追いかけているのは、先程ここを訪れた際に聞こえ、いまはもうどこにもない密やかなヴァイオリンの余韻だろう。 そんなふたりを、エドガー・ウォレスは穏やかな眼差しで見つめる。 声を掛ける事もはばかられるほどに、彼らは彼らの世界を通して『ネモの湖畔』に身を浸していた。 だから、そこから動く気配のない彼らに代わり、自分が館のドアノッカーに手を伸ばすことにする。 久しく耳にしたことのない鈍く厳かな音が、白亜の館に来訪者の存在を告げた。 「レディ・カリスの遣いで参りました」 老執事へと招待状を差し出し訪問の用件を伝えれば、思いのほかすんなりと館内部へ案内される。 エイドリアン・エルトダウンは相当な人嫌いとのことだが、どうやら門前払いという最悪のケースは免れたらしい。 招待状があれば面会は可能だろうと聞いてはいても、やはり緊張はするものだ。 ホッと息をつき、改めてエドガーは周囲を見回した。 通された応接間は、レースのカーテンが掛かる大窓から光が差し込み、薄氷を思わせる透明感に彩られていた。 華やかさや煌びやかさとは無縁に、どこまでもひっそりと、安寧と静謐の空気で見対している。 漆喰の天井を縁取る彫刻も睡蓮を模しているらしい。 床にも、窓枠にも、腰板にも、そしていま自分たちが座るソファセットにも、用いられているのは睡蓮の花だ。 絵画や壁画にも用いられる神聖な植物に、このチェンバーの主はなにを託しているのだろうか。 自分たちの前に腰掛ける初老の紳士――エイドリアン・エルトダウンの神経質な灰色の瞳を見、密やかにそんなことを思った。 「……赤の城からの遣いだと聞いたが」 彼は重い口調で、ゆっくりとこちらを観察するように問う。 「その前に、まずお礼を言わせてください。先日はアリッサ館長を通じ、依頼を出してくれて有難うございました。あなたのおかげで貴重な体験を得ることができました」 だが、招待状を持ちながら、ムジカが切り出したのは、パーティへの誘いではなく以前訪れたヴォロスでの旅の報告だった。 「あの依頼がなければ、自分はあれほどに素晴らしい景色と音楽に触れる永遠に機会を逃していたでしょう。美しいという言葉では言い表せない、まさしく幻影をこの目で見ることができました」 「……ああ、《幻影の歌》の蒐集に動いた者のひとりか……楽園に辿り着いたのだったか」 「地元の人間は、あの楽園を《向こう側》と。嘆きと追憶と決別の先で取り残された神殿がエメラルドの海底に沈んでいるかのようでした……とても、無垢なる音で満ちた場所です」 「……そうか」 語るムジカの隣で、エイドリアンだけではない、エドガーも、ふぅっと目を細め、彼の見た世界を思い描く。 「自分もこの目で見てみたかったね」 穏やかな笑みをたたえ、エドガーは手元の紅茶に口をつけた。 「そういえば、このチェンバーもどこか《絵画》めいていますね。それも、静寂の優しさを感じられる」 耳を澄ませば、無音でありながら透明な旋律が周囲を取り巻いている気がする。 「故郷が懐かしくなる……静けさは時に郷愁をも掻き立てもします」 そう言ってカップをソーサーに戻す、そのわずかな接触音すらも凛と響いて耳に心地よい。 「作曲はいつもここで?」 「……騒がしくては思考が乱れる。ノイズが大きくなればなるほど、自身の内側から聞こえてくるはずの旋律が掻き消えることになるだろう」 エイドリアンはこちらを見、 「……無秩序な音は世界を壊す。無遠慮で無意味な破壊行為が行われる中へ、何故わざわざ出向かねばならない?」 問いとなる。 彼は自分たちの訪問の趣旨を既に理解している。 招待状を手渡す前から、おそらく『赤の城の遣いである』と告げた時から、なんの目的でここまでやってきたのかを分かっているのだろう。 「ああ……でも、私は、あなたが《音》の蒐集家でもあると聞きました。蒐集家とは、すなわち“追い求めるモノ”でもあるのではないでしょうか?」 しかし、エドガーはあえてゆるやかに微笑みながら、別の言葉で返す。 「私は医師として常にあらゆる世界を飛び回っていますが、私が触れる音楽はいつも、雑多な音に塗れた場所で生み出され、広がり、浸透し、日常に溶けながら人々に親しまれているんです」 そうして、想いを馳せるようにふぅっと視線を窓の向こうへ投げる。 日本を離れ、飛び回る海外。 石畳の広場にはいつも大勢の人間が行き交い、集い、道化師を始めとした路上パフォーマーとその観客であふれていた。 ピエロがジャグリングに挑戦する、ハーモニカが、ギターが、電子ピアノが、トランペットが、シンバルが、それぞれに勝手に演奏していたはずの彼らが、それにあわせて曲を奏ではじめる。 始めはぎこちなく、やがて伸びやかに、パーカッションが広がっていく。 足を止めた観客の、手拍子がそこに重なる。 歌が、そこに混ざる。 やがてステップが踏まれはじめる。 連鎖する音、音、音、生み出される音楽、広がる波。 そこにチカラが宿る。 力強い生命力であふれだす。 手を取り合って、笑顔と手拍子と歌と踊りが、賑やかにあふれて輝き、弾けて、新たな扉を開いていく―― 時にはパブで、あるいは別の路上で、祭りという特別な期間ではなくありとあらゆる日常の最中で生み出される音楽に、胸をつかれ、ハッとさせられた。 「哀しみに襲われ、孤独感に苛まれ、痛みに胸を締め付けられていても、その音が私の顔を上げさせました。あの音は、あそこでのみ生まれるモノなのでしょう」 話し終えたエドガーに、ムジカはのんびりとした口調で笑いかけた。 「目に浮かぶよ。俯いていたあんたが顔を上げ、彼らの音楽に聴き入る姿」 「君はむしろパーカッションに参加する側のように見えるね。路上で一緒になってハーモニカを吹いていそうだ」 「まあ、吹いているかもな」 音楽のあるところにムジカは身を置き、音楽のないところには音楽を生み出すために楽器を手に取るだろう。 「私が触れた音楽は、静寂の中から生まれるのであろうあなたの《曲》とは対極を為すかもしれません。けれど」 「……騒がしさは必ずしも音を破壊するノイズばかりではないと、そう言いたいのかね?」 「新たな刺激にもなりうるはず、というお話しです。ただ、それだけの」 「……」 ふわりとしたエドガーの言葉に、エイドリアンは目を細めた。 何かを言いかけ、だがソレをしない彼に代わり、 「まあ、こういった場所に住んでいるなら、わざわざ外に出ようとは思えないかもしれないがな」 不意に、由良が口を開いた。 これまでずっと会話には参加せず、紅茶にも手を伸ばさず、カメラとともに周囲を観察し続けていた彼が、小さく呟く。 「ここはまるで、ガラスに描かれた水彩画みたいだ」 窓の向こうに広がる針葉樹林、木々に囲まれ凍り付いたかのような湖、覆い尽くすように群生する睡蓮の怜悧な美が意識からずっと離れないのだと、由良は言う。 静謐なる閉じた世界。 他者を拒絶し、変化を拒絶した、停滞する絵画の世界。 わずかでも不用意な行動を起こせば、瞬く間に脆く砕けてしまう、そんな危うさをも孕んだ器を、彼は賛辞する。 「ああ、……実はずっと聞こうと思っていたんだ。俺に、ここの写真を撮らせてもらえないだろうか?」 「写真?」 訝しげな問い返しとともに、エイドリアンの表情へわずかな棘と険が混ざる。 「そちらが許可してくれた場所だけでいい。公開するなというのなら、もちろんしないと約束する。ただ、この景色を撮りたいんだ」 ファインダー越しの景色は、切り取られることを望んでいるように思えてならないのだと由良は告げる。 「……撮れるのに撮らなければ、一生後悔するだろうから」 指先でそろりと愛機を撫で、口元を微かに引き結んだ。 「ほお?」 由良の中に《芸術家》的閃きを見出しでもしたのか、エイドリアンの表情がまた少し和わらぐ。 「ああ……そうだな、残念ながらここに届けられる《音》はないが、話だけならあんたに聴かせられるかもしれないな」 あれは、知人に半ば強引に連れてこられた旅行先のことだ――そう、由良は切り出す。 写真家の腕を見込まれたと言うよりも、事件への遭遇率を面白がられたといった方が正しいだろうか。 知人から、連れて行きたい場所があるからと旅行に誘われた。 壱番世界には巨大なクリスタルの洞窟もあると聞くが、知人が選んだのは、観光地化され、時にはコンサートも開催されるような場所だった。 ロープが張られ、順路が示され、照明機器が用意され、見せることを意識し、最大限の安全策を施した空間。 ただし、自分たちが踏み込んだのは、その正規ルートからわずかに逸れていた。 『ここじゃない、ここでもないんだ、ええと、アッチかな、うん、あっち』 嬉々として進む無防備な背を追い、被写体として感性に触れたモノへ向けてシャッターを切っては立ち止まるうちに、いつしか由良は一人きりになっていた。 鍾乳洞はそれだけで不可解な雰囲気を作りあげ、神秘さと不気味さとをない交ぜにした空間として存在する。 辛うじて歩くことができるのは、そこに人間が明かりを持ち込んだからだ。 しかし、懐中電灯を落とせば、どうなるか。 光が深い水底へと消えていけば、辺りは漆黒の闇に支配される。 視覚が奪われ、研ぎ澄まされるのは聴覚だ。 そして、気づく。 異変。 最初は水音だった。 それが次第に連なり、風の音か、動物の鳴き声か、水音なのか、誰かの奏でる音楽なのか、とにかくすべてが鍾乳石の内なる世界で重なり合い、響き合い、広がり、弾け、覆い尽くした。 頭の中が、ただそれだけで満たされる。 目が眩むほどの闇の中で、ありとあらゆる感覚が圧倒的『音』の洪水に呑み込まれて、自分が実際にはどこに立っているのかも分からなくなった。 得体のしれない『意思』が、気まぐれに姿を現したとしか思えなかった。 「知人が懐中電灯片手に俺を捜し当てるまでの、わずかな時間だ。そいつが来た時にはもうすべてが終わっていた……」 由良は、カメラをもう一度指先でなぞる。 「できるなら、撮りたかった。光量も足らず、撮れる自信もなかった。だが、例え不可能でもシャッターを切ればよかったと後悔している。対象が《音》だとしても、写真に収めたいと願ったのは確かだ」 話だけで申し訳ないと言い、そうしていくつかの写真をティーセットの載るテーブルへ広げ並べて見せた。 辛うじて撮れたのは、オレンジがかった鍾乳洞の、まるで大聖堂を思わせる荘厳な造形美だった。 人の手によらない、人の手ではあり得ない、奇跡の光景が絶妙な光の影のコントラストに彩られて収まっている。 見るモノのインスピレーションを刺激せずにはいられない、そんな写真だ。 「……」 エイドリアンは無言のままだ。 しかし、その灰色の瞳は興味深げに細められている。 「そういえば、聞いたことがあるよ。そうだ、ここ……ここには時折《神》が降りてくるんだってね」 エドガーが写真の一枚を眺め、何度も瞬きを繰り返しながら告げる。 「久秀は《神様》に出会えたのかもしれない」 「俺の前に神様……? それはずいぶんとアレだが」 由良が浮かべた苦笑の本当の意味を、エドガーは知らない。気づかない。ただ、彼の言い方が、照れ隠しというには些か奇妙だと思えただけだ。 「しかし、由良さんがそんな体験をしているなんて聞いていなかったな」 ムジカから、羨望に似た溜息が落ちる。 「何らかの現象が重なった結果なのだろうけど、オレも聴いてみたかった。聴いていたら、演奏したくてたまらなくなったかもしれない」 「ああ、あんたがいりゃ、再現できたかもな」 そうすれば、もう一度あの《奇跡の音》に触れることもできたかもしれない、と小さく笑う。 笑い、そして、由良は改めてエイドリアンと向き合った。 「改めて、許可を請いたい。俺は、ここの景色を写真として収めたい。いいと言われる、その範囲でのみと約束もする」 真摯に、訴える。 「自分を芸術家だと思ったことはない。ただ、写真を撮りたいという衝動はつねにある。目の前に何か撮るべきモノが現れたのなら、撮らずには終われない」 まっすぐに、純然たる写真家としての衝動を隠すことなく、言葉と態度に変えて、願う。 エイドリアンはもう一度、テーブルに置かれた作品に視線を落とした。 そして、 「刻限を決める。屋敷の裏には回らず、写真を表にけっして出さないと約束できるのならば、許可しよう」 厳格な表情はそのままに、由良の望む答えを提示した。 「感謝する。撮った写真は渡すか?」 「……良いと思えるモノならば、手元に残すことになるだろう」 あえて彼は欲しいとも欲しくないとも明言しなかった。 だが、由良はそれには構わず、ほんのわずかに口元を緩め、どこか満足げな笑みの形を作る。 「ああ、ではおれもからは、あなたに《音》と《物語》を」 そう言って、ムジカは懐からサファイヤブルーのキューブをひとつ取り出した。 「この曲は、ある音楽家が描いた交響曲なんです。壱番世界によく似た、けれど存在という概念が幾分違えている世界での音」 キューブとしか思えない蓄音機から流れ紡ぎ出されるのは、どこまでも果てしなく透き通った崇高なる調べだ。 フルートが、ヴァイオリンが、チェロが、オーボエが、オルガンが、ありとあらゆる楽器たちが、神に祈りを捧げ、奏でられていく。 聴くモノの魂を撫で、ゆるやかに惹き寄せ、揺さぶり、望めぬほどの高みへと昇華させていく、至上の音楽。 天から降りてくる光のはしごを幻視する音色。 ソレはやがてひとつの奇跡を生み出したのだと、ムジカは語る。 「そう……神のこと言わしめた男の手により生み出されたこの曲が、音楽の天使を具現化させました」 完璧なる曲は、クライマックスを迎え、ついにその力を聖なるモノへ転化させた。 神々しい光とともに、舞い降りる天使。 誰もが、この《奇跡》を果たした音楽家を崇拝し、彼がいかに神に愛されているのかを知った。 「ですが、音楽家は所詮ヒト、神ではなかった……どれほど神に愛され、どれほど神に近いといわれても、ヒトはヒトでしかありえなかった」 けれど、具現化されたのは天使だ。 音楽家によって望まれ、その手によって生み出され、そうして舞い降りた《彼》は、ヒトならざる存在―― 「皮肉な話ではありませんか? 彼はただそう“在れ”と望まれただけなのに、それだけで自身の創造主を超えた。作品でありながら、作品ではない。目の前に作り出された者の《絶対的才》は他者を圧倒し、音楽家を追い詰めた」 嫉妬とは、燃えさかる焔だ。 どれほど巧みに隠そうとも、焔は内側からその者を焦がしていく。 「自ら生み出したモノを、畏れ、怒り、妬み、憎み、自らの感情に灼かれてゆく。ゆえに音楽家は“天使”を――」 ふつり、と、そこでムジカの言葉が切れた。 蓄音機もまた、曲のクライマックスの最中に唐突に途切れてしまう。 「どうしたのかね?」 「この続きはパーティで。しかし、この曲はあなたへ贈ります。もしも気に入ってくれたのなら幸いだ」 「……」 かつては《幻影の歌》をも取り込んで見せた蓄音機――瑠璃から色を変えた立方体が、赤の女王からの招待状とともに、ムジカからエイドリアンに手渡される。 「そういえば、コレは一体どういったものなのか聞いても? 我々が知るものとはまるで違う、非常に興味深い作りでずっと気になっていました」 「この蓄音機は、かつてロストナンバーの職人が作りだしたものだ。詳しいカラクリはその者にしか分からないだろうが、これは如何なる旋律をもそのままに閉じ込めることができる、その一点以外に重要なことがあるかね?」 エイドリアンの手の中で、ソレは微かな燐光をまとったかのように見えた。 彼の声に呼応し、瞬き呼吸するサファイヤの小箱は、どうしようもなく美しく儚く愛おしいものに思えた。 あるがままに旋律を閉じ込める匣。 あらゆるモノを閉じ込め、彼の手元へと届けられる匣。 ムジカは、小箱を見つめるエイドリアンへと、そっと言葉を差し出す。 「閉じ込められた曲に耳を傾けるのもいい。けれど、実際にそこで奏でられる音楽を耳にすることは、代えがたい幸福な体験でもあると思う」 音楽は聴くモノの心を、魂を、震わせる。 それが生の演奏ならば、なおさらだろう。 「あなたの演奏をこの耳で聞きたいと、おれは望みます。ただ、ここへは、『ネモの湖畔』の景色と、音楽家としてのあなたへの純然たる興味でもって赴いただけだから無理強いはしたくない」 ソレがムジカの正直な想いだった。 もしもエイドリアンが目の前で招待状を受け取らないままに欠席を表明したとしても、仕方がないと思いもした。 エドガーが、ムジカから言葉を繋ぐ。 「……それでも……いまロストナンバーたちは非常に不安定な状態にあります。世界樹旅団との確執もあり、事件も多い。できることなら彼らの心に安らぎを与えてもらいたいのです、音楽家としてのあなたに」 自分の考えを押しつけるつもりはない。 ただ、できることなら自分自身が音楽家としてのエイドリアンの演奏を赤の城で聴きたい、皆にもその音を感じてもらいたいと純粋に願っているだけだと、素直に告げた。 「考えようによっては、ちょっとここから動くことで思いがけない出会いもあるだろうな。とんでもなく奇跡的な音に出会えるかもしれない」 すでに写真を撮ることに意識が向き始めているらしい由良が、最後を引き継ぎ、 「まあ、結局俺はあの薔薇園で正座させられ、赤の女王から延々と説教されるのは避けたいっていうのもあるんだが」 身も蓋もなく、己の胸中を晒し、 「なに、退屈なら途中で帰ってもいいんだ。だが、ファミリーの年長者として顔を出すっていうのは必要じゃないのか?」 言うべきこと、説得すべき言葉を、そこで終えた。 エイドリアンは答えない。 寡黙にして静寂を好む彼は、その表情から感情を読み取ることが非常に難しい。 長く、沈黙は続いた。 その耳に、ふと何かが触れる。 「これ……」 わずかでも動けば失ってしまいそうな微かな音色に気付き、エドガーはいち早く反応していたムジカを、それから由良、エイドリアンと順に見やった。 「この曲、先程もここへ来る途中で耳にし、ひどく懐かしい気がしました」 「聞こえていたのか」 「ええ、聞こえてきました。我々はその音色に惹かれ、この絵画の内へと足を踏み入れたのだと思います」 「この曲も、あなたが?」 ムジカに問われ、エイドリアンは微かに頷く。 「我々が耳にしたのはヴァイオリンだったけれど……いまは、胸に刺さり、響く歌声だ……とても、美しい」 いいながら、するりとムジカは席を立ち、それまで傍らに置いておくだけだったケースから持参したヴァイオリンを取り出した。 近く、遠く、漣のように寄せては引きながら、氷の張った泉へと手を伸ばし、その水底で眠る愛しいモノへと愛を囁くがごとくに奏でられる旋律。 身を委ねる心地よさに満ちた、けれど切なさの滲む曲似、誰かの微かな声がのり、互いの姿の見えない物同士でありながら、密やかなる時間を紡ぎ出していた。 やがて、潮が引くように曲は終わりを迎え、ヴァイオリンの微かな余韻が辺りの空気をやわらかく満たして、消えた。 エイドリアン・エルトダウンは、閉じていた目蓋をあげた。 「……いいだろう。赤の城からの招待を受ける、……そうカリスに伝えたまえ」 何が彼の中に響いたのかは分からない。 だが、彼は、確かに招待状を受け取った。 白亜の館を辞して、3人は湖畔を歩く。 「エイドリアン氏の演奏を聴くことができたら、きっと不安も少しは解消されるんじゃないかなと思うよ」 何度も館の方を振り返りながら話すエドガーに、由良はファインダーを覗き、シャッターの連続音に紛れ込ませながら答える。 「会話がまともに噛み合ってた気はしないが、……まあ、説教を免れて良かった」 「薔薇園で正座も、それはそれで貴重な体験ができたんじゃないか?」 「ムジカ、言っておくが俺はあんたみたいな趣味はない」 「別におれにもそんな趣味はないけど」 「そういえば、ふたりはずいぶんと仲がいいんだね」 「「……いや、どうだろう」」 ムジカと由良の声がぴたりと重なり、エドガーはつい笑いを堪えきれずに吹き出した。 「ああ、やっぱり仲がいいよ。友人というのはいいモノだね」 尚もクスクスと楽しげで微笑ましげな彼に掛ける言葉も探せず、由良は無言のままに一眼レフカメラを空へ向けた。 そして、 「……ああ」 思わずこぼれた溜息にも似た呟きにつられ、他のふたりもまた頭上を振り仰ぐ。 そこには、ゆらりと光のカーテンが大きく波打ち、揺れていた。 薄氷色から藍色へとグラデーションを描く天上で、ゆったりとオーロラが舞うたびに、ガラス細工の旋律が降りてくるかのようだ。 ガラスに描かれた絵画を彩る幻想性に、言葉が出ない。 出ないまま、沈黙し、しばし足を止めて、光の妙に誰もが魅入っていた。 ふと、気づけば遠くから、またあの曲が聞こえてきた。 誰が歌っているのかは分からない、けれどあふれんばかりに切なく優しく哀しい歌声に送り出され、彼らは再びゆっくりと歩き出し、そうして《ネモの湖畔》を後にする。 後日、エイドリアンの出席を取り付けた3人の元に例の蓄音機が届き、聴いたことのない美しい旋律が一曲だけ収められていることに気づくのだが、そしてその曲からとある謎解きの依頼が舞い込むことになるのだが、ソレはまた別のお話。 END
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