「ベイフルック邸に、行ってみようと思うんだ」 ターミナルのどこか…… 人どおりのない路地裏だ。建物の陰になって薄暗いその場所に、三ツ屋 緑郎たちはいる。「アリッサの実家だろ」 虎部 隆がにやりと微笑った。「面白そうなこと考えてるじゃん」「アリッサには内緒で?」 ティリクティアが訊ねた。 もちろん、と緑郎が応える。「図書館が許可すると思う?」「でもあそこは私有地だわ。イギリスの法律は詳しくないけど、合法ではないでしょうね」 と、流鏑馬明日。「それはそうだけど……けれど、あそこには絶対、まだなにか秘密がある。僕たち一般ロストナンバーには秘匿されてる情報とか蔵書とかね」「たしかに、気にはなってたわ。ヘンリー氏の件だって、ろくに現場検証もされていない……」「そう。今回は僕かなり本気なんだよね。刑事さんが一緒なら探索も心強いよ」「家宅侵入は違法だけど、ロストナンバーが現地法の対象となる自然人とみなされるのかどうかは議論の余地はあるわ」「ね、リスクはあるけど手を貸してもらえると嬉しいんだけど」「私、行ってみたい」 ティリクティアは言った。 隆の答えは、聞くまでもなかった。そのかわり彼は、「こいつらはどうする」 と、セクタンをつまみあげる。「そこが痛いところなんだよね。どっかに閉じ込めて置いて行こうかな。最終的に引き離せなくても数時間足止め出来れば十分だしね」 ひそやかに、そしてすみやかに、計画は練られた。 ロストレイルには乗車せず、緑郎の記憶にもとづき、アーカイヴ遺跡を通り抜ける。 ラビットホールの先、イギリスのベイフルック邸へ赴き、館内を探索するという計画だ。 お咎めは免れない。 だが賭けるだけのなにかがあると、緑郎は信じていた。 † † † にゃあう、と猫が鳴いた。「いちどチーズにありついたからといって、同じ場所にまたやってくるとは、 欲深いネズミのなんと愚かなこと……。 ネズミの出入りする穴には罠を仕掛けるに決まっているじゃありませんか」 ゆらゆらと……揺れる蝋燭の炎が、豪奢なタペストリの飾られた壁に影を落とす。 老女の両手が、猫の頬をそっと包み込んだ。「そんなに見たいのなら、見せてあげましょうかねえ。 ただし……戻ってはこれませんけどね」 猫の眼が、丸く見開かれ、その瞳孔が満月のように広がる。 それはぽっかりとひらく虚無へとつづく深淵だ。 まるで、『ラビットホール』そのもののような。 † † †「あ、あれ……っ!?」 夜だ。 見あげれば、月が出ている。上空は風が強いのか、雲が流れて月面を横切ってゆく。そのたびに、月光は明滅を繰り返して、周囲の風景を不安定に照らしたり隠したりした。「おかしいな」 緑郎はイギリスの時刻を確かめて、決行のタイミングを測ったはずだった。今は夜ではないはずだ。時計を確かめるが――「……止まってる?」「様子が変だぜ」 隆が言った。「ここ……どこなの」 と、ティリクティア。あたりは、静かな木立である。彼女の記憶にある、ベイフルック家の地所とそう違いはしない。しかし、理由のわからない強烈な違和感があるのだ。「灯りが。誰か……人だわ」 明日が指した方向に、移動する光を、かれらはみとめた。 近づいてみると、それはランタンの光で通行する荷馬車だった。 緑郎たちに気づいたのか、馬車は停まった。「あなたたちは……?」 ひとりの娘が、不思議そうな顔を向ける。 緑郎たちはすばやく視線をかわし合った。 顔を見せた娘、そして馬を御している老人。かれらの頭上に、本来なら真理数「1」が見えるはずだ。だが、そこに見えるのは、狂ったデジタル時計のように、でたらめに変化する数字だった。 ロストナンバーではない。しかし壱番世界の人間でもない。 というよりも。 ――ここは壱番世界ではない……と考えるのが自然だった。「どうなすったの、もう日も落ちたというのに、こんなところで」「……いや、道に迷って」「まあ」 娘は気の毒そうな顔をした。「もしかして、ロンドンのほうから来た方じゃなくて?」 そしてふいに、ロンドンという地名を口にしたので、緑郎たちはまた驚くことになった。「ああ、うん……」「やっぱり! あちらのほうで戦いがあったという噂は本当だったのね。お妃様が軍を率いて、王様を捕えようとしてるって」「ローラ」 御者の老人が、娘のお喋りをたしなめた。そして緑郎たちに向かって言う。「旅の方。私どもの村でお助けできればよいが、あいにくと貧しい村でございます。この道を、私たちが来た方向へまっすぐゆけば修道院があります。そこなら、施しを受けられましょう」「そう……。ありがとう……」「待って、聞きたいことが」 再び行きかけた馬車へ向かって、ティリクティアが言った。「この林の向こうに、大きなお屋敷があるわね?」「……? いいえ。この先は沼地だけだわ」「沼地……。じゃあ、ベイフルック邸は」 その名を聞いた瞬間、ふたりの表情が一変した。「口にしてはだめ!」 娘は悲鳴のように鋭く言った。「修道院で夜を明かしたら、このベイフルック様の領地からはすぐに離れることよ。魔女伯様は――」 続きは聞き取れなかった。老人が馬車を進ませたためだ。「……王様に、お妃様」 遠ざかってゆく荷馬車を見送りながら、明日がつぶやく。「馬車。道は舗装されていない。ベイフルック邸は存在しない。この先には修道院。これじゃまるで」 仲間たちを振り返り、彼女は言った。「タイムスリップでもしたみたいね」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>三ツ屋 緑郎(ctwx8735)流鏑馬 明日(cepb3731)ティリクティア(curp9866)虎部 隆(cuxx6990)=========
1 月のほかに灯りはなく、周囲は暗い。夜の闇がことさらに濃い気がする。電灯のない時代――人々はこんな闇に取り囲まれて暮らしていたのか。 「予習しておいてよかった」 緑郎が操作するタブレットにはイギリスの歴史に関する資料が収められていた。 「『お妃様が軍を率いて王様を包囲した』。イギリス史では該当する出来事がいくつかあるけど……ひとつはこれ、1142年の――」 「12世紀かぁ……。ま、最悪、900年生き延びれば俺たちの時代に戻れるか」 隆の言葉は、冗談とも真意とも判別がつかなかった。 「本当に過去に飛ばされたわけではないと思うわ」 ティリクティアが言った。 第一にさきほど見た真理数の問題。第二に、チケットで移動してきたわけでもないのに言葉が通じたという点を彼女は指摘した。 「ここは過去だけど過去ではないと思う。たとえば、切り取られた過去――夢のようなものだとしたら……」 「チェンバーのような、つくられた世界ということね」 明日がひきとった。 「でも。この世界が正しく過去の記憶を再現していると言うなら、真実を見たいものね」 やがて、かれらの行く手に、堅牢な石造りの建物が夜空を背景にそびえたっていた。 さびしい丘のうえに建つ修道院には、灯火が見える。 荒涼とした夜道をたどりながら、ふと、ティリクティアは夜空を振り仰いだ。 月が、じっとかれらを見下ろしている。 戦火から逃れてきて一晩の宿が必要だと言えば、修道院ではこころよく受け入れてくれた。 「ロンドンのほうからこられたのですか」 ひとりの修道僧が、4人を空いている宿坊へと案内してくれる。 まだ青年と言っていい年頃のその僧は、簡素な黒衣をまとい、暗い色の髪を短く刈り揃えている。 「嘆かわしいことです。王や領主が民の暮らしをかえりみず争いごとに明け暮れているとは」 「このあたりの領主様はどうなんだ」 領主、という言葉が出たのをすかさずとらえて、隆が訊ねた。 「ベイフルック伯は優れたお方です」 修道僧は淀みなく答えた。 そうこうしているうちに、狭い石造りの部屋へと通された。並んで2室、男女で分かれて使え、ということのようだ。 「待って」 辞しようとする修道僧を、明日が呼び止める。 「噂を聞いたの。ベイフルック伯は、『魔女伯』と呼ばれているって」 優れた領主だと彼は言ったが、魔女伯などという二つ名はどう考えても穏やかではあるまい。 「……残念なことですが、人々はいろいろな邪推をするものです。そういった人々の、眼の曇りを晴らし、教え導くのも教会の役目なのですが」 「単なる中傷めいた悪口だと? でもどうしてそんなことを言われるようになったのかしら」 「ベアトリス様が学識豊かな方だからですよ。聖職者でもないのに、ラテン語の書物までお読みになる。お屋敷には、私どもの書庫にもまさる蔵書がたくわえられています。古今東西の古書・名著を集めた、それは立派な書架には世界中の書物があるため、『世界図書館』と呼ばれているそうです」 「!」 明日たちが驚いたのには、修道僧は気づかなかったようだ。 「そうだったの。ところで、このあたりに、エルトダウンという家はあるかしら」 「聞いたことがありません」 「ではラッチェンスは」 「いいえ」 そろそろ相手が怪訝そうな顔つきなのを見てとって、明日はこれが最後、と付け加えた。 「ディラックという名前は」 「えっ」 今度は相手が驚く番だった。 「なぜ、私の名をご存知なんです?」 夜が更ける――。 時刻はわからないが、修道院は静かに寝静まっているようだった。 もっとも、電灯のない時代、人々が眠りにつくのは早かっただろうから、さほどの深夜ではないのかもしれない。 蝋燭の火に暗く照らされた部屋に集まって、4人は語り合った。 「あの人が、あの『ディラック』なのかしら。『虚無の詩篇』を書いたっていう」 「そのディラックは『錬金術師』だったというわ。今の人は修道僧よね。……将来、錬金術師になるってこと?」 ティリクティアが首を傾げる。壱番世界における修道僧と錬金術師の違いを彼女が理解しているかはわからないが、つながりはないように思える。 「もしくは血縁者、ってことかな」 「ディラックって……『ディラックの空』のディラックか。虚無の詩篇てなんだ?」 隆が言った言葉に、3人から、「え、知らないの!?」的な視線が向けられる。 「ディラックが、壱番世界で最初に『ディラックの空』の存在を知ったと言われているんだ。そのディラックっていうのは、イギリス、プランタジネット朝に仕えた錬金術師ってことになってる。今が12世紀ならプランタジネット朝はこれから開かれるから、彼がディラック本人だとしてもギリギリ時代は合うかな」 「ふーん。でも、ディラックの空を見つけたって、覚醒したってことか?」 「さあ、そこまでは」 「でも、だったらおかしいよな。ディラックが覚醒してロストナンバーになったなら、とっくに消えちまってるはずだぜ。パスホルダーが発明されるのはアリッサたちの時代だから、何百年もあとだろ」 緑郎たちは顔を見合わせた。 ディラックが消失の運命に見舞われたのだとしたら、壱番世界の情報からその存在そのものが取り除かれているはずだ。つまり、誰もディラックという人物がいたことさえ記憶していない。ましてその名が歴史に残っているはずがないのである。 「考えてみればそのとおりだ。どういうことなんだろう……」 「つか、それ大事なことなのかー? 俺が本当に知りたいのは1つ! なぜヘンリーは刺されなければならなかったのか? 目覚めさせる方法はあるのか? そんな大昔のことじゃなく、せめてこの200年の間にベイフルック家に何が起きたのが、その真実なんだ」 隆は力を込めて言った。 「そのためにも、このおかしな世界からは脱出しねーとな」 2 修道院の朝は早い。 東の空が白みはじめると、建物のそこかしこで人が動き出す気配があった。 ティリクティアは、ひとり、部屋を抜け出すと、石の回廊を歩いた。 かつて彼女が暮らした神殿に比べればずっと武骨であったけれど、神に捧げられた場所という意味では、似通った空気も感じられた。 彼女は、こういった場所が、奉仕する人々により成り立っていることを知っている。勘だけをたよりにさまよい、木の扉を押し開けてそっと外をうかがってみれば、思ったとおりの光景が広がっていたので、彼女はにっこり微笑む。 「おはよう」 「っ!?」 そこで薪を割っていた少年が、驚いて斧を取り落としそうになる。 朝の光のなか、ティリクティアの金髪がきらきらと輝く。妖精か女神でもあらわれたかと思ったに違いない。ティリクティアは、昨晩泊めてもらったことを簡単に説明すると、下働きの青年に訊ねた。 「伯爵様のこと? とてもおキレイな方だよ。でも可哀想な方だって聞いたことがある。子どもがたくさんいたのに、病気や事故で次々に亡くしたんだって」 「そうなの? それなのに、『魔女伯』なんて呼ばれているなんて、ひどいわね」 「でも、魔法を使えるっていう噂もあるし……」 少年は素直だった。このぶんなら用意した報酬も必要なさそうだ。 ティリクティアは続ける。 「ディラックっていう人がいるでしょう? どんな人なの?」 「どんなって……あまり話したことないけど……普通の人だよ?」 「このあたりに残っているとか、伝承とか、昔話とか、なにか知らない?」 「そんな難しいことわからないよ。俺なんか字も読めないのに」 いろいろ質問してみたが、彼もまた、エルトダウン家の存在については知らないようだった。 少し、日は高くなり。 「ベイフルック伯にお会いになるのですか」 「どうしても行かないとだめなんだ」 緑郎は、『自分たちはエルトダウン家という、ベイフルックに縁続きのある家の使者である』と説明した。 「でも、屋敷の場所がはっきりわからなくて」 「では道をお教えしましょう」 ディラック修道僧は、羊皮紙に地図を描いてくれた。 「……修道院ってどんな暮らしなの」 地図を描いているディラックに、明日がそっと話しかける。 同時に、彼女はディラックの横顔をじっと観察した。削げたように痩せた頬に、灰色の瞳。『ファミリー』の人々につながるような面影は見当たらないようだ。 「静かで、穏やかな毎日ですよ。祈り、働き、学び……その繰り返しです」 「あなたは、詩を書いたりもするのかしら」 「むろん詩学も学びます。……さ、書けました」 4人は礼を言って、修道院を発つ。 去り際、ふいに思いついたように、ティリクティアは、ディラックに握手を求めた。 いくぶんとまどいながら、彼はひんやりした手のひらで握り返してきた。 瞬間――、ティリクティアの瞳がはっと驚きに見開かれる。見つめ返したディラックの目は、湖水のように静かで、穏やかなままだった。 地図によると、4人が知る「現在のベイフルック邸」がある場所は、深い森に閉ざされており、「この時代のベイフルック家の屋敷」は、その森の向こうに広がる湿地帯にあるということだった。 4人は来た道を戻る。森を突っ切るのが早いが、かれらはそれよりも森を迂回する道をたどる。そこには村があるはずだった。例の、荷馬車の父娘が暮らす村だ。ここで情報を収集しようということになったのだ。 「どうかしたのか?」 修道院を出てから、ずっと考え込んでいるふうのティリクティアに、隆が訊ねた。 「ううん。なんでもない。ただちょっと……あの人――ディラックさん」 「錬金術師になる未来が見えたか?」 隆が茶化すように言ったが、ティリクティアは真剣にかぶりを振った。 「逆。なにもわからなかった。うまく言えないけど……あの人には、なにか普通じゃない未来が待ってる、そんな気がしたの」 「ふーん。普通じゃない未来ねえ」 「でも具体的なことは何もわからなかった。なんだか……ぽっかり開いた穴をのぞきこんだみたいな……」 その感覚を思い出すと、ぞくり、と不気味な身震いがした。 そんなかれらの前に、のぞかな田園風景が広がりはじめる。 やがて素朴な家々が立ち並ぶ集落に着いた。 村の周囲は畑が広がっている。小麦を育てているようだ。その証拠に、小川べりに水車をそなえた粉挽き小屋がある。 それはまるでお伽話の絵本のような風景だった。 4人は旅人の顔で村を訪れ、会う人ごとに話しかけてみるのだった。 「じゃあ、わかったことを整理するよ」 村はずれの丘に上り、木陰に車座になって、緑郎たちは成果を確かめる。 「『この時代のベイフルック邸の場所』は、ディラックの教えてくれたことに嘘はなさそうね」 と明日。 「けど、やっぱり嫌われてるみたいだぜー」 隆が言った。 「というよりも、恐れられている」 「現在の領主は、ベアトリス・ベイフルック。夫が亡くなって、伯位を継いだ女性。屋敷に子どもと召使だけで暮らしている」 「子どもはたくさんいたけど、ほとんど亡くなってしまったそうよ。これもティリクティアさんが修道院で聞いたとおりね」 「でも村の人の印象はまるで違うわ」 「ああ。いけにえにしたなんて話もあったよな?」 「ベアトリスは魔法で雹を降らせて畑をだいなしにしたり、家畜に病気を流行らせたりもしたってことになってる」 「ありがちね。ディラックが言ってた、知識人なので誤解を受けているという説のほうが正しそうに思えるけど」 「うーん。ベイフルック家は魔女に呪われた家系、って話だったけど、これじゃ、ベイフルック家の祖先が魔女そのものだったって話だよね」 「けど、ディラックは違うって言ってたぜ」 「ベアトリスは魔女じゃない。ディラックも錬金術師じゃない。……本当のところは、どうなのかしらね」 「んー、わかんね! やっぱ、会ってみるのが早えーな!」 「そうかもね。僕は今夜、こっそり行ってみようと思ってる」 「俺は正面から訪ねてみてーかな」 「でも、ベイフルックの屋敷には、土地の人は誰も近づかないって村の人は言ってたわ」 「魔女じゃねーんなら、怖がる必要もないんじゃないの?」 「そうね……。私も、虎部さんと一緒に」 「じゃあ、私は緑郎と行くわ」 かれらは頷き合った。 3 ベイフルック家の屋敷は広大な湿地帯の中にある。 修道院や村があったあたりは比較的高台になっており、屋敷はそこから下った低地に位置しているようだ。湿地というより、もはや沼地と呼んで差し支えない程度に水に覆われた土壌である。そのただなかに、忽然と、もりあがった丘がぽつんとあり、その様子を遠くから見るとまるで島のように見えた。 「なんだか、ターミナルに似てない?」 ティリクティアが言った。 なるほど、チェス盤の大地に築かれたターミナルの町に、その輪郭は似ていなくもなかった。 だが異世界の旅人が訪れるターミナルに比べて、湿原の丘の上の城館はあまりに寂しく見えた。日が落ちた今となってはなおさらだ。 4人は湿原の道なき道を苦労してたどり、丘のふもとで二手に分かれた。 宣言どおり、隆は明日をともなって城館の正面から向かった。 扉を叩けば、意外にもすんなりと門は開かれる。 「領主に会いにきたぜ! 俺たちは偉大な魔女の使いだ」 隆は堂々と告げる。 陰気な執事が、ふたりを招じ入れる。 「簡単すぎるわ」 明日が囁くのへ、隆は、 「アリッサの威光かな。だってそうだろ。魔女伯はアリッサのご先祖ってことだぜ」 と答えて笑った。 屋敷の中は暗い。そしてなにもかも古かった。歴史ある――というよりも、長い長い年月をかえりみられることなく過ごした、よどんだ時が堆積したような場所だった。なにか重苦しい。 「このような夜半に妾を訪ねるのは何者か」 広さに比してあまりに灯りの少ないホールを横切ろうとしたとき、上方からその声がかかった。 「おでましだ」 と、隆。 明日は、吹き抜けの空間を降りる螺旋階段へと目を向けた。ゆっくりと、そこを降りてくる女性がいる。四十代頃だろうか。豪奢な衣装が身分を彼女の知らせる。そして、暗い燭火に浮かび上がる、青ざめたおもては。 「貴女が――」 「左様」 女性は、生まれながらに身分というものを持ち合わせたものだけに許される、誇らかさと傲岸さを込めた声音で応える。 「妾がベアトリス・ベイフルックである」 ゆたかな金髪と、ひややかな緑の瞳。 そこにはたしかに、レディ・カリスに似た面影があった。 「何用か」 「俺たちは魔女の末裔によって送り込まれた。貴女の子孫の大事な友人さ」 「魔女だと」 「そうだよ、魔女伯サマ。こうしてみるとたしかに似てるな。間違いない。レディ・カリスにも似てるが……ちゃんとアリッサの面影もある。気の強そうなところとかさ」 ベアトリス女伯は、隆をねめつけたが、彼の言葉は終わらなかった。 「貴女の遠い孫は凄く可愛いよ? 魔性の女だねありゃ。なるほど、たしかに魔女の血筋だ。……で、それはいいから、そろそろ俺たちを返してもらえないかな。900年もつきあう気はないんだ。ベイフルック家って、この時代は領主かもしれないけど、産業革命の頃にはすっかり落ちぶれて爵位もなかったって話だろ」 「ちょっと」 明日が袖を引いたが、隆は、あえて話しているようだ。 この世界の摂理を破壊するように、彼は続けた。 ディラックの空、真理数、チャイ=ブレ、0世界、そして…… 「もうやめよ」 ベアトリスは遮る。 「意味のわからぬ御託を並べようと変わらぬ。妾は屈しぬぞ」 「え?」 「妾を異端と断じようというのだな。無礼ものめ!」 だん、と広間の扉を押し開けて、いかにも力自慢といった風情の男たちが、棍棒を手になだれこんできた。 明日がすかさず銃を抜く。 「誤解だわ! 私たちは――」 彼女は叫んだ。 銃口を向けても、相手は怯む様子がなかった。 (この人たち……銃を知らない!) それが武器とも思わないのであろう。 棍棒で殴りかかってきたのをかわし、明日が鋭く足払いをくらわせた。屋敷の使用人たちが命じられているにすぎないようで、図体は大きいが戦いの訓練は受けていないから、敵ではなかった。 「待って!」 明日は、螺旋階段の上に姿を消したベアトリスを追った。隆も続く。 一方―― 緑郎とティリクティアは城館の裏口から侵入していた。 暗い廊下を進みながら、緑郎は肖像画があればそれを撮影し、気づいたことがあれば記録している。 「通信はできないのでしょ」 「まだね。でも一瞬でもネットにつながったらアップロードされるように設定してある」 緑郎は言った。 「どんなことでも記録するんだ。どんな小さな情報でも」 「なにを探す?」 「なんでも。……そうだ、本を集めてるって言ってたね」 「『世界図書館』ね。この屋敷、外から見たとき、塔のような建物があったのを覚えてる?」 「覚えてる。きっとそれだ」 ひそやかに、だがすみやかに、ふたりは進む。 渡り廊下の先に、その建物はあるようだった。 「待って」 緑郎は、要所要所に、小さな袋をそっと置きながら進んできた。 「それは?」 「もしものときのためにね。さ、行こう」 予想どおり、中は書庫のようだった。 吹き抜けを中心に、何層にもなったフロアに、ぎっしりと書架が並んでいる。 「何の本だと思う」 「……図鑑、かな」 ティリクティアは一冊を抜き出して頁をめくった。 「植物図鑑か」 細密な挿絵の入った頁の一部を撮影し、緑郎は次の本棚へ。色あせた背表紙をたどった。 「動物学……」 「こっちは天文学」 「これは鉱物」 「この棚は……神話や伝説」 「……本当に、図書館なのか」 「なんでもあるわ。なんでも」 「ベアトリスは、どうして本を集めてるんだろう」 「それはやっぱり……」 そのときだ。緑郎はしっ、とひとさし指を立てた。 音だ。 吹き抜けを伝わってくる、人の話声。そして、ゆらゆらと揺れる灯火―― 「上に誰かいる」 ふたりは息を潜め、階段を上へ上へと登った。 書架の影に隠れるようにのぞきこむと…… 数人の、黒衣の人物が、そこらじゅうの書架から手当たり次第に本を抜き出しては、袋に放り込んでいる。 「とてもじゃないが全部はムリだ」 「重要なやつだけでいい」 「どれが重要なんだ」 「どれもだよ……!」 苛立ちを含んだ声。 ふたりは顔を見合わせた。 「……本どろぼう?」 「みたいだね」 「誰だ!」 鋭い、誰何の声がかかった。 4 ぎゃっ!と悲鳴をあげて、男は倒れた。 緑郎のスタンガンがバチバチと電光を散らす。 倒れた男の風体や、フードが落ちた下の髪型からも、彼が修道僧であるのはあきらかだった。 「どういうつもりか、説明してもらうよ……ディラックさん」 「知れたこと」 ディラックは、本を入れた袋をひっつかむと、脱兎のごとくに走り出した。 追おうとする緑郎のまえに、別の修道僧が立ちはだかろうとするが、ティリクティアのハリセンがそこに炸裂した。 「行って!」 緑郎は走る。 「本どろぼうはないんじゃないの」 「うるさい。私には……本が必要だ」 今度は下へ、下へ。 「私はすべてを知りたい。この世のすべて……この世の真理を……!」 盗んだ書物を抱いて、ディラックは夜の闇の中へと走り出した。 同じ頃、明日と隆は、ベアトリスを追い詰めている。 その部屋でいきどまりだ。 暖炉に燃える火のまえに、女伯のシルエットが立つ。 隆は扉を閉め、かんぬきをかけて、追っ手を締め出す。 「話を聞いてくれよ」 「なにか誤解をしているわ」 「誤解ではない。おまえたちが教皇庁の差し向けた異端審問官だということはわかっている」 「なんですって?」 「修道院に立ち寄ったであろう。ロンドンからここまで……? 笑わせる。ただの民草にそのような旅などできるものか」 「……そうね。それは真実ではなかったわ。でも、ベイフルック伯。私たちはあなたとただ話がしたくてきたの」 「待てよ。俺たちが修道院に行ったことをどうして知ってる」 隆が問うた。 「ディラックが報せをくれたのだ」 「あの野郎」 「おかげで子どもたちは逃がすことができた。だからもはや、妾はどうなってもよい。約束どおり、あの本もディラックにくれてやろう」 「取引したのね。あのディラックって人、本をすごく見たがってた」 「書物を集めれば、この世のすべてがわかると……妾もかつては思っていた」 女伯は語った。 「だが、知識は無限。どこまでも終わりがなかった。そして……そんなものは何の役にも立たなかった。夫も、子も失い、民にも敬われず、ベイフルックの家は衰えていこうとしている……。妾の図書館の書物たちは、それに何の助けもくれはしなかった」 話しながらベアトリスは、おのれのスカートを引き裂く。 「待って。何をしてるの。やめなさい」 明日が鋭く声をかけるが、彼女は構わず、火かき棒に布地を巻きつけると、暖炉に差し入れた。 布地にとった火を、ベアトリスは部屋のあちこちに燃え移らせてゆくではないか。 「すべて燃えてしまえばいい。図書館も、なにもかも、全部――」 重い本を運んでいるディラックに、緑郎が追いつくのは難しいことではなかった。 ちょうど丘の斜面に差し掛かったところで、緑郎がしがみついたので、ふたりして転がり落ちる。 「く、くそ……!」 バラまかれた本を、ディラックが必死にかき集めようとする。 「『虚無の詩篇』は、もう書いたのか!?」 「な、なんだと? 何を言ってる?」 「これから書くのか? 『ディラックの空』を、見たのか!」 「わけのわからないことを!」 ディラックの答えに、嘘はなさそうだった。 緑郎は拍子抜けしたように、掴んでゆさぶっていたディラックの肩から手を放した。 少なくともこの時点で、この青年僧はただの学僧に過ぎない。ただ、浅ましい執着があるだけだ。必死の形相で本を拾い集める姿は、哀れしか催さない。 そして。 空が、かっと照らされたのは、大きな炎があがったからだ。 ベアトリスの放った火が、緑郎が仕掛けておいた火薬にまで至り、魔女の城を爆炎が多いつくす。 『世界図書館』も業火に呑まれる。 ぐらり――、と足元がゆがみ、空間がねじれた。 なにもかもが闇の中へと吸い込まれてゆくのを、緑郎は感じる。 ちょうど、《ラビットホール》に飛び込んだときの感覚に、似ていた。 † † † 「あ、あれ……っ!?」 夜だ。 見あげれば、月が出ている。上空は風が強いのか、雲が流れて月面を横切ってゆく。そのたびに、月光は明滅を繰り返して、周囲の風景を不安定に照らしたり隠したりした。 「おかしいな」 緑郎はイギリスの時刻を確かめて、決行のタイミングを測ったはずだった。今は夜ではないはずだ。時計を確かめるが―― 「……止まってる?」 「様子が変だぜ」 隆が言った。 「ここ……どこなの」 と、ティリクティア。あたりは、静かな木立である。彼女の記憶にある、ベイフルック家の地所とそう違いはしない。しかし、理由のわからない強烈な違和感があるのだ。 「灯りが。誰か……人だわ」 明日が指した方向に、移動する光を、かれらはみとめた。 「……って、なんだこりゃあ!?」 「時間が……巻き戻ったの?」 「僕たち……ディラックたちに会ったよね?」 「見て。やっぱり、荷馬車だわ」 近づいてみると、それはランタンの光で通行する荷馬車だった。 緑郎たちに気づいたのか、馬車は停まった。 「あなたたちは……?」 ひとりの娘が、不思議そうな顔を向ける。 緑郎たちはすばやく視線をかわし合った。 顔を見せた娘、そして馬を御している老人。かれらの頭上に、本来なら真理数「1」が見えるはずだ。だが、そこに見えるのは、狂ったデジタル時計のように、でたらめに変化する数字だった。 † † † 「何度でも、繰り返しなさい」 「『アーカイヴ』の記憶からつくられた世界は、おまえたちが知りたがっていたものを、何度でも、見せてくれるでしょう。すなわち……ベイフルック家の歴史のはじまりを。女伯ベアトリスが、『魔女』として死に、ディラックが彼女の蔵書を奪った。それが動かざるひとつの事実」 † † † 「燃えてるわ……!」 沼地の彼方に、火があがってる。 「お屋敷が燃えてる。どうして? 私たちは行かなかったのに」 「歴史は変えられない、って言いたいのか。そうなのか? おまえのしわざか、チャイ=ブレ……!」 「とらべさん、落ち着いて。……つまり、こういうことだよ。僕たちがディラックに先に会うと、ディラックは僕らが異端審問官だとベアトリスに吹きこむ。ディラックに会わずにベアトリスに会いにいっても、彼女は勝手に誤解してしまう。ベアトリスに会わないと……」 「本物の異端審問官がやってくる。……ベアトリスは死ぬのが、史実だからということね……」 呆然と、明日がつぶやく。 やがて、かれらの周囲で、世界はどろりと溶け出し、再び闇へと還ってゆく。 これで何度目だろう。 溶暗の先にあるのは、見慣れた風景。 再び、同じ夜のはじまりだ。 † † † 「『アーカイヴ』は、おまえたちの『知りたい』という欲望に応え続けるでしょう。おまえたちが『知りたい』と思う限り、決して、そこから出ることはかないません。永遠にね」 * 頬を、そよ風がなぜた。 空が……青い。真っ白な雲が、ゆっくりとそこを横切ってゆく。 「えっ!?」 緑郎は驚いて身を起こした。 場所は同じだが、昼間だった。 「目が覚めた?」 かたわらに、アリッサがいた。にっこりと微笑む。 彼女の膝のうえで、3匹のセクタンたちが戯れている。1匹はアリッサのホリデイで、あとは緑郎たちのセクタンである。と、いうことは……。 「みんなにお願いがあります」 アリッサは言った。 「みんながいたのは、《フェアリーサークル》といって、ダイアナおばあさまがつくった小さな世界のような場所。アーカイヴの情報からつくられていて、自力で脱出するのはほぼ不可能なの。《ラビットホール》のある場所は立入禁止なので、ダイアナおばあさまがそういう仕掛けをしていたって、これは責められないわ。むしろおばあさまに大義があることになる。それはわかってもらえる? 今回は……なんとか許してもらいました。でも、次はないかもしれない。みんなのやったことは本当に、危険なことだった。……私ね、エドマンドおじさまは、たった一人でなにかをしようとしたのが、間違ってたと思うの。だから失敗した。私は、そうならないように、みんなに助けてもらおうと思うわ。みんなも、エドマンドおじさまみたいな危ないやり方はやめてね。……お願いは以上です」 そう言って、アリッサはホリデイを胸に抱き、立ち上がった。3匹のセクタンたちがそれぞれの飼い主のもとへ走り寄っていく。 「じゃあ、行きましょうか。あ、これを渡しておかないとね」 彼女が差し出したのはチケットだった。 ターミナルから壱番世界行きのチケットが4枚。 「これ、『行きのチケット』だけど?」 緑郎が訊いた。 これから0世界に連れ戻されるのであれば、必要なのは逆ではないか。 アリッサは微笑んで答えるのだった。 「そうよ。これからベイフルック邸に行くんだもの。……見たかったんでしょ? 言えば見せてあげたのに」 (了)
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