一説によると、《彼》はホワイトタワーが完成してすぐに収監されたのだという。 100年以上もの間、彼はたったひとりきり、隔離棟の冷たく分厚い地下独房で時を過ごしてきた。 何故《彼》が、これほどにも長きに渡り収監されるに至ったのか。 その理由についてもっともらしく囁かれるものはいくつかあるのだが、それらすべてが憶測の域を出ない。 《彼》が何者であるのかすらも、本当のところは分からない。 そんな不可解な存在である《彼》には、ひとつ、不可思議な趣味があるのだという。 それは――「……なんと《招待状》が届いちゃったんです!」 トラベラーズカフェのあるテーブルに集った者たちの前で、一一一は、一通の手紙を披露する。「内容は読んで頂ければ分かる通り……彼が語る《ミステリー仕立ての昔話》を私達が解く、という体裁ですね。退屈すぎて、こういうお遊びをはじめているみたいです」 そうして広げられた紙面に、視線が集まった。『ターミナルは停滞しているのではない、ただ、移ろいに人々が無関心で居続けるだけの話。移ろいながら忘却の彼方に封じられた箱の中身を、諸君らは覗いてみたいと思わないかね?』 囚人が綴る文字は美しく、囚人が語る言葉はどこか詩的ですらあった。「ホワイトタワーと言えばロストナンバーの牢獄だろう? おれ達が囚人と面会するというのはそもそも許されるものなのか?」 興味がそそられながらも疑問を口にするムジカ・アンジェロに、一はコクリと首を縦に振る。「まさか許可が出るわけないよねーと思いつつ問い合わせたらですね、なんと…!」「なんと?」「出ちゃいました、許可が。いやー、びっくりです」 いまいち現実感は伴わないけれど、それでも事実は事実。 囚人とのホワイトタワーでの対面が許されたのだ。「ほお? ……何故許可が出たのかも気になるが、昔話が聞けるというなら、おれも同行させてもらいたい」 聞きたいことがあるのだと告げたムジカに続き、「あの……僕もご一緒させて頂いてよろしいですか?」 岩髭正志がおずおずと手を挙げた。「僕たちが知らないターミナルの物語がどんなものなのか、昔話が聞けるチャンスは今しかないような気がして」「他の世界のご時世も気になるケド、今のボクが住んでいる世界の昔話にも興味は惹かれるネ」 ニッティ・アーレハインが、好奇心であふれたあどけない表情に弾んだ声で、一の手紙を覗き込む。「一体、どんな話が聞けるんだろう?」「それは行ってみないと分かりません。でも、ありがとうございます。早速ご招待を受ける旨をお返事しちゃいましょう!」 一は名乗りを上げてくれた他の三人に向けて、グッと気合いを込めて拳を握ってみせた。 *「エヴァ、君がまさか彼への面会を許したというのかい?」「この状況ですもの、仕方がないわ。特例処置ということにしました。……ただし、二度はないわ」 * 《彼》は、そこに居た。 灰色の石に囲まれた、ゆったりと歩いておそらくは全周150歩にも満たないだろう空間に、ポツンと置かれたひとつの椅子、それから隅のベッド、そして、堆く積み上げられた書物に、壁に張り付けられた画用紙の数々。 そんな世界の中心に、《彼》はいた。「ようこそ、ロストナンバー諸君! まさか、こんなにたくさんのステキなお客様が来てくれるとは」 彼は、椅子に腰掛け、足を組み、けれど両腕を大きく広げて、おそらくは嬉しそうに自分たちを迎えた。 彼の声はくぐもり、若いようにも年老いているようにも聞こえる。 しかし、本来の年齢を外見から推し量ることは叶わない。 彼の胸のうちを、表情から読み取ることもできない。 なぜなら、その《囚人》は、全頭型の鉄仮面を被っていたからだ。 異様なほどにすっぽりと、彼のすべてが黒い仮面に隠されている。 素顔を晒すことすら禁じられた彼は、本当に、如何なる大罪を犯してここにいるのだろうか。 問いかけあぐねた一達を前に、彼はくつりと笑みをこぼした。「君達の席はそこに用意してある。パイプ椅子だけれど、まあ許してくれ。本当なら紅茶の準備もしたいところだが、これもまあ、仕方ない」 そうして彼は仮面の奥にちらりと窺える目を細め、勧めた席に全員が着いたところで、再び口を開いた。「今日の昔話は、そう……、ファミリーのひとり、エルトダウン家の年長者、エイドリアン・エルトダウンがいい。なぜかって? これはインスピレーションだな。君達の顔を見て、思いついたんだが」 まるでこちらの知りたいことを見透かしたかのように、くつくつと彼は愉しげに笑う。 そうして、足を組み換え、膝の上に肘をついて手を組み、その上にアゴを乗せて、ゆっくりと語り出す。 真実であるのか、事実であるのか、あるいはすべてが虚構であるのかも分からない、物語の一端を―― エイドリアン・エルトダウン。 エルトダウン家に婿入りをした、呪われし血族の一員。 彼の愛した彼の《最初の妻》は、ある冬の朝、凍えた泉に身を浸し、《たゆたうモノ》となった。 水面に広がる白いドレス、長い髪、それらを彩るのは季節外れの華やかな赤やピンクの花弁たち。 まるで古典戯曲か絵画のようなその光景の中、だが、何よりも目を引いたのは彼女の胸に穿たれた《穴》だった。 花弁に見えた色彩のいくつかは、彼女の内からあふれた鮮赤であったのだろう。 一面に降り積もった純白の雪に、彼女の足跡はない。 もちろん、誰の足跡もない。 そんな《彼女》を発見したのは、彼女の、そしてエイドリアンにとってのひとり息子だ。 彼はその瞬間、母親を殺した犯人を確信する。 憎しみをつのらせながら、彼はその者を声に出さないままに糾弾した――「彼女はいかにして死したのか、彼女に何が起きたのか、彼女を殺した犯人は誰か、少年は何を思い犯人を確認するに至ったのか……閉じた匣の中の《可能性の断片》から、君達はどのような物語を作る?」 鉄仮面の男はこちらへと右手を差し伸べ、促す。「……さあ、聞かせてくれないか?」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>一一 一(cexe9619)ニッティ・アーレハイン(cesv3578)岩髭 正志(ctdc3863)ムジカ・アンジェロ(cfbd6806)=========
――不可解なのは、状況か、動機か、犯人そのものか? 「さあ、聞かせてくれたまえ、君達が紡ぐ物語を!」 高らかに告げられた、舞台台詞のような言葉を受けて、正志はわずかな怯えが自分の中を駆け抜けていくのを感じた。 鉄仮面の奥の瞳は笑っている。 しかし、その笑いは果たして自分たちと同じ感覚を共有しているモノの笑いなのだろうか。 気後れする正志の隣に座るムジカは、その独特の眼差しで、芸術家のアトリエのようにも学者の研究室のようにも見える独房を見回し、興味深げに首を傾げた。 「なにをすればそこに入れるのか、是非教えてもらいたいな」 「なにをすればここに入れるのか、知れば実践したいということだろうか? あるいは、いずれここに入ると既に運命づけられているのか? 君は些か未知数で面白い」 鉄仮面の囚人もまた自身の領域をぐるりと見回す。 「なに、たいしたことはしていない。たいしたことはしていなくとも、ここに入ることはできる」 答えのようで答えではない言葉を交ぜながら、囚人は語る。 「退屈ではあるがね、思いのほか快適にできているのだよ。ここは素晴らしいといえば素晴らしい。時間は無限にある上、思索する自由は保障されている」 「思索の自由か」 「入りたいかね? だが、君よりもむしろ、君のご友人の方がこの場所には近そうだ」 「友人?」 「君が自身の咎だと思っていることは、存外見逃される類いのモノかもしれん。しかし、君の友人はやがて見過ごすわけにはいかない罪を犯すかもしれない」 ゆえに自分とムジカは同類たり得ないのだと告げる囚人に、わずかながらも驚きを覚えた。 「私は過去を知るが、まるきり《現在》を知らぬわけでもない。今日ここに来てくれる客人たちをもてなすための《謎》のひとつと考えてもらっても構わないのだがね」 「……」 一は無言のまま、彼らのやりとりを見つめていた。 自分の中にある感情がまだうまく整理できていない。 招待状を受けたのは自分なのに、ターミナルの過去の出来事を知りたいと望んだのも自分なのに、いざ差し出された《ミステリ仕立ての昔話》は、『金貨野郎』と自分が呼ぶ男に関わる物語だった。 他人の秘密に踏み込むこの後ろめたさを、自分はどう折り合いをつければいいのか。 だが、そう思う間にも、同行者たちが囚人との会話を進めていく。 「そうそう、ナゾトキに来たんですよ、ボクら」 ニッティが無邪気に声をあげる。 「思ったよりずっと囚人さんのテンションが不思議で、チョット本来の目的を忘れかけちゃってましたケド」 「そう、その《謎》です」 勇気を振り絞るようにして、正志も再び口を開く。 ムジカほどには囚人に明確な興味を向けることもできず、かといって、己のうちにある《謎を解き明かしたい》という衝動を抑えることもできず、ここに来て、そして彼と対峙する。 謎があるのなら解きたいという性が、正志を動かしていた。 「僕は、何故“少年”が犯人を確信できたのかが気になります。それ以外にあり得ないという決定的な証拠が残されていたのか、それとも、そう……傷の形状から凶器を特定し得たのかも知れませんが」 「特殊は凶器はたしかに、犯人を容易に特定できヨネ」 ニッティの言葉に、こくりと小さく頷き、正志は再び囚人へ視線を合わせる。 「気になるのは、もう一点。“彼女”が死んだのは、壱番世界でのことなのか、あるいはターミナルのチェンバー内でのことなのか。それだけでかなり状況は限られ、容疑者も限られるように思います」 引っかかっているのは、少年が犯人を確信した理由だ。 「その瞬間犯行に及べる人間が自分以外にひとりしかいなかったのなら、自分が犯人ではないなら後に残された選択肢は少ない、はずです」 「ココで問題になるのは、犯行時刻とか、そんな感じですヨネー?」 「ただ、この話の中では、時期も、登場人物も、場所も、ありとあらゆる情報が最小限に留められてはいますが……」 そこに意味は在るのか否か。 「より精密な舞台設定が必要かね?」 囚人の問いは正志にではなく、何故かニッティに向けられた。 「素材が多ければよいと言うことでもないのだが、不自由かね?」 そんな鉄仮面の奥の視線を真っ直ぐに見返し、 「お話の内容が断片的すぎかなーとはね、思いマスヨ? その場にいなかったボクらじゃ、とうてい真相には辿り着けないんじゃないカナ、と感じる程度には」 だけど、とニッティは言葉を続ける。 無邪気な思考ゲームを楽しむのだと宣言して、好き勝手に連想によってロジックを組み立ててみようと告げて、そうして、 「一番不自然なのは、胸に穴が穿たれてたってとこ。そこから話してみよっかな、と思うわけデスが」 立てた指で自分の胸の中心をさした。 「穴だって分かるくらいの致命傷を受けておいて、泉に浮かぶ血の量が“花弁に見える”程度っていうのは、オカシくないですか? その場で殺されたんなら、花びらじゃすまないヨネ。それこそ、“赤い絨毯”になっちゃうだろうしネー?」 探るように、けれどどこか無邪気に、告げる。 「というワケで……泉ではない別の場所で殺されて、その後に泉に落とされたってトコかなーって」 「落とされた、か」 反復するムジカに、ニッティはにこりと笑いかける。 「足跡がないのは雪が足跡を消してくれたから、……だけじゃあんまりデショ? そもそも、雪の上には彼女の足跡だけがありました、っていう方が、もっともーっと不可能性アップなワケですし?」 「……《雪密室》はしばしば、足跡の問題による犯行時間の誤認、あるいは犯行現場の誤認に一役買いはしますが」 「雪が降る前に殺したことが分かったところで、誰がどこでどんな恩恵を受けるのか、話の中だけじゃ分からないのはたしかだね。アリバイ証言を得ているわけじゃないだろう?」 「ええ、アリバイの証明はこの際、無意味と言うことで今回は捨ててもいいと思います」 「え。ダメですか? 雪が降る前に犯行が行われて、その後に雪が積もったって言うのはナシなんですか!?」 ニッティ、正志、ムジカのやりとりに、一は思わず仰け反りそうになる。 あるものをあるがままに解釈してはいけなかったのか、どれほどにひねり続けるのかと、頭を抱えたくなってしまった。 「単純に考えてちゃだめですか?」 「それじゃあ物語としての面白味がなくなるから」 ムジカが笑う。 それは一の感性や驚きを可笑しいというのではなく、自身の中の美意識をなぞる楽しみのために浮かべた笑みだ。 「どんなわずかな情報からでも、無限の可能性を創造できるのがいい」 「あー……ムジカさん、ホントにミステリ好きなんですねぇ」 思わずしみじみと呟く一に、彼はただ微笑んだ。 「それで、話の続きだが」 「というワケで、ボクはロストレイルからの転落死説をあげちゃおうと思ったり」 「ロストレイルから、ですか……」 ふむ、と正志が自身の顎に指を添えて、思案する。 どういう状況ならば、それが可能なのかを検討するように。 「走行中のロストレイルからでもいいけど、真上に停車場を作っちゃって、そこから狙いを定めて突き落とした、とかデスネ」 「そういうのもアリじゃないの、ってハナシですヨ。まあ、それで池に落ちるとか、すんごい低い確率でしょうけどネー」 「ここで、ひとつ気になることがある」 ロストレイルからの墜落をも視野に入れて語るニッティと正志に向けて、ムジカは『時系列』の検証を提示する。 「語り手は、前妻のひとり息子を『少年』と称した。それがロバートだというのなら、この物語は壱番世界でなければならない、だろ?」 ウサギの穴に転落したヘンリー・ベイフルック、彼のその後の行動から始まり、0世界の発見、世界図書館の設立、ファミリーといった周辺の人間関係の構図までも浮かび上がる。 エイドリアン・エルトダウンの息子であるならば、そうして前妻の死の物語であるというのなら、囚人が語る《発見者》はロバートに他ならない。 彼がロストナンバーになったのは、けっして幼少ではないのだ。 にもかかわらず『少年』と表現したということは、事件は彼らの《覚醒前》と考えられる。 「え、覚醒前ってコトは、ロストレイル説は却下ってコト?」 「ギアによる凶器の特定という手も使用できないと言うことですね?」 ふたりからの確認に、ムジカは小さく苦笑を漏らした。 「まあ、嘘も誠も織り交ぜられての虚構だ。いまさら、実際の時系列を持ち出すのもどうかとは思うが、できる限り『真実』のカタチに近づけるのもまた必要な作業だろうと思って」 それを踏まえた上で、ムジカが提示する《雪密室》の解答は―― 「泉が屋敷のすぐ傍、例えば夫婦の寝室の窓に面していたと仮定したらどうだろう? 犯行現場は寝室、胸に穿たれた穴はバルコニーの柵だったとしたら? 彼女の胸は貫かれ、そうして引き戻された末に、泉へと落ちていったのだとしたら?」 泉に彼女がたゆたうその姿を目にした瞬間、寝室の真下という場所、胸の傷の形状、それらの条件から、少年は《犯人に至る答え》を見いだせたのではないか、とムジカは言う。 「それじゃ、事故だか他殺だかあやふやになっちゃってマセン?」 「だからこそ告発できなかったという考え方もできますね……事故と他殺、そのどちらであったのか曖昧だとしたら、きっと事故として片付けられてしまいます」 整合性のひとつを見出し、正志は組み立てられていく物語を、自らの指先でなぞりながら、思考する。 エルトダウン家が商才あふれた富豪であればこそ、世間の目から事件を隠すことも容易なはずだ。家名に傷が付くような大きな騒ぎにはまずさせないだろう。 「んーと、それじゃ可能性の検討ってところで、質問! 夫の他に犯人だって言える余地はないんデスか? 登場人物、少なすぎません?」 言葉そのものはムジカたちに向けられてはいるのに、ニッティの視線は、推理を提示したムジカでも正志でもなく、囚人へと向けられていた。 「夫の妻殺しで完結するのはもったいない気もするんデスケド?」 「どうとでも取れるかもしれないが、犯人は夫であってもらいたいな。その方が美しい。そうだろう?」 犯罪には美学がなければいけない、犯行には愛が込められていなければいけない、そこに殺人の意味と意義があるのだとムジカは主張する。 「美学のない犯罪にどんな価値がある?」 正志が頷く。 「……この物語を“エイドリアン・エルトダウンの物語”だと、僕たちの招待主は言っています。なら、彼は登場しなければいけませんし」 だから、犯人は夫であるべきなのだろう。 ただし、その《事実》にたいしてどのような付加をつけていくか、推理を組み立てていくかが問題ではあるのだが。 「可能性をより精緻に、ですか」 溜息とともに呟く正志の言葉に重ね、一はしみじみと呟く。 「さすが、螺旋飯店で最優秀探偵賞の金バッチもらったムジカさんですねぇ」 「きみも銀バッチをもらっているだろう?」 「いえいえ、私なんかまだまだ」 おどけたように頭を振って、 「私はただ、“子供”が犯人を告発できなかったことそのものに意味があったとは思うんですよね」 そうして一は、ここにきてはじめて、自らの推理を口にする。 「明確な証拠が残っていたのなら、断罪できたはずです」 眉間にしわを寄せながら、懸命に言葉を選んでいく。 自分の中にある微妙な後ろめたさを払拭するように、努めて《囚人が描き出す物語》に意識を向けて、語りはじめる。 「でもしなかった。……なぜでしょう? だって、母親を死に追いやった存在って、許せるはずないじゃないですか」 少年は既に犯人が誰かを確信しているのだから、証拠があがりさえすれば、犯人をすぐにでも告発できるだろう。 しかし、幼い彼はそれをせず、遠回しの糾弾というカタチで踏み込むことをやめてしまっている。 「その理由はどこにあるんだろうって思って……私、犯人を確信しているのに直接言えなかったってコトは、感情論で決めちゃったんじゃないかなって思ったんですよね」 ぐるりと巡る思考は、ロバートという個人ではなく、母親を目撃した《少年》という記号の中で加速していく。 「もしくは、もみ消されると思ったから、チカラのない子供にはなにもできなかった、のかもですけど」 「感情論、か」 「一一さんのいう《感情》とはなんでしょう?」 「……両親の不和を、間近で見てきたから、とか……それ故に起きたのかな、とか……」 相手の承諾を得ずに、誰かの秘密に踏み込んでいく、奇妙な感覚。 背徳観という名の重みを、ただの虚構の物語だと自分に言い聞かせることで払いながら、一は言葉を紡いでいく。 「エイドリアンさんには後妻さんがいますよね? 姿を見たわけじゃないけど、その人とはいつ頃からお付き合いをはじめたのでしょう?」 たとえばソレがエルトダウン家の一員として迎えられる以前からの付き合いであるのなら、妻となった相手には夢も希望も愛もなく、あらゆる結びつきがなく、ただそこにいただけということになってしまう。 妻のある身で恋い焦がれたのだとしても、結局のところ、エイドリアンの想いは妻ではない別の所に向けられていたのだとしたら。 「それで、邪魔になって殺しチャッタ?」 「それではあまり美しくないな」 首を傾げて結論づけたニッティと不服申し立てをするムジカ、思案し無言のままに正志、そして興味深げにこちらの答えを待ち続ける囚人へ視線を順に巡らせ、一拍置いて、一はゆっくりと自分の中の答えを告げた。 「あるいは、自殺……だったのではないでしょうか?」 ふ、と、一の中に浮かんできて、口からこぼれた想いがソレだった。 証拠はなく、断罪もされず、少年の確信だけがわだかまって渦をまく、その先にある可能性のひとつ。 《彼女》は殺されたのではなく、自ら死を選んでしまったのだとしたら。 「自分を愛してくれない夫、自分を見てくれない夫、自分以外に愛を向ける夫の存在に心を痛め、苦しみ、自ら死を選んだ可能性だって、あるんです」 自殺の原因となった男を、《人殺し》だと断じるかもしれない。 「原因でありながら直接手を下していない、だから少年は父親を告発できなかった、と?」 なぞるように確認する正志へ、一は頷きで返す。 「ああ、ずっと気になっていたんだよ。コレでスッキリできるかもしれない」 ムジカは微笑み、囚人へと目を向けた。 「あなたの語った死の《場面》――凍り付いた泉に、浮かぶ死。長くたなびく美しい髪に絡む花弁……まさしく絵画的で、計算されて用意された光景のようにも思えてならなかったんだ」 「絵画は好きかね?」 「ミレイのオフィーリアは、ただ美しいだけで終わっていないところがいい」 「気づいたのなら、彼女の死を彩った花々と、その意味も分かるのだろうね?」 「ああ……彼女の周りには、ヤナギやイラクサ、ヒナギク、パンジー、野バラ、それにケシの花やスミレもあっただろう?」 ふたりがなにを話しているのか、一にも、そしてニッティにも分からない。 だが、正志は彼らの交わす言葉の意味を理解する。 「……見捨てられた愛、苦悩、愛の虚しさ、叶わぬ愛、哀しみ、死……すべてが彼女の心を映しているんだとしたら……」 可能性のひとつとして考えていないわけではなかった。 だからこそ自身の中に、泉にたゆたう、芸術作品のごとき姿が鮮明に描き出されていく《彼女の最後の姿》を感じた。 「では、どう考えるね?」 正志は一を見やる。 一はムジカを見やる。 螺旋飯店で見た肖像画の中の、美しく儚げな金の髪の女性の姿を見ているのはふたりだけ。 「……少なくともあなたが用意した物語の中では、彼女は夫の愛を得られぬ苦しみから、死を選んだ……一一さんの導きだした答えがもっともふさわしく感じるよ」 「素晴らしい! 実に素晴らしい時間だ!」 囚人は嬉しそうに声を弾ませ、立ち上がり、チカラの限り存分に拍手する。 「諸君らは実に興味深く解釈し、私の提示した物語にひとつの意味を生み出し、ひとつの物語を完成させるに至ったのだ! 私の長く退屈な時間が今ほど癒やされたことはない!」 許されるならひとりひとりをハグし、キスをしたいと、彼は言う。 「ロストレイルやギアを織り交ぜての犯行検証もまた、非常に個性的で面白かった。私は過去でありながら過去を述べているのではないのだから、自由な発想はさらなる刺激となって、まったく違う物語を紡ぐだろう」 「全ては虚構の物語に過ぎない。そうだろう?」 ムジカは笑う。 そうして、持参したヴァイオリンを手にした。 ガラス板に透明水彩で描いたかのようなエイドリアン・エルトダウンのチェンバー《ネモの湖畔》―― あそこで耳にしたのは、繊細にして精緻な旋律だった。 高く、深く、澄み渡った、オーロラから降りてきたあの音を、手にしたヴァイオリンで奏で始める。 自身の記憶の中にのみ存在していた音が、彼によって再生され、他者と共有されていく。 遠く、近く、漣のごとく、薄氷の泉の水底で眠るモノへ愛を捧げるかのような旋律を紡ぎ、奏でる。 美しすぎて踏み入ることを躊躇わせるあの情景が、ヴァイオリンの音色を通じて、ここにいる全員の心象風景となって浮かぶ。 「……なつかしい」 鉄仮面は目を細めた。 「その曲をどこで聴いたのだね?」 「……エイドリアン・エルトダウン氏のチェンバーで」 「あの、だれひとりなにひとつ生きているモノがいない場所に行ったのか。はは、面白い。実に面白い」 「この曲は誰に捧げられたものなのかも、あなたは知っているんじゃないのか?」 「知っているとも、もちろん知っている。いかにして生み出されたモノなのかすらも、私は十分に熟知している」 「おれは、彼が曲を捧げた“愛する妻”が誰なのか、知りたいと思っているんだ。それに、歌声を耳にした。とても切なく美しい、あの声の持ち主は誰なのだろう、という問いもそこにある」 あの声はけっして素人ではあり得ない。 声楽を学んだオペラ歌手であればこそ、あれほどの音域であれほどに美しい声を響かせられる。 しかし、その歌声の主が誰であるのか、あの時の自分には分からなかった。 「君は既にその答えを得ているのではないかね? 後はどう思うのか、どう解釈するのか、それは受け手の自由な感性であるべきだと私は思うのだよ。芸術とは、自由であるべきではないかね?」 「なるほど」 それがすべてだ。 囚人は明確な答えを差し出さない代わりに、示唆だけはする。 今のムジカにはそれだけで十分自身の知りたい応えに到達しうるだろうと彼は判断したと言うことだ。 「さあ、他にはないかね?」 「エイドリアン氏のことも気になるけれど、興味がないわけではないけれど、でも、僕はもっとターミナルについて知りたいと思っています」 思い切って、正志が挙手する。 「ターミナルは時が止まっている……僕は、降り積もり、風化することなく、まるで琥珀の中に閉じ込められたモノのように留まり続ける記憶に触れたい」 「詩的な表現だな」 「ムジカさんに感化されたのかもしれません」 「おれに?」 「もしくはこの場所そのものに……」 ホワイトタワーの地下独房に100年を超えて捕われている男と、虚構の物語の真相を語り合うという、その行為は非日常的過ぎて、幾分芝居めいている。 「物書きの性ではないのかね?」 コレは囚人からの投げかけだった。 「え」 「君の各文章を私はそれなりに楽しみにしているのだよ、マサシ。君が志すモノも、君が抱えている矛盾も、すべてが透けて見えてしまうけれどね、それがいいのだよ」 鉄仮面の奥でウィンクをひとつ。 茶目っ気たっぷりにおどけておきながら、その言葉に、その瞳に、正志はいいようのない思いを抱き、後ずさりたくなった。 「さて、なにが聞きたい?」 「……で、ではまずは……ターミナルにおける、最初の世界司書は誰なのか」 それでも尚、自身の性ゆえに問いかける。 「ああ、それはひどく簡単な問いだ。君らの知らないファミリーのひとりが最初の世界司書であった、そう答えるだけで済むのだからね」 「その方は、今は?」 「神の御許へと送られた」 だから今はもういないのだと、言外に告げて、気さくな様子で肩を竦めたその姿に、何故か不安を覚える。 たったそれだけの質問、たったそれだけの返しに、自分はなにを感じ取ってしまっているのか分からない。 だが、恐ろしい。 「さて、他に知りたいことはないのかね?」 「私もひとつ聞きたいです」 一は真っ直ぐに鉄仮面の男を見据える。 「ここには、誰も来ないんですか? 本当にたったひとりなんですか?」 故郷から離れ、帰る場所を見失い、ターミナルでひとり生活する身であるがゆえに、一は、《孤独》という現象に意識が向かう。 淋しくないのかと、問いかけてしまう。 「その問いは、君の、おそらくは幼少時に培われた感覚、恐れ、感傷によってカタチとなったモノなのだろうね、ヒメ」 「え?」 今、囚人に名を呼ばれてしまった自分が彼になにを指摘されたのか、一瞬分からなかった。 次いで、突き刺さるような鋭い痛みが胸を貫く。 コレは恐怖にも近しい感覚。 なにもかもを見透かされてしまう、自分の内側のすべてを晒されてしまうかもしれない恐れに、ざわりと肌が粟立った。 だが、彼はそこから更に先へと踏み込んでは来なかった。 「訪問者はゼロではないな。そう、少し前にもひとり来たところだ。諸君らが招待を受けてくれるという、その知らせを持って」 囚人の声は穏やかで、何故か妙な親しみすらも感じさせる。 たったいま胸に穿たれた痛みの棘を忘れてしまうほどに。 「君はロバートに興味があると見える。なにかと縁も深いようだがね」 「金貨野郎がどうこうってのはなしにしてくださいよ」 半ば反射的に、心底いやそうに一は釘を刺す。 例えそれが本心からの言葉ではないとしても、囚人は構わないのかもしれない。 「アレはやり場のない憎しみと共に生きてはいる。ゆえに君にはいささか不快な存在に映るのだろうがね、なに、すべては虚構、どう受け止めようと君の自由だ」 さあ次は、と彼はせかす。 「ではボクからもひとつ」 最後の最後に、もっとも疑問だった問いを、真っ直ぐな笑みで以てニッティは問いかける。 「貴方が犯した罪は、殺人罪デスカ?」 囚人は、笑った。 笑って、笑って、たまらなく可笑しいと言いたげに声をあげて笑って――それから、哄笑じみた声をぴたりと喉の奥に収めると、真っ直ぐにニッティを捉えた。 「君のその問いは、先程の《虚構の物語》の真相に手を伸ばし、同時に、私が何故ここに閉じこめられるに至ったのか、その謎にも手を伸ばしていることになるな」 称賛を込めて、パチパチと拍手する。 「少年の母親を殺したのが、実はこの私だという疑念を持っているのだとしたら、なるほど、なかなかにユニークかつ正当な問いだ」 だが、それも数回で止まる。 「あれ、もう褒めてくれないとか?」 「褒めたいのだがね、しかしながら、あいにくと私は君のその期待に応えられるようなことはしていない。私はエイドリアン・エルトダウンの妻を殺した犯人ではないからな」 鉄仮面の奥から覗く瞳はぞっとするほど鋭くキラキラと輝いている。 長く見つめていてはこちらの気が触れてしまいそうになるほど、強烈な狂気の彩を放って、彼は告げる。 「失われた右腕、愛するモノを掴めずに終えたその右腕で、君は真相に手を伸ばすのだね、ニッティ」 素晴らしい、と告げる声に、かつての喪失の痛みが鋭く駆け抜けていき、軽々と操ってきたはずの言葉を詰まらせる。 「さあ、次はないのかね? 問いかけに応えられる時間はもうあまりないのだよ、諸君。沈黙してしまえば、そこですべてが閉ざされる」 彼は急かす。 急かす。 急かされるままに、正志とムジカの声は重なる。 「あなたは《だれ》だ?」 「あなたの犯した罪はなんですか?」 これほどに深くエイドリアンとロバートの覚醒以前の《物語》を紡ぐことのできる存在――だとすれば彼は当然ただの囚人であるはずがない。 その確信で以て投げたふたりの問いに、鉄仮面は笑った。 「私は囚人、私は思索家、私は批評家、その私を、ロバートは叔父と呼ぶだろう。そしてエイドリアンは私を義弟と呼ぶ。そして――」 そう、そして。 「私はファミリーを殺したファミリー。最初の世界司書を葬り去った私の名は――」 不意に、鐘が鳴った。 彼の声を掻き消すかのごとく、リンゴンと重々しくも凄まじい、懺悔を強いる教会の鐘の音が無数に鳴り響く。 「残念、時間切れだ」 心底残念そうに、囚人は天井を見上げた。 分厚い壁の向こう側に、彼は今何を見たのか。 「諸君、また私を訪ねてきたまえ。なに、エヴァがどう言おうとも構わないだろう? 私は諸君らの来訪を心待ちにしているのだから」 またおいで。 謎を求め、解き明かすことを求める仔羊の来訪を、自分は心から望んでいるのだから。 「優しいようでいて残酷な、無関心ゆえに他者の罪も自身の罪をも見ない振りできるこの街に、絶望したならば、またおいで。その胸の裡を語りにおいで」 いつでも歓迎する、と彼は言う。 「ムジカ、ヒメ、ニッティ、正志、私は君達を友人だと思っているよ」 その言葉を最後に、《昔話》を語り合う場の幕は下りた。 シュレディンガーの猫のごとくに、閉じた匣の中でなにが起きたのか、観測するまでは分からない。 彼の語ったすべてが、真実であったのかどうか、わずかでも事実を含んでいたのかどうかすら、分からない。 けれどそれでも、今まで問いかけることすら叶わなかった謎のいくつかにこの指先が触れ、同時に、胸に差し込まれた棘の痛みは、確かなモノとして存在していた。 後日。 囚人と面会を果たした四人の元へ、エルトダウン家の署名が施された礼状と、別の謎掛けめいた物語が一篇、ホワイトタワーより届くことになるのだが、それはまた別のお話。 END
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