逃げなくてはならない。 左目が熱くて何も見えない。突如飛来してきた鷲だか鷹だか、とにかく大きな鳥の嘴にやられたのだ。そうだ、鳥といえば、先程から私と併走するかのように霧に移る、巨大な鳥の影はなんだ? 単なる影ならいざ知らず、それは日輪だか後光のようなものに包まれている。 しかし、そんなことよりも逃げなくてはならない。 獣の咆哮。誰かの悲鳴。その肉が引き裂かれ、噛み千切られる音。凄惨なる木霊がブナ林の方々から聞こえる。恐ろしかった。耳を塞いで蹲ってしまいたかった。だが、そんな暇はない。 一刻も早く、逃げなくてはならない。 さもなければ私も、彼らと同じ末路を辿ることだろう。 熊が多いとは聞いていた。今日は霧が出るから止せ、とも。 ツアーで一緒に来た登山客は、皆喰われてしまったのだろうか。あれらの黒い獣は本当に熊なのだろうか。いや、熊だけではない。猿や鳥のようなものもそこら中を飛び回っている。動物が異種混合の群をなして人を襲うことなどあるのだろうか。 判らない。何も判らない。ただ、この山が、いや、白神山地全域が、おぞましい何者かに蹂躙されているような気がした。「――はっ!?」 ただでさえ柔らかくて不安定な腐葉土を走り続けてくたびれていたところに、駄目押しで剥き出したいびつな木の根に足を取られてしまい、私は派手に転んだ。 突っ伏した顔を上げると、目の前には見慣れない木が、ブナの只中に一本だけ生えていた。白く縁取られた羽状の葉。これは何だったか――。 幹には数珠らしきものが、二重に巻きつけられている。「……まあ、たいへん」 不意に、頭上――謎の木のほうから、若い女の驚いたような声がした。「ほれ見たことか、サロメよ。お主の『掟』とやらでは苗を守り抜けんぞ」 続いて、遥か樹上より響く、野太く高圧的な男の声。「サネ殿こそ……この方を、わざと見過ごしたのではありませんの……? 『天狗』が、聞いて呆れます……」「ふん! 儂が手を下すまでもないわ。熊にでもくれてやれば良かろう?」 男の台詞に私はぎょっとし、急いで身を起こした。 ぶよぶよした感触の腐葉土に両手両膝を突き、前を見ると、そこには。 肩に雀を乗せた女が、木陰から私のほうに視線を寄越していた。肌寒い山中だというのに、夜着にカーディガンを羽織るだけの姿で。「……そう、ですわね――うっ、ごほっごほっ」「胸を患うておる癖にでしゃばるからだ。馬鹿め」 なにやら咳き込んだかと思えば血を吐く女。いや、それよりも無慈悲な言動に冷や水を浴びせられた気がした。その直後。「――っ!?」 私は背後から、ずん――と何かがぶつかる衝撃に襲われ、再び地に伏した。同時に焼かれたような激痛が、背中に走る。肩を挟み込んで突き刺さる、これは牙か。では、ぶちぶちと耳元で鳴るのは、私の――。 ぱん、と弾ける音がし、耳に温かいものが流れてきた。それが何なのか確かめる術はない。身体から力が抜ける。私に圧し掛かる何物かは息を荒げながら、私の腰を、腕を、尻を、脚を、愛しげに何度もごきりぶつりと齧りつき、がつがつと咀嚼しているようだった。「時に……なぜ、今になって『天狗』ですの……?」「知れたこと。神隠しの山には外道と相場が決まっておる!」「では……鼻柱を折られたりせぬよう、ゆめ……お気をつけあそばせ」「サロメ愚かなり! 我が面にあるは嘴ぞ」 愚にもつかぬ会話を聞きながら遠退く意識の中、私は、そういえばあの木はとねりこに似ている、などと、ぼんやり考えていた。*****「――と、まあ大体そんな感じですよう……ううう」 世界司書のガラは、空いている手で尻の辺りをさすりながら苦い顔をした。 予言された未来は、世界樹旅団によってもたらされる。 世界司書が知った出来事はまだ不確定な未来だ。しかし、このままでは確実に訪れる出来事でもあるのだ。 壱番世界各地の「世界遺産」をターゲットに、何組かの旅団のパーティーが襲来することが判明した。かれらは「世界樹の苗」と呼ばれる植物のようなものを植え付けることが任務のようだ。その苗木は急速に成長し、やがて、司書が予言したような惨劇を引き起こす。 言うまでもなく……「世界樹の苗」とは、世界樹旅団を統べるという謎の存在「世界樹」の分体だ。 だが、この作戦を事前に察知したことにより、世界図書館のロストナンバーたちは、苗木が植え付けられてすぐの頃に到着することができるだろう。周辺の壱番世界の人々を逃がす時間は十分に確保できるはずだ。 むろんそのあとで、苗木は滅ぼさねばならない。苗木は吸い上げた壱番世界の『歴史』や『自然環境』の情報をもとに反撃してくるであろうし、旅団のツーリストも黙ってはいない。 司書は、引き続き、戦うことになるはずの、敵について告げる。「ええと。今お話したとおり、ここの世界樹旅団は、ふたりです」 ガラは「に」と手をチョキにして皆のほうに突き出し、過剰に腕を振る。「ひとりは女の人で名前はサロメ。場所や物を指定して、『結界』って言うの? なんかそんなようなものを張る力があるみたい。今回の場合だと、まずは苗木の付近一帯――ああ、ブナの原生林なんですけど――そこに、意識を逸らすかなんかして人を迷わせる結界を張ってるんだって。条件つきで」 条件と聞いて首を傾げる旅人達に、ガラも首を傾げて話を続けた。「なんでしょうね? 確か『掟』とか言ってましたけど、結界の中で決められたルールに従わないと迷子になっちゃうとか、そんな?」 裏を返せば、『掟』に従えば問題なく林を通り抜けられるとも考えられる。「それからもうひとつ。世界樹の苗木に、頑丈になるような結界を張ってるみたい。こっちは掟とかがない代わり、そこまで強力じゃないみたいだけど」 そうは言うものの、捨て置けば苗木を滅ぼすのに手間取りそうなものだ。「どっちの結界も、術者が居ないと駄目になるんだって」 即ち、サロメを無力化すれば、結界は解けるということだろう。 ガラは、もうひとりの旅団メンバーについても言及する。「もうひとりはね。んー……実は、どんな格好かわかんないんですアハハ」 頼りなく笑う世界司書の言葉に、一部の旅人が呆れた顔をした。「だってだって肩にスズメ乗せた女の人しか視えなかったんですよう」 駄々っ子は言い訳もそこそこに、少し卑屈な声で知り得たことを告げる。「名前はサネ、多分男の人です。風を操る力があって、目にも止まらない速さで移動しながら敵を切りつけてそのまま隠れたり、自分がたてた物音を全然違う場所で鳴らしたりできるとか――あ。迷子の結界を利用して、隠れながら攻めてきそう。やらしいですよう」 ガラは、見ず知らずのサネとやらを八つ当たり気味に誹謗した。 それにしても、姿かたちが視えなかったと言うわりには、なかなか具体的な情報である。何か見落としていることでもあるのだろうか。「ヘンですよねえ」 ガラとしても同感なのか、人差し指を頬骨に当てながら考える素振りをみせた。「そうそう。このふたりとの戦いに時間をかけてると、クマの実やカモシカの実、サルの実、ワシ、タカ、キツツキの実にブナの実なんかも苗木に生って、君達に襲いかかります。気をつけてね」 最初に話していた情景の補足とも言える、不穏且つ重要なことをさらっと付け足して、ガラはさっさと次の話に移った。「場所のことも詳しくいきますよう。サロメとサネが苗木を植えたのは、日本の、青森から秋田に伸びてる『白神山地』。自然遺産ですね」 白神山地といえば、八千年前とも一万年前とも言われる大昔から悠久の時を経て今に残るブナの原生林が有名であり、また、それこそが遺産の中核とされる。「山はいくつもあるんですけど、その中でも特にコアゾーンにさしかかるところに、世界樹の苗木が植えられてます。周りにも同じくらいの高さの木がいっぱいあるから、サロメの結界がなくても探すのはちょっと大変かも」 皮肉にも侵略される側が、侵略する存在を隠して守っている。「しかも、なんといっても原生林なので、かなり生い茂ってて動きづらいし歩きにくいです。でも、それでも。切ったり折ったりしないように気をつけてください。ましてや燃やすだなんて、ぜったい駄目」 ガラの言は、例えば文化遺産を破壊してはならないのと同じ理屈ではある。しかし、ブナ林が自然遺産であると同時に戦いの場でもあるのなら、木々に留意する以上は、敵ツーリストや苗木への攻撃手段が制限されてしまうだろう。 気を引き締めて臨まねばなるまい。 けれどガラが送る激励は、どこか気の抜けたものだった。「今から行けば朝早くには着きます。色々大変ですけど頑張ってくださいよう」「最後に大事なことをひとつ。最初にお話した登山家の人達のことなんだけど。君達が着く頃、あの人達はまだ苗木の近くまで来てないの」 それは先日、世界図書館の旅人達が世界中を巡って世界樹旅団のツーリストを捕らえた成果に他ならない。彼らから計画を聞き出すのが遅ければ、あるいは、そもそも捕らえることができなければ、世界図書館が感知する頃には既に、導きの書に示された未来そのままの惨劇が起きていただろう。「君達のおかげで、このタイミングに滑り込めたんです。先回りしてうまく避難させてあげてください。全員一緒に歩いてるから、すぐ見つかりますよう」!注意!イベントシナリオ群『侵略の植樹』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『侵略の植樹』シナリオへの複数参加(抽選へのエントリー含む)はご遠慮下さい。
飛天鴉刃は、遠目に『それ』を認めた。 彩度の低い緑の上衣を羽織り、その下の白い夜着の裾付近まで、無闇やたらと長い黒髪が溶けるように広がる。線の細い色白な手足は、明らかに女性である。 日差しが落ちて温かな色合いの靄の只中で、再び立ち止まったそれは、じっと――鴉刃の方を見ているようだった。 未だ距離があり、こちら側は暗所でもある為、見えているとは考え難いが。 僅かな逡巡を振り払い、鴉刃は前へと勢い良く飛んだ。途中引っかかった枝は、彼女の硬い皮膚にあるいは弾かれ、あるいは折れて飛散した。 やがて、さっと視界が開けると共に、漆黒の肌に黄金色の日が注ぐ。 サロメは目前。邪魔者の気配も無い。 鴉刃は、何故か穏やかな笑みを向ける女目掛けて、一気に突撃した。 お待ち致しておりました……――。 「サネさんのことですけど」 口火を切ったのは、舞原絵奈だった。 未だ壱番世界行きの列車がディラックの空を駆け抜けている最中のことである。 「ガラさんは、姿が見えないのに情報があることを不思議がられていましたが、やっぱり……見えていたと思うんです」 「だよね。おねーさんの肩に乗ってたっていう雀なんじゃない?」 後ろの座席から身を乗り出す臣雀に、絵奈が頷き返す。 「そう言えば、大学の講義で聞いた覚えが……」 二人の少女の遣り取りに、山本檸於も思い当たることがあった。 ガラによれば、サネと思しき男はかの地を『神隠しの山』と称し、それにあやかって自らを『外道』、更には『天狗』としていた。 外道とは、そもそも仏教六道の範疇の外、また外に外れた者を指す。 「天狗で外道なら、確か『天狗道』」 この場合の天狗とは、慢心の果てに天狗道に堕ちた修験者のことだ。 一説によれば、彼らは山林に住む鳥そのままの姿をしていると言う。 「つまり、サネは鳥……雀の姿ってことか」 檸於は、自身の膝上にちょこんと座るフォックスフォームの『ぷる太』を撫でながら、そう結んだ。心なしか、セクタンも神妙な面持ちに見える。 隅の席で腕組みしながら聞いていた鴉刃が仲間達の考察に「ふむ」と頷く。 「なるほどな」 「ってことは、素早い上に小さいってこと?」 通路を挟んだ隣で銃の点検をしていた小依来歌が、「厄介だわ」と溜息を吐いた。捕捉し難いのみならず、標的が小さいとなれば無理からぬことだろう。 来歌の言葉を受けて、檸於が一同を見渡した。 「それなんだけど――ちょっと、考えてることがあるんだ」 「考え?」 「作戦、ですか?」 見目にも起伏に富んだ、白神連峰の中でも北側に位置する、ある山中。 急な傾斜は、ふやけた枯葉と腐葉土のせいもあって随分と歩き難い。永い時を経て、ただ生えては枯れることをひたすら繰り返してきたブナ達は、誰に遠慮することさえなく密生し、闖入者の視界を、行く手を、時に遮る。更には晴天が災いしてか、一帯は薄霧に覆われていた。 この、探し物には不向きな条件ばかり揃った林の中で、旅人達は、たった一本の木を可及的速やかに特定し、滅ぼさねばならない。 「――……うん。綺麗な樹林ね」 来歌は辺りを見回しながら、鷹揚に呟いた。 一刻を争う今の状況を失念している訳では無い。ただ、それでも――少なくとも来歌にとって、ブナの原生林は美しかった。たとえ世界遺産でなくとも、みだりに傷つけてはならぬという気にさせる。 「ええ、本当に……」 誰へとも知れぬ言葉に頷く絵奈も、同じ気持ちのようだ。 しかし、ここまで生い茂っていて、無傷で済ませるのは厳しいものがある。 「枝の数本は、覚悟しないといけなさそう」 ――枝の数本で、済めば良いけど。 声に出した内容は、『覚悟』などと言ってさえ希望的観測に過ぎないことを、来歌自身良く理解していた。この地を舞台に、やがて訪れるであろう世界樹旅団との戦いの時――それを思えば。 旅人達は、登山客達が付近に立ち入れぬよう差し向けてから、すぐに入山した。 やがて、周囲がすっかりブナの木ばかりになった頃、道らしい道は世界司書の予見で示された方位には見当たらず、代わりに沢に行き当たった。他に宛ても無く、闇雲に突き進むよりはと、途切れるまでそれに従って登ることにしたのだ。 その沢も上り詰めて、遺産のコアゾーンにある程度食い込んだ頃。 異変は起きた。 「……ぬ」 真っ先に気付いたのが鴉刃だったのは、当然とも言える。彼女は元来方向感覚に優れており、ならばこそ、己の歩みが意にそぐわぬことが不快だった。 沢を離れる時に確かめた方位磁針を再び見て、違和感は更に増す。 南西にほぼ直進していたはずなのに、今、鴉刃達は東を向いているのである。 ――針が狂わされていなければの話だが。 「待て」 振り向いた四人も薄々は感じていたのだろう、自分達を呼び止める鴉刃の手元を見て、得心したようだった。 既にここは、世界樹旅団の者が敷いた結界の内部なのだと言うことを。 「任せて」 雀がパスホルダから取り出したのは、琺瑯の風鈴。 それを、微風を真似るようにゆっくりと揺らす。揺動を追って金属とも硝子とも知れぬ不思議な音色が、清静なる森に響いた。 「この風鈴には皆の心眼を開いて、敵の結界を破る効果もあるの。私が先導するから、着いて来て」 確かに、不可思議な居心地の悪さは、幾分か薄れているようだが――、 「惑わされちゃだめ。小枝を交差させて置くとか、地面に目印付けとくと――」 「――待って下さい」 また歩き出して程無く、今度は絵奈が皆を制止した。「その、さっきほどではないんですけど」と前置く少女の手には、やはりコンパスが握られている。どこか言い難そうなのは、雀を気遣っている為かも知れない。 「だんだん北の方に逸れてるみたい……です」 「えええ!?」 半ば以上の確信を以って皆を導いていた雀は、その指摘に案の定愕然とした。 雀は、此度の敵と同じく結界に精通する者として、ブナ林に施された結界の触媒を霧と木霊と見立てていた。それが見当違いなのか、あるいは敵の術が容易に破れぬほど強力なのか。 「確か予見だと」 うーんと考え込んでしまった雀を見かねて、檸於が自身の考えを述べる。 「登山客は、逃げようとして苗木に辿り着いた。ここから出ようとすると、逆に中心部――苗――の元に着くとか……?」 「あ――」 「苗木を発見されないようにかける結界……『探す』という行動が不利となる掟?」 檸於の見立てに絵奈は何事か添えようとしたが、来歌に先を越されて機会を逸してしまった。来歌は尚も続ける。 「組み合わせか単体か見当もつかないけど。登山家の最期の行動、状況は――」 ――理解の及ばない存在から逃げていた。 ――後光に包まれた鳥と併走していた。 ――走り続け、疲弊していた。 「左眼を負傷していた――」 「それだ」 「え」 不意に鴉刃が押し殺した声で来歌を制止した。 「『それ』ってのは」 「こう言うことだ」 檸於に応じた龍人は、長い爪を生やした黒い手で片目を覆う。同時に、その身に纏わり付いていた異質な感覚が完全に失せていた。そして、両の目を開くと、再び不快感が襲う。 「間違い無かろう」 僅か顔をしかめながら、鴉刃は雀に視線を送る。雀は、その意味を悟ってブナ林を振り返る。あどけない眼差しが向けられたのは、結界の本質。 それは、どうやら言の葉――言霊とも言うべきもののようだった。 「視えた!」 明確化された対象を清めるべく、雀は再び風鈴を鳴らす。 その音色に誘われるかのように穏やかな風が吹き、僅かばかり霧を薄めた。 「行こう」 ※ ――サロメ! 「…………? 如何なさいまして……? 『天狗』様」 ――お主の『掟』が破られたぞ。世界図書館の子飼いどもにな! 「……あら」 ――『あら』では無いわこの戯けが! 「……何れお見えになるものと存じておりましたが……お早いお着きだこと」 ――何を悠長に構えておるっ! これで苗木を見付けられでもしたら……! 「……そう、ですわね。せめて……『実』が生るまでは……」 ※ その後の進路に関しては、まず、鴉刃が樹上を突き抜けて上空から現在位置を把握し、その上で、とりあえずは檸於が言っていた森の中心部を目指すことになった。 併せ、絵奈が気配を察知する『陣』を施し、更に雀が身動きを加速させる『風の呪符』全員に配り、それらを以って敵の襲撃への備えとした。 徐に茂みが大袈裟にがさがさ揺れて、いたずらに旅人達の警戒を煽る。 「大丈夫。敵じゃないわ」 すかさず諌めた来歌が、その方向に害意が認められないことを付け加えた。 気配と言えば、そこかしこで鳥獣と思しき気配が感知できる。その中から、もし来歌への害意が示されれば、彼女には即座に判るのだ。。 やがて茂みから、クマゲラがひょこっと間の抜けた顔を出した。 「いや」 今度は鴉刃の髭が、ぴたりと止まる。鴉刃自身もまた、静止した。 飛び去るクマゲラと擦れ違った絵奈が、宙に漂う龍人に追い付く。 「鴉刃さん?」 仲間達も何事かとそちらに目を遣れば、鴉刃がある方位を凝視している。 「どうしたの?」 「敵か?」 「判らぬ。だが――」 鴉刃に元より備わる気配察知の能力は、絵奈の陣によって、より研ぎ澄まされている。それは、恐らく距離と言う形で顕れていた。他の者では気付けぬ範囲まで、今の鴉刃には認識できるのだろう。 「――人の気配だ」 言い捨てた鴉刃は龍蛇の如く身をくねらせて、直前まで見据えていた方向に飛んで行く。 (私達以外で、この森に居るのは……) 「あっ……わ、私も!」 絵奈が仲間のうねる尻尾を慌てて追いかける。 「お、おい!」 「絵奈さん!」 「すみません、皆さんは先に行ってて下さい!」 絵奈もまた桃色の髪をなびかせて、茂みと霧の向こうに消えていった。 「先にったって……」 「余所見してる暇は無さそうよ」 「えっ」 「!」 不意に発せられた来歌の鋭い声に、雀と檸於が身構えた。 「もっともこの場合、どの方向が余所見なのか判らないけどね」 来歌は自嘲気味に言いながら、銀色の自動式拳銃を眼前に構える。敵――恐らくはサネがこちらに近付いていることを、暗に示していた。 檸於もパスホルダーから玩具にしては大きなロボを取り出すと、「発進! レオカイザー!」とちょっと照れながら絶叫する。雀は、両手に呪符を一枚ずつ用意した。 ――はっはっはっはっはっはっはっはっ! 「後ろっ!」 空からの野太い高笑いと来歌の声が同時に響いた次の瞬間。 後光を纏う巨大な鳥影が舞い降りるのを、雀は見た。 「来歌さん!」 幾筋かの絹糸に似た髪と、鮮血が、宙を舞った。 (……止まった?) 鴉刃は、後方に居る仲間達の気配に動きが無いことを些か不審に思いながら、それでも前へ進んだ。移動していないと言えば、目指すところに居るであろう何者かも同じだ。 今、鴉刃が認識している移動中の人間は、自身と彼女を追う絵奈のみである。他にも、時折やや大きな気配はあるが、これは熊か何かであろう。 鴉刃は太い幹をくるりと迂回したところで留まり、ちらりと後ろを見た。 絵奈は腐葉土や野草、時には溶け残った残雪に足を取られながらも、引き離されまいとしているのだろう。よく着いて来ている。 少しだけ待ってやるか――そんな気持ちが浮かびかけた矢先。 「――!」 鴉刃は前方を振り向いた。追いつく寸前だった黒龍の様子にただならぬものを感じたのか、絵奈は声音を抑えながら、その名を呼ぶ。 「鴉刃さん」 「静かに」 進行方向に停滞していた気配が薄れ始めている。 気付かれたのか、偶々か、何れにせよ遠退いているらしい。 (だが、追えぬ速さではない) 鴉刃は先程よりも速度を上げて、更に奥深くへと潜り込む。 「ま、待って下さい!」 絵奈が追い駆けて来るのを感じたが、こと移動に関してはより制限の少ない鴉刃が徐々に引き離し。ついには――実際には前しか見ていなかったが――もし鴉刃が振り向いたとしても、樹林の向こうに桃色の髪が見え隠れすることは無くなる程、二人の距離は開いて行った。 「来歌さん!」 雀の悲鳴と同時に辛うじて身を避けた来歌は、裂けた首筋に触れて具合を確かめた。彼女に背を向けた檸於が、ちらりと覗き見る。 「大丈夫か?」 「掠り傷よ」 敵の初動位置と自身への害意を共に感知できなければ、そして雀の風の呪符が無ければ、今頃首と胴が分かれていたかも知れない。とは言え、一先ず直線的な攻撃ならどうにか回避できそうだ。 (直線なら、ね) 目で捉えられないのなら、能力で捉えれば良い――当初、来歌はそう考えていた。完全に動きを捕捉出来なくとも、大雑把な位置を仲間に知らせることは今しがた薄皮一枚で検証出来た。 サネは、例えるなら敵意の込められた銃弾のようなものだろうか。問題は、変則的な動きをされた場合。となれば、通り魔よろしくやり逃げしていった敵の、次の出方が気に懸かる。 小さな気配は、凄まじい速さで三人の周囲を不規則に飛び回っているらしかった。姿は見えず、せいぜい乱暴に枝葉を散らしているのが方々に窺える程度だ。今のままではどこから来るのか想像もつかない。 ――小癪な! その声は、立ち尽くす旅人達の足元から、 ――大人しく斬られておれば楽になれたものを! 来歌の耳元から、 ――雑魚どもが天狗に逆らうか! 檸於の背後から、 ――ならば弄り殺してやろう! 雀の目の前から、全てを見下しているともとれる高慢さを以って浴びせられた。 刹那。 「雀、右!」 「わっ!」 「檸於、足元!」 「っと――レオシィィィルドッ!」 矢継ぎ早に発せられた来歌の警告に、雀が屈めばその頭上の風を切る音が過ぎ去り、檸於が慌ててギアに命じれば、その足元で構えられたロボの盾に金属音が鳴る。直後、周囲に生えていた野草がごっそりと薙ぎ払われた。 「危なかった……!」 そして、再び気配と害意が一同を取り巻く。 ――小賢しくも術を仕込みおったか? どうせ死ぬというのに……愚かなことよ! うねる風に声が乗せられたかのように、その口上は来歌を突き抜けて檸於の周囲をぐるぐると回った後、雀の前で消えた。 「……二人とも、絵奈さんの話覚えてる?」 「ああ」 「もちろん」 サネの声でのせいか、ちょっと不機嫌な顔で雀が語りだしたのは、例の鳥影のことである。 ロストレイル客車内でサネの話をする前、絵奈はこんなことを言っていた。 『影を囲んでいた日輪は、ブロッケン現象によるものではないかと思います。影が大きいほど、本体は光源寄りなんです。本の受け売りですけど』 「さっき来歌さんが狙われた時、確かに見たよ」 「だからすぐに声かけてくれたのね」 「なら、例の作戦も、少しはタイミング合わせ易いかもな」 ――何をごちゃごちゃと話しておる! 微妙に苛立ち始めた声が、ぴしゃりと叩きつけられた気がした。 (怯むな俺!) 檸於は二人の仲間と目配せし合うと、大きく息を吸い込んで、出来るだけ大声でやり返した。 「天狗道は、利益に溺れた傲慢で慢心した山伏が堕ちるらしいな?」 ――何? 「あんたにぴったりだよ! 負けるはずが無いと思ってるんだろ?」 威勢の良い声で挑発的な言葉を浴びせる檸於は、一方でじりじりと後退し、隣り合った二本の木に挟まれたところで立ち止まった。足元には、レオカイザー!とぷる太が並んでいる。 ――ふんっ貴様ら如きに遅れを取る道理がないわ! それとも何か? まさかこの儂に勝てる気でおるのか? 小僧! (あれ? 押しが弱いか?) 明らかに不快感を顕しているサネは、しかし激昂するには至らないようだ。 「当たり前じゃない?」 そこに、雀がぴょんと檸於の前に跳び、着地でよろめきながら両側の木に手を着いた。そして振り向くと、空に向かって胸を張った。 「だってサネさんて――雀なんでしょ? 雀が人間に敵うわけないもんね」 ――なっ貴様何故儂の名をっっ……いやそれよりも――今なんと申した。 サネの反応に目をくすりと笑んだ雀は、わざと大声で繰り返した。 「だからぁ、雀が人間に敵うわけないって! あははっ!」 ここぞとばかりにくすぐったい声で笑い、駄目押しも欠かさない。 「天狗なんて言うからどんなおっかない人なのかなあと思ったけど、きっと小っちゃくて可愛いんだね! なんだかとっても美味しそう……雀の姿焼きって、どんな味かな~?」 サネは、 ――しなす。 今までとは打って変わり、地の底から響くような低い声で、唸るようにそれだけ言った。 「あたしもおんなじ雀だよ。どっちがすばしっこいか比べっ――きゃあっ!」 尚も軽口を叩く雀が全てを言い終える前に――その小柄は突風と共に横殴りに弾き飛ばされた。 それは檸於の目の前で起こり、直後に轟くような音が風を追い駆けていった。 (音が後からって……まさか音速なのか!?) 「くっ!」 来歌が気配のある方へ銃口を向けては続け様に発砲する。命中した様子も無いが、身をかわした影響なのか、時折一瞬だけ巨大な影が霧に映る。しかし、最早何なのか見分けがつかぬほど、それは速かった。 ともあれ、牽制にはなっていたらしく、来歌が撃ち込んでいる間の襲撃は無い。その間に雀も眩暈を堪えて立ち上がり、檸於の前へと向かった。 今、彼らの周囲は枝葉が叩き折られながら、凄まじい速さの風に巻かれていた。その円の中に居てさえ、身体が持ち上げられそうな気になる。 雀は煽られてふらつきながらも、なんとか目的地へと辿り着くと、力を振り絞って叫んだ。 「どうしたの! まだ生きてるよ! 悔しかったらここまでおいで!」 ――しね。 サネの声は、霧の影から発せられた気がして。 だから、鉄の塊のような突風が雀めがけて飛んだ瞬間、来歌はすぐに反応することが出来た。 「檸於!」 「やれ! ぷる太!」 いつの間にか雀の頭に乗っていたぷる太が、閃光を放つ。 ――なっ!? ぐああああああああ! 悲鳴の後、目を焼かれて堪らず減速したサネは、そのまま弧を描いて雀と檸於の方へ飛ぶ。 そして――森に、雷が落ちた。 雀の足元には、ひくひくと痙攣して気を失った、焦げた雀の姿があった。 仄かに温かい色の薄霧に包まれた、ブナの林。 小部屋程度に開けたそこで、絵奈の目に映ったものは。 辺りの彩りから酷く浮いた、立ち尽くす真っ黒な死神と。 胸の下を朱に染めた、草に埋もれんばかりに横たわる、女の姿。 まるで一枚の絵――そんな光景に不覚にも目を奪われた己に、はっと気付いた絵奈は、死神――鴉刃の元へ、とにかく駆け寄った。 鴉刃は絵奈を一瞥してから、再度眼下の女――サロメを細目で睨む。 「待っていたと言っていたな」 「貴女方がお見えになることは……先程…………風の、便りに……うっゴホッゴホッ!」 「サネとやらの能力か」 「ええ……そうで、なくても…………自分の結界、に、人が来れば…………」 「ふん、判るか」 「鴉刃さん!」 いたたまれなくなって名を呼んだ絵奈に、鴉刃は「苗木の結界も解けたようだ」と無機質に応じた。 「え……」 「もっとも、その女の言うことが真実なら、だが」 「そう……ですか」 絵奈は俯き、そのままサロメの傍らに、膝をついた。 絵奈としては、出来ることなら説得で解決を図りたかった。サロメは呼吸をするのも苦しそうだ。それが胸患いなのか傷が原因なのかも判然としないが、少なくとも、もう長くないように見える。 鴉刃はそれに構わず、尚も尋問した。 「苗木はどこにある」 「…………貴女なら、ば……………………い、ず……れ」 「? どういう意味だ?」 「もう…………――そろそろかしら……」 「……!?」 「!!」 鴉刃はもちろん、絵奈も感じた。 何も無かったはずの場所に、突如として気配が『発生』したのだ。 それも、大型の何か――熊のような。 「まさか、『実』が!」 「行くぞ」 鴉刃は、恐らくは苗木のある方へ踵を返す。 「でも……」 絵奈達が為すべきは苗木の消滅。それは理解している。だが、傷つき倒れる者を置いていくのは、やはり躊躇われた。 「無理強いはせぬ」 仲間の気性を知ってか知らずか。鴉刃はそれだけ言うと、林へと飛び込んだ。 「……お行き……なさい…………私は……平、気………………」 サロメが、玉のような汗を浮かべた顔で、弱々しく微笑みかける。 この人は本当に敵?――絵奈はそんなことを思いながら、しかし漸く思い切りがついた。 「――ここを動かないで。すぐ戻ります!」 足早に仲間の後を追う少女を見送りながら、サロメはほうっと息を吐いた。 「そう簡単に…………死ねたなら………………どれほど、楽……か」 (この辺りのはずだが) 鴉刃は今、森の上空に居る。 当初はこれまでと同じく木々をかい潜って進んでいたが、前方から例の大きな気配が近付いて来ていたこと、既に苗木の大まかな位置を掴んでいたことを鑑みて、空から行く方が手っ取り早いと判断した為だった。 「……!」 あの異様な気配が、また現れた。数は特定出来ぬが、どうやら複数生み落とされたらしく、それらの存在が一塊となって、苗木の所在を鴉刃に知らしめる。 (今となっては都合が好い!) 鴉刃はざわついているその場所を目指して、全速力で降下した。 「はっ!」 絵奈は魔力を帯びた短剣で一閃する。熊と呼ぶには最早醜悪とさえ言える面立ちの獣は、獲物からの思わぬ反撃に苦しげな声をあげた。苦し紛れに今しがた斬られた前足をじたばたと振り回すが、すかさず距離を空けた絵奈を引き裂くことは適わなかった。 (これが苗木から生まれたもの……) 原生の動物との違いは、比べて見なくとも明らかだった。ツキノワグマなど実際に目にすれば、むしろ愛嬌さえ感じられる。だが、これでは。 異様に大柄で毛先さえも鋭く、眼光は殺意に満ちている。涎を垂らし、鼻筋をしかめっぱなしの凶相は、まるで人間が熊に抱く恐怖そのものである。 絵奈とて訓練こそ積んではいるが、然程戦慣れしているわけではない。ましてや獣――否、化物相手となれば、果たしてどこまで戦えるか。 (でも、負けない!) 強い意志を宿した瞳で獣を見据え、構え直す。獣は低く唸りながらじりじりと距離を詰め――、 「!」 真っ直ぐ飛び掛ってきた。絵奈は咄嗟に特に茂った木々の後ろへ下がる。そこへ獣が形振り構わず飛び込み、頭突きだけで手前のブナがぼきりと折れた。絵奈は更に移動して距離を保つが、逃すまいと獣が振りかざす爪は、絵奈が避ける毎に一本、また一本と折れ、砕けていく。 「そこ!」 獣の予備動作に隙を見出した絵奈は、倒れていく木の影を利用して側面へ回り込み――太い胴へ、魔力の刃を一気に突き刺した。 獣の悲鳴と、がさがさと木々が倒れる音が重なり、辺りに居た野鳥達が巻き込まれまいと慌しく天へ逃れる。 一瞬動きを止めた化物は、しかし、倒れなかった。 「……そんな!」 それは激しく鳴きながら、憎き獲物へ重い一撃を放った。絵奈はそのまま跳ね飛ばされ、偶々背後にあった木に背を打ち付けて小さく悲鳴を上げた。 獣は尚も憎しみに満ちた表情で絵奈へ突撃して来る。 (駄目――!) このままでは――絵奈が戦慄したその時。 続け様に銃声が木霊した。音が鳴る度に獣は脇腹に見えない杭でも穿たれたように痙攣し、やがて頭部がぱぁんと弾けて卒倒する。 「絵奈さんっ!」 続いて聞き慣れた、妹のような年頃の声。 「生きてるか!?」 「間一髪ね」 そして、檸於が肩で息をしながら、絵奈を心配そうに見遣っていた。続いて雀も駆け寄り、来歌は硝煙に巻かれながらゆっくり歩いてくる。 「皆さん!」 「無事で良かったよ。……あれ? 飛天さんは?」 「居ないみたい。エアメールくれたのにね」 「エアメール?」 「知らなかったのか?」 ほっと息を吐いたのも束の間、絵奈は少し意外な話にきょとんとした。 檸於が語った内容を要約すると、鴉刃から届いたと言うメールには、苗木が生えている場所が判ったと言うことと、その大体の位置情報が記されていたと言う。 「で。言われた通りに進んで来たら、きみに鉢合わせたってわけ」 来歌が結び、すぐに「立てる?」と絵奈に手を差し伸べた。 「あ……ありがとうございます」 それを受けて立ち上がってから、絵奈は俯き加減に事のあらましを説明する。 「……鴉刃さん、ひとりで行ってしまったんです」 「そんな……」 「幾らなんでも危ないよ!」 そうだ。 こうしている間にも、事態は刻一刻と破滅へ向かっているに違いないのだから。 絵奈は顔を上げ、毅然とした顔で仲間達を見た。 「私達も急ぎましょう!」 結論から言えば、鴉刃は苗木を完全に特定するに至った。何故なら、地表付近に降りて真っ先に目に付いたのは、数珠でぐるぐる巻きにされた木の幹だったからだ。 しかし、苗木を囲むようにして生えた、枯れた――ブナと呼んで良いものか――四本の木が枝を触手のようにうねらせて、周囲のブナを断ち、あるいは打ち砕いている。下手に近寄って、ただ打たれるならまだ良いが、最悪絡め取られでもしたら厄介だ。 その上で、どうやら『実』として顕現したものが他にもあるらしかった。恐らくは野生動物達の再現であるそれらは、今のところこの一帯で無為に蠢いてはいるが、外敵に気付いた時点で襲い掛かってくるに違いない。 一方で、それらをかい潜ることさえ出来れば、鴉刃には奥の手がある。一撃で片が付くかは判らぬが、少なからず深刻な被害を与えることは出来るはずだ。 ――何れにせよ、今は手数が要る。 そう判断した鴉刃は、一先ず樹上に身を隠してから、ひたすら観察に徹した。 仲間達の到着までもう間もないことを、気配が教えてくれている。 「レオレーザーアアアアアアァァァァァァァァ!」 ――来たか! 眩い光線の直撃を受けた枯れ木が、やや作り物染みた爆発とともに撃砕された。間を置かず鳴り響く大口径の銃声が、取り巻く獣を三匹、四匹と屠っていく。 そして見出された活路に二人の少女が進み出て、ある者は迫り来る猿を両断し、またある者は突進して来た羚羊に札を放ち、雷を落として撃退した。 鴉刃は、背中合わせに身構える絵奈と雀の元へ降り立つと、その隙を埋めるように二者の中間で構えた。 「鴉刃さん!」 「あ! 居た!」 仲間の声に応える代わりに急降下してきた鷹を斬り捨てる。そして苗木の周りに視線を巡らせた。今しがた檸於が破壊した枯れ木の側は、いわば死角。 時間は無い。 ――よし。 「援護を頼む!」 「あっ」 「えっ?」 鴉刃はそれだけ叫び、遠巻きに苗木に沿うように飛んだ。 囮と真打の兼任である。 獲物を我先に討とうと群がる獣どもは、来歌と檸於の射撃に次々と斃れていく。 「つまりこういうことでしょ」 「任せろ!」 鴉刃に追い縋る触手のうち一本は、あと少しのところで絵奈によって断たれた。続いて絡めとろうとうねる二本目は雀によって黒焦げにされる。そして大きくしなる三本目を、鴉刃は垂直に避けて、苗木への距離を一気に縮めた。 鴉刃の目の前で、来歌の弾丸が穿たれ幹が爆ぜる。更にレーザーが撫でるように通り、樹皮が抉れて無防備となった。 ――そこだ! 抜き手を前方へ押し出す。その刹那。 鴉刃の頭上でぱちん、とゴム質の音がした。 「飛天さん!」 「上!」 そこでは人が三人は入りそうなほど巨大な球がばっくりと割れ、中から――、 「逃げて!」 先程絵奈を襲ったものと同じ、魔物が生まれようとしている。 ――構わぬ! 鴉刃は全てを承知で、己が一撃を剥き出しの幹に、 「破砕!」 穿つ。 咆哮と、重圧。 衝撃が、苗木を、枯れ木を、鳥獣を、森の異分子どもを、悉くを震わせる。 轟音と悲鳴。理の外にある全てが、次々と崩れては潰れ、ばらばらになって。 鴉刃に牙を剥こうと口を開いた、あの獣も、消えて、無くなった。 「居た?」 雀の問いにかぶりを振って、絵奈は人の形に潰れた野草を見下ろした。 「あの傷で動けるはず無いのに……」 絵奈と雀は、すっかり霧の晴れたブナ林の向こうを――その何方かへ居るかも知れない誰かの姿を求め、結果として手前の木々のみを、気遣うように見詰めた。 野鳥のさえずりが柔らかに響く他は、何の変哲も無い、けれど、美しい森。 「あたしね。壱番世界のことよくわかんないけど……。でも、こないだ旅行に来たとき、すっごく楽しかったの」 「雀さん……」 「この世界が壊れちゃうのヤだし、ほっとけないよ。この先も――」 かくして、白神山地は、本来の静けさを取り戻す。 幾許かの損壊も、時が経てば癒えるだろう。森の掟が、守られる限り。
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